風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ゴーギャン(3)/私たちはどこへ行くのか?

2009-07-26 14:45:07 | アート・文化
Oviri 二度にわたるタヒチ行き、その二度目はマルキーズ(マルケサス)諸島のひとつでゴーギャンはそこに骨を埋めることになる。ゴーギャンのキリスト教徒風の墓石の上に、奇妙な彫像をひとは見い出すだろう。それはゴーギャンの希望でそこに置かれたのだが、クリスチャン風の墓にはマッチしないおどろおどろしいまでに土俗的な彫刻だ。まるで、タヒチの原住民によるプリミティヴ・アートかと思えるその彫像を彫ったのは、ほかならぬゴーギャン自身だと知ればひとは驚くのではないだろうか?
 それが「オヴィリ」と題された彫像だ。実は、1987年の『ゴーギャン展/楽園を求めて』』にも展示されており、見ているのだが、今回の方がより強烈にボクに迫ってきた。

 ゴーギャンのキリスト教的には、異教信仰であり、唯一神にそむく涜神行為であったプリミティヴなものを探究する志向は、絵画作品よりむしろ彫像や、版画作品(『ノアノア』など)の方が見事に成功しているようにボクには思える。油彩絵の具を介しての表現より、ゴーギャンがその無骨なまでの太い手で直截にマチエールへ立ち向かったこれらの彫像や、版画の方がよりゴーギャンが目指した「野蛮」や「原始的なるもの」を表現している。
 ゴーギャンはたとえば、そのアトリエ兼住まいだった小屋を手すさびのやうに彫刻や、レリーフで飾った。それらの多くは後になんの価値もないものとして小屋を貸したもの、他人の手に渡ってから捨てられたらしい(またその葬儀の際に、焼却処分された!)。これは、ある意味、ゴーギャンの彫像作品が「無名性」に達していたことを表わすのではないだらうか?

 「オヴィリ(Oviri)」(「野蛮人」「野蛮なるもの」を意味するタヒチ語)は、第一回目のタヒチ滞在から帰国していた1893年頃、タヒチ滞在記として書き始めた『ノアノア』と同じ時期にパリで製作された。おそらく、それまで「あくがれ(憧れ)」の次元であったタヒチや南方や、楽園への憧憬が、ほかでもないゴーギャン自身の内なるソヴァージュつまり「野生」や「野蛮」であることに気付くきっかけになった作品だらう。

 この木彫の風合いを持つ彫像は実は着色石膏製だが、ブロンズで複製されゴーギャンの墓に飾られたものもそのひとつだ。「オヴィリ」は同じタイトルをもつ版画作品や水彩デッサンが残っているが、版画と同じ構図の『偶像』(1898年)と言う油絵もある。「オヴィリ」のオリジナルも静岡県立美術館収蔵で日本にある(現在は『ゴーギャン展』会期中は東京国立近代美術館に貸与中)。

 私たちはどこへ行くのか?

 まぎれもなく西洋人で、文明人であり植民地本国人であったゴーギャンは、ゴーガン(傲岸)でエゴイステックだったとは言え、その探求の先に19世紀と言う同時代のパラダイムを超えていた。その出自からディアスポラだったゆえにか、反植民地主義の中から生み出されたきわめて今日的な「クレオール」という問題意識を先取りしていたやうにボクには思える。
 もっと言えば、ポール・ゴーギャンは南太平洋上のタヒチで、「悲しき南回帰線」を体感していたのかもしれない。野生の思考(パンセ・ソヴァージュ)、野蛮人の世界観??とりもなおさずその世界を獲得する智慧とも言うべき生き方、神話を生み出すやうな生活??ゴーギャンはそれに気付いた最初の人間、画家だった。

 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか??その命題は、ゴーギャンにとってはアンチ・キリストの反措定だったと言うことを指摘しておこう。

<写真>「オヴィリ(Oviri)」(1894~5年)静岡県立美術館収蔵


黒い太陽2009

2009-07-22 14:23:15 | コラムなこむら返し
Nao_phot インド・バラナシあたりから始まった今回の皆既日食は、ブータン、中国重慶、武漢、上海を経て、トカラ列島(その最長時間観測されるはずだったのが悪石島)、硫黄島を経て世紀の天体ショーは終わった。日本で見られる皆既日食としては46年ぶりだったそうだが、トカラ列島は雨か、曇りで周りがうす暗くなるのを観測できたが、肝心の太陽はみれなかったやうである。
 晴天確率の大きい硫黄島に観測拠点を構えたのは国立天文台の研究者グループだが、さすがというか読みが適中して硫黄島からの衛星「きずな」を通じてのライブ映像はダイヤモンドリング、太陽コロナはもちろん、黒い太陽の周りのコロナのなかにプロミネンスの紅い炎までも観測できると言う見事な映像だった。紅蓮に燃えるそのプロミネンスの大きさは、その中に私たちのこの地球が2個も3個もはいる大きさだと言うから太陽の巨大さがよくわかる。

 46年前、つまり1963年7月21日に北海道東部で皆既日食が観測された。ボクは中学生だった。その時だったのだろうか? 今は禁じられているススをつけた下敷きや、サングラスで部分食を観測したのは……。昭和で言えば、38年の昨日の日付けだ。

 今回、75パーセントの太陽が欠けるはずの時刻(午前11時13分)に厚い雲がたれこめた曇りの東京もこころなしかうす暗く感じられたが、TV映像で見る上海の真夜中かとみまがう光景や、水平線の全周囲のあたりが雲が涌きたつやうに明るいにもかかわらず、天球は昼間の星が観察できるほどにうす暗いという硫黄島の皆既日食映像は、肌が粟立つやうな思いがした。
 これは同時刻のライブ映像だと言う思いからくるものか、VTRでも同じやうな感想がもてるのかはわからない。

 次に、今度は北関東で皆既日食が見られるのは、26年後の2035年だと言う。頑張って生きませう。

(補遺)地球から見て、太陽と月は天体上でほぼ同じ大きさに見える。というのも太陽は月のおおよそ400倍の大きさがあるが、地球からの距離も月の400倍ほど遠いので、地球からはみかけの大きさはほとんど同じに見える。それゆえに、太陽と地球のあいだに月が横切って(地球上では場所を変えどこかで毎年のやうにおこっている)おこる皆既日食で月と太陽はぴったりと重なるのだ。コロナの観測もダイヤモンドリングもそれゆえおこる(月の方が小さく重なる現象は金環日食という。こちらの方は、さほど待たなくとも2012年に九州南部、関東などで見られる。マヤ暦が終わる年ですね)。

(写真)本日の国立天文台の速報写真より。硫黄島近海船上。撮影・福島英雄氏(国立天文台)。


コルトレーンが死んだ夜

2009-07-17 23:59:40 | コラムなこむら返し
Ascension_coltrane いまからかれこれ42年前の1967年7月17日午前4時頃肝臓ガンでジョン・コルトレーンは死んだ。いうまでもなく、そのニュースを知ったのは翌日か、翌々日の新宿のジャズ喫茶だった。オレたちは驚愕し、嘆き悲しんだ。それを知った夜、オレたちは、もてるだけのコルトレーンのアルバムを持ち出しては、この不世出のジャズの革命児を追悼した。
 その日から、フリージャズを快く思っていない店以外のジャズ喫茶では7月17日の命日はコルトレーンのワンマンディとなったものだ。リクエストはコルトレーンのアルバム以外は受け付けないのだ。
 晩年、見神体験に近い体験をしたらしいコルトレーンは限りなく崇高な存在を目指しているやうに見えた。死の1年前初来日を果たし(1966年7月)、コンサートを開いた。それが、コルトレーンのナマのライブを見れる最後の機会だった。そしてコルトレーンはみずからインタビューに答えて「グル(信仰上の先生、師)になりたい」と言った。64年の『至上の愛』以降、アルバムタイトルが実に精神的な意味をもちはじめる。
 タイトルだけを聞くなら、それはジャズのアルバムではなくニューエイジ系の音楽かと勘違いするほどに……。
 『ア・ラブ・シュープリーム(至上の愛)』『オーム』『アセンション』『インプレッション』『メディテーションズ』『エクスプレッションズ』『クルセ・ママ』『クレッセント』などなど。
 シタール奏者のラヴィ=シャンカールに弟子入りすることを望みながら、スーフィイズムにも心酔する。その探求型の一途な生き方が、またコルトレーンサウンドへの熱狂的な支持者を生み出す。60年代後半、とりわけ深夜ジャズ喫茶をシナゴーグと呼んだのは中上健次だったが、ユダヤ教というよりはモスクのような教会の要素を深夜ジャズ喫茶は持ち得ていた。
 それは、とりもなおさずコルトレーンや、エリック・ドルフィ、アルバート・アイラー、アーチィ・シェップ、オーネット・コールマンなどのジャズメンがそのジャズの「五月革命」の中で見い出した、アフリカ起源の音楽の崇高な野蛮人の道だったからに違ひない。



ゴーギャン(2)/私たちは何者か?

2009-07-16 23:58:06 | アート・文化
Te_navenave_fenua 今回も展示されていたゴーギャンの作品『かぐわしき大地(Te Nave Nave Fenua)』は、倉敷の大原美術館の収蔵作品である。パトロンでもあった実業家大原孫三郎の委託を受けて滞欧中の画家児島虎次郎が収集した作品で、日本最初の美術館である大原美術館が開館した1930年からここにある。
 タヒチのエヴァ(イブ)に見立てられた女(ヴァヒネ)は、第1回目のタヒチ滞在中にゴーギャンの現地妻となった13歳のテハマナがモデルで、植民地として文明化されてゆきつつあった19世紀に奇跡のやうな日々をゴーギャンが過ごしていた時のものだ(今回の『ゴーギャン展』では8月30日までの期限付き貸与。東京で見たい方は8月中に行かれんことを!)。

 その頃の副産物が『ノアノア』で、「かぐわしき香り」という意味のマオリ語からとられた。ゴーギャンは幸福感につつまれ、至福の日々を過ごした。世界を肯定し、みじめだった本国での暮らしを忘れかけた。

 毎日、日が昇るとすぐ、私の家の中は光が輝きわたった。テハマナの金色の顔が周囲を照らし、私たちは、天国にいるみたいに、生まれたままの、ありのままの姿で、近くの小川に水浴びにゆくのだった。……タヒチのノアノアは、すべてをかぐわしくする。……すべてが美しく、すべてがよかった。
(ゴーギャン『ノアノア』岡谷公二・訳)

 私たちは何者か?

 若い頃水夫をやり、株式仲買人の職から放免された経歴を持つゴーギャンは、売れない絵描きであるにもかかわらず、尊大な自負心の固まりだった。妻子の生活さえかえりみず振り捨てたゴーギャンには、「楽園」に絵(タブロー)のテーマを見い出し、それをもって本国で賞賛を受けるという起死回生の方法しかもはや残されていなかった。植民地本国人としての傲岸な(ゴーギャンはまたゴーガンとも表記されてきた)見下すような視線の持ち主だったが、マオリの古代信仰、神話などを知るにつれ、キリスト教的なテーマ、視線で描いていたタヒチの女、ヌード、風景がもつ本来の姿に次第に浸蝕されてゆく。泰西名画の「引用」や古代レリーフの構図の「転用」の手法で絵を描いていたゴーギャンは、アルカイックなものを求めるあまりのイメージが「エデンの園」や、キリスト教的なイメージにひきずられていたことに多少は気付いたやうだ。

 画家としての総集編的な仕事となった「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」においても、真ん中から左寄りに死と再生をつかさどる月の女神ヒナの彫像が大きく描かれている。その右側にはゴーギャンが愛した娘アリーヌだと言われている横顔を見せたおんなの姿がある。もはや、野蛮の神、マオリの信仰であるヒナに愛する死んだ娘と、みずからの運命を託すかのやうだ。

 ゴーギャンはヨーロッパ人、植民地本国のフランス人から自らの血の中に流れるインディオの血に自覚的になってゆく(幼い頃、ゴーギャンは遠い親戚を頼ってペルーで暮らしたことがあった。母方の祖母は、あのフローラ・トリスタンで、私生児だったフローラの父がインディオの貴族だった)。そしてついには食人(カニバリスム)をしたことのある老人に加担し、自分の中に「野蛮人」を見い出すのだ。

 ときには、着物を着る野蛮人もいるのだ。(ゴーギャン『前後録・小序』)

<図版>「かぐわしき大地(Te Nave Nave Fenua)」(1892年)倉敷大原美術館収蔵


ゴーギャン(1)/私たちはどこから来たのか?

2009-07-15 15:54:40 | アート・文化
Gouguin_exb_1 今月(7月)の3日から東京国立近代美術館(北の丸公園、営団地下鉄東西線「竹橋」下車)にて『ゴーギャン展』が始まった。今回の展示の目玉はゴーギャン晩年の大作「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」(1897~98年制作・ボストン美術館収蔵)の日本での初公開であるという。ゴーギャンは日本では人気がある、というか見るところ20年周期で繰り返される泰西名画のエキビジション(決して国立美術館のキューレターを低く見るものではありません)ゆえにか、場所も同じ東京国立近代美術館で1987年に今回よりはるかに多い150点余(今回は53点)の作品で『ゴーギャン展/楽園を求めて』が開かれている。もちろん、ボクは鑑賞し図版も持っている。

 87年のエキビジションは、サブタイトルからも分かるように、はるかにタヒチで描かれた作品が多かった。あまりにも高名なため「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」は、過去幾度も見ているような錯覚があったのだが、実際作品の前に立ってみるとその大きさから初めて見るのだと言うことが理解される。とはいえ、縦139.1×横374.6㎝のタブローは、そんなに巨大とは思えない。

 ほとんど1室がその作品1点のために与えられているのだが、逆に作品の緻密さが失われ、空虚さを感じてしまった。ゴーギャン自らが畢竟の大作と呼んだ「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」は、面映そうに身をくねらせている。それにしても、この沈うつな色調はなんだろう?
 自ら望んだ「楽園」にあって、幼い「現地妻」とともに「小屋」で月100フランで暮らしていることにゴーギャンは不平を書き残している。

 私たちはどこから来たのか?

 そう、植民地本国から……。妻を棄て、家庭を棄て、愛人を孕ませ、人生の敗残者のやうに……ただ絵を描くために……。もはや、40半ばになろうとする男には、大平洋の真ん中にしか「野蛮なるもの」は、見出せなかった。身勝手な「楽園幻想」を実現するところはフレンチ・ポリネシアであるタヒチにしかなかったから……。


「革命的三バカトリオ」の消滅

2009-07-09 23:21:12 | コラムなこむら返し
 平岡正明が、9日死去したらしい。68歳だった。脳硬塞だった。
 この5月19日には、かっても世界革命浪人ゲバリスタの盟友だった太田竜が78歳で亡くなっているから、はるか昔に亡くなってしまった竹中労とともに「革命的三バカトリオ」と新左翼各派に揶揄された左翼的言辞を駆使するトリオが全員みまかってしまった。


七夕の夜は満月だった

2009-07-08 00:00:06 | コラムなこむら返し
Tanabata_fullmoon 雲は多いが、強い風がその雲を吹き飛ばしているようで、雲間から明るい月が見えかくれしている。今宵は満月と重なった七夕で、一年に一度の逢瀬としては絶好の雰囲気のある夜だ。
 ラファエル前派が、その技巧と思い入れをたっぷりこめてキャンバスに描けば、こんな月夜になるのではないか、と思われる。
 琴座のベガとわし座のアルタイルは、織姫(織女)、彦星として中国起源の星の伝説としてこの国に伝わった。ロマンチックな話だから、好まれたのだろう。
 子どもたちは、願いごとを書いて笹に結び付ける。青年たちにとっては恋の成就をねがう夜となる。あまり知られていないのは、運動ではなく官製であるためなのかもしれないが(それも二番煎じの)環境省肝煎りのキャンドル・ナイトが提唱されている。
 たとえ消灯しても都会から天の河がみえる訳ではないだろうが、テーマはCO2削減であって、天の河ではない。でも、子どもの頃(昭和30年代)、年に2~3回は、満天の星が東京からでもみえる夜があったような気がする。実際、三鷹市大沢に国立天文台があるのも、いかに東京郊外の武蔵野台地が透き通った清涼な空気をし、人家の灯も天体観察の邪魔をしなかったかを物語るのだろう。
 せめて二等星くらいの明るさの星が見えるほどの空を東京に取り戻したいと考えるのは少数派だろうか?
 低炭素化社会を政府領導で本気で作ろうとするのなら、この低成長な現在こそ環境回復の一大チャンスで、下水道処理技術で、あのドブ川だった神田川を魚も棲める環境にしたように、大気の清浄さも取り戻したいものだ。

 写真は、今宵の満月です。
 (今日のBGM:タンジェリン・ドリーム「アルファ・ケンタウリ」)



光速疾走者の悲哀、または精神のリレー/埴谷雄高(1)

2009-07-05 00:21:32 | ブンブク文学/茶をわかせ!
(まず 初めに これは 「詩」 と言うよりも 「散文」 のやうなものだ
 と言うことを 承知しておいて もらいたい)
  ………………………………………
??生と死と。Pfui!

魔の山の影を眺めよ。
 悪意と深淵のあいだに彷徨いつつ
  宇宙のごとく
 私語する死霊達。

   (「不合理ゆえに吾信ず」)
  ………………………………………
思い浮かべて欲しい
 それは昭和7年(1932年) まだ22歳の 美しい面立ち(おもだち)をした青年が
  マルキストとして 共産党の非合法地下活動を していた
 仲間は 次々と 特高警察の手に おち 検挙され
  小林多喜二の やうに 取調室で 虐殺された
 また 共産党の内部でも スパイ摘発に明け暮れ
  疑心暗鬼の中で 査問を受けた仲間が リンチを受け 死んでいった
   どこか 1970年代はじめと リンクする 状況だった

帝国の植民地であった 台湾 生れの 般若豊(はんにゃゆたか)という
 名前のその青年は
あるとき 治安維持法違反 不敬罪で 起訴され 豊多摩刑務所に収監される
 友人宅を 訪れた際 特高警察を 家族と間違え
  そのまま うむを言わさず 逮捕されたのだ
収監されていた 1年半あまりの時間
 青年は 刑務所内の 壁にひとり向かい
  黒い染みと 対面し 独白し 夢想していた

??薔薇、屈辱、自同律??つづめて言えば俺はこれだけ。

出獄し 吉祥寺に居をかまえる
 それから 60年余 住み続ける 井之頭公園近くの 家だ

青年は 「般若」の面を とって ハニヤユタカ という
 文学者になる

豊多摩刑務所内で 壁に向かって 夢想した
壮大な <妄想>を 「小説」という
 文学装置の 中へ 解き放った

それまで 誰も構想しなかった
 前人未到の 「存在」を問う 文学だった 
 ……………………………………………

アフォリズムは 警世の短文 ことわざような 形式である
 一般には 処世術の 警告のようなものが 書かれ
 「格言」「箴言」「警句」と 称される
たとえば 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』)の
 ようなものだ
 交通標語のようなものも そもそもはそのような
アフォリズムの 形式を 七五調で 真似たものと言える
 また 政治的スローガンも アフォリズムの応用だったろう
  そう プロパガンダに 使われる政治的な
   それゆえ 洗脳的な コピーライトだ
だが その黒塗りの190×190㎜の 正方形をした函には
 ラテン語で 「Credo,quia absurdum.」と
  印字されてある
と そのラテン語は 「不合理ゆえに吾信ず」という書名の
 ラテン語訳であるらしい
<謎>は ほぼその作家の 処女作と言ってよい作品から 仕掛けられてある
 その 詩集のやうな アフォリズム集の 第1句は かう始まる

「賓辞の魔力について苦しみ悩んだあげく、私は、或る
  不思議へ近づいてゆく自身を 仄かに感じた。」


「賓辞(ヒンジ)の魔力」??ヒンジとは 主語(主辞)に対する
 述語のような 客辞 ことばである
 大事なお客様を 主賓 貴賓と言う あれだ

それは かう言い換えられる
「??私が 《自同律の不快》と呼んでいたもの、
  それをいまは語るべきか。」


ふいに 唐突に それは かう続く
「??さて、自然は自然において衰頽(すいたい)
  することはあるまい。」


これらの アフォリズムは 刑務所内の 独房の壁と 長い時間 
 ダルマ法師のやうに 面壁することによって 編み出されたものである
そして それらの 悪魔的とも思える 警句を 書き連ねることで
 美しい横顔をもつ 般若豊青年は 転向し 文学的出発を とげた
  とはいえ その 内容は ドストエフスキーのやうに 長大で
   シュテネル(シュティルナー)の やうに 哲学的だった
この 奇妙な 超絶した ポジションを 戦後文学に しめる
 作家は しばしば このようなことばを 吐いた
 革命家は しばしば 幻視者であり 幻視者は 永久革命家である と。
 埴谷雄高のこの ことばは <革命>を
  権力奪取の政治革命以外のものへと 解き放ったものだった!
   アルチュール・ランボーは 同時に カール・マルクスでもある
   と 断言するような 驚きに みちた ことばだったが
    60年代のなかば 革命中国で 毛沢東自らが 指導する
   「文化大革命」がおこったとき 埴谷雄高の 正しさは 証明された



光速疾走者の悲哀、または精神のリレー/埴谷雄高(2)

2009-07-05 00:09:00 | ブンブク文学/茶をわかせ!
「賓辞(ヒンジ)の魔力」とは 「自同律の不快」とは
  私は……私である…… と断定する時に
   主辞(主語)である 私は…… と
    客辞(客語)である 私である……の あいだに
  無限の それこそ 跨がりきれぬ程の
   切り裂かれた 深淵を 見てしまうことを 言う

ぼくらは 打ちのめされた!
 高踏的で 悪魔的な その アフォリズムは
  ひねくれもので アウトサイダーな ぼくらに
   ぴったりに 思えたから……
それらの ことばたちは 宙を漂い
 深夜ジャズ喫茶の 紫煙の なかで 女たちを煙りに巻く
  「深夜叢書」 だったからに ほかならない

そして 昭和20年 終戦のその年から 書き続けられた
 未完の大作 『死霊』だ
  ぼくらは 一般には 「しれい」と読まれているらしい書名を
   「しりょう」と 読み その書名を 口にするたびに
  曰く言いがたいものを 口にした時に そうするように
   一旦 口をつぐみ 目配せした
ボクが 本当のことを 口にすれば 世界は 凍るだろう??
 そう 詩に書いた ひとりの 傲慢な詩人は
  その『転向論』において いわゆる「非転向者」さえも
   日本的伝統において 転向したと 切り捨てた
 その 詩人にして 埴谷雄高の『死霊』は 畏怖すべきもので
  ただ その一冊で 戦後文学に 拮抗している と 書く

「ぼくはぼくの力の所有者である。ぼくが自分を唯一者として知る時にせうである。
 唯一者において、所有者そのひとさへも彼の母胎である創造的虚無に帰る」
「そこでぼくは言うことができる。/ぼくは何物にも無関心だ。」

 (スティルネル『唯一者とその所有』)

若き 埴谷雄高は シュティルナー(スティルネル)に 読みふけった
ドストエフスキーの 『大審問官』の 『悪霊』の
 絶対の 対話(ダイアローグ)に 学んだ……

そう 小説こそは 「どこにもない だれでもない」(nowhere,nobody)
 想念の 純粋実験が 可能な 想像力の空間だった
そのような どこにもない空間で
カントの 「われ思う ゆえに われ 在り」を 検証する試み
 それこそが 「貧辞の魔力」であり「自同律の不快」に
  とらわれたものの 務めだと 決意した
言い換えるならば 小説は その虚構の世界において
 壮大な 「妄想の実験場」 に化したのだ

??《ロマネスク。そは絶望の反語なるか。》

おう、そうでありながら その長大な構想の ロマンは
『近代文学』誌に連載第1回目が 掲載されたのが
昭和20年 結核による病の床に あったため3章で中断
昭和24年に 第4章が 発表され
 それから 25年余たって 昭和50年に 第5章
晩年の 平成7年(95年)に 第9章まで 至って未完に終わる
 実に 50年の時間が 費やされた 長篇小説だが
   物語は わずか 五日間の 出来事なのである
 五日間に 50年という 時間が 費やされ
  そして その 構想の 壮大さに ついに完結することが なかった

いや 違う!
生涯 子どもを つくることを 拒否した
 思想家 いや 夢想家 埴谷雄高は
 「精神のリレー」として この長大な 物語の
  完結を ひそかに どこかの 誰かに 託したのではないだらうか?

人間が 自由意志で 選択できる行為は
 自殺と 子どもをつくらぬことだ と
  看破した
(そのため 妻となった もと築地(つきじ)小劇場の
  女優だった 敏子に 幾度も 堕胎を 強要した)
何故なら 子どもと 言うものは
 親の思想を 受け継ぐことはなく
   どこかの 他者の 思想を 受け継ぐものだからだ
また この考え方は 少なくとも
 現代の 遺伝学では 証明されている
子どもは そして おんなは
 自分とは 遺伝的に 遠い存在を選択するように
  プログラムされた DNAを 持っている!
(そして 埴谷雄高の 思想と 格闘して
  「般若」のこころを 切り捨て
   <希望>としての子をもった ぼく自身が
    実感して 会得したことだ)

ユタカ(雄高)は 自分の作品が 三千世界に 架橋する
 デモノロギイ(悪魔学)の 渇望(かつぼう)に
  依拠するものであることを あるところで 明かした
それは 偉大な 神話の構築だったろう
「物質の未来」を 「存在の革命」を
 構想する 稀有な 神話??
  そこでは 人間は みな死に絶え
   動植物や 万象の ひとかけらと なって
    ホトケや ときに カミとして ともに 新しい
「宇宙」の 「創世神話」を 語り つくってゆくのだ
 文学の ニルヴァーナ 涅槃
  あたらしい 「涅槃図」
  現代の 「偉大な経典(マハー・スートラ)」
   としての マンダラ宇宙!

この 宇宙の どんづまりは すべての
 思想 思念を 無用なものとし
  もはや ことばでは 語れぬものなのか?

ハ、ニ、ヤ、ユ、タ、カ
 この 智慧という 意味をもつ
 「般若」は 光速で 疾走したものが
  寂寥(せきりょう)感に さいなまれながら
   宇宙大に 膨張する
   あの アンドロメダ星雲 M31の
    住人だったに ちがいないのだ!

  (未完)

 埴谷雄高:1909年12月19日生まれ~1997年2月19日死去。享年87歳。その命日は「アンドロメダ忌」と名付けられている。



E.G.P.P.丸8年目。Step96を開催。

2009-07-04 17:46:14 | コラムなこむら返し
Egpp_step96 ほんとにうかつだった。いくら、埴谷雄高という文学者がマイナーでも、こうまで知られていないなんて、あなたたちはTVの見過ぎで芸のないタレント、ゲイ人の顔ばかり見て「時間泥棒」されているんじゃないですかと、お叱りを飛ばしてやりたいくらいだったが、そこはほら、一応お客さんでもある訳で、グッと我慢して笑顔で演目を変更しましたとさ(笑)。

 光速疾走者どころか、高速失墜者じゃないかというお叱りも、本当ならあってもいいはずなのだが、だれもハニヤユタカという文学者を知らなかった。太宰治はあれほど知られ、いまだ人気作家と言えるほどなのに、同時代を生きた戦後文学の重鎮はかくまでも知られていないのだろうか?
 ま、吉本隆明を説明するのに吉本ばななのお父さんという言い方をしなければならない、この平成の時代、気分はけっして平静ではいられない!

 というか、この日、実はかっては相方でもあったガンジーがフルート吹き(普珂さん)とダンサー(サリー)を連れて久方ぶりに遊びにきたので、演目を変更したということもあった。
 そこはそれ、ライブなんですから空気を読んで自在に変更する訳です。実際、これもまた若い人たちには関心事ではないのは明らかだが、ジョン・コルトレーンの42回めの命日がまじかに迫っていると言うこともある(7月17日)。

 それにこの日、ボクが寸前まで書いていたこの日のテーマに設定した埴谷雄高へのテキストは、散文ではあっても詩ではなく、ブログで披露するのははじめての試みかも知れないが(ボクはこれまでE.G.P.P.でリィデイングしたポエトリーをテキストとしてブログに載せたことは一度もない)、この「風雅遁走!」に例外的に発表し、この日はガンジーたちとのセッションを楽しもうと考えた。

 さらに言えば、この日は珍しく(笑)ボクをいれてエントリーが15人、純粋観客も数名。さらに、「水族館」のマスターのサラリーマン時代の元同僚が飲み会をやっているという、実に賑やかな雰囲気の中ではじまった。つまり時間が押してしまったのだ。

 ま、結果としてもコルトレーン追悼で正解だったんじゃないだろうか?
 で、この日やったものは「チェイシン・ザ・トレーン」で、4年ほど前、関西ツアーをやったとき、京都『ろくでなし』でやった演目で、E.G.P.P.でははじめて披露しました。
 埴谷雄高を楽しみにしていた方ごめんなさい! って、だれもいなかったんだが……(爆)!

 この日はE.G.P.P.100の開催96回目で、つまり丸8年が過ぎました。う~ん、感慨もひとしおですが、明けのこの日は感慨よりも眠気と戦っていました(笑)。

 3日のエントリー者。
 1.Bambi 2.腐ったみかん 3.のんべ 4.よねやまたかこ 5.ココナツ 6.ミキマドカ 7.すみよしみく 8.おもとなほ 9.さとやんと愉快なダザイ(コンビ) 10.梓ゆい 11.ガンジー(Sax)、鶴川普珂(flt)、サリー(Drm,Dance)、フーゲツのJUN(Poet)
 (MC)フーゲツのJUN、梓ゆい
 幕間に、木霊クンの「ヤポネシア秋分祭」の告知と(ボクも出演します)、E.G.P.P.の裏番長(mcの梓さんが名付ける)13号倉庫さんの「講評」がさしはさまれました。しかし、13号さんのアドバイスはなかなか適確です。

 次回Step97は変則開催で、8月12日(水)です。お間違えのなきよう。