風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

12/5 E.G.P.P.100/step89 地獄・煉獄・DECEMBER/望年会

2008-11-29 00:33:24 | イベント告知/予告/INFO
Hell_bosch●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step89
テーマ:「地獄・煉獄・DECEMBER/望年会」

2008年12月5日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN、bambi、梓ゆい(新MC)
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、梓ゆい(ポエッツ)、ココナツ(うた)、bambi(スピリチャル・トーク)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 アメリカ型の経済システムが破たんした。戦後構造を牽引してきたパックス・アメリカーナも砂上の楼閣だったことが立証された。美国(日本語では米国だが、中国語ではこう書く)は、所詮「張り子の虎」だと、40年以上も昔、毛沢東だか、ホーチミンだかは喝破していた! 洞察力をもったエライ爺さま方だ。
 アメリカが風邪をひくと、鳥インフルエンザがまん延する日本では(そんな説があったか?)戦後最大の企業破たんが予測されている。景気は悪くなり、就職氷河期を超える就職地獄、大量首切りが起こるかも知れない。「地獄の季節」が始まるのだ。
 これがどうなるのか、経済学者でも政治学者でもない、オイラには予測もつかないが、ともかくも早く国会は解散、総辞職して総選挙をし、政権を交替させておいた方が良さそうだ。漢字の読めない麻生首相はイヤイヤしているが……。
 生きているのか、死んでいるのかも不明なナマ殺しの中にあった国民は、いまやあたらしい「死者の書」を求めているのかも知れない!

 定例開催の維持が、危惧されているオープンマイク・イベント「E.G.P.P.100」の89回めは年の瀬の寒さ(フトコロも)を吹き飛ばす望年会もかねます! 来年からの活躍も期待される新しいMCも御披露目? 差し入れ歓迎! なんてことをマスターに断らずに書いちゃって大丈夫か、自分?

 このイベントは、自由エントリーのできるオープン・マイク形式で開催しております! 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

主催コミュ「E.G.P.P.100」→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706


小林秀雄の「声」

2008-11-27 23:57:51 | アート・文化
 小林秀雄の「声」をはじめて聴いた。『新潮』12月号に特別付録としてついているCDで、小林秀雄の「声」を聴いたのだ。最初、その「声」が、考えていたよりもかん高いので少し驚いた。かん高い声だろうな、とは何となく感じていた。きっと中原中也の声も、ややかん高かったのではないかと思っている。この二人には腺病質的なものをボクは感じる。育ちの良い腺病質なオノコのヤセ我慢の強がりのようなものを感じるのだ。

 で、そう感じたあと、この国に文芸批評というものを確立した老練の知識人の語り口が、どこか志ん生などの落語家に通じる「間」とか、「おっかさん」という言い方、また、「う~ん」とか、「ね」、「なんと言いますかね」、「そう言ったものをね」といったひとり語り(このCDに収録された「声」は、すべて講演である)の無意識の合の手が、聴くものに親近感を感じさせる。小林秀雄の文体のどこか晦渋な、難解に走る性癖に比べて、わかり易く、受け入れ易い。

 とはいえ、そこは小林秀雄である。

 「ボクの鼻はとんがってる(会場笑)。それをひとは<個性>と思っている。でも、そんなものは<普遍的なもの>じゃない。ボクは、その文学や芸術が、個性と戯れているか、個性と戦っているかで判断することにしている」(『ゴッホについて』)

 と述べる。

 <普遍的>という言葉も久方ぶりに聞いた。いま、ボクらは、「普遍的」「絶対的」という価値判断をとっくに捨て去ってきたと思われる。せせら笑って死語にしてしまった。

 21世紀の現在、ボクらの精神生活は地獄でもなく、天国でもなく、ますますどっちつかずの煉獄的な状況なのではないか?

 世界はますます相対化してゆく。とりわけ911以後は、加速化され相対化していっている、と言っても良いだろう。

 1983年に81歳で死去した小林秀雄は、当然911を体験できなかった。それゆえにか、ことばを適確に選択し、論理的であっただろう小林秀雄から「土人、土人」という言葉が無遠慮に連発されるのには顔をそむけたくなる(『娘がワニに食われた話』)。ドグマの中にいる人間は、ドグマの限界に気付かないと自ら喋っているのにも関わらずだ……。


映画三昧三題(4)/追加・覚え書き

2008-11-22 00:25:18 | コラムなこむら返し
 今回見た3本の映画の中にいくつかの共通する点に気付き、そのことを面白く思ったので覚え書きとして、書き留めておくことにする。

 3本(ICHI、まぼろしの邪馬台国、七夜待)に共通したのは、不思議なことに「子守唄」だ。あまりいただけなかったが、綾瀬はるか演じる離れゴゼである市が歌うわらべ唄のような子守唄。邪馬台国で宮崎康平が作詞作曲した「島原の子守唄」。そして、感想の本文には書かなかったが、泥の川に足をひたして彩子(長谷川京子)が歌う日本の歌は「子守唄」だった。トイの抱き枕のように、腰を抱かれて寝付かせるまでになつかれた彩子は、思わず一緒に二度までも午睡をしてしまう。そう言えば、この河瀬直美の映画は、やたらに主人公を眠らせる。で、それは正しい選択であり、演出なのだ。主人公を眠らせることで、映画はうつつなのか夢なのか、曖昧なはざまを描きたかったはずなのだ。
 眠らせることを主眼にした歌といったら子守唄以外には思いつかない。あのガーシュインの名曲「サマータイム」も、実は子守唄だった。南部のものうい時間を表現するのに、子守唄ほどの適切な表現方法はなかったろう。それは、ものういタイ南部の村で歌われるにふさわしい日本の歌が、子守唄であるのと同じである(効果としての「音楽」が一切ない『七夜待』では、印象的に耳に残る。ラストでの出家を祝うパレードの音楽を別にすれば……)。

 ふたつ(ICHI、まぼろしの邪馬台国)に共通したのは、主人公が全盲だという設定であった。市は父親によってゴゼ宿にあずけられそのままゴゼさんとなる。そして、離れゴゼとなった後も、父の面影をもとめて旅をするのであった。
 『まぼろしの邪馬台国』の主人公宮崎康平はワンマンでワガママな島原鉄道の経営者である。彼は、他の取締役に経営者としての地位から放逐される。いわば、乗っ取られるのだが、そこから宮崎の邪馬台国をもとめるライフワークは激しくなる。全盲の宮崎には、とてつもない想像力と直観がある。それは、経営者だったころの宮崎がワンマンでワガママだったのと同じく誰にもとめられない。
 それどころか、和子という伴侶を得て、宮崎の邪馬台国狂いは加速してゆくのだ。

 そして、いうまでもなく3本に共通するのは日本映画だと言うことだ。これほど、ボクが日本映画を見ている時期もない(『ICHI』のみ配給はワーナーブラザース)。ハリウッド式の大作のあまり好きではないボクが、この時期選んだラインアップがこれだったということだが、実はそんなに威張れたものではない。とにもかくにも、映画館へ宿直明けに行き、時間が合うものを実は見ただけだったからだ(笑)。もっとも「七夜待」は、見たくて行ったものだ。
 いまのところ、うたた寝した映画はない。ボクの貧乏性のためか、映画が面白かったためかは、ボクの書いた映画評の記事で判断してもらうしかない。

 (おわり)


映画三昧三題(3)/七夜待(ななよまち)

2008-11-21 00:13:00 | コラムなこむら返し
 七夜待:監督の河瀬直美の名声がなければ、この映画は興業作品として映画館のロードショー上映にかかることはなかっただろう。この作品は、たとえば映画学校の学生の作品だと言われても納得してしまうほどの稚拙な作品だ。これまでの、河瀬作品の支持者のひとりとしてこんなことを言わねばならないのもつらい。
 ドキュメンタリー・タッチの作品は、観客の頭の中に物語を醸造できないと観客のこころを掴むことができない。カット割りや、美しい音楽や、計算しつくされたテクニックを総動員して、商業映画は観客にすり寄る。匂いと触覚は別にして、五感を総動員して物語の情感や、哀しみや歓びを伝える。ましてや、ドキュメンタリー・タッチを身上とする河瀬直美は映像の美しさと、編集の力で観客のこころを鷲掴みにしなければならないのだ。なぜなら、そこにはストーリーという物語が不在だから、観客はみずからの似通った体験を喚起して物語を組み立てなければならないからだ。
 だから、この映画に脚本と言う立場のひとがいるのが不思議だ(狗飼恭子と河瀬直美)。きっとスクリプト程度のものを提示したのだろう。

 そのスクリプトはこうだ。主人公はドンムアン空港に到着する。空港周辺の下町的な市場に紛れ込み、大きなバッグをひいて熱と混沌の街で片手にもった「地球の歩き方」でホテルを探し回る。インフォメーションセンターで遠いからタクシーで行きなさいと指示される。目の前に停まっているタクシーに乗り込む。いましも、娼婦然としたおんなと西洋人の男が降り立ったばかりのタクシーだ。タクシーの運転手はホテルの名前を告げても浮かぬ顔だ。主人公は街の喧噪にあてられたのか、いつのまにかうたた寝をしてしまう。
 目覚めてみれば、そこはバンコクではなく郊外の見知らぬバーン(村)だ。身の危険を感じた主人公は、タクシーから逃げ出し、近くにいたフランス人のグレッグに助けを求める。グレッグに連れていかれた村の民家にはタイ式古代マッサージを教えているアマリとその幼い息子のトイと祖母がいて、グレッグはその民家に逗留してマッサージを学んでいるようだ。そして、そこはあのタクシーの運転手の住居でもあって……。

 主人公の名前は彩子というらしいことが、あとで分かる。そしてトイの父親は日本人で、母はタイで運転手を夫として穏やかに暮らしている。信心深いアマリはトイを出家させ、いつか日本へいくことを夢みている。

 さて、思うのだが、きっと河瀬監督はこの作品で、現代日本女性の癒しと再生をテーマにしたかったのだろう。それをカンヌ以来関係のできたフランス人スタッフと撮りたかったのだろう。ならば、舞台はタイではなく、むしろバリ島の方が良かったのではないかと余計なアドバイスを考えてしまう。
 映像は美しい。雨の場面、ヤシの葉をそよがす南国の風、ラストシーンの河を下るように流れてゆくシーン。しかし、観客の内側に物語が醸造されるには、やや監督の独り合点におちいっていて稚拙だ。残念である。

 「七夜待」という詩的なタイトルも生かされていないのも残念だが、欄の花をあしらったパンフレットは南国的で美しい。作品自体は「予告編」をいささかも越えていない。予告編でたっぷり想像を効かせる方が楽しめたかも知れない(公式サイトで見れる)。

 新宿武蔵野館へ見に行ったこの日は、レディス・デーで女性も千円だったためか、観客は女性が多かった。その女性の感想も聞いてみたいと思ったものだ。

 評価【★★1/2】

 監督:河瀬直美 脚本:狗飼恭子・河瀬直美 2008年日本映画

七夜待公式サイト→http://www.nanayomachi.com/index.html


映画三昧三題(2)/まぼろしの邪馬台国

2008-11-20 15:07:48 | コラムなこむら返し
 『まぼろしの邪馬台国』:この映画は吉永小百合主演の何本目の映画になるのだろう。ともかくも「国民的美少女」のはしりだった吉永小百合は、ボクの姉の世代なのにいまだ美しい女優さんだ。恐れ入ってしまう。
 しかし、映画作品としてはいかがなものか? 単に『まぼろしの邪馬台国』というベストセラーを書き、邪馬台国論争を引き起こした宮崎康平(怪優、竹中直人が演じる)という人物の奇人ぶりばかりが強調されて妻和子(吉永小百合)との夫婦愛がいまひとつ伝わってこない(それがこの作品のテーマだったのではないか?)。
 島原鉄道のオーナーの家に生まれた宮崎康平は、おそらく盲人としては破天荒な人物だったと思われる。しかし、それは男尊女卑の九州男児たるものといった教育を受け、またそれを許した郷土が生み出した人物でもある。つまり、九州男児という幻想は、小児化した男をもり立ててきた九州の女性の成熟しない問題でもあるのだ。

 『魏志倭人伝』の記述に、そのすべての論争の根がある邪馬台国はどこにあったのかという問いと邪馬台国発掘調査という裏づけの部分は、かなり恣意的なものがある。考古学的な仮説の裏側には、恣意的な郷土愛がかぶさってくる。
 映画でも宮崎康平が卑弥呼の墳墓だと確信する場面でも、一切の根拠は触れられず宮崎康平の直観をなぞってゆく。しかし、それは論証されたことではない。だから、論争なのだ。
 まぼろしの邪馬台国論争というのは、邪馬台国ブームをこの国にひきおこすきっかけになった。だが、その論争自体は宮崎康平という郷土愛に満ちた、だが、破天荒な人物の頭の中に醸造された壮大な「ゆめまぼろし」のことだったのかもしれない。

 ひとつの疑念がある。あたかも邪馬台国はその後の大和朝廷につながるような思いがあるのだろうか。考古学的な証拠としてはよく分からないが、卑弥呼そしてその支配する邪馬台国とは、古代日本の一地方豪族、それもネイティヴなひとびとのことだったのではないだろうか?
 ハヤトや、クマソや、ツチグモと呼ばれたこの国の古代にいた先住の民、部族、豪族のほうがよっぽどボクなどの想像力を駆り立てるのだが……。

 この映画でみるべきものがあるとするのなら、宮崎康平役を演じた竹中直人が口ずさむ「島原の子守唄」だ。この子守唄が宮崎康平そのひとが作詞作曲したものだと言うことを知らなかったボクは、竹中が低い声で歌う「島原の子守唄」に鳥肌がたった。それは、ラストシーンで歌う子ども時代の憧れのひと吉永小百合の歌声より素晴らしかった!
 評価【★★★】

 監督:堤幸彦 脚本:大石静 2008年日本映画

 まぼろしの邪馬台国公式サイト→http://www.mabotai.com/


映画三昧三題(1)/ICHI

2008-11-19 23:26:26 | コラムなこむら返し
 宿直明けは、眠らず映画を見に行く機会が多くなった。ほとんど眠っていない訳だから、うす暗い映画館で退屈な映画であれば、ついウトウトしてしまう。それも、ひとつの映画評だと思う。つまり、眠らせない映画作品はいい作品だ、という評価の仕方である(笑)。

 『20世紀少年』のあと3本の映画を見た。もう感想を個別に書く時間もなさそうなので駆け足でコメントしておきたい。

 『ICHI』:あの勝新の当たり役「座頭市」のリメイクであり、それも市は女性という設定である。盲目の女性ならば、按摩を生業とした座頭市とは違いもしやゴゼさんではないかという期待をもって見に行ったのである。そして、それは当たった。それに、クレジットによれば脚本は女性である(浅野妙子)。大いに期待がもてる。そう思って見始めたのだが、期待はすぐ失望に変わった。
 まずゴゼさんのことが、研究されていない。主演の綾瀬はるかがうたう童歌のような子守唄は、ゴゼ唄ではありはしない。ゴザは、身なりを美しくしても芸者のような座敷芸はできない。というか、しないだろう。ゴゼ唄は、門付の語り物の歌であり、いわば説経節だからだ。
 ありふれた勧善懲悪のストーリー、それも敵役はまるで大時代がかった山賊(万鬼党)だというのだ。その首領を演じた中村獅童が、まるで歌舞伎の中の大盗賊の芝居のままでクサイ。おそらく、「白浪物」の演じ方を念頭においていたに違いない。もしかして、娯楽作品は歌舞伎役者の典型で勝負しようと、考えていたのならそれはそれで凄いと思うが、なんというか貫祿不足だ。
 父を探す市と、母を失明させたトラウマによって腕はたつのに、真剣が抜けないトンマいや十馬(大沢たかお)の設定とが、うまくからんでいない。これも、惜しい。まるでマンガチックな表現になってしまった。
 盲目の娘である市をゴゼ宿に預け、ときにあらわれては下手袈裟切りの抜き打ちを教えたというその父が、もしかしたら座頭市ではないかというほのめかしがうすい。それに、盲目であることが遺伝するような設定はマズイだろう。
 などなど多々の注文がついて、エンターティメントである点を割り引いても評価は【★★】

 監督:曽利文彦 脚本:浅野妙子 原作:子母澤寛 2008年日本映画

 ICHI公式サイト→http://wwws.warnerbros.co.jp/ichi/


七×七=四十九日/シパ・バルドゥ

2008-11-18 12:13:36 | コラムなこむら返し
 10月上旬に亡くなった義母の葬儀から、早いもので49日の法要となった。つれあいの故郷であるK市へ宿直明けの土曜日から行って49日の追善供養、納骨と済ませてきた。

 死後、死者の意識が経巡るいわば霊の旅を説いたいわゆる『チベットの死者の書』によれば、義母の霊(死者の意識)はすさまじい怒りの形相の忿怒尊やヤマ(閻魔)王の審判という幻影を経た後、解脱できなかったとき、再生の中有(シパ・バルドゥ)に達する。それが、現世の一日と同じ時間なのかはさておき、七・七・四十九日までつづく。
 おそらく、日本の仏教伝来とほぼ同じ頃に仏教が伝わったチベットで「発見」されたこの『チベットの死者の書』は、大乗仏教という側面もあるが、わたしたちの仏教的死生観とほぼ共通する。

 さてあまり見知った顔のないボクの身の置きどころのなさを考慮してくれたのか、ふたたび法要の後に、設定された会席で司会をする。喪主が至って口下手ということもあり、葬儀のあとの忌中払い同様MCにかり出された。義母への孝行というか、恩返しはこれしかないので承諾するが、今回はまったくの準備なしでのぞむことにした。

 「みなさま、本日はお忙しいなか、義母の四十九日追善供養への御参列ありがとうございました。
 早いもので金木犀の香りにつつまれて営まれた葬儀から、木々も色付き紅葉する本日七・七・四十九日の法要の日となってしまいました。」

 と言う名調子(笑)ではじまる司会だ。口下手な喪主のあいさつを補うような、少し喋り過ぎのような司会だった。なにしろ、途中で子どもたちの亡き祖母を慕う替え歌が披露されたこと自体が、このような場では破格だったのかもしれないが、ボクは調子にのってと言うか、便乗してダンテの『新生』の一節を上田敏の文語体訳で詠んでしまった。正確にはその詩は、「愛の神」に捧げられた詩で、故人の追善供養にはふさわしくなかったのだが、義母は愛のひと、観音さまの愛にあふれていたという伏線を前段でつけておいたので、はまったようだ。

 それにしても、求職していたころ、ボクは本気で葬儀会社の葬儀の司会進行という仕事がないものかと探していた。ま、格式ぶって暗い声音でMCをするのは苦手だが(と言うよりイヤだ)、ユニークな個性溢れる葬儀を営もうと思っている方がいれば、ピッタリかもと今でも思っている。


満月/東京裁判

2008-11-14 01:11:41 | コラムなこむら返し
 満月の月が、天上にある。煌々と照らす月は、秋の深まりを思わせる。そのせいか、なんだか空虚な思いだ。日々の過ぎてゆく早さが、空しさをかきたてる。
 労働に就いた。職を得た。だが、仕事を覚えるために無我夢中で過ぎたひと月あまりが、充実しているような、そうでないような複雑な気分だ。
 昨日は、東京裁判から60年目の日だったと言う。となれば、いわゆる東京裁判、正式には極東国際軍事裁判は昭和23年(1948年)のこの日に、判決が下ったことになる。
 戦犯たちは、巣鴨プリズンに収監された。現在、池袋サンシャインシティが建つ場所だ。現在の偉容を誇る高層ビルからは想像のしようもないが、ボクは写真をみたことがある。

 秋も深まる11月の巣鴨プリズンで、戦犯たちも空しかったろうか?
 それとも、祖国を壊滅寸前にまで追い込んだ罪を自覚していたのだろうか?
 多くの兵を、玉砕にまで追い込み、着の身着のままに敗残兵として彷徨わせ、東京大空襲や原爆で、一般庶民をも巻き込んで黒コゲ死体や、蒸発させてしまったことを悔いていただろうか?
 侵略した先々の住民に、残虐非道の数々をつくし、略奪、レイプ、斬首から果ては焼き殺しもした。

 何十万いや何百万の死者だけでなく、それに倍する人々の人生をも変えた。
 そんな問われる罪科が、絞首刑、終身刑、禁固刑などの罪であがなえたのかは、いまもって疑問だが、これ以上ないくらいの空しい帝国だったのだ、この国は。


多事争論/「世界平和記念日」に思う

2008-11-11 23:57:41 | ブル新の楽しみ(今様新聞批評)
 今日、11月11日は第1次世界大戦にもとづく記念日であるらしい。1918年のこの日に、ドイツとアメリカが停戦協定に調印して、4年の長きにわたった第1次世界大戦が終わった。「WAR IS OVER」のこの日はヨーロッパでは祝日が多いらしい。ほぼ一世紀前の記憶が、まだまだ祝日として現役である。
 そこで、この日は「世界平和記念日」なのだそうだ。

 ボクは以前から疑問に思っているのだが、なぜ8月15日を祝日(平和記念日。そして8月6日も9日も記念日として祝日に!)としないのだろうか?
 いや、国民がおしなべて靖国神社に参拝するために祝日としようと提案するのではない。軍国主義と天皇崇拝の世界の嫌われものだった神国日本が、軍隊や軍事力を永遠に放棄した世界に名だたる平和憲法の下に平和国家となり復興と建設に戦後いそしんだ、その原点となる記念すべき日なのに、なぜそれを祝わないのか疑問だったのである。
 自衛隊が違憲のままに存在しているように、この国のありようがどこか本音と建て前のダブルスタンダードで成り立っていたことのほころびが、今回の更迭された田母神(たもがみ)空幕長の「思想」だったのではないだろうか?
 政府の公式見解と真っ向から異なった「史観」(謀略によって日中戦争や太平洋戦争にひきずりこまれた。侵略国家と呼ぶのは濡れ衣など)を、懸賞論文に応募して更迭されたというのが、今回の騒動を簡単に述べた経緯だが、このような「思想」や「史観」は、一部の日本のネオコンと呼ぶべき新保守層には共有された思想ではないだろうか?
 戦後の平和憲法と教育を自虐史観と断じて、自分たちの「思想」や「史観」にもとづいた教科書作りをすすめている「新しい歴史教科書をつくる会」(つくる会)などの「史観」と重なる見解がある。

 対外的な影響をおそれて火消しをしてそれで良しとするのでは不十分で、与党の保守系政治家とも共有しているに違いないこのような「本音」と「建て前」の二枚舌を使うダブルスタンダードが、成り立っているのがそもそもおかしいのである。


カラード(有色)大統領の誕生! 私には夢がある

2008-11-05 23:38:08 | コラムなこむら返し
President_obama オバマ氏が、アメリカ大統領選を圧勝した。もう少し苦戦を強いられるかと予想されていたようだが、アメリカに端を発した金融不安(恐慌?)が、むしろまったくの新人であるオバマ氏に有利に働いて、プアホワイト層や、流動票もなだれこみ、アメリカ建国以来初めての黒人大統領が誕生したのだ。
 「Change」という言葉を多用したオバマ氏だったが、これで「帝国」が足下をよく見て、国際的な協調や、安定に気遣いながらリーダー・シップを発揮するというおだやかで、平和的な国になってもらいたいものである。多くの映像が、当たり前だが、アメリカでの映像を流す中、オバマ氏の祖母が住むケニアで、周りのひとびとがアフリカン・ダンスでオバマ氏の当選を祝う姿が印象的だった。

 金が金を生み、投資の対象とするといった虚像の経済を作り上げたアメリカが、カラードや、少数派に目を向けた真の民主主義の理想を追求する国家の有り様を見せてもらいたいものである。
 オバマ氏が大統領になった意味は、世界の嫌われものになりつつあったアメリカが、ボクらに希望と夢をふたたび見させてくれるアメリカを甦らせるのかと言う意味でもあるだろう。

 オバマ氏がその演説の方法でも大いに学んだと思われるキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)は、あの1963年8月28日の有名なワシントン大行進で演説史上に残る言葉を発した。リンカーン記念堂の真ん前でである。公民権運動の中でもっとも歴史的な演説として知られる。
 「I have a Dream……(私には夢がある)」で始まる詩のような感動的な演説である。
 オバマ氏自身の原点を銘記してもらうためにも、ここに掲げておこう。

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."

I have a dream that one day on the red hills of Georgia the sons of former slaves and the sons of former slaveowners will be able to sit down together at a table of brotherhood.

I have a dream that one day even the state of Mississippi, a desert state, sweltering with the heat of injustice and oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.

I have a dream that my four children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.

I have a dream today.

I have a dream that one day the state of Alabama, whose governor's lips are presently dripping with the words of interposition and nullification, will be transformed into a situation where little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls and walk together as sisters and brothers.

I have a dream today.

I have a dream that one day every valley shall be exalted, every hill and mountain shall be made low, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight, and the glory of the Lord shall be revealed, and all flesh shall see it together.




11/7 E.G.P.P.100/step88 おれは歌だ、ここを歩く

2008-11-04 23:17:12 | イベント告知/予告/INFO
Dakotatribe●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step88
テーマ:「おれは歌だ、ここを歩く」

2008年11月7日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:bambi
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、サイケ艶歌新宿前田屋(ポエッツ)、ココナツ(うた)、bambi(スピリチャル・トーク)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 素朴だが、力強くむしろそれは風や大地に直接語りかける言葉だ。ネイティヴ・アメリカンの詩、いやむしろそれは歌だが、そのことばはわたしたち近代的文明人(その割にはなんて貧しい心なんだろう)が、言葉の役割と考えているものとはまったく違ったものである。
 むしろその歌(詩)は、私たちの先祖もそれを言霊(ことだま)と呼んで、信じていた言葉の持つスピリッツが、風や大地の精霊と、つまりグレート・スピリッツと対話し、直接働きかける、「祈り」いやむしろ「呪術」と呼んでも差しつかえのないだろうひとつの技術(わざ)だ。
 そんな力(パワー)を学びたい。そんな先住民のひとびとが持っていた技術(わざ)をわがものとしたい。
 定例開催の維持が、危惧されているオープンマイク・イベント「E.G.P.P.100」が、88回めに放つ魔術のような言葉の世界! ほんとうに世界は変わるのか?

 おれは歌だ、ここを歩く!

 それが、今回のテーマです(笑)!

 このイベントは、自由エントリーのできるオープン・マイク形式で開催しております! 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs