風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

喜捨する心と僧形の男/ニュースで再会する話

2017-04-11 14:58:58 | コラムなこむら返し
3月上旬の頃だ。一瞬にして彼は修行中の身ではないと分かったし、ましてその僧服から日本の仏寺ではないと考えた。
彼は自分は旅行中の身であり、心あれば路銀を所望したいと玄関先で、経文を唱えだした。だからポチ袋に入れて、その行為に感謝して幾銭かをお渡しした。
それは行為であって、タンブン(喜捨)だ。だから、ボクは被害者ではない。ここに提示された安いお札や、数珠を売りつけられた訳ではない。
合掌して対応し、「日本のお坊さまではありませんね?」と言ったために、彼はそれを取り出すのをためらったのかもしれなかった。
ニセ物だとしても、旅している身をタンブンで助ける気持ちは、未だ持ち続けたいし、ボクもこれまでそれで救われたことがある。
陳先楼(54)容疑者は中国人の農夫だと言う。上野、秋葉原あたりでそれらを売りつけ2万円ほどの収入を得ていたと、資格外活動の疑いとして逮捕された。
陳さん!たとえ資格外であろうとも、ちゃんと経文を唱えて日本観光をしていた方が良かったのではありませんかね?この国では、一部の禅宗系の僧侶が修行の一環として、下山し町で托鉢する。なれど、それもあくまでも形式だ。
新宿や、立川の駅頭では笠を目深にかぶった僧侶姿の人物が立っている。それは、ニセ僧侶だとのウワサがある。だけど、陳さんは逮捕された。
そう、出家するのはこれからですね。仏のご加護を!合掌!

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170411/k10010944481000.html?utm_int=news_contents_news-main_006

『ひこうき雲』〜女が立ち向かった80年代

2016-03-25 01:00:13 | コラムなこむら返し
家人が見ていて何気に見てしまった『ひこうき雲』(NHKBS2016年3月24日22:00~)。
80年代を大学生そして就職活動を生きた、いや生きるために戦かわざるを得なかった一女性を主人公にしたものだった。主人公は部屋にユーミン(荒井由美時代)のポスターをベタベタ貼り、ユーミンの楽曲に励まされながら恋を、就活を前向きに乗り越え生きようとする。

80年代の描き方がバブルにせよ、「ジュリアナ東京」などなどステレオタイプだと思いながらも、どこか少女漫画の乗りというか、岡崎京子的不条理感も漂っていた…。
「男女雇用機会均等法」がこころある女性たち・男たちの危惧を無視して採決・施行された時代の、そんな女性活躍旗ふり時代の始まりにふりまわされる女性が良く描けているかも知れないと言う感想を持った。
それで注視してエンドロールの脚本を見ていたら本を書いたのは男性だった。いや、どうやらエンドロールをすばやくスクロールしてみれば、酒井順子の著作が下敷きになっていたようだ(『負け犬の遠吠え』『ユーミンの罪』あたりか?ところで、録画はしてません)。

なるほど、そうでなければ男の想像力の及ばない世界がこれほど上手く提示できる訳がない。
劇の中では30年の時が流れ(つまり時制はほぼ現在になる)、では主人公は、いや全女性はどうなったのか?
すべての働く女性たちは、そんな時代にどう立ち向かい生きたのか?

男の論理が支配する企業社会に風穴をあけるべく、ドンキホーテのようにひとり立ちはだかる世界へ立ち向かった主人公は、結局は企業社会に打ち負かされ、手に入れた出版社勤めも三年で辞め、細々としたエッセイ・コラムを書きながら暮らしてきたのだった(これは酒井順子そのものの姿か?そう言えば、主人公を演じた広瀬アリスは酒井順子に眼鏡といい、どこか似ていた)。

ところで、ボクはと言えば80年代はもっとも嫌いな時代です。
(写真は酒井順子さん。エッセイスト。とっても素敵な方ですね。)

「怨歌」のディーバ・藤圭子の死

2013-08-23 08:54:55 | コラムなこむら返し
Keiko_fuji_phots 1969年にデビューした「薄幸の美少女歌手」藤圭子は、メジャーでありながら60年代そして70年代の歌謡業界の中の負の部分が、露呈したかのようなシンガーだった。たしか、当時ジャズファンだった五木寛之が名付けたと記憶する「怨歌(えんか)」と言う命名がそれをよくあらわしている。
 歌謡曲の中には「負の系譜」が綿々と存在する。作者不詳のヒット曲があるのだ。少年院(鑑別所と言った)や軍隊で歌い継がれてきた歌、その替え歌などなど。
 「演歌」そのものがもともと演歌師が歌った社会諷刺の演説歌からきている。まつりごと(政治)の中味を伝え、文字も読めなかった民衆にわかりやすくメッセージを伝えた。このふたつの系譜の中にあるいわば反社会な部分、そして抵抗者の部分が歌謡としての「怨歌」なのである。
 「怨歌」は70年代初め頃まで、民衆のルサンチマンをひろいあげ、救うものと言われてきた。藤圭子はメジャーの歌手でありながら、もうひとりの藤である藤(冨司)純子、梶芽衣子などとともに全共闘世代のアイドルでもあった。
 まして藤圭子の場合、地方出身者の吹きだまりで同時に若者文化の発祥地でもあった「新宿」を背負ったかのようにデビューした。「新宿の女」である。ついで歌われた「圭子の夢は夜ひらく」は園まりなどとの競作となったが、原曲はネリカン(練馬少年鑑別所)で歌われてきた歌から採譜し、歌詞を替えたものだった。藤圭子はその出自にまつわる暗い情念とともに、民衆のルサンチマンを慰撫し、ときには鼓舞もした歌手だった。
(藤圭子の訃報にふれて)



スリーマイル島以前、チェルノヴィリ以後そしてフクシマから…何処へ?

2011-03-28 23:23:56 | コラムなこむら返し
Fukushima_nuclear (この間、3月11日の東北関東大震災とそれに引き続く大津波。また東電福島第一・第二原発事故についてはツィッターで毎日のように呟いてきました。下の記事はいま岩手に住む友人にレスしたものですが、ボクの現在の心情が現れているのでここに公開します。)


 かって80年代に日本にも作られた「緑の党」運動。消費者運動からエコロジー運動まで結集してつくられた日本「緑の党」の票は伸びることなく、内部崩壊していつのまにか消えてしまった。いま、フクシマによって原発依存に危機感を覚え州議会選挙で「緑の党」が躍進するドイツがうらやましくもある。

 フクシマ以前、原発は巨大な利権と地元への振興援助金とかその名目はなんでも良いんだけど巨額と言うべき金が落ち、過疎もしくは辺境の原発立地の場所では札束で頬をはられるようなことがまかり通ってもだれもが何も言えなかった。
 フクシマ(東電福島原発人災事故。以下同)以後、住民はいま家に還ることも、地震津波の片付けもましてや遺体を運ぶことも、行方不明者を捜すことも出来ない20Km圏強制避難(行政命令)状態にあります。住民はきっと「もう原発はコリゴリだ!」と思っていることでしょう。
 かって原発賛成派だった町長も村長もまして知事さえもいまは疑問を呈しています(都知事選候補の現知事は原発推進派だと公言しましたので、投票しない運動か東京への原発誘致の運動をしたいと思います。笑)。
 「こんなに危険だとは言われてこなかった!安全だ、安全だと説得されたんです」

 原発の稼働率をあげるため火力発電所の電力生産調整をやってきた東電、電力各社は今回の「無計画停電」で、市民、首都圏住民を脅している。
 「さぁ、原発がなくなればこんな停電が真夏にもずっと続くのですよ」と!
 このことによって「こんな不便さにあなたは耐えられますか?」と恐喝している。

 未曾有の大地震大津波の被災者にさらなる30Km圏「自主避難(疎開)」を押し付け、首都圏近郊の停電をやってのけ、さらには電気料金値上げを謀り原発事故のツケを市民・利用者に押し付けようとしている。

 東電はもはや潰すべきでしょう。1企業に国の存亡を左右されるなんて阿呆らしい。エネルギーの中央集権化は市町村や県を越えて地方に放射線被爆のリスクと土地の荒廃、そして今回の大事故のようにコミュニティや人のきずなさえも犠牲にして消滅させると言う悪行をやってのけた。
 このままでは、この美しいフルサトを一企業が荒廃させてしまうと言うボクたちが抱いた危惧は見事に当たってしまったことになります…。

 東電は返せ!
 フルサトを!
 ウサギ追いしかの山を!
 田畑を!
 家を!
 風景を!

 返せ!

 NO NUCLEAR POWER, ONE LOVE !



失うまい、何時までもこの美しい心根を

2010-08-14 00:32:09 | コラムなこむら返し
Kougun_soldier NHKで八月になって連日やっている戦争証言番組。なかでも「爆笑問題の戦争入門」「色つきの悪夢」はとりわけ若者世代へ向けた戦争番組だったと思うが、後者はデジタル技術を使ってこれまでの記録フィルムをカラー化して見せたものだが、要するに「現代史」をなぞったものだけだったし、「戦争入門」にいたっては自分も戦争を知らない世代である太田がエラソウな顔をして若者世代をドーカツする番組だったと思う。

 それにしても、NHKの証言番組の作り方は、かって兵士を命令する立場だったものにもまるで、死ぬ前にその人生を正当化し免罪符を与えるばかりの検証抜きのつくりであった。

 また、同時にそれは大本営発表の国民を操作するデマゴーグの政具そのものであったマスコミNHKの戦争責任を問うことをはぐらかすようなつくりに思えた。

 いま、市井に生きる無名のボクたちに必要な戦争観とはなんだろう?

 それは、きっと「気分はもう戦争」でも「戦争入門」といった無責任なものではなく、この世界、この地球をよりよくどう子どもたち世代に与え、残してゆくのかという問いから始めるものではないだろうか?

 そうでなくては、クニに残された家族が生き延びることを真摯に願って、じぶんの叶えられなかった願いを次の世代に託して死んでいった皇軍兵士と言う名の当時の若者たちの死を二重にムダにすることだと思う。

 「人間の本性としてFREEDOMにあこがれるという真実さを、兵営に来て始めて、身にしみて知った。失うまい、何時までもこの美しい心根を。」
 (上村元太/昭和20年4月沖縄にて戦死。享年24歳)



瘋癲老人入院日誌~~閉塞した時代と閉塞する腸(2)

2010-03-18 21:50:31 | コラムなこむら返し
Breakfast_hospital美しき担当医の午前中の回診でお昼から流動食が食べられるようになった。うれしい!イレウス・チューブは、まだ万が一のために残すが(抜いて調子が悪くなったら、また入れると言うから「やめてください!」と叫んでしまった)ガスが上手く抜ければ取れるだろう。

流動食ながら入院後はじめての食事をとる。おもとなほではなくおもゆと塩!コンソメスープとケチャップをお湯でといただけのようなスープそれにプリンと牛乳それぞれミニパック。感動するかと思いしや、ぜんぜんダメだった。だってまずいんだもん。ツレの差し入れのスープに感動したせいかわからんが……。

朝食。おもゆと塩、具なし味噌汁、豆乳、みかんジュース。味気なし。それでもお腹は一杯になるから、相当胃が小さくなっているに違いない。具なし味噌汁は昔本当に貧乏だった時、よく作って目玉汁と称していた。碗を覗くと自分の目玉が映るからだ。みかんジュースは市販の100%ジュースであるのはいいが「離乳食」と印字がある。

入院してはや一週間が過ぎ去った。早い。苦しかったから余計早く感じる。嘔吐、腹痛からは解放されたが原因はまだ特定されていない。このあとどういう検査をし、原因特定をするのか不明である。妙な病名が出てこないことを祈りたい。

10:40イレウス・チューブを抜く。自分の病室のベッドに腰掛けたまま。鼻の穴は痛いが、すっきりした。これで鼻の穴からひもを通す大道芸が出来るかも……(笑)。やっとエレファント・マンから解放されたのに何を考えているのか?オイラ……。

病室の窓に目をやると……なんと雪が舞っていた!窓は八国山の方に向いているのだが、トトロの里が白くおおわれるのか?

昼ご飯から三分粥(かゆ)になった。野菜の煮付け(いんげん、人参、はんぺん)、大根おろしと鮭フレーク、トマトそれにとちおとめ苺ゼリーと牛乳がついた。おかずがついてやっと咀嚼ができる。人間噛まないとダメになるナイト!やっと少し満足感を覚える。今夜はおかずはなんナイト?よし。絶好調(笑)!

誰かと違ってひとりさびしく病院食。三分粥、ロールキャベツ、じゃがいものソテー、小松菜のかかびたし。あとからツレアイがリクエストのチャイを持って来てくれそれをドリンクないとナウシカ。

目覚めて窓のカーテンを引けば外は雪景色だった。積雪は2センチほどか。地表だけが白く八国山の木々がぬっと突き出している。入院十日目。

10日。朝食。三分粥、味噌汁(豆腐、みつば)、温泉卵、奈良漬け、たいみそ(チューブ入り)。もっとおいしいものを食べたく思うが、これは朝ご飯だった。普段よりははるかに豪華なんだが、食べられるようになるとそれ以外にこれといって楽しみはないもので……。

昼食。三分粥、そぼろ卵、白菜人参の中華風煮付け、じゃがいも玉葱のマヨネーズあえ。牛乳少パック。お昼の前に入浴。10日ぶりなので気持ちがよかった。あぁ、ビールが飲みたい!

点滴がはずれている間に駅前までちと脱走。少しフラついたがいい散歩だった。むしろ腸を活発にするためには、この位歩かせてもらいたい。しかし、空気中にまじる排気ガスをかぎわけるほど鼻やからだが過敏になっているのには自分でも驚いた。このままバンコクあたりに出没したら倒れてまた病院送りになりそうだ(笑)。

ひとり退院。同部屋の残りふたりは明日あいついでオペらしい。準備であわただしくなってきた。オペの前の緊張感みたいなものが伝わってくる。

18時夕食。三分粥、なす田楽、魚(さわら?)煮付け大根おろし添え、ほうれん草磯びたし、バナナ。あっさりと言うかぺろりと平らげてしまう。飲み込まずよく噛んで……。でも、物足りないのには変わりなし。

国の天然記念物でもあった鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏が昨日の悪天候の中、強風で薙ぎ倒されたというニュース。樹齢800年以上と言われる大銀杏は、ボクの母と小学生だったボクの姿も見ていたから残念でならない。

11日。入院10日め(昨日の10日めは間違い)。朝食。三分粥、味噌汁(チンゲン菜)、キャベツごまあえ、高野豆腐、えびみそ(チューブ)。それに差し入れのもみじ饅頭ひとつとチャイ。食欲あり。便通なし。

風は冷たそうだが雲ひとつなく空は晴れ渡っている。もはやなんの生産も、社会生活もない隔離された暮らし。消費さえもない。出された食事を食べ、文句ひとつ唱えずに従順につきしたがっている。入院とか施設入居とか収容とかは、ひとを従順にさせるためのシステムかと疑いたくなる……?

昼食。三分粥、ジャガイモいんげんの煮付、厚焼き玉子の甘酢あんかけ、きゅうりカブラの浅漬け、和風プリン(小豆)、牛乳小パック。食べながらお通じがないので下剤を飲むことに……。

18時夕食。三分粥、シャケ、やっこ(豆腐)、白菜かか浸し。う~ん、もの足りぬ。今日はデザートもないのか……。本日109病室は夜はボクひとりなり。

12日。入院11日め。昨夜2本の点滴で点滴は終了らしい。針も抜かれる。するとみかけ病人らしい点はパジャマを着ているところだけで、手持ち無沙汰になってしまう(笑)。身の置き所がなく自分が単なる怠け者ではないかと思われてくる。ま、そうなんだが……。携帯ラジオから奏でられるショパンが身にしみる。

朝食。五分粥、味噌汁(豆腐)、ミニオムレツ+ほうれん草付け合わせ、カブ2杯酢、のり佃煮、ケチャップ。普段はこんなにもたくさんの朝食をとるわけではないので充分である。NHK/FMのショパン特集を聞き続けている。

昼食。トリ南蛮風うどん、白和え、茄子におかか、青りんご風ゼリー、牛乳(小パック)。後から入った身長180超の若者、身重のちっちゃな妻とともに退院して行った。昨日オペのもうひとりは集中治療室から、この病室へまだもどってこない。

ショパンも魚座の生まれだとは知らなかったが、ピアノが奏でるあのミステリアスなほど美しいメロディはさもありなん。戦慄するほどの旋律だと言っておこう。いまから200年前の1810年3月1日生まれ(戸籍上)。本年生誕200年!お茶の水の「ショパン」で聞きたい。

入院してから二回目になる風呂に入る。昼間からいい気持ちになっていると、なんだかケア付きの温泉療養に来ているような気分に陥ってしまう。出たら散歩に行こう、と病室へ戻ると同室の若者が戻ってきていた。「地獄から戻りました~」。きっとしんどかったのだろう。

深夜はジャズ、朝ぼらけはバロック、午前中はクラシックが感性にフィットするというのはあの十代の日々を過ごした喫茶店、深夜喫茶のローティションに対応してつちかわれた感覚だろうか。だからロックは午後の時間帯から夜になりますね(笑)。FM各局の方、よろしく!(て、そんな番組編成がされているような気もするが……)

神を讃える音楽としての教会音楽そしてバロック音楽。捜神と言う言葉があるが(神を探すこと)それらの音楽の中では、指し示される至高の彼方を見やればそこに神がいまします。バロック様式建築が華美な装飾の中にもはるか天の一点を指し示しているように……。

そうか!高み、言い換えると至高所とはそれ自体が神のアナロジーなのだ。絶対を現すアナロジー、これは形容矛盾なんだが、だから言葉のレトリックを使って現せない存在を表した。いま、ヴィバルディの「調和の霊感」が流れる。そう、調和の霊感だ。世界は存在と生きとし活けるもののシンフォニーではないか!調和を聴け!

「140文字の哲学」(ツィッターの場合)という霊感!ま、あんまり受けないだろうが……。

午前中だがピーター・バラカンのMC番組で40年ぶりに発売されたジミ・ヘンドリックスの未発表音源がかかっていた。いい!しかし、遺族によれば今後10年発売できるほどある、と言うのだがそれならいままで何をしていたの?

13日。入院12日め。朝食。五分粥、味噌汁(おフ)、ツナ缶フレーク、白菜かか漬け、うめびしお(チューブ)。これで充分。

関西系のラーメン屋さんの名前としか覚えられていないかもしらないが、「神座(かみくら)」=「高御座(かたみくら)」は高天原にもうけられた天皇の玉座のことである。天にある至高の場所なのだ。中国の皇帝にならったのか自ら神を名乗ったのである。現代なら確実にパラノイアである。精神を病んでいるとみなされるだろう。天皇は神族だと言うのだ。

昼食。五分粥、ジャガイモといんげんの煮付、鶏肉のとろみづけ、白菜一夜漬け、缶詰のみかん、牛乳(小パック)。それに差し入れの杏仁豆腐。病室にいても今日は暑い。空調かけっぱなしのせいかのどが渇く。神々の渇き。午後脱走を試みる(笑)。

夕食どき。見計らって病室へ戻る。気温20度の春めいた一日。春の女神は薄物をはおって裾をひらめかせてやっと我がもとへやってきた。春めいた野原は沖縄で言うはえばるだった(沖縄の姓でもある)。はえとは南風のこと。はえばるは南風の吹く野原のことだ。女神のなま足はなまめかしかった。ボクはそいつを胸一杯吸い込んだ。

間に合った夕食。五分粥、金目鯛煮付け、大根人参煮物、青菜おひたし。春めいた一日だった。散歩も快適であった。脱走?そんなことはありません。

14日、入院13日め。5時50分起床。病室の外で鴬が鳴いている。今朝は昨日とはうって変わって肌寒く感じる。淡々として何の刺激もない日々。飛ぶように過ぎた二週間だった。老いの日々というものもこのようなものか?今朝はバッハのフーガから「バロックの森」は始まった。

回ってきた看護士に昨日のことをたしなめられる(ボクは4時間ほど外出していた)。30分いないようでしたら警察に通報しますよ、と。隣に養護老人ホームもあり、要するに徘徊老人とみなされるようだ(笑)。ま、「徘徊老人」に「フーテン」とルビをふるならその通りだ。いや、瘋癲老人日記という谷崎作品もあったな(!)。

朝食。全粥、味噌汁(里芋、長葱)、炒りおから、隠元かまぼこのわさびあえ、のりたまご(ふりかけ)。日が射して気温が徐々に上がってゆくのが感じられる。昨日は21.4度まで上がったそうで五月中旬の気候だったよし。今日も暑くなるか?

暇にあかせて病院中の置いてある本をチェック。週刊誌、漫画本のたぐいが多いのだが、唯一詩集を見つけた。谷川俊太郎「みみをすます」(福音館書店1982)である。全編ひらがなの詩集。「そのおとこ」という乞食もしくはホームレスを描いたような詩が良かった。/かたすみに/そのおとこは/たっている/てらてらと/あかびかりする/ぶかぶかのがいとう~/

今日の昼食メニューは洋食風だった。ビーフストロガノフ(というかハヤシライス)、トマトアスパラのサラダ、サワークラウト(洋風漬もの)、バナナ1本、牛乳(小パック)。身体動かさないからお腹すかない、とか言いながらまたもぺろりと平らげる瘋癲老人つぶつぶ……ブツブツ……。云々。

土俵入りは白鵬ひとり。優勝杯、優勝旗の返還は親方が土俵に上って代行する。客の入りは空席が目立つ。相撲界はどう盛り上げて行くつもりだろうか?

瘋癲老人は徘徊をそろそろ引き上げて病室に帰還です。なんもキカン患者と思われては(て、もう思われているみたい)器官に支障が出ますです。ナース!待っててね!イエース!

夕食時に間に合った。17:50夕食。全粥、筍とフのお吸い物、サバ梅煮、ぬた(むきエビ、ワカメ、ネギ)、白菜かか浸し。朝青龍が抜けて空気が変わった大相撲(春場所)中継を見ながら……。

15日。入院14日め。5時55分起床。さっそく「バロックの森」にチューニング。天使の歌声が携帯ラジオから流れる。深夜ラジオを午前2時くらいまで聴いていた。昨日クィンシー・ジョーンズが77歳の日本風に言えば「喜寿」を迎えたことを知る。レッド・ガーランドなど懐かしい曲が流れて来て興奮してしまったのだ。

吉祥寺の伊勢丹、正確にはF&Fだったがカウンターがメインのサ店「檸檬」には1972年過ぎ頃新宿風月堂がなくなってからよく行った。38年前の話。

「檸檬」に通ったのは仲間が集ったこともあるけど、ウェィトレスの娘が目当てという点も大きかった。顔は忘れたが気持ちのいい爽やかな娘だった。で、「ぐわらん堂」なんかにも行った。「meg」「more」「Funky」などのJAZZ喫茶にももちろん!

朝食。全粥、うめしそふりかけ、味噌汁(具なし。目玉汁!)。それだけの味気ない食事に戻る。コロノクリーン食と言って検査前の腸に溜めない流動食になったのだ。腹持ちしない。つまみ食いしそうだ。

「meg」はマスターがJAZZ評論家として有名になる前でできたばかりなのに、もう寂れたような(笑)いい店だった。そこもウェイトレス目当ての面もあったがある日、よく見知った娘がヌードでパンチかなんかに載っていてびっくりした。名をフラワーメグと名乗っていた。なるほどと会得したもんだ。

風呂から上がってくると昼食。そうではあるがコロノクリーン食で全粥、うめしそふりかけ、幼児用ぶどうジュースのみ。隣のベッドのひとに差し入れの巨大いちごを三粒もらい少し息をつく。これでは食べ終わったとたん腹がすくってもんだよ。

許可をもらって今日も外出。「誘惑に負けないようにします」と言いながら駅ソバに直行……(笑)。朝昼お粥だけじゃ、もちません、センセイ!あたたかいのだろうが、日が射してこないためそうは感じない。気温18度あるの?ホント?

あ、そうだ。携帯じゃ変換できない、「レモン」をちゃんと書いておこう。「檸檬」ね、檸檬。梶井基次郎の丸善檸檬テロリズム小説から付けたんじゃなかったのかな?

夕食。書くのやめようかな。全粥、うめびしお、はちみつレモンジュース。以上。とほほほほ……。

ジョージはこれからはハーモニカ横丁で栄えればよろしい!デパートなんて似合わなかった。バブル山手セレブ文化滅びて、闇市文化が生き残ったのだ。ヒッピィ・ハッピィ・ホッピィ!庶民ワールドチャンプルー文化マンセイ!

16日5時57分起床。入院15日め。今日は午後の検査のために苦行になるらしい。当然食事もなし、経口洗浄剤を飲み続ける(15分ごとに200cc)というもの。修験道者になれるか大道芸人か?

バスロータリーが作られる前、つまり伊勢丹がくる前だがそこは路地で以前歌声喫茶「灯」吉祥寺店があった。その跡地におそらく日本で最初のロック系ライブハウス「OZ」が作られた(ロカビリー以来の踊れる場所、店はあったがロックというジャンルは確立してなかったため特化されていない)。

なんでこんなに呟き続けているのか?と言えば入院して何もしないと言うか何もできない時間がたっぷりあるからだが、入院してブログが全く書けない欲求不満も大きいかもしれない。こうしてる間も200cc15分の苦行は続いている。ふたたび点滴が始まりつながれた身に戻ってしまう。

あまりのことに立ち直れない!午前中ずっと飲んでいた水薬がすんで(なんと2?飲んだ!)便が水溶状になると別室に連れ込まれ突然ケツの穴からチューブを差し込まれぼくは喚き続けた!ぼくは看護士に押さえ込まれ腹の中をひっかき回された上「何もありませんでした。きれいですよ」と言われたのである。いったい何だったの?

あるひと曰く。西洋医学は消去法。なるほどね。もう少しでボク自身が消去されるのかと思ったよ(笑)。喚きながら自分の綺麗な腸内を見てしまった!まだ十代の内蔵だったなぁ……(!)。

夕食(移行食)。全粥、吸い物(椎茸、玉葱)、白身魚(ピカタ)、サラダ(ブロッコリー、インゲン、ハム、剥きエビ)、小松菜かか浸し。本日の実質的な初めての食事。いや食べられるということは心身にとっての喜びです。ゆめゆめ食をおろそかにしてはなりません。

17日。5:50起床。入院16日め。午前中に退院の予定です。ご心配おかけしました。また、これまでこの「ふうてん老人入院日誌」におつきあいくださりありがとうございました。もう少し続きますが、今後は「ふうてん老人徘徊日誌」と名前が変わりさらに繰り言を呟いてゆく所存です。お覚悟めされい(笑)!

朝食。病院で食べる最後の食事。常食となる。ご飯、味噌汁(大根、なめこ)、納豆、青菜たまご炒め、白菜漬け。醤油が常備されていないのだが、納豆をおいしくいただきました。九州生まれで納豆を食する文化圏ではなかったのですが最近は好きと言えるようになったかも知れません。完食。

いまから退院です。清算できないんで早速借金をかかえるようです(笑)。色々お言葉をいただきましたが、帰還してから御礼の言葉を書きます。さらば、美しき担当女医よ!やさしき婦長よ!さらば、看護士たちよ!さらば!
こんにちは、シャバ世界よ!徘徊の地よ!
(2010.3/2~17mixiボイスおよびtwitter投稿より)


瘋癲老人入院日誌~~閉塞した時代と閉塞する腸(1)

2010-03-17 22:51:41 | コラムなこむら返し
Elephantman_jun七転八倒の二晩を過ごし本日強制入院!またもやトトロの病院。予定もくるったが、病院報告を呟こう!ただし具合のいいときだけね……。

午後九時が消灯時間。頼むよ、子どもでも病人でもないんだから……あ、病人だったわ。

ベッドの上であお向けになったままオシッコも排便も済ませることに快感を覚えるなら、それはヘンタイだろう? あ~、患者でよかった(笑)。

さあ、温かいほくほくした朝ご飯の時間だ。さあ、朝食にしよう! ……点滴だわ。

さぁ、ランチタイムだ。昼食は丼ものだろうか?麺類だろうか?あ、オイラを素通りして、また今日のランチは点滴だわ……。

同部屋のひとりが退院した。昨夜、怪獣が寝ているかのような物凄いいびきでぼくは眠れなかった。助かった、と思っていたら同部屋の他の患者さんたちは何日も悩まされてきたらしく「このままじゃ、病気が良くなるどころか悪くなっちゃうよ」とナースに抗議していたらしい(笑)。

閉塞の時代でも大地は揺れる!昼、台湾南部台南周辺で大きな地震があったという報道。続報はないが国会ではハイチ地震の質問、それも大事だが、自然災害は初期緊急出動が大事じゃなかったの?いま、現在が見えないかっての政権担当党の議員たち。

台湾の高雄の山地部甲仙郷あたりが震源地らしい。報道では半導体工場団地は無事。とあったがより心配なのは台湾のひとたちが「山地同胞」と呼ぶパイワン(族)などの先住民のひとびとの暮らしへの被害だ。

そろそろ夕餉の苦痛ないい匂い(笑)が、ただよってきた。敏感な胃は休んでいる腸のことなど胃(!)に介さずぐうぐう鳴る!さぁ、葡萄糖液(点滴)を注文しよう!ナース!ワンパックお願いしますぅ!

屏東(ピントン)で亡き母は女学校時代を過ごした。戦前の植民地時代の台湾だ。外省人はともかく内省人はとても日本人に友好的だ。パイワン、ルカイ、アミなどなどの先住民のひとたちもまた。。。美麗島に棲む山と海の民。そのひとたちが心配なのだ。続報まだなし。

液がもれ一時的に点滴の管がはずされた。あぁ、つながれていることはなんて不自由なんだろう。でも、このまま放置されたらどうなるのか一抹の不安がよぎる。

<<美麗島に棲む山と海の民。そのひとたちが心配なのだ。>>本心です。彼らの心からの歓待に、かって高砂族は野蛮な人食い人種と呼んだひとりだった母は何度も詫びていました。

やっぱり放置されていたのだ。二時間後ねている(フリをしている)ところにやってきて「今日はバタバタしてまして」などと言う。最近増えた男の看護士。いま、またつながれてしまった……。

♪地球の上に朝がくるぅ~/いやさ、入院中のぼくにも朝と誕生日はちゃんと来ました(微笑)!このような状態であるにもかかわらず「おめでとう!」と言ってくれたみなさん、どうもありがとう!

いまは好物のチーズケーキより白いご飯が切実に食べたい!嗚呼!ささやかすぎる望みだらうか? 点滴三日目。

チリ巨大地震の救援活動は富裕層の住む地区ばかりで、なんの救援も受けられずやむなく略奪に走る貧者から商品や私有財産を守るために軍隊が出動しているよし。ハイチでも同じだった。ゲバラの夢見た汎ラテン・アメリカ主義はどこに消えた?

担当医(もち女医さん。美人)の朝の診察の感触よし。やさしくぼくのお腹をじかになでてくれて「う~ン!よくなってますね」ですと。メシが近づいてきたか?!と言ってる間に昼ご飯の時間に。。。まだおあづけ。先生まだですかぁ?

入院先の病院長の月一回の回診があった。医師らぞろぞろ引き連れて一応患者ひとりひとりの症状を聞いて回っているらしい。そこで「医院長!おめでとう!と言ってください!今日、誕生日です」と言って強引に言わせてしまった。

3月5日はインスタント・ラーメンを発明した安藤百福(故人、日清食品創設者)の誕生日でもあったらしい。しかし、テレビでの取り上げ方は、究極の食料危機を救うものという取り上げ方で少しおかしい。

みなさん、午前六時となりました。起床の時間です。本日は三月六日金曜日です。あ、6時の院内アナウンスを書いてみた。起きちゃったらごめん(笑)。

食事タイムはぼくには拷問なのでテレビのある休憩室に避難していると(madさん言うところの)「伴侶の鏡」のツレアイが魔法瓶にポタージュスープを入れて見舞に来てくれた。ぼくがあまりにも空腹を訴えるからだろう。

禁じられている食事になるのか、許されている飲料になるのか微妙なところだが、うん、うまいところを突くね。ともかく完食、おいしかった。あとはともかくお米、ご飯を食べたいのだ。メシは天、天はメシ!

ツレの差し入れのポタージュスープは、胃の腑に滲み渡っていくのが自分でも分かった。次はコンソメスープをリクエストしたが本当はご飯・米のメシが食べたいのだ。おにぎりでもいい。おかゆでもおもゆでも、おもとなほでもいい。あ、同じギャグは禁じ手か(笑)?

行ってポエトリー・リィディングする約束だった草子の版画展(小平市鷹の台徒歩3分「松明堂」書店地下ギャラリー)のオープニングは、いまが盛りのナウシカだと思うのだが、どうだらうか?「森ガール」かナウシカのやうな草子のために力になりたかったのに……。

でもけふは、強力な助っ人が森ガールナウシカのやうな草子のためにオープニングを舞うらしい。ホイト芸の黒田オサム翁だ。黒田翁はきっと今年ひと花咲かすだらう。虐殺された大杉栄は黒田翁のテーマのひとつだ。

今日の夕食は点滴はむろんだが、ツレがさっそく差し入れてくれた愛情入りコンソメ・スープがメイン・ディッシュであった(笑)。大部屋でむさぼり食っている他の患者さんはきっと腹はふくれても何か隠し味が欠けていることに気がついただろう(微笑)。

ひと(人間存在)は口腔から肛門までの一本の管(チューブ)だ、と喝破したのは稲垣足穂だったはずだ(いまは文献に直接たしかめられない状況ですのであしからず。「A感覚とV感覚」だったと記憶する)。鼻から小腸へまで錐鉛のように管をのばしたぼくの今の姿はまさしくチューブである(2m40cm入った)!

ぼくの身長よりはるかに長いそのチューブはイレウス・チューブと名付けられているもので、それで胆汁のように真っ黒な小腸の分泌液を吸い出す。ぼくが当初激しく吐いていたものはまさしくそれだ。

それが収まって何も吸引できなくなるとイレウス管を吸引バックから切り離す。そして管にセンをして閉じる。すると鼻の穴から残りの20cmあまりの管を垂れ流した世にも奇妙ないまのぼくの姿が出来上がる。そう、ぼくが自嘲気味に呟いたように、その姿はエレファントマンに似ている!あの高名なフリークスに!

「エレファントマン」はデビット・リンチ監督の出世作であるとともにフリークス映画の最高峰だが、その成功は事実の持つ重みのせいだったかもしれない。そう、エレファントマンは事実に基づいた作品だったのである。

事実は壮絶な痛みと苦しみを与えただろう。エレファントマンことジョン・メリックに。。。見世物小屋の興業師にみいだされたジョンは、ロンドンの貧窮救済病院の医師に再発見され医学的な興味から病院内に一室を与えられる。今のぼくのように……。

イジメ問題自体たとえば、心理学者がどのように位置づけているのか知りませんが、ぼくは「汚(けが)れ」意識と結び付くのかと考えています。そこまで降りないと本質はみえないと。。。エレファントマンは姿形が醜かったのですが人間は心が醜いのです。

映画では当初、エレファントマンことジョンにコミュニケーション能力があるのか疑問視されていたようです。しかし、ドクターは知るのです。ジョンは読み書きはおろか知力も抜群で、そんなジョンを稼ぐ手段にしている健常者のほうが醜い人間たちだと。そしてジョンを学問的な成果として晒し者にしている自分もまた。

「美醜」という言葉もあるが、実は美しさも醜さも「聖なるもの」なのだ。ひとはそれらのものを目前にしたとき、畏れ戦き感動する。神と出逢った古代人の心情だ。「聖なるもの」を見出だす手段はなにか?ささやかな「しるし」がある。それをスティグマと呼ぶ。聖なる痕跡、「聖痕」という意味だ。

「いじめ」もまたスティグマ探しだ。ひとと違うところを個性として持った者を「聖別」し、吊しあげ、排除する。そのことで小さなコミュニティの結束を固めるためのスケープゴートにする。俗なるものは「聖なるもの」の視線に耐えることができない。それを「汚れ」とみなす。共同体の禁忌を侵す者とみなすのだ。

この図式は基督教的すぎるか?第一スティグマそれ自体がはりつけされたイエスの傷つけられた手足のことを意味する言葉なのだ。「汚れ」は文化人類学の概念だ。さても、心理学や精神分析では何と言うのか?

これ以上手元に資料もない状態でジョン(ジョーゼフ)・メリックについて書くことは出来ない。記憶は曖昧なものだ。でもボク自身がエレファントマンのような姿形となることで、ジョンの気持ちが少し分かったような気がしたので書き綴ったまでだ。それにこの姿は生涯続く訳ではない。健常者はどこまでもズルイのだ。ごめん。ジョン!
(つづく)



春一番の吹いた日

2010-02-27 01:41:33 | コラムなこむら返し
West_shinjuku まだ新宿の続きです。都庁を出て街路へ出ると、もう夕刻近くだったが、空は澄みきりコートを脱いで歩く人が多かったほどポカポカ陽気で春が近いことを予感させました。西口の高層ビル群の後ろの空も青く目に痛いほどです。
 この日は、夕食作り当番の日で、行きたいところもあったのだが断念して帰宅した。すると、ベランダに干しておいた洗濯物は強い南風で吹き飛ばされており、まだ上空には風がうなっていた。
 関東地方に「春一番」が吹いたと、気象庁がこの日(25日)発表した。なんと気温も18度を上回っていたらしい。



『フラガール』とエイト・ピーチェス(1)

2010-02-20 23:58:08 | コラムなこむら返し
Fura_girls 映画の公開としては2006年だから決して新しい映画ではないのだが、先日TV放映された(2月6日フジTV系列)『フラガール』(李相日監督)について書きたい。製作が会社更生法を申請した「シネカノン」だから、わずか4年なのに昔日の感がしてしまうが、この映画は炭坑映画としても、ひとつの産業の甦りのドラマとしてももっと注目されてもいい。
 ボタ山や入坑口、炭住(炭坑住居)のシーンなど懐かしく見たひとも多いのではないか。失われた戦後の風景としても、かってこの国のエネルギー政策を明治時代から支え続けてきた石炭そして炭坑の文化、風景は私たち日本人の原風景のひとつだと思うのだ。あらためて昨年暮れまで目黒区美術館で開催していた『'文化'資源としての<炭坑>展』の着目度を評価しておきたい(この展覧会のボクの感想はこちらへ→http://blog.goo.ne.jp/angura_1967/d/20091216)。

 さて、閉山も決まった常磐炭坑が起死回生の妙案として打ち立てたのが、坑道から湧き出た温泉を使ってのハワイに見立てたリゾートアイランド風レジャー施設「常磐ハワイアンセンター」であった。時は、昭和40(1965)年。施設に華やかさを与えるイベント「フラダンスショー」のフラダンスダンサーは炭坑夫の家族の娘たちから募集された。そのズーズー弁丸出しの田舎の娘たちに(蒼井優など。そうそう、「方言映画」という側面もあった)フラダンスを教えるために会社が雇ったのが、平山まどか先生(松雪泰子)だった。その平山先生があるところでフトもらす台詞。
 「あんたたちは知らないだろうけど、エイトピーチェスってあってね」
 この台詞でボクは一気に昭和30年代のある日に引き戻されてしまったのである。ボクは炬燵に潜り込んで家に来てまもないTVを見ていた。ブラウン管の中では、8人のあられもない格好をした大人の女性たちが官能的なダンスを踊っていたのである。

(つづく)


春節を前に「鬼」を憶うこと

2010-02-13 00:01:57 | コラムなこむら返し
 今年の旧暦の元旦は、新暦の14日つまりセントバレンタィン・ディと同日である。中国での春節の帰省ラッシュはとっくに始まっているらしいが、13億の人民が大移動をする。故郷を目指して折り重なるように人々は詰め込まれ、列車の通路は座り込んだ家族で動くこともままならない。窒息死するような思いをして、労働者は懐かしき山河や親兄妹の待つ故郷で正月を過ごすために帰るのだ。
(6日の朝日新聞に中国国家発展改革委員会の予測で、春節前後の40日間に、鉄道で2億1千万人、バスで22億7千万人、のべ25億4100万人が、国内を移動する見込みと書いてあった。想像を絶する数であり、パワーである!)

 追儺の儀式はその中国から伝わった。もともとは、大晦日に行われた厄払いの宮中行事だったらしい(旧暦の大晦日とは、まさしく今日である!)。それに、方相氏という四つ目の仮面をかぶってやる厄払いの陰陽師がからんで、しだいに立春の前日の節分に行われるようになったらしい。厄を払ったシャーマン的存在の方相氏自体が「穢れ」として忌み嫌われるようになり、次第に「鬼」と同一視されていった。と言うのも「追儺」は「おにやらい」と読まれており、「穢れ」をおった方相氏は追放される方に、つまり「おに」とされたのだった。方相氏は宮中の葬儀にかかわる儀式をとりもっていたこともあり、より一層忌み嫌われた(中国では「鬼」は「キ」と読み、これは「帰」と同じ死霊を意味していた)。

 これに対し、この国独自の「おに」がいた。「鬼(oni)」は「隠(on)」が変化したものであるらしい。前にも書いたが、「鬼」は見えないものであり、ひとつ目だった。山地や辺境にひそかに隠れ棲むものだった。山人に通じる制圧された先住民族、少数民の末裔だったのかもしれない。

 すべてではないが「鬼ケ島」伝説のあるところは「平家落武者」伝説があるところがある。これはどういうつながりか不明だが、少なくとも落ち延びて「隠れ棲む」ことにおいては同じだったろう。

(まだ続くかもしれません……)


「相撲」の起源に「鬼」を憶うこと

2010-02-06 01:15:57 | コラムなこむら返し
Sumo_ukiyoe 昨日の記事は朝青龍の引退ニュースにあわせて書いたものだったが、相撲と「鬼」はあながち関係のないことではないらしい。英雄神による討伐平定の故事を相撲の起源としたような記述が、『日本書紀』にある。

 「タギマノムラ(当麻邑)に勇み棍(コワ)き士(ヒト)有り。タギマノケハヤという。そのヒトトナリ、力強くして能く角をカキ鉤を申(ノ)ぶ。」

 タギマノケハヤは角をこわしたり、鉤をのばしたりするほどの力自慢で、「自分にならぶほどの力自慢がいるなら死ぬことは問わずに力競べをしたいものだ」と豪語していた。垂仁天皇は「天の下の力士(チカラビト)と豪語するタギマノケハヤに対抗できるものはいないのか?」と問うた。すると、ひとりの臣下が「出雲の国にノミノスクネという勇士がいるそうな。この者を招来してはいかがでしょうか」と答えた、即日、遣いがでてノミノスクネが出雲から呼ばれた。

 「ここにノミノスクネ出雲より至れり。すなわちタギマノケハヤとノミノスクネと相撲取らしむ。二人相向いて立つ。おのおの足を挙げて相蹶(フ)む。すなわちタギマノケハヤが脇骨を蹶(フ)み折(サ)く。また、その腰を蹶(フ)み折(クジ)きて殺しつ。」

 垂仁天皇はタギマノケハヤの地所をとりあげ、そこをすべてをノミノスクネに与え、それゆえこの村(邑)に腰折田(こしおれだ)という場所が有る由縁である。ノミノスクネは、出雲からこの地に留まり天皇に仕えた、という記述である。
 タギマノケハヤは当麻蹶速と書き、当麻氏の先祖である。ノミノスクネは野見宿禰と書く。さまざまな解釈があるが、土蜘蛛たる豪族(先住民)の頭たる当麻蹶速を、これまた大和王権にとっては蛮族(先住民)の出雲族の野見宿禰が倒して(討伐して)天皇に仕えたという風にストレートに解釈できるだろう。そして、それが今日まで続く「相撲」の起源になったということであった。

 ここに読み取れることは、大和王権が蛮族同士(土蜘蛛と出雲族)を戦わせてエミシや夷が支配する地方に次々と覇権を及ぼしてゆくという知略、戦略、ダマシ討ちの手法なのである。辺境に追いやられる「鬼」は、蛮族という先住民なのであり、山人やサンカの始祖となったのではなかったのか。
 支配者・権力者の手法は、古代も現代も変わらないということを肝に銘じましょう。

 参考文献:沢史生『鬼の日本史』(彩流社1990)

(まだ続く…でしょう。)

(画像)ウィキペディアによる「相撲絵」。(この画像はパブリックドメインです)



TOKYO SNOW-LAND

2010-02-02 23:59:10 | コラムなこむら返し
Tokyo_snow_land 半日しかもたなかったが、2日朝方、一面が銀世界に包まれ東京は雪国となった。ボクが住む地区は東京のかなりはずれ、東京と言うには面映いほどだが、その「郊外」的景観をもつゆえに、雪は溶けずにかなり長い間、シャーベット状になって道をおおっていた。上からは、筋になった雪が電線を揺らして降ってくるし、襟首を直撃されたひとも多いのではなかったか。
 車の前で横滑りしかかった自転車も目撃してしまった。
 南国生まれのボクは寒いのは苦手だが、雪は好きだ。もちろん、どんよりとした雪雲に閉じ込められた本当の雪国の憂鬱な日々のことを言っているのではなく、こんな風なたまに降って景色を変えてくれる雪が好きだ。汚い都会も銀世界になると、まるでそれだけで浄化されたように清らかな風景となるからだ。
 「トウキョウ・スノウランド(TOKYO SNOW-LAND)……」
 そっと口に出して呟いてみる。
 すると、ボクの脳裏の中をディズニー・ランドにも、ネヴァー・ランドにも負けない壮大なファンタジーがモクモクとわき出すのだ。

 そこは子どもたちが中心となった国で、純真なこころをもったものしか住めない国だ。第一、清らかな、純粋なこころを持ったものにしか、その国は見えてこない。国の真ん中には大きなカマクラが壮大に建ち並び、それはまるで宮殿のような大きさを持ち、建物自体が発光しているように見える。もっと小さな「ほんやらどう」とか、「がらんどう」と名付けられた雪の祠もある。そこには、小さな炎で周りを照らし出すキャンドルが燃え立っている……。などなど。

 そんなユメを白日夢として見たように思う。
 (今日は2が四つ並んだ日だった。)



如月朔日の雪

2010-02-01 23:52:28 | コラムなこむら返し
Feb_1snow 東京での、この冬二度目の雪??しかし、屋根に降り積もる雪は初めてなのではしゃいだり、大騒ぎしたりしているのが、雪国で大雪に閉ざされて過ごしている方々に申し訳ない気持ちがする。
 雪になれていない東京の交通機関は、足腰が弱くこういう時はすぐ停まってしまったりするから、明日の朝が心配である。
 我が家の前は、交通量もほとんどないということもあるのか、道にも相当積もっている(写真)。
 この雪は朝近くまで降り続く予報がでているから、道路の凍結の心配もあるのだ。みなさん!お気をつけ下さい。



ツキミル キミヲ オモフ

2010-01-31 18:20:57 | コラムなこむら返し
Fullmoon_cloud_jan30 月見る 君を想う
  今宵の 満月を
 眺め入るとき 君は
 何を想うだろうか?
 冴えざえたる
  冬の満月に
 異国の地の 君を想う
  ボクは この地にいて
  君も この月を見ていることを 知っている
 煌々たる 月のひかりに 照らされて
   ボクの頬は 青ざめているに 違いない
  それは 寒さのせいもあろう 深夜に働いている
   底辺労働のせいもあろう

 そう これがブルー・ムーン!
  憂鬱な月か?
   青いひかりか?
 でも ボクのこころは
  決して寒くはない 冷たくはない
  むしろ 君を想い 熱くたぎるものを 感じている
   
 たぎりたつ想い 君が恋しい
  君のすべやかな肌に 触れたい
 どんなに この世が 不条理に 満たされていようと
  君は ボクの方舟だった
   あの天空にあって 孤独に光り輝く 月のようだ
 貧しさに 打ちひしがれることもないのは
  君が ボクの希望たるものだから……

 ぬばたまの 夜(よ)渡る月に あらませば
  家なる妹(いも)に 逢いて来ましを(※1)

 2010.1.30の月に捧ぐ。そして「赤い橋」を渡ってしまった故浅川マキさんに。

(※1)『万葉集』巻十五
 ※タイトルに似たような雅びな名前をもつライブハウスがありますが、直接は関係ありません。



森へ、ふたたび!(補遺)

2010-01-30 15:33:04 | コラムなこむら返し
Ootaka_sayama いくつか書き忘れたことがあった。そのひとつが、偶然オオタカの飛翔を目撃したことである。

 天満天神社から人里へおりてゆく途中、大きな鳥が飛翔しているのを見つけた。カラスかとも思ったが、悠然と飛翔する姿はカラスではない。オオタカ?と考えて興奮したが、オオタカは高尾山や奥多摩の森でしか見れないだろうとボクは決めつけてしまっていた。
 はっきりしないまま、その足で狭山湖の堤を登って行ったのである。人口の湖とは言え、狭山湖は彼方に秩父連山を見晴るかす雄大な眺めである。と、その狭山湖の欄干にオオタカの絵をボクは見出したのである。
 そう、狭山湖の周辺の森にはオオタカが生息しているのである。ボクがみたのはオオタカに間違いないと思う。

(写真)オオタカの彫り物が欄干にあった。バックにボクの姿が写りこんでいる。