風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

縄文杉に加えられた野蛮な行為

2005-05-31 14:45:25 | トリビアな日々
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屋久島の山中に一人の聖老人が立っている
齢(よわい)およそ七千二百年という
ごわごわとしたその肌に手を触れると
遠く深い神聖の気が沁み込んでくる
(「聖老人」山尾三省)

1977年その終の住処を、五日市深沢から屋久島の廃村同様だった白川山に定めた山尾三省が、その島にまるで歴史時代はおろか神話時代(神代)にまで遡るほどのおそらく地上最長齢の生き物といえるだろう「縄文杉」の存在を島人から教えられた。いや、正確にいえば人伝えに教えられた「縄文杉」への畏怖の思いが、三省を屋久島へ導いたらしい。ある日、三省は「岳杉」と呼ばれていたその神代からの杉の声を聞く。入植してのち奥岳に足を踏み入れ、半日以上の時間をかけて訪ねて行った折に、その老いたる「巨樹」聖老人は三省に語りかけるがごとき、時代を越えた神聖なるものの気配を伝えたに違いない。
1978年に書かれたこの「聖老人」という詩がその感動と、縄文杉の気配を伝える。

その10年後、1988年に屋久島に行ったボクは、三省とともに5時間あまりを歩いてこの「聖老人」に会いに行った。その時は、三省は野草社が主催する「野草塾」の講師のひとりとして参加し、道々ボクは三省と新宿時代の思い出などを語った。ボクは「野草塾」の参加者ではなく、ともに付いていったのは偶然と石垣さんの好意によるものだった。
かって、そこから屋久杉を大量に運び出した林道鉄道の軌道の上を延々と歩いて、原生林の気配が漂う森の中を歩き、道々大王杉や、夫婦杉、そのウロになった内部から清らかな湧水を湧き立たせているウィルソン株などを経巡りながら、到着した縄文杉はまるで慈悲深い、考え深そうなゴツゴツとした樹皮を老人の皺のように浮き立たせていた。表皮のコブが老人の悲哀に満ちた顔を連想させる森の中に佇む巨大なトルソーの様に見えた。

当時、徐々に増えてきた観光客から根を守るため木材チップは敷き詰めてあったが、縄文杉の根元に腰掛け、その木肌に手を置いて聖老人と対話することは、まだ許されていた。
三省は縄文杉の木の根に腰掛けて、嗜好品である「チェリー」を吸った。そうか、「しんせい」や「あさひ」のような両切煙草ではなく、フィルターのついた「チェリー」なんだ、と印象に留めたことを覚えている。その次の日、ボクは三省の住む白川山を訪ね、三省の庵(いおり)のような家に行った。目の前の白川で、真っ裸になってその清らかな冷たい流れで水浴した。

その、聖老人、縄文杉の樹皮を12カ所にもわたって引きはがした何者かがいた。畏れを知らないやつというより、この杉の長い生命と叡智を理解しない馬鹿者だ。たかだか長生きしても70か80のお前の生命の百倍以上も、この世を、この地球を、この星の変動を見てきた者への畏れと敬いの念も持てないなんて!

もちろん、ボクたち人間と言う同じ同胞は何千年も生きてきた(屋久杉は千年以下の樹齢の杉を「小杉」と呼ぶ!)屋久杉をこれまでも伐採し、搬送し、換金してきた。屋久杉はいまもそうだが、テーブルひとつとっても目の飛び出るような値段が付いている。間伐目的や、倒木以外は利用できなくなり希少性が高まって大変高価なものになっている。
「屋久島を守る会」の兵頭さんたちの努力や、詩人としての三省のアピールもあって、屋久島はその特異で自然の豊かな島だと言うことが、世界中に認知され、1993年に「世界遺産登録」されて久しい。そして、1966年に発見されてからさほどの時がたった訳でもない「縄文杉」は、この島にのみ群生し、原生林を作っている屋久杉をおさめ統べるものに祀りあげられ、豊かな島の象徴のように観光ポスターにまで登場することになった。
それこそ、「聖老人」にとっては、その長き静かな眠りから突然、揺り動かされ目覚めさせられたようにスポットライトが当たってしまったのだ。
押しかける観光客によって踏み荒らされ、根を痛めつけられないように縄文杉の前には、観賞テラスが作られ、直接、手に触れたり木肌を味あうことはかなわぬことになりつつあった。

林野庁は樹木医を、派遣し現地調査をした。所見によれば、樹皮がはがされたところから菌が侵入して、腐るおそれがある、と言う。樹木医は30日から、6月1日まで、三日間現地に留まり、応急処置を施す。林野庁屋久島森林管理署は、傷口が腐るとそこからシロアリが寄生するなどして危険だとコメントした(朝日新聞5月29日社会面などWEBニュース多数)。

まだ見ぬ縄文杉の生い繁るこの島で
わたくしはひともとのすみれの花となろう
縄文杉の森を飾る すみれの花となろう
(「すみれほどの小さき人に」)

このように「聖老人」に憧れ、うたった三省はかの地で潰えた。きっと、これからも生き続けるだろう縄文杉に守られ、その森をたたえるすみれの花のような存在であって、自分は幸福だと思ったことであろう。
三省は、その死に及んで希望を、メッセージを残して旅立って行った。神田川のふもとで生まれ育ち、清らかな白川のそばで死んだ三省らしい希望の原理だった。

すべての川を清流に!

そして三省は、昔の仲間であったゲーリー・スナイダーとの対話の中で、それが「生命地域主義」(バイオ・リジューナリズム)というゲーリーの到達点と、寸分の違いもないことに気付かされる。森をも大きな水源と考えれば、まさしく「流域の思想」であり、慈悲に満ちた法華経の世界でもある。縁といい、関係性といってもいいが、大きな大きな流れの中に、わたしたちのすべては存在し、生かされ、物質は輪廻してゆく。

まだまだ、三省が望み希望したその道を実現させるには遠い遠い旅程の中で、聖老人、縄文杉に加えられたこのような野蛮な行為は、ボクをそしてわたしたちを、なによりも三省の霊魂を悲しませたことだろう……。

三省! 許してくれ。ボクらのひと皮むいた本性がまだまだこのように野卑で、野蛮な生き物であることを!
水がすべてのものを浄化してくれるようには、ボクらはこれまでこの星を汚し、汚濁させることをしかしてこなかったようだ。

この星に棲むひとびとすべてが、己がなぜこの星に生まれてきたのかに気付き、覚醒する大いなるその時まで、わたしたちはわたしたち自身が生み出した汚物にまみれ続けるのかもしれないね……(そして、その「大いなる時」が訪れると言う保証もないのだよね)。

南無浄瑠璃光
天と地の薬師如来
われらの病んだ文明を癒し給え
その深い青の呼吸の あなたご自身を現わし給え
(「祈り」)

※引用した詩はすべて山尾三省のもの。写真は「聖老人=縄文杉」の全景。


E.G.P.P. 100(One Hundred)/東京ポエトリー・ルネッサンス!

2005-05-30 01:07:47 | イベント告知/予告/INFO
egpp100
★2001年からはじまり荻窪(01.8~03.8)、池袋(03.9~05.5)に至る4年間。のべ46回のオープン・マイクのイベントを作ってきました。そのすべてが赤字、持ち出しだったとしてもこれは、ボクの表現の鍛練としても財産です。
(第1回の開催が、あの9.11のひと月前であってみれば、21世紀のあらたな恐怖のはじまりとともに、忘れがたいイベント名が、最初の「Free Song,Free Speaking! 自由へ!」でした)池袋の地へ移って、さらに2年。これが池袋EGPP(East Gate Poetry Park)でした。
ここに、ふたたび放浪するイベントであったEGPPは、新大久保と言う無国籍地区であらたな東京ポエトリー・ルネッサンスの種をまいていきます。

新しい開催名は「E.G.P.P./100(One Hundred)」。
100回までやるという意気込みでやります。とはいえ、通算で第1回めが、STEP47にあたるという2001.8からのオープンマイクの経過をふまえたものという位置付けにします。
それに、開催場所が、新宿区百人町です。江戸の昔に百人同心の鉄砲隊が住んだところ。現在はコリアン、チャイニーズ、マレーシアなどの在住外国人がたくさん住むところです。みんなともだち百人作ろうか! そして百人の詩人となろう!
あらたな東京ポエトリー・ルネッサンスは原点である新宿に戻り、新大久保のアジア的な場所の一画で行われることになりました!

  ◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

2005年6月3日(金)※第1金曜日に定例開催
【オープンマイク・イベント】
E.G.P.P.100(One Hundred)/東京ポエトリー・ルネッサンス!/Opening Act!
『オープニング・アクト!』
(ゲスト)ねたのよい(サイケデリック・ロック・バンド)、黒田オサム(サポート・ドラムス:春田祐介)、ガンジー(Sax)、フーゲツのJUN他

※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs
オルガナイズ/進行:フーゲツのJUN
開場18:30/開始19:30
参加費:1500円(1Drinkつき)
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1F)
問:03-3362-3777(水族館)地図はここ→http://bsn.bbzone.net/suizokukan/
主催:電脳・風月堂http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/
問い合わせ:フーゲツのJUN fuugetsudo@yahoo.co.jp



「みゆき族」のいた銀座/1964(2)

2005-05-29 01:54:28 | まぼろしの街/ゆめの街
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「みゆき族」の中心は女性たちである。たしかに男たちは、当時流行しはじめていたVANのIVYファッションを崩し、今風に言えばダサオシャレ気味に着こなしていたが(VANジャケにツンツルテンの細身のズボンやマンボズボン、バミューダパンツを組み合わせた)、女性たちは異様に長いスカートをはいて、大きなリボンベルトを後ろ手にしめ、スカーフを頭にまいてほぼ一見パンパンルック風の崩しのカジュアル・モガファッションだった。

50年代の終わりから、盛り場にはフランスの実存主義スタイルに影響され、さらに「怒れる若者たち」や「ビートニック」の影響をとりまぜた「反抗的」そして「不良」の文化が少しずつ営まれはじめていた。俗に言う「アプレ世代」の中の不良グループだ。「刹那的」で、快楽とスピードを追い求め、向こう見ずで今日と今という時間のみを生き、明日は知らないとウソぶくスタイル。それは、大戦後の空腹と空虚の中に生まれた世界中に共通する若者像であったのだ。
このような「アプリ(アプリゲール)世代」の中の不良グループのお坊ちゃん、お嬢さまの中から(慎太郎取り巻きグループの)「太陽族」や、六本木「野獣族」などが生まれた。

50年代の終わりにのちにヌーヴェルバーグに影響を与えた中平康(「狂った果実」1956、「月曜日のユカ」1964など。この監督の風俗への影響力はとても大きいと考える)や「太陽族」映画が作られ、若者に生き方のスタイルを学ばせた。時に時代は、三井三池炭坑の大闘争を経て、60年安保の騒然としてきた世の中にあった。労働運動は高まっており、歌声喫茶も全盛だった。歌声喫茶は当初、日本共産党系の青年運動(民青)の呼び掛けからはじまって、燎原の火のように、全国に波及し「灯(ともしび)」などによって喫茶店や、酒場で歌われるようになったものだ。
さらに、この頃から東京の風景は一変した。東京オリンピックを射程においた首都高速道路が開通し、東京はハイウェイ都市となる。オリンピックのための突貫工事が、都内中の道路を掘り返し、新宿には駅ビルも完成する。オリンピック関連の施設も次々とモダンなデザインで出現し、戦前の面影を残す街並は容赦もなく壊され、高度成長と言う怪獣が徐々に顔を見せてくる。
がむしゃらに突進するエコノミック・アニマルのスタイルは風景だけでなく、人心も荒廃させていったからだ。そのツケが70年代に公害という形で露呈するまで、がむしゃらな経済成長優先論がはばをきかせ、貧富の差は拡大していく。みんな貧しかった時代からとてつもなく醜い、世界中で嫌悪された日本人像が生まれていくのだ。
「みゆき族」の出現はそのちょうど端境にあった。

「みゆき族」が銀座の一画を占拠した1964年。この年、奇しくも「セックスとカー(自動車)とモード(メンズ・ファッション)」を三大テーマにした『平凡パンチ』が創刊される(創刊号は5月11日付。毎週金曜日発売。50円)。『平凡パンチ』は、若者にライフスタイルを提案した。それが、いいか、悪いかはともかく、当時では、とびっきりのアメリカンそしてヨーロピアンなグッズや、アクセサリーなどをカラフルな写真で見せていった。ヌード写真や、セックスについての記事さらには風俗レポートなど、その後に追従する若者向け週刊誌のスタイルを『平凡パンチ』は作った。そして、そのようなコンテンツ記事を大橋歩のイラストでおシャレに飾った。それは、グーの根もでないほどイカシてた。まるで、ダンモ(モダン・ジャズ)のレコードジャケット(とりわけブルーノート)のようにカッコよく、都会的な若い男の生活スタイルを指南していったのだった。
(写真は中平康「月曜日のユカ」1964。モノクロ。加賀まりこ主演)


「みゆき族」のいた銀座/1964(1)

2005-05-28 01:09:38 | まぼろしの街/ゆめの街
VAN_logo「「VAN」を着て銀座に集まる若者を称する「みゆき族」という流行語も生まれた。」(毎日新聞WEBニュース)
「ブレザーやボタンダウンのシャツに白靴下の「アイビールック」は、東京・銀座に集まる「みゆき族」を生み出すなど、その後の若者風俗にも大きな影響を及ぼした。 」(朝日新聞およびasahi.com)

故石津謙介さんの経歴に書かれた上のくだりは、どのような事実誤認なのか?

ボクのほぼ同世代にあたる「みゆき族」は、一企業に仕掛けられるほどヤワな「族」じゃなかった。ただ、彼らはこれは今の若者にも共通することだが、ブランドのロゴやデザインに、異様に敏感で「VAN」の書体の黒と赤のロゴ(真ん中が赤で、チャコールカラーの袋に印刷されていた)をイカス!(カッコいい)と思った連中なのだ。イカシた安手のグッズを、自分たちの存在をアピールする手段に使った。まことに正しい「族」的表現である。

だから、同時にコーヒー豆の麻袋にトロピカルなエキゾシズムを感じてイカスと思い(「麻」製というところに無意識の鋭敏さを感じるのは、現在だからか?)、タダ同然だった麻袋を喫茶店や、コーヒー豆の卸業者にもらいに行った。コーヒ-豆の麻袋に印字されたロゴやデザインに美を見い出した最初の世代であり、これはVANジャケットがIVYリーガーのエンブレムにこだわったのと似て非なるものである。むしろ名門大学のエンブレムよりコーヒー豆の麻袋には、コーヒー・プランテーションや港湾荷役人夫として肉体労働に従事する黒人たちに寄り添うような面がありはしないだろうか?

きっと、このような感性が培われた背景には、ハリー・ベラフォンテが歌った「バナナボート」(日本語カバー:浜村美智子/1957年)や「コヒールンバ」(西田佐知子/1961年)などのカリプソ・ソングのヒットが大きいとボクは見ている。季節は初夏、トロピカルな雰囲気がぴったりだった。競い合うように奇抜な取り合わせを考え、それが翌週には皆の流行となっていた。そして、意味なく、無為をかこつて銀座の「みゆき通り」というストリートにたむろい、麻のズタ袋やフーテンバックを小脇にかかえてたたずみナンパをし、仲間を作っていった。そんな若者たちをマスコミが「みゆき族」と名付けたのだ。
1964年の夏にピークを迎え、その年の秋10月に開催の「東京オリンピック」のために、風紀上好ましくないと言う理由で取り締まられ消えていったアーバン・トライブ=「族」である(64年9月12日に「未成年の非行の温床になる」という予断的な理由で一斉補導が実施される)。
本人も書いていらっしゃるが、石津氏はこの流行は「VAN」が作ったと思い込んだ(「みゆき族」が、ロゴ入り袋なんかを持っていたため勘違いするのも無理はなかったが)銀座商工会議所および築地署に要請されて「IVY集会」なるものを銀座ヤマハホールで開催して「みゆき族」の解散を呼びかけた。これが功を奏したというより季節は晩夏になり若者たちは銀座を去って新宿、六本木などに流れたのである。
(つづく)
※写真は(株)ヴァンヂャケットのロゴであります。参考のため掲示させていただきました。


不良的雑誌の考察

2005-05-27 01:29:40 | アート・文化
tokyo_ryugiベビーブーマーをターゲットにしたマガジンたち

まったく偶然だろうが、『東京流儀』(双葉社)というあらたに創刊されたムック雑誌が「青山・麻布・広尾」を特集しており、その中に二人もの故人をかかえてしまった。表紙にもなっている宮沢りえと対談している岡本敏子さん(青山「岡本太郎記念館」にて)。岡本敏子さんは先月の20日に亡くなられた。

そして、青山三丁目の角に本社を構えた「ヴァンヂャケット」の石津謙介さんである。「VAN」は正式には「(株)ヴァンヂャケット」と表記する。ここに本社が移転してきたのは1964年で、この年は覚えておいて欲しい。「みゆき族」に関連する年である(もちろん東京オリンピックが開催された年だ)。

そしてこの雑誌はどうやら今回「大人の不良」をテーマにおいていたらしく、編集後記で編集長みずから「不良の定義」をしている。ちょっと引用させていただく。

「不良少年10箇条」
●プロフィール不明瞭
●肩ひじ張って歩かない
●レールからはみ出すのではなく、ハナから眼中にレールがない
●自分に忠実。決して自分を偽らない
●いつでもどこでも、あるがままに生きる生命力
●自分の生き方に信念
●人が決めた価値観にとらわれない
●人の目を気にしない
●無意識に人を惹きつける匂い
●老後の心配をしない
昭和の初期には白州次郎や小林秀雄など、素晴らしい不良少年がいました。本誌では今後そんな生き方を継承しつつ青山・麻布・広尾の魅力を様々な角度で取り上げて行きたいと思ってます。(編集長/田嶋栄)

おそらくこの雑誌がライバル視しているのは、あの不良中年を養成するかのようで、それでいて女性からの好感度ナンバーワンの『LEON』だろう。
そこで、思うのだがこのような不良スタイルで、ファッションやアクセサリーやグッズのオピニオンリーダー的役目を果たそうと言うそのスタイルが、『平凡パンチ』だし、「VANジャケット」の社訓だったように思ってしまうのだが、どうだろう?
『LEON』の名物編集長にいたっては「ウチの雑誌でその内面までは磨けっこない!」とサジを投げたというか、開き直っている。

かって「男の子」だった連中が、大人になり、オヤジになって多少の自由になる金をもって身の回りを飾り、ファッションにうつつをぬかして、ナンパに精をだす!?
「モテたい」という一心で、おしゃれに気を配り、オヤジ的ライフスタイルを変化させる。右も左も分からなかった「若者」だった時のように?
『平凡パンチ』によって、その欲望をギラギラさせたように、これらの雑誌にコントロールされる?

ま、そんなことはあるまいし、雑誌は売らんがためのあの手この手の「仕掛け」を画策しているのだろう。
しかし、それでもゲームやフィギアにうつつを抜かす中年男よりは、まだ「大人」だろうか?

「奇妙な時代」が近付いてきているような気がする。


「VAN」の死/石津謙介さん逝く

2005-05-26 00:39:08 | トリビアな日々
punchDX_1「VAN」ジャケットの石津謙介さんが24日に亡くなった。93歳だったという。いや、ボクは当然、「JUN」派(笑)だったからVANには思い入れはないし、それに第一アイビー(IVY)・ルックが大嫌いだった。しかし、「メンズ・ファッション」というジャンルをこの国で打ち立て、おしゃれや持ち物と言うかグッズに気を使うと言う消費型男性(!)を生み出した功績は否定できないだろう。

実は、VANジャケットは現在も1着持っているのだが、これはあまりに着るものを持っていないボクを哀れんで、友人がくれたものである。その優しさゆえに未だ、大事に所持している(大橋さん、ありがとう!)。

当時の広告を探してみた。「デラパン」と略称していた「平凡パンチ・デラックス」(週刊誌だった『平凡パンチ』の増刊号で、隔月刊だった)が見つかった(写真参照)。左が、1968年JANUARY(通算15号)、右が1968年DECEMBER(20号)である。ともに「punch mode show」というコーナーだが、完璧にVANの協賛広告頁である。
髪をきれいに七三にわけ、ブレザーコートとフォーマル・ウェアーで決めている。下の記事にあるが、黒のタキシードと白のタートルネックが新しい!と提案している、たしかに、ジャケットとタートルネックのカップリング自体ははやったが、その組み合わせは50年代の実存主義(サルトル世代と言った方が早いかな)ファッションでもあった。よく、共産党のオルグ担当の党員なんかもやっていたような気がする(笑)。
ボリス・ヴィアンや、ジュリエット・グレコが一番似合って(若いひとは知らないかもしれない)ファッションリーダー的だった。当のサルトルが、実存主義ファッションをしている写真はボクは見たことがない(笑)。

「VAN」は1978年に多大の負債をつくって倒産、現在のブランド名「VAN」は身売りされたものである。
ところで、ネットでも新聞の訃報にも書いてあるこの下のくだりには、ボクは異義がある。事実誤認であると思われる。

「「VAN」を着て銀座に集まる若者を称する「みゆき族」という流行語も生まれた。」(毎日新聞WEBニュース)
「ブレザーやボタンダウンのシャツに白靴下の「アイビールック」は、東京・銀座に集まる「みゆき族」を生み出すなど、その後の若者風俗にも大きな影響を及ぼした。 」(朝日新聞およびasahi.com)

このくだりの異義については、明日書くことにしよう。

ともかくもメンズファッションの仕掛人で、起業家でもあった石津謙介さんのご冥福を祈ります。


カラバオ@福岡アジアマンス/1997(再録)

2005-05-25 01:47:38 | トリビアな日々
carabao_01福岡アジアマンスでカラバオフィーバー

カラバオを見るために福岡に行った。サワディ氏のホームページでカラバオ初来日を知り、福岡市のホームページにアクセスし、今年で8回目になるという『アジアマンス97』の中の「アジア太平洋フェスティバル」にカラバオが出演し、それもフリーコンサートである事が分かってこれは行かねばなるまいと考え夜行バスに飛び乗った。いってみれば、バンコク北バスターミナルからコラートに行くようなものだった。

そして、その行動は「プレーン・プア・チーウィット」(生きるための歌)のジャンルが好きでカラワンの結成20周年記念コンサート(94年11月・日仏会館およびバデイ)も手伝った僕が決定的にカラバオの支持者(要するに大ファン)になる契機になったというべきだろう。

 

カラバオを初めて見たその夜は、興奮していた。

那珂川の川風も、屋台のラーメン屋も、どこかアジアのかおりを持った港町??博多には似合っていたが僕の興奮を静めてはくれなかった。

こうして、カラバオを見るためだけに東京からやって来たことや初めて見るカラバオの最高のステージを誰かれなしにふれてまわりたかった。

カラバオが解散したバンドとはとても思えない。現に自分たちのレーベル「カラブウ」から、これまでのすべてのテープをCD化するとともに新しいCDまで出しているではないか!

(この冒頭2曲が今回のコンサートでも歌われた。あとで触れる)

福岡の市民にとっては、初めて見聞きするタイの新しい音楽だろうが、東京から駆けつけた僕は、ライヴで見たという興奮もあったのだろうが目をまるくしているじいちゃん、ばあちゃんと同じだった。

ボーカルもギターもテープで聴くカラバオよりは、ライヴのそれは重みもあって迫力もありなんといってもエットはカッコ良かった。

初日(9/20)は、ソウルフラワーもののけサミット、マレーシアの可愛い娘ちゃんアルニについで、コンサートのトリをカラバオがつとめた。二日目(9/21)は、トップであった。二日間とも、構成は同じだった。さわりの2曲、新しいアルバムから2曲そして大ヒットした「メイド・イン・タイランド」などのメドレーである。

新曲の2曲は、ともにイサーン(タイ東北部)の食べものを歌った歌で、イサーン出身の労働者の郷愁をなつかしの味に託して都会(バンコク)から、歌った内容だと思われる。イサーンの味といったら、一杯やるとき欠かせないソンタムが有名だが、パパイヤなどとあえる時独特の香辛料を使う。このような内容をイサーン地方の節回しであるモーラム風に歌った歌である。思わず僕は、もはや聴く立場だけでなく両手で頭上にかかげて踊っていた(本当は、踊りに行ったという説もある)。

カラバオは、そう踊れるバンドなのだ。僕の脳裏には、懐かしいイサーンのモーラム大会の情景が渦巻いていた。アジアマンスの市役所前広場の舞台は、やぐらを組んだモラームの舞台と化し、ライトを浴びて、男女の掛け合いで歌うあのモラームだ(モラームは、主に笙とピンというタイの三味線が使われる)。

エット自身は、スパンブリの出身だが、天使の都クランテープ=首都バンコクの底辺で働く肉体労働者、底辺労働者に共感を持っているに違いない。それこそ、タマサート大学生時代に血にまみれた民主革命を担い、森に逃げ込むざるを得なかったカラワンなどと共通するメッセージ性の強い「生きるための歌」の真骨頂であろう。

僕が、昨年の6月にノーンカーイまで行った際に、立ち寄ったクメール遺跡ワット・パノム・ルンの正面には、無造作にコンクリートで象嵌されたレリーフがあった。このレリーフこそが、何者かの手によって削りとられ、後にアメリカの美術館で発見され、一時は返還要求を蹴っていたアメリカもカラバオが、アルバム「タップ・ラン」で、返還を要求する曲を作り大衆的に返還運動が盛り上がるとしぶしぶ返還したというあのレリーフであった。

カラバオの影響力??そのメッセージの強さは、馬鹿にできない。カラワンなどに比べれば、大衆におもねているといった風評もきくが、僕はエットたちカラバオの方が、カラワンのスラチャイやモンコイに比べてもその戦闘性においてひけをとらないどころか、勝っているのではないかと思っている(僕が良く行く「サワディ」という久米川のタイ料理店のタイ人のお姉さんは、カラバオはその戦闘性のために外国に出られなかったのだと言っていた)。

今回、初めてライヴを聴くことができて、その思いをますます強くした。カラバオは、その最盛期は過ぎたとはいえ、まだまだ活躍して欲しいバンドだ。
東京で、ぜひともライヴを聴きたいものである。

カラバオを、この目にして色々収穫があった中で、カラバオによる『満月(ドゥアン・ペン)』を、聴くことができたのは、意外性もあってうれしかった。『満月』は、スラナリーはじめ色々な歌手がカヴァーしているが、ぼくはキタンチャリー、豊田勇造、カラワンの『満月』はライヴで聴いている。カラバオのエレクトリック・バージョンの『満月』も哀愁に充ちて心を打った(僕は、思わず日本語の歌詞で一緒に歌っていた)。

東京くんだりから、この福岡の「アジアマンス」に駆けつけたのは、カラバオ来日に一役かった松村洋氏と僕位のものだろう。松村氏は仕事もからんでいた訳で、一般ファンとしては、きっと僕位のものだったろう。カラバオの追っかけをやった二日間であった。
                                     1997.09.28  エモリ
(このレポートはボクが『電脳・風月堂』を立ち上げる前に投稿した実質ネットデビューの文章であります。当時、bekkoameにタイ好きのサワディさんが開いていたサイトが唯一、カラバオおよび「生きるための歌」にふれたサイトであり、それに感激してこのレポートを寄せたものでありました。ボクが一番、タイにはまっていた頃であります。)



アフリカン・ビューティ

2005-05-24 02:08:27 | アート・文化
african_beauty1アフリカン・フェスタ2005(日比谷公園)にて

まるで毎週日曜日は、なにかのフェスティバルをもとめて動き回っているかのように、22日は日比谷公園で開催された『African Festa2005』(5月21~22日開催)へ行く。これは、外務省の主催で31ケ国の大使館と3つの団体(大使夫人の会、毎日新聞社、外務省)、それにアフリカ支援をしている30の草の根NGOで構成するフェスティバルである。どうも1週間前のタイ王国大使館一つで開催した『タイ・フェス』の規模の大きさと比較してしまうせいか、ボクは会場を小じんまりと感じてしまった。
しかし、女性の美しさとエネルギーでは負けていない(何を比較して、何を見に行ったんじゃと言われそうであるが……)。

ボクは正直に告白すると、黒人女性の魅力にぞっこんである。ブラック・ビューティという言葉があり、じつは同名の雑誌もあるんだが(たしかアメリカのグラビア雑誌)、それを眺めてはひとりため息をついている!
どうにもボクが書くものは、美しきひとや女性を称える文章が多い気がしてきたが、正直言ってすけべ心もあるにしても、審美眼というものにひっかかってくるのが女性たちなのである。その中でも、ハト胸、でっちりのアフリカの女性の体型が胸ときめかせるのである。

一応、自分で言い訳を考えているので聞いてもらいたいのだが(笑)、ボクは実は自己流にせよクロッキーやデッサンをしてきた。いや、絵描きという大それたものではなくマンガ家志望、およびまがりなりにも一時はマンガ家だったという自覚から始まったものだった。ヘンなハナシだが、当時、油絵を描いている知人からマンガのデッサンはデタラメだと言われたことへの反発から始まったのかも知れない。何を言ってる、マンガの基本はデフォルメだと反論したのだが、ま、それは本題からはずれるから別の機会に……。

で、クロッキーをはじめて気が付いたことがある。それは、一般的な審美眼と違ったむしろデフォルメされているような肉体(妙な表現ですね!)の方が、描き易いのだ。モデルさんは、男女問わず手足の長いスラッとした体型よりむしろズングリムックリな体型の方のほうが、画面に安定感のあるまとまったクロッキーになるのだ。
で、その中でハト胸、デッチリの体型は個人的には好みではなかったにもかかわらず美しいと思うようになったという訳である。

あいかわらず話の長い自分でありますが、かくなる理由で日比谷公園には、ボクが美しいと思い、絵に描きたいと思うアフリカン・ビューティがあちこちにひしめいておりました。また、その上、その美しい女性たちがジェンベや、ステージのアフリカン・ミュージックに合わせて腰を、胸をふりたて頭を回して踊り狂うものですから、ボクはもう目眩がするような思いをし、思わずステージなんかに駆けのぼってアフリカの人々とまじって踊っておりました!
(外務省の方、すみませんでした!(笑))


ペットボトルの再生/島尾ミホ/奥山貴宏のこと

2005-05-23 01:09:19 | トリビアな日々
okuyama_yume(承前)
こうしてみると日曜日に夕刊がないのは助かる。だってまだ昨夜の夕刊を読み続けているのと同じだからだ(笑)。

5月21日付け夕刊3面には北朝鮮で山火事と見られる煙りが発生し、それが海を越えて能登半島、新潟に流れている衛星写真が掲載されている。最近では核保有国を宣言し、プルトニウムの抽出をしようとしていると不穏な動きの隣国だ。核を切り札にしようとしているようだ。国民は相変わらず飢えと食糧難に苦しんでいるというのに……。

その隣には「ペットボトル再生」をテーマにした連載記事「見えてきた環境新技術」の(下)。ペットボトルのPETはポリエチレンテレフタレートの略称で、石油から抽出したテレフタル酸とエチレングリコールを化学反応させてつくる。BTBという異物除去の技術が出来、ペットボトルは半永久的に使用が可能となった。
2003年には、ペットボトルの回収率は60.9%であるが、現在回収業者間で奪い合い状態で、タダで日本容器包装リサイクル協会に手渡すより、金になる業者間での入札に回っている(おおよそ回収されたものの65%ほど)。その多くは経済発展を続ける中国へ売られていく!
リサイクルの世界でも、市場経済に巻き込まれてそれは売れる資源である。記事はこうまとめている。
「使用済みペットボトルはかってゴミだった。しかし、今や市場性のある商品となった。資源循環の輪がつくれる技術をうまくビジネス化しないと、環境保護には役立たない。技術の進化と、それに沿う政策の適応力が問われている」(秋山惣一郎・記者記名記事)
結局、最期の段落でサジを投げているような記事だ。リサイクル可能な資源はますます輸出されていくことになるだろう。そのうち、そしてフォロー型の生産を続けるだけの(そうであれば、再生技術やそのプラント作りに金を出費しなくとも済むのだ!)日本などは品薄になり、ペットボトル商品自体が容器代を含めて値上がりせざるを得なくなって、今度は競争力をうしなうだろう。

その下に論説委員の囲みコラム「窓」があり、石原都知事も小泉首相も花粉症で悩んでいるのだそうだ。都知事は自分が花粉症になったとたんに、国の林業政策の失敗を非難しだしたらしい。こうもどこの山々もが杉ばかり植えられたのは、戦後に手間もかからず、安い木だという理由でさかんに植林されたことによるらしい。それが、高度成長期に安い外洋材に押されて山はすっかり荒れ果ててしまった。とすれば、これはコラムの内容からは飛躍するが、杉花粉症もまた人災ということになるだろう。杉ばかりを責める訳にはいかないだろう。

5面の文化芸能欄には、久方ぶりの島尾ミホさんの写真とインタビューが掲載されている。最近、夫である島尾敏雄の『死の棘日記』(新潮社)が刊行されたことによるものだろう。しかし、今年85歳のミホさん(写真家島尾伸三のお母さん)の記憶は確かだ。
「あの前の日のことです。」とミホさんはインタビューに答えだしている。ということは、小説によれば「昭和29年(1954年)9月29日」のことということになるだろう。50年前の夫の不義(不倫)を知った日の鮮明な記憶!
自身「50年たったのに、遠い日という気がしません。」と答え、そしてこのようなエピソードも披露している。「本の最終校正ゲラを編集者の方にファクスで送り終えましたら、人の気配を感じまして、見ると島尾が正座しておりました。白地に紺の井げた模様の着物を着て、黒ちりめんの帯を締め、若々しい姿で。あらっ、お父様と呼んで、肩に手をかけようとしたら消えました。」(インタビュアー:白石明彦)

14面には、先月まで在命し、死の間際に「32歳ガン漂流 エヴォリューション」という闘病記、処女小説「ヴァニシングポイント」をあいついで出版し、ブログで「最期の血の一滴まで書き続けてやる」と宣言、「作家」として死んでいった奥山貴宏さんの記事。2001年8月21日から書き出した4年半のブログの最期の記事は今年の2月26日のその名も「孤独死」であった(ウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス・摂氏零度」の感想)。断ち切られた奥山さんの壮絶な記録と正直な心情が発露されたブログはまだここから読める。「さるさる日記・毎日更新奥山のオルタナティヴ日記/31歳~ガン闘病編」→http://www2.diary.ne.jp/user/109599/
ホームページ「TEKNIX」はこちら→http://www.teknix.jp/

作家になりたくて、作家になろうとし、作家として死んでいった奥山貴宏さんのご冥福を祈ります。
(おわり)

(写真は奥山貴宏さん。「(有)私には夢がある」のセミナースナップから転載しました。ありがとうございました。)


(番外編)即席麺と「アンダマンの涙」

2005-05-22 02:16:21 | トリビアな日々
sapnaamtaaandaman今日は、この1週間書いてきた話題の番外編と考えてもらった方が良い。でも、その話題だけではつまらないのでこの今から紹介する新聞の面白かった記事全部を「新聞批評」の形で取り上げる。
まな板にあげるのは「朝日新聞」5月21日付け夕刊である。

1面トップに「アジア・ズームイン」という連載記事が始まった。その第1回は「即席麺繁盛記(1)」である。今日はインドネシアでの津波被災地で現在、支援食糧の米、飲料水につぐ中心に即席麺がるという話題であった。華人財閥系のサリム・グループでなんと98億食を生産し、援助物資としては米ひと月12キロ、即席麺12食、缶詰め10ケを推定70万人の被災民が受けている。その中心はカレー味の「インドミー」で、ブタ肉は使用せずイスラム教徒が食することが許される「ハラル処理」をしてあるところだという(「ミー」もしくは「ミン」はインドネシア語で「麺」のこと)。
しかし、国連世界食糧計画(WFP)がこれを認定し、栄養価改善計画に取り入れていることは知らなかった。ボクらの世代が学校給食で飲んだ脱脂粉乳に当たるのかも知れない。

タイでも、被災民に即席麺が配られたが、トムヤム味が人気だと言う。先日の「タイ・フェス」でも試食コーナーがあり、ボクも試食したが、なかなか美味しかった。気になるのは添加剤や、調味料であるが……。

2面には、「カラバオ」のエートの代々木公園での演奏写真が使われチャリティ曲である「アンダマンの涙(を拭いて)」のことが、紹介されていた!
「タイでは10万枚売れた/被災者支援へ日本でもCD」という見出し。記事によるとエート(と特定されている訳ではないが曲を作ったのはエートである)が妹のように可愛がっていた女性(28)が、幼子を残して津波で亡くなったとある。1月に他のアーティストに呼びかけコンビネーション・アルバムを作ってその収益金1,300万バーツ(約3,500万円)を寄付した。来月福祉関係の会社の手によって日本版が発売されるとあった。

で、このリリックな詞の2番目の段落がなんだかエート的だなぁと思わせるのである。日本語訳では
「遭遇したことのない/見たこともない/気にかけたこともない/TSUNAMIって一体なに/そこには亡骸が残されただけ」
のくだりのところである。
じつは、エートの歌っている曲に耳をすませるとよく分かるのだが(→http://203.150.224.157/musicart/newmusicstation/karabound/tsunami.swf
「ツナミって何?/聞いたこともない/サシミ(刺身)だったら知っていたが……」
と歌っているのである!
これはおかしいとか、不謹慎だと言う次元の話しではなく、「サシミ(刺身)」という日本語がそれだけポピュラーなのだ!
でもこれはエートの持っているユーモア感覚と、ボクはとらえたい。それにこれは韻を踏んでいる(笑)!
2004年12月26日以降、「津波」は「TSUNAMI」として世界共通の日本語として「SASHIMI」以上に全世界に知られてしまった。本当に残念なことであるが……。
(ボクはこうしてる間も「アンダマンの涙」につなぎ放しにして無限に聞き続けている!)

(また長くなったので「つづき」ます(笑)! すみません!)


美しき男の子たち??タイのアンドロギュヌス

2005-05-21 01:01:38 | アングラな場所/アングラなひと
pretty_boyタイ・フェスティバル2005にて(6)

「タイ・フェスティバル」で、「カラバオ」の演奏が始まるまで会場をそぞろ歩いていた。その報告を若干してこの長々と引っぱってきた日曜日の半日(!)の報告の終わりとしよう。

ボクはジャンケンが、からきし弱い。頑張れば頑張るほど負け続ける。だから涼しい顔をしているが、実は腹の中は煮えくりかえってるということがままある。
原宿口ゲート近くで「タイ航空」のブースがあって長蛇の列が出来ている。そこではおそらくスチュワードであろうお姉さんとジャンケンをして、勝つとなにかもらえるらしい!
ボクは少し観察していた。そのお姉さんが出す手の傾向と対策をはかっていたのだ。その上でおもむろに列に並ぶ。一回勝負のジャンケンだから長蛇の列も、すぐ自分の番となった。すると、あれ! ジャンケンをするお姉さんが、傾向と対策をはかった人から変わっている!
おおい、いつ代わったんだよ! ええい、ままよ! ジャンケンは始まった。
「始めはグー、ジャンケンポン!」お姉さんもボクもグーだ。「アイコでしょ!」なんと、こんどは二人ともチョキ! 「アイコで!」ボクが「パー」。お姉さんが「グー」で、勝った! おお、あんなにジャンケンの弱いボクが勝ったのだ! 記念すべき日だ。今日の星まわりがよかったのか?
「おめでとう!」とくれたものは、タイ航空のステッカーとなにかの箱だった(タイ航空は最近ロゴの書体を変えたのだ)。箱をあけてみれば、それはタイ航空のロゴマークが入ったキーホルダーだった。乗降記念にくれそうなグッズである。しかし、チープというより、ボクはうれしかった。なにしろ、あんなにジャンケンの弱いボクがジャンケンで稼ぎ出した貴重な品物だ(!)。

それを大事後生にもって、すぐ隣のブースをのぞいたら男どもが、輪になって女の子を取り囲んで写真を撮りまくっている。下着のようなあられもない格好をしているが、もの凄く可愛い子だ! もうほとんどアイドルなみの可愛さだ!
でも周りにいる他の化粧の濃いおんなどもをみていたらボクには分かってしまった。この子が男の子であることが……。
そう、ニューハーフなんだ。タイは国際的なニューハーフというかオカマさんの美人コンテストを大々的に開催するほどニューハーフが一大文化になりつつある。それが、女性も真っ青な子がいるから、美はどっちに微笑んでいるんだか、分からなくなってしまう。

タイ人は「美人コンテスト」が大好きだ。もう、なんの批判精神もなくして(?)ただただワイワイ言いながら楽しんでいる。そこにもってしてニューハーフのインターナショナルな美人コンテストだなんて、いいな! 世界一の美しき男を選ぶなんて!

でも、この写真の子のようなレベルだったら本当にデートしてもいいな。というか、だれも男の子だとは思わないだろうから(周りでもおんなだ、おとこだと言い争ってる中年カップルがいた)デートしたいです!
しかし、こういうブースがあるということは日本にもタイ人ニューハーフのクラブでも作っているのだろうか? ぜひ、行ってみたい!
(昔、歌舞伎町にいたタイ人のおカマさんは、仲良くなったがちっとも美しくなかった。身長も高かったが! 新宿ハイジア脇にたむろっていたマレーシア人のおカマさんは、摘発されて強制帰国になってしまった。でも、仲良くなっても絶対ボクは遊ばない。残念なことに(?)ボクはヘテロセクシュアリティなんだ。女性しか愛せない!)

ビアシン、ビアチャン、プーケットビア??会場はタイビールのオンパレードだ。なんと、最終日の終わり間際にはビールは1本200円、食べ物は300~100円に大幅にプライスダウンした!
(もちろん、家にまでビールを買って帰った)

もう、最後の掻き入れ時、商売熱心でおいしいものには目のないタイ人のくらしがそこには再現されていた。屋台文化が日常のものであるタイのくらし。むしろ、チャイニーズ系タイ人がいないぶんだけ、純化されてさえ感じる(とはいえ、ボクはヤワラー地区などは大好きであることを表明しておく)。
会場の片隅には、金ピカの仏像が、タイ国王、王妃の写真とともにあった。代々木公園は二日間、見事にタイ国になっていた。

(「タイ・フェスティバル2005にて」(1)~(6)おわり)


カラバオ・ライブ・イン・トーキョー(b)

2005-05-20 01:10:13 | トリビアな日々
carabao_1タイ・フェスティバル2005にて(5)

観客は8割がたがタイ人だ。もう前のフェンスのところにいたら、男も女も身体をくっつけあってゆれている。目の前にいたタイ人女性が振り返って、ボクに「アナタ似てるね!」とエートを指差して言う。たしかにエートは黒のバンダナをカレン族のゲリラのように頭に巻いており、ボクは似たような黒の帽子だったのだが……。しかし、エートに似てると言われて悪い気がする訳がない。「コープンカップ!」とお礼を言う。
ボクは上手の舞台袖、ほとんどスピーカーの真ん前(そのせいで翌日まで耳鳴りがして、難聴気味だった)に陣取っていたが、そのあたりにあとから詰め掛けたタイ人の若い衆は、警備をやっていたガーディアン・エンジェルスを挑発し、にらみ合い、フェンスを壊しかねない勢いだった。仲間に肩車をさせ、上半身裸になってタトゥを誇示し、シャツを振り回し、うざくなったボクは少しさがって踊っていた。すると周りのタイ人が煽り立てるもっと踊れと! そんなことを言われなくとも、ボクは好きなバンドでは踊るのだ! 断固として踊るのだ!

カラバオは、やっぱりいい! やはり好きだ。福岡で見た時(もう8年前の1997年になる)、ボクはこのバンドを東京に呼べたらと夢想した。モーラムの歌手でさえ、東京に来ているというのに、この最高のロックバンド(とはいえ少し「B級ロック」なところが、タイ的で好きだった)を東京で聞きたいと思った。
カラバオが初来日だと思っているひとは多いだろう。実際、タイ王国ドットCOMのサイトでもそんなニュアンスで書かれているから仕方がないのだが、8年ぶりの来日なのである。そして、「カラバオ」は、その8年のあいだに「B級」どころか、音質も演奏も偉大なるバンドに変質していた!

もはやベテランの余裕さえみせてアンサンブルも、編曲の曲想も素晴らしい。タイで見るロックバンドの少しチープなところの微塵もない英米のロックバンドにひけをとらないほどの実力をライブで見せつける。レックのギターがサンタナばりに、啜り泣く!

カラバオ基金のところで売っていたTシャツには、あの水牛のロゴの下に「Live in TOKYO」と書いてあった。黒のハッピをまとったエート(その襟には「ウエルカム泰国」「からばお」と白く染め抜かれている)の姿と言い、やはり東京でライブをやることの心意気みたいなものがあったに違いない。
この日、トリを決めた「カラバオ」(前日は、スンタリー・ウェーチャーノンの娘である女性歌手のラーンナー・カムミンがトリだったらしい)は、ボクがステージ前に駆けつけてからもたっぷり1時間とちょい! アンコールにまで答えて時間をはるかに超えてサービス満点だった。

難聴気味になったとはいえ「カラバオ」は、やはり大好きだ!
そして、この日の代々木公園はなんだかタイにいるみたいだった。なんだか、すこし忘れかけていたタイ好きの心根がムクムクと頭を持ち上げてきてしまった。

(写真はエート、レックをのぞく「カラバオ」の来日メンバー。カラバオ財団のブースにて。エート、レックは、昨日の舞台写真に写っています。)


カラバオ・ライブ・イン・トーキョー(a)

2005-05-19 01:36:00 | トリビアな日々
carabao_2タイ・フェスティバル2005にて(4)

雨宿り、落雷事故に気を取られていたら、まだ陽は高いのに(先ほどまでの雨が信じられないくらい空は晴れ上がってしまった。ボクは確認しなかったが虹まで出たらしい)カラバオの演奏は始まった。ボクは、それをトイレで並んでいる時に、聞こえてきた音で知った。エートの声が空を突き抜けて炸裂している。おお、急がねばと思いつつも仮設トイレまで設置されているのにトイレは長蛇の列だ。女性の方のトイレはいつもながら用を済ませるのは明日の朝になるのではないかと思えるほど並んでいる。まったくお気の毒なことである。小用にせよ、時間がかかる常もあって野外イベントの際の女性の苦労が忍ばれる。しかし、それでも仮設トイレは女性用の方が男性用より設置数は多かった。

ステージ前に駆けつけた時には、歌はしっとりとした『満月』(ドゥアンペン)に変わっている。
実際、緩急とりまぜての構成は抜群に上手くなっている!
なにしろ、ボクにとっては二度目の生カラバオだ。さっきもテントでカラバオの連中に逢った時も、福岡まで見に行った旨を告げたら、「Oh!フクオカ!」と叫んでいたから意味は分かってくれたようである。その時、エートはカラバオ基金のTシャツコーナーにおり、売り子をやっていた。写真には入ってもらえなかったが、ボクはカラバオのTシャツとピンバッチをゲット! エートと握手をする。この、ミーハー気分は何なんだろう?
こいつらは、カラワンよりもボクの魂をゆさぶった連中なのだ。ジット・プミサックの詩の世界をボクに教えてくれた連中なのだ。
そして、事業は成功すれど、エートを中心として昨年12月26日の突然襲った「つなみ」被災民の支援と復興のために、コンビネーションアルバムを作り、それがまた破格の売れ行きを示した。この日、ボクはゲットしたが日本人女性歌手が日本版シングルを来月売り出すらしい。その曲は、この日もゲストの歌手によって歌われた。それが「アンダマンの涙」(サップ・ナムター・アンダマン)だ。

もう幾度も購入してからCDで聞いて、そのメロディラインの美しさに感動している。エートが作詞作曲し歌い、このコンビネーションアルバムの中では、エートの娘さんも英語で同じ歌を歌っている。もしかしたら歌手になるのかもしれない。上手である。
いつもは朗々と歌うエートの声が、この曲に関しては低くそれでいて表現力たっぷりにリリックに歌い上げている。
このアルバムには、「カラワン」のスラチャイも参加し2曲歌っている。

※津波被災支援のチャリティ曲「アンダマンの涙」が1曲まるまる聞けます!→http://203.150.224.157/musicart/newmusicstation/karabound/tsunami.swf
しかし、この曲およびアルバムはなるべく買いましょう! タイのアンダマン海の沿岸部の津波被災の復興に使われます(タイ政府経由らしい)。