風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

6/6 E.G.P.P./step83/風に舞うディラン!

2008-05-31 19:47:12 | イベント告知/予告/INFO
Dylan_style●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step83

テーマ:「風に舞うディラン!」
2008年6月6日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
(MC)フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、ココナツ、やま(以上うた)、北村幸生(コメディ)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 きっとボブ・ディランのもたらした衝撃はボクらの世代特有のものでしかないのかも知れません。この一ヶ月、ボクは自分のブログで、ボクらの世代にとってディランとはなんだったのか考え続けました。
 ディランとは何者だったのか?
 ディランがもたらしたものは何だったのか?
 時代がディランをつくったのか?
 ディランはその変節で世界を変えたのか?
  それとも世界に裏切られたのは、ディラン自身だったのか?

 詩人としてのディラン、アメリカン・トラディショナル・ソングの伝承者としてのディラン、ホーボー・ソングを甦えらせたディラン、ロッカーとしてのディラン、キリスト教原理主義派としてのディラン、ディランは風の中で歌っている! 千々に引き裂かれたメッセージ、風雨に晒され「答え」は色褪せて今も風に舞っているのか?

 1972年に書かれたディランに関する本に、こんな文章があった。
 「ぼくには、21世紀の初頭頃には、それに、ずっと先には、人々が、1960年代、70年代に後の時代を変えることになる世代が西洋で成長していきつあったことを理解しようとする場合、どうしてもボブ・ディランの芸術をこまかく研究せざるを得ないことになるだろう……」(マイケル・グレイ『ディラン、風を歌う』)

 このような指摘が当たったとは、とても思えないがディランの影響は色濃くあらゆる場面にある。それこそ、J-POPの中にも、ボノのアフリカ支援のメッセージの中にも!

 ボブ・ディランが名前をもらったウェールズの天才詩人ディラン・トマスのポエトリー、わが国に残した影響のひとつディランⅡ(セカンド)などを聞きながら考えるディラン・ディラン・ディラン!
 あなたもディランの影響を考え、その足跡をたどりに来ませんか?

 ※この、イベントは自由参加のオープンマイクで、ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

 ※6月は、bambiさんの誕生月です。仕事が多忙らしいのですが、6日には元気な姿をみせてもらえることと確信します! 6月6日というゾロ目の日の意味もスピリチャルに語ってもらわなければ眠れません(笑)!



ディラン・ディラン・ディラン/ボクらの世代のディランのこと(6)

2008-05-29 00:58:13 | アート・文化
Goodbye_dyllan2 関西フォークを語る上で、伝説的な存在となった店の話から始めよう。

 難波元町の国道26号線沿いのしもた屋風のつくりの商店が、「ディラン」という名前で大塚まさじと石井洋子の手によって開店したのは1969年8月だった。その時から、この4坪半の小さなライブ喫茶は「関西フォーク」の発信基地になっていった。
 前年、新森小路教会ではじまっていた「フォークスクール」で大塚まさじ、永井洋、西岡恭蔵が出会う。「ディラン」に日参する日々が続き、70年4月に三人で「ザ・ディラン」が結成される。
 同年5月に天王寺野音にて喫茶「ディラン」主催のライブコンサートが開かれ、これが翌年からの「春一番」につながってゆく(ブランクを経て現在復活している)。
 西岡恭蔵が抜け(しかし、アシストでたびたび入り、つかず離れずの関係だった。西岡もそのソロデビューのアルバム名は『ディランにて』である)、71年4月大塚まさじと永井洋のふたりで「ザ・ディランⅡ(セカンド)」結成。「ザ・ディランⅡ」は74年11月の『グッドバイ・ザ・ディランⅡ』コンサート(中之島中央公会堂)にて解散、以後大塚まさじはソロで歌う。

 年譜風に書けば、こういう推移だろうか?
 「ザ・ディランⅡ」のアルバムを写真で飾り、ずっと周辺の記録を写真で撮り続けて来た糸川耀史の74年刊の写真集『グッドバイ・ザ・ディランⅡ/歌が駆けぬけた!69?74』が、2006年に復刊された。その写真は「時代」を写し取っていて、大阪に住んだ訳ではないボクさえも懐かしい思いをさせる写真である(大阪、京都などはヒッチハイクの寄港先だったが……)。

 僕は今 両足をだきかかえ
 この峠の上にすわってる
 この道を最初に来た君と
 いっしょに旅に出るために 嗚呼
  サーカスにはピエロが
  つきものなのさ
  だっていつもいつも君が
  笑っているとは限らないもの
  サーカスにはピエロが
  つきものなのさ
  だってきのうの思い出に
  別れをつげるんだもの
   (「サーカスにはピエロが」西岡恭蔵:詞・曲)

 50年あまりスリリングな時代を駆け抜けたボブ・ディランは我が国にも大きな影響と軌跡を残していった。それで、結局ディランはなにを言いたかったのか?
 その回答も風に舞うばかりで、ボクにもしかとは分からないが、時代のピエロという存在も失ってしまったボクらはきのうの思い出にも別れをつげることが出来ずにいる。

 ボクらが生き、ディランが駆け抜けた60年代以降という時代??この5月24日に67歳になったばかりのディランとともにふたたび「時代は変わる」のだろうか?

(おわり)

(写真)糸川耀史写真集『グッドバイ・ザ・ディランⅡ/歌が駆けぬけた!69?74』(1974年刊/2006年復刻)ビレッジプレス刊



ディラン・ディラン・ディラン/ボクらの世代のディランのこと(5)

2008-05-27 23:52:42 | アート・文化
Woody_guthrie ひとつのジャンルで、伝説になる店と言うのはかならずあって、1950年代終りから60年初頭にかけてニューヨーク・マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジ(以下ヴィレッジ)に誕生した「カフェ・ホワッ?」、「ガーズ・フォーク・シティ」というライブハウスもそのようなレジェンデ(神話)を持ち、語り継がれる店である。
 これらの店は早くから「オープンマイク」の企画を持ち、幾多の才能を開花させるきっかけを作った店のようである。それは、フォークなどの弾き語りだけでなく、スタンダット・コメディ、ポエトリー・リィディングなどなんでもありのいわば、ボクが現在新大久保『水族館』で毎月開催しているオープンマイク形式のルーツの1軒なのかもしれない。そんな中でジョーン・バエズもボブ・ディランも鍛えられ、見い出され、メジャーデビューのきっかけを作ったのだった。

 「カフェ・ホワッ?の昼のステージは、だれでもあり何でもありのごた混ぜだった。コメディアン、腹話術師、スティールドラムのグループ、詩人、女性のものまね師、ブロードウェイ作品を歌うふたり組、帽子からうさぎを出す手品師、客に催眠術をかけるターバンを巻いた男、顔のアクロバット芸をする男??ショービジネスの世界に入りたいと願うさまざまな人たち……」(ボブ・ディラン『ボブ・ディラン自伝』)

 ディランは自らもビートニクスの最後に来た者としての自覚を持っていたようだが、それも彼が田舎町(ディランの出身はミネソタ州ダルース)からヴィレッジに出て来たという出発点にもうかがえる。ヴィレッジには19世紀から多くの作家、画家やボヘミアンたちを引き付けた独特の雰囲気を形成していた。O・ヘンリーが通って執筆していたというカフェがいまも店を開いている。「カフェ・ボヘミア」も健在である。
 現在では、ほとんどニューヨーカーの愛読する一般紙らしいが「ヴィレッジ・ヴォイス」が1955年に創刊された頃、ヴィレッジはビートニクスの巣窟となり、反体制的で精神的な新しい生き方、ライフスタイルの発信基地となった。「ヴィレッジ・ヴォイス」はビートニクスのいわば機関紙であり、情報ミニコミ紙として出発したのだった。
 ジャズの有名ライブハウス(「ヴィレッジ・ヴァンガード」など)に近接してトラディショナル・フォークを聞かせるライブハウスが生まれ始め、ディランはヴィレッジのそのようなライブハウスのほとんどに出演したらしい。

 ディランのデビューからおおよそ10年後、1970年代のはじめ、東は東京武蔵野市吉祥寺に「ぐわらん堂」というライブハウスが出来た。3階立てビルの最上階、なんの飾りもないそっけないスペースだったが、その店から生まれたグループが高田渡、中川イサト、シバなどで構成された「武蔵野タンポポ団」だった。ボクは(ボク自身はそこを卒業していたが)かって都市型コミューンを作っていたアパートにしばらくしてシバが入居したという偶然の事情でシバと知り合い、一緒に「ぐわらん堂」へ行ったりしたことがある。これも、シンクロニシティだったが、シバはボクが師とあおぐ永島慎二のアシスタント経験もある漫画家でもあった。当時、ボクはシバの部屋で彼のワンマンライブをタダで堪能したことがシバシバあった(笑)。

 関西には、それよりすこし早く「ディラン」という店が誕生した。

(つづく)

(写真)ボブ・ディランにも多大な憧れと、リスペクトの対象だった「ウディ・ガスリー」。


ディラン・ディラン・ディラン/ボクらの世代のディランのこと(4)

2008-05-25 00:34:44 | アート・文化
Freewheelin_dylan トラディショナルな曲を、リリックをさしかえいわば替え歌として新しい息吹をふきこむという手法は、パクリでもなんでもなくウディ・ガスリー以来のトラディショナル・フォークのテクニックだった。ウディ・ガスリーは貨物列車で各地を渡り歩くホーボーから「うた」を採譜し、それにガスリー自身のリリックをのせて歌っていた。
 そのような民俗学的な採集手法からフォーク・ソングは生まれたといってもよいだろうが、同時にカントリー&ウエスタン(ブルーグラス)やブルースといった労働歌、底辺の歌などを加えていってなんの伝統も持たなかったアメリカ人に民族的なアイディンティティを提供したとも言えるだろう。ウディ・ガスリーの『THIS LAND IS YOUR LAND』など白人系のアメリカ人にとっては「国歌」とも言えるような深い共鳴をよびさましたようだ。

 60年代のアメリカを席巻したふたつのムーブメント??公民権運動と反戦運動なくしてディランの歌への共感もあのように広くはなかっただろう。それに先輩格の「フォークの女王」ジョーン・バエズは、デビューしたばかりのディランをもりたて、なにくれと世話をしていた。

 「ここに、私たちの思いを歌にすることのできる若い才能があります!」

 ジョーン・バエズは自分の音楽を聞きに来た聴衆になにかれとディランを紹介し売り込むのだった。そうして、かれらは「良き相棒」になったが、「勝利を我等に!(We shall overcome)」(ピート・シーガーなどが詞を書いたが、もともとは賛美歌でジョーン・バエズが歌って公民権運動や集会で歌われ代表曲となった)に勝るとも劣らない自分たちの時代の歌として『風に吹かれて(Blowin'in the Wind)』が生まれるのだ。

 どれだけ道をあるいたら
 一人前の男としてみとめられるのか?
 いくつの海をとびこしたら 白いハトは
 砂でやすらぐことができるのか?
 何回 弾丸の雨がふったなら
 武器は永遠に禁止されるのか?
 そのこたえは、友だちよ、風に舞っている
 こたえは風に舞っている
 (ボブ・ディラン「風に吹かれて」片桐ユズル訳)

 時代の産み落とした子どもであり、時代の寵児となったディランだが、その胸深くには孤独を滲ませ、苦悩していたようだった。その内面は最近(原著2004年、翻訳2005年)出版された『自伝』(Chronicles/vol one)からも知れる。だとしてもディランは突っ走った。孤高の風貌をサングラスで隠して、アコギをエレキに持ち替えて……。

(つづく)

(写真)『フリーホィーリン/ボブ・ディラン』ディランのセカンド・アルバム(「風に吹かれて」が収められたアルバム)。1960年代はじめの初冬のN.Y.おそらくグリニッジ・ヴィレッジあたり。寄り添うように歩くのは、当時のディランの恋人スージー・ロトロ。「時間」を感じるいいジャケット写真である。



ディラン・ディラン・ディラン/ボクらの世代のディランのこと(3)

2008-05-19 00:33:43 | アート・文化
Bob_dylan_first ディラン・トマスのことがあまり日本では知られていないのは、その『詩集』の手に入れがたさにある。さいわいなことにディラン・トマスは1967年に国文社から全詩集が翻訳され、ボクなどは名前だけはボブ・ディランの存在を知った頃と、ほぼ同じ時期にディラン・トマスの存在も知った。これは、ボク自身に関していえば、アレン・ギンズバーグやケルアックの存在を知った頃とあまり変わりがない(現在は、新訳の『全詩集』や『全集』があって手に入れ易くなったとはいえ、やはりあまりポピュラーではない。それに、国文社の『全詩集』には信じられないような古書価格がついている!)。
 だとしても、ディラン・トマスは分かりやすいポエムを書いている訳ではなく、むしろ聖書的な教養からも、ウェールズの風土からも遠いボクらには難解に思える詩が多いだろう。

 それに硬質な言葉を選んで訳してしまう訳者の問題もあると思う。その点、ボブ・ディランの日本版アルバムで指名されたかのように(事実CBSソニーの担当者に指名されて、歌詞を訳し続けたらしいが)、日本版ライナーノーツの訳文を依頼され、その積み重ねで『ボブ・ディラン全詩集』(1974年晶文社)という本まで作ってしまった片桐ユズル(そして中山容)というこれ以上の適任者はおるまいという訳者をもったもうひとりのディラン、ボブは幸福だったかも知れない。

 言うまでもないことだろうが、片桐ユズルは大学教授(精華大学)だとはいえ自身も、どこかアメリカにかぶれた(1931年生まれの片桐は、59年サンフランシスコ州立大学に留学している)ライトなノリの詩人でもある人だ。その詩もどこか歌詞のようなのも、歌うことを前提に書かれた詩が多いためだと思われる。思潮社版現代詩文庫32『片桐ユズル詩集』の裏表紙にはギターをかかえて今にもフォークソングを歌いだしそうな片桐の若い頃の写真(留学生時代?)が掲載されている。

 ギターをかかえたカタギリ先生
 リズムは悪いし音程もくるう
 フォークソングはへたなのがいいんだなんて
 とってもむりしてかっこうつけてるよ
 (コーラス)
 (片桐ユズル「フォークソング/かっこうつけてるよ」)

 こんな風に自己分析し笑い飛ばすことができるなんて、あなどることができない先生ではある。それに、片桐ユズルは諏訪優とともに、日本へのビート文学の紹介者のひとりと言ってもよかろう。

 次の詩など、片桐が意識せずとも日本型フォークソングの黎明期に果たした影響がうかがえるものだ。

 おいでみなさん きいとくれ
 と きいてもらう権利が われわれにはないのか
 おいでみなさん きいとくれ
 と ききにいく権利が われわれにはないのか
 街頭でうたう権利もないのか
 立ちどまる権利もないのか
 立ちばなしする権利もないのか
 ひとをまつ権利もないのか
 なにがおこっているか のぞく権利もないのか(略)
 (片桐ユズル「広場がないことはベルトコンベアーだ」/未刊詩集・1964以後)

 これは、高石友也が歌った『受験生ブルース』の最初のフレーズ

 おいでみなさん きいとくれ
 ボクは悲しい 受験生
 砂をかむような あじけない
 ボクの話を きいとくれ
 (詞・中川五郎/作曲・高石友也になっているが、これも原曲はボブ・ディランらしい)

 に、呼応するが、このようなつかみのリリックは街頭で歌われたアメリカン・トラディショナル・フォークのつかみの歌詞らしく、ボブ・ディランにも他にも同様のリリックで始まる『つらいニューヨーク町暮らし』、『たびの賭博師ウィリー』などがある。

(つづく)

(写真)ファーストアルバム『ボブ・ディラン』1962年


5/19 月裏の集い/五月革命!

2008-05-18 22:06:30 | イベント告知/予告/INFO
May_19_moonback5/19(月)高円寺CLUB MISSION'S
netozaoku presents
「月裏の集い」
[LIVE]
★ねたのよい ★藻の月
★KABUTO LOVE MANIA ★金剛
ポエトリー・リィディング フーゲツのJUN

[DJ]
★HATANAKA(GAS CHAMBER RECORDS)
[SHOP]
★緑の月 ★雷音堂
★サドゥーババ ★GAS CHAMBER RECORDS
open19:00/start19:30
adv./door\1000(1D込)
東京都杉並区高円寺南4-52-1
TEL 03-5888-5605
公式サイト→http://www.live-missions.com/
地図→http://www.live-missions.com/access/access.html

※今月は復帰します。ねたのよい「ねたまつり」(8月12日代々木公園野外ステージ)へ向けた連続ライブ!
「五月革命」の5月に吼えます!


ディラン・ディラン・ディラン/ボクらの世代のディランのこと(2)

2008-05-18 00:42:09 | アート・文化
Dylan_thomas_1 ボブ・ディランの書くリリック(歌詞)は傑出していて、ノーベル文学賞には毎年のようにノミネートされているらしい。今年はピュリッツアー賞の特別賞を受賞したが、言うまでもなくノーベル賞はまだ受賞していない。
 たとえば、こんなリリックは、ほとんどポエムと言ってよいであろう。

 絞首刑の絵ハガキが売られている
 パスポートが茶色にぬられてる
 美容院は水夫でいっぱいだ
 サーカスが町にきている
 めくらのコミッショナーがやってきた
 みなが彼を恍惚におとしいれた
 片手は綱渡りにしばりつけられ
 片手はズボンのポケットに
 そして機動隊はじっとしておれず
 どこか行きたくてしかたがない
 こんなことをレディとわたしが見ている今夜
 廃墟の街から
 (ボブ・ディラン「廃墟の街」/片桐ユズル・訳)

 ボブ・ディランが尊敬し、その名前さえいただいたディラン・トマスはイギリスはウェールズ出身の詩人だ。そう、詩人以外にはなれなかったという意味で、不器用で天才的な「詩人」だった。

 走っている墓場のように時があなたがたを追いつめ
 あなたがたの抱きしめられている静かなものが髪の毛を切る鎌であり
 美服をまとった愛がゆっくり家のなかを通り抜け
 はだかの階段を 柩のなかのきじばとのように
 円屋根までもちあげられるとき

 仕立屋である時代は 大跨に歩く鋏のようにやってくる
 (略)

 時は愚かな空想だ 時はすなわち愚者である
 (略)

 すべてのものには終りがある 塔にも終りがあり また
 ……傾いている舞台にも
 太陽からぶらさがる足の球にも
 ……セメントで固めた皮膚にも
 所作の終りにも みんな終りがある(略)
 (ディラン・トマス「走っている墓場のように」/田中清太郎・訳)

 このディラン・トマスの詩には、おおよそ30年のちに作られ歌われた『時代は変わる』のエキスのような認識が込められていないだろうか?
 そして、ふたりのディランの使用するボキャブラリィもとても似ているところがある。

(つづく)

(写真)ディラン・トマスの肖像写真。



ディラン・ディラン・ディラン/ボクらの世代のディランのこと(1)

2008-05-14 23:58:32 | アート・文化
Highway61_dylan_ 実はボブ・ディランと詩人ディラン・トマスはほとんど、同時代にその関連など意にもとめずにバラバラに知った。後に、ボブ・ディランのその名前の由来がディラン・トマスらしいことを知った時、軽い目眩を感じたほどだ。

 ボブ・ディランの曲を最初に聞いたのは、あの「ライク・ア・ローリング・ストーン」だったと思う。記憶では、ビートルズの「ヘルプ!」がヒットチャート(その頃、ボクがよくラジオで聞いていたのは「9,500万人のポピュラー・リクエスト」という番組だった。そのタイトルの9,500万人は当時の日本の総人口のことだった)の上位を独占していた頃、突然不協和音のハーモニカ(ブルース・ハープという言い方はまだなかった)を吹きながら延々と同じメロディラインを歌い続けるボブ・ディランという歌手が歌う「ライク・ア・ローリングストーン」という奇妙な曲がヒットチャートに登場したのだ。1965年の秋すぎだったと思う。丁度、ローリングストーンというイカしたロックンロールのバンドがビートルズに続いてイギリスから生まれたばかりだったので、余計印象に残ったものだ。
 だから、ボクらのディラン体験はすでにエレクトリックに転向したところから始まっており、グリニッチ・ヴィレッジ時代の「時代は変わる」などのプロテスト・メッセージ・フォークを歌っていた頃のディランのことは、あとから知るのだ。実際、日本ではアメリカから10年近いタイムラグを経て、フォーク・ソングが受け入れられ(その背景にはベトナム反戦運動の高まりがあり、西口フォークゲリラなどの「事件」があった)「時代は変わる」「風に吹かれて」などの名曲はPPM(ピーター、ポール&マリー)のカヴァーで先に聞いてしまうのだ。キングストントリオやブラザース・フォーなどのカレッジソングから始まったフォークソングの受容は、VANやIVYリガーのファッションといった面からはじまり、アメリカン・トラディシュナル・ミュージックとしてのウディ・ガースリーやピート・シガーに辿り着くまでには、長い時間を要した。この国では、カレッジソングからはじまったフォークソングの受容は、結局「神田川」に見られるような私小説化もしくは歌謡化して、いくつかの懐メログループと、シンガーソング・ライターを生み出しただけで終熄してしまったと言っていいだろう。
 高田渡や、ディランⅡ(セカンド)などの存在を例外として……。

(つづく)

(写真)「ライク・ア・ローリングストーン」を含むアルバム『追憶のハイウェイ61』(1965)のジャケット。




そこにディランはいない/映画『アイム・ノット・ゼア』

2008-05-11 00:00:14 | コラムなこむら返し
Im_notthere_cate 現在ロードショー公開中の『アイム・ノット・ゼア(I'M NOT THERE)』にボブ・ディランの伝記映画を期待してゆくときっと裏切られるだろう。映画にはそれぞれ名前も違う6名の「ボブ・ディラン」が登場する。なんの予備知識も無しに見た観客は、その整合性のない脈絡にきっと戸惑ってしまうに違いない。

 全体のナレーションのような役柄は、インタビューに答えるかのように語る「アルチュール(ランボー)」が担当する。きっと詩人としてのディランを現わしている。その上で、11歳の黒人ホーボー歌手としての「ウディ・ガスリー」。彼は黒人ブルースシンガーの血をひくものとしての側面を現わし、さらに60年代の初め頃グリニッジ・ヴィレッジでプロテスト・フォークソングを「フォーク・シティ」などで歌って衝撃的にデビューしたディランを現わす「ジャック・ロリンズ」、そのジャックを演じたクリスチャン・ベイルは80年代牧師となって「ゴスペル三部柵」を作る時代の「ジョン牧師」も演じる。また、60年代のなかば妻と子どもたちとの離別を経験する「ロビー」、かれの画家でもある妻をシャルロット・ゲンズブールが演じるだろう。アコステックなフォーク歌手から一転、激しいエレクトリック・ギターをかき鳴らすロックスターのような転身ぶりをみせてファンを二分させた時代を演じるのは、なんと女性であるケイト・ブランシェットだ。そして、そのケイトのディランぶりがその挑発的な発言とともにサマになっていてカッコイイ(初期のディランは痩せていてどこかユニセックス的でもあった)!
 そして、ディラン自身も映画出演した伝説のアウトロー「ビリー・ザ・キッド」に身を寄せたようなディラン「ビリー」は、ヒゲ面のリチャード・ギアが演じる。

 さて、正確には7人の人格に分身した姿は、つまり人生と経験を積み重ねたディランの成長のステップでもあり、また、ファンや、世間一般のひとびとがいだいているディランのイメージに沿うたものと若いインディペンダントな監督トッド・ヘインズは言いたかったのだろう。
 この作品は気難しいボブ・ディランに認知された映画作品だが、ある意味フランス映画のような語り口を持っている。つまり「彼女をめぐる7つの方法」とでも言いたいような「ディランをめぐる7つの方法」なのだ。よくありがちな有名歌手のプロモーション映画という訳でもなく、かと言ってハリウッド風エンターティメント化された伝記映画でもない。
 ディランの曲のカヴァーでサントラが2枚組になったというこの異色の映画作品はいわば、インディペンダントなトッド・ヘインズ監督がつくりあげたトリビュート・シネマと言うことができるのかも知れないし、そう位置付けた方が分かりやすいかも知れない。

 そうそう、アレン・ギンズバーグのそっくりさんがケイトとからむシーンがある。アレンぽくて、ギンズバーグでないところも面白かった。

 さて、この映画をボクは千円で見た。そう、おそれることなくシニア料金の権利(?)を行使したのである。60歳になってシニア料金で見た最初の映画が、ボブ・ディランを描いた『アイム・ノット・ゼア』だったのも、なにかの因縁だったのだろうか?
 でも、これで、「映画の日」を意識することなくいつでも千円でロードショーが見れると言うのもちょっぴりうれしかったりもする(笑)。

■『I'm Not There』2007年アメリカ映画。評価(★★★1/2)

(写真)ケイト・ブランシェットがディランを演じるシーンより(公式ブログより拝借)。


アースラヴ in TANZAWA

2008-05-03 23:59:19 | イベント告知/予告/INFO
Earthlove_tanzawa_1 すでに、3日から始まっているのですが、このGWをゆくあてのない方へ格安のまつりを紹介します。アット・ホームでフレンドリィ、さらにチープ。がんばれば、車をつかわなくとも辿り着けるようです。
 ボクは明日出発。「こどもの日」の5日夜に出演予定です。






 アースラヴ in TANZAWA

 主旨:地球環境問題について いろんな分野で 活躍している人達の交流を 深める

 基本は キャンプ イン  
 参加費 ¥1,000
 出店料 販売  ¥1,000 
 飲み物 食べ物の お店 出店料 ¥1,000
 兼ねるお店は ¥2,000
 場所 TANZAWA 
 日取り 5/3,4,5,6 携帯TELの 通じない所です
 催しの前後に 会場の浄化の意味もこめて ゴミ拾いを 行います 
 30分 参加者は 全員 参加して下さい (出来るだけ)         
 参加費は 出演者も 関係者も含め 全員 払ってもらいます

5月はまだ 山の朝、夕は冷えるので 暖(だん)をとれるような キャンプ準備できて下さい 灯りは 照明器具(ステージ、本部テント等)を 用意しますが 各自 ランタン ローソク 懐中電燈 など 用意

ステージは ジャングルステージを 設営することになるので スタッフは 前夜祭(2日夜)から 参加して下さい

参加者各自 参加グループ 出演者 は 本部からの 指示にしたがって下さい たいした 決め事はありませんが 

* 酒類の飲み過ぎ まわりに迷惑になるような騒ぎ過ぎ 本部の主旨に反する行為 自然をあまくみるような 無理な行為 キケン行為など(会場内には 川の水の一部深い所、柵のない土手の抜け道など、他にも★キケン箇所あり、 川  当日の受付の 注意書き よく目を通すこと!!)

★★オープニング.セレモニー 《三日朝》

★★Live: ボンシヴァ南《六日》,Baba’s family Band《四日夜》,ORIXYA《四日夜》 ,ココナツ ,Cherry                                                               

JOKER777 with Shiva Rainbow Blues Band《五日夜》,PonzyWAVE(Φ、ナチュラルロック)《五日夕》 ,SORMA《四日夜》 その他......

★★ DJ:TOKUNAGA DAIKI《三日、四日》 ,Tamaki (YUK,KONZEPT MAUS) ,TERAKADO NATSUKI《四日》  その他......

★★ポエトリーリーディング フーゲツのJUN《五日夜》

 XXX ステージスケジュールは 予定を変更することもあります 御了承下さい
アクセス access
MAP→http://earthloveintanzawa.web.fc2.com/earthlove/page1.html
■ 電車 バス 歩き
JR(京王線)橋本駅(八王子から横浜線、明大前から京王線) 北口2番のり場から 橋07 「鳥居原ふれあいの館」行きバスに乗ル 所用時間45分 35ヶ目終点1ヶ手前 バス停 「鳥ヤ」で降リル 《もしTaxiが必要なら つくい交通042-784-0331 城山交通042-782-2101》 降りたら 右の辻に 入り 100m程で 小林商店のところを 左に入ル 湖を眺めながら 交通量のほとんどない道を 2km半歩く わき水越えて少しのところ 右 しばらくいくと会場 注 バス 夜 7時代まで 時間には ゆとりを持ってネ 朝は 6時から 1時間に1本 一晩明かして 帰るも良し 日帰りも良し 都心まで アッという間

■ 車 バイク 遠方から
<A> 中央自動車道 相模湖 IC 降リル 20号線にのり 東京方面に2km走リ JR相模湖駅の前 412号 厚木方面に入ル 7km程で 関 交差点で 宮ヶ瀬方面入ル あとまっすぐ
<B> 橋本で 16号線から 413号 西へ 8km走ル 412号に出たら左折 2km先 関 交差点 あと<A>とおなじ
<C> 厚木から 412号 15km 北へ走ル 関 交差点 左折 あと<A>とおなじ
宮ヶ瀬方面に入リ 鳥ヤまでまっすぐ 鳥ヤ バス停のところ 左に新井電気商会 前にマス釣りの白い大きな案内看板を 右の辻に入ル (先の 虹の大橋の方、鳥居原ふれあいの館の方まで行かない) 100m程で 小林商店のところ 左に入ル 湖のほとりをクネクネ走ル 崖っぷちの道を行き  2km半 わき水の少し先のところを 右に入ル

http://earthloveintanzawa.web.fc2.com/earthlove/page.html

E-mail earthloveintanzawa@gmail.com