風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ターニング・ポイントとしての1967年(1)

2005-04-30 16:00:07 | アングラな場所/アングラなひと
wall_press1 「大字報」としてのブログ

そう、ひと月という単位を区切りとして認めるならば、今日は記念すべき日だ。よく聞くんだが、これまで日記なんか三日坊主だったというひとたちが、どういう訳かブログではものすごく勤勉になって、マメに更新しているということがある。ブログの毎日更新パーフェクトをこの4月、ボクは達成した!

これもひとえに、アクセス解析やらMIXIでいうところの「足跡」機能のもたらした喜びかもしれない。そう、ひとは自己顕示欲求の中で生きている。表現はなんというか、人間の「基本的人権」だと、ボクは思ってる。
書くこと、表現すること、コミュニケーションすること。それらは、ボクも印刷技術時代から(それこそガリ版の時代から)魅惑されていた手段だ。

ジャーナリズムが、まだ幻想として君臨していた頃から、ボクはミニコミはひとつの大新聞社や、出版社や、TV局とも対抗する自立的なメディアだと考えてきた。
でも、それも読者あって成立する世界だ。表現することは、読まれること、関心をもたれることというその上で成立するものだ。
かって、カウンター・カルチャー系のミニコミであった『人間家族』(現在も、月刊誌として刊行されている)とよく間違えられた『地域-家族』というミニコミを刊行していたボクは、季刊誌形式で定期購読200、発行部数500部という世界で、自己満足していた時代もあった。
この『地域-家族』は、当時、別離すると同時に共同生活を営んでいた女性に譲り渡し、このミニコミはボクの手を離れてから、フェミニズム系のミニコミとして有名になったようだ(『女のネットワーク』、『女・エロス』などに紹介される)。

当時から考え続けていたのが、「民衆のメディアは可能か」というテーゼ(命題)だった。そういうと何だか硬く考えられてしまうが、グラフィティ(落書き)や、ファッションまでも含めた民衆表現としての可能性が、ボクのテーマだった。ボクのイメージのなかには、つねにあの文革の頃、民衆の発言、表現の手段だった「壁新聞」(大字報)がある。こうして、ブログの時代になっても、ボクらが読んでいるのはモニターに映し出された「デジタル壁新聞」ではないか! と、つくづく思うのである。
   ??????????????????????????????????
フーゲツの JUNさん、こんにちは。
mixiからのお知らせです。JUNさんのページ全体のアクセス数が1000アクセスを超えました。記念すべき1000アクセス目の訪問者はレイさんでした!
ありがとう! レイさん! 記念品としてオイラの熱いキッスを、プレゼントさせていただきます!
こんど、横浜のアトリエに遊びにいった折にでも、プレゼントさせていただきます。エッ、いらない?
いや、受け取ってもらいます(笑)。
ちなみに、ブログとしてはMIXIの外部リンクである『風雅遁走!』は、4/29現在、アクセス数は4,353というカウントです。


ものもらひのうた(2)/黒田オサム

2005-04-29 01:15:56 | アングラな場所/アングラなひと
osamu_0424黒田オサム翁は、また画家でもある。本人がユーモラスであたたかい存在であるように、その描く作品はどこかひとコマ漫画のようにホノボノとしている。横浜で聞いた話では、翁はその昔「文春漫画」に作品が掲載され、原稿料をせしめたことがあったらしい。
黒田オサム翁を見ていると、ボクは自分の父のように親しみを覚えるもうひとりの放浪の画家であった長谷川利行のことを、思い出してしまう。長谷川利行の場合は、その足跡そのものが下町や、池袋や、新宿や太田などにあり、そのことがまた一段と親近感を覚えさせてしまうのであるが……。
長谷川利行は、行露行倒れ者として収容されて名もなき放浪者として死んでしまう(いまは竹橋の国立近代美術館にさえ収蔵されるようになっているが、生前、絵の具も買えなかった利行はあの世で喜んでいるだろうか?)。

黒田翁は、最近では、パフォーマーとしてもとみに海外でも知られているが、その原点は農家のタタキでもんどりうったり、ひっくりかえったり身体を張って編み出した食わんがための、ひもじさを解消するための必死の芸だったのであるらしい。と、ここで、ボクはそれは土方巽の暗黒舞踏の原点とどう違うのか?などと不遜にも考えてしまう。
しかし、路上でこそその芸が冴え渡るなんて、あとはボクの知っている限りギリヤーク尼ケ崎さんくらいしか思いつかない。

あの日、誰も、道ゆく人たちは気付かなかったかもしれないが、海外から来た見事な大道芸は野毛にはあったとしても、乞食芸やホーボーの「おもらい」精神を発揮した「芸」なんてものが、他にあそこにあっただろうか?
プロ級の中国雑技団が曲芸を見せ、ヨーロッパの芸人が見事なジャグリングを見せたからと言って、生き方そのものを芸にする「おもらい」の精神を天道(太陽)のもと、大道(路上)で発揮した黒田翁の「ホイト芸」は、ボクに山之口貘の詩を体現しているみたいだ、と思わせ感動させたのである。

これは、インドで言えばありふれた乞食(こつじき)たちの大道芸や、放浪の旅芸人であるバウルや、ラジャスターンの踊子たちを連想させた。なんというか、神道の言葉で「かんながら」というものがあるが、虚心に神のおわしますままに、したがうと言う境地なんだけど、この境地をボクは黒田翁のホイト芸に感じた。大袈裟かも知れないが、これは日本のバウルだと思ったものである。
(黒田翁のパフォーマンスは、このブログでも感想を書いた昨秋の「成瀬信彦・公演」の時も見ているが、これほどボクのこころを打たなかった。きっと、ギリヤークさんの芸を舞台で見ても感動しないだろうと思うのと同じ次元だ。もっと言えば、小林ハルさんのゴゼ唄を「国立劇場」で、人間国宝の「芸」として鑑賞するようなものだ。本当に、今回、路上で見れて良かったし、共演できてよかったと思う。)


ものもらひのうた(1)/山之口貘

2005-04-28 02:27:16 | アングラな場所/アングラなひと
baku_1ものもらひの話

家々の
家々の戸口をのぞいて歩くたびごとに
ものもらひよ
街には沢山の恩人が増えました。

恩人ばかりを振ら提げて
交通妨害になりました。
狭い街には住めなくなりました。

ある日
港の空の
出帆旗をながめ
ためいきついてものもらひが言ひました
俺は
怠惰者(なまけもん) と言ひました
(詩:山之口 貘)

なんだか、高田渡さんの死をきっかけとして、ボクの思考は「ものもらい」、「乞食(こつじき)」、「放浪芸」といったところをグルグルグルグルいつまでも廻っている!
横浜でホイト(「祝言」という意味から派生したこれも「乞食」「門づけ」という意味)芸の黒田オサム翁と共演し、昨日はゴゼ唄の伝承者だった人間国宝の小林ハルさんのことを追悼した。
そして、ずっといまこそ読みたいと思っていた山之口貘の詩にこの「ものもらひの話」という詩を発見した時、奇妙なこの暗合、収斂はいったい何なんだ! と、考えてしまった。

今度、じっくり話をきく機会があるだろうが(実は近所なのだ)、黒田オサム翁は、その生きざまがサカキ・ナナオや、山尾三省に近いものがありながら、「部族」や「和製ヒッピー」との交流はなかったという。まして、新宿風月堂は横目で見るだけだったという。でありながら、戦後間もない頃、食いつめた仲間たちと農村地帯をまわり、それこそ門づけのような芸をやって「ものもらい(おもらい)」で食い繋いだと言う。

(続く)
(写真は詩人・山之口貘/1903―1963 バクさんと親しみをこめて呼ばれた山之口貘は終生、お金とは無縁のそれでいて高踏的ではない詩人だった。高田渡さんが、アメリカン・フォークのメロディで換骨奪胎して歌い紹介した。)


こころの目があった/最後のゴゼ・小林ハルさんの死

2005-04-27 02:02:29 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
hal_kobayashi現時点で76名の死者、負傷者450名の犠牲者を出したJR福知山線の脱線事故の報道があった25日の新聞にたったひとりの老婆の訃報が掲載されていた。訃報欄としては小さくもなく、写真入りだったから別格だったが、大きな事故報道の中では見逃しそうな記事である。

「最後の越後ゴゼ」と言われていた小林ハルさんが、25日午前2時10分に入所していた特別養護老人ホーム「胎内やすらぎの家」(新潟県黒川村)で老衰のため亡くなったと言う記事であった。享年105歳!
すばらしく長生きをなさったものだ。
晩年は、その芸によって重要無形文化財(人間国宝)という栄誉を得たが、ハルさんの一生はその少女時代から、それはみじめで苛酷なものだった。
ゴゼ(瞽女と書く)さんとは、三味線を片手に数人で数珠つなぎになって農村の家々を門付けしてまわった盲目の旅芸人の事を言う。ハルさんは、1900年(明治33年生まれ)に三条市で生まれ、わずか100日余で白内障のため失明した。そして、いまから100年前の5歳くらいの時にゴゼの道に入る。20年の年季奉公であった。かっては、失明や障害を持ったことは前世の「業」と考えられいたく差別された。障害を持つことは、世間体が悪いことのみか本人の「宿業」だと考えられていたのである。年季奉公は、幼いハルさんを不憫に思っての祖父の処置であった。
それ以来、それこそ血のにじむ稽古をして三味線とゴゼ唄をハルさんは覚えていく。
26歳になって、やっと年季奉公の明けたハルさんは、ゴゼとして独立する。もう、これからは誰の指図も受けることはない。子どもの産めない身体になっていたハルさんは、養女をもらい受ける。その子はわずか4歳で亡くなってしまうが、その2年あまりのはじめての子育ての間に、ハルさんは幼い自分に実母かと思うほど厳しかった母の仕打ちが、障害をかかえてたハルさんをひとりできちんと生きていけるようにと、心を鬼にしての親心だったんだとはじめて気付く。ハルさんは、そこではじめて母の気持ちを理解して、さめざめと泣いた。

「本当に涙がこぼれるようなことがあっても、涙隠してきた。泣いて唄うたえる訳じゃないから」

以来、ゴゼの親方となったハルさんは、どのような者でも拒まずに弟子入りしたいものがあれば、引き受けてきた。

「いいひとと歩けばそれは祭り、悪いひとと一緒は修行」

苦労は買ってでもしろという母や祖父の教えのままに、ハルさんは実直なまでにそれを実行してきた。
以来、ゴゼの道を70年近く歩んできたハルさんは、昭和48年にゴゼを廃業することを決める。そして自ら、老人ホームに入居しに行った。

その後、時代はやっとこの忘れられたゴゼ文化の最後の伝承者であるハルさんの存在の重要さに気付く。ゴゼそれ自体の存在も、おおくの人が知るのもその頃、作られた映画や、小説や、TV番組によってであった。

昭和53年、小林ハルはゴゼ唄の文化伝承者として重要無形文化財(人間国宝)に選ばれ、はじめて国立劇場という晴れがましい場所でゴゼ唄をうたった。孫のような弟子もその後、取ったりもした。
ハルさんは、言う。

「生きている限り、すべて修行だと思ってきました。だけんど、こんど生まれてくるときは、たとえ虫でもいい、目だけは、明るい良く見える目をもらいたいもんだな」

長寿を全うした小林ハルさんは、ひとの心を見通すような心の目をもっていたと思う。そして、いま人間の本質を見ることができる光も闇もない清浄な世界にゆきついたのだと思う。御冥福をお祈りします。合掌。
(ハルさんの言葉は、若干脚色。)

参考文献:『鋼の女(はがねのひと)』下重暁子 (講談社)
     『最後の瞽女 小林ハルの人生』桐生清次(文芸社)
     『小林ハル~盲目の旅人』本間章子(求龍堂)



路上で人の人生の片鱗を覗く……

2005-04-26 02:23:11 | 曲水の宴/う・た・げ
noge_424(昨日の記事の続きです)ひとつ書き忘れたことがあった。ライブペイントというべき似顔絵描き(というよりほとんどアートになっていて、1枚Tシャツとも1,500円は安いと思った)を展開した井上玲さんのフォローに入った時(似顔絵のお客様へのサービスとして日傘をさして差し上げ、お客様との会話を担当する。で、画家は作画に集中できるとその場で思いついたフォローでした)、そのセクハラ的会話がボンボン出てくる年の頃70代半ばのお客様は、なんと1950年代頃から都内で15店あまりのキャバレー(ピンクではなく、ステージがあり、ダンスフロアがあり、バンドや歌手を店がかかえるという「キャバレット」形式の本来の「キャバレー」)を経営していたというお客様でありました。そのちょっとホロ酔いのお客様を担当した時、その方の話の端々に上るタレント、歌手、やくざの組織の名前(いやいやビックリしちゃいますよ!)に驚きました。なにしろ「キャバレー王」福富太郎さんと、一時ははりあってたらしいです。何かあったのか、その都内15店展開のキャバレーを潰しちゃったとおっしゃってました。

なんか、こういう風にひとのそれぞれの人生の苦労話を聞くと言う仕事と言うか、そういう芸がないかなぁと思っちゃったくらい。それをインタビューとか、ノンフィクションとかいうのであれば、それってボクに向いてるかも知れません。どなたか、仕事下さい……!
似顔絵が描きあがると、その方のそばに終始立ってらっしゃった奥様から500円のチップが上積みされ、玲さんはボクにちゃんと半分くれました。ありがたや、ありがたや!
で、二日間の稼ぎ、しめて810円でした(ラッキー!)!(笑)
(黒田オサム翁と二日間を過ごしたせいか、どこか「おもらい精神」を学んでしまいました(笑))
(写真は、この日の衣裳が一番映えたワンショットです。(写真)高草木裕子)


大道詩人・大同小異(じゃなかったみたい!)

2005-04-25 18:27:42 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
050423hatsuki_1横浜吉田町アート&ジャズ・フェスティバルは、関内駅から野毛へ向かうその途中の通りで、橋を渡ったら人のひしめく野毛大道芸フェスが繰り広げられている。大道芸フェスはもう20年間も続いているという(で、年2回やったこともあったので今回は30回目!)が、この吉田町通りのアート&ジャズフェスは4年目だという。歩行者天国のように車が通行止めになって、午前11時から午後5時までのあいだ路上に100あまりのブースが出現し、思い思いに自作の絵葉書を売ったり、作品展示したり、似顔絵描きにいそしんだりする空間が二日間だけ出現する。ここに、横浜在住のガンジーさんがオーナーとなって「Liberty-comm」、美術家集団の「Element」の路上ギャラリーが出現した。ま、それなりにお顔はよく知っている面々だが、そこに一応「Liberty-comm」の読者と言う名目でボクは加えさせてもらって、客寄せパンダの代わりにギャラリーの前でパフォーマンスをやれという仰せであった(作品展示:高草木裕子、黒田オサム、高橋理加、似顔絵描き/井上玲、オーナー:ガンジー、店番:羽月雅人)。
実質、二日目にはさらにお隣の「うらなか書房」(堤花代/インディーズ出版)が、ボクなんかの「また友」だということが発覚し、三つのブースでの入り乱れた展開となった。
第一日目のパフォーマンスは、昨日も書いた黒田オサムのホイト芸、フーゲツのJUNのポエトリー・リィディング(サポート/サックス:ガンジー)、のんべ(蔵重智)。のんべさんは、実質路上デビューだったという。
で、24日の二日目は黒田オサム(サポート/春田祐介(Dr))、フーゲツのJUN(Poet)、オカニワフミヒロ、ガンジー(as)そして飛び入りで野村おさむ(Dr)。風船パフォーマンスの谷川まり。
ボクは二日目は予定外だったが、ガンジーさんの事務所に泊まって(フトンはありません!)この日も参加した。なんだか、調子が出てきたのか隣の隣にあるステージのブルースに合わせて踊ってるだけで、写真を撮りまくられました(アマチュア・カメラマンの高橋さんに送ってもらいました)。羽月さんにはパフォーマンスの様子の珍妙なスケッチを描いてもらったり(もう死神みたいなものと、オサム翁たちとのセッションの様子とか。この画像を本日はアップ!)、黒マント、黒づくめはちょっとステージ衣裳として定着しそうです。
楽しかったし、有意義でした。この日のテーマは「大道詩人/大同小異」だったのですが(パフォ-マンスする時に、看板に掲げた)、他にポエマーがひとりもいなかったので、大同小異どころかユニークな存在に思われたみたいです。大道芸人ならぬ大道詩人としてボクの生きる、もしくは食いつめて生きられない(笑)世界が広がってくるでしょうか?



横浜ストリート報告(表現を動物行動学でたとえてみると…)

2005-04-24 23:04:10 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
noge_424_1う~ん、これはライブ・パフォマーとしての自分の感想だから、客観的ではないのだが、ボクのパフォーマーとしての今日の稼ぎ550円が語っているように、ぼくのポエトリーを最後まで聴いていこうという観客をひきつけることが出来なかった。流動するひとの流れを、ひきつけ自分の世界にどう滞在させて夢を見させるかと言うことが、ボクのテーマであり続けているのだが、ボクはまだまだ未熟だ。

その意味では、ホイト芸の黒田オサムさんの、パフォーマンスはそのひょうきんさで、どこか抜けている。
第一オサムさんは、可愛いジィさんだ。女の子はきさくに話しかけもする。ボクはといえば、いったい誰が感動したといって話しかけてくれただろうか?

えっ! そんなのが、パフォーマンスの基準になるの? なんて、言わないでくれ!
表現は、所詮じぶんの性や、欲望や、とんでもなく低次元かもしれないが、これ以上の原点はあるまいと思う「異性にもてたい」という、ただただそんな欲求から発したものだと言うことだ。邪(よこしま)かも知れないが、そんな欲求が勉学や、研鑽に結びつくのだ。

そう、表現とは、言い換えれば動物の「交尾行動」に他あるまい。オスの孔雀が、その妙なる美しき羽を、打ち震わしてメスを誘惑、こわくする様に、メスをひきつけ自己表現するその行動とどう違うというのだろうか?
(普遍化して言えば、交尾行動こそが文化=カルチャーを生んだ? そして、その意味もっともセクスシャルな表現者は、ロックスターかもしれない。)

画像も、まだ横浜に滞在中でアップできないのだが(急遽、明日も同じところでパフォーマンスを敢行する。明日は、黒田さん、オカニワさんが予定されている中にボクが、まじる。吉田町通りの終わりの方のブースである)、美しい横浜の港の光景などというものも見てしまった。21世紀の横浜はなんだか、シンガポールみたいな混交したエキゾチズムを感じてしまうではないか!

横浜ライブ・レポートでした。では、また、明日!
アデュオス! アミーゴ!
(この記事は24日の0時過ぎにガンジーさんの事務所で書いたものです)




今日、大道詩人になります!

2005-04-23 02:39:53 | イベント告知/予告/INFO
homelogo今日、明日は代々木公園でアースディもあるのですが、オイラはこの有名イベントに大道芸人のひとりとしてポエトリー・リィディングを敢行します!
仕掛人はブースを確保したガンジーさん。共演者はホイト芸の黒田オサム、のんべ(蔵重智)さん。どうなることやら?

関内北口吉田町アートフェスティバル(吉田町通りのなかほどらしい)に出演。横浜中が大道芸やアートであふれかえる二日間になりそうです。




ブログ作法/「ユリイカ」4月号特集批判

2005-04-23 01:41:02 | ブンブク文学/茶をわかせ!
eureka_4
まだ読み終わっている訳ではないから、本来なら触れるべきではないのだが、きっと精読も読破もしないだろうから(それは、雑誌の宿命みたいなものだろう)軽いフットワークで書いて終わりにしておこう。
ボクが何のことを言っているかのと言えば、『ユリイカ』の4月号の「ブログ作法」という特集のことだ。

全体を切り捨てると、「はてな」対「ミクシィ」みたいな対立でとらえられているのが、あんまり面白くない。ボクなど、「ミクシィ」に入ってはいても(今年の1月末)、その日記はミクシィではなく外部のブログ(OCNの「blogzine」と、ミラーサイトのteacup?もともとはteacupのブログがメインだったが、アクセス数も後発のOCNの方が、抜き去りそうである?)に飛ぶから、別にミクシィに入っていない(登録していない)人でも自由に読む事ができる。ミクシィのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)は功罪半ばすると思っているし、むしろこの会員制(メンバーに招待されるという紹介者が必要なシステムなところも、なんだか昔の「会員制倶楽部」を連想してしまう。もしくはライオンズ倶楽部か?)システムには弊害もあるのではと思っているが、よく言えば顔の見える関係性があって匿名性とは反対の意味でコミュニティは作りやすい事は確かである。

もうひとつは、ブログ全盛の現在のことを語るのに、プロのライターも評論家も歯切れが悪い。書くと言う事や、 狭いジャーナリズムや出版の世界に閉じこもってきた人たちが、むしろこのような素人が発信・表現する手段を持ったことに脅威を感じているのではないだろうか、と思ってしまう。

特集の中心と目される対談からして、こんなものを読ませないでくれ!と世界の中心で叫びたくなる(笑)ほど内輪ネタ(この場合「はてなブログ」メンバー)のヨイショと、オチに満ちていて「ユリイカ」という詩誌は、ヴィジュアル面は全然ない活字だけの専門誌だから、なんだか流行に乗ったが結果、墓穴を掘ったな、と思えてしまった。

ここで、ばるぼらというひとの言い方をもじってボクなりに寸評すると、こうなる。

ユリイカの「ブログ作法」に足りないものはコンテンツを、表現する文章力である。

ユリイカの「ブログ作法」に足りないものはブログを、分析する思想性である。

ユリイカの「ブログ作法」に足りないものはブログを、集積したデータベースである。

ユリイカの「ブログ作法」に足りないものはオフラインゆえに、リンク集を作られても仕方がない活字メディアの硬直性である。

ユリイカの「ブログ作法」に足りないものはまったくもってアングラ精神である。


特集*ブログ作法(目次)

■痛快娯楽大河座談会一挙掲載
激突!はてな頂上作戦  仲俣暁生 栗原裕一郎 鈴木謙介 吉田アミ

■ブログは燃えているか?
史上最弱のブロガー  内田樹
「ブログ作法とは何か」とは何か  北田暁大
接続者のしかばねの上に萌えるもの、あるいは工作者の逆襲?  上野俊哉+泉政文

■私の眼を通り過ぎていったネットたち
BBSからブログへ??極私的ブログ考  稲葉振一郎
ミクシィは「出会い系」か???2ちゃんねる・ブログ・ミクシィ  小谷野敦

■ブロガー、その栄光と悲惨
「たけくまメモ」繁盛(させたい)記??誰もがメディアになる時代  竹熊健太郎
ブロガーがネットを発見する  スズキトモユ

■紙が批判する
活字とWebのコンティニュイティ??雑誌化したBlog  佐藤真
日記からアクションが生まれる  南陀楼綾繁
遮光された部屋??ブログの画面論  鈴木一誌

■ブログ批評へのアプローチ ブログ・ガイド100@2005  編=栗原裕一郎   
メタブログ  松永英明   
オタク系  加野瀬未友   
人文系  山本貴光+吉川浩満   
アート  野中モモ   
音楽  増田聡   
著作権  末廣恒夫   
ニート・ひきこもり  上山和樹   
文学?  近藤正高   
ブログの書籍化  速水健朗   
ネクスト・ブログ  ばるぼら

■画面の前後左右
ブログ年表1993--2005  編=ばるぼら


天使はすぐソバに舞い降りた

2005-04-22 01:18:41 | トリビアな日々
angel_1近所の手打ち蕎麦屋さんで、出会った天使のことを書きたい。
昼食をとりに行ったその手打ち蕎麦屋さんは、ほとんど地の農家の副業というか、趣味でやっているような店で同じ店内の片方は、奥さんがやっているカフェになっているのだった。で、そんな店でも周りに店鋪のあまりない中では、昼食時は、さすがに混むようでボクはそのカフェの方のスペースに追いやられ、そこで野菜天婦羅とざる蕎麦を注文した。ま、金があれば冷や酒も飲みたかったが、さすがにそこまで落ちぶれて(?)いないようで、昼間から酒を飲む事はめったにない。
まわりには、ちょっとした壁面ギャラリーになっていることもあって、色々なものが置いてあるのだが、そこで、窓から差し込む柔らかい午後の日射しの中にこの天使を発見したのだった。
ちょうど、逆光になっていたのだが、むしろそのために天使のガラスのスカートと、透き通るように乱反射する影がなんだか、闇に浮かび上がる天使そのもので美しかったのだ。
そして、この時のBGMはどういう訳か、ビートルズだったのだが、同時に御亭主が粉引きする石うすのきしるような音もあった。この店は、蕎麦粉も石うすで挽いてから蕎麦を打つという、こだわりの店であるらしい。
とても、幸せな心持ちになったのだが、ただBGMはこのときほどグレオリオ聖歌やバロックが良かったな、と思わない事はなかった。

すこし、黒ずんだ蕎麦をすすりながら、じっと見ていると、うつろいゆく光の反射を受けて、その天使はボクに囁いているようだった。

天使はすぐそばに、あなたのすぐソバ屋にある、って!


ローマ法王選出会議のこと

2005-04-21 01:05:43 | トリビアな日々
vachikanヨハネ・パウロ2世の死去に伴う265代めの新しい法王を選出する会議は、通算4回の決選投票を経てドイツ出身のヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿を選出した。新法王はベネディクト16世となり今後世界のカソリック界の最高指導者として君臨するが、イタリア以外から法王が選ばれたのは、455年ぶりで二人目だと言う。
いや、カソリックましてやキリスト者でもないボクがこんな話題を、持ち出したのは他でもない。バチカンのシスティーナ礼拝堂(ミケランジェロの天井画、「最後の審判」で有名)の中に隔離されて、密室状態の中で、行われたこの法王選出会議をラテン語でコンクラーベというというその音のおかしさに、立ち止まっただけである。それも、きっとTVのニュースキャスターも、あのニュースをさらなるエンターティメントにしようと燃えているはずの(?)古館さんも喉まで出かかってて、言えなかったジョークを言いたいだけなのである。
それも、世界中から投票権を持つ、80歳近い枢機卿115名が集まり、数万の信者が固唾を飲んで見守る中、投票4回目、二日目にしてシスティーナ礼拝堂に、そのためにわざわざ作った煙突から、白い煙りがあがって見守る信者たちは、歓声をあげた。
いや、その中世的な仰々しさを云々したい訳ではないし、新法王がヨハネ・パウロ2世同様の超保守派と目されているということを言いたい訳ではない(たとえば、人工妊娠中絶反対の急先鋒であることなど)。ボクはちょっと、無責任に揶揄したかっただけだ。
ベネディクト16世=ヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿は、選出後の演説で述べている。「神はそのぶどう畑の小さな働き手をお選びになった」。
選ばれた新法王も78歳でいらっしゃる。選んだ枢機卿たちは、80歳近い人たちである。いやはや、本当に根比べのようなコンクラーベ! お疲れさま!

(この日、文学者・丹羽文雄さん(100歳)と岡本太郎の秘書であり養女、その実、愛人だった岡本敏子さん(79歳)の訃報があった)


うつろいゆく季節は哀しい(東京春景色櫻之文章其ノ五)

2005-04-20 01:45:44 | トリビアな日々
nogawa_sakura桜が、葉桜になり(しだれと八重はまだ咲いている)緑陰が増すと、次はツツジの季節になると思っていたら、もう、咲いていた。ま、これは公園の植え込みのものだから手入れもいいのだろうが、だんだん緑濃いさわやかな、一番好きな季節になっていく。
もっとも、これは東京の話で、東北は今頃が花見の真っ盛りであり、桜が満開となる。さらに、GWの5月となるとやっと桜前線は、北海道に上陸するのだ。

結局、桜の時期にふたりの大事な存在を失った事になる。岡田史子さんと、高田渡さん。その喪失の哀しみが、薄れる頃には初夏が来るのだろうか?

無性に、山之口貘の詩を読みたい。昨日、この詩人をディアスポラな詩人と書いたら、もうひとりの故郷喪失者とは、とりもなおさず自分のことであり、そのボクもまがりなりとも詩を書いている。
ああ、季節はうつろってゆく!
哀しいからこそ詩がいるのだと書いた詩人の詩を読みたい!

「生きる先々」
僕には是非とも詩が要るのだ
かなしくなっても詩が要るし
さびしいときなど詩がないと
よけいにさびしくなるばかりだ
僕はいつでも詩が要るのだ
ひもじいときにも詩を書いたし
結婚したかったあのときにも
結婚したいという詩があった
結婚してからもいくつかの結婚に関する詩が出来た
おもえばこれも詩人の生活だ
ぼくの生きる先々には
詩の要るようなことばっかりで
女房までがそこにいて
すっかり詩の味をおぼえたのか
このごろは酸っぱいものなどをこのんでたべたりして
僕にひとつの詩をねだるのだ
子供が出来たらまたひとつ
子供の出来た詩をひとつ
(詩:山之口貘)

※(写真は今期桜の見納めとなった都立武蔵野公園野川沿いの桜。流れは干上っていた。4月16日「はらっぱまつり」花見にて。)
<東京春景色櫻之文章其ノ五>完。


タカダワタル的生き方

2005-04-19 00:54:35 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
wataru_5fuusenミクシィ仲間にもなった仙さんからの私信によれば、ボクはあの日(16日)、高田渡さんの訃報を聞いた時、泣いていたのだそうだ。自分では、自覚はなかったがわずかなりとの時間を共にした思い出が、甦ってきたのかもしれない。

渡さんと一番近い距離にいたのは、70年代の中頃だ。東伏見にあった都市型コンミューンが終ってしばらくたった頃、同じそのアパートに引っ越してきたシバと仲が良かった。シバもまた、永島慎二氏のアシスタント経験を持ち、マンガを描いていたから親しくなりボクはしばしば(シャレ?)シバの部屋に遊びに行っていた。練習するシバのブルースハープと歌を独占して聞いていた。そのシバが出入りしていたのが、吉祥寺の「ぐわらんどう」だった。小さなビルの2階にあった小さなフォークのライブカフェで、そのオーナーというのも自ら主夫宣言をして本も書くというたしか村瀬さんと言うのだった。ママもフェミニストで二人は、名物夫婦だったが、その店を拠点として「武蔵野たんぽぽ団」というバンドが生まれた。そして、シバはそのメンバーで、リーダー格が高田渡さんだった(「武蔵野たんぽぽ団」という名前では中津川フォークジャンボリーでデビュー)。
小さな店の片隅で、シバや渡さんや「たんぽぽ団」の演奏を見ていた。
その実、ボクはその頃もまだジャズファンを自認していたから、足しげく通っていたのは「Meg」の方であった。だから、「ぐわらんどう」はそんなにも通った口ではない。それでも、このような思い出をもてただけでも良かった。「ぐわらんどう」は、その店名をタイトルにしたマンガも描いたことがある。「ぐわらんどう」とは「がらんどう」、中味のない虚ろな空間のことを言う。それは、当時のボクなどにもとてつもない皮肉に聞こえた。

武蔵野市に住み続けた渡さんは、60年代の末「自衛隊に入ろう」で、一世を風靡して登場したが、もうその頃には反戦フォーク歌手と言う政治的で、過激なマスクはかなぐり捨てて、淡々と飄々とマイペースで、それこそ渡さんが、憧れ続けてきた年金生活者もしくは浮浪者予備軍のように生きていた。
仙人のように霞を食って生きてるんですか?というのは、ボクも散々言われたが、渡さんは若くして、余生を楽しむ老人のように生きていた。急がず騒がず、まるでスローでかたくなな知恵者である亀のように……。

その生き方というのが、どこかウチナー口を失い、どこまでも沖縄に憧れて都会で生きた詩人・山之口貘の生き方を連想させてしまう。渡さんが、そこまでもこの詩人を愛したのは、共感以上にディアスポラ(故郷喪失者)の、その根が揺り動かす「うた」(ことば、詩といってもよい)の力だったのだろう。

「生活の柄」
歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところかまわず寝たのです
歩き疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ
寝たのですが
眠れないのです
このごろは眠れない
陸を敷いては眠れない
夜空の下では眠れない
揺り起こされては眠れない
歩き疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ
寝たのですが
眠れないのです
そんな僕の生活の柄が夏向きなのでしょうか?
寝たかと思うと寝たかと思うと
またも冷気にからかわれて
秋は秋からは
浮浪者のままでは眠れない
秋は秋からは
浮浪者のままでは眠れない
(原詩:山之口貘/詞:高田渡)

(今日の朝日新聞の夕刊に早川義夫さんの追悼文が載っていた。その末尾のことばを最後に引用させてもらっていいだろうか。
「耳を澄ませばいつだって声が聞こえてくる。僕は悲しくなんかない。」
ボクにとっては、「新宿風月堂」を知る人物が、またひとり去ったのと同じである)



地震と耐震構造のハナシ

2005-04-18 03:15:57 | トリビアな日々
wtcドーンと地面の下の方から、底鳴りがしたので一瞬スワッ来たかと身構えてしまった。20時9分千葉を震源とする地震のことだ。余震が来るかと思ったが、その最初の衝撃で収まったようだった。
数年のうちには、かならず来ると言われている東海地震や、関東地震が怖い。そのXデーには、どう対処すればいいのか分からない。最近は東京に住みながら、あまり都心や高層ビルのあるあたりには行きたくない。ましてや、そんなビルの中にいるところに大地震が来たらと考えると怖気をふるう。
料金が高いということもあるから、一切足を向けないが、夜景を楽しみに高層ビルの中にあるレストランで、会合などが設定されたりすることがある。そういう時は、なるべく他のひとがキレイキレイと叫ぼうが、外は絶対に見ない事にしている。高所恐怖症という訳ではないのだが、○○タワーと名付けられたたぐいのビルには近付きたくもない。

80年代頃に建築された高層ビルは「軟構造」で、ビル全体が振り子のように揺れて、揺れを吸収するという耐震構造だった。建築学的にはよく知らないが、現在はむしろ硬構造で基礎の部分に滑車がついていて、一緒に左右に滑りながら吸収すると言う方法になっているらしい。

その軟構造の方の高層ビルに居合わせて、地震を体験した事がある。それは、まるで船酔いしそうな気持ち悪さだった。まして、上階にいればいるほどその揺れは大きく、長く続く。そう、地震が終熄してから10分以上もそのビルはユラリユラリと揺れ続けていた。ボクは草々に退散したが(エレベーターが停止したので、階段を2段飛びで駆け降りた)、あの揺れはもう味わいたくないと思った。

911の同時多発テロで崩壊したWTCビルのCGで作った立体構造図面という映像を見た事がある。WTCビルは、真ん中の芯のような1本の柱に各階、フロアが吊り下げられたような構造だったと思う。芯の部分にエレベーターがあり、ツリー構造と言ったと思うが、各階がぶらさがったようなタワーだったのだ。
ビルに突き刺さったボーイングの炎上する熱で、その支持体が溶け、その負荷が下の階に次々とかかって連鎖的な大崩壊をもたらしたのであるらしい。

WTCビルは、軟構造の典型だったのではないだろうか?
きっと、NYを大地震が襲った時には、シャンデリアのように各階が微妙に震えながら、共振したのではないだろうか?
ある周波数は、高層ビルに共振作用を与える事があるらしい。それは、それぞれのビルの構造によって違うのだが、共振作用をおこしたビルは揺れ以上の決定的なクライシスをビルに与える事があるらしい。ガラスは粉々に飛び散り、細かな砕片となって地上に降り注ぐ。高層ビルの周辺には、阿鼻叫喚の地獄図が出現するかもしれない。

あ~、せめて高層ビルの近くには近付かないようにしよう……。



高田渡さんの死

2005-04-17 15:08:57 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
wataru_2昨日、はらっぱの花見に行った。そこで、NORIからとてもショッキングなニュースを聞いた。あの、高田渡さんが北海道で死んだと!
高田渡が、死んだ?
あのワタルさんが?
事実関係は、全く分からないにしても、その情報はとてもショックだった!
武蔵野タンポポ団、吉祥寺にかってあった「ぐわらんどう」。
昨年作られた「タカダワタル的」(2004年。だったよね?)という映画で、ある意味カルト的な支持を確認されたばかりだった、歌い手、そうなんと言えばいいの? 歌の職人みたいな存在だった、ワタルさんが死んだのだ!

ワタルさん! そう、そんなにも近付きになれなかったのが、残念だったけど、あなたの歌、あなたの残したうたはボクにとっても、そしてはらっぱの仲間たちにとっても意味があった。あなたの訃報を、仲間内で聞いたのがせめてもの救いだった(もっとも、ボクの場合仲間とは公認されている訳じゃないから「片思い」かもしれない)。
ワタルさん! あなたほど、詩の意味を分かってる歌い手はいなかったと思います。アナタが好きだった沖縄出身の詩人・山之口貘のように、ボクらはあなたの歌を夢を食べる貘的に、そして「ワタル的」に、聞いていたと思います。
吉祥寺の「伊勢屋」で、フラリと飲みに立ち寄るあなたの姿が見れなくなった事にさびしい思いを抱くのは、ボクたちばかりではないでしょう。
御冥福を祈ります! 合掌。