風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

E.G.P.P./step82/革命は愛だ!/5月革命とグラフィティ

2008-04-27 12:33:37 | イベント告知/予告/INFO
Mai_revolt_1●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step82
テーマ:「革命は愛だ!/5月革命とグラフィティ」
2008年5月2日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
(MC)bambi
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、ココナツ、美季マドカ(以上うた)、北村幸生(コメディ)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 学生街カルチェ・ラタンに催涙ガスが漂った1968年5月、木々の花が花開き、プラタナス並木の青葉がまぶしい季節。この最も美しい季節に街は騒然とし、街路の敷石ははがされ、山と積まれてあたかも100年前のパリ・コミューンが再現されたかのようだった。車は軒並み横倒しにされ、時に火が付けられ燃え盛っていた。
 道路はバリケード封鎖で寸断され、各地の工場で山猫ストライキが起こる。5月15日にはフランスの誇る国民車ルノー工場が自主管理労組によって占拠され無期限ストに突入する。

 「異義申し立て」「造反有理」がキーワードだったこの年、パリの街路や、学園内は無数の「壁面のアフォリズム」つまり「落書き(グラフィティ)」だが、政治的主張と解放を求める「ことば」に埋め尽くされる。

 「敷石をはがすと そこは砂丘だった」
 「想像力が権力を奪う!」
 「禁止することを禁止する。自由はひとつの禁止から始まる。他者の自由を犯すことの禁止である」
 「異義を申し立てる。だが、まずオマンコすることが先だ」
 「愛すれば愛するほど革命をしたくなり、革命をすればするほど愛したくなる」
 「Make LOVE,Not WAR !」
 「自由は与えられるものではない。それは奪取されるのだ」

 などなど。その警句のような、箴言のような壁の落書きは日本にも伝えられ、「文革」真っ盛りの人民中国の壁新聞の存在とともにボクらに、自立した表現、自律したジャーナリズムとは何かを考えさせた。
 それからである。学内、バリケード内そしてジャズ喫茶内の壁と言う壁の落書きが、一挙に哲学的、箴言的なアフォリズムの名言で彩られるようになったのは!

 今年は、その5月革命から40周年の年、グラフィティ(落書き)として書かれた「ことば」は、また詩句(ポエット)でもあったととらえ、愛に満ちたそのメッセージと40年前の「叛乱の季節」を考えます。
  「愛すれば愛するほど革命をしたくなり、革命をすればするほど愛したくなる!」
 そう、かって革命は愛だった!


 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs



「黒いオルフェ」の死/エメ・セゼール追悼

2008-04-25 00:01:03 | コラムなこむら返し
Aime_cesaire_photo アンドレ・ブルトンに、その言葉は「生まれ出ずる酸素のように美しい」と言わしめたネグリチュードの代表的な詩人だったエメ・セゼールが17日にフォール・ド・フランスで亡くなった(ブルトンの名付けるコピー文は、しばしば自らが提唱したシュールレアリズムのように難解だが、このセゼール評は泡から生まれた「黒いアフロディーテ」をイメージさせないだろうか?)。
 セゼールは心臓病のために入院中であった。享年94歳だった。

 セゼールの存在を最初に発見したのはセゼールの生まれたフランス領マルティニック島(小アンティル諸島)を1941年に偶然訪れた植民地本国人のアンドレ・ブルトンだった(娘のリボンを買いに立ち寄った小間物屋で、偶然『熱帯(トロピック)』という刊行されたばかりの雑誌を見たブルトンが、そのフランス語で書かれたセゼールの文章に目をとめたことによる。そして、その小間物屋は、セゼールとともに『熱帯』の中心人物だったルネ・メニルの妹の店だった)。

 『熱帯(トロピック)』は、フランス領マルティニック島の首府フォール・ド・フランスでネグリチュード運動のために刊行された発行部数500部の同人誌だった。とはいえ、検閲を逃れるためもあってシュールレアリズム的な表現が採用され、小間物屋で偶然手にした『熱帯』誌に掲載されていたセゼールの『帰郷ノート』のダイジェストを読んだブルトンは、そこにロートレアモンの似姿を認め、20世紀最高のフランス語の使い手と絶賛する。ブルトンは翌日、セゼール本人に会い、そしてまたセゼール自身の黒人的な美しさとともに、素晴らしい日々を送る。カリブに浮かぶ悲惨な歴史を持つ、美しいマルティニック島で時間を忘れたような数日間を送るのだ(実は、ブルトンはニューヨークへ向かう途中で、客船が強制寄港したフォール・ド・フランスで、足止めをくっていた)。

 それは、日本語で読んでも瑞々しい美しい散文詩だ。

  「暁の果てに、脆い入江から芽生える、腹を空かしたアンティル諸島、疱瘡であばただらけのアンティル諸島、アルコールに爆砕され、この湾の泥の中に座礁し、この不吉に座礁した町の埃の中に座礁したアンティル諸島……暁の果てに、雄々しき渇きと頑な願望、いまや私は友愛のみずみずしいオアシスから切り離されてしまった/この内気な芥子粒は硬い刺を逆立て/このあまりに確固とした水平線は牢番のように身震いする。/お前の最後の勝利だ、執拗な<裏切り>の大烏よ。……わがネグリチュードは石ではない、白日の喧噪に投げつけられる耳の聞こえぬ石ではない/わがネグリチュードは大地の死んだ目の澱み水の上翳ではない/わがネグリチュードは鐘楼でも伽藍でもない/それは地の赤い肉に根を下ろす/それは天の熱い肉に根を下ろす……」(砂野幸稔・訳)

 見い出したのはブルトンだとしても、セゼールの存在を世に知らしめたのは、だれあろうサルトルである。サルトルはネグリチュード(「黒人性」とか言った意味になる)の提唱者であるサンゴールが編者となった『ニグロ・マダガスカル新詞華集』(1948年)の序文として書かれ、のちに『シチュアシオン3』に収録された「黒いオルフェ」という一文で、震えるような瑞々しい筆致で、サンゴールやセゼールを紹介している。おそらくネグリチュードを真正面からとらえた白人圏からのはじめての言葉だった(ボクは1965年刊行の集英社版世界文学全集「サルトル/ニザン」で10代の頃読んだ。当時、意味はさっぱりわからなかったが、その高揚感だけは伝わってきた。カリブの海と熱い風に吹かれたようだった)。

 そして、ネグリチュードは、政治家へ転身したセゼールへの批判とともに、フランツ・ファノンを経てその批判的継承である「クレオール」を準備した。そこまで言及するのは、この一文だけでは到底無理だ。この一文は、エメ・セゼールへの追悼として書いた。ディアスポラな先駆的な(散文詩)詩人だった。セゼールの政治家としての側面は、さて置いておくとしても……。
 (エメ・セゼールとネグリチュード、そしてその批判的継承としてのクレオールなどのポスト・コロニアルの新しい思想に関しては、語らねばならないことはたくさんあるが、それはまたの機会にしよう)

 (付記)サルトルの素晴らしいネグリチュード讃辞的論考「黒いオルフェ」は、フランスの映画監督マルセル・カイネの『黒いオルフェ』("Orfeu Negro"1959年フランス・ブラジル・イタリア合作。1960年日本公開)への伏線となった。そして、音楽をアントニオ・カルロス・ジョビンが担当したこの映画はリオのカーニバルの日本への初紹介となり、ボサノバブームのきっかけとなる。

(写真)若かりし頃のネグリチュードの詩人エメ・セゼール。


人に酔った「アースディ」

2008-04-22 00:35:33 | コラムなこむら返し
Earthday_08_4 20日、日曜日。代々木公園で土曜日(19日)から開催されている「アースディ東京2008」に行く。70年代に提案された「アースディ」は、国連では3月21日、アメリカで提案されたのが、提案された4月22日(本日!)を「地球の日(アースディ)」としている。デニス・ヘイズが代表のように言われている「アースディ」は、こちらの方である。アースディは、日本でもかなり早くから環境やエコロジーに関心のある個人や、市民団体で提案されて開催されていた。それは、当時の世相を反映してとても小さな規模だった。地域や反原発の集会からみの顔の見えるギャザリングだった。

 原宿の駅から人があふれていた。そして、会場の代々木公園野外ステージ付近では立錐の余地がないほど人があふれている。公園通りにまでまたぎこすほど出店ブースはあり、その間を数万人の人間が右往左往してあふれかえり、トイレは数十メートルの行列、楽しいはずのスローフードやオーガニック料理の食べ物を買うにも長い行列で、少しもスローではなくイライラが募ってくる。さらに、辿り着いた出店先でもおそらくボランティアスタッフのためにデポジットのルールが徹底しておらず、マイカップ持参なのにデポジット代金を上乗せされそうになったり、マイカップ(マグカップ)なのに1杯ぶんと同じ生ビール代金を取られそうになったり、ほとんど環境を考える「フェスティバル」としては、もはや「適正規模」を越えていると思われた(フード関係「アースディ・キッチン」のそのすべてがプロレベルだとはいえ?それも、おかしいと思うが……?わずか23店舗というのは、いかにも少なすぎる!)。
 おそらく、19日、20日の二日間でのべ入場者十万人に達するような規模だったと思うが、開催規模の容量を越えてしまっている。NGOや、個人ブースにまじって企業ブースがかなり多く、それぞれの活動展示等ゆっくり見ているヒマもない。おそらく、アピールする方もそうだったのではないだろうか?
 環境問題や、エコロジーをテーマとするギャザリングで「大きいことはいいことだ」と言う発想は厳禁である。むしろ、自殺行為だと思われる。環境を考える楽しいはずのギャザリングが、まるで人間と言う我々自身のレミング状況を呪うような集まりになるのでは逆効果ではないだろうか?

 それでも手作りのような楽しい空間はあるもので、メイン会場の道を隔てた木立の中ではサーカスのような楽しい即興の催しが行われていた。座り込んだ子どもたちの前で、確か渋さシラズの管楽器にダンサーがからんで、奇妙なパフォーマンスが繰り広げられたのだ。で、この中にビアンカがいたのかどうか確認できなかったが、ヒゲモジャのセブンが周りを囲んでいたから、おそらくいたのだろう。
 ところで、女性ダンサーが傘鉾のようなものをかぶって練り歩いていたが、どうも傘鉾には異様な感慨をボクは抱いてしまうのだ。ま、それは別の所で語るとしてここで出来た輪はせいぜい30名ほどで、メイン会場からこちらへ移動したボクら(ファミリィで遊びに行ったのです)はホッとしたものだった。

 いや、もはや郊外暮らしで都心に出てくることもすっかり少なくなったボクとその家族は、ひとの多さにすっかり面喰らってしまい、人間の多さに酔ってしまったのだった。

(写真3)通りを隔てた「おはなしの森」のスペースは、メイン会場と打って変わって、どこがステージなのか分からない拡散した空間なのだが、運が良ければ出会えるといった木立の中の(ここも代々木公園)ハプニング性に満ちていた。


傾(かぶ)く/倒錯の芸能(2)

2008-04-14 00:08:34 | アート・文化
Shirabyousi_1 現在の京都、四条河原町の橋のたもとにある南座には阿国の像がたち、歌舞伎発祥の地という碑がたっている。最近発見された『洛中洛外図屏風絵』(現在4点ある)には、その第3扇に四条河原町の粗末な小屋掛けの舞台で女歌舞伎を興行しているさまが描かれている。竹で組んだ柱に筵で葺いた屋根といった粗末なものだが、それでもそのような常打ち小屋を洛中にかかげただけでもたいしたものである。
 そして、このような自立する女性の職能は、風俗撹乱の疑いで時の支配者に禁止されてしまう。異(性)装で「傾く(かぶく)」アンドロギュヌスの姿は、為政者に相当な衝撃を与えたに違いない。
 応仁の乱の不穏な空気が流れる中、大平天国を謳歌するかのような今日で言えば「宝塚」のようなスタイルのミュージカルが中世の京都の町中に登場したのだ。その驚きといったら、いかほどのものだったろうか?
 鬼や天狗が、暗い闇の中で跳躍跋扈していた世の中でのできごとである。異星人でも見るような驚きだったと思われる。ただ、この頃は儒教的な考え方も、ジェンダーへの押しつけ(「らしさ」という教育も価値観)もなく、男女はその意味では野生動物のように、野良犬のように自由だったとも言えそうだ。

 そんな世の中での倒錯の芸能は(娘が若者を、男を演じ遊女を買いにゆくといった)風俗びん乱し男女の違いを超えるためか、町衆だけでなく遊女そのものに受け、追従者を輩出した。つまり、その阿国のスタイルは中世の都たる京都の洛中に、職能集団として自立した女性たちの集団と、既に経済的には自立に近かったが、管理売春にしかすぎなかった遊女たちに、いわば自立的な表現を与えた。もしかしたら、このようなインパクトがなかったならば、「京舞」のような独自な舞踊は生まれなかったかも知れない。おそらく、遊女と芸能が結びついて「妓女」という舞妓の原型のようなスタイルはこうして生まれたのであろうから……。

 先に触れた『洛中洛外図屏風絵』には、貴族の暮らしぶりだけでなく、名もない民衆の職能や運送業などが同時に記録されているが、注目すべきは遊興や娯楽として「女歌舞伎」以外にも、狂言、大道芸、軽業、相撲、神事としての競馬、ありとあらゆるところで繰り広げられている念仏踊りがある。念仏踊りは時宗の踊り念仏が、大衆化したものだが、何の救いもない民衆にこの頃、大ブームとなって迎えられる。
 それはあたかもペストが欧州を席巻した中世に、全ヨーロッパ中の民衆にブームとして迎えられた「死の舞踏」に似ているかも知れない。ただ、メメント・モリ(死を想え!)を心底叩き込み、死神の圧倒的な勝利、死の前では国王も乞食も平等である絶対的な価値観に基づいた「死の舞踏」に比べ、大衆化された「念仏踊り」は、鉦や太鼓を打ちならし娯楽的な色彩をもった舞踊である。
 「念仏踊り」は、盂蘭盆会と結びつき今日の「盆踊り」として、各地に残るが死者を迎え、死者と共に踊っているのだなどとは誰れも考えもしない。
 ある意味、今日まで残る風習や、踊り、芸能は戦乱がおさまりつつあった中世のこの頃(慶長年間。西暦1600年初め頃)に形作られたとは言えるかも知れない。応仁の乱で途絶えていた祇園祭もこの頃、復活し『洛中洛外図屏風絵』には、あでやかなその祇園祭の様子が艶やかに描かれている。

(了)

(写真)白拍子の衣裳。烏帽子に水干、太刀を帯びた白拍子の姿は、男の姿であり、異性装である。



傾(かぶ)く/倒錯の芸能(1)

2008-04-13 02:54:29 | アート・文化
Dance_orissy インドへ行った時に強烈に感じたことがある。それは、芸能はそもそもは神への奉納として存在して、民衆の娯楽として供されるのは、おそらく副次的だったのではないかと言う思いである。
 音楽、舞踏、演劇、人形劇、影絵などそのジャンルは幅広いし、今日では劇場でも公演され、ホテルでもショーとして成り立っていたとしても、やはりその本来の有り様は寺院の祭礼奉納から始まったのではないかと言う強烈な印象である。その上で、たとえばオリッシーダンスなどのように、あるいはカタカリなどの演劇的な所作の中で、ダンサーや俳優はいつしか神の依代となって、神そのものが舞い、所作していると感じるようになる(オリッシーには実際に神の所作がポーズとして振り付けの中にある)。神がダンサーや俳優の肉体をもった形で、創世神話や神話(たとえば『ラーマー・ヤーナ』)のエピソードを再現していると感じる不思議な錯覚だ。

 今日、ダンサーはプロや舞踏団のメンバーだが、古代、奉納のダンスはヒンドゥ寺院で巡礼者を相手にしていた娼婦たちによって奉納されていたのではないかと言う説を聞いたことがある。だとすれば、これは我が国の中世に存在したらしい「白拍子」に極めて近いのではないかと思える。我が国でも、門前に開けた宿場や、市で歴史上最古の職業、もしくはサービス業と言われている売春が執り行なわれ、乞食とともに繁昌したことと思われる。「白拍子」は、歌舞音曲を巡礼者に提供するとともに「春」もひさいだ。市というのはセックスも含めて自由交換の場だったが(楽市楽座)、同時に娯楽として娼婦と河原乞食(俳優)の表現の場をも生んだらしい。それに、神社仏閣を訪ねる巡礼は中世や江戸時代における最大の旅であり、庶民にとってはそれはグランドツアーだっただろう。いわば、巡礼者にとってはハレ、非日常の感覚の中にいることだ。
 神仏のフトコロにいることと言ってもよいかもしれない。

 さらに、「白拍子」や娼婦は我が国で最初の女性による職能集団をつくったという指摘もある(網野善彦など)。歌舞伎の祖と言われている「出雲の阿国」が、まさにそのような「職能集団」のオルガナイザーだったのではないだろうか?
 それは、よく分かってはいないが、猿(申)楽や、念仏踊り、巫女舞い(神楽)のようなものから派生したものと考えられているようだ。
 阿国は出雲国松江の鍛冶師の娘で、出雲大社の巫女となり名古屋山三郎の手ほどきによって出雲大社の勧進興行として、1600年代の初め頃(慶長年間)に北野天満宮や四条河原町などで興行を打ち都(京都)で大評判となった。

(つづく)



さっちゃんらに不当判決!

2008-04-12 00:39:54 | コラムなこむら返し
 まだ新聞には掲載されていないようであるが、アムネスティの「良心の囚人」にも選ばれたさっちゃんら立川自衛隊監視テント村のメンバー三人に、11日、最高裁は「有罪」(無罪を主張しての上告を棄却)という不当な判決を下した(今井功裁判長。この名前は覚えておいて次の選挙では×を書こう)。

 司法の最高機関であるはずの最高裁は、最低栽に成り下がった。ビラという表現の自由で認められているはずの主張、それが書かれたビラを配ることが、住民への迷惑行為であるとこの国の司法の最高機関は判断を下したのだ。われらが、さっちゃんが犯罪者と後ろ指をさされるのだ。さっちゃんは断じて犯罪者ではない。自衛隊の官舎へ自衛隊のイラク派遣(PKO活動)反対のビラを配ることは、反戦平和を願うことについては確信しても、決して犯罪者と指弾されるべきものではない。
 そもそもこの立川反戦ビラ配り裁判は、公安が裏で糸をひいていたらしいとか、さまざまな反戦運動潰し、運動弾圧の要素をもっていた。
 それが、他の反戦運動への見せしめ的に行われたのは、勾留期間が75日という長期に及んだことからも明らかである。
 知らないことを知ることができる(判断は自分が下せばよい)ビラは、少なくともピザ屋のチラシや寿司屋のポスティングされたチラシよりは、よっぽど有意義である。だとしても、ポスティングが犯罪だとすれば、政治団体や市民グループはもとより、ポスティングの業者も萎縮してしまうかも知れない。

 ビラというのは、それ自体で立派なメディアである。そのメディアを指弾することは、思想弾圧と言えるだろう。自由にもの言いの出来ない世の中へ、また一歩近付いたということなのだろうか?
 とても残念なことである。


風雨にかすんだ「花祭り」

2008-04-09 22:33:58 | コラムなこむら返し
Hanamido_05 8日は「花祭り」だったが、東京は、朝から暴風雨に近い嵐のような風雨に見舞われ、せっかくのサクラもすっかり散ってしまった。さらに、この日は「花祭り」だったのだが、寺へたずねあるいて甘茶をいただくという余裕がボクなどもすっかり失せてしまった。散々な天候の「花祭り」だったと言うべきだろう。

 お釈迦さまの誕生祭であるこの時季の「花祭り」は、大好きな年中行事のひとつなのでとても残念だった。という訳で今年の花御堂の写真はない。せめて、以前のものでも見ていただくしかない。

(写真)05年奥秩父で撮影した「山の花祭り」の花御堂。子どもたちが主役の無形文化財の花祭りでした。



住民手作りの「サクラまつり」

2008-04-07 23:10:05 | コラムなこむら返し
Sakura_apr_5_1 東京では「花見」のおそらく最後のチャンスとなった5日、6日の土日??各地でもあったのだろうが、わが家の近所でも3ケ所で「サクラまつり」が繰り広げられた。多くは、商工会議所が音頭をとったり、商店街の発案で行われているところが多いのだろうが、少し離れたところでは、住宅街の中をサクラ並木がトンネルをつくっている「遊歩道」で、近所の住民による手作りの「サクラまつり」を開催しているところがある。

 散歩をかねて行ってみた。平場の舞台では、ちょうどオヤジバンドが懐かしのベンチャーズメロディを奏でていた。音にふくらみがあって、なかなかのものである。かってのエレキブームに少年の頃遭遇した者は、こうして齢を重ねてもテケテケテケと「ウォーク・ドント・ラン」、「パイプライン」、「ダイヤモンド・ヘッド」や「10番街の殺人」「キャラバン」などを賢明にコピーしながら研鑽を積み重ね4人組の基本編成で一緒に年を重ねていったのだろう。大量のビールをともに飲み干し、笑いあい、家族ぐるみのつきあいをし、メンバーの死をかなしみ、いたみそしてビール樽に負けないくらいのメタボな腹をかかえながら……。
 格安の缶ビールを飲みながらその音を聞きながら、サクラを眺めているとそんな物語がわきあがってきてしまうのである。

 曲がスプートニクスの「霧のカレリア」に変わった頃にすこし風がでてきたのか、並木のサクラは一斉に花びらを舞わせ、サクラ吹雪の様相となっていた。
 今季、ボクが一番サクラ(ソメイヨシノ)を堪能したのはこの場所かも知れなかった。


江戸のアンドロギュヌス/異装と白浪もの

2008-04-04 00:00:15 | アート・文化
Nezumibenten_kozo ねずみ小僧は1月のE.G.P.P.のテーマだったが、その時、高くて手に入らなかった(ネットでたしか、数千円の値段がついていた)河竹黙阿弥の世話物狂言(歌舞伎)脚本『鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた)』が最近、岩波文庫でリクエスト復刊され600円で買えるようになりました。古書値もきっと下がるでしょう。

 で、この時はうまく視野に入らなかったのですが、このような義賊ものは歌舞伎の演目では「白浪もの」と言われ、その異装と両性具有性にひとつの特徴がありそうです。弁天小僧を筆頭にしたセクシュアリティの混乱としてのこのような義賊ものの性の撹乱は、歌舞伎それ自体が男優が女を演じると言うホモソーシャルな約束事の上に成り立っている以上、両性具有的なホモ・セクシュアリティへいざなうと思われます。
 なぜ、義賊(白浪)ものがこのような、ホモ・セクシュアリティを内在するのかを考えれば、おそらく歌舞伎の発祥や、出雲の阿国の異装といったものまでたどらなければならないでしょう。
 ともかく、若衆があでやかな女物の着物をまとってシナをつくり往来を練り歩き、悪場所を梯子するといった風俗が江戸時代にはあり、それを「カブく」と称していたらしいのです。
 これは、心情としては「昭和元禄」と言われた60年代後半に輩出したアーバン・トライバル(「賊」ならぬ「族」ですが)な連中が、ピーコック・ファッションで決めたり、汚らしい乞食ルックでいたりすることに通じるものがあると思うのです。ほとんど、女装に近い連中もいたのですから……。

 しかし、この国では神話時代から異装や両性具有性は、存在します。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、そもそもクマソを退治した時、童子の装いで(まだ「日本童男(ヤマトヲグナ)」という名である)クマソの首長タケルの名をもらうのである。そして、その時、ヤマトタケルノミコトは女装して女人の中にまじっている。クマソの首長タケルはその中から容姿に優れたものとして、ヤマトタケルノミコトを選び「手を携えて、席を同(ともに)する」のです。

 それは策略だとしても、このような征伐すべき少数民族(夷)の首長との結婚といった記述は、何をあらわしているのでしょう?
 この国の平定、支配のパターンは敵のせん滅ではなく、同化政策にもとづくという説があります。血の混合によって、同化しアイディンティティを希薄化してしまうというものです。その過程の中で、独自の文化、独自の言語を奪い去ってしまうのです。これは、アイヌ民族へのこれまでの同化政策を考えてみれば納得がゆく説明ではあります(善悪の判断は今は別にして)。

 この国の英雄伝説には、たとえば義経伝説もそうだが、女装や異装が不思議なくらいつきまといます。これは、おそらく宮中の儀式にまで影響を与えているものと思われます。
 いわゆる古典文学も、このような視点からあらたなスポットを当てると、違った側面が見えてくるような気がします。 
 そう言えば、本年は『源氏物語』成立千年の企画があるようです。あらたな読み直しが出てくることを期待します。



さあ、心機三転!(本日のニュースからセレクト)

2008-04-01 22:49:51 | トリビアな日々
 4月1日は、新年度のはじまりの日でもあり、入社式、入省式等があいついだと新聞にあった。朝日新聞や読売新聞等は、前日から使用活字が大きくなって一見読み易くなったが、スカスカと白っぽく感じるのは気のせいだろうか?
 注目すべき記事は以下の3点だろう。

●東京都は、1日新規採用の職員1.150人を対象に入都式を行った。この中で、つい最近、経営難に陥った新銀行東京に対して400億円の追加出資を勝ち取った石原慎太郎東京都知事は、このように挨拶した。
「銀行を勝手に立ち上げて、民間に経営をまかせたらとんでもないことになってしまいました。今回から私が頭取を兼任しますので、御安心ください」。さすがに、都庁に新人として入都する職員からも、驚きの声が漏れた。

●イージス艦の漁船衝突事故や、前事務次官の逮捕劇などきびしい批判にさらされている防衛省は、新規採用者120名の入省式を1日とりおこない、その中で石破防衛相は、省に昇格した1年を振り返り、「今日一日、自分が国家のためになにをしたか、自己保身、責任転嫁はなかったか? きびしい世間の逆風の中で、今後は災害救助、災害復旧に省全体のありようを特定し、本日1日から「平和省」と改名する」と発言し、周りを占める高官、政府関係者、来賓から拍手喝采で受け入れられた。

●出版界では昨年来、新書で出版された「品格」シリーズが売れに売れている。現在、『国家の品格』『女性の品格』『親の品格』がそれぞれロングセラーを続けている。その中に、1日あらたな品格シリーズが出版され、たった1日にして数十万部が売れたとのこと。その新書の名前は『子どもの品格』。5月5日の「子どもの日」へ向かって強力なキャンペーンセールを展開するようである。