風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

7/6 E.G.P.P.100/Step72/テーマ:「ラ・ジョローナ/フリーダ・カーロ…痛ましきたましひ」

2007-06-29 23:52:01 | イベント告知/予告/INFO
Frida_kahlo_selfpainting_1●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step72

テーマ:「ラ・ジョローナ/フリーダ・カーロ…痛ましきたましひ」フリーダ・カーロ生誕100年/フリーダに捧げる
2007年7月6日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、マツイサトコ、ココナツ、かし(以上うた)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 この日は、あのメキシコが産んだ偉大なる女性画家フリーダ・カーロの生誕100年の記念すべき誕生日!
 国民的画家だったディエゴの3番目の妻であり、そしていまや世界においてディエゴよりも人気のある画家。ユダヤとインディオの血をわかち持つこのエキゾチックな魅力をたたえた画家は、その生涯を通じて痛ましきたましいを自らの手で癒さざるを得ませんでした。そのほとんどの作品のテーマが自画像。生涯においてベッドに縛り付けられた状態だったフリーダは自分を見つめる事で、世界の悲劇の根源に触れたのです。
 ブルトンが「爆弾に結んだリボン」と呼んだフリーダは、メキシコ・シュールレアリスムの旗手と目されましたが、その真価は死後30年経った1980年代にラテンアメリカに吹き荒れたポストコロニアルのクレオール性の見直し、もしくはアメリカン・ヒスパニックもしくはチカーノの台頭などによってラテンアメリカのアイディンティティが見直される作業によってフリーダがそのタブローに込めた痛切な思いが、理解され始めてきたのです。
 フリーダ・カーロの痛ましきたましいは植民地主義に痛めつけられたラテン・アメリカのたましいであると!

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定は関係ありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。おおよそ10名のエントリー枠があります。1組10分ほど。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

 E.G.P.P.100にも「100」というカウントがあるように(もしかしたら、100回めで終わりか?)しばらくテーマとして「100」にこだわります。これから、予想されるテーマは中原中也、レイチェル・カーソンなどです。意外なテーマもあるかもです? 乞う! 御期待!

E.G.P.P.100 MIXI内コミュアドレス→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706



隣の中也(12)/ダダの受容 その11「聖なる無頼/コートと帽子」

2007-06-28 03:13:59 | コラムなこむら返し
Tyuya_coat(承々々々前)
 京都時代、ダダイストを公言していた頃、中也は富永太郎と連れ立つてダンディなファッションで洛中を練り歩ひた。フランス製のパイプを銜(くわ)へ、お釜帽子をかぶり長いコートをひきずつて歩いていた中也は、まだフランス語を太郎のやうには学んでいなかつたが、おそらくその念頭にはランボーの詩句があつたに違いなゐ。たとへば、このやうな。

 私はゆかう、夏の青き宵は、
 麦穂臑(すね)刺す小径の上に、小草を踏みに、
 夢想家・私は私の足に、爽々(すがすが)しさのつたふを覚え、
 吹く風に思ふさま、私の頭をなぶらすだらう!

 私は語りも、考へもしまい、だが
 果てなき愛は心の裡に、浮びも来よう
 私は往かう、遠く遠くボヘミヤンのやう
 天地の間を、女と伴れだつやうに幸福に。
    (「感動」アルチュール・ランボー/中原中也・訳)

 フランス語を驚くべき早さでマスターして、ランボーの訳詩集も、のちに出版する中也は、この時、ボヘミアンもしくはバカボンド気取りで、ランボーとヴェルレーヌに自分たちを重ねて往来を闊歩していただらう。

 私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
 半外套は申し分なし。
 私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
 さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!
    (「わが放浪」アルチュール・ランボー/中原中也・訳)

 中也はランボーの散文詩をのぞゐて(といふより、ほとんど避けて)韻文詩を独特のリズミカルな中也節にのせて翻訳した。帽子とコート(あるゐはマント)は、歩行のための衣裳だ。それも、とびきり異相の衣裳がよい。これは韻を踏んでる訳ではない。街なかの路上で目立つほどのアルルカンとしてのお道化た異相の衣裳。そう、異形だ。反抗だ。戯れた反抗だ。

 中也が銀座の有賀写真館で撮つた有名なお釜帽子姿の肖像写真??あの帽子は「ボーラーハット」だと思ふが、もともと競馬場などの社交の場で、ブルジョア、貴族のセレブな紳士たちが愛用したフェルト帽を異形の衣裳として取り入れたものだろふ。
 もちろん、パリコミューンの騒擾たるパリの街からその彷徨を出立させたランボーのスタイルを意識したにせよ(ヴェルレーヌがスケッチしたランボーのスタイルだ)、のちにチャップリンによつてイメージとして典型化された「放浪者」(乞食紳士)スタイルといふこともあるだらう。

 生涯において「労働」といふものと無縁だつた高等遊民としての中也は(それゆえブルジョア階級)、その詩から全く時代背景が失われてゐるやうに、社会からも、政治情況からも遠くへだたつた疎外感を感じてゐたものと思はれる(中也の生きた時代は、関東大震災の混乱の後、2・26事件、廬溝橋事件など日本が軍事国家としてアジアへ覇権をのばしてゆく時代に相当する)。
 とはいえ、そのことを「負い目」とした訳ではなく、むしろ詩人としての「自恃」(「盲目の秋」など)とした。社会から疎外されているが、「見者」(ランボー)、「呪われた詩人」(ヴェルレーヌ)として甘んじてゐたと言へば良ひのか。
 ただ、自らの実存そのものは民衆的な生活とは隔たつたものと言ふ自覚は持つていたやうだ。索漠とした悔悟をかかへ、それに耐へ生きた。
 最晩年(1937年)、残された詩は中也自身がその詩人としての一生をどふ自覚してゐたのかを考えさせる詩である。

   夏

 僕は卓子(テーブル)の上に、
 ペンとインキと原稿紙のほかなんにも載せないで、
 毎日々々、いつまでもジッとしてゐた。

 いや、そのほかにマッチと煙草と、
 吸取紙くらゐは載つかつてゐた。
 いや、時とするとビールを持つて来て、
 飲んでゐることもあつた。

 戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた
 風は岩にあたつて、ひんやりしたのがよく吹込んだ。
 思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、

 とある朝、僕は死んでゐた。
 卓子(テーブル)に載つかつてゐたわづかの品は、
 やがて女中によつて瞬く間に片附けられた。
 ??さつぱりとした。さつぱりとした。

 帰郷を決意した中也が晩年を過ごし、そこで死んだ鎌倉の寿福寺(扇ケ谷181)境内の家は、実際真後ろの崖から冷たい風が吹き込む場所だつた。まるで、あの世から吹いてくる風のやうに……。
 中也は1937年(昭和12年)10月22日、併発した脳膜炎にて急死した。享年30歳。

 臨終に立ち会つた実弟の中原思郎はのちに書く。

 中原家から「聖なる無頼」が消えた感じであつた。
        (「兄中原中也と祖先たち」中原思郎)

 そう、中原中也とは「聖なる無頼」??実用には全く役立たなゐ無垢なる道化師(アルルカン/ピエロ)だつたのだ。

(了)

※20日間に渡る『隣の中也/ダダの受容』の格闘に、おつき合ひいただきましてありがとうございました。(禁無断転載)

(写真)中也が愛用したコートにボクの姿が写る(前面にガラスがある)。70年前に亡くなつた詩人と21世紀の無名詩人が重なつた瞬間。神奈川近代文学館にて。カメラ:フーゲツのJUN



隣の中也(11)/ダダの受容 その10「タバコとマントとアルルカン」

2007-06-27 02:49:47 | コラムなこむら返し
(承々々前)
 このアンビヴァレントな矛盾をそのまま投げ出して提示するお道化ぶりはだうだ。中也のダダイズムの詩はその初期から「戀」や、「おんな」と矛盾なく同居し、その抒情は薄められる事なく存在していた。
 だが、現存しない「ダダ手帖」にあつたといふこのダダ詩のトーンは晩年にまで継続したと思ふ。なぜ、現存しないのに詩が残つたかといへば、河上徹太郎がその著作(「中原中也の手紙」)に引用したためにかろうじて残つたのだ。初期中の初期のダダ詩。

 タバコとマントが戀をした
 その筈だ
 タバコとマントは同類で
 タバコが男でマントが女だ
 或時二人が身投心中したが
 マントは重いが風を含み
 タバコは細いが輕かつたので
 崖の上から海面に
 到着するまでの時間が同じだつた
 神様がそれをみて
 全く相對界のノーマル事件だといつて
 天國でビラマイタ
 二人がそれをみて
 お互の幸福であつたことを知つた時
 戀は永久に破れてしまつた。
       (「タバコとマントの戀」)

 タバコが中也で、マントが泰子かと考えさせてしまふ作品だが、それは相対界の平凡な事件だと客観視してお道化ているところが、中也らしいところかもしれなゐ。なにしろ神様がビラを天国で撒くのだ。フォークルの「帰ってきたヨッパライ」のコミック・ソングに通じるユーモアぶりではないだらうか。

 晩年の中也も意に反してダダ詩を書いている。「道化の臨終」といふ詩で、サブタイトルは「Etude Dadaistique」で「ダダ風の習作」といふ意味だらうか。
 この詩の丹下左膳も登場する奇妙な展開に、さらに輪をかけて

 シネマみたとてドッコイショのショ、
 ダンスしたとてドッコイショのショ。

と、囃されて辿り着くのはまたもや祈り、もしくは哀願。

 希(ねが)はくは お道化お道化て、
 ながらえし 小者にはあれ、
 冥福の 多かれかしと、
 神にはも 祈らせ給へ。

 中也は祈りはするが(そもそもカソリックの家庭で育つた)、成長しない。詩を祈りの方途としたり、悲歌を歌い上げはするが、そこから学ぶ事は一切なゐ。
 中也こそが「おほきな赤ちゃん」(年上の友人たちを揶揄して呼んだ中也のことば)だつた。中也は親掛かりだつた。その短い30年の生涯において翻訳、詩業の他は働いた事は一度もない。遠縁の孝子と結婚した後も、二人の子どもをもうけ、長男文也を病気で失つて後も母からの仕送りで生計を営んだ。一度だけ、日本放送協会つまりNHKに就職しようと考えた事があるらしいが(死の前年)、それとて採用にならなかつた(29歳無帽の応募写真が残つてゐる)。

(つづく)


隣の中也(10)/ダダの受容 その9「ノート1924/ダダさんと戀」

2007-06-26 00:43:44 | コラムなこむら返し
(承々前)
 中原中也の初期未刊行詩は一般にはもちろん、愛好者にもあまり知られてゐない。とりわけ、中也が「ダダさん」と呼ばれてゐた1923~24年頃の詩は、習作と見なされまた大半が戦災で失われたといふこともあつて、中也の未知の部分となつている。
 しかしながら中也が残した「ノート1924」と呼ばれるノートは、中也がダダイストを気取り、そして長谷川泰子との京都での暮らしの中で綴つたもので、興味がつきない。中也にとつてファムファタールたる年上のおんな泰子との、じつは生涯にわたつて懐かしみ、悔いに満ちてゐた日々なのであつた。

 天才が一度戀をすると
 思惟の對象がみんな戀人になります。
 御覧なさい
 天才は彼の自叙傅を急ぎさうなものに
 戀愛傅の方を先に書きました
       (「天才が一度戀をすると」)

 さらに

 汽車が聞える
 蓮華の上を渡つてだらうか

 内的な刺戟で筆を取るダダイストは
 勿論サンチマンタルですよ。
       (「汽車が聞える」)
 
 などに至つてはシュールで涅槃的なイメージさえ感じる。そして、中也の中では、ダダイズムと抒情が矛盾していなかつた事を窺わせる。一般には中也は、初期のダダを否定して抒情詩人になつたと解釈されているやうだ。
 「ノート1924」の中では、「古代土器の印象」「秋の愁嘆」が比較的有名だろうか。しかし、ボクは

 飴に皮がありますかい
 女よ
 ダダイストを愛せよ
       (「頁 頁 頁」)

や、

 女はダダイストを
 普通の形式で愛し得ません
 私は如何(どう)せ戀なんかの上では
 概念の愛で結構だと思つてゐますに
       (「ダダイストが大砲だのに」)

などの詩句が好きだ。

 名詞の扱ひに
 ロヂックを忘れた象徴さ
 俺の詩は

で始まる「名詞の扱ひに」には、中程に次のやうなフレーズがある。

 ダダ、つてんだよ
 木馬、つてんだ
 原始人のドモリ、でも好い
 歴史は材料にはなるさ
 だが問題にはならぬさ
 此のダダイストには

といふまるでキップの好い江戸弁ダダがあるし、それが原始人の口ごもりと展開するところに「聖なる野蛮人」さえ響いてくる。
 この詩はかくのごとく断言されて終はる。

 棺の形が如何に變らうと
 ダダイストが「棺」といへば
 何時の時代でも「棺」と通る所に
 ダダの永遠性がある
 だがダダイストは、永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ
       (「名詞の扱ひに」)

(さらにつづく)


隣の中也(9)/ダダの受容 その8「イノセントな道化師」

2007-06-25 18:54:33 | コラムなこむら返し
Tyuya_mask(承前)
 実際、中也がこのやうに詩を祈りとしたのであらふことは、この『山羊の歌』といふ唯一の生前出版の詩集の中で「時こそ今は……」の次におかれた詩句が「羊の歌 1 祈り」の詩であることからも推測できる。

 死の時は私が仰向かんことを!
 この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!

 このやうに死への誘惑と祈りからはじまる詩「羊のうた」は、転調しながらパート4まで続く。ただ全パートでタイトルが付されてゐるのは、この「1 祈り」だけである。
 そして、この詩はパート4で突然突き放されて終はる。

 これやこの、慣れしばかりに耐へもする
 さびしさこそはせつなけれ、みづからは
 それともしらず、ことやうに、たまさかに
 ながる涙は、人恋ふる涙のそれにもはやあらず……

 この終はりのパートは、その言葉遣ひからして短歌どころか「和歌」のおもむきさへある。
 そして、この詩集『山羊の歌』の掉尾を飾る「いのちの声」は、すこし寂しい倦怠の調子ではじまる。

 僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果(あきは)てた。
 あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
 僕は雨上がりの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
 僕に押寄せてゐるものは、何時(いつ)でもそれは寂寞だ。

 この詩句は小林秀雄に原稿の形で預けられ、死後出版された中也の第2詩集『在りし日の歌』所収の「お道化うた」の

 シュバちゃんかベトちゃんか、
 そんなこと、いざ知らね、
 今宵星降る東京の夜、
 ビールのコップを傾けて、
 月の光を見てあれば、
 ベトちゃんもシュバちゃんも、はやとほに死に、
 はやとほに死んだことさへ、
 誰知らうことわりもない……

を、連想させないだろふか?
 ベトちゃんとは、ベートベンで、シュバちゃんとはシューベルトのことである。
 中也の詩には破格話法とともに、索漠としたみずからの思ひを恥じるかのような道化ぶりがあるやうな気がする。いままさに歌い込んだその内容を突き放すかのやうにお道化けてみせるのだ。
 そして、それこそが中原中也が10代の頃に、高橋新吉を通じてダダイズムと出会い、自家薬籠(じかやくろう)のものとしたダダだつたのだ。
 中也にとつてダダとは、「破壊」や「否定」といふより「道化」だつたのではなゐか?
 これまた、誰も言ってゐない視点だと思ふが、中原中也とはひとりのトリッキーなトリックスターでもあつた。それも、飛び切り傷つき易いイノセント(無垢)なたましひを持つたトリックスターそしてアルルカン(道化師)だつたのだ。

(写真)彫刻家高田博厚氏制作による中也のトルソー(1930年)。中也23歳の首である。当時西荻窪に住んだ中也は近所の高田のアトリエによく行っていた。また、泰子もよく顔を出していた……。(撮影は、ボク自身。禁無断転載)



隣の中也(8)/ダダの受容 その7「いかに泰子、いまこそは」

2007-06-24 01:48:52 | コラムなこむら返し
 では、われらが「ダダさん」中也においては、ダダはどのやうに受容されたのか?

 中也のダダ詩は、長谷川泰子といふ女優の卵を獲得した。その女優の卵はのちに「グレタガルボに似た女」となる。『時事新報』主催で映画主演の商品付きのコンクールだつた。泰子は一等になるのだ。しかし、時代の不運もあつて女優としては大成できなかつた(大部屋の女優として端役では何本か、出演したようだ。晩年にも岩佐寿弥監督による『眠れ蜜』といふ作品がある)。
 中也と泰子の恋の展開も不幸といへば不幸だつた。それは、はじめから身の丈に合つたものではなかつた。
 泰子は中也の3歳年上だつたし、さらに当時としては長身で身長162センチあつたが、中原中也は150センチあらふかといふ小兵だつた。身の丈に合わないのもいたしかたなかつたらふ。

 中也は、泰子を小林秀雄に略奪されてのちも、泰子への思慕を深め「口惜しきひと」になるのと異なり、当の泰子は小林には強く惹かれたが、中也のことはなんとも思つていなかつたやうだ。
 だとしても、泰子は中也のダダ詩を褒めた最初の読者であり、批評家だつた。それに、富永太郎などは終生「ダダイスト」、「ダダさん」と年下の中也のことを呼び、愛憎なかばした友情だつた。おそらく、他者に気を使ふ太郎と違ひ、中也はその傍若無人なつつかかるような態度で最後には友人にも疎んじられた。きつと中也とつきあふには体力も必要だつたのだろうふ。上海での貧乏旅行で罹患した結核と戦つていた太郎は、次第に中也を避けるやうになるのだ。

 ダダさんは、孤独なたましひをかかえてひとりすすり泣かなければならなかつた。泰子を思い、小林と泰子が別れたという話を聞き付けると狂喜して、友人間を走り回る。だが、泰子は中也の元へは戻らなかつた。それでも、中也は他の男との間に泰子がもうけた子の名付け親になり、あれこれと泰子の事を思いやり、親身に支援するのだつた。

 時こそ今は花は香炉に打薫じ、
 そこはかとないけはいです。
 しほだる花や水の音や、
 家路をいそぐ人々や。

 いかに泰子、いまこそは
 しづかに一緒に、をりませう。
 遠くの空を、飛ぶ鳥も
 いたいけな情け、みちてます。

 いかに泰子、いまこそは
 暮るる籬(まがき)や群青の
 空もしづかに流るころ。

 いかに泰子、いまこそは
 おまへの髪毛(かみげ)なよぶころ
 花は香炉に打薫じ、

  (「時こそ今は……」)

 この詩に漂やうのは、甘い抒情だろふか? ボクには、突き抜けたやうな中也の「祈り」に思へるのだが……。
 この詩にはボードレールの以下のエピグラフが、巻頭につく。

 時こそ今は花は香炉に打薫じ
           ボードレール

 中也はボードレールの詩句の1行にインスパイアされてこの詩を書ゐた。臆面もなく泰子の名前を詠み込むことによつて、相聞歌が名を呼ばふことによつて戀しひひとを引き寄せるやうに、香炉にくべる香り高いインセンス(香)のやうに戀しひ女の名を詩句の中に編み込んだ。いやことばの中にくべた。
 匂ひ立つのは、泰子のたおやかな肉体。あの京都で過ごした夢のやうな一年間(1924年)だ。その時間を、叶ふものなら甦へらせたい。
 幼児のやうな無垢なる夕べの気配がただやう、しおれる花や飛ぶ鳥も万象が家路をいそぐ夕刻、あなたとの間をへだてていた垣根も夕闇に溶け入り、群青色に暮れる空も静かさに満ちあなたの黒髪がなびひてゐます。どうする? 泰子、花のエキスたる香を香炉にくべるやうに、この一瞬を人生が黄昏れるその時まで共にしませんか?

 こんな風に勝手に読み解ひていつたら、この世界はまるで中也の万葉和歌のやうな世界ではないかといふ気がしてきた。「悪の華」「人工天国」のジャンキー詩人ボードレールと結合した万葉和歌に思へて来た。
 「そこはかとない」「しほだる」「いたいけな」「暮るる」「なよぶ」といふ古語のやうな文語表現が、じつに映像的に効果的に使われている(「なよぶ」は古語だが、「しほだる」は山口県の方言かも知れない)。
 中也はその詩的生活の出発を短歌から始めており、そのことに自覚的だつた。実際、みずから書いた「詩的履歴書」によれば、中也は小学生の頃から短歌を書いており、新聞に投稿していた。



豪快に夏至!キャンドルで過ごす

2007-06-23 00:06:22 | コラムなこむら返し
 夏至の昨夜??さきほどまで、暗やみの中でキャンドルを点し暗やみカフェをやっていた。そう、22日は年2回の「100万人のキャンドルナイト」の日だった。午後の8時から10時までの2時間を、電気を消して地球環境のことや、温暖化の事や、エネルギーの将来のことを考え話し合いスローな夏至(そして冬至)を過ごしましょうと、3年前から始まったエコロジカルな意識変革のムーブメントだ。

 東京タワーのライトアップも一時的に消され、トレンディ・ドラマの影響もあって、ラブ・ロマンスの新たな名所として再度点灯されるまで恋人たちが押し寄せているらしい。ま、これは大いに意味が点灯ならぬ転倒されているのだが、ロマンチックな夢が失われた現在、このような「都市伝説」もあってもいいだろう。東京タワーが再点灯される瞬間をふたりでみると幸せになれるのかどうかは、誰も保証する訳じゃないだろうから……。

 それに、昨日はWPPDの初日でもあった。世界平和祈願の日と言うのだろうが、「世界平和と祈りの日」と呼んでいるものだ。日本では富士山およびその周辺で開催されており、あたらしい冨士講かもしれない。

 昨日の朝、受け取ったひとも多いだろうが、「豪快な号外」というフリーペーパーが配付された。「号外!号外!」と若者が叫んでいたから思わず受け取ったが、それは「30秒で世界を変えちゃう新聞」というものらしくなんと昨日一日で3,000万部発行するというエコロジー啓発フリーペーパーであるようだ。
 呼び掛け人は元吉本興行のお笑い芸人だったというてんつくマンと、これはまた久しぶりに名前を見た小豆島の生協組合(いまは株式会社らしい)で「ウィンドファーム」という名前になっていた。
 この配布ボランティア募集のチラシはボクも見た。新聞にも紹介記事があったような気もする。しかし、地道なコツコツとした運動から始めるのではなく、一発勝負の、ある意味マスコミ手法のような展開(フリーペーパー)で花火をあげるという方法論が、どうなのかは今後を見守りたい。

 それにしても、8ページだてのタブロイド版の4ページがマンガ。残りの記事(30秒で世界を変える30の方法)は、割り付けからして雑誌のコラム記事風。協力者の名前が小さく入った最後のページに割り付けられた言葉は、どこかで読んだようなコピー文。とりわけ、この三つにはマイッテしまった。引用出典を銘記すべきではと思わず思ってしまったのでした。

 「わたしたちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。でもその一滴の水があつまって大海となるのです。」
 「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる。」
 「明日とは、明るい日と書きます。」

 ま、御判断は自分自身でどうぞ。サイトはこちらです。→http://www.teamgogo.net/


隣の中也(7)/ダダの受容 その6「邪悪なる批評家/小林秀雄」

2007-06-20 02:13:18 | コラムなこむら返し
Hideo_k_1 現在、文芸批評といふジャンルがどの程度すすみ、社会的にも認知されているのか知らない。幾人かの文芸評論家の名前は心得ているが、その作品を読んだのはわずかである。
 もしかしたら、1999年7月江藤淳が手首を切つて自殺してから気骨ある文学の王道としての批評といつた矜持を持つやうな文芸批評は消滅したのかも知れない。21世紀を目前にして江藤淳がリストカッターとして、その生涯を自ら精算するなんて事は誰も予想もしていなかつただろふ。リストカッターはもつと江藤淳を神格化して、その作品を読むやうにした方がよいのではないかとボクは思ふ。

 少なくとも、そのやうな文学活動の王道としての批評といふ矜持は、生涯に渡るライフワークのやうに夏目漱石と格闘した江藤淳にはあつた(『漱石とその時代』など)。その江藤淳に『小林秀雄』といふ評伝がある。江藤淳にとつて小林秀雄と格闘することは、自分がなぜ文芸批評をしているのか、文芸批評とは何かといふことを問ふことでもあつた。そして言ふまでもなく1960~61年、28~29歳の江藤淳によつて書かれたこの評伝『小林秀雄』の中に中也、泰子への言及はたくさんある。

 江藤淳によれば、小林秀雄をして文芸批評に自立させえた存在こそが長谷川泰子といふことになる。中也はむしろ泰子への恋慕という思ひを隠すどころか詩の形でも残しているが、小林秀雄には一見、長谷川泰子の影は差していないやうに見へる。だが、小林の決意のやうな、宣言のやうな否定的措定(反措定)には、泰子との生活、そして中也を含んだ「奇怪な三角関係」の影がきざしていると江藤淳は言ふ。

 「女は俺の成熟する唯一の場所だつた。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つてくれた。」(小林秀雄『Xへの手紙』)

 この評伝の中で、ボクにとても美しい箇所と思へたのは、中也、泰子、小林秀雄を小林の「『白痴』について」に読み取つたところである。言ふまでもなくそれは小林によるドストエフスキイの『白痴』論であり、ムイシュキン、ナスタアシア、ラゴオジンの登場人物の錯綜した関係に小林の体験が重ねられていると書く。

 「ここに小林が<滅んで行く>三つの生命に、自分と中原中也と長谷川泰子との、<憎み合ふ事によつても協力する>あの<奇怪な三角関係>を投じて見ていることは疑いをいれない。」(江藤淳『小林秀雄』)

 それにしても、次の言葉は『白痴』を語つて、なんて素晴らしい表現なのだろふ!
 真実の認識を獲得するためには、悪魔にたましひを売つても恥じないだろふと、思つていた小林の冷徹で、ニヒルな言辞にこんなにも優しいたましひが眠つていたのかと感じさせる一文。

 「……ムイシュキンがラゴオジンの頬を撫でた様に、作者は主人公の頬を撫でた。……泣いているのは作者だ、ただ彼はいやでも自分の涙も自分の偽る事も知つていなければならなかつた」(小林秀雄「『白痴』について」)

 人間精神の中にも「邪悪なるもの」がひそんでいる事さえも、喝破してしまふ批評家小林秀雄の洞察力はこうして、批評の地平を切り開いてゆく。だが、「地獄の季節」をあたかも共犯者のやうに生き抜いた中で、イノセント(無垢)な道化ともいふべき中原中也と、長谷川泰子を仲介した葛藤は、小林にとつても、中也にとつても長く尾を引き、茫洋たるヴィジョンしか見出せなかつたのであつた。

 こうして、小林を<父>、中原中也を<子>として仮定する中から、論旨を進めて来た江藤淳の『小林秀雄』は、中也の「死児」のイメージあたりから屈折していく。小林の「菊池寛」への執拗な関心から、江藤はこのやうな認識に達するのだ。

「ここに私はむしろ小林秀雄自身の「秘密」を見ずにはいない。彼が、長谷川泰子、中原中也との間につくりあげた重苦しい個人的な時間に「堪へ」つつ、「民衆」が現に生活している実際社会に進み入ろうとする決意が、ひそかに語られているものと考えられるからである。」(江藤淳『小林秀雄』)

※参考文献:「小林秀雄」江藤淳/講談社文芸文庫
      「Xへの手紙」、「『白痴』について」小林秀雄/全作品・新潮社




隣の中也(6)/ダダの受容 その5「口惜しきひと/中原中也」

2007-06-17 00:47:47 | コラムなこむら返し
 上京した中也と泰子は、当初高田馬場(豊多摩郡戸塚町源兵衛195林方)に住んだ。これは中也自身が、早稲田受験を考えての選択だつたのだろふ。
 ついで、中野のつるべ井戸のある家へ転居する(同年4月)。東京では中也は、受験勉強はそつちのけで相変わらず文学の話のできる友を、仲間をもとめて彷徨ひ歩いていたらしい。そんな中で、小林秀雄といふ新しい友ができる。小林は富永太郎の友人だつた。上京して間もなく1925年(大正14年)4月頃に知りあつたと思われる。
 そして雨の降る夕刻、引つ越したばかりの中野の借家に最初の客が現れる。そして、それは鮮烈な「奇怪な三角関係」の始まりをも告げる予兆だつた。

 その人は傘を持たず、濡れながら軒下に駆け込んで来て、私を見るなり、
「奥さん、雑巾を貸してください」といいました。
 私はハッとして、その人を見ました……その人は雨のなかから現れ出たような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。
(前掲「ゆきてかへらぬ」)

 1970年代の半ば頃、突然中原中也を捨て、小林秀雄のもとへ走つた女性の話題が女性誌や、週刊誌をにぎわしたことがあつた。中也の死後35年あまりを経て、小林秀雄がその「中原中也の思ひ出」などに書いた悔恨に満ちた謎のことばの内実が天下のもとに明らかになつたのである。これは、文学史上でも重要な出来事だつたとボクは思ふ。
 この1974年に村上護編で出版された『ゆきてかへらぬ』は、スキャンダルジャーナリズムの耳目も集めたが(最近も『新潮45』6月号がこのやうなスキャンダラスな文壇事件史の特集をしていて中也と泰子と小林の三角関係が取り上げられている)、おかげで小林秀雄の謎のような独白も、また中也自身の詩の背景がみちがへるほど理解し易く展開したからだ。中原中也研究はこの長谷川泰子へのインタビューで構成された書物で、格段と進歩した。
 たとへばそれは、たとへ否定的言辞に見へようとも小林が、「彼は詩人といふより寧ろ告白者だ」(「中原中也の思ひ出」)と述べたことが、なにを現わしていたのかと言ふことや、知り合つて半年余りの同年の10月になぜ、突然のやうに小林が中也に「絶交宣言」を申し渡すのかと言つたことの背景が見えてくるからだ。
 この頃、中也18歳、長谷川泰子21歳そして東大仏文に入つたばかりの眉目秀麗な秀才小林秀雄は23歳になつていた。
 さて、この「奇怪な三角関係」(小林秀雄)については、ここではこれ以上立ち入るのはやめておこう。ただこれだけは、年譜的事実としてふれておかねばならない。
 この年(1925年)11月12日富永太郎結核で死去。享年24歳だつた。同月下旬長谷川泰子、小林秀雄のもとへ去る。
 そして、この事は中也の生涯においての喪失体験の始まりとなり、ダダッ子中也を成長させた。そのことだけは、言明できるだろう。

 1925年(大正14年)、中原中也は傾倒する富永太郎を病で亡くし、宿命のおんな長谷川泰子を小林秀雄に奪われ「口惜しきひと」になる、そしてその当の生涯の友人小林秀雄も喪失するのだ(とはいえ、その友情はのちに回復する。中也の『在りし日の歌』は小林秀雄に託され、その死後出版された。また小林の『Xへの手紙』の「X」は中原中也では?という読みも可能であることを指摘しておく)。

 …… …… …… …… …… …… …… …… ……
※参考文献:「中原中也との愛/ゆきてかえらぬ」(村上護・編1974年講談社/角川文庫2006年3月)
      「中原中也との愛の宿命」(長谷川泰子手記:「婦人公論」1974年3月/『群像日本の作家15中原中也』小学館1991年6月)
      「中也・在りし日の夢」(長谷川泰子/秋山駿対談:「国文学」1977年10月号/『新文芸読本/中原中也』河出書房新社1991年2月)


隣の中也(5)/ダダの受容 その4「富永太郎と中原中也」

2007-06-15 00:10:14 | コラムなこむら返し
 もつとも、泰子と中也は同棲をはじめてちょうど1年めの1925年(大正14年)3月に、ともに連れ立つて上京する。それは、京都時代に立命館中学の教師をしていた冨倉徳次郎の友人であつた正岡忠三郎を介して知りあつた富永太郎が、東京へ転居してしまつたことに由来する(正岡忠三郎は、父親が正岡子規の門弟でその縁から正岡子規の死後、正岡家を相続した(養子縁組みのような形で)人物で、仙台で富永太郎と同級だつた。中也の早稲田大受験の「替え玉」を引き受けていたが、書類不備で早大受験はならなかった)。

 中也は6歳年上の富永太郎に傾倒した。一時期の中也は太郎のエピゴーネンであった。ファッションから詩まで、太郎の模倣をした。中也のお釜帽子スタイルで有名な写真の帽子ももともとは富永太郎のスタイルだつたようだ。それに太郎の真似をして長髪にし、長いフランス製の陶器のパイプをくわへた。二人のダンディぶりは際立って、京都の往来をあるく時、「ヴェルレーヌとランボーのようだと思ったものです」(長谷川泰子「ゆきてかへらぬ」)。
 中也は足しげく富永太郎の下宿に通い、つひにはその近くに引つ越していく。これは中也の習性だつた。気に入り、文学論を戦わせる相手であれば、その近所に引つ越していつた。中也は引つ越し魔でもあつたのだ。そして、中也は富永太郎にランボーをはじめとするフランス象徴派と呼ばれる詩人たちの存在を教えられる。中也のフランス語熱が燃え上がるのは、富永太郎との出会い以降であつた。

 ここで、ボク自身の思ひ出話をしていいだろふか。
 実は、最初、ボクは富永太郎にぞつこんだった。中原中也は、御多分にもれず国語の教科書で知つたボクだが(「サーカス」「汚れちまった悲しみに」「正午」が載っていた)、富永太郎は自分自身で見い出した詩人だつたのだ。
 ボク自身、実は詩に目覚めたのは遅かつた。そこのところは中也と多少似るが、ボクは中学時代の担任教師の手引きで短歌を書き出した。まだ歌うという感覚には遠かつたが、ともかくその作品は学級の上位になり、学年でも上位になつた。
 そんなボクが、詩に最初の衝撃を受けたのは、小林秀雄訳のランボーの『地獄の季節』であり、新宿の巷で知ったギンズバーグの『吠える』だつた。
 そして、もう20歳になつていたが、60年代の終わりに刊行されていた学藝書林の『言語空間の冒険』で、富永太郎を発見したのであつた。この詩人・歌人に1巻をさいたシリーズは『全集・現代文学の発見』といい、このシリーズで、ボクは埴谷雄高『死霊』、稲垣足穂『彌勒』、尾崎翠の『第七官界彷徨』も読んだ。フランス折りという見返しのついたオシャレな造本だつた。
 この巻に富永太郎の「秋の悲嘆」「鳥獣剥製所」「恥の歌」などが掲載されていたのだ。夭折したとは言え、なぜこのような天才的な詩人の詩が現在ほとんど読まれていないのか不思議に思ふ。詩を書いている自称詩人たちの中にも、富永太郎の存在を知つているものは少ない。


隣の中也(4)/ダダの受容 その3「宿命の女・長谷川泰子」

2007-06-12 02:27:56 | コラムなこむら返し
 1904年広島に生を受けた女優志願の長谷川泰子は、地方都市にあつてウツウツとしていた。そんな中、通つていた教会の日曜礼拝にて永井叔と知り合ふ。永井が上京するといふので、1923年(大正12年)8月永井とともに上京。新宿角筈にて下宿し、そこで関東大震災に遭遇する。

 この年の9月1日、大地震が東京を中心とした関東地方を襲ふ。大地震の流言飛語のドサクサに甘糟大尉ひきいる憲兵隊による大杉栄、伊藤野枝、橘宗一少年への虐殺が行われる。伊藤野枝はわが国最初のダダイスト辻潤の最初の妻だつたが、大杉との愛に走つた「新しき女」だつた。一時は、大杉と辻は、野枝をさしはさんでの「三角関係」にあつたが、この「三角関係」は奇妙にも長谷川泰子をはさんで、中原中也と小林秀雄とのあいだに派生した「奇怪な三角関係」(小林秀雄)にも酷似している。

 被災した泰子はふたたび永井叔と京都へのがれ、そこで小さな新劇劇団「表現座」に永井の口ききで所属する。

 この同じ年の3月、郷里山口の中学を落第していた中也は、中原医院の入り婿のような形で母フクの家業を引き継いだ父のさしがねで、京都の立命館中学に転校して来ていた。
 そして、同じ1923年に中也は『ダダイスト新吉の詩』に出会い、町中の出会い頭に永井叔と知り合い、そして、永井が連れて来た「表現座」で、かけ出しの新劇女優長谷川泰子と知り合ふのである。
 中也は足しげく「表現座」の稽古場に通い、ノートに書きためたダダ詩を泰子にみせ、面白いわねと泰子に言われて喜んだ。
 「表現座」の第1回公演ののち「表現座」は解散してしまふ。稽古場に寄宿していた泰子は行き場を失ひ、困窮した。そんな、泰子に親切に声をかけたのが、中也だつた。

「ぼくの部屋に来てみてもいいよ」

 1924年(大正13年)4月、市内北区大将軍西町椿寺南裏高田大道方にて同棲生活始まる。この時、中原中也17歳、長谷川泰子20歳の古都京都での1年7ケ月余りの短い愛の日々。



隣の中也(3)/ダダの受容 その2「ぼくはなかはらちゅうや」

2007-06-10 04:33:08 | コラムなこむら返し
Tyuya_phot (中原中也研究その3)
 1923年(大正12年)12月、中也は洛中の路上で永井叔といふ放浪詩人をみとがめ声をかける。16歳の中也は、当時30歳近い永井にぶつかり様にかう言つて声をかけたといふ(この時、永井の年齢は正確には27歳)。

 「ぼくは、なかはらちゅうやっていうんだ。おじさん、君の名は?」(不健康そうなインウツな声だ。)
 それから
 「すぐ近所だから寄っていかないか。お互いの人生観を語りあおうじゃないか。」
 (永井叔『大空詩人』)

 まつたく鼻持ちならないほど、生意気なガキである。
 1896年生れの永井叔はエスペランシストで、「大空詩人」と称してマンドリンを片手に全国を遊行していた(ハンセン病の療養所および福祉施設の慰安訪問を、いまでいふボランティア活動としておこなつていた)まさしく先駆的な放浪詩人である。大正と言ふ時代から、ヒッピーをしていた元祖的なひとである。

 ボクは永井叔の風貌があまりにもナナオ(榊 七生)に似ていたので、ある日古書市で永井叔の自伝『大空詩人』を手に入れたら、中原中也との出会いがその自伝の中に書かれてあつてビックリしてしまつた。永井叔こそは、中也と中也のファムファタール(宿命の女)たる長谷川泰子を中也に引き合わせた人物なのだ。

 これは、余談だがナナオはこの永井叔を知つていたのではないかと思はれる。といふのも永井叔が「改造社」に関わりがあつたらしいことから推測するものだ(永井は野尻抱影とも懇意だつた)。ナナオは戦後の一時期「改造社」の書生のやうなことをしていたと、本人から聞いたことがあるからだ。ナナオがその従軍体験(ナナオは知覧の特攻隊基地で通信兵をしていた)以外に、労働体験があるといふことを知つてボクはその時ひどく驚いたことを覚えている。
 いろいろな側面で、永井叔はナナオや、「部族」やヒッピーの先駆的生き方をしたひとである。




隣の中也(2)/ダダの受容 その1「辻潤と高橋新吉」

2007-06-09 00:52:37 | コラムなこむら返し
 (中原中也研究その2)
 ダダイズムを此の国で、もつとも早く受容したのは辻潤(1884~1944年)であり、ついで高橋新吉(1901~1987年)である。そしてその新吉に一瞬にして感化された10代の中原中也(1923年10月16歳/1907~1937年)だろふか。
 ところで、此の国でのダダイズムは当初から大ひなる誤解の下に受容されて来たといふ事情がある。いわば、一過性の興奮と直観で受け取られ、そしてそれぞれの中で成熟したものがダダになつてしまつたため、辻潤が虚無僧姿になつたがごとく、高橋新吉は禅坊主スタイルになつた。
 高橋新吉がダダイストになつた経過は、ほとんどひとが天啓と呼ぶものに近いが、さて、新吉に天啓を与へたものはなんと1片の新聞記事だつた。

 1920年8月15日付け「万朝報」に掲載された「享楽主義の最新芸術??戦後に歓迎されつつあるダダイズム??」という、ダダに否定的な紹介記事であつたといふことは今日では知られてゐる。新吉はこの記事の中に断片的に引用されたトリスタン・ツァラの宣言に打ちのめされたのであるらしい。今日であれば、なんとたわいもなくミーハーなと一蹴されてしまひそうなエピソードである。この記事は若月紫蘭によつて書かれたものだつた。

 それも、新吉はダダ詩がタイポグラフィのやうにポイントや視覚的な自由な文字組をすることにどちらかといふとショックを受けたのであるらしい。
 そして、これは日本の文学史上の事実として付け加えておきたいが、此の国では、ダダの紹介の後に「未来派」が来るのだ(チューリッヒダダはイタリアを中心とした「未来派」の後に登場し、その能天気な楽天主義にも否定を貫いた)。
 ボクはその実物を世田谷文学館といふところで見たことがあるが、この「万朝報」の記事の翌年1921年12月に平戸廉吉が「日本未来派宣言運動」のビラを路上で撒ひた。

 『ダダイスト新吉の詩』は1923年(大正12年)2月、辻潤を編者として中央美術社から上梓された。そして、その詩集に16歳の中也が丸太町橋際の古書店で出会ふのが、1923年10月だつた。



隣の中也(1)/友としてはコマッタちゃん

2007-06-07 23:59:54 | コラムなこむら返し
 ボクはボク自身を鼓舞せねばならない。ボクは立ち上がらなければならない。自らの足で、自らがよつて立つ場所に。
 どうにも書くことに気分がのらなくなつてしまひ、自分で自分の気分がコントロールできないのだ。で、そう、それこそ気分を変へるためにこのやうな書き方を試みることを許してもらひたい。

 このやうな形は断続的に続くでせう。それから、最初に断つておきますが、これは自分のための「研究ノート」であるわけですが、一般的にも知られていないことなのでこのブログの読者の知識に供してもいいのではないかと思ひました。読書ノート(感想文)が、あるのならこのやうな形も許されるかも知れぬと考へました。テーマはまず、中原中也です。そして、中也は死後70年(そして今年は生誕100年)を経過し、現在の著作権法では、そのすべてのテキストの使用は万人に解放された詩人です。

 (中原中也研究その1)
 証言/大岡昇平
 「河上徹太郎は全集だけを読んで、好きなだけ中原を愛せる人は羨ましいといった。ここにその見本があるわけだ。読者はここに書いてあるようなことを、面と向かっていわれるのを想像してみればいいのである。そういう目に我々は始終中原に合わせられて来たのである。
 ここには人間味がないばかりか、真実も一つもないのである。部分的には当たっているところもあるかも知れない。しかし全体の組立が間違っているから、部分も歪んで来る。嫉妬と羨望があるだけなのである。孤独の裡ではあれほど美しい魂を開く人間が、他人に向かうと忽ち意地悪と変る。文学者の心の在り方の例の一つが示されているわけである。」

 傍若無人なダダつ子。京都立命館中学時代、16歳の中也は丸太町橋際の古書店で高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』に出会ひ、中也はダダイストと自称することによつてその詩的生活の出発となした。


リリカルな晩/ひとり涙を流す

2007-06-05 23:59:28 | まぼろしの街/ゆめの街
Dohji_1 (閑話休題)
 親切ごかしのことばをかけたために、ひとりのひとを傷つけたといふことを知った。ボクのどこか南国的なテーゲー(てきとう)な性格が、徹底した面倒見ができないくせに、やさしい言葉をかけさせたりする。それは、相手にはボクの無責任さにみえるらしい。
 ボクは、どこか長く東京に住みながら、東京人になじめないと考えてきた。ボクには冷たく感じるほどの他者への無関心さと言へばいいのか、東京人にはそんな(下町には、それとは別次元の江戸っ子的な面倒見の良さがあることは、日暮里にすんでいたボクは良く知っている、その上で言うのだ)徹底した個人主義があると感じてきたもののことだ。

 しかし、けふボクはそんなのは、なんの背景・財力ももたないボクの単なる心情にしか過ぎないことを思ひ知らされた。他者にたいして何もできないのなら、徹底した無関心をよそおった方がいいのだ。
 内実をともなわない親切ごかしの言葉など、なんの足しにもならないどころか相手を傷つけるだけなのだ。

 夕刻から、ひとり飲み続けた。図書館にリクエストした『現代詩手帖』の「中原中也生誕百年」特集を受け取りに行って、なぜ、その号を買わなかったのかいまさらながら悔いている。中村稔の論考など、まさにボクがテーマとしたいものであって、いやになってしまふ。座談会に高橋源一郎が、おもわずうなずきたくなるやうなことを言っていた。
 「若者がふつうに生きていくときに、精神の真空状態が起こって、そういうときに言葉が必要だなと思う。だけど、自分の言葉がない。だれかの言葉をもってきたいというときに(中略)詩人では結局ランボーと中原中也だけになってしまう、そんな気がしました」(座談会「私」を超える抒情)

 ならば、中也よ! このやうな夜、ボクは、あなたのどのやうな詩句を引けばいいと言ふのだろふ?

 酒を飲みながら、森田童子を聞いていたら泣けてきた。森田童子なんて声量もない、たひして驚くようなメロディを書いた訳じゃない。モジャモジャの時にアフロヘアみたいなヘアに端正な顔だちを隠すようにサングラスをかけ続け、ボクでさえ弾けそうな簡単なコードに曲をのせて暗いリリックを歌っていたのだが、いまも、森田童子をかけると何故か泣けてくる。
 森田童子はきっと太宰好きの文学少女だったと思ふのだが、その青臭いリリックがボクを青春のまっただ中に連れ去ってしまふ。決して「甘い」だけではない、「苦さ」も「悔恨」も伴ってしまう青春に……。

「ただ自堕落におぼれてゆく日々に、ひとりここちいい」(森田童子)

「前途茫洋さ、ボーヨー、ボーヨー」(中原中也)

「ああ! 心といふ心の/陶酔する時の来らんことを!」(ランボー/中也訳)