風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

水底のオフィーリア!

2008-01-31 23:27:43 | イベント告知/予告/INFO
Ophelia_waterbottom_pic 28日のライブ(集会)でのガールズ・バンドの歌声は、こころなしかボクには現代の「オフェリアのうた」に聞こえて来たものだった。ロックやパンクのバンド活動をする若き世代のうたは、この日もそうだったが、そのリリック(詞)が、ほとんど聞こえてこないのだ。それはポエットであるボクには、とっても残念な事に思える。きっと、そのリリックの中にはたましいを打ち震わせるようなものもあるに違いないのに……。
 リリックつまり詞(ことば)が、届かないということはおそらくヴォィス(声)として、ヴォーカルは楽器と同じ位置付けなのかも知れない。
 伝わるのはナマな感情のようなものだ。うめき、もがいているような感情だけは伝わってくる。意味や物語が欲しいのではない。表現者として、まっすぐに伝えたい事を伝えたくないのだろうかと思ってしまうだけだ。
 逆に詞(リリック)が、聞こえ過ぎるのも考えものなのかも知れないが……。それが、あまりにも陳腐なリリックだったら噴飯ものだろうから。

 しかし、ボクには(いまボク自身が考え続けているテーマがそれだろうからだが)ガールズ・バンドに現代の「オフェリアのうた」を感じたのは、少なくとも収穫だった。

※オープンマイク・イベント『E.G.P.P.100』は明日開催されます!
●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step79
テーマ:「たまゆらの女/オフィーリア異聞」
2008年2月1日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、ココナツ、マツイサトコ(以上うた)、北村幸生(コメディ)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 当日エントリーも可能です!

(図版)現代のオフィーリアたちが語る原題『Ophelia Speaks』(邦題『あの日、私は17歳だった』)の表紙も飾ったポール・アルバート・スティックの「入水するオフィーリア」。ここでは、オフィーリアは水底へ沈んでいる。



1.28「月裏の集い」

2008-01-30 00:00:51 | アングラな場所/アングラなひと
Moon_back2_1 「月裏の集い」(1月28日高円寺Mission's)は、出演は3バンドだけだったにもかかわらず、どこか華やかだった。というのも、「ねたのよい」以外の2バンドはガールズ・バンドだったからである。いや、楽屋からしてムンムンと色香がただようかのようだった。

 なんか、この日のライブからは浮き上がった(笑)ボクのMCからライブははじまったのだが、ボクはブチ上げた「今宵はライブなんてもんじゃない。「族(トライブ)」の「集会」なんだ!」と。

 最初はハリーがドラムスで入ったバンド「The Darlins」からだ。彼女たちは全員ホットパンツでヘソ出しスタイルである。ピチピチで元気があるバンドである。面白い事に、この日のガールズ・バンドはみな3ピースだった(このあとのバンドにはひとりゲストがはいったが……)。音はギター(ロビンちゃん)がとんがったパンク風だった。

 次が、「ELEKIDS」で、これまたピンクに染めた髪の毛を振り乱しての3ピースバンドで、あとからひとりミニの子がゲストで登場。あまり吹かなかったが、ブルースハープを持っていた。演奏スタイルがサマになっていて、なかなかカッコウ良かった。

 「ねたのよい」は、ボーカル・リードギターのNODDYがひどい風邪ひき状態で、体調も思わしくなかったらしい。演奏には問題はないのだが、声が全然でていない。途中、「○△□」では会場から乱入してボクも歌った。

 なかなか、面白かった。圧倒的に女の子のパワーと色香にやられたが、こういうのも楽しい。
 「月裏の集い」次回は、2月11日(祝日・建国記念日)である。そう、言うまでもなく1年前、『ロック建国記念日』をやった日だ。この日はポエトリーで「月裏の集い/ロック建国記念日」に参入します。
 (何人かに、またサポートお願いすると思いますので、よろしく!)

(写真1)演奏が始まった。スリリングな出だしだ。「The Darlins」の三人組。



直前告知!1/28(月)高円寺MISSION'S

2008-01-27 23:31:44 | イベント告知/予告/INFO
Moonbackground_part2 直前、告知ですが、よろしく!
「ねたのよい」は、今宵は宇都宮で大暴れしていることでしょう!

netazoku Presents 「月裏の集い」Part2
(LIVE)ねたのよい/ELEKiDZ/The Darlins
(DJ)DJ hatanaka(GAS CHAMBER RECORDS)
(DJ)キヨビリー(ロイヤルシャムロック/ゴーゴーティディ)
(FOOD)カレー屋 サドゥーババ
(出店)緑の月 / 雷音堂
MC フーゲツのJUN
open19:00/start20:00
adv/door\1000(1D込)
東京都杉並区高円寺南4-52-1
Tel:03-5888-5605

 今回ボクはMCのみで、参加します。ま、興がのれば、即興でポエトリー?

高円寺MISSIONS
公式サイト→http://www.live-missions.com/
地図→http://www.live-missions.com/access/access.html


E.G.P.P.100/Step79/「たまゆらの女/オフィーリア異聞」

2008-01-25 01:11:02 | イベント告知/予告/INFO
Egpp_ophelia●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step79
テーマ:「たまゆらの女/オフィーリア異聞」
2008年2月1日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、ココナツ、マツイサトコ(以上うた)、北村幸生(コメディ)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 オフィーリアは、もともとシェイクスピアの名作『ハムレット』に登場する薄幸の少女。デンマークの王につかえる宰相の娘である。王子ハムレットの寵愛を受けながらも、亡き父王の仇を打つために気狂いのふりをするハムレットにこころ乱され水難事故で水死する。オフィーリアの死の場面はハムレットの母にしてハムレットの仇である現王の妃からオフィーリアの兄への報告の台詞として語られるだけである。

 「オフィーリアは(周りのきんぽうげ、いら草、ひな菊、シランなどを集めて)花環をつくり、その花の冠をしだれた枝にかけようとして、枝は運悪く折れ、花環もろとも流れの上に。すそが拡がり、まるで人魚のように川面の上をただよいながら、祈りの歌を口ずさんでいたという、死の迫るのも知らぬげに、水に生(お)い水になずんだ生物さながら。ああ、それもつかの間、ふくらんだすそはたちまち水を吸い、美しい歌声をもぎとるように、あの憐(あわ)れな牲(いけに)えを、川底の泥のなかにひきずりこんでしまって。それきり、あとは何も。」(福田恒存・訳)

 その死の場面を、流れに身を横たえ、長い裳裾は水を含んで膨れ上がり、長い髪は水面に拡がり、深い森の間を浮かび漂う眠ったようなオフィーリアの姿として一枚のロマンティックなタブローに仕上げたのが、ラファエル前派の画家のひとりであったミレーである。1851年に若干23歳のミレーはそのたぐいまれなる表現力でオフィーリアを物語(シェイクスピア劇)の世界から、神話のようにこの世界に降臨せしめた。いや、ミレーの絵画的表現はあらたな神話的テーマをつくったと言っていいだろう。

 「オフィーリア・コンプレックス」という神話を!

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs



オフィーリア異聞(4)/オフィーリアの系譜

2008-01-24 23:58:05 | アート・文化
Etude_ophelia ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」のモデルをつとめたのはエリザベス(愛称リジー)・シッデル(シダル)だった。のちに、やはりラファエル前派の代表的な画家となるロセッティの妻となる美女だ。この時、芳紀19歳のシッデルは(生年は若干あいまいで。これまでは15~6歳と思われてきた)40日の長きにわたって半身をバスタブに沈めたまま文句のひとことも発する事なくミレーのオフィーリアのモデルをつとめあげたと言う。この苦行のような仕事によってシッデルは、軽い肺炎にかかりミレーはすんでのところで、シッデルの父親に訴訟をおこされるところだった(治療費を負担して許してもらう)。
 ラファエル前派の画家と、その美しきモデルたちとの宿命的な相関図も、また興味深いのだが、ここのテーマではないので、深入りしない。しかし、病がちで、のちにロセッテ自身の裏切りにも似たジェイン・モリス(ウィリアム・モリスの妻)との交情に傷つき、自らがモデルとして演じたオフィーリアのように自殺に等しい死に方をした薄幸のリジー・シッデルは罪の念にかられたロセッチィによって「ベアタ・ベアトリクス」(1864年)という名画にとどめおかれる。

 実はミレーの「オフィーリア」は、思わぬ影響をこの国の文学に与えている。それも、明治時代からである。これも、ボク個人の考えだが、「オフィーリア」の図像は、江戸時代までの死の図像としての小野小町にとってかわられたようである。というより、オフィーリアは小野小町であろう。たとえば、三橋節子が描いた「花折峠」の少女は限りなくオフィーリア的でありながら、小町の伝説をも背負っているような気がする。

 六歌仙・三十六歌仙のひとりで、絶世の美女だったという小野小町は、百人一首にその名を残す歌人である。百歳まで生き、乞食に身をおとしてからもその死に際しての野ざらしを選び、その肉を飢えた野犬に与えよと詠んだ壮絶な伝説で広く知られている。安楽寺に伝わる絵巻「小野小町九相図」(九相死絵巻)は、絶世の美女とうたわれた小町の骨になって朽ち果ててゆくまでの姿が、リアルに死を真直ぐに凝視するかのような絵巻として伝わっている。

 ミレーに話を戻すなら、ミレーの「オフィーリア」をロンドン留学中の夏目漱石は、見ており『草枕』などに繰り返し言及がある。泉鏡花の幻想的なおんなの存在にも、オフィーリアは影をおとしていそうだし、「金色夜叉」の挿画を描いた鏑木清方の「お宮水死の図」に至っては本人の証言がある、などなど。
 我が国でも、オフィーリア的図像はポップス・シンガーのプロモーション映像や、アルバムのジャケット・デザインなどに繰り返し登場するし、演劇や少女マンガにまで敷衍するとかなりの数にのぼると思われる。
 最近では、昨年度のアカデミー賞3部門を受賞し、またボク自身も絶賛している映画『パンズ・ラビリンス』(2006年スペイン・メキシコ映画)の主人公の少女の名前がオフェリアだった。その死とともに森のファンタジーに還る少女オフェリアは、王女としてファンタジーと融合して死出の旅路へ旅たつのだった。

 最後に森鴎外が訳した「ハムレット」中の「オフェリアの歌」を紹介しておく。文語訳ながら、韻を踏む工夫のあとがみられさすがになかなかのものである。

  オフェリアの歌
 いずれを君が恋人と
 わきて知るべきすべやある
 貝の冠とつく杖と
 はける靴とぞしるしなる

 かれは死にけりわが姫よ
 渠(かれ)はよみじへ立ちにけり
 かしらのほうの苔を見よ
 あしのほうには石立てり

 柩をおほふきぬの色は
 高ねの雪と見まがいぬ
 涙やどせる花の環は
 ぬれたるままに葬りぬ
  (森 鴎外訳)

 と、いま一度、小野小町の歌と伝わるものに、オフィーリア的な一首があるのを発見したので書き添える。

 わびぬれば身をうき草の根をたえて さそふ水あらばいなむとぞ思ふ
 (古今集)

 小野小町は、この国の中世に生きたオフィーリアである。

 (おわり)

(図版4)ジョン・エヴァレット・ミレーによる「オフィーリア」の頭部デッサン。はかなげなリジー・シッデルの表情が素晴らしい。



オフィーリア異聞(3)/「おふえりや遺文」と小林秀雄

2008-01-23 23:55:56 | アート・文化
Waterhouse_ophelia 1931年『改造』11月号に小林秀雄は「おふえりや遺文」なる一文を発表した。これらは、小林の初期文集に分類されているが、どうやら当時は小説(すなわちフィクション)として受けとられ、読まれたのであるらしい。小林は当初小説家志望だったが、「Xへの手紙」同様、その文章には色濃く当時の(正確には直前までの)小林の私生活が反映している。江藤淳のことばを借りるなら、小林は「女(長谷川泰子)によって批評家になった」。

 この掌編は、発表当時はともかくとして翌年(1932年『中央公論』9月号)発表された「Xへの手紙」同様、現在の時点で読むと「X」が中原中也のことであるように、オフィーリアは、神経症にさいなまれて一時は、中也から略奪した花嫁であったはずの長谷川泰子と考えられる節が濃厚で(泰子は一時小林姓を名乗る)、事実、小林は極度の潔癖神経症であった泰子の言動に相当悩まされたらしい。

 妾は船縁から脛(あし)をぶらさげて、海の水の走るのを見ていました。妾は何処かに流されて行くに違いない。他に誰も乗っている人はいないのも解っていたし、この船は独りでにお魚を食べて動いている事も知っていたし、妾はもう諦めていた。……貝殻を重ねたような帆は、じっと静かに少しも動きません。船が何処かに流れつかないうちに、死んでしまうかもわからない、それは、どちらにしてもかまわないけれど、ふと見ると、帆柱のてっぺんから梯子を降りて来る人があります。よく見ると栗でした。毬(いが)のない、ただすべすべした茶色の栗が、ひょいひょいと梯子を降りて来ます。
          (小林秀雄「おふえりや遺文」)

 そして、オフィーリアはその茹でてある栗を食べてしまうという夢を子供の頃に見たと語るのだが、このようなシーンはオリジナル「ハムレット」には、見当たらない。
 小林の「おふえりや遺文」それ自身は、当然ながらシェイクスピアの「ハムレット」に添うている。だが、物語の枠を大幅にはみだしている箇所もいくつか見受けられる。オフィーリアがひとり語りで、小舟にのって流され云々という上記の引用箇所やホレイショーから亡き父王の亡霊の事を聞き出していたと語るところなどだ。これは、もちろん「ハムレット」の設定をかりたフィクションと考えれば、異をとなえる理由もないことだが、「オフィーリア・コンプレックス」と名付けたガストン・バシュラールの分析と命名を借りるならば、そこに元型(ユングのアニマ的なもの)として、おなじ類型といえるシャーロットや妖女オンディーヌなどのイメージも重ねられていると指摘できるであろう。

 もっと言えば、小林は「ハムレット」の登場人物オフィーリアを使って、その言わば「遺書」としてハムレットにあてた手紙と言う形式(それゆえ「遺文」)の中で、実は自らにとって「宿命のおんな(ファム・ファタール)」であったはずの長谷川泰子を厭い、無意識の内に抹殺(葬送)しようとしていたとも考えられないだろうか?

 と言うのも、「オフィーリア・コンプレックス」と命名された経過でバシュラールが書いているように(『水と夢』1969年国文社)、 オフィーリアはその水への親和性において「水葬」にふされた少女のイメージを持つからである。ラファエル前派の優れた画家だったジョン・エヴァレット・ミレーが、23歳で描いたその「オフィーリア」というタブロー作品で正しく見抜いたものとは、オフィーリアという少女がもつこのような集合的無意識的な「水」や「死」と親和する「元型」だったのだ。

(つづく)

(図版3)ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作『オフィーリア』1894年。油彩。水面に突き出した木の根近くで、野の花で自らの髪を飾り、恍惚とした表情を浮かべるオフィーリア。そのはかなげで、あやうい少女の姿形のオフィーリアを川面の蓮の葉が取り囲み、水中に誘い込むようだ。


オフィーリア異聞(2)/ランボー訳者としての中也

2008-01-22 23:45:42 | アート・文化
Delacroix_ophelie 富永太郎ついで小林秀雄によってフランス象徴主義の薫陶をうけた中原中也は、進学を断念してアテネ・フランセに通いはじめる。その死の直前には、太郎自身から遠ざけられ疎まれてしまう中也だったが、太郎そして小林秀雄に教示されたフランス象徴主義の詩人たちの存在とりわけランボーとの出会いは、一種の天啓だった。
 ほとんど自力でフランス語を学び、ひとに教えるまでになった中也は(吉田秀和も中也から習ったひとり。もっとも、そのフランス語は古い言い回しの多い言葉だったらしい)、朔太郎が言った「フランスへ行きたしと思へどもフランスはあまりに遠し……」の思いは誰よりも切実だっただろう。

 30年の短い生涯の中で、1冊の詩集『山羊の歌』(『在りし日の歌』は、死後出版)しか持たなかった中也はそれでも、『ランボー詩集』などの翻訳詩集を出版し、『ランボー全集』の翻訳家にノミネートされるなど、このことを指摘した中也論にはあまりお目にかかれないが生前、ランボーの翻訳家としての方がよく知られていた。
 『地獄の季節』などのランボーの散文詩を愛していたらしい小林秀雄を(そしてそれは日本語として訳されたランボー翻訳の頂点でもあったが)、たくみに避けるようにして中也は、ランボーの韻文詩を好んで訳している。それは、見事なくらいの分業である。詩神ミューズの気まぐれな賜物としてのポエジーを、散文詩でとらえるか、韻文詩としてとらえるか? 中也と小林の資質の違いを良く現わしているではないか!
 そして、言うまでもなく原語の音とリズムを忠実に再現できない韻文詩をいかに日本語に移すかに、こころ砕き、腐心し尽くしただろう中也の独特のリズムをボクは愛する(中也自身、その翻訳作業によって自らの詩作のことばを鍛えたとボクは思っている)。

   オフェリア
           ランボオ詩集/中原中也・訳

     1
 星眠る暗く静かな浪の上、
 蒼白のオフェリア漂ふ、大百合か、
 漂ふ、いともゆるやかに長き面帙(かつぎ)に横たはり。
 遐くの森では鳴つてます鹿逐詰めし合図の笛。

 以来千年以上です真白の真白の妖怪の
 哀しい哀しいオフェリアが、其処な流れを過ぎてから。
 以来千年以上ですその恋ゆゑの狂ひ女(め)が
 そのロマンスを夕風に、呟いてから。

 風は彼女の胸を撫で、水にしづかにゆらめける
 彼女の大きい面帙(かほぎぬ)を花冠(くわくわん)のやうにひろげます。
 柳は慄へてその肩に熱い涙を落とします。
 夢みる大きな額の上に蘆(あし)が傾きかかります。

 傷つけられた睡蓮たちは彼女を囲僥(とりま)き溜息します。
 彼女は時々覚まします、睡つてゐる榛(はんのき)の
 中の何かの塒(ねぐら)をば、すると小さな羽ばたきがそこから逃れてゆきます。
 不思議な一つの歌声が金の星から堕ちてきます。

 (2、3 略)

 「世界に詩人は三人しかをらぬ」とその日記に書き付け、ランボーを数え上げた中也は、またランボーを読むことは「聖い放縦といふものが可能である!」とも書いた。最高にあがめながらアンビヴァレントな好悪をあからさまにしたランボー(中也はランボオと記した)への思いは一生をつらぬいている。

※1のパートに2回登場する面帙(「かつぎ」次いで「かほぎぬ」と読ませている)の2字めは「巾」を遍とし、「白」を旁(つくり)とするものだが、文字があったとしても外字のようです。ここでは、便宜的に「面帙」を使いました。
(つづく)

(図版2)ウジェーヌ・ドラクロワ作『オフィーリアの死』1844年。油彩。「オフィーリア」というテーマを絵画に最初に見い出したのはドラクロワだった。しかし、そこではオフィーリアは死に必死にあがらう姿として描かれている。まさに、水面に落ちた瞬間である。



オフィーリア異聞/たまゆらのおんな(1)

2008-01-21 23:47:25 | アート・文化
Millais_ophelia オフィーリアは、もともとシェイクスピアの名作『ハムレット』に登場する薄幸の少女。デンマークの王につかえる宰相の娘である。王子ハムレットの寵愛を受けながらも、亡き父王の仇を打つために気狂いのふりをするハムレットにこころ乱され水難事故で水死する。オフィーリアの死の場面はハムレットの母にしてハムレットの仇である現王の妃からオフィーリアの兄への報告の台詞として語られるだけである。

 「オフィーリアは(周りのきんぽうげ、いら草、ひな菊、シランなどを集めて)花環をつくり、その花の冠をしだれた枝にかけようとして、枝は運悪く折れ、花環もろとも流れの上に。すそが拡がり、まるで人魚のように川面の上をただよいながら、祈りの歌を口ずさんでいた……」(福田恒存・訳)

 その死の場面を、流れに身を横たえ、長い裳裾は水を含んで膨れ上がり、長い髪は水面に拡がり、深い森の間を浮かび漂う眠ったようなオフィーリアの姿として一枚のロマンティックなタブローに仕上げたのが、ラファエル前派の画家のひとりであったミレーである。1851年に若干23歳のミレーはそのたぐいまれなる表現力でオフィーリアを物語(シェイクスピア劇)の世界から、神話のようにこの世界に降臨せしめた。いや、ミレーの絵画的表現はあらたな神話的テーマをつくったと言っていいだろう(図版1)。

 さて、こうしてオフィーリアはシェイクスピア劇の世界からあらたな旅立ちをする。いわば、水と親和する少女の神話性を獲得して、さまざまな文学作品はては絵画作品にまで描かれるテーマとなってゆくのだ(絵画のテーマとして一番早くとりあげたのは、ドラクロワである(1844年)。しかし、ドラクロワの描くオフィーリアは、木の小枝をつかみ、もう片手には花環を持ち、必至に死にあがらっている姿として描かれている)。
 ラファエル前派のウォーターハウスも、水辺の木に腰掛け髪に花飾りを付けるがごとく、髪くしけずる死の忍び入る寸前の若く美しいオフィーリアのタブローを描く(1894年)。

 オフィーリアはラファエル前派の画家たちの手によって、かれらが好んで描いた「宿命のおんな(ファム・ファタール)」のひとりとなったのだ。

 1870年5月、16歳のアルチュール・ランボーは修辞学の課題として高踏派的な詩作を試みる。その豊かなランボー的なイマジネーションはシェイクスピアの戯曲の枠を越え、あたかもミレーのタブローを眼前にして描いたかのような多くの類似点をもった絵画的な詩作品「オフィーリア」をものする。後年(1872~73年)ランボーは年上の愛人ヴェルレーヌとともにロンドンに逃避行を敢行するが、テイトギャラリーに所蔵されていたミレーの「オフィーリア」を見たかどうかは記録はない。もし見ていたとするならば自身の書いた詩作品とのイマジネーションの一致に狂喜したのではあるまいか?

 「こ、これはオレが16歳の時に詩作した『オフィーリア』そのものだ!」

 と。

(つづく)

(図版1)ジョン・エヴァレット・ミレー作『オフィーリア』1851~2年。油彩。