風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

パンデミック寸前とプレカリアート・メーデー直前

2009-04-30 23:12:48 | コラムなこむら返し
Pandemic_cinema つい数日前(27日)、WHOの警告レベルが「フェーズ4」に引き上がったばかりというのに、またたくまに「フェーズ5」に引き上げられた。これはWHO(世界保健機関)が発するはじめてのレベルである。そして、世界的大流行を示すパンデミックの「フェーズ6」の直前の警告である。これは各国がおのおの自主的な感染予防策をとるように警告する上で、前倒しに取られた処置のようだが、GWに入ったばかりの我が国では、予定を変更せず感染が確認された国々へ出かける海外旅行者が引きもきらない。もちろん、直前キャンセルではほとんど全額を支払いせねばならないからである。該当国からの機内検疫ももちろん必要だが、キャンセルOKという処置も必要だったのではないだろうか?
 と、海外など行ける状況ではなくなったボクなどはヒガミ根性で言いたくなる。
 パンデミックになったら国境封鎖つまり一時的鎖国もありえる訳で、もしんば帰国できてもそのまま空港病院に隔離され、仕事にも学校もいけない一時的な「強制隔離」にあうことがありえることがわかっているのだろうか?

 そういう時こそ、「権力」というものが「個人」や「国民」「民」の移動の自由や、行動を規制にかかる。公的な安全と、被害を最小なものにするために、個人の意志や自由をセーブするのだ。公共性や、私有財産の保護などといったニシキのみ旗がふりかざされるのだ。
 パンデミックはバイオハザードや、戦争、内乱と同じレベルでの移動の規制、交通規制、集会・イベントの禁止をするだろう。きっと、現在そのようなシュミレーションがされているはずで、機動隊といった警察力のみか、自衛隊も出動訓練が課されていると思われる。

 ところで、明日から「独立系メーデー」と称したプレカリアート(非正規労働者)のメーデーがなんと今年は4日間も行われる。日程的に今年、どこかに参加することができるのか微妙な状況なのだが、明日、5月1日はわがイベント「E.G.P.P.100」も貧困、下層社会がテーマなので、勝手連的に「協賛(共産ではないよ!)イベント」ということにしておこう!
(念のために言えば、協賛団体に名を連ねている訳ではありません)

「公園やホテルやショッピングモールを開放しよう
街路や山々や渓流は、誰のものでもない、私たちのものだ
金持ちの子に生まれただけで金持ちになれることを許すな
貧しいもの同士が憎しみあい、争いあい、殺しあう世界を終わらせ、パンと薔薇を奪い返そう

不安定な生を強いられる60億の仲間<プレカリアート>たちの想像/創造はすでに始まっている

私たちは、あなたに呼びかける

生きることはよい
まともに暮らすために、全てをよこせ

さあメーデーをはじめよう」
(呼びかけ文より)
日程、内容は→「自由と生存のメーデー09--六十億のプレカリアート」 blog:http://mayday2009.alt-server.org/

(写真は、今年初めに公開された日本映画『感染列島』の宣伝媒体より。カメラ:フーゲツのJUN)


昭和の日とGWとパンデミック

2009-04-29 14:16:39 | コラムなこむら返し
 「みどりの日」というこの季節にふさわしい呼称のほうが好きだった(現在は5月4日)。かっての天皇誕生日(天長節)は「昭和の日」としてよみがえった。「国民の休日(祝日)」の中には、三日間の天皇にまつわる休日がある(明治天皇の誕生日だった「文化の日」。今上天皇の誕生日である「天皇誕生日」)。
 ただし、かって「紀元節」だった建国記念日、「新嘗祭」だった勤労感謝の日を含めると五日。さらにふたつの皇霊祭だった春分の日、秋分の日も含めるのなら全部で七日間もあるのである!

 GWは今日から始まるらしい。最短でも5日、最長で16日だろうか?
 非正規労働者のボクにはかかわりないが、せめて5月にキャンプへ行こうと思っている。

 鳥インフルエンザに気を取られて、インフルエンザの時期は終りかと安心していたら、この期になって豚インフルエンザが突然登場、WHOによるフェーズ4に引き上げられ、すわパンデミックか? という状況が近づいてきた。メキシコでのひと-ひと感染が確認され、死者まで出ているためである。
 タミフルが効くらしいが、10代には意識拡張剤のような効き方をするらしいから、注意しよう(って、タミフルは飲んだことがないんだが……。ま、10代じゃないが。)。


5/1 E.G.P.P.100/step94「最暗黒の下層社会??かってスラムがあった」

2009-04-26 23:03:24 | イベント告知/予告/INFO
Slum_phot●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step94
テーマ:「最暗黒の下層社会??かってスラムがあった」

2009年5月1日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,000円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN、梓ゆい(新MC)
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、梓ゆい(ポエッツ)、ココナツ(うた)、やま(うた)、bambi(スピリチャル・トーク)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 まだジャーナリズムという言葉もなかった明治25(1892)年、『国民新聞』にひとつの傑作ルポルタージュが連載された。翌年末、民友社から刊行される松原岩五郎の『最暗黒の東京』である。そのレポートはのちの横山源之助の『日本の下層社会』などの明治時代の困窮する下層民の姿を記録し、分析するルポルタージュ文学の興隆につながるものだった。この国に、そしてまだ江戸のなごりを残す帝都東京に一大スラム街があった。その記録は、おぞましいほどの劣悪な生活環境のなかにあって、貧困層の最下層民のたくまらざる逞しく、そして雄々しく生き延びる姿が生き生きと描かれている。そして、そのレポートはやがて形成される労働者階級とともに我が国に社会主義者をうみだすだろう(石川三四郎など)。

 いま、グローバル化したあらたな「貧困社会」が取り沙汰されるなかで、明治時代の我が国のスラム、貧民窟、底辺社会を覗いてみることにも、なにがしかの意味があるやもしれぬ。

 余は、ここに現代に先行する帝都のなかの底辺社会、下層社会の「貧困」と下層民をポエムするものである!

 題して「最暗黒の下層社会??かってスラムがあった」。今回の演目、テーマである。平成に平静に生きられない諸氏の奮起をうながすものである!


 このイベントは、自由エントリーのできるオープン・マイク形式で開催しております! 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

mii内主催コミュ「E.G.P.P.100」→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706


アトランダムなメモランダム(3)/草食系男子 月に 吼える!

2009-04-24 00:55:43 | コラムなこむら返し
 ボクには珍しい芸能界話題だ。.ボクはとんとこの方面に弱い、と言うか興味がない。

▲実母の介護に疲れて自殺したんじゃないかと報じられた女性タレントのことをボクはほとんど知らなかった。自身の結婚もタナあげにして、芸能界を引退までして実母の介護に明け暮れていたようである。車椅子に実母を残し、父親の墓前で硫化水素自殺を敢行したらしい。気の毒なことだった。

▼いまだSNAPなんだか、SMAPなんだかよく知らないメンバーのひとりが泥酔の上、赤坂の公園で全裸になってひとりで騒いでいたらしい。駆けつけた警察官が、公然ワイセツ罪で逮捕したそうだが、それって犯罪なんですか? と、古くて新しい問題を提示したくなってしまう。
 生殖器のみを露出させてだれかに見せつけていたのなら、露出狂のワイセツ罪とは言えようが、全裸ならそれって「ヌード」。ヌーデイストは犯罪者なのか? ナチュラリストも犯罪予備軍なのか? まして今回のような人気タレントのヌードなら金を出して見たいと言うファンもいそうな気がするのだが……。
 草食系男子も酒に酔っては、ケモノになって月に吼えたくなるのか?
 もっとも、昨夜は満月ではなかった。
 ヌードにはならぬが、酒に酔っては夜に吼えたくなるオイラも気をつけないといけないのか?

◆長崎県の端島、いわゆる「軍艦島」が一般公開された。これは世界遺産(産業遺産)登録を目指す第1歩なのか? 遊歩道が整備され、立ち入り禁止区域も多いらしいが、それでも一度見に行きたく思う。



アトランダムなメモランダム(2)

2009-04-23 16:41:46 | コラムなこむら返し
▼好きなSF作家のひとりだったJ・G・バラードが78歳で亡くなった。19日、患っていたがんによる死だった。中学生の頃から、SFにとりつかれていたボクはおかげで多くの純文学の小説を読み損なったが、レイ・ブラッドベリやバラード、レムそしてブライアン・オールディスなどを知ることが出来たのはSFを読んだたまものだった。晩年、映画化された『太陽の帝国』などのSF作品ではない小説も書いた。

●辰巳ヨシヒロには子ども時代お世話になった。ボクはもろに「貸本マンガ世代」で、『影』『街』『迷路』『刑事』『魔像』などを毎日のように借り出し、少年時代の秘かな楽しみにしていた。金色に輝く影丸のシルエツトが印刷された表紙で登場した、白土三平の『忍者武芸帖』が貸本屋の棚に並んだ日の衝撃を今でも覚えているほどだ。「劇画」がなければ「貸本屋」もなく、白土三平も永島慎二も、つげ義春も、ましてや、さいとうたかをもいなかっただろう。
 『影』や『街』に作品が掲載される時、「劇画工房」というロゴがタイトルとともに掲示されるのだが、それがユニオンとも単なるプロダクションとも知らずただただカッコ良かった。「劇画」の「G」がデザインされたそのロゴは、劇画で主に使う「Gペン」の「G」であったのかもしれない。それに、そのペン先についたデザインにその「G」という文字はよく似ていた。
 「劇画」のもとになった「劇画工房」の命名者が辰巳ヨシヒロで、今回、第13回「手塚治虫文化賞」を受賞した(ダブル受賞でもうひとりは『大奥』のよしながふみ)。劇画はそもそも手塚マンガへの関西流のカウンターカルチャーだったのだが、これは50年ぶりの「和解」なのだろうか(そうなのかどうかは、受賞作の『劇画漂流』でお確かめ下さい。というか、ボクもまだ通読していませんが)?


アトランダムなメモランダム(1)

2009-04-22 17:15:20 | コラムなこむら返し
 気になりながら、ブログの記事にまで発展しなかったソースを覚え書きのようにメモしておく。

◆4月1日から「ハンセン病問題基本法」が施行された。たとえば、わが近所の多摩全生園などが、社会復帰で出所するのではなく、そのまま元患者さんたちが居住でき、療養所の施設は地域に解放されると言うことだ。住民が自ら将来を構想し、地域と交流する手段を考える。地域に住むひとりとして、ハンセン病の悲惨な歴史を考えるためにも関わりたいと思うが、一体なにができるだろうか?
 少なくとも、住民(元患者さん)たちに気兼ね泣く行けるらしいことはうれしい。また、中にあるハンセン病図書館に資料探しに行きたいものだ(以前、お邪魔した時、ちょうど『ハンセン病文学集成』の編集者が来館していた)。
 しかし、住民たちは老いており、どのような「希望」と「交流」が見い出されるのか?
 少なくとも、各地に多摩全生園に隣り合ってある「国立ハンセン病資料館」のようなハコものをつくれとは言わないが、残り12ケ所の特徴や、歴史や、「重監房」(懲罰室)のような国家が加担して行ったマイナスの歴史は、きちんと残すべきだ。
 それぞれの場所での資料を保存し、そして住民自身を「語り部」としてその「資料室」で雇ったらどうだろうか?

★TVなどでの保守的でおばさんくさい発言には閉口したが、その残したノンフィクション作品には瞠目すべきものがあった上坂冬子さんが14日、心不全で78歳で亡くなった。
 この方はトヨタのOLから評論家になったという面白い経歴の持ち主だが、昭和史に埋もれそうなテーマをじっくりと書き継いだ。
 ボクは『男装の麗人/川島芳子伝』が好きである。
.


『朝日ジャーナル』復刊号?

2009-04-20 00:50:00 | コラムなこむら返し
 14日に『週刊朝日』の緊急増刊として『朝日ジャーナル』が1号のみで復刊した。92年に休刊してから、はや17年。実質的には終刊だったが、復刊号は「創刊50年」をうたい「怒りの復活」をかかげている。
 では、何に対する「怒り」なのか? どうやら「派遣切り」「年越し派遣村」に見られるような若者が、希望を持てない格差・貧困社会に対する怒りらしい。登場する人物も、反貧困ネットの湯浅誠氏をはじめもはやこのテーマの時に定番となった顔ぶれだ。いつのまにか「反貧困論陣知識人」といった業界が作られつつあるように見える。
 そうでありながら、昨年まで朝日新聞社が全メディアを動員してキャンペーンをはっていたあの言葉、ネーミングがきれいさっぱり消え失せている。そう、あの「ロスジェネ」である。
 事態は、ある特定の世代(ジェネレーション)と抽出すればすむ状況ではなくなったのである。金融工学による詐欺のようなテクニックを駆使して巨万の富を作り出し、強欲に溺れていた「金が金を生む」金融システムの化けの皮がむけるとともに、世界は奈落に突き落とされたのだ。

 少々荒っぽい言い方を許してもらうなら、ここに復刊したのは判型も、綴じも違うけれど『朝日ジャーナル』じゃない。ここにあるのは、昨年暮れに休刊した『論座』じゃないのだろうか?

(広告によると、「復刊号」は売れ行き上々で増刷するらしい。知の商売はうまい朝日新聞社ではある。)


1967年論・外伝1/金坂健二の写真

2009-04-18 23:59:24 | アングラな場所/アングラなひと
I_shot_america09 ちょっと舌たらずになってしまうが、会期は明日19日(日)までなので、間に合う人に行ってもらうために急いで書いておく。金坂健二は、いまでは忘れられた存在に等しいが、60年代後半アングラ映画運動と鋭く過激な評論活動で、一世を風靡した人物。だが、内ゲバ的な内紛で疎んじられ、アングラ映画の流れをひくイメージフォーラムや、インディペンダント・シネマの世界から名前を抹殺されたアングラ映画監督だ。その経緯を書ける立場にボクはないので、その中味は今ははぶく。
 ともかくも、「アングラ」という言葉は金坂健二と『映画評論』誌の映画評論家佐藤重臣が作ったようなもので、状況劇場や天井桟敷が、代名詞のように思われている「アングラ」は、そもそもは「アンダーグラウンド・シネマ」から来ている。
 ボクはアングラ映画監督の岡部道男に紹介されて、新宿「風月堂」で金坂健二と会い、すぐさま『ドロッパワー』というアングラ・ペーパー(地下新聞)の刊行に誘われたのだった。

 その懐かしい金坂健二のみずからプリントして残された写真展が、原宿のT.H.C.(トーキョー・ヒップスター・クラブ)で開催されている(明日までだ!)。
 生プリントの写真が貼りつけられ、それなりにオシャレにレイアウトされているとはいえ、生々しい60年代のアメリカ、アンダーグラウンド・シーンを垣間見るような写真である。写真のあいだに、金坂の著作からの引用が壁面を飾るが、それは写真の説明では一切ない。もう、会期修了も押し迫っており残念ながらパンフレットを買うことができなかったのだが、アンディ・ウォホールや「ファクトリー」、パティ・スミス、アレン・ギンズバーグなどのスナップ写真、おそらくベトナム反戦集会や、ピースフェスでのスナップ写真、いまや絶滅動物であるヒッピーの姿などが、写された貴重な写真だ。それらの写真は、おそらく知り合いの金田トメ吉が、晩年の金坂のアパートをたずねたとき見たものに相違ない。さまざまな印刷メディアに発表したものであろう。

 ビデオからダビングされた『ホップスコッチ(石けり)』は、そう1967年に金坂がアメリカで製作した映像作品で、ボクは帰国直後だったと思うが、たしか「草月ホール」で見た作品だと思う。ともかくも、10分26秒の小品だが、ボクはほぼ40年ぶりに見た。ちなみに、その頃は金坂健二と親しく口がきけるとは思ってもみない20歳くらいのフーテンの若造だったのだ、ボクは。

 金坂健二展「アメリカを撮る」4月19日(日)まで TOKYO HIPSTERS CLUB(渋谷区神宮前6丁目16-23)TEL 03-5778-2081



コテンコテンの新発見

2009-04-15 23:59:19 | コラムなこむら返し
 ブログのコメントで、一茶の話をやりとりしていたら、これもシンクロニシティなのか、一茶の新しい句が発見されたと言う新聞記事を読んだ(4月12日付け「読売新聞」)。
 文化5年(1808年)旧暦4月2日付けの「句日記」の一日分で、200年前の紙片があらたに見つかるのだから、驚くような話である。
 一茶は2万句以上の俳句を詠んでいるが、そのほとんどが「句日記」に残されていたものだったらしい。そのあらたに発見された一日分の「句日記」には2句の新発見の句があった。

 菜の花は 化して飛けり 朝の月

 羽根生へて な虫はとぶぞ 引がへる

 なお、この新発見の句日記は、今月24日から長野県信濃町立「一茶記念館」で公開されると言う。季語としても、タイミングのいい新発見だった。

 古典の新発見と言えば、この3日にも、藤原定家の自筆の書状が新発見されている。定家50代頃の書状らしく、今から800年前のものである。「小倉百人一首」の選者である定家は「名月記」と言う日記を残しているが、この発見された書状の裏に、その「名月記」の一部が書かれていた可能性があるらしい。
 これは、現在「徳川美術館」で公開しているらしい(4月3日「朝日新聞」夕刊)。

 いみじくも新聞で知った古典の、それもともに日記と書状は和紙の驚くような耐久性を物語っているのだろうか? それとも、「墨」という材質のすぐれた耐久性を物語るのだろうか?

 ついでにと言うと語弊があるが、9日には宮沢賢治の未発表の詩の草稿が、解体中の賢治の生家の蔵から昨年見つかっていたと言う報道があった(朝日新聞)。これは、おおよそ85年前の賢治の知られざる16行の心象スケッチの詩で、先の二者の新発見に劣らない発掘だった(「新校本/宮沢賢治全集」別巻に収録・筑摩書房刊)。


1967年論/フーテンとは何だったのか?(9)

2009-04-12 00:21:05 | アングラな場所/アングラなひと
 さて、こうして再び1967年に還りついた。ボクは、その号を手に入れるまで気付かなかったが、連載(7)で紹介した『なまえのない新聞』にポン自身が求めに応じて「回想録」(ヒッピームーヴメント史 IN ヤポネシア)の連載をはじめている。ゆえに、「部族」の盛衰史は、ポン自身が書くのがもっとも適任である。
 ただ、ボク自身は日本には「サイケ族」という風俗のトライブはいたが、「ヒッピー」は存在しなかったという意見をもつものである(「サイケ族」のファッションはいわゆるピーコック・カラー(いまならレインボウ・カラーと言うだろう)で、「ヒッピー風」ではあった)。

 「部族」=バムアカデミー(ハリジャン)とて本格的な放浪を基盤においたフーテン=バムだったと考えるものである。それは以下のようなナナオの詩からもうかがえるであろう。

 私は詩人 皆がそう言う
 または 精神病院長 この世は みんなフーテンよ
 私は人間 人間は自然 従って私は自然
 私の愛は 自由
 (略)

 私は 第三石器時代人

  (「私は」詩集『犬も歩けば』所収)

 ボクもその渦中にいた1968年の「ジャン中村葬式ハプニング」もそうだが、初期のバムアカデミーには、ハプナー精神があった。それらのハプニングを「儀式」と呼んだ流儀もそうだが、バムアカデミーを形成した水脈には、60年代初めまで続いていた自由出品の美術展ヨミウリ・アンパン(アンデパンダン展)が、ネオダダを含めて多数の前衛芸術家を輩出した背景があろう。「世界の滅亡を予告する自由言語による集会と行列」にも「ゼロ次元」「ジャックの会」などのハプナー集団が加わっていた。破れかぶれで捨て鉢だが、若さとエネルギーだけはあったこの前衛美術運動は、それ自体が大正の自由主義の中から日本に根付いた、「ダダ」「シュールレアリスム」「主義者(マルクス主義・アナーキズムを問わず)」などの主流からはずれた反逆精神の継承だった。
 かって、この国では前衛とは反逆のことだったのだ!

 もうひとつ、これは指摘するまでもないが、武者小路実篤が提唱した「新しき村」といった理想国家建設のコミューンというかユートピア思想の系譜だ。世界政府提唱や、エスペラントの世界言語という考え方にも共通する理想主義だろうが、ここにはロバート・オーエンの「ニューハーモニー」から、カルト集団の宗教的共同体、サティアンまで含まれる実践をともなう系譜だ。

 さらに、もうひとつはこの国の西行以来の、本来は中国の神仙思想にその根を持つのであろう風狂、脱俗・漂泊の思想と言うか「あくがれ」の系譜があることも忘れてはならない。これは、おそらく「無頼派」文学に脈々と流れてきたはずだ。このあたりのことも、第2部で検討することになるだろう。

 山田洋次監督の人気シリーズ車寅次郎こと「フーテンの寅」さんによって、フーテンという名称は変質させられてしまった。あの映画シリーズによって「フーテン」という言葉を知った世代は、フーテンとは旅暮らしの香具師やテキヤのことだと思い込んでいることだろう。それは、山田洋次監督の功罪だが、大いなる間違いだ。

 マンガ『フーテン』を月刊マンガ誌『COM』に連載して、1967年のフーテンブームに火をつけた張本人のひとりである永島慎二は、「風月堂」にたむろする「フーゲツ族」系のフーテンと、歌舞伎町のJAZZ喫茶をその主な棲息場所とする、「ウスラバカ・フーテン」の二種類がいると分類していた。その真意はともかく、深夜JAZZ喫茶にたむろしたいわゆる「新宿ビート」でもあったフーテンに次は視点を移して、この「1967年論」を継続することにしよう。

(第1部・完)
 ※文中敬称略


1967年論/フーテンとは何だったのか?(8)

2009-04-11 13:45:51 | アングラな場所/アングラなひと
 ニール・ハンターはオーストラリア国籍のライター(東洋研究)で、船乗りなどをしながら世界中を旅していたバック・パッカーもしくはトラベラーだったらしい。1960年代はじめニール・ハンターは「風月堂」に立ち寄り、ナナオ、ナーガのグループと知り合う。ナーガがナナオと知り合った頃、連れられて行ったのはナナオの詩を大書した展覧会だった。そのナナオの初期の詩は、のちニール・ハンターの英訳という形で、ナナオの最初の詩集になる。ゲーリー・スナイダーの「ノート」付きで……。
 それが『BELLY FULLS』という詩集だ。ナナオは1955年に奥秩父からいちはやく屋久島に旅しており、樹齢1000年以上の屋久杉の乱伐まがいの伐採をまのあたりにして警告を発している。当時、そんな自然資源を保護しようと言う合意も、思想も一般にはなく、耳を貸すひとはいなかった(屋久杉は、現在伐採の全面禁止になっている。屋久杉で作られる民芸品やお土産品は、これまで伐採されてきたものの根株を掘り起こして材料にしていると言われている)。
 ナナオの初期の詩は、のちの短詩型のスタイルを知るものにはビックリするくらい饒舌だ。句読点も、行分けもないそんなスタイルは60年代の終りにはやった前衛的なスタイルの先取りにも思える。
 ちなみに70年代頃までナナオのポエトリー・リィディングスタイルは、晩年のあの独特な「間」をもった読み方ではなく、それこそコヨーテが遠吠え(ハウル)するような激しくシャウトするものだった。

 この頃、1938年東京神田生れの山尾三省は、1958年に早稲田大学西洋哲学科に入学(19歳。日比谷高校を1年休学している)、実存主義哲学を学ぶ。当時は60年安保真っ盛りで、三省は全学連のデモに連日参加していた。61年には学業を断念、塾講師や家庭教師をしながら実家を出、翌62年には順子さんと出会い結婚した。

 1937年飛騨高山生れの山田塊也(ポン)は、友禅染めの画工をしたのち、京都河原町で「首狩り」(似顔絵)商売に手を染める。横浜などを経て、東京に辿り着いた時、国会前で樺美智子さんが惨殺された日だったと言う。1961年に再上京し、62年から絵描きになりたい思いやみがたく美術研究所に通いながらの似顔絵稼業、63年から新宿歌舞伎町へ進出する。

 ゲーリーは1962年スリランカへの旅へ出、「カンボジア号」という貨物船で甲板員をやっていたニール・ハンターと出会い、シンジュクでナナオたちと会うことをすすめられる。

 1963年7月、ナナオ、ナーガ、マモは連れ立って京都大徳寺で禅修行のため在住していたゲーリー・スナイダーを訪ねる。おりしも、インドから帰る途中のギンズバーグが、京都に滞在しており、時代を変える西と東の出会いが実現する。この時、ナナオ40歳、ナーガ若干21歳だった。
 この西と東の出会いをなかだちしたのが、ニール・ハンターという人物なのだ。

 この頃、山尾三省はアメリカに渡る寸前の一平クンと出会う。彼は、のちの小説家宮内勝典である。結婚して子持ちでもあった三省は国分寺のニワトリ小屋アパートに住んでいた(のちの「 C.C.C.」)。

 1965年春、ナーガを通じてポンとナナオ出会う。高円寺で開催中だった山田塊也(ポン)の展覧会に、ナーガがナナオを連れてきた。
 同年夏、南鹿児島で落ち合い3人で奄美諸島を一銭も持たぬまま2ケ月放浪。ナナオ42歳、ナーガ23歳、ポン28歳。
 同年、一平クン、三省をナナオに引き合わせる。
 1966年、新宿「青娥」にて。バム・アカデミー(アカデミア)と名乗ることを決める。
 同年秋、はじめて(本邦初)のポエトリー・リィディング・イベント。厚生年金小ホールにて開催。
 1967年4月。アドニスより「プシュケ・ジャーナル」1号発行。同号はいち早く1月の「ヒューマン・ビー・イン」の開催を伝える。
 同年4月16日。早稲田戸山ハイツ野外ステージから新宿西口まで「世界の滅亡を予告する自由言語による行列」。
 同年4月17日。安田生命ホールでの「世界の滅亡を予告する自由言語による集会」。
 同年夏から秋。宮崎、南鹿児島での行進と集会。
 同年12月。特色2色刷り「部族新聞」1号1万部で発刊。新宿はじめ繁華街で売り捌かれる。
 同号に「部族宣言」。そしてボクらのフーテン・コミューンにして教会「プネウマ祈りの家」からの呼びかけ掲載。
 
(さらにさらにさらにさらにさらにさらにさらにつづく)


中心と周縁の空白/Cさんへ

2009-04-10 23:59:30 | コラムなこむら返し
 Cさん。SNSで公開しているあなたの写真アルバムを拝見しました。ひとつひとつが美しい写真です。あなたは美しい対象を発見してしまったのですね。
 あなたは、今季の長く咲き続けたサクラの盛りを、デジカメを片手にカメラウーマンと化して、皇居は東御苑の花々や苔むすサクラの古木にカメラを向け、写真を撮られたのでしたね。

 その写真を公開アルバムで拝見させてもらって、「奇妙な暗合」をボクは感じてしまったのです。
 この美しき花々が咲いている場所が、世界でも屈指の大都会東京のそれも「ど真ん中」だと言う事実です。東京の中心には、「古事記」や「倭(和)」につらなる巨大な「空白」がある。聞き及びますに、濠より内側には、雑草といえども「外来種」は根付くことが許されないんだそうで、見つけ次第駆逐されてしまいます。お堀にブラックバスを放流した不届きのやからは、そのような事実を知って、もしかしたら故意に生態系の「テロ」を敢行したのかも知れません。

 「奇妙な暗合」というのは、こうです。あなたが撮った皇居の巨大な「空白」に咲く苔むすサクラの古木と、ボクが写真に撮ったハンセン(氏)病療養所に咲くサクラの古木が、なんだかボクの中で対称的な像を切り結んでしまったのです。言うまでもなく、ハンセン(氏)病は明治以来、富国強兵の近代化を目指すわが国が患者さんを強制隔離して療養所に押し込めてしまった歴史があります。その事実を(それは療養所という名の強制収容所だった)「歴史の空白」もしくは「暗部」と言っていいでしょう。

 皇居を「巨大な「空白」」と呼んだのは別にボクが最初ではありません。ロラン・バルトというフランスの思想家(でいいのかな?)で、バルトの日本訪問を下敷きにした(バルトは60年代後半に文化使節として来日したらしい)『表徴の帝国』という日本文化論の書物に、「都市(東京)の中心は空虚である」と指摘しています。そう、バルトは東京の中心を占める皇居の存在に驚きながらも、記号学的な独自の考察を鋭い洞察をまじえて指摘します。

 ボクはそれにさらに周縁にも「空虚」もしくは「空白」があることを指摘したいのです。正確には「空虚」「空白」に「された」空間です。ボクはこの国の象徴的な花(その美意識は明治以降帝国軍隊によって広められたもの)であるサクラを撮影し、花見をしに、建設された頃は武蔵野の寂しいへき地であったろう「全生園」に、それを見つけたのです。きっとこの国の近代に忘れられた、捨てられた「空虚」「空白」な場所はこのような療養所の他にもたくさんあるのではないでしょうか?

 あんなに咲き誇ったサクラも散り始めてきましたね。どうか、健康に留意され今後も素敵なお写真をボクたちに見せて下さい。対象をとらえるあなたの驚きや、やさしい視点が感じられる写真を、ボクたちに届けて下さい。
 あなたへ手紙をまた、書きたいものです。


「花まつり」も過ぎて

2009-04-09 14:41:36 | コラムなこむら返し
Hana_fes_2 ハラハラハラとはなびらを散らす、そのサクラの木の下でシャカムニの誕生仏に甘茶をかけて差し上げたかった。一日遅れで、寺へ行ってみるが、もちろん甘茶もシャカムニももうありはしなかった。本堂の入り口あたりに、1枚「花まつり」のポスターがはられてあった。
 葉桜になりかかった参道のサクラが、ハラハラと風に舞って散ってゆく。ここに、ボクは「日本的な」ものを感じるより、アジアを感じてしまった。まわりに咲く、色褪せかかったヒメコブシや、モクレンによりいっそうアジア的なものを感じたためかも知れない。
 で、近所の「絵本屋さん」の店先にあるトゥクトゥクを見に行ったら、トゥクトゥクの車体にもサクラの枝が飾ってあった。タイも仏教の国である。「花まつり」は、忘れられかかった日本より新年として祝う。

 サワデイ・ピーマイ・カップ!



春らんまん・散りそめし・いのち

2009-04-07 23:35:58 | コラムなこむら返し
Zenshou_sakura_2 今日、ボクは公休であった。本当は、明日の「花まつり」に休みの方がうれしかったが、仕方あるまい。
 で、今日は近所のもうひとつの隠れたサクラの名所である「全生園」へ行ったのだ。昨日から行こうと決めていた。

 「全生園」のことは、ここにまだ書いていなかっただろうか? ボクの住む市内にある国立ハンセン病療養所である。江戸時代からその面貌や身体がおそろしく変わることから業病とおそれられていたハンセン(氏)病は、「」「朝鮮人」「土人」「乞食・浮浪者」「アイヌ」「沖縄」と等しい激しい偏見と差別にさらされてきた。近代になっても、そもそも「らい菌」を発見したハンセン氏が患者の隔離をすすめたこともあって、一般市民(当時は皇民か?)社会から強制隔離され、明治以来、近代国家の暗黒部におとしめられていた(らい病、レプラと呼ばれた)。1996年(平成8年)に「らい予防法」が撤廃されるまで、強制隔離が続いていた。これまでの、歴史や偏見差別がつくった病気とも言えるもので、現在も全国に国立13ケ所、私立2ケ所の療養所があり、2,600余名の入所者がいらっしゃる。

 はじめて「全生園」に入った時は、びっくりした。いや、その平屋の生活棟(それぞれ「山茶花」とか「東雲」という名前が付いている)の建ちならぶ町並みが、まるで昭和30年代以前の町並みのように見えたからだ。それに、そのたたずまいが山岸会の村(コミューン)によく似ていた。園内には小さいながらも、スーパーまであるのだ。
 もう壊されたり、保存のため建て替えられてしまったが、その頃、園内にあった学舎は山の分教場のようだったし、「山吹舎」は独身青年患者の生活棟だが、ボロボロで、北條民雄が「いのちの初夜」を執筆した当時を偲ばせるものだった(北條民雄はその小説を、すぐ隣の「秩父舎」の書斎で書いたという)。

 園内の一画に、国立ハンセン病資料館があるが、そのすぐ隣の道が見事なサクラの並木道になっているのだ。今日の目的地はこのサクラだった。
 近くの病院や、老人ホームの入所者たちが車椅子やシートをひろげて花見をしている。サクラはそのほとんどが、昭和30年代に植えられた古木と言えるほどの立派なソメイヨシノで、木の高さはみな10メートルを超えるかと思われるほどのものだ。

 澄みきった青空を背景にして、サクラと菜の花の黄色とまるで、観光写真のようなキッチュな写真が撮れたように、どこかこの世の出来事ではないような気がしてくる。

 ついで、園内を久しぶりにぐるりと見てきた。「全生園」は、ここが東京都とは思えないほど本当に美しいハンセン病の里なのだった。


 らいレプラ ハンセン病と 名はかわれ 「いのちの初夜」の すべてを生きる

 業病の 差別偏見 さらされて いのちかがよう サクラの古木(こぼく)

 散りそめし はなびらを受け 美しき 春かがよいの らい病の里

 かがようは やさしいひかり 散りそめし サクラ菜の花 青空に映え
.