風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ベルイマン/アントニオーニ……二人の名監督の死(1)

2007-07-31 23:59:25 | コラムなこむら返し
Persona_1 訃報ばかりが、続いていやになってしまう。小田実さんの訃報に続いてイングマール・ベルイマン監督の死去と、今日(31日)になってミケランジェロ・アントニオーニ監督の死去が伝えられた。ともに、1960年代にATGの配給などでボクもさかんに見ていた二人の映画界の名監督があいついで死去した。

 イングマ-ル・ベルイマン監督は、もちろんその映画作品でしか知らない。ベルイマンは初監督が1946年で実は、長い監督歴をもつ。しかし、曲がりなりにもクソ生意気な映画ファンになっていた少年時代(ボクは中学生の頃に、「根津アカデミー」や「動坂シネマ」の常連になっていた。その頃、映画をもっとも見た。)、ベルイマン監督の名前を最初に知ったのは『不良少女モニカ』(1952)だった。この作品で、スウェーデンという国の印象をずっと引きずってしまった。そしてその名が深く刻み込まれた作品は『野いちご』(1957)であり、『第七の封印』(1956)、『処女の泉』(1959)だった。初期のベルイマン作品はハレーションのきついモノクロ映画で、神学的なテーマを持ち、子どもにはむずかし過ぎたが、映像の印象とともに訳のわからない神学的テーマを考えることはいい訓練になったと思う。
 たとえば、「神の「沈黙」三部作」と言われる『鏡の中にある如く』(1961)、『冬の光』(1962)、『沈黙』(1963)や『ペルソナ』(1966)、『叫びとささやき』(1973)といった作品は現在ではR15指定に相当して、中学生では見ることが出来ない自主規制がしかれている。ボクは、これらの作品を神の沈黙と、不条理の中で身悶えるイングリット・チューリンのオナニーシーンとして10代で見れてよかったと思っている。むしろ、女性のオナニーシーンやセックスシーンを物語や、哲学抜きのAVで見ることになるのだろう現在の10代の不幸を思うばかりである。
 7月30日、スウェーデンのフォール島の自宅で死去。89歳だった。

(画像はベルイマン監督作品『ペルソナ』(1966年)より)


小田実さんの死

2007-07-30 23:59:03 | コラムなこむら返し
 参院選の結果が自民の大敗とでたところで、その結果を知ってかどうか分からないが小田実さんが死去した。ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の元代表で、「全体小説」という長大な小説世界を手法とする作家でもあった。
 小田実さんがデビューしたのは、紀行作家としてである。最初の著作『なんでも見てやろう』(1961年)は、この作家が自らの目で身体で感じたことを原点とするひとであることを印象づけた。1日1ドルで世界を見て歩く貧乏旅行の行動力には若者にも憧れと共感を呼んでベストセラーとなる。時代は、パスポートをとるのが困難で、1ドル360円の時代だったのだ。言うまでもなく『地球の歩き方』のようなガイドブックは皆無である。その意味でも、小田実さんはバックパッカーにして旅ものライターのはしりなのである(大宅壮一もそうだが…)。
 しかし、小田実さんは作家としての職業にとどまらない器の大きい人物だった。時に、その自信たっぷりの話ぶりがハナについたが、メディアにもよく登場した。そこで、小田さんはその実感にもとづく(小田実の原点には、大阪空襲の焼け野原があるようだ)独自の見方で、市民の側に立った反権力の意見をよく述べていた。
 ベ平連という活動の提案もそのような実感と危機感から発せられたものだったのだろう。

 ベ平連との接点は「ベトナム米軍脱走兵」支援の活動、より具体的に言えば「イントレピットの脱走米兵」問題だった。彼らは、というか当時まさしく兵役を嫌った彼らが「風月堂へ行けばどうにかなるだろう」というそれだけの知識で寄港先の横須賀から新宿まで来たように、世界的に「新宿風月堂」の名前は知られていた。そして、それが、イントレピットの脱走米兵とベ平連との出会いになり、日本を縦断する逃避行とその国外逃亡支援運動のはじまりとなったのだった。1967年の秋だった。
 この脱走米兵ほう助組織JATECとともにベ平連も一時はCIAの監視団体になり、偽脱走兵などのスパイも送り込まれて運動つぶしが画策された。

 最近では「九条の会」の呼び掛け人になり、最新作の新書『中流の復興』で、戦争ではなく平和的な経済活動で復興し、繁栄を謳歌したのは中流になる道を選んだからだと主張していた。

 享年75歳。30日午前2時5分。胃ガン(末期ガン)による死去だった。
 哀悼の念を捧げます。小田実さんの霊の安らかでありますように。そしてこの国と市民のために長い間ありがとうございました。ゆっくりとお休み下さい!


参院選の出口調査

2007-07-29 21:48:51 | トリビアな日々
 選挙の「出口調査」というのを、はじめて受けた。TV朝日と朝日新聞の「出口調査」だということだった。「ASA」の腕章を巻いた女性に協力を求められた。
 ボクが選挙に行ったのは、午後7時少し前だったのだが、投票率が40パーセントを切っていたので、少し心配した。「出口調査」には、正直に対応した。その調査の項目の中に、今回年金問題はあなたに深刻な関心を呼びさましましたか?(たしか)というものと、安倍首相には、どうしてもらいたいですか(たしか)というアンケート項目があった。
 それから、ものの1時間たって投票時間が締め切られると、なんとTVは選挙速報で、出口調査にもとずく当確情報を流しだした。自民大敗の予測である。おうおう、戦後レジームと美しい国の安倍さんには、責任論でシフトしてもらおう。このシラケ世代の首相にはジィさんの亡霊がついて回って、亡霊に操られているのは、はっきりしてきた。このままでは、戦後の巨魁(きょかい)と呼ばれた亡霊にこのままではこの国は、乗っ取られかねない。まるで、妖怪大戦争だ(笑)。

 ちょうど、TV朝日の速報を見ていたら総理公邸の屋根の上で雷光がまたたいた。暗雲たれ込める風雲の急を告げる参議院選挙であるようである。それとも、それは国民の血を吸うドラキュラ城の雷鳴だったのか?

 (東京選挙区は、民主はふたりがはやばやと当確を決めた。このうちのおひとり大河原まさ子さんには異義がある。彼女は生活者ネットの代表委員からの転身なのだが、自らネットの代議員制度の精神を裏切り、自らキャリアに換骨奪胎してしまったように思う。)


8/3 E.G.P.P.100/Step73「新宿1967/あの、ひと夏は熱かった!」

2007-07-27 01:29:13 | イベント告知/予告/INFO
Lsd●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step73

テーマ:「新宿1967/あの、ひと夏は熱かった!」
2007年8月3日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、マツイサトコ、ココナツ、かし(以上うた)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 あの熱い1967年の夏から、40年と言う時が経ったということが、いまだ信じられない。ときあたかも、ヒッピー・ムーブメントの「Summer of LOVE」から40年。1967年の新宿も独特の熱気に包まれていました。「平凡パンチ」を初めとする週刊誌にあおられたとはいえ、それ以前から新宿には「深夜ジャズ喫茶」(きーよ、ヴィレ、汀などなど)、「新宿風月堂」そして東口の植込み「グリーンハウス」を根城とするボヘミアン、ビートニクそしてフーテンが「ちょい悪」な対抗文化を作っておりました。ま、本人たちは夜毎のナンパとミンザイ(催眠薬)に酔いしれていたとはいえ、ベトナム戦争真っ盛りのころ、ベトナム帰りの米兵や黒人兵、観光旅行中のバックパッカーからひそかに非合法のドラッグも出回っておりました。「新宿風月堂」に警視庁麻薬取締官が私服で、情報収集に来ると言うそういう世の中でありました。

 パリでは翌年に五月革命が起き、中国では「造反有理」の紅衛兵の文化大革命が起こり、そしてこの国の最高学府でも「叛旗」の旗が掲げられるという、騒乱と革命の年のはじまりでもありました。
 そして、インターネットもない時代に、クチコミだけで京都や大阪、名古屋、神戸、はては鹿児島県の島嶼部の情報までが瞬時にもたらされるという不思議な時代でもありました。
 戦後間もなくから放浪を開始した詩人も、俳優座で人気を得ていた俳優も、得体の知れない個性溢れる人物が交流し、一期の夢として去っていった1967年のあの夏を、40年後の2007年に再現することができるでしょうか?

 ボクにとっては、「原点」であるこの時代を「Summer of LOVE」の2007年の夏を「熱くする」ために振り返ってみたいと考えてみました。
 それは、きっとこの夏にしか起こらない、たったひとつの秘蹟!!

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定は関係ありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。おおよそ10名のエントリー枠があります。1組10~15分ほど。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

 E.G.P.P.100にも「100」というカウントがあるように(もしかしたら、100回めで終わりか?)しばらくテーマとして「100」や、クロニクルにこだわります(今回は「40th」ということになります)。これから、予想されるテーマは中原中也、レイチェル・カーソンなどです。意外なテーマもあるかもです? 乞う! 御期待!

E.G.P.P.100 MIXI内コミュアドレス→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706

(写真は60年代後半の新宿「LSD」で行われたパフォーマンス)



「コピー文」か、「名言」か

2007-07-26 02:24:26 | コラムなこむら返し
War_syohei 最近出版された岩波現代文庫の帯に書かれたコピー文を書店で読んで、思わずうなってしまった。
 それは、大岡昇平さんの『戦争』という回想録のような随筆に巻かれた帯(おび)にあったのだ。
 曰く、

 「戦争を知らない人間は、半分は子供である」

 と言うものだ。これは、もしかしたら大岡昇平氏のそのエッセイの中からとられた言葉かも知れないが、惹起文、コピー文としてはほとんど「名言」の域に達している。
 コピー文というよりは、アフォリズムと言ってもいいかも知れない。岩波書店恐るべしである。さすがに、並の大学卒くらいでは入社できない大出版社である。最近、岩波文庫が置いてあるかどうかで、その書店の格(はやりの言葉で言えば、「書店の品格」であろうか?)が分かると、ひと昔前の書生のようなことを、のたまわった作家先生(丸谷才一氏)がいて、それ(朝日新聞の連載コラムだった)をわざわざ朝日新聞の「天声人語」氏がとりあげていたが、岩波書店の安定経営はその書籍が、書店への「買い取り方式」にあるということを御存知だったのだろうか(もちろん、文学者という「文壇」の業界人であってみれば、知らぬ訳がなかろうが)?
 小さい町の書店が、岩波書店の書物を、たとえそれが辞書であっても置けないのは、売り切らねば在庫が店の負債になるからなのだ。岩波にとっては、書店に置くことは、その書店の「品格」を高めることになるんだぞ、というブランド力を押し付け、書店に置いてもらうことは、即売れたということなのである(詳細に事実誤認があれば訂正するにやぶさかではありません)。これは、「殿様商法」と言うものではないのか?

 大岡昇平氏(1909~1988)については、説明の労もいらないだろう。京大卒、スタンダールの研究家・翻訳家。自身、フィリッピン戦線に出征し、ミンドロ島の闘いで米軍の捕虜となる。それらの体験を復員した後、『俘虜記』に書き、友人の小林秀雄の尽力によって昭和23年(1948年)に出版、小説家としてのデビュー作となる。以後、南洋に散った同胞を鎮魂するかのような『レイテ戦記』、『野火』などの戦争文学(とりわけ後者はカニバリズム文学としても銘記すべき作品)、『武蔵野夫人』というベストセラーを生み、ほかに『花影』、『事件』などの純文学にとどまらない幅広い見識にもとづいた問題作を世に問う。芸術院会員に推挙されたが断るなど、気骨のひと。ボクにとっては、その作品にとどまらない原稿、ノート、書簡などを収集し、旧友だった富永太郎、中原中也などを戦後にあらためて脚光をあびさせた素晴らしいディレクターであり、エディター(全集などのまとめ役)。富永太郎についての蒐集資料は神奈川近代文学館(横浜市山手)に、中原中也についての資料は中原記念館(山口市湯田)に収蔵された。

(写真)大岡昇平『戦争』。ほとんど「名言」の帯の「コピー」が読めますか?



梅雨の晴れ間

2007-07-24 23:58:02 | コラムなこむら返し
Sunset_070724 久方ぶりに晴れ渡り、やっと真夏を思わせる一日だった。素晴らしい夕焼けを期待したが、定点観測の場所に駆けつけたらもう陽は沈みかかっていた。かくして、平凡な写真しか撮れなかった。

 しかし、凡庸な一日というものはあるのだろうか?

 たとえ、それが日常であっても、この瞬間と同じく同じ一日は永遠に存在しないのだ。この日の太陽は二度と帰ってこないのだ。とはいえ、考えてみれば、一日と言うのはこの地上の時間だった。地球が自転するがゆえに、地球上の生き物である私たちの生理や観念上のいのちの営みだった。それは、太陽にはなんの関係もない時間だったのだ。わたしたちのかけがえのない営み、美意識や感情は地上にあってこそのものだった。

 それでも、この地上に縛り付けられた営みの規範(パラダイムと言っていいだろうか?)というものは、たとえば将来わたしたちの子孫たちが、宇宙に進出して行った時もおそらく引きずっていく規範なのだろう。一年(公転)が1200日ある惑星に行っても、一日(自転)が240時間ある星の上に降り立っても、地球上の規範であるいのちの営みの「時空」概念は、宇宙にひきずってゆく規範(パラダイム)なのだろう。それとも、あらたな宇宙基準という概念が打ち立てられるのだろうか?

 ストーリーの進行をさまたげるためか、あの西部劇を敷衍しあまたの辺境の惑星が舞台となった映画『スター・ウォーズ』にも、そのような地球上の時空概念をシフトさせるような前提は、まったく説明されなかった。そんな概念を持ち込めば、観客が混乱すること必須だったからだろうか。


谷中墓地を突っ切って……

2007-07-22 23:59:06 | コラムなこむら返し
Dandan_saka 『インカ・マヤ・アステカ展』を見ての上野からの帰り、例のごとく日暮里まで歩いた。谷中墓地を抜けていく道は、少年時代カメラをかかえて歩き回った道だ。谷中墓地には、大きな墓石を使った時代を感じる墓がたくさんあることは知っていた。徳川家はもちろん、谷中墓地には歴史に残るひとたちが眠っていることも聞いたことがある。でも、高橋お伝と隣り合うようにして川上音二郎の墓があるのは知らなかった。

 谷中墓地は昔から、不思議な墓地である。なんというか、墓地の真ん中を走る道は、立派な歩行者通りで、通勤にも、通学にも、買い物にも気楽に使われている。いわば、一帯は寛永寺をはじめとした江戸の寺町で、道一本へだてた町は、空襲にも焼け残った古い佇まいを最近まで残していた。山手線はその上野の山に至る丘陵の外側を弧を描くように迂回して走っている。だから、日暮里から上野までは歩いても、それほどの距離ではない。むしろあの間に鴬谷があるのが、信じられないくらい近いのだ。

 そして、谷中墓地を突っ切ると日暮里駅に出る。そこから、夕焼けダンダン(石段があるのです)を降りて谷中銀座商店街へ。この降り口にジャズ喫茶(いまは正確にはジャズ・バー)「シャルマン」があるが、日はまだ高く看板は点灯していなかった。

 「谷中銀座」を突っ切って「よみせ通り」とTの字に交わるところまで出たボクはまたショックをうけた。「谷中銀座」をまっすぐ歩いて正面にあった「信用金庫」のビルが解体され、更地になっていた。
 それ自体はどうということはないのかもしれない。だが、ボクにとってはその「信用金庫」は、その目と鼻の先の民家に部屋を間借りしていたボクの中高時代くらいの心象風景なのだ。
 風の強い日、そう、春一番などが吹いた日、その信用金庫の屋上にとりつけられた社旗が吹き千切られそうなほど激しく音をたててはためいていたのをよく聞いていた。それは、どこか不安感をよびさます音だった。家のすぐ前の「よみせ通り」に面した猫の額ほどの店舗では、まるで「太陽族」を気取ったお兄さんが、「貸本屋」をやっており、夏になるとアロハを着て、サングラスでキめたアンちゃんは、店を臨時休業にしては、ガールフレンドと湘南の海に行くのだった。いまで、言えばサーファー、それもビーチ・サファーのようなものだ。裕次郎のようにスカしたファッションで慎太郎刈りでキめたアンちゃんは、早朝の電車に乗ってはガールフレンドと湘南へ向かうのだった。その「信用金庫」は、そんなボクの昭和30年代後半の記憶と風景にむすびついたボクの心象風景だったのに……。

 そして、今回、ボクらが家族で間借りしていた小さな家は、表札もなく空家になっていたようだった。階下に住む大家さんは老夫婦で、当時からお年を召していらした。近日中に、ボクは懐かしい場所をもうひとつ失いそうな気がする。
 「初音小路」で飲んで帰りたかったが、ボクはこうして哀しい少年期の記憶をかかえていまは多摩地区への家路を急いだのだった。


ジョン・コルトレーンの死んだ夏/A Love Supreme!

2007-07-21 23:50:13 | コラムなこむら返し
J_coltrane_love 「ボクらは、みなジェイコブだったし、その名のようにクレオールな存在でそして連続ピストル射撃魔永山則夫でも、中上健次でもあった。ジャズ喫茶という「教会」に集い、コルトレーンやオーネットを司祭としてフリージャズという黒いミサ(ブラック・サバト?)を取り行っていたのかもしれない。」

 昨年、コルトレーンの命日にボクはこう書いた。ジェイコブというのは、中上健次の小説の主人公の名前だ。たしか、この小説『19歳のジエイコブ』のラストシーンで中上は、ジャズ喫茶を教会にたとえた。

 「ジェイコブの眼にモダンジャズ喫茶は教会(シナゴーグ)のようにみえた。」

 シナゴーグとは、ユダヤ教の教会、集会場のことだ。不思議なフレーズだ。そして、ジェイコブというのはヤコブの英語読みである。このあたりの解析は、ぜひやってみたいがここではしない。
 ボクに言わせれば、ダンモのサテン(喫茶店のフーテン・スラング)は、教会は教会でもむしろブラック・ムスリムのモスクか黒魔術のサバトのような気がするが、『19歳のジェイコブ』を読むと(もっと直截に語っているのは、中上のジャズ論と言ってよい『破壊せよとアイラーは言った』だが……)、あざやかに40数年前の新宿歌舞伎町のど真ん中にあった「ヴィレ」(ジャズ・ヴィレ)の日々が甦ってくる。

 新潟県柏崎沖を震源とする中越沖地震、そしてそれにともなう東電柏崎刈羽原子力発電所のお粗末な地震対策があらわになったニュースによって肝心の17日に書くことも、触れることも出来なかったが7月17日はジョン・コルトレーンの40回忌だったのだ。もはや、コルトレーンも過去のジャズメンなのか、またモダンジャズ自体が退潮しているのか、そのことにふれた一文を目にすることも少なくなったが、やはりそのことには遅れても触れておきたかった。

 当時のボクらにとっても、コルトレーンや、オーネットそしてドルフィは革命家、もしくは来るべき世界の音楽の司祭だった。決して神のようにあがめた訳ではないが、そのフリーなノイズのような響きは賛美歌だったし、愛だった。
 ボクらは、毎夜毎夜眠りもせずに口論した。いかに、コルトレーンが偉大であるか。いかに、オーネットが革命家であるか。ドルフィの音の素晴らしさ、アイラーやアーチィ・シェップの猛り狂う音の崩壊感覚を!
 飽きもせず、黒人音楽の孤高なまでの世界性を議論した。

 40年間、コルトレーンを聞き続けてきたかと言えば、ウソになる。でも、コルトレーンが教えてくれた音楽もまた愛をたたえ、語る形式だと言うメッセージはいまでも忘れてはいない。

 そのために、ボクはここで「LOVE SUPREME」を19回唱えます(笑)。あの「至上の愛」のメロディで……。

A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME!  A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME!  A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME!  A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME!  A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME!  A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME! A LOVE SUPREME!  A LOVE SUPREME!



インカ・マヤ・アステカ展

2007-07-20 23:38:41 | アート・文化
 この数カ月、オフの時に行っている展覧会のことが、全然書けていない。けっしてマメではないが、美術館へ行くのは好きなのだ。ボクには趣味が合わないでしょうと思われそうな展覧会にも行ったりしている。
 最近では、「モーリス・ユトリロ展」(三鷹市美術ギャラリー)、「会田誠+山口晃アートで候。展」(上野の森美術館)、「古沢岩美展」(板橋区立美術館)などに行った。

 そして昨日は、「インド現代絵画展」(上野の森美術館)、そしてこれはアートではないが、「インカ・マヤ・アステカ展」(国立科学博物館)へ掛け持ちして行ったのである。
 後者のそれはNHKのスペシャル番組とタイアップしたというか、 出版や映像制作会社などのNHK関連会社が複合して総力をあげて今年の目玉商品にしようと目論んでいる世界遺産からみの企画である。学術調査の体裁をとって国立の科学博物館で開催だとは言っても、その見せ方は明治大正時代の見世物とたいして変わりはないだろう。最大の呼び物は、アンデスで発見されたミイラだろうし、マチュピチュのジオラマ模型まで作るはしゃぎぶりからも窺える。それに、この企画はあきらかに夏休みの小中学生を当て込んでの開催だろう。チケットは高校生から発生するが、中学生以下は無料なのだ。父兄同伴できて、物品コーナーでたくさん関連グッズを買ってもらおうという読みなのだろう。

 だとしても、この展覧会は中南米のマヤ、アステカ、インカ(発生順ではこうなるでしょう)の三大文明の発掘品を中心に、いままで見たことのない貴重な発掘品210点あまりが公開されている。三大文明の宇宙観、宗教儀礼なども近年めざましく解明されてきており、予備知識がないと混乱の極みに至るが、この夏、想像力の翼を中南米へ飛ばすことができる絶好の機会であることには間違いがない。
 (9月24日まで。一般・大学生1,400円/高校生600円。金曜のみ20時まで。神戸、岡山、福岡と来年の6月まで巡回)

(予備知識および100円割引券は以下へ。)
公式HP→http://www.3bunmei.jp/

公式ブログ→http://www.3bunmei.jp/blog/index.php


運転/あふれ/漏れる

2007-07-19 03:53:40 | コラムなこむら返し
 そうか、原発の稼動停止という面に関して言えば、「消防法」によって所轄自治体の長は、建物や施設の使用停止を命じることが出来るのだった。
 18日付けの夕刊によれば、柏崎市の会田市長は東京電力柏崎刈羽原子力発電所の全機の停止命令を消防法に基づいて東電に申し渡した。
 逆に考えると、所轄の消防署は少なくとも、年1回の立入検査を実行して、施設内の消火設備や、自衛消防組織また消防計画などを調べているはずだから、今回のように全く初期消火ができなかったという自体は防げたはずで、お目こぼしをしていた所轄消防署の責任もあると指摘しておきたい。
 そして、他の原発を地元にかかえる各自治体も、早急にこのような万が一の事故、火災にどのように電力会社が備えているのか、どのような消防計画をもっているのかを検討すべきではないかと思われる。
 何かが起こったら、周辺住民を退避させればよいと他に転嫁するような安全対策では仕方がないではないか。
 友人(マイミク)の恭子さんが、3年前の中越地震の時に、東電に柏崎刈羽原発運転再開の決定を考え直すようにとメールしたそうだ。それに対して、このような返信が届いたそうだ。

 毎度お引き立ていただきましてありがとうございます。
 
 弊社原子力発電所の地震対策についてご案内させていてただきます。
原子力発電所は万一の事故の際には、
 ・原子炉を「止める」
 ・原子炉を「冷やす」
 ・放射性物質を「閉じこめる」
ことにより安全を確保する設計となっております。地震対策についても、この考えを基本としています。

 弊社原子力発電所は、設計、建設段階において、基礎を頑丈な岩盤の上に直接設置して地震による揺れが小さくなるように建設しております。
 
 地震発生後、中央操作室および現場点検において、プラントの運転に直接影響を及ぼすような設備被害がないことを確認しており、通常通り運転を続けております。また、23日から25日にかけて、数回現場の確認を実施しており、プラントの運転に直接影響を及ぼすような設備被害がないことを確認しております。
 なにとぞご理解のほど、よろしくお願いいたします。
 
 今後とも東京電力をよろしくお願い申し上げます。

************
  東京電力株式会社
  お客さま相談室
  川●  譲
  03-●21●-1111
************

 このような回答は、今回の中越沖地震でもまったく絵空言でしかなかったことが証明されたようなものである。「止める」「冷やす」「閉じこめる」どころか、「自動停止以外は運転」「冷却プ-ルもあふれ」「放射能は漏れる」で、基礎は頑丈な岩盤の上どころか、原発の直下まで断層は迫り、敷地内の地面も波打っていたという。
 会田市長の判断は賢明である。

 今年の夏は、甲子園高校野球はラジオで聞いて消費電力を減らし、その代わり想像力をきたえ、クーラーは切ってウチワで過ごしましょう。とりわけ、東電から電力供給を受けている家庭、事業所は……。



激甚地震は「想定外」!?

2007-07-18 00:52:24 | コラムなこむら返し
 東京電力は、柏崎刈羽原発3号炉のトランスの火災にばかり気を取られていたわけではないだろうが、使用済核燃料を冷却しながら保管しているプールの放射能を含む水が、管理区域外に漏れだしていたことを地震発生から12時間余りたった16日の午後10時過ぎに急遽発表した。これは、ボクが一昨夜書いた冷却プールのことらしく、それも昨日になってその水が海に流れ出していたと発表したらしい。要するに環境への放射能汚染が起こったのだ。
 さらに、敷地内のドラム缶(低レベル廃棄物)が100本余も倒れていたこと、7号機から空気中に放射能漏れ(ヨウ素、コバルト60など)があったことを含む50項目にわたる地震の影響による不具合、事故が起こったことを発表した。

 3号炉の火事に対する初期消火のお粗末さも、事故や天災に対する東京電力に対する認識の甘さを露呈した。実際、職員、作業員で作るべき(所轄の消防署の指導による)自衛消防隊が全く機能せず、消火に2時間もかかったこと、などなどこの柏崎刈羽原発が、かっても指摘されていたように、激甚地震に対するぜい弱性を露呈したと言わねばならない。

 耐震設計での想定が、原発から10Km以内でM6.5で、12Km北東にある断層で地震が起こった場合という想定だった。設計・建設後に、この地域に多くのひずみをかかえた断層が見つかり、今回のようにM6.8の揺れは、「想定外」だったというのであるから何をか言わんやである。
 新潟県柏崎の人々は、もう少しで地震という天災に加えて、原発事故という2重苦を背負わされるところだったかも知れないのだ。

 参院選のゆくえに、気が気でない首相は、報告が遅いと東電を叱ったそうだが、また票を減らしたと舌打ちしていたのではないだろうか?

 お粗末と言うばかりでなく、このような推移は本当に恐い。地震へのぜい弱さが指摘されている原発は、他にもあるからだ。



地震お見舞い

2007-07-16 21:55:28 | ニュース
 本日、午前10時13分ころ、新潟柏崎沖合いを震源とする地震で、被害を受けた方々に心からお見舞い申し上げます(震度6強。M6.8の強い地震だったようです。いまだ余震も続き、救出作業もまだ続行中です)。

 参院選もたけなわ午後5時過ぎに安倍首相は、現地に到着したようです。柏崎原発の目と鼻の先が震源で、3号炉のトランスが火災を起こしたようです。大事には至らぬうちに消火したようですが、原発の火災は初めてで、危惧された事態が起こったことには間違いがないでしょう。
 また、使用済み燃料を保管するプールの冷却水の水位が異常低下したようです。循環ポンプが地震の影響で、停止してしまったようです。
 この地域は中越地震に見られるように、断層のエネルギーが溜まっており、柏崎原発の停止、廃炉はおおいに検討されるべきだと考えます。この原発は、東京電力の管轄でその電力は東京、関東に供給されています。決して、首都の生活とは無縁ではないのです。

 この地震は気象庁によって、新潟県中越沖地震と名付けられたようです。まだ予断を許しません。お気をつけてください。