風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

9/29 月裏の集い@高円寺CLUB MISSION'S

2008-09-29 00:50:26 | イベント告知/予告/INFO
Moonback_septnetozaoku presents
「月裏の集い」
[LIVE]
netanoyoi
東京ホームランセンター
KORAKORA
ウワサの2人組
フーゲツのJUN(ポエトリー)

DJ Kenichi(緑の月)

出店:緑の月/サドゥーババ/雷音堂
open19:00/start19:30
adv./door\1000(1D込)

高円寺CLUB MISSION'S
東京都杉並区高円寺南4-52-1
TEL 03-5888-5605
公式サイト→http://www.live-missions.com/
地図→http://www.live-missions.com/access/access.html

 この1月から毎回ライブの口火を切るポエトリー・リィディングをやらせてもらっていた「月裏の集い」でしたが、今回をもってしばらくボクはお休みです。
 もう、今晩なのですが、見納めの前に高円寺Club MIION'Sへ応援に来てくれたらうれしいです。
 もちろん、「月裏の集い」も「ねたのよい」も続きます!
 今後とも応援よろしく!

 ねたぞく万歳!!!

 宇宙太平

 ねたぞくに永遠のあいを!




10/3 E.G.P.P.100/step87池袋モンパルナス??小熊秀雄と狂乱の画家たち

2008-09-27 15:25:24 | イベント告知/予告/INFO
Hideo_oguma_phot●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step87
テーマ:「池袋モンパルナス??小熊秀雄と狂乱の画家たち」

2008年10月3日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、サイケ艶歌新宿前田屋(ポエッツ)、ココナツ(うた)、bambi(スピリチャルトーク)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 「池袋モンパルナス」と、豊島区長崎、千早町、要町あたりのアトリエ村群を見事に名付けた小熊秀雄は、私生児として生まれ、苦学して新聞記者になり、諷刺精神のつまった詩を書いて、アトリエ村とその周辺の飲み屋、喫茶で遊び尽し、本邦初のSFマンガの原作者となり(ペンネーム旭太郎)、不遇のまま豊島区千早町の東荘というボロアパートで死んだ。39歳の短い人生だったが、小熊は妥協せず、何者も恐れず、徹底した反抗心でサンチョ・パンチョの真っ正直な愚直さを愛し、同時に多くのおんなを愛して死んだ。
 破天荒で直球勝負といった不器用な生き方は、また「池袋モンパルナス」のアトリエ村に住む絵描きたちの生きざまそのものでもありました。
 日中戦争から太平洋戦争突入までのつかの間の時間、青年期にあった若き画家たちは無頼のような、真剣のような半分やけっぱちで貧困に耐えながら売れるともつかない絵を描き続けていたのでした。

 1930年代の放縦なる青春! その「池袋モンパルナス」を彩ったひとたちには靉光、松本竣介、寺田政明、吉井忠、熊谷守一、丸木位里、丸木俊、野見山暁治、長沢節、長谷川利行、佐伯祐三、古沢岩美、浜田知明などなど近代および現代絵画を飾る画家たちの名前が枚挙のいとまがないほどあがります。
 おおよそ70年という時間の経過により、それらのアトリエ村は一般住宅やマンションに建て替えられておりますが、それでもそこには往年の面影を感じさせる家があり、路地があり、数軒のアトリエがあります。「池袋モンパルナス」という地霊を詩人小熊秀雄68回忌(11月20日「ジャンジャン忌」)の直前に立ち上がらす試み! それが、今回のテーマです!

 このイベントは、自由エントリーのできるオープン・マイク形式で開催しております! 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

●仕事が変わり、ローテ仕事で毎月E.G.P.P.100を支え続けることが不可能になりました。ボクに代わってこのオープンマイク・イベントを支えてくれる方、MC、DJで協力してくれる方を急募します!
◆当然、空きの日程にはボクも協力いたしますし、アドバイスも惜しみません。また、これまで「テーマ」を掲げてやって来たやり方も変えねばならないかもしれません。
○これまで、松岡宮さん、恋川春町さんらに主催を打診して来ましたが、色好い返事をいただいておりません。そこで、ここに一般公開募集いたします。あなたの個性でE.G.P.P.を生まれ変えさせてください!
(E.G.P.P.はあとおおよそ1年で連続開催100回を迎えます。このイベントが点した自由なポエトリーイベントの灯火を持続させていただきたいのです! やってもいいという方は、連絡をいただくか、E.G.P.P.へいらしてください!)



フェルメール展/オランダ・デルフトの光

2008-09-26 22:20:45 | アート・文化
Letter_vermeer こんなに根性を出して展覧会に行くのも初めてかも知れない。どのような理由があるのか現代日本で大衆的な人気を獲得してしまった17世紀のオランダの画家ヨハネス・フェルメールの日本初公開の5点を含める7点の作品が公開されると言うので巷は大騒ぎらしいのである。開館時間に合わせてなんと休日の朝9時には会場の東京都美術館(上野)に到着しているという奇跡を演じてしまった。
 案の定会場には早朝から大勢の観客がつめかけている。それでも待つことなく中に入れ、流れも比較的スムーズだった。この観客数は会期中にどれだけになるのかも興味あるが、午前10時には入場制限がおこなわれており、待ち時間は40分という表示が出ていた(9/25現在、展覧会が始まって47日め観客数は30万人を突破したという!)。

 それにしても、なぜ今またフェルメールなのか?

 フェルメールは、もちろんいままで知られていなかった画家ではない。むしろその静謐な画風を好むひとはたくさんいた。だが、同時代のレンブラントの光の表現がドラマチックなのにくらべて、むしろひかえめで光は室内に、やさしく窓を通過した間接光として降り注ぐ。

 ボク自身がそうだったのだが、ある時期(とりわけ戦後と言っていいのかもしれない)この国では古典的な絵画や、中世の作品はアカデミックでそれゆえに好まれなかったときがあったようだ。というか、奇をてらった、大衆には理解されない作品こそ「ゲイジュツ」だ、という奇妙な錯誤がまかり通っていた。フェルメールもその作品数の少なさもあって中世の日常を描いた「風俗画家」という定義で事足れりとしていた面も否めない。それに、それは職人的と言っていいほど確かな技術で、職業画家の有り様そのものに見えたからパトロンに依拠して生きるしかない姿は、否定的に思われた時代があった。

 これは日本だけに限らないのかも知れないが、フェルメールを多くのひとが注目するようになった経緯には、「ギャラリー・フェイク」的な面白さ(「ギャラリー・フェイク」は『ビッグ・コミック』誌に2005年まで連載されていた細野不二彦作の漫画作品)が大きな要素をしめているような気がしてならない。今回の『フェルメール展/光の天才画家とエルフトの巨匠たち』は、東京都美術館とTBS、朝日新聞社がタイアップして企画主催するもので、その巨大なネットワークをもって波状的に宣伝するというマスメディアの関与はあるものの、もしかしたら12月中旬までの会期中に80万人を越えるかも知れない観客のひとりひとりは、フェルメールの絵画作品がたびたびミステリアスな盗難事件や、偽物(フェイク)騒動に巻き込まれ、そのたびにその絵画作品の評価が高まり、謎に満ちた話題を提供してきた、ということを知っている。
 そもそもこんなにも大衆的な話題があるだろうか?

 ボク自身はフェルメールの存在は、奇をてらった絵画のひとつと言えるかも知れないサルバドール・ダリの作品で知った。「偏執狂的=批判的習作」と称した作品の中にフェルメール作品の構図を換骨奪胎したシュールレアリズム絵画の一点があるのである。その実、ダリはフェルメールを絶賛しており、フェルメールの完璧な技法に大いに学んだ節が見受けられる。

 30数点と言われるフェルメール作品のほぼ1/5が、一挙に上野で公開されたこの『フェルメール展』は、たしかにフェルメール全点踏破の旅(朽木ゆり子)の足掛かりになるかもしれないというほのかな期待の上でも見のがせない(もっとも、ボクはそのようなプチブル趣味の旅をする気はないが……)。

公式サイト→http://www.tbs.co.jp/vermeer/

(図版)今回の特別出展作品ヨハネス・フェルメール「手紙を書く婦人と召使い」(1670年ころ)



池袋モンパルナス探訪ツアー報告(2)

2008-09-24 22:15:46 | アングラな場所/アングラなひと
Mine_atorie 「さくらが丘パルテノン」には画家たちが当時から通った「不動湯」という銭湯がある。昔ながらの高い煙突が「さくらが丘パルテノン」越しに見える。「不動湯」は、「さくらが丘パルテノン」に隣接しているのだ。そして、その一帯の迷路のような小道はここに70戸のアトリエが建ちならんでいた往時を思い起こさせるにぴったりである。路地の入り込み具合は、きっとそこにアトリエがひしめいて建っていただろうことを想像させてくれる。
 ちなみに今回のツアーでこの「不動湯」さんが、昭和元年営業開始からの83年におよぶその長い歴史にピリオドを打って廃業することを店頭のはり紙で知ってしまった。近い内に入浴しにこなければなるまい。

 池袋モンパルナスに住む画家たちの中では、当時からいちはやく名が知れていた大家である熊谷守一私邸跡に建っているコンクリート打ちっぱなしの熊谷美術館(ここは数年前から豊島区立になった)にちょっと立ち寄って、「つつじが丘アトリエ村」へゆく。
 「つつじが丘アトリエ村」にはすぐ手前の角地に北海道にある間宮林蔵像などでも知られる峯孝のアトリエが作品展示館として一般公開されている。武蔵野美術大学の彫刻の教授もなさっていた方の残されたアトリエである。
 ツアー参加の13号倉庫さんが、たまたま前日に間宮林蔵の像の写真を見たとかで、その偶然にしきりとうなずいている。たしかに、写真を見たその像の作者のアトリエに導かれようとは、ユメにも思わなかっただろう。ボクにとってもシンクロは起こった。24日まで国分寺で個展をやっていたYUCOの武蔵美時代の彫刻の指導教官が、峰孝氏だったことが分かったばかりだ。

 そして、今回ツアーの終着点にしようと思っていた旧平和小学校の教室を活用している「アトリエ村資料室」へ。ここでローテーション当番で「池袋モンパルナスの会」の事務局の方とはじめてお目にかかる。「資料室」と「池袋モンパルナスの会」(以下「会」)との関係をよく知らなかったボクは、いろいろ教えてもらう。「池袋モンパルナスの会」の出来た経緯などだ。ボクはその場で会の末席をあたためさせてもらうことにした。

 要町通りを越えれば、一番最初にできたアトリエ村である「すずめが丘アトリエ村」および靉光などが住んだ「培風寮」跡があるのだが、今回は省略した。「培風寮」は、異色のミステリー作家である大泉黒石も住んだことでボクにとっては江戸川乱歩の「幻影城」(蔵を利用して書庫になっている)とともに格別なところでもあるのだが……。
 また、下落合に瀟洒なアトリエを建てた佐伯祐三のアトリエも訪ねたいところであるが、それはまた別の機会に………(アトリエは公園の中に現存する)。

 こうして、池袋西口まで再び歩いてツアーは解散した。

 ちなみに、ボクは8月の後半に佐伯祐三のアトリエを訪ね、絵の具がなくなると「さくらが丘パルテノン」などに住む友人を頼ってフラリとやって来たという流浪の画家長谷川利行の不忍池のほとりの石碑にも、ツアーの翌々日の23日「フェルメール展」の帰りに立ち寄ってきたばかりである。

(おわり)



池袋モンパルナス探訪ツアー報告(1)

2008-09-23 23:12:09 | アングラな場所/アングラなひと
Montparnasse_sakura_1 池袋モンパルナス探訪ツアーは、ツアーの成立する最小携行人数三名で、行われました。待ち合わせ場所の池袋西口広場「東京芸術劇場」エスカレーター前に集まったのは、ボク、13号倉庫さん、そして始めてお目にかかるデニウソンさん。あいにくの小雨模様でしたが、当日参加のひとがいるかもという淡い期待を抱いて13:15まで待ちましたが、それ以上は誰も現れませんでした。

 小雨の中を池袋モンパルナスのミニチュアセットがある豊島区郷土資料館へ行くも、なんと第三日曜は休みなんだと! 普通の日曜日は開館しているのに第三日曜は休みだそうでツアーはのっけから危機におちいります。気を取り直して、立教通りへ、今回13号倉庫さんが楽しみにしていたという(直接は池袋モンパルナスとは関係がない)江戸川乱歩旧居へ。いまも平井太郎の表札が御子息の隆太郎(立教大教授)とともに残ります(現在「大衆文化研究会」の事務所でもある)。
 続いてそのまま山手通りを渡って千早町へ。地蔵堂から「池袋モンパルナス」の名付け親たる詩人小熊秀雄の終焉の地「東荘」跡へ。石段があって、その何処にも通じない石段はいたって古そうであった。酔った小熊秀雄が歩いたか、腰掛けていそうな石段である。私生児として生まれた小熊は貧困の中で、日中戦争のさなか昭和15年に病死した。作今、ようやく小熊の詩のみか小熊が残したデッサン、ユーモラスなペン画のたぐいに評価の眼が注がれるようになったばかりだ。一貫してたぐいまれなる諷刺精神に満ちた詩作品と洒脱なタッチのペン画、水彩画を残した。

 そのまま千早フラワー公園へ上がって(このあたりは坂になっており、たしかに上は「丘」であったろう)、公園を突っ切り長崎の「さくらが丘パルテノン」へ。

 「さくらが丘パルテノン」の目印は、今にも枯れそうな小さな桜の木である。かっては、ここに70軒あまりもアトリエが建てられ、アトリエとアトリエの間にサクラが植えてあったらしい。ひと棟2戸の安普請のアトリエだったが、借り手はひきもきらず空くのを待っていた。ここには丸木位里、俊、浜田知明、野見山暁治などが住み、おんなのようなヤサ男でおんな言葉を使う長沢節もここに住み、戦中の灯火管制の下で、敵性音楽の洋楽レコードをかけ、モデルとダンスに打ち興じ、非国民性を芸術家の特権のようにして自由をふりかざしたやけっぱちな生活をしていた。

(つづく)


国分寺「ほら貝」2008年8月閉店す!

2008-09-21 10:29:17 | アングラな場所/アングラなひと
Horagai_face 部族がいわば起業したものに「ロック喫茶」と「有機野菜引き売り→有機野菜八百屋店舗」がありますが、そのひとつ我が国最古のロック喫茶だった国分寺「ほら貝」が2008年8月で閉店しました。
 まだ長い旅の途上にいたナナオからの詩のようなエアメールが壁面に貼られていたり、ナーガの便りがあったり、三省の消息を知ったり、近くの学芸大の新聞会の学生と交流したりした「ほら貝」は、国分寺北口から歩いて5分くらいのピンクキャバレーのど真ん中に不思議な空間としてありました。
 同じ北口のクラシック喫茶「でんえん」近くのビルの2階に引っ越してサタンからヒロにマスターが変わってどこか都会的な不良の溜まり場風でした。それもそのはずサタンはケンカに明け暮れていた新宿「ジャズヴィレ」の出身者でもあったのです。そこはボク自身が「新宿風月堂」そして「部族」(その頃は「ハリジャン」と名乗っていた)と出会う前に毎晩通ったジャズ喫茶でした。

 思い出はそれなりにあります。むしろボクにとってはフーテン時代よりも武蔵小金井北口に住んだ頃が一番行っていた頃だったかもしれません。「ほら貝」10周年記念の集いが西国分寺で行われた時、懐かしい顔に会いました。もちろん、部族の主要なメンバーも詩を読んだり、歌を歌ったりしたそのギャザリングで、いまは亡くなったと風のウワサで聞いたキラやそのつれあいのワコに再会しました(消息を知りたく思います)。
この国の純正ヒッピーだった「部族」が残した遺産だった「ほら貝」も2008年夏、こうして消えていきました。
(mixi内にボクが主宰する「部族」コミュ、「新宿風月堂」コミュがあります。参加して下さい!)


9/21池袋モンパルナス探訪ツアー・要項

2008-09-19 00:58:48 | まぼろしの街/ゆめの街
Atorie_west_1 次回のE.G.P.P.100に設定したテーマのために久しぶりに電脳・風月堂主催で「池袋モンパルナス探訪ツアー」を実施したいと思います。大正デモクラシーの自由な気風をひきずって昭和10年ごろをピークとして「池袋モンパルナス」と詩人小熊秀雄によって名付けられたアトリエ村が豊島区長崎、千早町、要町あたりに乱立しました。詩人、画家、モデルが入り交じって繰り広げた日中戦争そして太平洋戦争前夜のつかの間のアート・コミューンとでも言えそうなアトリエ村群だったのです。
 そして、その「池袋モンパルナス」を彩ったひとたちには靉光、松本竣介、寺田政明、吉井忠、熊谷守一、丸木位里、丸木俊、野見山暁治、長沢節、長谷川利行、佐伯祐三、古沢岩美、浜田知明などなど近代および現代絵画を飾る画家たちの名前は枚挙のいとまがないほどです。
 おおよそ70年という時間の経過により、それらのアトリエ村は一般住宅やマンションに建て替えられておりますが、それでもそこには往年の面影を感じさせる家があり、路地があり、数軒のアトリエがあります。
 資料館で知識を補充しながら、「池袋モンパルナス」の地霊を感じに行きたいと思います。自由参加で入場料などの費用は自前、台風の影響も危惧されますが、以下の要領でツアーを開催しますので、参加を希望なさるかたはメールで連絡先(携帯やメール)を明示してお申し込み下さい。
 また、mixiのE.G.P.P.100イベント欄や、コメントでもOKです。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 日時:2008年9月21日(日)13:00 池袋西口「東京芸術劇場」エスカレーター前(池袋ウエストゲート・パーク内)集合
 コース案:郷土資料館→江戸川乱歩邸→さくらが丘パルテノン→熊谷守一美術館→つつじが丘アトリエ村→アトリエ村資料館→交流会(?)
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 全行程ゆっくり歩いて2時間くらいと思います。ウロ覚えなので探しながら行きますのでよろしく!

 ※参加を表明なさった方には、メールなどの手段で当日までにボクの携帯番号等をお教えします。なお、雨天、台風(笑)決行することを前提とします(アトリエ村資料館は土日しか開いていないため)。



わが家の観月会

2008-09-15 22:51:04 | コラムなこむら返し
16night_moon はらっぱまつりの出店者会議に参加して、そのまま国立に流れアリのアパートで最終電車ちかくまで飲んでいたらすっかり中秋の名月をみあげるのを忘れていた。美しい月がみえたらしい(夜半に大雨が降ったが……)。
 もっとも、わが家の観月会は今日の満月に行うことに決めていた。そう、世に言う「中秋の名月」は必ずしも満月とはならない。旧暦の8月15日を十五夜と言い、その夜の月を中秋の名月と呼んですすきをそえておそなえをし、月を愛でる。もっとも十六夜(いざよい)という言葉もあるから今晩の満月に観月会をすることも一向に構わないだろうということにしておく。
 午後からおそなえの団子をつれあいと娘は作り出し、夕食は「秋の実定食」と書かれたメニューまで娘は用意していた。おそなえは例年のように窓のところにおそなえ台を作る。団子は三角につみあげて、イモなどの秋野菜もカゴに入れてそなえる。愛飲する地元の純米酒そして花瓶に差したすすきをならべてセッティングは終りだ。
 だが、あいにくの曇り空(夜半からまたしても雨)で満月の月も眺めることができなかったのだけれど……。で、以前に買っておいた月見の布巾が役にたったのだった。すすきもその図柄に描いてあるので、省略できたかもしれない。この月見の布巾は以前、「かぐや姫」の題材で詩を詠んだとき、唯一の小道具として使用したものだった(2007年秋)。



マリア忌/阿部薫30回忌

2008-09-09 00:28:17 | コラムなこむら返し
 昨日、偶然ある本を見つけた。こういう出会いは最近とみに少なくなっているからうれしかった。首都圏最大規模何十万冊といううたい文句の古書フェアでも、最近は探求本に巡り合うことは少ない。探している本は、検索してネットで取り寄せる、もしくはオークションで買うということが多くなっている。
 それでも、こうして古書店で巡り合うかのように出会うのはうれしいものだ。

 本の名前は『阿部薫覚書』??これは文遊社版の書物の元になったもので、阿部薫の『ラスト・デイト』(1989年)がCDとして発売されたのを記念して限定1,503部発行されたものの1冊である(編集編纂委員会/発行ランダムスケッチ)。
 それに、翌日の今日、9月9日は阿部薫の命日であり(ボクが名付けた「マリア忌」だ)、それも今年は丁度30回忌にあたる。カオル(フーテンネームはマリアで、これは「風月堂」でボクが名付けた)の霊よ、安らかにと言いたい。
 9日、阿部薫が残した音でも聞きながら静かに懐かしくマリアのことでも追悼することにしよう。

「エリック・ドルフィを父とし、ビリー・ホリディを母として俺は生まれた。」
「ドラッグでもプレイでも俺は一度だってハイになったことはない」
「ぼくはだれよりも早くなりたい。」

 鈴木いづみが、その自伝的な小説『ハートに火をつけて』でマリアのことを「ジュン」という名で表現したのがぼくには不思議でならない。


オラショと天主堂と切支丹(step86レポート)

2008-09-07 12:11:37 | コラムなこむら返し
Step86_title_1 やはり、地味なテーマにすぎたのかと後悔した。事前エントリーがほとんどいない状態で、どうなることかと思っていた。ところがフタをあけてみたら素晴らしいひと夜となった。
 キリスタンという切り口から見えてきたのは、この場に3人の九州出身者がいて、それぞれの思いの中で風土をかかえているということだったのかもしれない。九州出身者とは、ボク、前田屋さん、そして恋川春町さんである。
 毎回、ボクが設定したテーマに果敢に挑戦してくれるサイケ艶歌新宿前田屋さんは、今回も「隠れキリシタン」でポエトリーを書いてきた。それで彼が熊本出身であることがわかった。
 2年ぶりに遊びに来てくれた恋川春町さんは、そういえば小倉の生れだった。それで何回か聞いているポエトリーがキリシタンという切り口から、恋川さんの詩がアンチだとはいえ、キリスト教的であることがあらためて分かった。
 ボクはというとすでに長崎生れであることを表明している。しかし、かくも長崎がふかくキリスタンの歴史をその風土のうちに秘めたものだったと言うことに思い至ったのは、そんなに昔のことではない。まして、五島には50あまりの天主堂がひしめき、世界遺産暫定リストに入っているなんて事を知ったのは、つい最近の事だ。長崎には、古い江戸文化以来の伝統工芸品とともに、イエズス会の宣教師や、東印度会社が残した古いヨーロッパの文物などが入り交じってはるかな時代のロマンのようなものに誘ってくれる。
 そもそも、ボクが異常にコロニアル様式の建物や、西洋館にこころ惹かれるのも、ボクが生まれ育った場所が長崎市内の山手地区(かって外国人の居留地であった)に、峯伝いに行けるところにあったという事情もあるのかもしれない。活水学院のところからよく港の方へ降りる石畳は、幼いボクの記憶に刻み込まれているからである。言うまでもなく、そこにはオランダ坂があり、商館や住居に使われていた西洋館の瓦屋根が見える。少し歩けば、大浦天主堂(かって「フランス寺」と呼ばれた)のもろ手を差し伸べる聖母マリアのような教会堂へ行けるだろう。天主堂前の石段を昇ると大きな棕櫚の木が植わった前庭に出る。棕櫚の木と西洋館の取り合わせがとてつもなく好きなのは、その大浦天主堂の印象が大きいのだろう。
 ボクが「オラショ」と、隠れキリシタンの弾圧の歴史をテーマにしたポエトリーを詠んでいる時、もうひとりのエントリー者であった梓ゆいさんが立ち上がって舞っていた。

 夏のまつりから帰ったココナツのエレキギターでうたうトロピカルなうたもたっぷり聞けたし、参加者は少なくとも九州に吸収されたそんな充実したひと夜だったのだ。

 次回のE.G.P.P.100は10月3日に「池袋モンパルナス」をテーマにして開催します。池袋モンパルナス探訪ツアーは21日(日)に決行予定。



中折れ自民党

2008-09-01 23:34:14 | コラムなこむら返し
 さきほど(1日21時30分頃)福田首相が記者会見を開いて、突然の辞任を表明した。どうやら自民党の幹事長クラスも知らなかったサプライズらしいが、国民はそうは思わないだろう。安倍前首相の突然の辞任を受けての登板だったのに、自らも同じようなやめ方をした。自民党は絶対多数、保守王道政党だった頃には、一党独裁政権のように無理も通し、強行採決も多発し、政権にふんぞりかえっていたが、その分国会内の勢力が拮抗してくると、話し合って妥協しながら政権運営をしてゆくというスタイルは、苦手であるらしい。わがままが通らなければ、政権を投げ出すと言うお坊ちゃまのやりかたがこれで二人も続いた。
 これは、サプライズや電撃表明ではなく、自民党政権の「中折れ」体質を物語っている。そもそもが、それらの政治家が首相の座に登りつめようとも、血縁で譲渡された二代目、世襲議員だったということがある。勝手気まま、わがままに育ったお坊ちゃまの方が打たれ弱い。
 記者会見で最後に質問した記者が、「福田政権はこれまでひとごとのような政権と言われてきたのですが、今回の事もそのように言わざるをいえません」と言ったのにすこしムッとしたのか「わたしはキミと違って、客観的にものが見えるのだ」と言ったが、何を言いたいのかこれまで分からなかった福田さんのやっぱりなにを考えているのか分からないパーソナリティを現わしていたのかもしれない。

 それにしても政権を引き継いでわずか一年である。これといった業績も思い浮かばないのにその責任を全うせず任期途中で政権を投げ出すという事態は、「中折れ自民党」としか言い様がないだろう。