風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

7/3 E.G.P.P.100/step96 光速疾走者の悲哀、または精神のリレー

2009-06-29 23:59:52 | イベント告知/予告/INFO
●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step96
テーマ:「光速疾走者の悲哀、または精神のリレー??生誕100年埴谷雄高」

2009年7月3日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,000円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN、梓ゆい(新MC)
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、梓ゆい(ポエッツ)、ココナツ(うた)、ガンジー(Sax)、サリー333(舞踏)、bambi(スピリチャル・トーク)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 「埴谷雄高という名は、戦後、わたしが日本の同時代文学などみむきもしなかったころから、一種の畏怖の表情で語りつたえられた伝説的存在であった。」(吉本隆明)

 1960年代の終り頃、「新宿風月堂」でボクはその名を知った。その名を言うものは、吉本が書いたのと同じように曰く言いがたいものを指し示す時に、ひとがみせる独特の表情をしてみせた。ボクは、その名前を家出不良少年のひとりであったケイスケに吹き込まれた。ボクは現代詩や日本文学には全くの興味がもてなかったので、聞き流していた。が、ある日、『不合理ゆえに吾信ず』という横長変形サイズの真っ黒な本を手にしてしまった。

 ボクはその奇妙な毒と反語にみちたアフォリズムの虜となってしまい、やがて埴谷雄高(はにやゆたか)という永久革命論者のこの世界の「存在」をひっくりかえさずには終わらない「妄想実験」の被験者のような気分になるまで洗脳されてしまったのだった。

 今年が生誕100年にあたる1909年うまれの文学者は太宰治以外にも数名おり、その中でも愛憎混じる複雑な気分を埴谷雄高に対しては持ってしまう。

 嗚呼、ボクの親不孝は埴谷雄高に魅せられたことによって倍加した。その不健康なニヒリズム、単独者の光速疾走する思想から抜け出すまでに数年の時間が必要だった。ヒリヒリするような痛みをともないながら、その「存在」へのストーカー行為へ鉄槌を下そう!

 未決囚の独房で面壁してサトリを得るダルマさながらに、埴谷雄高は『死霊』という未刊の長編小説を残した。半生をかけて書きついだその小説は、埴谷雄高が編み出した大いなる(マハー)経典(スートラ)に思える。こんなことは、誰も言ったことがないだろうが、それはインド神話に匹敵する個人がうみだした大いなる神話だ。
 
 このイベントは、自由エントリーのできるオープン・マイク形式で開催しております! 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

mii内主催コミュ「E.G.P.P.100」→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706


マイケル病に死す!

2009-06-26 14:18:58 | コラムなこむら返し
Michael_j マイケル・ジャクソンが搬送先のロスのUCLA付属病院で日本時間6時30分頃死亡したことが伝えられた(享年50歳)。先般、ロンドンから始まる復活コンサートを自ら発表して、全世界のマイケルファンを狂喜させたばかりだったが、その突然の死去ニュースは失望と悲嘆のドン底にファンをたたきつけたことだろう。死亡原因はまだ詳細が発表されていないようだが、マイケルはアルファー1型アンチトリプシン欠乏症という遺伝性の難病をかかえておりこれまでも例の児童への性的虐待容疑での裁判へもその病気を理由にたびたび出廷しなかった。
 この病は血液中にタンパク質分解酵素が流れ出して、正常なタンパク質も分解するのを防ぐ役割をもっていて(肝臓で生成する)、肝臓機能が低下し、肺気腫を患うマイケルは深刻な状態にあったらしい。マイケルは40歳代からこの病気を発症していた(左目は95%の視力が失われていたのもその合併症だったのかもしれない)。

 天才的なエンターティナー、幼い頃から私たちを楽しませてくれた「キング・オブ・ポップ」であったが、残念なことである。ジャクソン・ファイブ時代の11歳でデビューしたマイケルのあどけなく、驚異的な姿が忘れられない。ミュージックビデオ『スリラー』を探して見ることにしよう。マイケル・ジャクソンを追悼するためにも……。

 …………………………………
 なお今晩(26日)19時からフジTV系列で、「マイケル・ジャクソンはなぜ死んだのか?」という2時間の緊急特別番組が組まれたようだ。あまりこんな宣伝はしたくないが、ボクも見ると思う。



追悼と慰霊の日々/ハンセン病・沖縄

2009-06-23 00:18:30 | コラムなこむら返し
 昨日、6月22日は今年はじめて行われた「ハンセン病患者/名誉回復と追悼の日」だった。政府・厚生労働省が主催した追悼集会には多くの元患者さん、関係者が集い、「業病」と差別され、罪もないのに療養所に隔離され、脱走や反抗を試みて「重監房」などで、亡くなったおおよそ2万5千人の無念の死を弔った。
 この集いは今年4月から施行された「ハンセン病問題基本法」にともなったも慰霊の集いだったのだろう。なぜなら「基本法」には元患者さんたちの、社会復帰や名誉回復を国に義務付けたからである。とはいえ、全国で13ケ所の療養所の入所者は2,600人を切り(2,568人とも)、その平均年齢は80歳を超えた。残された時間はあまりにも少ないのではないだろうか?
 いみじくも2009年の今年は、明治時代に施行され1世紀も生き続けた法律「癩(らい)予防ニ関スル件」(1909年。旧「癩予防法」は1931年制定)から丁度100年めであった。

 翌23日の今日は、「沖縄慰霊の日」である。戦後64年目の悲惨だった「沖縄戦」の犠牲となったひとびとの慰霊を弔う。「平和のいしじ(礎)」(糸満市平和祈念公園)の前で追悼集会が行われる。


夏至・父の日・キャンドルナイト

2009-06-22 01:56:28 | コラムなこむら返し
 「父の日」は娘が缶ビールを買ってくれる。もう、そう決めているので、もらう方もあげる方も面倒臭くない。ましてや21日は「夏至」で、つまりキャンドルナイトの日ともぶつかった。当然、夕食時にキャンドルだけの明かりの下で食事をした時に、ありがたくいただいたビールを飲む。
 壁に大きな影ができて、キャンドルの炎(ほのむら)がゆらめいて輝く。電気を消してその下で、食事をするとキャンプの時と同じこの地球(ほし)の深い原始を感じることができる。ボクらが「地球を救う」のではなく、その内フトコロにいだかれに行けばいいのだ。
 
 ほのむらを 見つめて過ごす 父の日の ビール片手に キャンドルナイト

 なつかしき 闇を忘れて 暮らしゆく 燃えつきるまでの 瑠璃色の惑星(ほし)


すぐる「桜桃忌」/太宰治というペンネーム

2009-06-20 14:42:05 | コラムなこむら返し
Dazai_phot それはボクの「新発見」だと思っていた。だから先日のE.G.P.P.で詠んだポエトリー「ダザイ断罪!」の冒頭部分に書いたのだ。Youtubeでの記録では聞きづらいかもしれないが、ボクのポエトリーの冒頭部分はこうだ。

 罪(つみ)に 堕(お)ちると 書いて
 堕罪(ダザイ)と 読み
 修治の 一文字で ダザイオサム
 そう 卒直に 名乗ればよかった
 恥の多い 人生も そうすれば ひとは許してくれたかも知れない

 音が ダダイズムに似ていると
 ダダさんこと 中原中也さんには 気付いて欲しかった
 わたしを 「なんだ、おめえは!」と 相手にしなかった
 ダダイストの中也さんに……
 この名前は 苦し紛れに
 思いつきで 付けたと思われています
 たしかに そう広言もしてきました

 手元にあった 「万葉集」の開いたページ
 そこにあった 太宰の師(そち) つまり
 太宰府の長官の 数首
 「万葉集」巻の第三
 それは 大伴旅人(おおとものたびと)の うたでした
 (以下略)

 大伴旅人という「万葉集」に妻を思い、酒をたたえる秀歌を書いた太宰府の長官が、ペンネームのヒントになったということは、太宰治と親交のあった元編集者の野原一夫の本で知ったが(女優関千恵子のインタビューに自ら答えた記事による)、「堕罪(ダザイ)」も、その音が「ダダイズム」に似ているということは、ボクのオリジナルの発見だと思っていた。だが、「桜桃忌」の19日、「Book Off」で手に入れた岩波新書『太宰治』(細谷博・著)を読んでいたらボクの思いつかなかったドイツ語の「ダ・ザイン(Da sein/現存在)」などペンネームの由来を明かす諸説の中にそれらはすでにあるそうだ。やはり、同じようなひらめきは誰にでもあるものなのだ。

 …………………………
グッドバイ! と
呟いてみる
桜桃忌

百年が
過ぎてもすぐる
桜桃忌
(生誕100年、死後61年の2009年6月に)




「劇画」と手塚「マンガ」(追記)

2009-06-18 18:38:16 | アート・文化
Masaaki_hardboiled_magazine 先の朝日新聞の9日付けの記事は以下のように続く。いかにいまだ「劇画」というものが、誤解に満ちた認識を持たれたものかと言うことを物語ると思うので、引用しておく。

 「劇画はそもそも、物語を主軸とする大人向けの作品として誕生したが、子ども向けのマンガとの対比で『悪』とみられがちだったからだ。」(6/9「朝日新聞」小川雪記者)

 「劇画」を悪書扱いしたのは、昭和34年当時のPTAそして識者(知識人)さらに朝日新聞をはじめとするマスコミである。ターゲットは殺し屋を主人公とした「劇画」を描いていた佐藤まさあきなどであったが、佐藤まさあきは大薮春彦などのハードボイル小説やフィルムノアール、日活映画などに影響を受けていた。昭和30年代、映画や大衆小説には愚連隊やギャングはもちろん、殺し屋、ブームになった拳銃コレクションなどが巷にあふれていた。いまなら改造拳銃になりそうな位精巧なモデルガンなどが、上野アメ横までいかなくとも売られていた。
 このような時代に「劇画」は、貸本文化を超えるほどの人気と認知力を獲得したゆえにスケープゴートにされてしまった。この頃、良識ある「児童マンガ」の砦の中に避難していた「ときわ荘」グループは知らぬ存ぜぬを決め込んで冷ややかに見ていた。

 それに貸本屋さんに群れて「劇画誌」を漁っていたのはボクら子ども世代だった。「劇画」は当時20歳代の作者に対する読者のボクらは10代だった。「大人」たちはむしろ山手樹一郎などの大衆小説を借りて読んでいたようである(中里介山『大菩薩峠』は全巻あったのか棚の多くを占めていた)。貸本屋さんにはいわゆる「純文学」はなかったと思う。太宰治も芥川龍之介も置いてなかったと思う。そこにあふれていたのは、大衆文学、俗悪文化、庶民のエンターティメントをになう大衆文化だった。
 だから「子ども」が読むものが「(児童・少年)マンガ」で、大人向けが「劇画」という構図は根本的に間違っている。

 「劇画」はそもそも俗悪なるもの、傍流のエネルギーだった。正当に評価されず、のけ者にされたもののアウトサイダーの文化だった。だからこそ、「劇画」は関西と言う土壌で生まれ、国分寺と言う東京のはしっこの武蔵野の大地で育った(上京した「劇画工房」の「ときわ荘」にあたるアパートは椎名町ではなく国分寺にあった)。

 「劇画」は焼跡闇市のような雑多なエネルギーにあふれていたが、60年代の高度成長期に青林堂(ここも「三洋社」という名で貸本出版をし、早くから白土三平を看板作家にしていた。代表作はボクらにショックを与えた『忍者武芸帖』だろう)の『ガロ』に結集したり、一部人気作家はマガジン、サンデーなどの少年週刊誌へ進出したが、それは一部の作家でそのほとんどは凋落するか「(児童・少年)マンガ」に吸収された(バロン吉元やみやわき心太郎、真崎守など)。辰巳ヨシヒロ、桜井昌一の兄弟はマンガ出版に一時は転身していた。

 水木しげるは「劇画」と「(児童・少年)マンガ」との架橋を果たした点で、特筆すべきだし、「劇画」表現をさらに深めた「ゴルゴ13」のさいとうたかを、白土三平の実質的なゴーストライターだった小島剛夕(「子連れ狼」)、時代劇で圧倒的な画力を発揮した平田弘史、独特のロマン、ポエジーで作品世界を構築した永島慎二などなど枚挙にいとまがないほどであるが、やはり「文学」にまさるとも劣らないほどに表現を深化させたつげ義春の名は落とすことができない。つげ義春において「劇画」表現は「芸術」と言えるほどの内容と手法を獲得したのだった。

 その道筋は手塚「マンガ」の延長にあった訳ではなく辰巳ヨシヒロが命名した貸本短編劇画誌の延長、俗悪で猥雑な大衆文化のひとつである「劇画」の道筋の中で到達したものなのである。

(付記の付記)ボクは来年か、この数年の内にこの「手塚治虫文化賞」か文化庁主催の「メディア芸術祭賞」がつげ義春に与えられるであろうことを期待も込めて予言しておく(おそらくちくま文庫版の「全集」が対象となろう)。
 それから、文中でふれなかったが今回第13回「手塚治虫文化賞」の「新生賞」を受賞した丸尾末広は『ガロ』出身の作家であり、言うまでもなくその意欲的な受賞作『パノラマ島綺譚』(江戸川乱歩原作)は、「劇画」表現であることを指摘しておく。

(写真)佐藤まさあき個人編集マガジン『佐藤まさあき/ハードボイルドマガジン』第15号。「黒い傷痕の男」第5部掲載。昭和37年(1962年)の1月に発行(三洋社)され「1962年のGUNカレンダー」が15号特別付録として付いた。中に「銃器室」という巻頭連載があり、「ワルサー25口径」のコレクション写真が掲載され、巻末には読者欄とともに読者が描いた短銃のイラスト・コンクールが載っている。佐藤の劇画作品とともに銃器マニアが読者としてついていることがうかがえる内容である(写真ともフーゲツのJUN、所有本)。



「劇画」と手塚「マンガ」

2009-06-17 23:59:49 | アート・文化
Gekiga_tatumi_1 大手出版社の主催する「賞」が、話題作りや商売上の戦略で決められるものだと言うことは、大いに想像がつく、こと「マンガ誌」においては余計そうだろう。マンガや、コミックが市民権を得たと言っても、所詮は出版社の売り上げに貢献すればこそであって、その客観的な「評価力」は、利潤追求の資本の原理に拝跪する。
 ところが、そんな思惑とは無縁なはずの新聞社が主催するマンガ賞??この場合は朝日新聞社主催の「手塚治虫文化賞」だが、「劇画」と「手塚マンガ」、言い換えると(もともとボクは好まない言い方なのだが)「青年マンガ」と「児童マンガ」の融和という政治力に利用されることもあるのだ、と考えさせたのが今回の辰巳ヨシヒロ『劇画漂流』(青林工藝舎)の大賞受賞だ。『劇画漂流』については、あらためて書きたいが、「劇画」という表現は手塚治虫のストーリー・マンガの上で手塚マンガの否定としてうちたてられたマンガ表現だった。
 当初は俗悪、暴力、セックス表現などでPTA指定の焚書の対象(悪書指定)にまでなった「劇画」は、読者対象が大人(青年)か、子どもかという問題だけではない(だから「青年コミック」という言い換えをボクは好まないのだ)。

 今回の辰巳ヨシヒロの受賞は、そんなマンガ界内部の政治的思惑??「劇画」と「手塚マンガ」の融和をはかるために、手塚治虫の名前を冠した賞を「劇画」の名付け親である辰巳ヨシヒロに贈る、ということではないのかと受賞のニュースを聞いた時、反射的に思った。
 はたして、6月5日に行われた第13回手塚治虫文化賞の記念トークショーを報じた9日付けの朝日新聞の記事によると、今回の審査委員であるマンガ評論家の呉智英は中野晴行との対談の冒頭でこのように喋ったらしい。

 「『手塚さんが開発したマンガと、辰巳さんたちが生んだ劇画は対立する概念ではないとわかってほしい』と呉さんは切り出した。」(6/9「朝日新聞」小川雪/署名記事)

 「劇画」は、食糧と文化に飢えていた戦後日本の大衆にとってささやかなオアシスとなった「貸本文化」とでも言うべき独自のレンタルシステム「貸本屋」さんで育ったマンガ表現だった。あまり触れられないのが不思議だが、「劇画」の表現(そして作家)のルーツには「紙芝居」がある。紙芝居出身の作家たち(たとえば水木しげる、白土三平など)は、おおいに「劇画」の方法を深めてくれた。辰巳ヨシヒロを中心とする大阪グループ(以下「劇画工房」)は、『影』『街』そして『摩天楼』などの貸本マンガ誌によりながら当時(昭和30年代)ブームだったフィルムノワール(ジャン・ギャバンなどの主演した「暗黒街もの」)などの映画表現、ミッキー・スピレインやレイモンド・チャンドラーなどの探偵の活躍するハードボイルド小説やスリラーものに大いに影響されながら独自の表現に到達する。辰巳ヨシヒロや松本正彦がもっとも自覚的だった「コマ運び」の心理的な表現方法である。

 だから、手塚治虫を首領とする「ときわ荘」グループなどの「(児童もしくは雑誌)マンガ」と「劇画」は似て非なるものだった。マンガ(漫画)という表現での異母兄弟とでも言えばいいだろうか?

 ところが、きっと今回の受賞のひとつのきっかけでもあったのだろうが、『劇画漂流』のエピローグで辰巳は、平成7年の手塚治虫七回忌に出席して帰りの喫茶店で「不世出の大天才がいないマンガ界はやはり寂しい……」とひとりごちるというシーンを描いて、手塚を偲びながら手塚マンガに手を差し伸べるようなエピソードを挿入した。このシーンは、『まんだらけ』のカタログ誌に連載された時は、冒頭におかれたエピソードだという。このシーンがラストに置かれることによって呉のように「劇画と手塚マンガは対立する概念ではない」と御用評論家のような発言が飛び出したのだ。呉にとって、このチャンスしか「劇画」と「手塚マンガ」の融和、融合の機会はないと考えたのだろう。

 実に「賞」というものは、商売上の理由以外には、政治的に利用されるものなのだ。




さようなら、タイガー・マスク!

2009-06-15 00:05:56 | コラムなこむら返し
 初代佐山タイガーも凄かったが、二代目三沢タイガーもそのあざやかで華麗な技で目を見晴らせた。「タイガー・マスク」は梶原一騎原作の少年マンガだったが、マンガの設定そのままにまるで、マンガのコマから抜け出てきたかのようなキャラクター・ヒーローがプロレスラー「タイガー・マスク」だったと言えるだろう。
 その華麗な空中技はメキシカン・スタイルの受け売りだったのだが、その後のヒールではない方の(正義のヒーロー型の)マスクマンの「型」を作ったと言えると思う。そうそう、新宿歌舞伎町の新聞配達の「タイガー・マスク」も、リングの上の正義のヒーローがいればこそだったのだろう。
 マスクをぬいで、三沢光晴としてひとりのプロレスラーとなったのちも、全日本プロレス、ついでプロレス団体ノアの社長を兼任し、凋落するプロレス人気を背負って闘うかのようにリングに登っていた。
 その三沢選手が13日、広島で行われていた試合で対戦相手(斉藤選手)のバックドロップを受け、意識不明に陥り、搬送先の病院で死去したと言う。

 東京学芸大学(小金井市)のそばに住んでいたことがあって、近くにあったサレジオ学園を訪問しに来たタイガー・マスクを見たことがある。その姿は身寄りのない孤児たちを励まし、支援するマンガ作品の『タイガー・マスク』に重なった。そのタイガーが佐山タイガーだったのか、三沢タイガーだったのか「マスクをしていたので」わからなかったが、ともかくも「タイガー・マスク」はこうしてマンガというフィクションの世界へかえっていったような気がする(タイガー・マスクは現在もT-1リングで四代目に引き継がれているが……)。

 三沢タイガーよ、さようなら!
 三沢選手の御冥福を祈ります。


YouTubeのE.G.P.P.ライブ・コレクション

2009-06-12 15:07:10 | コラムなこむら返し
 これまで開催してきたオープンマイク・イベント「E.G.P.P.100」の映像記録は、少なくとも「大久保・水族館」を会場とするものについてはそのつど「水族館」のビデオ装置で記録してきたが、それはボクが私蔵してきたものにすぎなかった。インターネット環境にあって適切なプラグインの入ったブラウザーのインストールされている機器をお持ちならば(携帯電話でもO.K)だれでも見れるものとして、「E.G.P.P.100」を支え続けてくれた13号倉庫さんがYouTubeにアップしてくれているコレクションは、それゆえなかなか貴重なものとなっていると思う。
 今年の1月から映像のすべてではないし、本人が公開をためらったものはのぞいておおよそのものは見られるし、そこにはポエトリー、うた、ひとり芝居(インプロ)のみかトーク、コメディまである「E.G.P.P.100」の多様なエントリ-者の個性があふれている。
 13号倉庫さんのYouTube登録名bsoukoは、きっと「ボクら倉庫」からきているのだろうが、ぜひとも皆さんに見てもらいたいと思います。

http://www.youtube.com/user/bsouko

 6月のテーマ「太宰断罪!」のボクのポエトリーは以下のふたつです。
前編→http://www.youtube.com/watch?v=1JjfHMPnGFE&feature=related
後編→http://www.youtube.com/watch?v=mP5Jejw35xI&feature=related


ダザイのカンバン(EGPP/step95)

2009-06-06 15:43:28 | コラムなこむら返し
Dazai_danzai_1 これはどうだ。カンバンが上手く描けると、その日のイベントは半分成功したという確信のようなものが得られるのかも……。
 ボクはE.G.P.P.100の会場である「大久保水族館」に着くと、まずとりかかるのがその日のテーマを大書したカンバンである。カンバンといっても、「水族館」へ降りる階段の脇に掲げるライブハウスの「今日の出演者」というアレである。「水族館」のカンバンはB4もないような小さなホワイトボードである。だから、描かれたものはその日かぎり消される運命にある。
 テーマを書いた後、ボクはそこにイラストを付けている。5日のテーマは「ダザイ断罪!生誕100年」だったからダザイオサムの有名な頬杖ついた肖像を描いた。田村茂が撮ったその有名な写真は、ダザイのアイドルであった芥川龍之介の頬杖したポーズを真似たもので、左繭と目尻の少し垂れたダザイは自分の右側の半顔に自信があったらしく、右側から写真を撮られるのを好んだ。
 ホワイトボードであるから描くペンはマーカーである。「水族館」のチビたマーカーでは上手く掛けないことがわかってから、ボクはマイ・マーカーを持参している。わずか三色しか使わないのだが、この日のカンバンはまた思い入れの入ったものになった。
 では、御覧いただこう。これだ。1(ワン)、2(ツー)、3(スリー)……(笑)。



ダザイとサロン

2009-06-04 02:05:13 | コラムなこむら返し
Dazai_tomb_1 ダザイ自身はサロンなど好むはずもないと思いそうだが、その実、師とあおいだ井伏鱒二の阿佐ヶ谷文壇サロンのようなものに足しげく通い、同人誌関連や文学仲間との交流や交情はいとまもないほどだ。中央線の三鷹は、ボクにとっても遠くはなくこれまでもよく出掛け、ダザイの墓のある禅林寺などにも詣でてきた。しかし、1年前に出来た「太宰治サロン」は行ってなかったので、この休みに行ってみることにした。
 サロンはダザイがよく酒を買いに来た「伊勢元酒店」の跡地に建つマンションの1階にあった。入場無料はいいのだが、これというめぼしい展示もなく何のためにこのようなスペースをつくり維持管理しているのか分からなかった。
 質問してみると「太宰治ファンの交流の場をつくる」という意図でつくられたという。とはいえ、バー「ルパン」のカウンターを模してつくられたというカウンターと高椅子で酒もコーヒーも飲める訳ではないらしい。
 運営主体は「三鷹市芸術文化振興財団」で、2008年太宰没後60年そして今年2009年の生誕100年を記念して設けられた施設である。晩年を三鷹で暮らし、玉川上水に入水し、山崎富栄とともに死に、その墓も市内にある太宰治を徹底的に三鷹市の宣伝、広報に利用するその拠点であるらしい。

 帰りに禅林寺へ寄ってゆく。今年の桜桃忌は一段と盛り上がるだろうが、ボクは仕事で参加できない。それゆえひとり桜桃忌をしておきたい。それに、5日のイベントの許しも得ておきたい??そういう気持ちだった。

 「禅林寺」は静かだった。まだだれも来ていない。とはいえ、真新しい花が太宰治の墓碑と、津島家の墓前に捧げられている。よく見ると墓石のうしろの卒塔婆が新しい。裏にまわってみるとそれは前日の1日に、ダザイの血縁者によって法要が営まれたことを語っていた。ダザイが残した娘さんと、おそらく孫にあたるのだろう人の名前が記してあった。

(写真「禅林寺」内の津島家の墓と、太宰治の墓碑(6月2日)。