風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

TOKYO SNOWMAN's FAMILY

2006-01-21 23:05:55 | 東京暮色/秋~初冬
Snowman_1豪雪にみまわれている西日本のひとには気の毒だが、21日朝から東京に降ったこの冬はじめての雪は子どもたちには格好の雪遊びの時間をもたらしたようである。

はじめのうちは道には積もらない程の粉雪だったが、午後から雪質が変わり見る間に道をも白く積もってていく。そして我が家のまわりでは、おおよそ積雪15センチほども降り積もった。

ボクはカメラを持って周辺の雪景色を撮りにゆくが、公園に娘たちがつくった雪ダルマがユーモラスで可愛かった。 雪の中にもかかわらず雪国に憧れていた娘は大はしゃぎで、ビショビショになりながらも雪をまるめダルマをつくっていく。そしてキャンプ用と、浄水用にとってあった炭を持ち出して目鼻をつける。
こうして、なんともユーモラスな雪ダルマが二体出来上がった。
スノーマンとその子どものような取り合わせだ。

この写真を「東京スノーマン・ファミリィ」と名付けて公開しよう。
ボクの話題もボクには珍しいファミリィ・ネタだ(笑)。

ところで、いまは雪はあがって雨垂れのように聞こえるのは、屋根の雪が解けている音のようだ。気化作用で放射冷却されて明日の朝は冷え込みそうだ。温かくして今夜は早く眠りましょう(笑)。



黄昏オン・ザ・ロード(6)/最終章・ATOM HEART MOTHER

2005-12-02 00:30:53 | 東京暮色/秋~初冬
run_tombprotecter_2陽が高く昇ってから起きだした。なんということだ、本堂横の座敷に泊まらせてもらいながら、仏の道を極めようと言う心がけもないだらしないボクらである。そんなグダグダしているだけのボクらになんと住職の奥さまは朝食まで用意してくれる。
サンマの開きと練り物の住職の田舎のおみやげである。最後に起きだしてきたナカノと顔を見合わす。そんなにまだ顔を合わせた訳でもないのに、ボクたちはもう3回もサンマを一緒に食べている。「もうボクらは切っても切れないサンマの友だね」と、ナカノももうボクが言わんとすることが以心伝心で伝わって目をウルウルさせている。ちなみにサンマの友は、むかしはチクバの友とか言ってたらしいが、竹馬なんて誰が乗るかい、いまどき!

最後に寺の裏手の樹木葬地を詣る。母のヒメコブシの木のそばで佇んでいると、墓守り猫のランが向こうから近付いてくる。樹木葬地はランの格好の遊び場であり、日向ぼっこの場所だ。
ランは人見知りをしない猫で、誰にでも親しげについていく。ランのどこか他者にまかせたような、気楽な生き方は放浪の果てに寺に行き着いた隠者のようでもあり、好ましい。ランのように生きたいと、一応ヒトのかたちをしているボクなどは思ってしまう。
ランに母さんをよろしくね!
と頼んで、住職に別れを告げに行く。

帰路、運転を全面的に流れ星のホッシーに頼んだ。ボクは助手席に座ってカーナビを読むのと、DJをかってでた。
ナビがどうにかアクアラインに導こうとするのを、無視しかわし京葉道路へ入る。そこでボクは用意してあったPINK FLOYDの「ATOM HEART MOTHER」を最大ボリュームでかけた。
プログレ最高のサイケデリック・ロック交響曲だ。後部座席に座っているナベちゃんもはまっているPINK FLOYD。幕張にさしかかるころ、曲は丁度男女混声のコーラス・パートになって佳境に入る。

「原子心母」は、流れていく車窓の未来的な、いや核戦争後の廃墟化したハイウェイのような風景とぴったりシンクロしていくようだ。運転するホッシーが言う。

「まるで、このまま終末になだれ込んでいくみたいですね」

そうだ! 流れ星のホッシー! いいことを言うぞ! まだ陽は高いが、これで海に落ちていく夕陽にでも照らされていたら、ボクはこのまま海に突っ込んで行きたくなるかも知れない。黄昏のなかで紅く染まった核戦争後の京葉道路は、きっと壮絶に崩壊していくに違いない。阪神大震災のあと、神戸で横倒しになった高速道路の終末イメージがボクのドタマの中をかけめぐる!
まるでこの国が巨大な端島(軍艦島)の廃墟と化したかのように思えてきた。このまま東京に入ると、そこは鉄とコンクリートで埋まった巨大な産業廃棄物の捨て場所となっているかも知れないと!

ドタマの中の妄想はどんどんとイメージを脹らまして、東京というメガ規模のバビロン・シティが911のWTC(世界貿易センタービル)のように、崩壊して行くさまが感じられて怖くなってしまう。もしくは大友克洋の名作『AKIRA』のヴィジョンのような妄想だ。

そして、「原子心母」に聞き入りながら、車窓の風景に妄想をたかめていたボクは、そこに一縷(いちる)の希望があることに気付いたのだ。

そうだ。PINK FLOYDの「ATOM HEART MOTHER」のこの曲のタイトルに救いがあった。そこにも母はにこやかに微笑んでいた! 原子の極小の形をして、それでいて宇宙大の大きさをした母が、そこにはあった。
母のこころが、そこには表現されてあった。ATOM HEART MOTHER!

母よ! マザー! ボクは父の血を引き継いだ単なる妄想家にすぎないのですか?
(2005.11.26~12.01)

(写真4)母のヒメコブシに近づくラン。ランはあたかも放浪の果てに辿り着いたこの地で余生を過ごす隠者のようである。



黄昏オン・ザ・ロード(5)/強度偽装!と頭上の河

2005-12-01 00:32:43 | 東京暮色/秋~初冬
aneha1q今宵の食事をとる店はすぐ決まった。
家庭料理の店と言う看板があって、それに引かれた。きっと刺身くらいあるだろう、せっかく海のそばに来たのだから、おいしい魚を食べたいものだ。
まだ若いと言っていいだろう女将さんひとりで、店を切り盛りしている、さながら漁師の思いひと高倉健を待ち焦がれている倍賞千恵子といったところか(笑)?

もう、さっそくはビールである! 運転をする流れ星のホッシーには水で我慢してもらってグビッ!
ああ、おいしい!
などと水を飲むホッシーの隣で全員で言ってしまう。監督のナベちゃんも、ナカノもグビリと飲み、注文したヒラメの刺身をうまそうに食っている。裸のつきあいだと言うのに仲間への思いやりもない非情な連中である。しかし、風呂上がりのビールはうまい。ましてやヨードの溶け出て真っ黒な湯だったから、お肌はツルツル、ノドはカラカラである。

まるで、夜中の雰囲気だと言うのに店のTVでは午後7時のNHKニュースをやっている。建築物の耐震構造計算の偽装工作をやった姉歯1級建築士の事件をTVは報じている。悪びれたそぶりをまったくみせなかった姉歯建築士の顔写真が画面に出ると、ナカノが「なんかカツラみたいだね、このヒト」と言う。
ボクはたたみかける。
「カレのアタマこそ偽装工作!」
アナウンサーがニュースを読み、また姉歯建築士の顔写真が画面に出る。
「強度偽装!」
もう大受けだった。

それに姉歯秀次1Q建築士の事務所は、千葉県市川市だったはずだ。あんな、ヤクザの親分みたいなのが社長をしている木村建設(施工者)に「もっと(鉄筋を)減らせないか」とおどされたうえ、リベートまで請求されてよほど耐震設計に地震だけに、自信をなくしたのだろう(と、弁明した)。

お腹も一杯になって大原の寺へ帰った。ビールも買ってきて(ホッシーのためという名目で)不謹慎にも寺で飲もうというのだ。実はナカノはボジョーレ・ヌーヴォーをもってきたと言うのだ。

寺へ戻って空を見上げると、凍てついたような冬の星座がくっきりと見えた。まるで、プラネタリウムのようだった。よくよく見れば、星々は河の流れのように彎曲していた。銀河が見えたのだ。この、ボクたちがその片隅に棲み、生かされている銀河、天の河が頭上にあったのだ。

そう、その寺の名前の理由がわかった一瞬だった。
天徳寺。山の中の古刹である。

(写真)市川の事務所前で記者団に弁解する強度偽装(!)の姉歯1Q建築士。ネットニュースから写真引用。



黄昏オン・ザ・ロード(4)/流れ星と三日月の街

2005-11-29 23:46:02 | 東京暮色/秋~初冬
onjuku_moon撮影が終わって寺へ戻ると、厨房に灯りが点っていた。住職一家が帰ってきたばかりのようだ。
あいさつもそこそこに住職はテキパキと部屋を指定してくれ、布団をあそこから何組もってきなさいと指示してくれる。ボクが電話で話しておいたにしても、自分の荷物の片づけもそこそこに、こちらの心配をしてくれるのだ。
その上食事の心配もしてくれるので、いや足(車)があるので食べに行きますと言うと、そうだね、温泉にも入りたいだろうからと言って適格な地図を描いてくれる。描き慣れた正確で分かりやすい地図であった。

で、今回は御宿(おんじゅく)に出てみることにした。「クアハウス御宿」というところを教えてもらったのだ。
疲れたボクは運転をカメラ担当のホッシーに代わってもらった。それに、風呂上がりにはやっぱりキュッとビールを飲みたいではないか!
ホッシーは快く運転をひき受けてくれた。それで、ホッシーは幸運の流れ星を運転中に見ることができたのだ。「ね、願いことはした?」「いや、見るだけで精一杯で……」「いや、でもラッキーだね。これで、キミは「流れ星のホッシー」だ! なんか、大昔の日活アクション映画みたいだけど(笑)。韻をふんでるからねぇ。ラッキーだよ。流れ星のホッシー!」

ボクは、さらにたたみかけた。「御宿かぁ! オン・ザ・ロードならぬ、オンジュク・ロードだね! それに、御宿・オン・ザ・ロードなんて、なんかケラワックというよりつげ義春のマンガ作品みたいだ!」
この、もはや点火され火花がついたジョーク路線はさらに風呂上がりまで、続くのだ。

加熱はしてあるが、源泉掛け流しの温泉はやはり真っ黒なヨード分がたっぷり溶け込んだ湯だった。男三人で貸しきりのようだったが、まるで痩せこけた少年二人と少年のような中年おとこがひとり、広いとはお世辞にもいえない浴場で、それでも寝湯、うたせ湯、泡風呂、箱蒸しと種類だけはそれなりにある湯をグルグルとめぐっている。

裸のつきあいでというよりすっかり地をむきだしで普段の顔に戻った三人は、女湯から出てきたただひとりの女性であるナカノに笑われてしまう。
「あ! 普通のカオだ!」

外へ出ると、ずらりと三日月が列をなしてボクの目に飛び込んできた!
「ありゃ、この街の街灯って三日月のかたちをしてるよ!」「あ、本当だ!」
みな、そこではじめて気付いたようだった。
そこでボクは思い出した。この街の砂浜が「月の沙漠」などというロマンチックな観光客用のキャッチフレーズがつけられていたことを。
あとで、調べてみたらこの温泉の目の前すぐのところだったのだが、ボクと日本映画学校のクルーはウキウキと風呂上がりの高揚した勢いをかって今夜の夕食を食べられるところを探しにいったのだ。

流れ星と三日月の街へ! 「月の沙漠」のある街へ!

(写真4)すこし滲んでしまいましたが、御宿の街の三日月街灯です。


黄昏オン・ザ・ロード(3) 母のような雲/a Cloud was like my Mother

2005-11-28 21:45:18 | 東京暮色/秋~初冬
mother_cloud_1樹木葬地へ行こうと言いだしたのはボクである。所沢の『MOJO』で都合三度目のロングインタビューをうけた時、あからさまにボク自身の生い立ちを喋った。だれにも喋ったことのないことまで喋った。でも、そうだからといって市井に埋もれた有名人でもないボクの半生など喋ったからと言って、だれが振り向いてくれるだろうか?

十代の頃、フーテンだった。ビート詩に目覚めた。新宿のビルのすき間のドブで野良猫のように寒さに震えてハイミナールをボリボリと喰らった……なんてことがひとの心をどう揺さぶるのだろう?
ボクには分からない。そして若干二十歳のそれこそボクが、遊びまわり、ドブを這いずり回っていた年齢の若者がボクに興味を覚え、撮影クルーとなってボクの行動や、活動を追っている。

今回、樹木葬地に行こうと言い出したのはボクの方だ。「ドキュメンタリー映画」としては、ボク自身が母とともに眠ろうと決意している場所、その新しい埋葬の提案をボク自身の遺言としてもメッセージしたかった。野山に帰る、里山を育てる、森のいしずえとこの身を捧げる(実は遺灰だが……植物には根から吸収しやすい養分となる)。ボクは樹木として生まれ変わるなら、金木犀になりたいな。
これって、映画の締め方としては決まりすぎてるでしょう?

さあ、ボクは監督じゃありませんから、若者三人の映画製作クルー(日本映画学校在籍中)がこのフィルムをどのようなかたちでまとめるのかには関与できません。どうなるのかは、ボクも期待してます。完成したら見にいきます(笑)!

樹木葬地での撮影が無事終わると、ちょうど日没寸前で、夕陽の残照がボクの真後ろにあったまるで冬とは思えない入道雲のような雲を赤く照らして実に神秘的な光りの中で、天空を彩(いろど)った。

それに、それに……ボクは一瞬、そこに母の横顔を見たのだった。夕陽に照らされた雲は、実に一瞬だったがダイダラボッチのように顔を持ち上げ、母の「死に顔」そっくりな横顔を貌(かたち)作ったのだった。

(写真:3)母はボクの真後ろから見守っていてくれたのか? 母の横顔のような雲が夕陽に照らされて沸き立っていた。




黄昏オン・ザ・ロード(2)/土地の精霊よ! 聞き給え!

2005-11-27 15:03:01 | 東京暮色/秋~初冬
mothertree_2樹木葬地に着いた時は、そこを管理している寺の住職はまだ田舎からお帰りではなかった。寺の檀家の方が本堂のカギをボクらのために開けていてくださっていた。

すぐさま撮影クルーは樹木葬地へ向かう。ボクはそのために持参したパンジーや、母の好きだったシクラメンなどの花をビニール鉢から母のヒメコブシの木の前に植え代えた。
ずっとやろうと思いながら、ここで樹木葬関連の集まりがあるときは、寺男としてお手伝いをしているので、そのような時間がもてないでいたのだ。他の方の樹木の周りは、まるで花園のように美しくミニ花壇が出来ているようだ。
べつにそんな決まりも、また禁止事項もないのだが、やはり自然な思いとしてお骨の上に植樹した樹木を、墓のようにお参りしたいという心情はわきおこるのだろう。
そこから樹木一般や自然界や生類へのいたわり、愛する気持ち(エコロジー的な)へつながるのかは今のボクにはわからない。

樹木葬地は第2区画も認可され、もう契約が3割近く入っていたから樹木葬自体の求め方は様々になっていくのだろう。それこそ経済的理由から、先祖からの墓に入れないなどの「家」の問題などが先行してくるのかも知れない。
里山の復活や、森の回復と言う理念の次元ではどうなのだろうか?
そのようなことをどのくらい理解された方が、現在、会員になっているのだろう(この寺での樹木葬は会員制になっています)?

撮影の準備ができ、もうすぐ夕刻と言う時間にボクは母のヒメコブシの木の前で、その樹木葬地に葬られた他の方の霊、そしてこの地の木々や森や自然に捧げるつもりで、祈りとして詩を読んだ。
土地の精霊よ! 聞き給え! この地に眠るすべての霊よ! 耳かたむけて下さい! 墓守りのランも聞いてくれ! あなたたちのために、樹木に生まれ変わったあなたたちに捧げます。

「花に化身するホトケたち」そして「哭き女」をボクは読み、あいだに唱歌「故郷(ふるさと)」を歌った。母を埋葬した時と、樹木葬の集いの再現といえば言えるかもしれない。ボクの声が殷々と森に響きわたり木霊した。

(写真2:母のヒメコブシの前でポエる。ボクの声が殷々と森に木霊する。撮影:中野かおり)




黄昏オン・ザ・ロード(1)/海ほたる

2005-11-26 23:57:39 | 東京暮色/秋~初冬
tokobay_hotaru35年目の「憂国忌」でもあった25日、撮影のために大原の樹木葬地に撮影クルーを案内した。

都心を車で走るのがきらいなボクは、首都高にもあまり乗ったことがないが、行きにお台場からあの評判の悪いアクアラインなるものをはじめて走った。
「海ほたる」にも初めて行った。そこで一服するために小休止したのだが、いたたまれなくなるほどの人工の島だった。
なぜかボクは「海ほたる」にいたわずか20分あまりの時間に、そのロマンチックなネーミングとは逆にこの人工の島が長崎県にある端島??つまり軍艦島に思えて仕方がなかった。茫洋とした水平線。つかみどころのない海との境。東京湾のど真ん中だと言うその地理的な位置も、つかみどころがなかった。
昼飯時だったが、そのレストランの入り口のプライス表をみて、自分のため息を呑み込むだけですぐにあとにした。

目指すは千葉県大原である。ひさしぶりの黄昏れオン・ザ・ロードである。



平成見せ物繁昌記(2)/魔境バーは今夜も天国

2005-11-24 00:42:14 | 東京暮色/秋~初冬
otora_torinoiti_3今回の花園神社酉の市での演目は、ヘビの悪食(小雪太夫)、火飲み・火吹き(オミネ太夫)、ヘビのガラス抜け(手品)、箱抜け、錦ヘビのお披露目などでおおよそ20分が順繰りに進行する。見料は大人800円小人500円幼児300円だった。
今回残念だったのはビデオ記録をしている人間がいる中で、撮影禁止がうたわれたことだ。その実、見せ物小屋の収益的な成功もスポーツ新聞などに取り上げられたこともあるが、ネットの力もあるはずだからこれは残念なことだった(もっとも以前から撮影禁止だったが、川越ではむしろ携帯でもOKだったし、小雪さんの艶やかな姿を撮ることができ、ボクは彼女のアングラな雰囲気にやられてしまった)。

さて、今回「二の酉花園神社見せ物興行観賞ツアー」と銘打ってブログでツアーメンバーを募ってこの大寅興行さんの見せ物興行を見に行ったのである。
待ち合わせの紀伊国屋書店本店エスカレ-タ-前。ヒップス、hiraさん、feelingwindsさんとその友人のKさん。13号倉庫さんに、板橋の猫さんも加わってボクを含めて総勢7名。あとからララ(リーヌ)さんが子連れで駆けつけ二次会でドッキング。
江戸から続く酉の市のにぎわいが翌年の景気や、動向を占うことになるらしいが、今年の花園神社の酉の市は、また格別に大にぎわいであった。
花園神社に近付くにつれ靖国通りから、ひとごみで歩くのもままならない状態になる。境内などもう動いていない。手に手に大きな熊手を持っている。例年よりふんぱつされているのではないか? なにしろ歌舞伎町の風俗関係の店までが、商売繁昌を祈って熊手を買いに来る御時世だから同じ大酉神社とはいえ、浅草とは雰囲気も大違いである(浅草も大好きだが……)。明治通り側の鳥居から境内へ入る。つまり、そこが見せ物小屋の小屋掛けされた場所にほど近いのだ。

さて、オミネさん、小雪さんの師弟競演に感慨の念をおぼえて会場を出てくるとそこには「うらなか書房」の社長(春田クン)と画伯(堤花代さん)がたたずんでいらした。いや、ボクが見つけられたのでした。
で、身動きも取れない境内の屋台で10名程座れるところはないものかと探しましたがついに探しあぐね、もう最初からすぐ隣のビアンカの魔境バー『唯唯』に行くことにしました。『唯唯』も酉の市の流れ組が結構いて繁昌しておりましたが、どうにか座り親ぼくの場を設けることが出来ました。

魔境バーには今宵珍しく魔女ビアンカにとりつくハマの魔人いやハマのイマジン(?)ドクター・セブンも、12月11日に『就職しないで生きるには』というシンポジウム・イベントを企画している平山さんも打ち合わせに来ていた。そこになんと今回はパスかと思っていたララ(リーヌ)さんが『唯唯』にやってくる。待ち合わせ時間に間に合わず(なにしろ彼女は葉山から子連れでやってくるのだ)見せ物小屋を見たあと、ふと隣を見てここがわかったと言うのである。子連れだから帰ると言うのを引き止めふとみれば、またララさんの娘さんというのも美少女なのである。
こうして総勢12名にふくれたツアーは無事終着点の魔境バーで宴を開き、二の酉の新宿の夜も更けていくのであった。

ツアー参加のみなさん! お疲れさまでした! ツアー参加の感想などをコメントしてくだされば、うれしいです。
(写真2)見せ物小屋の繁昌の半分以上は呼び込みのタンカひとつと言われる。どう通行人を呼び止め小屋の中に引き込むか? 大寅興行の大野さんがタンカを切る。アラタンカの名調子。誘われるように客が小屋に吸い込まれる。



平成見せ物繁昌記(1)/酉の市にて魔界にさまよう

2005-11-23 13:19:34 | 東京暮色/秋~初冬
otora_torinoiti_1大寅興行が見事に復活した。ボクが川越まつりで見た見せ物小屋は、やはり大寅興行の若手の小屋掛けだったし、あの19歳のヘビ娘は小雪太夫という名で、ボクが直感した通りオミネ太夫の御弟子さんだった。
そして今回、押すな押すなの超満員状態の中で師弟競演の芸が繰り広げられたのだ。あの「悪食の実見」(シマヘビの頭を食いちぎり生き血を飲む)を初々しい美少女の小雪さんが、口から生血をしたたらせて実演し、引退間際のオミネさんは蝋燭の蝋を口で受け止めて炎を吐き出すと言う芸で健在ぶりを見せてくれた(小雪太夫はこの業も、鎖の鼻通しもマスターしている)。

それに今回うれしいことに、オミネさんとともにあのインド産だという錦ヘビが帰ってきたのである。3年ぶりに見た錦ヘビはまた一段と大きくなっていた。持ち上げるのも4人がかりだ。
ボクの財布にはこの錦ヘビの脱皮した皮のカケラが数年分入っている。金運が良くなると言うふれこみでもらってきたのものだが、むしろ多すぎると相殺するのか、ありがたい御利益にさずかったことはいまだないが、それでもこの大蛇には愛着がある。
大寅興行さんの小屋掛けの入り口には、さてもそれが若い頃のオミネ太夫がモデルなのか、白い衣をまとった妖艶な娘が身体を錦ヘビに巻かれて微笑んでいる看板がある。『見せ物小屋の文化誌』の表紙に使われた絵だ。背景は霧にけむる深山のようで、どうやら樹氷のようなものがあり雪景色のようだ。
この看板絵はその実、大寅興行の中心演目である「ヘビ娘」の出自のファンタジーというか、設定におおいにからむ看板絵なのだ(写真1参照)。

19歳の弟子小雪太夫を発見したのも月山ということになっているのも、この小屋で呼び物になっている「ヘビ娘」のファンタジーとその設定におおいに関連することなのだ。
つまり、「ヘビ娘」はウソかマコトか「東北の霊山月山に住むという 伝説の女 山岳の魔女 白衣の妖怪」ということになっており、つまりそれがオミネ太夫ということなのだ。
オミネさんは小柄だが、きっと若い頃には妖艶なお身体をしていたに違いない。いまは容姿もわからないほど白塗りになさっているが、きっと美人だったに違いない。
それは、身体を大蛇にグルグル締め付けられたもうひとつの看板絵からも想像させる。そして、その想像のファンタジーは月山からオミネさんが、探してきたと言う実はアングラ劇団月蝕歌劇団の女優だった小雪さんに引き継がれられ、小雪さんは、若い頃の妖艶なオミネさんを彷佛とさせるような妖艶な魅力をたたえた美少女ときているから、美少女好きのボクにはたまらないのだ。
(写真1/魔界への入り口にかかげられた「ヘビ娘」の看板絵)

(つづく)




森の精の和名/推測キノコ図鑑

2005-09-26 00:21:38 | 東京暮色/秋~初冬
ネットの中にも「きのこ図鑑」はあり、ボクが写真で採集したきのこ類を調べてみた。
しかし、これがなかなか難しい。きのこの類いはあとで、色も姿も変える種類もあり、南方熊楠先生が夢中になった由が推測できるが、ボクには到底無理である。

で、これは推測の類いを離れないが、
photo-1 シロハツ
photo-2 センボンイチメガサ
photo-3 シロマツタケモドキ
photo-4 ナラタケモドキ
photo-5 ヤブレベニタケ
photo-6 不明
photo-7 不明
photo-7 スミゾメシメジ
と、推測してみた。

間違いは多々あると思われます。どうか、詳しい方に教えていただきたいと思います。


東京暮色その4/国立??国立は「くにたち」であって「こくりつ」ではない

2004-12-07 22:41:18 | 東京暮色/秋~初冬
kunitati国立の駅へ向かって一直線にのびる大学通りは、もともと非常時の航空機の発着に使われるように滑走路として設計・立案されていたらしい。しかし、その風景はどこか神宮前の絵画館と銀杏並木の関係に似ているように思っていた。ただ、国立の場合、その並木は春になると見事なアーケイドをつくる桜の木が大部分だ。
JR南武線の谷保からつづくその桜並木の果てにある国立駅の三角屋根の駅舎は、さながら絵画館にあたるのではないか、と。
とはいえ、自由が丘にも言えるが、都市計画のプランをもって人工的に作られた街が、ある一定の時間と歴史を積み重ね、しっとりとした町並みをつくるとどこか西洋的なたたずまいを造成して行くものらしい。
国立の場合、富士見通りと、旭通りが三角形のふたつの辺となって、その頂点からまっすぐに底辺におろされた大学通りときりむすぶ(旭通りの方が短い。ちなみにこの日、富士見通りの命名の意味が分かった。本当に富士見通りのその先にシルエットになった富士山があったのだ!)。

春のような華やかさはないが、秋も深まり、初冬の頃の国立のたたずまいも捨てがたいところがある。それに、この街は一橋学園、国立音大、桐朋学園などの学校があるせいで、文教都市に指定されており、目もあやなネオンや、風俗店、高層ビルの建築などが、条例などによって細かく規制されているために進出・出店できないという理由もあって、そのしっとりとした街並が守られているという事情も大きい。
結婚した山口百恵が、この街に住んで子育てしているということもあるのか女性にも人気の街で、ここに住みたいと思うひとは多い。
しかし、ちょっと歩いてみるとわかるが、かなりの分限者が住むお屋敷街だということがわかるはずだ。その中に置き忘れたように、古いアパートもあったが最近はかなり淘汰されてきたようだ。
いやいや、不動産の鑑定をしている訳ではなかった。

この街は、また一面、カフェのたくさんある街だ。それも、今日のおしゃれなカフェだけでなく、昔ながらのクラッシックの名曲喫茶、ジャズ喫茶などもあり、駅の周辺ではライブハウスも増えており、音楽につつまれるには絶好の街かもしれない。
またこの街の住民は知的レベルが高く、権利意識が強いためか住まなければ見えてこないが、住民運動、市民運動が盛んである(現在は市民運動が生んだ女性市長なのである)。

ひと昔前だが、ボクも市民運動を通じてこの街の住民の何人かと親しくなった。その中には、生活保護を受けながら消費者運動をやって、立候補して市議になったという知り合いもいた。ちょうどNGOという言葉が市民権を得る以前で、それこそグロバールな視点で、地域運動をやっているという「地球市民」的な大物がたくさん住んでいる街なのだ。

とはいえ、この街のアンティク・ショップをめぐりながら、おしゃれなカフェでお茶するという過ごし方も東京暮色的かもしれない。


東京暮色その3/セピア色の<明治時代>

2004-12-06 23:55:59 | 東京暮色/秋~初冬
hekiga-kanpeisikiehagaki神宮外苑は人工的に作られた森(明治神宮)と、1セットになった歴史と怨念の空間と見えてしまうのはボクだけだろうか? 多くのひとにとっては、どうしてそのような場所や空間が作られたのかということに拘泥するよりは、そこは東京という都市空間を彩る場所くらいの意識しか持ち得ないのだろう。あらゆる空間には、歴史があり、土地の記憶を抱えているものだからあえて意識せずとも風景や、景色は逃げさることはないし、知識がないからと言ってデートの邪魔をされる訳でもない。今夜、この娘と寝れるかどうかの方が、ずっと大事な訳だし、それはボクとて代わりはない。しかし、ここのところボクはすっかりひとりで行動することの方が多い。すると、気になってくるのだ、その土地の来歴が、記憶が……。

明治天皇の足跡と言うのは、思いがけないところにあるものだ。明治天皇は御幸、つまりこの皇の国(皇国)の現状を視察をしに、たびたび地方に足をお運びになったものらしい。しかし、ここはそのお膝元、富国強兵をもってこの国の近代の曙(あけぼの)を開こうと、尽力したと言う明治天皇の功績、面影を忍ぶために作られた空間??現在であれば、記念公園という名前で作られるような場所なのである。ましてや、当時は天皇は現人神であり、その国は皇(すめらみこと)の治め統べる神国、国民は天皇の臣民であってこの憲法自体が天皇が臣民に与えたものと言う体裁をとっている。
とはいえ、アジアというよりヨーロッパ以外の諸国でこの国が最初の立憲国家と成りえた所以も、明治22年(1889)の「大日本帝国憲法」(明治憲法)の公布にある。昭和天皇の威光も、明治憲法に依拠したものだったし、この憲法は失効する(昭和22年)までの実に58年間も、この国の運命の根本にあって国民(当時は臣民)ひとりひとりの生死を支配した。

神宮外苑は明治の頃、ここにあった大日本帝国陸軍青山練兵場の跡地で、この練兵場で自らも巨漢であった明治天皇は観兵式に臨むのを好まれたらしい。しばしば、大声で叱咤激励されたらしいし、その様子を描いた壁画が「絵画館」(聖徳記念絵画館)にある(小林万吾画)。その壁画の題材は、青山練兵場での観兵式のなかでも最大級のセレモニーだった明治39年(1906年)4月30日の「日露戦争戦役凱旋観兵式」のありさまである(そして、ついでに言っておくと、本年はこの日露戦争の開戦から丁度100年目にあたるのだ。明治ははるか遠くになりにけりである)。
その際、明治天皇の御座所は、大きな榎(えのき)の西前方に設けられた。そこは観兵式の際の明治天皇の御座所の定位置だった。それゆえ、この樹齢200年をゆうに越えると思われる榎は、「御観兵榎(ごかんぺいえのき)」と呼びならわされてきた。
この榎は枝振り16メートルにもおよぶ高さ9メートルの古樹だったが、平成7年(1995)9月17日の台風12号の強風で、老齢だったこともあり倒木した。現在は二代目の樹齢60数年の榎がそこに植樹されている。まだ若い樹だ。かたわらにある東郷平八郎筆による「御観兵榎」の碑に負けているような面持ちである。しかし、絵画館前のにぎわいから50メートルほど引き込んだ立地の中で、木漏れ日をあびて榎は精一杯、背伸びをしてみせたような気がしたものだった。

(初めの画像は明治の頃の演習の絵葉書。実にキッチュで、横尾忠則、赤瀬川源平などのデザインの源流はこれかと思わせる。ふたつめは絵画館にある「凱旋観兵式」の画像である。今日の「東京暮色」はやや、明治時代や美術に片寄り過ぎただろうか? しかし、東京に残る明治時代というものもまさしく暮色である。そうセピア色という意味で……)


東京暮色その2/神宮前・絵画館前の銀杏並木

2004-12-05 23:59:46 | 東京暮色/秋~初冬
1日の午後は地下鉄で神宮前へ向かった。この9月、ボクは自分の詩作品をデータ化し、新しい詩集を自費出版しようとまとめだしていた。そんな矢先、ある出版社の「公募」を知ったのだ。かって自分自身がマンガで、一定期間フリーランスで過ごし、印刷関係の仕事もしていた関係からこれまでそのような「公募」に応募することにシラけていたボクだったが、タイミングも良かったので投稿してみたのだった。その作品は、ボクの朗読イベントで評判も良かった最近の作品をまとめたものだった。自信作であったと言ってもいいだろう。第2次審査まで突破した。しかし、最終審査には残らなかったようだから、どうやら第3次審査で落ちたようであった。
その出版社に出版プロデューサーという人を訪ねて会いに行くことになっていた。いわば、自費出版のすすめだろう。そして、その出版社はそのような「公募」を通じて、自費出版や才能の掘り起こしを営業戦略的にやっており、それが成功して青山にまでオフィスと自販直営のブックショップまで構えるまでになったのだ(ここまで書けば、その出版社に思い当たるひとも多いだろう)。

約束の時間まで、だいぶんあった。ボクは歩いて絵画館の方へ行ってみようと思った。そこで、出会ったのだ。落葉の直前の見事に色づいた神宮前の銀杏並木に……。
この銀杏並木がある意味で東京を代表するロマンチックな場所であることは、この場所をロケ地とした映画、最近のTVのトレンディ・ドラマでの場面の多さをもっても推しはかられる。ボクはそのような趣味はないので見ることはないのだが、「東京ラブストリー」などでも舞台になっているはずだ。
しかし、そうは言ってもそれはいまに始まったことではなく、ボクも中学3年生の頃に、ここにデートに来ている。そう、それはこれからあらためてめぐって行くような気がするが、当時の定番のデートコースは絵画館前、有楽町、そしてアーミューズメント・パークとしてのディズニーランドが出来る以前は東京の代表格だった後楽園遊園地などだ。
銀杏並木には秋の暮色が似合う。夕刻近くの柔らかい日射しを浴びて、銀杏の梢が黄金色に輝いているのを見ると、なぜ今日はひとりだったのだろうと思う。そう、杉並の大田黒公園で出会ったオーストラリア人女性を連れてきたらきっと喜んでくれたことだろうに妙に悔やまれる気持ちなのである。

しかし、実際には団体客をはじめ、携帯写メールやデジカメで写真を撮るひと、プロのような4×5の三脚付きの大型カメラを構えたひと、キャンバスを立てて油彩を描くひと、そぞろ歩くひと、カップルでまるでひとゴミの混雑したありようで、とてもロマンスなど語れるような雰囲気にはないのだが、それでもそこは、まるで巴里(パリ)の通りのような(て、これが重要ポイントかもしれないな!)ロマンチックな空間なのであった。

それは、この銀杏並木の、実は人工的な設計プランに関わるものなのかも知れない。そもそも、この銀杏並木は大正15年(昭和元年)に明治神宮外苑が創建された際に、一緒に造成された。左右の鋪道に2列ずつ、4列の並木が作り出すハーモニーが、その美しさの秘密だが、ここには隠されたさらなる造園上の仕掛けがあるのだ。
実は、青山通り側の銀杏は最高24メートルの樹高があり、目周り2.80センチもあるが、奥の絵画館側の銀杏は最低樹高17メートル、目周り1.80センチの小振りのものという風に並べてあるのだ。
絵画館は、銀杏並木からさらに軟式野球場を隔てた場所にあるにもかかわらず、このおおよそ7メートルの高低差が生み出す、遠近法の錯視によって、青山通り側からみると実際より近くに迫って見えるのである。
この奇妙な錯視の感覚は、この日のような青空を背景にして見ればシュールな感覚であり、一度このような人工的に計算しつくされた歪んだ空間と言う自覚をもって、この銀杏並木を青山側から眺められることをおすすめする。
jinguumae


東京暮色その1/荻窪

2004-12-04 12:38:21 | 東京暮色/秋~初冬
otaguro音楽評論家の広大な屋敷跡

師走になった??あとひと月で今年も暮れる。そんなあわただしい12月の日々。2004年というもう二度とは、訪れない瞬間の東京という都会の心象スケッチ??初冬の暮れなずむ風景の中で、枯れ葉と紅葉でアース・カラーに染まった東京。 雲ひとつない青空を横切るひかりの晴れがましさ……そして欝になるほどの暗い曇り空……そんな日々の記録と心のうつろいを書き止めておきたい。

師走に入ったばかりの1日の午前中。荻窪駅南口に降り立ったボクの足は、いまやマンションの敷地となってしまったが、かってそこに旧家然としたお屋敷があったことを、想像させるに充分な「史跡・明治天皇小休所跡」と書かれた門碑のたつ門構えの立派な(いや、正確に言えば「門」しかないのだが)場所を通って、いつのまにか「大田黒公園」に向かっていた。杉並区にあるこの区立の公園を御存知だろうか?
8,972平方メートルの広大な敷地に住んでいたのは大田黒元雄(1893~1979)。30冊余の著作をもつクラッシックの音楽評論家である。我が国にその著作でもってドビュッシーやストラビンスキーを紹介したことで知られる人物である。
大田黒氏は、1964年までNHKラジオで18年間も続いた人気長寿番組「話の泉」のレギュラー解答者として出演しており、大部分の国民にとってその名は、「話の泉」によってよく知られるようになった。ボクも幼い時、その番組を聞いたことがある。「話の泉」は、我が国最初のクイズ番組であるそうな。たしか徳川夢声が司会をしていたのではなかったか?

この広大な土地に大田黒氏は昭和7年頃から住みつづけていたようである。その土地を残された遺族の方が、庭園を残した形で公園にという御希望で、杉並区に寄付されたのであるらしい(私有しつづけていたとしても、固定資産税は大変な額になることだろう)。
正門から生け垣のある小道を通って、右手に数寄屋橋作りの茶室・休憩所があり、全体は日本庭園かと考えていたボクに(もちろんボクは始めて行った)、大田黒氏が生前仕事部屋で使用していたと言う記念館は、思いがけずも洋館だった。この日は水曜日で記念館は幸いに扉を開いて、室内が一般公開されている日だ。
記念館に入りかかった時、うしろから金髪の外人女性が入ってくる。ボクは、また親切心というか下心(?)をおこしてスリッパをそろえて「プリーズ!」などと言っている!
公開されている部屋は、庭に面した応接間というか板の間の大田黒氏の仕事場でもあったところらしい。小振りだが、スタインウェーのグランドピアノなぞも置いてある。大田黒氏は破格のお金持ち、上流階級のひとであったようだ。30冊をこえる音楽関係の著作のリスト(といっても、ボクはそのひとつも知らなかったが、多くのひとも同様だろう。もちろん、クラシックを学んでいるひとには、その意味でも知られたひとであるのは当然であり、紫綬褒章、勲三等瑞宝章、文化功労賞をそれぞれ1964、1967、1977年に授けられているほどの有名人だったのだ)、「話の泉」に出演中のスナップ写真、記念の盾などが飾ってある。
ボクは親切心をおこして、外人女性に説明を試みるが、なにしろ単語が浮かんでこない。ま、なんとなく理解してもらって、庭に出る。「It's a wonderful day!」などと言ってみる。なにしろこの日は、朝から素晴らしい小春日和(インディアン・サマー)で、晴れ渡って庭の紅葉したモミジなどが美しく見える。
この外人女性は、実は滞在6年目のオーストラリア人でそれなりに日本語も話し、ボクのブロークン・イングリッシュを補うより日本語で話した方が早かったのだ。漢字も拾い読みくらいできるらしい。きっと大田黒氏の著作リストも、なんとなく理解は出来ていたらしい。
彼女は、国分寺の殿ケ谷公園なども知っていて、こちらの方がいいと言うのである。なぜなら、無料だからと。なかなか、素敵なひとだった。

庭で金髪女性と別れて、池を廻り(今回の故郷の悲惨な地震被害の事を知っているのか知らぬのか、新潟の小千谷市産の立派な錦鯉が悠々と泳ぎ回る池だった。)、ボクは荻窪の古書店を覗いて(江戸川乱歩の『幻影城』の復刻版を見つけるが、手が出なかった)ランチをとりに駅方向に向かう。
(この項つづく)