風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

火をともしなさい!

2004-12-31 21:56:51 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
honyarado日本列島は、今日いずこも雪模様に見舞われた。関東そして東京は昼前から雪が降り、相当な積雪となった。先日の雪もまだ残っているところへ、さらに新たな雪が降り積もった。
21年ぶりの大晦日の雪となり、明日、あと数時間あまりで雪景色の元旦を迎えることになる。
大晦日の午後、ボクは雪掻きを始めた。今晩、ボクはライブハウスへ行こうと思っていた。年越しでライブを楽しもうと考えていたのだ。しかし、雪掻きは思わぬ時間を取ってしまった。ボクはいつのまにか、この大量の雪を使ってあるものを作り出していたのだ。
おおよそ1時間で、それは完成した。ボクは雪掻きの雪を一ケ所に集めて固め、ほんやら洞つまりカマクラを作っていたのだ。ボクは、その中に蝋燭を点した。そうしたら、そうかと思いついた。今年一年の災害の年とでも言えそうな2004年を送るにあたって、自分の気持ちとしても何か鎮魂のオブジェを作りたかったのだ。それに、カマクラは先日の新潟県中越地震の被災地の冬の風物詩でもあるものだ。
そしてひとは何故、火を点すのだろう? 火を焚くのだろう? 深い太古の記憶のように、ボクは火を点して鎮魂したかったのかも知れない。

かって、いにしえの人は、大地は身じろぎもせず確かなもので、永遠に続くものだと思っていた。
いま、ボクらは大地は宇宙空間の軌道上を周回する繊細な星がもたらした生態系のめぐりの奇蹟だと知っている。大地はその生成の時のように、ゆらぎもすれば、爆発も、崩落もするものなのだ。いつなん時、小惑星が衝突するかも、地軸がずれるかもしれない。その前に、確実にco2の排出による温暖化、大気中に放出されたフロン(冷却剤として大量に冷蔵庫、カークーラー使用された)によるオゾンホールによって、倍増した紫外線で皮膚ガンなどの致命傷を受けるとも限らない。

どうか、戦争のための出費、税金からの軍事費の支出をただちに止め、その経費を地球へのいたわりと緑化を含めた地上の地衣、環境の快復のために支出し、その研究、援助のために使われますように……。

想像してごらん! そう、イマジン! この地球が、戦争を放棄した上に自然災害や台風や、ハリケーンや洪水などの被害を地を豊かにするものとして受け入れ、共生する、癒しと豊かな回復力に満ちたグリーントピア(エコトピア)になった時のことを!

想像してごらん! 思いは叶い、そこにボクたちすべてが暮らし、息づいていることを!
そして、そのために火をともそう! たとえ頼り無い一本の蝋燭の火であっても、希望の光となるものをともそう!

さっき見たら、軒先きに出来たほんやら洞、カマクラのなかでは静かにほのむらが点灯し続けていた。頼り無い、一本の蝋燭だが、静かにボクの鎮魂の思いと希望の祈りを伝えていた。

(新潟県中越地震、スマトラ沖地震と津波の被災者そしてファルージャでの虐殺で殺されたイラクの人々、いまも飢えで苦しみ亡くなった人々、テロや戦争で犠牲となった人々、10年前の阪神淡路大震災でなくなった人々そして一年前に亡くなったわが母を含めてボクからのささやかな鎮魂の思いの火とさせて下さい……)


年の瀬に慎んで哀悼申し上げます…

2004-12-31 00:10:44 | ニュース
suzan2004年もいよいよ残すところあと1日となり、十大ニュースも災害のニュースばかりが上位をしめる(いまは「ハイライト」とか「あのとき」と言った取りあげ方になっている)。まるで、地球の異変と言うか、怒りのようなものを最期に示したのが、スマトラ沖の大地震(12/26)とそれが引き起こした大津波だったようだ。M9.0に上方修正された今回の地震は、地震の規模だけでも20世紀以来のこの104年間で4番目の大きさで、インド洋に面するおおよそ10ケ国のひとびとに未曾有の津波として襲いかかり、毎日死者の数が更新され、増えていき現時点で8万5千人の死者をもたらした。おそらく、この数は最終的には10万を下らないことになると思われる。インド領でスマトラ島の目と鼻の先にあるアンダマン・ニコバル諸島の被害実体がまだよく掴めていないからだ。島全体が壊滅したのでは?と思われている地区もある。
政府レベル、国境なき医師団のような緊急援助に即決で対応できるところはさておき、ほとんどのNGOは正月休みに入ったところで、年明けでなければ対応はできないだろう。

今回の大規模地震による津波で被害を受けたところは、かってボクが旅したことがあるところが多い。実は、気になる人もいる。インドのチェンナイ(マドラス)に留学してお母さんと住んでいたミオさん、スリランカの自力NGOであるサルボディアに入っていたタムラさん。ジャワ島だから無事かと思いながらも、海沿いの竹の家に住んでいたジャワ人の家族。ボクはこの家にしばらく、お世話になった、などなどである。タイのピピ島はパーティでも有名だったから、外国人バックパッカーが波にさらわれた可能性は大きい。マレーシアのペナン島や、ダイバーで大人気のモルディブなども大きな被害を受けている。

これらの被災者の方々の、冥福を祈りたい。

そして、28日N.Y.の病院で亡くなったスーザン・ソンタグにも哀悼の念をおくりたい(享年71歳)。今年なくなったエルヴィン・ジョーンズ、レイ・チャールスにもましてスーザン・ソンタグの訃報はやはり、「ある時代」の終わりをさらに沸々と感じさせるものだ。アメリカにはロクな文芸評論家はいないと思っていたボクらを刮目させ、ついには「キャンプ論」などで影響まで与えられた。「キャンプ」は結局、日本では受け入れられず、ブームにも話題にもならなかったが、ベトナム戦争への反戦闘士だったスーザンの論考は、その後も常に刺激的だった。それに、スーザン・ソンタグは女優並みの美貌さえ持っていた。美しき才女??美しさまでもそなえた才媛にボクらはからきし弱かった。
途中、コソボへのNATOによる空爆やアフガニスタンでは、このひとはタカ派に転じたのかとさえ思わせたが、9.11以降舌鋒鋭くチョムスキーらとともにブッシュ政権を批判し、一時は身の危険も感じるほどだったらしい。知識人の務めを果たし「隠喩としての病」に倒れた(S・ソンタグはガン、HIVに対するふたつの秀逸な病い論を書いている)。

いまは、静かにS・ソンタグの冥福を祈りたい。

主な著作(翻訳)
『ハノイで考えたこと』晶文社 1969年
『死の装具』(小説)早川書房 1970年
『反解釈学』竹内書店 1971年
『ラディカルな意志のスタイル』晶文社 1974年
『写真論』晶文社 1979年
『わたしエトセトラ』新潮社 1981年
『隠喩としての病い』みすず書房 1982年
『土星の徴しの下に』晶文社 1982年
『エイズとその隠喩』みすず書房 1990年
『火山に恋して』(小説)みすず書房 2001年
『この時代に想うテロへの眼差し』NTT出版 2002年
『他者の苦痛へのまなざし』みすず書房 2003年

共著
『狂気の遺産』JICC出版 1993年
『アルトーへのアプローチ』みすず書房 1998年

(S・ソンタグの写真は毎日新聞社のネットニュースから)


東京暮色その10(最終回)/東京細雪(ささめゆき)そして小津安二郎のこと

2004-12-29 23:44:32 | まぼろしの街/ゆめの街
tokyobosyokusnowday窓をあけると「雪国」だった(笑)。年の瀬も押し迫った29日、昼過ぎまで降り続いた、この冬はじめての雪で東京は白くおおわれた。
そろそろ、「暮色」の風景を語る季節は過ぎたのだろう。このシリーズに決着をつける時がきたのだ。

「東京暮色」のシリーズ・エッセイの最後にこれは明かしておかねばならないだろう。
映画ファンなら気付いたはずだ。『東京暮色』は小津安二郎の作品のタイトルだ。じつは、うかつにもこのタイトルを名付けてからしばらくたってボクもそのことに気付いた。「とうきょうぼしょく」という音が気に入って名付けて、そうだったこれは、小津だったと気付いたのだった。

『東京暮色』。19957年(昭和32年)制作。松竹映画。白黒スタンダード。出演は原節子、有馬稲子、笠智衆ら。監督は2003年が生誕100年であった小津安二郎。
昭和30年代の東京が舞台になっている。 笠は銀行の幹部職。父ひとり娘ふたりの父子家庭。長女孝子は子どもを連れての出戻り状態。孝子の旦那沼田は売れない翻訳家らしい。
板の間の台所。木窓の外は深々と雪が降る。炬燵でピースの両切りを吹かしながら「おい!」と娘を呼びつける父。

室内シーンはセットだとしても、昭和30年代初頭の東京の風景が、フィルムに写し取られている。それは、小津映画のテンポでもあるが、なんというか懐かしい、のんびりとした誰もが、貧しくとも清貧という言葉がぴったりの潔く、美しく生きていた時代だ。

街角の看板は「パーマネント」「ベニヤ」。主なシーンとなるのは、笠の家庭だが、その他に雀荘、Bar「ガーベラ」。純喫茶「エトワール」。ラーメン屋「珍々軒」。

妹の方の明子(有馬稲子)は「ズベ公」と呼ばれている。明子は妊娠しているらしい。相手は木賃アパート「相生荘」にすむ大学生憲二。ナヨナヨとし、お姉ぇ言葉を喋る頼りないおとこ。
雀荘で男が、新聞の見出しを見ながら呟く。「売春禁止法施行か……」。売春防止法は昭和32年4月1日から施行された。
純喫茶「エトワール」でマスクをかけた刑事に職務質問され警察へ連行される(そういう時代だったのだ)!
父に問いつめられ姉の孝子(原)は、それをかばう。
「いやぁ、子どもを育てると言うのは難しいものだ」と男手で父子家庭を貫いてきた笠はしみじみと呟く。
「わたし生まれてこない方がよかったのよ」。

この後の豊かな時代に、大量に生み出される反抗的な不良少女のさきがけなのだろうか? 明子は堕胎手術まで受けて、とりつくシマもない憲二の仕打ちに、衝動的に電車に飛び込み自殺してしまう。

電車に飛び込んで死んだ明子に学んで、姉孝子は夫の元へ帰ることを決意する。朝、通勤の身支度をする笠。お手伝いさんが来ている。孫の美智子が残して行ったカラカラを振ってほほえむ笠。

『東京暮色』には、小津安二郎の名作であり代表作と目されている『東京物語』(1953年=昭和28年)とはややニュアンスを異にする家族愛を感じる。それとともに、その後の都会のサラリーマン家庭の淡々とした悲哀のようなものを感じざるをえない。

『東京暮色』が、製作された頃の東京には地方から人口の流入がさかんにあった頃だ。若年労働力が求められ、東北から中学を卒業したばかりの少年少女が「金の卵」ともてはやされて、「集団就職」で上京していた。そのための特別列車も運行されたほどなのである。
いわば、この頃の東京はノマド化し、ディアスポラの漂泊の果てにたどりつく場所となりつつあった初期の頃なのだ。しかし、まだまだ東京生まれの情緒は残しながら、徐々に東京が根無し草の掃きダメとなっていくそのギリギリの時代、暮れてゆく東京の凛とした緊張感のようなものを感じるのだ。


東京暮色その9/東京パサージュ論

2004-12-28 23:36:45 | まぼろしの街/ゆめの街
yomisestjunjyostyanakaginzast異邦人の目でありながら、パリの迷宮もしくは路地とも言うべきパサージュを文学の機微に見立てて読み解くと言う作業をライフワークにしていたのはドイツ系ユダヤ人の社会学者ベンヤミンであった。そのアフォリズムで構成されたかのような畢竟の未完の大作『パサージュ論』は、都市を徘徊するかのように、文学の迷路を彷徨い、その地図を描くといった、いまで言えば文学活動もしくは書くと言うことのナビ・システムを作ろうという意図だったのかもしれなかった(ボクはそれこそ晶文社刊の著作集が刊行されだした頃から、読みつづけているにもかかわらずその膨大な思考に見通しをつけることがいまだ出来ていない。これは、生涯不可能のような気がする)。

パサージュは日本で言えばアーケードの商店街のようなものを考えればいいだろうか……。しかし、それにしても町の商工会議所で発案されたかのようないづこも同じ大規模なアーケードが軒をならべる日本のそれとは違って、むしろパリのパサージュの方が大通りから中へ入った通りと通りとの通路のような路地に作られてきたらしい。
だから、むしろパサージュの方がこじんまりとしており、さらに東北と九州の町のアーケードが区別がつかないほど無個性的なこの国のアーケードとはそのおもむきもちがってくるのは当然だろう。日本のそれが、多くの地方都市で観光客をあてこんでいるのは明らかだし、まず全天候型で雨の日も雪の日も買い物ができるといった面で推進されてきただろうことがよく分かる。

だが、ボクはこの国でも下町的な、市場の雰囲気を持つ商店街通りには、それなりの愛着を持つし、とりわけなんというんだろうあの門柱のような顔部分が好きなのだ。「○○商店街」とか「○○通り」とか書いてあるあれである。
それは、以前にも書いているように日暮里の「銀座」で少年時代を過ごしたということが、大きいだろう。ボクの記憶の中に商店街は刷り込まれているし、そのロケーションを愛してやまないものだ。さらには、少年の頃には2~3軒の店が寄り集まって出来た小さなアーケード市場があり、そこの肉屋で小腹がすいた時、よくアツアツのコロッケにソースをかけてもらったものを買い食いしていた事を思い出す。
それは、曲がりくねった坂の途中に、まるで道を塞ぐかのように出現する故郷長崎の小さな小さな商店を思い出させてくれたためかもしれない。長崎のそれは、ひさしを出したら必然的に向い側の石垣にまで伸びてしまうから、坂道を横断したアーケードが出現するといったものだったが、それにしてもそこに出現する魚屋も、金物屋も、八百屋もどこか東南アジア的な市場なのであった(沖縄、奄美の市場にそれを感じるのと同じ質のものだ)。

ボクの東京パサージュ論はここまでだ。ベンヤミンのように、深い洞察と広い見識で縦横に論じるという訳にはいかない。ここから、たとえば永井荷風や近所にいた先代の志ん生師匠の話にでも展開すれば面白いのだろうが、ブログじゃ無理だ。最後にセレクトした写真の説明を付け加えておく。

一番左は「谷中銀座商店街」の顔。「ポエムロード」と書いてある。粋なネーミングだね。
そして、中。夕暮れの高円寺「純情商店街」の顔部分だ。このネーミングにもある詩人の書いた小説がからんでることは知ってるよね。
右は「よみせ通り」。団子坂にも動坂にも住んだボクには懐かしい通りである。昔、夜店が立ち並んだらしい。途中に、荒神さまがまつられている社がある。ここのまつりが賑やかだったらしいのだ。


東京暮色その8/旧近衛師団司令部庁舎

2004-12-27 23:27:53 | まぼろしの街/ゆめの街
konoe_2konoe_3皇居の脇、東京北の丸公園の一画にある近衛師団司令部庁舎のゴチック様式の建物がかっての偉容のままに東京国立近代美術館の別館の工芸館として使われているのを御存知だろうか?
すぐ横を首都高に入るジャンクションがあって、こんなところに? と、ふとタイムスリップに陥りそうな感覚の場所にそのレンガ作りの重厚な建物は建っている。実際そこに立てば、過去と現在の入り交じる風景に奇妙な感覚を覚えるはずだ。
もちろん、それは重要文化財という指定があり、とはいえ内部はコンクリート構造にあらためられてカビ臭い昔の建築物という訳ではない。しかし、外壁だけでなく、正面のファサード部分、つづく玄関ホール、階段、踊り場あたりにはそれはかってのこの建築物のいかめしい、近衛師団の司令部があったという息詰まるようなアウラは残っているのだ。
ボクが行ったこの日(実は、12月8日にここに来るために訪れたら休館日で、フラフラとそのまま靖国神社に行ってしまったのだった)、現在の使用方途である「国立近代美術館工芸館」としては、人間国宝である富本賢吉をとり上げた「人間国宝の日常の器」という企画展をやっていた。工芸も嫌いではない、むしろ民芸運動には興味を持っている。しかし、日常の器を展示ウィンドウのこちらから眺めさせるだけ、という展示の仕方には、正直反発を禁じ得ない。
だって、そこにはコーヒーカップも、きっとそれで食べたらうまそうな「カレー皿」もあったのだ。そいつは、使われた方がどんなにか幸せな作品(食器)だったことだろう。実際に、コーヒーを飲み、カレーを盛った方がよりよく鑑賞(!)できたのではないだろうか?
ボクは申し訳ないが建物の中を見るために入場料を払った(それでも破格の200円)。ここには、もう、幾度も来ている。この建物を発見(!)した時は、正直驚いたが、このような保存の仕方は支持する。使いながら、歴史的建造物として保存する。工芸品もそのようにありたい。昨日、書いたフルクサスの運動のように、コンセプチャルなアートがどんどん日常的なものになり、芸術としての閾(しきい)を低くしているのに、本来、日常の中の器や、食器であるものが、どんどん手の届かない、触れ得ないものになっていくということ自体をおかしいと思わないならそれはもう、硬直した死んだ思考だ。権威とか、権力とか、そういう別のものに成り果てているのであって、それはもう「コーヒーカップ」でも「カレー皿」でもない。
使途を失った器や、食器はもはや「工芸」でもない、ただの物だ。ローマのエジプトの遺跡から発見された貴重な遺物??使用価値を失った「もの」であろう。

テーマがずれてしまった。しかし、この建物が明治43年(1910)に建てられたと言うこと(日露戦争ぼっ発の6年後)。帝国陸軍の技師であった田村鎮(ただし)の設計によるものだ。と、そう書いたらそれ以上に書くべきことをボクは知らない。ただ、ここに佇むとかっての否定されるべき、軍国主義一色だったこの国の事実としての歴史の息吹といったものを感じることができる数少ない場所だと思うのである。

かってこの国は、旭の昇る姿を軍旗にしていた。世界に対し、西洋列強に学び、富国強兵で追い付き追いこすことを本気で信じていた。天皇制のもとに、結集し、やがて軍部の独走となった。世界に対し、国民を含めて誇大妄想的な夢を見た。まるで、劣等感の裏返しのようなものだった。軍部は、国民を鼓舞し、マスコミやメディア、ジャーナリズムもそれにつき従った。軍からの報道をそのまま流すと言う、宣伝機関になりさがった。画家や、文学者も翼賛体制の中で、国の戦争遂行政策の宣伝媒体にすぎないような作品を垂れ流すことになった。そのような時代が現実だった時間が、おおよそ80年あまりこの国の上に流れたのだ。
この場所も、そのような証言者のひとつであると思う。この国の中で流れた、異様な時間を記録している建築物のひとつであると思うのだ。


こんなに60年代は前衛していた!(フルクサス展に行く)

2004-12-26 23:56:46 | アングラな場所/アングラなひと
yoko_neodadaurawafluxusキャンバスに釘を打ち付け、パステルと色鉛筆で円を描いてきた。静かな美術館の中に、カナヅチの音が鳴り響き、キャンバスをひっかく音がカリカリとする……。この初夏のそのひとの名前を冠した美術展でも、出来なかった参加型のアートが、作家自身の指示通りのかたちで久しぶりに実現した。
作家の名前は小野洋子、NYを中心に前衛芸術家の横断的なグループであったフルクサスの一作家として、スペースとしてはやや破格の扱いだが、展示されている。
お隣の駅(さいたま副都心)にはジョン・レノンミュージアムもあって小野は著作権所有者としてかかわり、協力している。
今回行った美術館は「うらわ美術館」。展示名は「フルクサス展??芸術から日常に」。この日は無料の開放日だというのに、その割には閑散としていた。
ボクのおめあては、小野やナムジュン・パイクもあったが、むしろハイレッド・センター(参加作家の高松・赤瀬川・中西の名前を合成したもの)や日本のネオダダ系の前衛作家の展示であった。フルクサスの動きとは別テークで日本独自の芸術運動にまでたかまってしまったネオダダの運動が、フルクサスの視点からはどう位置付けられるのかといういたって簡単な動機である。

フルクサスは1960年代の初め頃にジョージ・マチューナスが提唱してひっぱってきたアートシーンのみならず、デザイン、音楽、パフォーマンス、出版にも大きな影響を与えてきた横断的な運動体だ。アメリカ、ドイツ、日本の前衛芸樹家が参集したポップアートとは別の60年代を代表するアートであった。実は、当時一般的には、いや当のアートにかかわる(おもに画壇の)画家たちからも、これらのアバンギャルドなアートは、うさん臭く見られ理解されず、「ゲテモノ」扱いされていた。そのおもな表現手段はハプニングであり、パフォーマンス、コンセプトアート、インスタレーションなどであり、それらのアートは21世紀の今日からみれば、実に新しい斬新な表現であることが分かるし、むしろ今日のアートシーンの土台さえも築いてきたことが分かる(実体のなかったフルクサスは、むしろアレもコレもと一定の時間の過ぎた今日からの方が、よく見えてくる)。日本ではその頃からの支持者、理解者としての瀧口修造の名をあげておこう。詩人の瀧口は、前衛芸術の紹介者、評論家としての顔を持ち、精力的に動いていたからだ。中原祐介、ヨシダヨシエ、針生一郎などの名前も思いつく。

日本では、一般的には「フルクサス」の名前は小野洋子が参加していたという文脈で知られるようになってきた。雑誌などでも特集するようになってきて、その特異な表現が単発的なものではなく、ある持続的な運動らしいという認識が高まってきたころだと思う。不思議なことにその主要な活動が、終熄してから1980年代になって「フルクサス」に焦点があたりだしたのだ(1978年に死んだマチューナスの死後という訳だ)。

ボクにとっての収穫はみっつ。まず、記録フィルム(おそらく原版は8ミリ)ハイレッドセンターのパフォーマンス「シェルター計画(プラン)」(1960)の一部始終が見れたこと(その映像の存在は「ネオダダ」を特集したある番組で知っていた。小野洋子も観客のひとりとして身体測定に参加している)。
ふたつめは、塩見充枝子という作家のフルクサスで果たした役割の大きさと、その作品とりわけ「Spatial Poem」というシリーズに感動したこと(それはいわば短いことばをある一定期間に世界中で同時に発してそれを記録する作品といえばいいだろうか)。そして、その作品行為がどうやら小野洋子の「グレープ・フルーツ」の「インストラクション(指示)」作品につながること。ひいては、そのアートとしての行為が、つまり「イマジン(想像してごらん)」という「指示」につながったという直感を得たことである。
みっつめは日本の「フルクサス」関係のペーパーで「フーテン出身のガリバー」を紹介する記事を見つけたことであった。ガリバーのアートもある意味では、フルクサス的な時代を先駆けるものであった(やや時流にのったり、俗っぽかったりの面はあったが)ということを再確認したことであった。

毎週土曜日は開館5周年記念で無料開放されています。観覧のチャンスですよ。2005年2月20日まで。年末年始と月曜日は休館。おすすめです!


クリスマス・イブ/聖夜の質問

2004-12-24 23:41:21 | トリビアな日々
christmasイブの夜はいかがお過ごしでしたか? どなたと、何処で過ごしましたか?

むかしから、答えたくない、いやな質問だった。なんのために、そんなことを見ず知らずのお前に答えなくちゃいけないんだ、と反発していた。だって、それは脅迫だろう?
イブの夜をひとりで、過ごさなくちゃならない人間をあたかも失格者・不適格者であるかのように、後ろ指を指すための罠じゃなかったのか?
そもそも、なんでイブの夜を恋人や愛する人と過ごさなくちゃならないんだ?
それも決まってゴールはシティ・ホテルという名前に変わったラブホで過ごさなくちゃならない訳?
もし恋人がいるんだったら、自分の部屋の汗臭いセンベイ布団にくるまってもいいじゃないか。そこでの方が若くて貧乏なふたりには、お似合いの花園にも匹敵する場所じゃないか、と考えるのはどうやら赤貧に耐えるのが青春だ、くらいに思っていたボクらの世代くらいまでなのかも知れない。
いまは、高校生カップルでさえラブホを利用しているようだ。もっとも、ずいぶん前だが、処女の喪失場所はボーイフレンドの部屋という答えが多かったというアンケートの記事を読んだ記憶があったが、ま、これはクリスマスにはふさわしくな話題だろうから話を変える。

そもそもイブの夜は、クリスマス・ミサで過ごすのが本当じゃないの? ボクが生まれた長崎では、クリスチャン人口が多いこと、そして歴史的な教会(浦上天守堂・大浦天守堂)があるといったことから、この日の雰囲気は荘厳なものになる。女性たちは白いレースのベールをかぶり楚々として見えるし、それは年齢には関係がない。聖夜のミサは、もしかしたらすべての女性がイエズスの母である聖処女マリアになるのかもしれないし、実際は妻帯しなかったイエズスの花嫁になる夜なのかも知れない。
母であり、その花嫁であるという幻想にあの白いベールは、ボクを引き込む(クリスマスというのは「キリストのミサ」という意味のラテン語からきている) 。
娼婦さえもその罪を許し、石持てなぶろうとするものをたしなめたイエズスの行ないは、それがたとえ絵空事であったとしても尊い話である。

イエズスは旧約聖書の中に数え切れないほど登場する予言者の系譜の最後にいるようだ(イエズス自身みずからが裏切られることを予言する)。聖書の中に登場する予言者たちは、まるで言霊をあやつる詩人のようである。その究極にイエズスの「みわざ」があるようだ。イエズスはその「みわざ」によって数々の「奇蹟」をおこした。盲目のひとに光を与え、病んだひとを快癒させた。この頃は、レプラ(らい)患者が多数いたことと推測できるが、その者たちを治癒し、癒した。

言うまでもなく、この国にクリスマスがもたらされたのは、フランシスコ・ザビエルによるキリスト教の布教からである。それから、おおよそ400年後の戦後のある時期、クリスマスはバカ騒ぎと飲み屋街の一大イベントになったことがあった。丁度、日本が高度成長にさしかかった頃で、この国の経済が酩酊状態になっていた頃だったかも知れない。まるで、イエズスを売ったユダのように、自ら師、世界のメシア(救世主)よりも銀貨30枚のほうが貴いと、この国のみなが思い始めた時代だった。日本国民が総ユダ化した時期である。


東京暮色その7/井之頭恩寵公園

2004-12-23 23:57:38 | まぼろしの街/ゆめの街
hanakoまだ12月上旬の井之頭公園は、深い秋のおももちだった。東京中の公園の中でも、井之頭公園はどこか若者がたくさん集まるファッショナブルな雰囲気があるのも、ミニ竹下通り化している公園通りのせいだけではないだろう。
大道芸のパフォーマーがおり、ストリート・ミュージシャンがにわか仕立てのステージをひろげ、恋人たちに占有されるボートをうかべる池があり、幼児でいっぱいの動物園があり、閑散とした彫刻館(長崎の平和祈念像で知られる北村西望は生前ここをアトリエにしていた)がある。いまや、大人気の「ジブリ美術館」も公園の一画にあり、実にバラエティにとんでいるのだ。つまり、恋人たちはもとより老人たちから幼児までが楽しめ、草木に親しめると言うなかなかにすぐれた公園で、それが吉祥寺の駅から徒歩10分もかからない距離にある。とはいえ、この公園も少し昔はさびしいところだった記憶がある。

吉祥寺の駅が、まだ高架になっていなかったころ(70年代の初め)、駅前にビルもアーケイドもなかった普通の地味な街のひとつだったころ、公園の周辺は閑静な住宅街だった。いや、それはもちろん中産階級以上の資産家でなければ家を建てられなかったが、埴谷雄高や、金子光晴や翻訳家や学者が好んで井之頭公園の周辺に住んだ。70年代のある日、いまもある古書店や商店街で、詩人の金子や、「死霊」の作家・埴谷雄高が散歩する姿が見れた。現在なら、そう、仕事場へ通ってくる楳図かずおくらいだろうか?
歌声喫茶「灯(ともしび)」吉祥寺店、その跡地に出来た伝説のライブハウス「OZ」、すこし後には武蔵野タンポポ団の拠点となった「ぐわらんどぅ」が出来、「ファンキー」によく通い、いまやマスターが売れっ子のジャズ評論家になった「Meg」もできたころだ。

ボクはまだマンガ家で、どうにかエロマンガを描いて、暮らしもカツカツで生活できないくらいの原稿料を稼いでいた。
自分が東伏見にあった都市型コンミューンを出て、上石神井のその名も「ときわ荘」におんなと住んでいた頃で、当時の友人が住んでいた吉祥寺の(よくそのアパートの一室に泊まったものだ)その住所をペンネームにしていた(その名前を明かそうと、書きかけてネット検索をかけてみたらなんと2件も出てきたので明かすのはひかえることにした。ネットはこわいものだね)。

さて、その頃もよく見に行った井之頭動物園(正式には「井之頭自然文化園」)に、この日も「はな子」に会いに行ったのだ。いや、このアジア象は戦後すぐに敗戦国日本の子どもたちを喜ばせるためタイ王室から贈られたらしい(ウロおぼえの記憶によるので正確には知らない)。だから、年齢もボクと近く、若い母親が「ま、結構オバァちゃんなんだ!」なんて、隣で言われるとムッとするのだ。「中年と言え、中年と!」と訂正したくなる。しかし、はな子の檻の前に抜けた立派な臼歯が飾ってあるのを見ると、なんだか悲しくなってくるのだ。
そう、今日はゾウの話でボクの話ではないのだった……。

はな子は、外で軽く運動をしていたが、しきりに象舎の中に入りたがるそぶりを見せるので、何かと思ったら夕食の時間だったのだ。右側に回り込んで檻の前にたつと、飼育係のひとから食パンとキャベツを十数個与えられていた。はな子は器用に鼻を使って、それらを口に運ぶ。なかなかに愛くるしいヤツだ。
しかし、こうして老いて(いや、中年です)孤高なすがたを見ると少しかわいそうになってくる。タイでも、象はいまや都会では見るのが珍しくなった。きっと森林の減少と共に象も、まして野生の象などは希少になっているのだ(「象まつり」のあるスリンでは良く見られるが……)。

孤独なアジア象はな子の姿を見て、象舎を出ると、その象舎の前の広場に1本たつ銀杏が、葉を落とす前の黄金色に身を輝かせて、やはり孤高に暮色を深めていたのだった。


沙羅双樹の梢を風は吹き抜けた??『沙羅双樹』(河瀬直美監督作品/日活・2003年)

2004-12-22 22:24:56 | まぼろしの街/ゆめの街
syara_01河瀬直美の映画には、いつも風が吹いている。河瀬の作品の真の主人公は、風だ。
ひとが登場し、ひとの営みがありそれも常に奈良という風土にこだわりつづけ、国内よりも海外で評価の高い河瀬は、長い移動撮影や、手持ちカメラでパンしていきながらゆらぎ、そよぐ風をとらえようとしているように思える。
ひととひとが出会い、少年は恋し、少女のこころはゆらぐ、母は自宅出産し、父は地域の新しいまつり「バサラ祭り」の盛り上げに夢中になっている。風土があり、風景があり、自転車でまた少女と手をとりあって走り抜ける路地がある。17歳の少年少女のこころの中にも、その土地に根付いたようなお年寄りにもそのこころの中に吹いているのは風だ。

今年の映画ではなかったかもしれない。一時は河瀬がたんねんに、描いて行く暮らしがなんのための表現か分からなかった時期もある。そのセミドキュメンタリー風のタッチで、自らの出自、故郷を描いて何が言いたいのかと……。前作の『火垂(ほたる)』で、ストリッパーの主人公がフェリーからながめる白い波頭が、青々と繁り実った田畑に多重露光されて変わった時、ボクのこころもそよぎ波打った。
河瀬が描きたいものが、はじめて分かったような気がした。

『沙羅双樹』(日活/2003年)は、奈良のひと夏が舞台だ。まつりの準備がされ、「地蔵盆」があり、「バサラ祭り」をへて夏の終わりの出産シーンで終わる(母の役は河瀬自身)。生命はあらたに生み出され、営みは継承され、こころはそよぎ、風は吹き渡って行く。
ラストシーンでは、カメラそのものが風になったように奈良のいかるがの上をゆらゆらと空撮していく。UAのボーカルが重なって、クレジットが流れる。

なぜ、あらためてこの作品の事を書きたくなったかと言うと、DVDで見直したのである。特典映像としていわゆるメーキングだが、本編と同じくらいたっぷり入っている(「2002年の夏休み」と題されている)。それを見て、さらにわが意を得たような気がしたのだ。

実は、矛盾だらけと言うか、話しとしては整合性が欠けた内容なのだ。主人公しゅんは5年ほど前のまつりの日に、双子の兄弟けいを「神隠し」のように路地で見失ったまま成長した。ガールフレンドの夕(ゆう)は、母に自分の子ではないとある日、言われる。しかし、そこまでで映画の展開には何もかかわってこない。

主人公しゅんの役をやった福永幸平クンはボクの年若い友人のひとりである。奄美大島出身のミュージシャン志望の青年だ。まだ少年の面影を残す純朴なヤツだ。10代の最後の年にETV「十代しゃべり場」という番組に出演していて、それが河瀬直美との出会いになって新作映画の主人公に大抜てきされた。
夕の役をやった兵頭佑香は、千人のオーディションからえらばれたはっきりとした面だちの美少女だ。幸平クンが、個人的に未練たっぷりだったことが、メーキングで分かるがそのような娘さんである。

映画と言うものは残酷なものだ、というのがボクの勝手な思い入れのレベルでの意見である。観客には、癒しや娯楽となっても、俳優や出演者にはトラウマを与えることもあるのではないかと思うからだ。
俳優または演じるものの肉体から、他者の人生が忍び込むこともあるのではないかと、「憑依」や「トランス」に興味をいだきつづけてきたボクは思ってしまうのだ。

評価(★★★★)

(画像は河瀬直美撮影の写真「沙羅双樹」より)


冬至/「闇」と「光」の提案書

2004-12-21 23:14:13 | トリビアな日々
syourekiji冬至。二十四節気の22番目。冬至は「一陽来復(いちようらいふく)」とも言い、陰が極まり、陽が帰るつまり冬が終わり春が来ることを告げる日とされている。一年の中で昼がもっとも短く、この日を境にして日照時間が伸びて行く。太陽高度の低い北欧では「光のうまれる日」として、光の女神・ルチアを称え、祝福して春が近い歓びをわかちあう。

日本では、柚子湯に入ったり、南瓜(カボチャ)の煮物を食べるなどといった風習がある。この日に、柚子湯に入り、南瓜を食べると一年中無病息災、病をよせつけない丈夫な身体になると言い伝えられている(他に小豆粥を食べると言う風習もあるという)。

では、冬至に柚子湯になぜ入るのかと言えば、柚子の実際の優れた薬用もあるが、なんと言ってもそいつはまるで江戸落語のようなオヤジの冗句に通じるものがある。
つまり冬至は湯治に通じ、柚子は融通に通じるということからきたのだ。柚子湯は、湯で癒され、(金銀の)融通が利くようになるという願ったり叶ったりの、庶民のやや現世利益的な願望が込められたものなのである。
このような庶民の願望が、年中行事として後世に伝わると言うのも、考えてみれば楽しいことだ。なぁんだ、昔の人も御都合主義の、素朴な願かけをしていたんだ、と考えると、なんだか、身近に感じるじゃないか。

古代では、この日を年の初めとしていたらしい。19年のサイクルで冬至が太陰太陽暦で11月1日になることになる。これは、この世のまつりごと(政治)が正常に働いていることであるとされ、「朔旦冬至」と言った。中国でも、現在も冬至の日は御馳走をつくって親戚縁者が集って祝う日である。

ちなみに、これはつけたしですが、ボクのアイディアによる提案をさせていただきます。
今年の夏至からはじまった「100万人のキャンドルナイト」が冬至のこの日も行われました。一概にマスコミの反応は冬ざれているようですが……。たしかに、呼びかけられておりました。しかし、反応はどうだったのでしょう?
せっかくですから、「ルチア祭」として呼びかけた方が、この時期ですから盛り上がったかもとボクには思えてなりません。「ルチア祭」では、ろうそくを使いますし、電気を消して聖夜を楽しもうというアピールにもなったような気がするのです。
そう、「光の誕生」を迎え、祝福するためにはその前に闇が必要です。24日のイブの日からはじまる東京ミレナリオも闇夜に浮かび上がるほうが、美しいと思うのです。
そして、東京ミレナリオに何のコンセプトも感じないボクは、それが「光の女神・ルチア」をむかえる祭りであればと願望するのです。北欧の厳しい冬であればこそ身近な冬至をはさんでの「光の誕生」は、切実であり歓びでしょう。キャンドル・ナイトが市民団体の呼び掛ける「電気を使わない日」で、東京ミレナリオが東京都や区や商工会議所や観光協会が呼び掛ける「電気を消尽する日」じゃ、なんか悲しくなります。
このふたつの異なるイベントをつなぐコンセプトは、「東京もしくはジパング・ルチア祭」であると、ここに提案いたします。
そうであれば、「闇」と「光」がドッキングするのです。商工会議所と、市民団体が「地球環境」そして「女神・ルチア」で、手をつなぎあえるのです。
(「光の女神・ルチア」のことは「クリスマス・トリビア」の記事を参照して下さい)

(画像は奈良・正暦寺の「冬至祭」の護摩焚きの模様)


レトロな味わいは「珈琲時光」で……

2004-12-20 23:41:59 | まぼろしの街/ゆめの街
coffee_jikoあと10日あまりで終わると知ったので新宿南口テアトルタイムズスクエア(要するに高島屋の上階だが)に侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の「小津安ニ郎生誕100年記念」と銘打たれた『珈琲時光』(2003年松竹)を見に行く。ボクも一時ハマってファンである一青ヨウ(字がない)が出演した映画というのもあるが、なんといっても『非情城市』で、打ちのめされたボクは侯監督の作品ということで、見に行ったのだ。しかし、期待は肩透かしをくってしまった。

それにしても、電車がたくさんでてくる映画である。主人公陽子が住む鬼子母神から大塚に出る都電荒川線。帰省する陽子が乗る高崎線。山手線。そして陽子がよく寄る古書店(店主肇役は浅野忠信)があるお茶の水へ行く中央線(聖橋から撮った風景が、この作品を「東京物語」にしたのかもしれない)。高円寺の都丸書店も出て来る。有楽町のガード下の小さな喫茶店。東急池上線。
小さな郊外電車やチンチン電車。小さな喫茶店。狭い古書店。陽子のひと間の下宿。侯監督の古いものや小さなものへの偏愛を感じる。
セリフはその場で俳優の思いつきではかれたものだと分かる。セリフは物語を進行させない。登場人物の背景を語るにしても寡黙で曖昧なものだ。陽子がフリーライターらしいことは分かる。しかし、高崎の実家でまつ母が生みの母ではなく父の後妻らしいということや、陽子が向こうに彼氏を作るほどひんぱんに台湾を訪れる理由とか、妊娠したその後とか物語はある断片が提示されただけで、それ自体東京の風景のように曖昧に示されて終わってしまう。それも、ふいに、終わる必然もなく……。

これは、きっと台湾人である侯監督の目に見えた東京なのだ。見なれた東京は侯監督の視点をフィルターとして懐かしいと言うか、美しくもある。
そして、古い東京をさがすその意味もよく分かる。ボクも台湾で古いもの、つまり日本の植民地だった時代(おおよそ半世紀50年間である)の名残りのようなものばかり探していたから……。 台湾は首都である台北のみならず、島全体の沿岸沿いにぐるりと汽車(中国語で火車)が通っているだけで、あとはどこへゆくにもバスがメインである。で、思い直したが、実は線路や汽車はあるにせよ、東京ほど縦横に電車がはりめぐらされ公的交通手段の主たるものが電車であると言う首都は他にはないかもしれない。少なくとも、ボクは知らない。

陽子は戦前、つまり植民地時代(すなわち台湾人も表層的には「日本人」だった)クラッシックの作曲家だった江文也を調べ、その足跡を追っている。映画の中で流れるのはこの江の作曲したピアノ曲である。陽子は池上線の洗足池まで江の遺族に会いに行ったりしている。この映画のストリーらしい骨子というのは、その陽子の探求(クエスト)の物語だと言うことは、かろうじて観客には伝わる。しかし、それでなにかが見えてくる訳ではない。陽子が江についての調査をもとにしてなんらかの記事や原稿をものしたのかは語られない。
まるで、クレジットタイトルに登場する映画評論家で東大総長である蓮見重彦が、スクリーンのなかでは登場しないようなものである(そのシーンは監督の手によってはさみで切られたらしい)。
最後に、映画の評価を。(★★1/2)

(ここからは、オフレコです)大好きな侯監督のあまりにもラフすぎる(?)今回の作品は、その出資先が日本マネーということによるかっての植民地本国への復讐に燃えたものと感じるのは、ボクのうがちすぎか?
なにしろ一青ヨウを抜てきしたところにも、それを感じるのだが……?
小津安二郎へのオードをやっているのは、ひとり何も喋らずに「あ~。お~」と言って背中で演技しようとしている父親役の小林捻侍ひとりであるようにボクには思えてしまった。いや、小林さん、あなたが一番「演技」してらっしゃいました。そう、好演です!

画像は公式サイトから→http://www.coffeejikou.com/index2.html
まだ予告編が見れます。(C)松竹
(この記事は10月11日に『凶区ブログ』に書いたものですが、2004年の映画回顧という意味でこちらに再録しました)



クリスマスそのトリビア/光のうまれる日

2004-12-19 15:39:38 | トリビアな日々
fin_luciaday『金枝篇』(フレーザー)に出てくる話を読んだ時にも、これはクリスマスにつながるのかぁと思ったが、ケルト民族の「もみ」の木の伝承は、クリスマスの細かなディテールにつながったようだ。常緑樹である「やどりぎ」「ひいらぎ」「もみ」を森からとってきて玄関先に飾る。リースやクリスマス・ツリーのはじまりである。しかし、ツリーに飾り付けをする風習は、ケルトの伝統で精霊が宿っているためにいつまでもみどりの色を失わないツリーに動物や人間(!)のいけにえを吊り下げていた伝統から生まれたという。

また、「ルチア祭」は、光の女神であるルチアが生み出す「光のうまれる日」として北欧で行われている冬至のまつり(今年は12月21日)である。やはり、女の子が長い白いドレスに5本のローソクを立てたみどりの葉の冠をかぶる。
これらは、日本や東南アジアで行われている若水の慣習に似たものである。新しい年、あらたな春、新しい生命の産み出しを祝福し、歓びをわかちあう。

サンタクロースは、セント・ニコラスの12月6日のまつりが、ニコラスの姿、行ないからうまれたものらしい。
小アジアの古代都市・ミュラの初代司教を務めたセント・ニコラス(聖ニコラス)は若い娘や子供達に大変親切で、貧しい人々への慈善事業を始めた人物として広く知られてた。彼のその福祉的な事業に関する伝説はドイツやオランダを経由して広まったため、司教の名前を“シンタークラウス”とか“シント・ニコロセス”などとゲルマン風に呼び慣わすうちに、現在の“サンタクロース”という名前となった。
まるで、青森の「なまはげ」のような「ムチ打おじさん」という登場人物もいるらしい。これは、日本にはまったく伝わらなかった。

そう、イエズスが降臨した日であるキリスト教の降臨祭に、これらのヨーロッパ各地、民族の風習・伝統が溶け込んだもの、それがクリスマスだという。

こんなクリスマス・トリビアを子ども向きの児童書として詰め込んだ、それでいて分かりやすい本を「魔女の宅急便」の作者角野栄子さんが書いている。『クリスマス・クリスマス』が、それである。

トナカイは、たましいを此岸から彼岸に橋渡しをする動物だった、とか。クリスマス・トリビアの宝庫である。

いわば、「ポーラー・エクスプレス」の裏話? この本を片手に、クリスマスってなぁに? と語って、イブの日を過ごすのも一興だと思う。

(ルチア祭のイラストはcanon提供の「クリスマスおたすけサイト」の無料画像からいただきました)


今日のTOPは飯島愛を選びたい(レッドリボンキャンペーン2004) (Take1)

2004-12-18 23:14:34 | ブル新の楽しみ(今様新聞批評)
ai_iijimaブログのネタとして、気楽におふざけで書けるものも欲しい。それは、ここのところ毎日更新しているブログの執筆対策としても必要である、いわば苦肉の策だ。
で、思いついたのが「新聞広告批評」である。もちろん「広告批評」という雑誌があることを、承知の上で試みる(朝日新聞をとっているので、朝日の場合は紙名をわざわざ書きません)。

12月18日(土)朝刊
2面下5段抜通し 新潮社 『私は、産みたい』野田聖子・著
(コメント)……。職場結婚とは言え、代議士どうし。それもイケメンと美人と言う組み合わせ。誰もがうらやむ国会の「聖子ちゃん」にこんな悩みがあったとは……! 「44歳の赤裸々な告白」とのことだったが、郵政事業の民営化問題は、どう産み落とされるのだろう? 聖子ちゃんのせいじゃないよね、難産なのは?

6面全面広告 レッドリボンキャンペーン2004企画広告 『デュレックス(エスエスエル ヘルスケア ジャパン株式会社)』5段抜通し
(コメント)はい、絶句しました。コピー文をそのまま読んで下さい。
「昨日、コンドームしないで関係をもった
恋人でない人と/名字の知らない人と/連絡先のわからない人と
うわさでその人がHIVだと聞いた
今、好きな人がいる/昨日、コンドームをしないで愛しあった
最低だと思いませんか?/飯島愛」

はい、あの本を思いだしました。決して、笑ってはいけませんよ。飯島愛さんは、「世界エイズデー」キャンペーンのメインパーソナリティに選ばれて2003年から活動しているといいます。→http://www.jfap.or.jp/

7面下5段抜通し 朝日出版社 『G線上のマリア』平本照麿・著
(コメント)「フォネット詩集」だそうです。フォネットは写真(Photo)とソネット(sonnet)を組み合わせた「新しい形の四行詩」だと言うんですが、それって写真詩集ですよね。昔からあります。
しかし、ダサくありません? こんなソネットらしいですよ(広告より転載)。

「ああ、マリア」
ぼくの体の中を風が吹き抜ける
なんと爽やかな朝の淫靡な残香
冷徹な肌に激しく燃え尽きた欲情よ
マリア、きみはぼくを狂わせた!

コピーに曰く。「女のもつ天使性と娼婦性。その魔性に振り回される男の宿命を、経営者の孤独な魂が歌い上げた、鮮烈のフォネット。」
これ、膨大な広告費用も自分でもった自費出版最大の道楽じゃないの? そうじゃ、なかったらこの時代錯誤の仰々しさをブチ上げる編集者の顔を見てみたい!
(ちなみにボクは「五行詩」というのを提唱しています(笑)!)

19面下5段35行 集英社 『コスモポリタン』2月号
(コメント)「総力大特集「男に『大切にされる女』大研究」」表紙モデルが『冬ソナ』のヒロイン「チェ・ジウ」! ヨン様の影に隠れてちっとも目立ちませんが、この女優さんを特集してくれたら買いますけど……(ブツ…ブツ)。

11面全面広告 東京電力グループ 『TEPCOひかり/Phoneひかり』
(コメント)いやぁ、文字のみで全面広告。それも、マゼンダ(赤)色一色と思ったらロゴの下「Powered Internet」というのが、そこだけ墨(黒)色でした……。

13面下7段抜通し コスモ石油
(コメント)「エコカード」を作って、環境保全事業に当ててますと言う広告ですが、それはいいことですが、なんかCO2の問題を抜きにして環境保全を唱えることが、免罪符を作ってるみたいです。でも、ロゴの上の「ココロも満タンに」って、ココロには何を給油すればいいのですか? コスモさん? まさか、お金? だって、コピー文が「使うたび、地球にいいこと」。地球のためには、消費を抑えるのが一番なんですよね。でも、産業界は困るよね?

14面下5段抜通し ユーリーグ株式会社 『テンダー・ラブ』 日野原重明・著
(コメント)コピー「93歳「愛」の書き下ろし/これからは愛する人にこう言って下さい。テンダー・ラブ。それは愛の最高表現です。」
きっと、このタイトルは編集者がつけたんでしょうが、これってプレスリー? ボクのカラオケの持ち歌です。「ラブ・ミー・テンダー」は……。読書の際のBGMにどうぞ(爆)!

結構、こうしてあらためて取り上げてみると広告って面白い。ヒマつぶしになるかも…(ヒマな時には、ですけど)。気が付かなかった。
他に面白かったのは(と、言ってもいいよね)、「この面白さは、カーンにも止められない!」(プレイステーション2ソフト)、「お嫁さん、お婿さん」。「ICHIRO写真付き切手」。文字だけ広告、墨一色「わーず・わーす創刊号」。「愛されてお金持ちになる魔法のカラダ」などが面白かったですね。ええ、ここの基準は「面白さ」です。丁度、同日に広告もありましたが、「Good Design」や「公共性」、ましてや「社会性」ではありませんので、最初に断っておきます。
といいながら、本日はのっけから「公共性」「社会性」で選んだような印象。むしろ今日はインパクトで、選びました(ちなみに12月1日は「世界エイズデー」でした)。→http://redribbon.yahoo.co.jp/

本日、飯島愛さんをTOPに推します。
(飯島愛さんの画像は、本年8月の横浜市で行われたAIDS文化フォーラムの公演プログラムから引用させていただきました。感謝します!)


アルファ・ケンタウロスから訪れたご先祖さまとヤフーのこと

2004-12-17 23:49:32 | トリビアな日々
gulliver_yahoo昨日、書き忘れたことがある。それはボクの先祖に関することだが、ボクの祖父のさらに曾祖父にあたる人で、その方は当時ヨーロッパに住んでいて、アルファ・ケンタウロスから乗ってきた宇宙船「浮かぶ島・ラピュータ」で自由にさまざまな国を旅行していた。もちろん惑星間飛行もたびたび敢行し、太陽系の惑星はすべて訪れており、その知識を細切れにしてどうやらケプラーやガリレオなどにも教えたらしい。
その過程で時代はやや下るが、どうやらイギリスでスウィストにも出会ったらしい。そして、スウィフトはそのボクの御先祖さまをモデルにして家畜であるヤフーを使役する知能のすぐれた高等生物であるフゥイヌムを創造したらしい。Yahooはいまや押しも押されもせぬ世界的なIT企業となったが、このボクらの種族に使役されていた人間によく似た家畜を命名の元にしたものなのだ。

スウィフトはその『ガリヴァー旅行記』で、ヤフーをこのように表現している。

「頭と胸は、縮れた毛や細く長い毛など様々だったが、とにかく濃い毛でびっしり覆われていた。髯は山羊の髯そっくりで、その上長い毛が、背中にも前面の臑から足にいたる部分にも、ふさふさと波うっていた。しかし、体の他の部分には毛が一本も生えてはおらず、したがって茶色がかった淡黄色の皮膚がまる見えであった。お尻には尻尾もなければ、毛も全然生えていないくせに、ただ肛門のまわりには生えていた」

なんだか、醜悪な動物だが、これはガリヴァーつまりあなたたちと同じ原始人のような家畜人間ヤフーの姿なのだ(ちなみに御存知だろうが、ここからインスパイアーされて謎の作家沼正三は窮極のマゾ小説『家畜人ヤプー』を書いたのだ)。
一方のボクら、すなわち『ガリヴァー旅行記』でいうところのフゥイヌム(Houyhnhnm)の姿は、馬そのものだ。ひづめを持ち、最初ガリヴァーにはいななきとしか聞き取れなかったが、フゥイヌム語を話す。これは、ボクらアルファ・ケンタウロス人の亜種であるベータ・ケンタウロス人の姿である。かれらは、ボクらの種族と違って上半身が馬で、下半身がひとであるというキマイラだからだ。

のちに、ガリヴァーもフゥイヌム語を習得してフゥイヌムたちに、フゥイヌムたちが言うところのヤフーの国すなわちあなたたち人間の世界を語って聞かせる。それは、作者スウィフトの思いそのものだったろう。この皮相なアイルランドの聖職者(スウィフトはその思いと違って聖職の道にあった)は、ボクの御先祖さまと運命の邂逅をすることによって、自分の同朋すなわちヤフーへの遠慮会釈ない批判精神を持つに至ったらしいのだ。

「人間の腐敗と余りにも違う、この優秀な「四足獣」の美徳の数々を見て、私の目は豁然(かつぜん)として開け、理解も急に深く広くなり、そのため、人間の行動や感情を今までとは一変した角度から眺め始め、自分と同類の者の名誉なんか考慮する必要はない、と私は思い始めた。」

きっと、スウィフトにとっても、ボクの御先祖さまとの出会いは、衝撃的な出会いだったのだろう。そして、舌鋒鋭くガリヴァーはいや、スウィストはまるで「ユートピア便り」のようなフゥイヌムとヤフーつまり人間の世界を比較していくのだ。

(画像は1996年制作のTV番組『ガリヴァー旅行記』より。家畜人間ヤフーたち)


アルファ・ケンタウロス人としての自覚と決意

2004-12-16 21:52:05 | まぼろしの街/ゆめの街
tangerine_alpha(なんだか唐突な始まりだが、「宇宙人」というのはボクの友人Oが、最近好んで使っている言い回しだ。いわば、表現形態がアヴァンギャルドであることを言っているらしいのだが、それ自体エイリアンとか異形なものというニュアンスも含めているとボクはかってに解釈している。というところを導入部にしておこう。なんて、親切なブログだろう? で、中で触れていることはボクの真実の物語でありますが、これは内緒話ですよ。ネッ。)

「宇宙人」と名乗ることはボクには「痛み」がともなう。こころのファントム・ペインだ。
というのも、それはボクが18歳くらいの時、年上のたしか23歳くらいのおんなと別れる時に使ったセリフなんだ(笑)。
いや、その時に流れた異様な雰囲気をいまここで説明しようもない。相手はキツネにつつまれたような顔をしてるし、ボクはSFファンの意地くらいの気持ちで、必死になって説得していた(後腐れないよう別れたかった)。言っているうちに、自分でも本気になってアルファ・ケンタウロスから来た、使命を帯びた「宇宙人」のような気がしてきたんだ(ボクはSFファンジン『M31』というのを中学時代から主宰するSFファンだった)。

で、それからだ。ボクは地球生活になじみすぎて忘却してしまった自分の宇宙人としての「使命」を探しだしたんだ。ボクは、アルファ・ケンタウロス星人としての使命をどこにとり忘れてしまったのだろうって……。

ケンタウロスのことはギリシャ人がよく知っている。なんらかの交流やコンタクトがあったに違いない。ケンタウロスはボクらの種族の本来の姿をしている。この地球では、まさしくキマイラとしか言えない姿だ。
上半身は人間と同じだが、下半身が馬なのだ。ゆえに、手足が6本あることになる。そして、ボクらの種族は精力絶倫だ。この星では、たまには牝馬とも交わってみたが、やはりいけない。人間のおんなと後背位で交わる方が、まだましだ。

そして、ボクが年上の女と別れて以来、探しつづけてきた「使命」はまだ見つかっていないのだ。悲しいことに、アルファ・ケンタウロス人としての「使命」を忘却してしまったボクは、「地球人」として、この地上で生き死ななければならないのだ。そうであるのならば、せめて、せめて……ボクをあまたの星のカケラのひとつとして、この星の土にしておくれ! ボクの故郷のアルファ・ケンタウロスには土がないんだ。地球のような生態系の循環と言うものが存在しない。だから、この第二の故郷の豊かさがうらやましい。そして、その星に生まれたものたちの傲慢な、どん欲さが信じられない。この星の人間たちは、自らの星を汚し、唾棄してやまない。暗黒の宇宙空間の中で、奇蹟のようなこの星の美しさを汚そうとしていることが、信じられない。

そう、どうかボクの亡骸は「樹木葬」でお願いしたい! この豊かな星の久遠の、循環の中にわが身をゆだねてみたいから……。
(ボクの正体を含めてこれは内緒の話ですよ…。秘密にしておいてくださいね)

(画像はボクが70年代から惚れ込んできたタンジェリン・ドリーム『アルファ・ケンタウリ』ジャケット)