二度にわたるタヒチ行き、その二度目はマルキーズ(マルケサス)諸島のひとつでゴーギャンはそこに骨を埋めることになる。ゴーギャンのキリスト教徒風の墓石の上に、奇妙な彫像をひとは見い出すだろう。それはゴーギャンの希望でそこに置かれたのだが、クリスチャン風の墓にはマッチしないおどろおどろしいまでに土俗的な彫刻だ。まるで、タヒチの原住民によるプリミティヴ・アートかと思えるその彫像を彫ったのは、ほかならぬゴーギャン自身だと知ればひとは驚くのではないだろうか?
それが「オヴィリ」と題された彫像だ。実は、1987年の『ゴーギャン展/楽園を求めて』』にも展示されており、見ているのだが、今回の方がより強烈にボクに迫ってきた。
ゴーギャンのキリスト教的には、異教信仰であり、唯一神にそむく涜神行為であったプリミティヴなものを探究する志向は、絵画作品よりむしろ彫像や、版画作品(『ノアノア』など)の方が見事に成功しているようにボクには思える。油彩絵の具を介しての表現より、ゴーギャンがその無骨なまでの太い手で直截にマチエールへ立ち向かったこれらの彫像や、版画の方がよりゴーギャンが目指した「野蛮」や「原始的なるもの」を表現している。
ゴーギャンはたとえば、そのアトリエ兼住まいだった小屋を手すさびのやうに彫刻や、レリーフで飾った。それらの多くは後になんの価値もないものとして小屋を貸したもの、他人の手に渡ってから捨てられたらしい(またその葬儀の際に、焼却処分された!)。これは、ある意味、ゴーギャンの彫像作品が「無名性」に達していたことを表わすのではないだらうか?
「オヴィリ(Oviri)」(「野蛮人」「野蛮なるもの」を意味するタヒチ語)は、第一回目のタヒチ滞在から帰国していた1893年頃、タヒチ滞在記として書き始めた『ノアノア』と同じ時期にパリで製作された。おそらく、それまで「あくがれ(憧れ)」の次元であったタヒチや南方や、楽園への憧憬が、ほかでもないゴーギャン自身の内なるソヴァージュつまり「野生」や「野蛮」であることに気付くきっかけになった作品だらう。
この木彫の風合いを持つ彫像は実は着色石膏製だが、ブロンズで複製されゴーギャンの墓に飾られたものもそのひとつだ。「オヴィリ」は同じタイトルをもつ版画作品や水彩デッサンが残っているが、版画と同じ構図の『偶像』(1898年)と言う油絵もある。「オヴィリ」のオリジナルも静岡県立美術館収蔵で日本にある(現在は『ゴーギャン展』会期中は東京国立近代美術館に貸与中)。
私たちはどこへ行くのか?
まぎれもなく西洋人で、文明人であり植民地本国人であったゴーギャンは、ゴーガン(傲岸)でエゴイステックだったとは言え、その探求の先に19世紀と言う同時代のパラダイムを超えていた。その出自からディアスポラだったゆえにか、反植民地主義の中から生み出されたきわめて今日的な「クレオール」という問題意識を先取りしていたやうにボクには思える。
もっと言えば、ポール・ゴーギャンは南太平洋上のタヒチで、「悲しき南回帰線」を体感していたのかもしれない。野生の思考(パンセ・ソヴァージュ)、野蛮人の世界観??とりもなおさずその世界を獲得する智慧とも言うべき生き方、神話を生み出すやうな生活??ゴーギャンはそれに気付いた最初の人間、画家だった。
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか??その命題は、ゴーギャンにとってはアンチ・キリストの反措定だったと言うことを指摘しておこう。
<写真>「オヴィリ(Oviri)」(1894~5年)静岡県立美術館収蔵
それが「オヴィリ」と題された彫像だ。実は、1987年の『ゴーギャン展/楽園を求めて』』にも展示されており、見ているのだが、今回の方がより強烈にボクに迫ってきた。
ゴーギャンのキリスト教的には、異教信仰であり、唯一神にそむく涜神行為であったプリミティヴなものを探究する志向は、絵画作品よりむしろ彫像や、版画作品(『ノアノア』など)の方が見事に成功しているようにボクには思える。油彩絵の具を介しての表現より、ゴーギャンがその無骨なまでの太い手で直截にマチエールへ立ち向かったこれらの彫像や、版画の方がよりゴーギャンが目指した「野蛮」や「原始的なるもの」を表現している。
ゴーギャンはたとえば、そのアトリエ兼住まいだった小屋を手すさびのやうに彫刻や、レリーフで飾った。それらの多くは後になんの価値もないものとして小屋を貸したもの、他人の手に渡ってから捨てられたらしい(またその葬儀の際に、焼却処分された!)。これは、ある意味、ゴーギャンの彫像作品が「無名性」に達していたことを表わすのではないだらうか?
「オヴィリ(Oviri)」(「野蛮人」「野蛮なるもの」を意味するタヒチ語)は、第一回目のタヒチ滞在から帰国していた1893年頃、タヒチ滞在記として書き始めた『ノアノア』と同じ時期にパリで製作された。おそらく、それまで「あくがれ(憧れ)」の次元であったタヒチや南方や、楽園への憧憬が、ほかでもないゴーギャン自身の内なるソヴァージュつまり「野生」や「野蛮」であることに気付くきっかけになった作品だらう。
この木彫の風合いを持つ彫像は実は着色石膏製だが、ブロンズで複製されゴーギャンの墓に飾られたものもそのひとつだ。「オヴィリ」は同じタイトルをもつ版画作品や水彩デッサンが残っているが、版画と同じ構図の『偶像』(1898年)と言う油絵もある。「オヴィリ」のオリジナルも静岡県立美術館収蔵で日本にある(現在は『ゴーギャン展』会期中は東京国立近代美術館に貸与中)。
私たちはどこへ行くのか?
まぎれもなく西洋人で、文明人であり植民地本国人であったゴーギャンは、ゴーガン(傲岸)でエゴイステックだったとは言え、その探求の先に19世紀と言う同時代のパラダイムを超えていた。その出自からディアスポラだったゆえにか、反植民地主義の中から生み出されたきわめて今日的な「クレオール」という問題意識を先取りしていたやうにボクには思える。
もっと言えば、ポール・ゴーギャンは南太平洋上のタヒチで、「悲しき南回帰線」を体感していたのかもしれない。野生の思考(パンセ・ソヴァージュ)、野蛮人の世界観??とりもなおさずその世界を獲得する智慧とも言うべき生き方、神話を生み出すやうな生活??ゴーギャンはそれに気付いた最初の人間、画家だった。
我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか??その命題は、ゴーギャンにとってはアンチ・キリストの反措定だったと言うことを指摘しておこう。
<写真>「オヴィリ(Oviri)」(1894~5年)静岡県立美術館収蔵