風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

6月20日/世界難民の日

2006-06-21 01:22:24 | 今日はナンの日?
World Refugee Day??世界難民の日。この日はもともとアフリカ諸国が決めていた「難民の日」だった。それが2000年12月の国連総会で、決議されて「世界難民の日」となった。
日本はいわゆる難民条約(難民の地位に関する条約)には調印しているのだが(1981年)、その実、「難民」の認定は厳しい国である。入管法(出入国管理および難民認定法)の秘密主義がネックになって国際的にも批判されるほど、難民に認定されて居住が認められたケースは驚くほど少ない。

ボクが直に知っている難民の人も多くはない。ボクがその生活の実際を見たのは、ダージリンの周辺に居住しているチベタン難民だった。
それからベトナム難民のひととカンボジア難民の方と会ったことがある。後者はその民族レストランで……。
最近では、一時収監までされたスリランカ難民のララ・ロッキー(通称)さんである。
難民のひとたちの民族的アイディンティティも含めて、その数奇なる運命は国家のはざまに置かれた個人の人生の悲劇である。そのたびにクレオール的な言語や、文化の発生なんてことまで想像力の及ばないこの国に生まれたのが、幸運だったのか、悲劇だったのか分からなくなる。

この国では平坦で、平凡でそれでいてそこそこの暮らしを営むために、競い合い、選別され、それが格差社会を生み出している。あらたな身分制社会が生み出されていると指摘するひともいる。
同朋はライバルであって気のおけないヤツという、友愛どころか同朋に手もさしだせない関係を社会制度
がきずいているせいか、このような難民問題に対して概して冷淡であるようだ。
学校等の教育機関は、最近、国家の下請けとしての締め付けが厳しくなってきており、「愛国教育論」がさかんだが、ことこのような難民問題や友愛は教えないらしい。
社会すなわちソシャール(Social)とは、「友愛」を語源とするらしい。ますます、MIXI関連の方々には自覚的になってもらいたい(笑。MIXIのようなサービスをSNSつまりソシャール・ネットワーキング・サービスもしくはサイトと呼ぶのを御存知ですよね?)。

ホワイトバンドのようなイメージと、ファッション性が先行したキャンペーンだととびつくんだが、なかなか自らの発意で動くのは難しい。LOVE & PEACEとたやすく口にする前に、世界の現状を認識しよう(自戒をこめて書いてます)。

特定NPO法人として日本UNHCR協会が出来ていたらしい。ここで「難民問題」の基礎を知っておこう。→
http://www.japanforunhcr.org/


マリリンは80歳!!

2006-06-01 13:43:48 | 今日はナンの日?
Marilyn今日はあのアメリカが生んだ偉大なるセックスシンボル、マリリン・モンローことノーマ・ジーン・モーテンスンの生誕80年の日である(1926年6月1日生まれ、ちなみに亡くなったのは1962年8月5日。謎に満ちた死だった。享年36歳)。いわば、「マリリン・モンローの日」なのだ。
月刊『PLAYBOY』誌も先月のビートルズに引き続いて特集を行っている。いうまでもないだろうが、アメリカ本国版の『PLAYBOY』誌は、女優になっていたマリリンのピンナップ・ガール時代のヌード写真を1953年の創刊号でスッパ抜き、そのことによって『PLAYBOY』誌もマリリンもセンセーショナルに有名になった。地味な端役女優からセックスシンボルへの転身である。マリリンにとっては、わずかの金で身売りする貧しいかけ出し時代のヌード写真だった。
ペントハウスでバニーガール・スタイルの美女に取り囲まれ酒池肉林のような生活を送っているとイメージされたヒュー・ヘフナーのPLAYBOY帝国は、このような名もないピンナップ・ガールの涙ぐましい売り込みやスキャンダルを商品にすることによって支えられてきた。

マリリンは生きていれば80歳。きっと美しい老い方をしていただろう。一般にイメージされているようにはマリリンは60年代の女優ではない。そのイメージはおそらくJ・F・ケネディとの間でうわさされた色恋沙汰、ケネディの大統領就任中のバースディ・パーティでの「Happy Barthday Mr.President」ととろけるように歌った歴史的な映像にあるだろう。
実は、マリリン・モンローの女優としての全盛期は50年代、マリリンはフィフティーズのアイドルであり、エロいだけの大根役者から、ストラスバーグのアクターズスクールでの演技指導以後、めざましく名女優へ変身した。演技に開眼したのだ。

マリリンの歴史的映像といえば、 これは写真なのだが朝鮮戦争当時、前線に慰問に行った時のものがある。アーミールックに豊満な身を包んだマリリンも捨て難いが、零下に近い朝鮮の厳しい寒さの中、慰問先の仮設舞台で肩をむきだしにしたドレスで歌うマリリンが素敵だ。そのサービス精神に女優魂をほとばらせている。それを取り囲む兵士たちは、本国から遠く離れ、マリリンのピンナップ写真をベッドサイドに貼って、戦地の男だらけの無聊を慰めていただろう。そんな兵士たちの懐かしさとギラつく欲望とそして自分の母親を眺めているかのような一瞬が切り取られている写真がある。たしか、舞台に食い付くように乗り出してマリリンの足下でマリリンが落とした何かを握りしめて笑っている兵士の印象的な写真もあった。

現在、読売新聞の主催で横浜高島屋でモンローの写真をデジタル処理した(ジャック・アレンによる)あらたなモンローの表情と1億円相当のマリリンが身につけていたダイヤのネックレス「バローダの月」などのドレス、アクセサリー展示を抱き合わせにした展覧会が開かれている。
画像はそこからのもので、拝借したお礼に宣伝しておきます。お近くのかたはどうぞ!

「生誕80年記念マリリン・モンロー綺麗のヒミツ展」
会期・会場  5月25日(木)~6月5日(月) 
       午前10時~午後7時 6月1日は午後6時、5月29日と最終日は午後5時閉場(入場は閉場の各30分前まで)
       横浜高島屋 8階ギャラリー
入場料金   一般:800円、大学・高校生:600円 *中学生以下無料
横浜タカシマヤ:045-311-5111

(画像はジャック・アレンによるマリリン・モンロー)


530ってなに?

2006-05-31 23:59:43 | 今日はナンの日?
昨日、5月30日は何の日だったでしょう?
いや、記念日のたぐいではありません。
530。もうこれは6月4日が(あ、もうすぐだね)ムシで、虫歯の日のたぐいのゴロ合わせなのだが、なんだか広報が効いてないのかあまり知られてないようだ。
530で、ゴミゼロの日と言うのだそうだ(5/30~6/4)。
そして制定した官庁が、厚生省(現・厚生労働省)で実施団体が都道府県の環境美化推進協議会というところになっている。
あ、それで先日、周辺の草むしりが町内会で実施されたのだろうか?

いや、趣旨はいいのだが、いまひとつこのゴロ合わせといい、いい加減にしてくれといいたくなる気持ちが先にたってしまう。

環境に留意し、ゴミを少なくするのはいいのだが、その「環境美化」が監視につながるようなニュアンスを感じるのはボクだけか?
事実、草むしりに出てこない家庭は、すこし白い目で近所から見られると言うややもすれば、戦前の「隣組」制度、もしくは「村八分」のような市民の相互監視をよびおこすともかぎらない。

これは発祥はアメリカだが、いまや全世界レベルでの運動であり、理念になっている「アースディ」そして、「毎日をアースディに」で充分じゃないかと思うのだが……。

だからか、どうか知らないが、このことを大きく別紙カラー版で取り上げてまでいたのは、サンケイ新聞だった。

そう書くと、余計うさんくさく感じますよね(サンケイさん、すみませんね)。


母の日/for my Mother

2006-05-14 02:23:52 | 今日はナンの日?
Mothers_day母の日である。
カーネーションをプレゼントするべき母は、もういない。生前、こういう日になんの気も回らなかったボクだが、やはりもうプレゼントを考えてもあげる相手がいないというのはさびしい。

最近、母にまつわる不思議な思いをした。
ひとつは、最近やっとひと月になった3K仕事をはじめる前日に、「(行っちゃ)ダメ!」と母の声が聞こえた気がしたのである。空耳だと思った。仕事の初日、所作なく身体の置き場に困っていたボクは、右も左もわからないのにかけてはいけないところに足をかけもう少しで転落するところだったのだ。
かろうじて転落をまぬがれたボクだったが、「ああ、このことを警告してくれてたんだ」とさとった。
で、初日からコッぴどく怒られたボクは、そのこともあったのか比較的ラクな現場にまわされた。実は、危険度も少なくなってボク自身助かっている。その上、その現場は少人数でスタッフに欠員ができていたので、時給もあがってしまった。災い転じて福となす、ということなのか?

母は右手の中指が、他の指より短かった。第一関節から先がなかった。町工場で働いている時、機械にまきこまれて切断してしまったのだ。爪もない短いその指を、ボクらに見せる時、明るく笑いとばし「工場長さんにはよくしてもらった」と感謝していた。
もともとはお嬢さん育ちだった母は、ボクなどよりははるかに逞しい底辺労働者のおんなになっていた。

母子家庭だった。いや、オトコはちょくちょく変わったのだったが、苦楽をともにしたという共有感は母と子どもたちの中に流れていたろう。そして、男であるボクの目から見ても、母が一緒に住むオトコはそのような母子の共犯関係に嫉妬の念もいだかない、鈍いオトコたちだった。

幼い頃から、呼び易いのか、まるで犬コロでも呼ぶように、「ジュン! ジュン!」と呼ばれるのが、ウザかった。姉より圧倒的にボクの名前を呼ぶのだ。

先日もクタクタに疲れた身体を横たえた時、母のボクを呼ぶ声が聞こえて眠れなくなってしまった。そんな母を置いて家出までしたボクは、自分の親不孝ぶりを悔いて枕を濡らしてしまった。

その声音を文章で書くことはできないが、ボクの耳には一生忘れることのできない声がこびりついている。

「ジュン! ジュン! なんばしょっとね。遊んでばかりおらんと、はよ、いいおなごば掴まえて幸せにならんとね」

余計なお世話としか当時は思えなかった。でも、それはきっと母心、親心というものだったのだろう。いささかさしでがましい、ひとの人生にズカズカ土足で入って来るわずらわしさがあり、そのときどきのボクが同棲していた女性ともひと悶着も、ふた悶着も起こしながらも干渉しないではいられない性分だったようだ。

ま、それはいつまでも自立も大人になりきれなかったボクが心配をかけ続けた自業自得でもあったのだが、お互いは親子であっても違う人生を歩むものだ、ということが理解できなかった子離れできなかった母のさびしさの裏返しでもあったのだろう。

そんな母は、いま大原の樹木葬地でヒメコブシとなって眠っている。ボクにとってもあらたな故郷とおもう地に…。

母さん! 今日は母の日だよ! おめでとう! そして生んでくれてありがとう!



5/1 水俣??その50年(4)

2006-05-11 02:13:34 | 今日はナンの日?
「水俣病」は過去のものだと思われているだろうか?

「水俣病」はむしろ現在、世界に拡散している。新潟阿賀野川の昭和電工による「第二水俣病」、アマゾンの砂金掘り労働者(ガリンベイロ)そしてジャカルタ湾、タイなどだ。主なものは一番下に列記したからそれを見て欲しい。
これからは中国あたりが危ないかも知れない。スモッグ(重金属の雲、大気汚染)とともに有機水銀は経済活動ばかりが国是とされているところほど危ないのだ。そしてアジアにおいては「公害輸出」と言われても否定できないほど日系企業が加担していたりする。

ひるがえって水俣では、あの白い巡礼の姿で熊本の寒村から上京し、チッソ本社前で座り込みをし、厚生省(現・厚生労働省)の役人たちとも渡り合った患者さんたちは35年ののち、ふたたび何ごともない前近代の眠りのような平穏な生活に帰ったのだろうか?

未認定の患者さんの問題もかかえて、水俣でズタズタに壊れたものは差別や白眼視や、そして闘争や訴訟の中でこのクニに棄民されたものとしてのにんげんの矜持だったろう。いま、水俣湾は埋め立てられて昔日の面影はない。現在、水俣は行政主導で稀代のエコシティを目指して失われた月日を取り戻そうとしているように見える。
失われた人間関係を、切れたともづなをもやい直すように再構築するための試みが行われている。充分ではないにせよ授産施設や老人福祉の施設もある。ディケアサービスの施設も立派だった。熊本市内のボクの母がお世話になっていたところより立派な施設だった。
だが、現在、表面的には平穏な一地方都市に見える水俣も周辺の漁村では苦吟する水俣病の患者さんたちがいまも生きている。それは、かってように息をひそめてひっそりとではない。
「相思社」をはじめとした患者さんたちが、その支援者とともにはじめた自主・自立のグループやスペースがいくつかある。むしろ、それらのNGO的な組織作りは行政の後手後手の政策を先取りし、これから歩むべき道をむしろ照らし出してきた。

1日。国の主宰する慰霊祭(小池百合子が環境大臣として参加したのみ)とともにそれに参列しない患者さんたちは国の慰霊より古くから営んでいた「乙女塚」の前で慰霊祭をとりおこなった。
それは、そうボクが未だにその衝撃を忘れられないひとり芝居「苦海浄土」をもって全国を行脚し、ついには水俣に住みついてしまった砂田明(故人)が、胎児性水俣病患者であの生き人形のような美少女だった上村智子さんの死をきっかけに建立した慰霊碑だった。
そこはもちろん「水俣フォーラム」が主催する「水俣巡礼」のコースにもなっている。水俣の巡礼にこのようないわばエコツアーでも、個人でも一度行かれることをおすすめする。
水俣へ行けば、ボクらが、何を犠牲にしてこの豊かな国を作り上げてきたかが分かるからだ。そう、強く思う。「チッソ」とは、その利便な技術や商品を享受して豊かに暮らしてきたもうひとりのボクら自身なのだ。

 そのたましいを 折り殺し
 吐き捨てたな 鉄の道の上に
 おまえたちだね
 ぶどう状奇胎のみやこをつくったのは

 (「死民たちの春」石牟礼道子)

(おわり)

●主な世界の水銀汚染
 ヴィクトリア湖(タンザニア・ウガンダ) 
 ミンダナオ(フィリピン)
 吉林市(中国)
 バンコク(タイ)
 ジャカルタ湾(インドネシア)
 バレンシア(ベネズエラ)
 マグアナ湖(ニカラグア)
 オンタリオ州(カナダ)
 ケベック州(カナダ)
 ヘメンキロ(フィンランド)
 スウェーデン
 モロン(ベネズエラ)
 アマゾン(ブラジル)
(「水俣東京展」資料による)



5/1 水俣??その50年(3)

2006-05-10 01:05:05 | 今日はナンの日?
それも、農業人口は大部分が小作農で、この国の農業人口のほとんどは農地改革が行われるまで、奴隷制度に等しい作男だった。格差社会どころか身分制社会だったと言ってもおかしくない封建的な遺制のただなかに、農村はましてあった。だから、もっとも自由な職業は漁師だったのではないかと思う。
漁師は自由であった分、移動もした。それを保証したのがこの国の海の豊かさだった。漁師こそは、機械化されたトロール船や遠洋漁業は別にして(マタギやサンカやアイヌ民族もいますが)、狩猟採集の現在にまで残された自由な仕事であると言えるだろう。
沖縄の人々が自由な生き方をしているように見えるのは、南の島ということもあろうが、海洋の民の末裔だったということが一番大きそうな気がする。

そして水俣の不知火海の渚ぞいに作られたちいさな漁村は、そのような民がたどりついた場所だったし、その暮らしをゆたかな海が支えてきたのであった。九州の子宮の海(石牟礼道子)としての不知火海は、その豊かさで様々な生類を育てたが、人間もまた海によって生かされてきた。

その海が人間を襲った! いや、そうではない! そのような豊かな海を一企業の私利私欲で、有機水銀と重金属の廃液捨て場にしてしまった。ゆたかな不知火海を毒の堆積する海にしたのは人間であり、「会社」だった(水俣では「会社」と言えば「チッソ」のことである)。
チッソは過去2回にわたって臆面もない海を買い取るような仕打ちをしている(大正14年に「永久に苦情を申し立てない」念書付きで海を漁業補償見舞金1,500円で買い取った。さらに、問題が再燃した昭和34年に「死者30万、大人10万円、子ども1万円、不治の病の子ども年間3万円」で値踏みして買うことまでしている(見舞金契約書))。漁師から漁業権を買い取り子々孫々にわたって補償等は一切しない等と言う確約書までとって、水俣病の認定・補償闘争の中でも一時は、この違法な契約をタテにとってはねつけることまでしたのだ(石牟礼道子『わが死民』)。

(つづく)



5/1 水俣??その50年(2)

2006-05-03 01:30:50 | 今日はナンの日?
ところで都会に住んでいるとなかなか想像できないことがひとつある。なにも、素晴らしい野山の事を言いたいんじゃない。つまり、地方都市と言うものはそれぞれが、ある特定の企業の「城下町」のようで経済も、政治の中枢もそのような企業の関係者が独占してきたという構造がある。それは、ホラ、キミのすぐそばの町にもあるだろう? 豊田はナントカ自動車の城下町だし、富士はナントカ製紙の城下町で、四日市はあれこれの工場がはきだす排煙で、多数のゼンソク患者を輩出し一時は空も真っ黒だった。長崎はナニビシ造船所のと、地方都市と言うものはその住人、労働者というものも下請けを含めて、お殿さま、つまり支配企業に対して生活を考えたら何も言えずに(それこそ悪口でも言おうものなら村八分になりそうな)口を閉ざしてしまうと言うこと位は、想像力は及ぶよね。
この構造は、地元に金を落とし、雇傭を生み出すというので金欲しさの賛成派が原発の誘致をかかげることが、大きな選挙課題となって反対派とあつれきをうみ、町を二分するくらいの大問題となるくらい延々と現在にまで連なっている。
アメリカ軍の軍事基地の問題も、根は同じだ。この構造を理解しないで、やみくもに反対をとなえても地元の縁故関係にまでつながる複雑な感情のもつれは、理解できないし受け入れられないだろう。

ましてや、熊本県の一漁村に明治の頃に「国策」として作られた「チッソ(新日本窒素肥料株式会社)水俣工場」に楯つくことは、いわばお上(国)に楯つくことで、「ナンバ、オ国ニタテツクゴトアル」事態をチッソに働く労働者はもとより、住民、役人が許すわけもなかった。
明治の頃より、この国の近代化を推進していた企業と言うものは、国策で作られたか、炭坑等の資源やエネルギーにからむ重要な産業か、金融か、軍需蚕業(ここまですべて財閥系の企業が独占してきた)で、純粋に利益を追求してなりたっていた産業は、農業か漁業か出版業くらいなものではなかったのか?

(つづく)


5/1 水俣??その50年(1)

2006-05-02 00:00:31 | 今日はナンの日?
今日(1日)はいわゆる「水俣病」が「公式に」「発見」されて50年めにあたる。新聞でも、TVでも報道されていたから御存知の方は多いだろう。まさか、「水俣病」を知らないひとはいないと思うが、高校生以下あたりは怪しいな。このようなこの国の「負の遺産」は、現代史でもあるから授業でもふれているかどうかあやぶまれる。
水俣病は、それこそ昭和三十年代の(それは決して「三丁目の夕日」だけではないのだ)暗部を象徴している。「水俣病」という命名からもある程度、わかってもらえるだろうが、それは最初、水俣だけに発生する「奇病」、風土病、もしくはいわく言いがたい「業病」のようにひとびとのウワサとして広まった。
そして、その病が実はチッソ水俣工場が排水溝を通じて海に垂れ流していた有機水銀(実はメチル水銀)による「公害」(それは、「公害」じゃない。正確に言えば、一企業が、産業がおこなった徹底的な「環境破壊」だったのだ!)だと、特定された過程においても御用学者たちは、風土病、奇病として主張してやまなかったのだ。このプロセスは「薬害エイズ」にも繋がる構造で、ちっとも変わっていない。

(つづく)


チェルノブイリ20年目の夜に(2)

2006-04-30 23:55:31 | 今日はナンの日?
4_26_night_4渋谷はNHKホールの目の前に、「アースディ・カフェ」として設けられた特設テントで開かれた。メインは、知識人、平和運動家の座談である。ボブ内田のソロ「チェルノブイリ」と、ナナオの2編の詩「ええじゃないか、ええじゃないか」と「星を食べようよ」だけが、表現だった(写真_2)。
渋谷の会場は仮設テントで、夜ともなればさすがに寒かった。

ひとりそのひととなりをポツポツと語ってボクの印象に残ったのは写真家でもあり映画監督(「ナージャの村」「アレクセイと泉」など)でもある本橋成一さんだった。黒澤明のことばを引いて「人間なんてたいしたことはない」と語り出したのである。もうはるか昔のことで、一時は流行語にもなった羽田沖に墜落した航空機の機長の「逆噴射」なんて、懐かしいことばまで飛び出して笑わせてくれる。
ボクもそう思う。人間は間違いも起こす、ミスも犯す。そんなたいしたことのない私たち人間に「神の火」とも言うべき原子力や、「地獄の業火」とも言うべきプルトニウムを自在に扱えると考え、さらには「絶対安全です!」と言い放つ、そのことでさえ傲慢で不遜なことなのではないか? と、思うのである。

「人間大」の「等身大」の技術??それだけが、「たいしたことのない」わたしたち人間もしくは人類が扱うことが許されているテクノロジーなのではないだろうか?
この日の、トークのスピーカーのひとりが、その著書で臆面もなくパクったことばを、もとに戻すなら「スモール・イズ・ビューティフル」(シューマッハー)なのだ。小さいことは美しい! つまり巨大テクノロジーに対抗する人間大のテクノロジーこそが、ひとにも環境にも優しいものなのだ。
この意味でも、原子力でお釜のお湯を沸かしてタービンをまわすだけの、エネルギー効率の低い原発による発電方式や、核燃料処理によるプルサーマルなんてツケを未来や子どもたちに残すだけのとんでもない超巨大技術である。

原宿を経由して、もうひとつの「NoNukes_4.26」の開かれている「LOFT PLUS ONE」へ向かう(主催はともにアースガーデン)。

空腹で駆けつけた会場は、渋谷とは全く違っていた。おりしも天空オーケストラの岡野さんが歌っており、会場がそのネイティブ・アメリカン的な掛け声とともにひとつになっている。続いてボブが歌う。渋谷ではソロで歌った同じ「チェルノブイリ」をチナキャッツやケンゴや岡野さんをまじえたスーパーセッションバンドである。バックでハモるおハルのコーラスが心地よい。
なんだか、優しさに包まれたみたいでホッとした。こごえた気持ちも会場の熱で溶解するかのようだ。うん、少なくとも渋谷からのパネラーたちがそこに駆けつけてくるまでは……(笑)。

なんだか、うむを言わさぬ勢いで広瀬隆氏のレクチャーがはじまった。皆が飽きたらその場で止めますということだったが、さすが講演なれしていてその話はきっちり1時間かかった。終わったのは深夜零時だった!
話の概要は、ほぼ「危険な話」の第2章からの展開に見合ってものである。
御本人も言っていたが、いわば入門編が話された訳だ。

そのあとキャンドルに浮かび上がって眼鏡をはずしたナナオが登場した。ナナオは渋谷よりは、はるかにリラックスしていたが(「LOFT PLUS ONE」には幾度も出演して場慣れもあったのだろう)読まれた詩は渋谷と同じものだった。

おおえさんやクマさんなどの懐かしい顔を確認してボクはそこまでで会場をあとにした。朝までの展開は(こちらはオールナイトだったのだ)、残念なことに目撃する訳にはいかなかった。チナキャツや花&フェノミナンなどのバンドがあとにひかえていたというのに……。

最後に、このことばを書き留めておきたい。チェルノブイリの意味をこれほど語ってくれることばを他には知らない。最悪のチェルノブイリ原発事故から20年めの夜に、静かに噛みしめながらおののきながらこぶしを握る。
ボクらは「核の時代」の第何章を生きているというのだろうか?
ヒロシマ・ナガサキの以前にもう戻れないように、ボクらはポスト・チェルノブイリの子どもたちなのだ!

「とどのつまり、現状では私たちはみな、これからもチェルノブイリのすぐ「隣り」に住んでゆくということだ。」(R・P・ゲイル+T・ハウザー「チェルノブイリ」岩波新書1988)

(写真_4)新宿「LOFT PLUS ONE」で、キャンドルに照らされ朗読するナナオ。




チェルノブイリ20年目の夜に(1)

2006-04-29 01:06:34 | 今日はナンの日?
あの未曾有の原発大事故、現ウクライナ(当時はソ連邦の一地方)の北部にあるチェルノブイリ原子力発電の4号炉が爆発して隔壁屋根を突き破り、大量の放射性物質が空気中に放出された。1986年4月26日未明におこったレベル7(国際原子力事象評価尺度(INES)による)の人類がはじめて体験する地球規模の原発による放射能汚染である。

チェルノブイリ以後、口にするものは少なからずの放射能被爆を受けたものだと思い覚悟した。当時、友人がギリシャの日本人学校の教師をして滞在中で、かの地のパニックぶりを伝えてくれた(事故当時の風向きは北で、それゆえベラルーシの1/4が汚染されたのだが……)。友人が帰国の際に、土産としてくれたピクルスをボクは捨てた。

ボクは、いまも保存しているが、チェルノブイリ以前の大麦で作られたモルト・ウィスキーを持っている。汚染された食物で育つしかなかった子どもたちが成長したあかつきには、いわばもはや神話の時代に等しい世界がまだ無垢だったころの大地から生産された穀物の豊穣さを懐かしみ、祝福したいと言う、なかば絶望の中で考えたひとつの記録法だった。

その日から20年がたったのだ。本当なら日曜日に府中の森でもおこなわれていたチェルノブイリ子ども基金主催のコンサートにも行きたかったのだが、かなわなかった。現在、東京に住んでいるナターシャとカーチャの美人姉妹のつまびくバンドゥーラと歌にも耳傾けたい。また、それがわずかなりとも幼児の頃に被爆した姉妹そしてたくさんの子どもたち(幼児被爆者はほとんど成人している)への医療援助となるのであれば、なおのこと。

それでも、チェルノブイリ20年目の夜を漫然とは過ごしたくなかった。それで、これは両方とも同じ主催なのだが、渋谷と新宿に出かけたのだった。

これは、偶然にもボクには久しぶりの原宿・渋谷・新宿のタウン・ウオッチみたいなものにもなった。2006年4月26日のチェルノブイリ20年目の東のバビロニアの記録みたいなものである(写真_1、3)。

(つづく)


節分の夜に……

2006-02-03 00:46:01 | 今日はナンの日?
今日は「鬼やらい(追儺)」、節分である。その夜に毎月第1金曜日の夜に開催している定例オープンマイク・イベントを開催する。
「オニはオニ! フクはフク!」でやろうと思う。これは、漢字で書くとこう意味だ(ってボクが作ったのですが……)。
「鬼は 隠者(おぬ)! 福は 葺く!」

鬼はむかし話しで桃太郎や、金太郎に退治される存在だが、これはアイヌやエミシなどの先住民族の投影であるという説がある。坂ノ上田村麿呂が征伐したというヤマトの英雄伝説の裏に隠された先住民族の記憶、形跡である(「ねぶたまつり」はその戦勝祝いみたいな祭りである)。追儺の儀式は宮廷等で悪霊を払うためにおこなわれるのだが、この悪霊と言うのもじつは大和朝廷が征服し、殺した先住の民の怨霊、怨みを調伏するためにおこなったのではないかと思われる。

だから

「鬼は外! 福は内!」

と、差別、排除したくない。
日本の征服の方法は、つねに同化政策だったから実は、ボクらの血の中に先住民族の血は同時に流れているのだ。

だから

「鬼は 隠者(おぬ)! 福は 葺く!」

で、やる。ボクのオリジナルである。音だけ聞くと同義反復なところも気に入っている。
そして、

節分に 鬼も一緒に 踊り出す!(JUN)

一句できたところで、
さぁ、豆をもってやろう!

「オニはオニ! フクはフク!」

そして、オニとフクと混じりあってで今晩は踊るのだ!
花フェノのゴキゲンな演奏とともに!