風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

6/5 E.G.P.P.100/step95 太宰断罪!??生誕100年/ダサイ検定

2009-05-29 23:57:49 | イベント告知/予告/INFO
●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step95
テーマ:「太宰断罪!??生誕100年/ダサイ検定」

2009年6月5日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,000円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN、梓ゆい(新MC)
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、梓ゆい(ポエッツ)、ココナツ(うた)、やま(うた)、bambi(スピリチャル・トーク)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 太宰治が青森県北津軽郡金木村で生まれたのは1909年6月19日。今年は生誕100年に当たります。この機に悪のりするかのように青森と三鷹で「太宰治検定」なる催しも「桜桃忌」に行はれると言う話題も耳にしました。いつそ、これにさらに悪のりしてみようと考へました。ダザイならぬダサイ検定です。こちらに検定料はいりませぬ。あ、ただ、参加費は1ドリンク付き1,000円の御負担をお願ひいたします。
 恥をかくのはボクひとりです。恥の多い生涯を過ごしてまいりました。ここでさらに恥の上塗りくらいしてもどうということはありますまい。
 考えてみますに、文芸路線は中原中也につづいて二回目です。よほど「100年」と言うのが、ボクは好きらしい。それに、ボクは太宰が山崎富栄と玉川上水へ入水心中した年に生まれました。
 少なからぬ因縁を感じるのも無理からぬことかも知れませぬ。
 それに、ボクの実の父は容貌からして太宰にそつくりで、その街に愛人を作るやり方まで……いや、これは秘めておきませう。

 いま、あらたなる太宰像を提示するのはむずかしいほど太宰の生涯は研究尽されたかに見へます。賞賛するにせよ、太宰断罪するにせよ、初期の太宰を拡大し、デフォルメしてみました。きつと、お気にさわるでせう。

 どうか、お目こぼしをお願ひいたします!

 (今回のポエトリーは、池袋の地でE.G.P.P.が営まれていたとき、「HUMAN LOST」というタイトルでおこなったものの改訂再演であることを申し述べておきます。)

 このイベントは、自由エントリーのできるオープン・マイク形式で開催しております! 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

mii内主催コミュ「E.G.P.P.100」→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706


秩父コミューン/解放闘争としての秩父蜂起(3)

2009-05-28 23:59:41 | コラムなこむら返し
 ちなみに、明治12年の「横浜生糸検査所輸入調表」によると

 「横浜入荷高は第一位上野(群馬)、第二位信濃(長野)、第三位岩代(福島)、そして武蔵(主に埼玉)、甲斐(山梨)の順となっているが、13年になると、信濃が上野をはるかにしのいで第一位。次いで上野、岩代、武蔵、甲斐の順と代わっている。」(山本茂実『あゝ野麦峠』より)

 明治12年の輸出総額28,175,770円で、内12,191,553円が蚕糸類の輸出金額、実に43.3パーセントを生糸の輸出で稼ぎだした。13年には、総額28,395,386円に対し、生糸は11,065,162円と少し落ちて39.0パーセントを稼ぎ出す。ところが、15年をピークとして、輸出総額も生糸の輸出額もガクンと落ちることが18年まで続く。その後また、回復して活況を呈するが、この最初の打撃を秩父の農民たちは耐え抜くことができなかったようである(「秩父事件」は明治17年に興った)。

 明治政府による租税取り立てのための地租改正(6年)は、先祖から引き継いだ農地を、公定価格でランク付け(地券制度:明治22年土地台帳制度になるにともなって廃止)することによって、借金の担保物件としての道をひらいた。そして明治15年までの年率の伸び率は、山深い秩父の山村にときならぬバブルをもたらしていた。13年に輸出高の首位を奪った長野は、明治5年に国策として出来た富岡製糸工場(群馬)に製法も技術も学んだ製糸工場が長野県松代や西条に出来、富岡に伝習工女として入った和田英などが、技術を伝えた(和田英『富岡日記』)。

 地租改正そして引き続いての土地台帳制度は、先祖伝来の農地が借金の担保や、換金できるものになることを意味した。戦後のGHQによる農地改革までこの国の農村に不在農主や、小作人制度(土地なし農民)をうみだすことにつながった。

 その意味でも近代化社会をかたちづくる日本の初期プロレタリアートは女性であった。「工女」と当時呼ばれた製糸工場の女工たちこそ近代を切り開いた初期プロレタリアだった。それも、苛酷な被搾取労働となる以前は、『富岡日記』の和田英に見られるように藩士や子女でなければ「工女」の職につけなかったのだから皮肉なものである(和田英は松代藩旧藩士のち松代区長の子女)。
 『女工哀史』の世界は、大正期のドキュメンタリーである。良家の子女のお嬢様労働だったのは、ほんの初期で技術の伝習の役割を担わされた。和田英などわずか1年で、長野の「六工社」の技術教師にさらに教授にまで出身する。

 ときならぬバブルをもたらしたとはいえ、機械化されたシステムが導入されたのは長野、群馬くらいで、あとは個別農家で手作業で製糸するマニュファクチャーだった。それでも、桑を育て、蚕を育て、繭をとり、糸繰りをし、製糸出荷するという意味では、家内工業とは言え、個別農家それぞれが、零細企業の経営者となり、専業農家とはその性質を変えていった。

(つづく)


秩父コミューン/解放闘争としての秩父蜂起(2)

2009-05-24 23:58:26 | コラムなこむら返し
 さらに、1884年当時の秩父の貧農が、立ち上がらなければならなかったほど困窮した理由は2009年の今日の方がよく理解できるかも知れない。というのも、土地の痩せた山間部に暮らすかれらは桑を育て、それで蚕を飼う養蚕と生糸の販売で生活していた。富国強兵政策による近代的な国家建設をいそぐ明治政府は、生糸の輸出で外貨を稼ぎ、それで軍艦や武器、大砲のたぐいを欧米列強から買っていた。
 国内的にはデフレ政策(松方デフレ)をとっていたという理由もあるが、秩父の民の困窮は、外貨獲得の主力製品としてフランスやアメリカに売られていた生糸の価格が、国際的に暴落したことによる。要するにグローバル経済の余波をまともにくらってしまったのだ。

 現在、横浜でくりひろげられている「開港博」は、横浜が海外へむかって貿易拠点としてデビューして150年を祝うものだ。秩父銘仙として現在、地域の重要な蚕業のひとつである絹織物は、明治時代に山地の農民によってつちかわれた養蚕、生糸生産がいしずえになって形作られた。そのほとんどが、捻造糸に加工されて横浜港からフランスのリヨンへ向けて出荷された。彼の地で、女性用ストッキングや絹織物へ姿を変えた。
 秩父と横浜、そしてフランスは密接につながっていた。

 実は、「秩父事件」そのものもボクらが頭の中で、勝手に作っているイメージを180度変えないことには理解できないものかもしれない。貧しい農民によるやむにやまれぬ武装蜂起というイメージ、自民党による農民の組織化によって起こった「自由民権」の「激化事件」などといった通説によるイメージである(13日付けの記事に引用した地元のパンフによる「秩父事件」の「概要」にさえそう書かれてある)。
 物語としては、登場人物が生き生きと描かれてある井出孫六氏の『秩父困民党群像』さえ、その意味ではその功績は認めても疑問に付す必要がある。
 事実、たとえばだが後世の歴史家が「連合赤軍事件」や、「反日武装戦線」のいわゆる「連続企業爆破事件」を1970年代はじめの工場労働者、プロレタリアートによる権力奪取、革命だったと書いたらそれは大いなる幻想、過誤を犯すことになるように秩父事件をになったひとびとをひとくちに「自由党に組織された貧農」と言うことは出来ないだろう。

 貧しさで言ったら、おそらく帝都東京に住む三大もしくは四大スラムの住人の方が困民党の農民より貧しかったに違いない。その悲惨な生活は、横山源之助や松原岩五郎のレポート、分析を読むにしくはない(横山源之助『日本の下層社会』には、工女、手工業や工場労働の分析もある)。それは、やや誇張された「ノンフィクション文学」だったという言い方もあるが(そもそもは文学者を志望していたらしい)、少なくとも「無産階級」は、プロレタリアもまだ形成されていない明治10年代にはスラムの方にこそいたであろう。

(つづく)


秩父コミューン/解放闘争としての秩父蜂起(1)

2009-05-21 23:59:35 | コラムなこむら返し
Jiken_konmin 現在は、「秩父事件遺族会」なるものも結成されているが、長い間地元では「秩父事件」は語るにはばかるものだったらしい。なにしろ、秩父の山村の民が、官憲(警察、鎮台兵=憲兵)を向こうに回し、軍律までつくって悪徳高利貸しの家屋敷、貸し付け証書(証文)のみならず郡役場、警察署まで焼き討ち、打ち壊し、はては秩父(大宮郷)を超えて、長野、群馬などの近県さらには帝都東京府まで進軍しようと言う計画まであったらしいからだ。その上、風布(ふっぷ)村の大野ナニガシは「恐れながら 天朝様に 敵対するから 加勢しろ」と言って村びとをオルグした。血気盛んでもっとも過激だった風布村の貧農は椋神社の総決起の前夜、10月31日に高利貸し(生産会社)の「永保社」を焼き討ちにしている。

 おおよそ100年のあいだ、語るもはばかる「秩父事件」(当時は「騒動」「暴動」「暴徒」と呼ばれている)が、むしろ遺族会や地元の誇るべき歴史のように転換したのは、井出孫六氏のデビュー作『秩父困民党群像』(新人物往来社:1973年)の功績によるだろう。氏はこの2年後「アトラス伝説」で直木賞作家となる。
 もちろん、この書物以前に研究書がなかったわけではない。自由党(党首:板垣退助)に領導された山村貧農の一揆といったような理解、郷土史家の対象にとどまっていた。
 物語る能力はさすがののち直木賞作家である。『秩父困民党群像』の著書の中で、総理・田代栄助も、数奇な後半生を辿る会計長・井上伝蔵も、参謀長・菊池貫平も無名の農民たちも生き生きとした姿で描かれる。井出氏はその本の中で秩父困民党が制圧した4日間を「無政の郷」と呼び、それに「コミューン」とルビを振っている。

 コミューンと言えば「パリ・コミューン」を連想させるが、パリが市民で構成する革命政府の管理下におちたのは1871年で、それは「秩父事件」のわずか13年前の事に過ぎない。パリ・コミューンと秩父事件は、東西の違いはあってもほぼ同時代の出来事である(1968年は明治100年、そして1971年はパリ・コミューン100周年、1984年は秩父事件100周年だった)。

 それに、『秩父困民党群像』が刊行された1973年というタイミングもあろう。前年1972年あさま山荘事件に全国の注視が注いだ。延々とTV中継もされた機動隊と立て籠った連合赤軍兵士との銃撃戦。つづいて発覚した榛名山ベースでのリンチ事件(ボクの友人も殺された)。1970年代のはじめの数年間は連合赤軍事件に引き続く反日武装戦線などの爆弾事件、内ゲバ殺人など武闘化する新左翼各派とエスカレーションしそのことで孤立化する革命左派の姿があり、世相はこれまでにないくらい暗かった。

 ある意味、1884(明治17)年という90年ほど昔の秩父と似たような不穏な空気が1970年代はじめにはこの国に流れていた。秩父事件は決して歴史の闇に消え去った過去のことではなかった。

(つづく)


草の乱/秩父困民党を描いた映画

2009-05-20 23:57:06 | コラムなこむら返し
Ran_titibu 秩父ではどうやらいまだ語り種らしい。もう色褪せかけたポスターが、目立たない地元の商店の壁などにいまだ貼ってある。どうやらその地元の埋もれた歴史を掘り起こすような映画作品は、自主制作でつくられ、制作費を捻出するために1株100万円単位で、地元(および近県)に協力が求められたらしいのだ。
 実際は、千円、1万円といった篤志が集まって制作費4億5千万円がつくられたらしいからスゴイ話である。だからか、秩父事件120周年を記念する意味でも製作された自主映画は、また今後100年のあいだ語り継がれるだろう話として秩父の風土に刻み付けられたかのようであった。

 映画のタイトルは『草の乱』。2004年に神山征二郎監督を中心に制作委員会を立ち上げて作られた。制作費4億5千万円への協力者は1,400名、エキストラ協力は800名に及んだらしい。実は、この映画制作の1年後くらいに秩父を訪れた時、オープンセットや再現された映画の主人公井上伝蔵の蔵は真新しいままに秩父事件資料館として残されていた(道の駅・龍勢会館)。映画制作の副産物は、秩父事件の記念するものとしてなにがしかのものを秩父の地に、そしてひとびとの心に残したらしい。

 『草の乱』をTUTAYAで借り出して見てみた。それが史実に近いと言うことなのか、多様な群像の中で、秩父困民党事件は叛乱、革命闘争と言うよりは、高利貸しの今日で言う「サラ金」なみの年利で、家も田畑も取り上げられ、困窮した養蚕農家の「打ち壊し」や一揆のようにしか見えない。思想や、理念のようなものが画面から伝わってこないのだ。

 ただ『草の乱』は、膨大な秩父困民党事件について書かれた資料をあたるより、気楽に入門書のような役割を果たしてくれるかも知れない。
 多様な人物像の事前学習をしておけば、もっと分かりやすいということだけは言っておこう。



飯米獲得人民大会/食糧メーデー

2009-05-19 14:52:41 | コラムなこむら返し
 63年前の今日、と言うことは戦後生れのボクも民主党の新代表に選ばれた鳩山由紀夫氏もまだ姿も形も、発生もしていなかった時代(鳩山氏は何月生れか? もしかしたら発生くらいはしていたかも?)だが、戦後史に残るある出来事があった。

 その出来事の舞台となったのは、この国の首都の中心にあるあの「空虚」なる空間にあるさらに空虚な広場、「皇居前広場」だった。大日本帝国、軍国主義の時代の記憶を残すこの「広場」は、終戦の詔書の玉音放送を聞く人々の泣き崩れる写真などで新たな記憶を刻みつけられたが、GHQの管轄下で「人民広場」とも呼び変えられ戦後しばらくメーデー会場にも使われた。
 そして、昭和21(1946)年5月19日、25万人の民衆が集結した「食糧メーデー」が行われた。当時、「飯米獲得人民大会」と呼ばれた「米よこせ」デモである。
 戦争による披レキから食糧の配給が最悪になり、さらに、共産党、社会党などの指導による民主的な要求闘争に民衆は目覚めていった。
 保守である自由党が第1党になったばかりで、時の総裁は鳩山由紀夫氏の祖父である鳩山一郎、農林大臣は後の首相吉田茂だった。
 大会で、子どもをおぶって登壇した世田谷区の永野アヤメさんの訴える姿がニュース映像で残っている。この食糧メーデーの盛り上がりには、5月1日に行われた戦後はじめてのメーデーが寄与してあまりある。1日のメーデーには100万人余の労働者、民衆が集結し、民主人民政府の成立をブチ上げ、食糧の人民政府管理を決議する。
 この頃の民衆の要求にあっては、平和憲法も形無しだ。プラカードには「憲法よりも米を!」と書かれてあったりする。もっとも、日本国憲法が公布されるのは、この年の11月である(昭和21年11月3日(文化の日)公布、昭和22年5月3日(憲法記念日)施行)。

 翌日の5月20日にデモ行進が行われたが、この時、共産党員だった松島松太郎さんがかかげたプラカードが不敬罪に問われた。俗に「プラカード事件」と呼ばれるが、戦後民主憲法の下で、「不敬罪」が成立するのかと言う重要な判断を裁判所は避けて通り、松島さんは憲法公布による特赦(大赦令)で免訴となる。
 松島さんのかかげたプラカードには、こう書かれてあった。
 「ヒロヒト詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね」

 これは、強烈な諷刺である。民主憲法制定、食糧メーデーという背景を抜きにしても、護憲派も改憲派も、現在の平和憲法の第1条(第1章第1条~8条)が、明治憲法と同じく天皇規定からはじまっていることに思い至るべきではないだろうか?
 主権者は誰なのか? 主権者の生存権こそが、第25条(第3章第10条~40条)ではなく、第1条じゃなければならないのではないだろうか?
 いくら、前文で主権在民をうたっていようともだ……。


愛と政治

2009-05-15 01:33:48 | コラムなこむら返し
 自らも世襲議員でありながら、祖父である鳩山一郎を発言としては超えたかも知れないと思われる言葉を民主党代表選(16日告示・即日投票および開票)の出馬会見(14日午前)で鳩山由紀夫氏はのたもうた。鳩山氏はちなみに戦後生まれ、ラブ&ピースのベビーブーマーのひとりである。つまりボクなんかと同じ世代に属する。JRの議員パスをつかって人妻同伴でゴルフ旅行を自分のボスたる麻生首相が訪中留守中に行い、内閣官房副長官を辞任した姑息にして、いまや全国民の笑い者鴻池某とは世代も、心意気も、ましてや政治家魂が、そう、「あなたとは違うんです」。

 鳩山由紀夫いわく。「日本が大変厳しい国難の時代に、一身をささげることができれば大変ありがたい。一言で私の政策を申し上げれば、友愛社会の建設、愛のある政治だ。」

 だれでも言えることを陳腐でなく、照れもなく発言できることが、その政治家のみならず個人のパーソナリティ(TVのバラエティショーの影響か、やたら若者言葉で使われる「キャラ」という言葉がキライだ。「キャラ」は「キャラクター」の芸能界の業界用語で、演技して作るものであって「人格」や「個性」を意味しない)だ。その点、堂々とプロの政治家なら避けてしまいそうな「愛」という言葉を使い、「友愛社会の建設、愛のある政治」と臆面もなく言えてしまう鳩山氏の個性は素晴らしい。
 7歳も年下でありながら、強面(こわもて)のもうひとりの立候補者である岡田克也氏には失礼ながら、似合わない言葉だからだ。

 しかし、これが人気取りの戦略だとしても注意が必要だ。かって政治に美学を持ち込み、情念から国民を熱狂に巻き込み、戦争と破滅の道に駆り立てた政治家がいた。そう、アドルフ・ヒトラーだ。ヒトラーにもっとも近かったのは、私見では小泉純一郎元首相だが、「劇場型」と言われたその手腕は、国民をその一種の「熱」でいまやその正体が知れた規制緩和の熱狂的支持にかりたてた。これらは「ファシズム」の手法で、軍国主義下のこの国でも「天皇の赤子」としての「散華の思想」として美化され、称えられた洗脳的教育や思想と同じである(「教育勅語」や軍国主義教育、翼賛体制などなど)。

 政治では「愛」は「ヴィジョン」ではありえない。むしろ、それは信念に留めて欲しい。
 きっと鳩山由紀夫氏はNHK大河ドラマの「天地人」を見過ぎたための、いっときの思いつきだったとボクは好意的に考えてあげることにする。


秩父事件(1884年)概要

2009-05-13 23:55:16 | コラムなこむら返し
 秩父事件とは、1884年(明治17年11月1日)埼玉県秩父郡下吉田村の椋神社において、埼玉、群馬、長野三県の負債民が、在地自由党員(非公式の党員をふくめ約180余人)を母胎につくられた困民党による武装蜂起事件であり、自由民権運動激化の最高の形態として高く評価された。
 秩父困民党は蜂起するにあたって、民衆倫理にもとづく厳しい5か条の軍律(※1)をかかげ、総理、参謀長、会計長、伝令使、大隊長、小隊長をおくなど組織的に編成している。その目標は、これまでなんども繰り返してきた請願では全く認められなかったもので、

 1、高利貸に負債の10ケ年据え置き、40ケ年賦を求める
 2、村費の軽減を村吏に迫る
 3、学校費の軽減のため3ケ年の休校を県庁に迫る
 4、雑収税の減少を内務省に迫る

の4か条であった。そしてその闘いのなかで、自由党のかかげる圧政からの解放、民主政体確立のメッセージも受け入れられていった。

 困民党軍はその後、四日間にわたって秩父盆地を支配した。2日には大宮郷(現秩父市)の秩父郡役所を占拠し、そこに「革命本部」の看板をかかげ、自治の方針を打ち出した。だが、明治政府は山県有朋を総司令として憲兵隊を急派、さらに鎮台兵(軍隊)を出動させて、困民党軍を大きく包囲した。4日午後、本部は解体したが、一隊はその夜、児玉郡金屋(現児玉町
)で鎮台兵と激戦した。また他の一隊は峠をこえて山中谷に入り、長野県佐久郡にむかって進軍した。しかし、9日、千曲川畔の東馬流で鎮台兵らに奇襲されて敗走し、八ヶ岳山麓で壊滅した。

(「吉田石間交流学習館」パンフより)

※1 5か条の軍律
第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
第五条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬

ウィキペディア「秩父事件」→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6


秩父へ(2)

2009-05-10 23:42:35 | コラムなこむら返し
Kannonin_magaibutu 「観音院」は、山あいの崖にへばりつくかのように建っていた。岩山が大きくえぐれたところに滝つぼがあり、その直前のちいさな社(やしろ)に観音が祀られている。内側にえぐれた側面の岩山に、弘法大師とむすびつく伝説のある、その磨崖仏があった。荒削りなレリーフで数段にわたって十万八千体と言われる数の仏の姿が彫ってあると伝えられるが、とても名のある彫刻家や仏師の仕事とは言えないだろう。ただ、これを横からカメラで撮ってみたら、どこかシルクロードの雰囲気がただよってくるようである(写真)。
 西の宮という祠は崖崩れのため通行禁止になっていたが、反対の奥の院へはひとめぐり15分くらいで歩けるらしい。その入り口のような場所の岩肌は、見事な新生代の地層を見せてくれる。おおよそ2,000万年前の地層だ。山ノ神を祀った小さな祠の脇には、芭蕉の句碑があった。

「清く聞かん 耳に香たいて 子規(ほととぎす)」

 たしかに、以後ボクらはキャンプ場でもホトトギスの鳴き声につつまれていた。ただ「香」の代わりに炭をたいていたのであったが……。

 「観音院」のその奥の院の真下には、大きくえぐれたもうひとつの洞窟があって、そこはなにやら武将がかって愛馬をつなぎ止めていたと言うこれまた伝説があって、それが証拠に岩にひずめの跡があるということだった。ここはボクに以前行ったスリランカ(セイロン)の石窟寺院を思い起こさせた。それにしてもたくさんの石仏のある寺院だった。

 さて、このくらいで奥秩父での観光の報告は切り上げて、次から「困民党」に話題は転換します。



秩父へ(1)

2009-05-09 23:59:55 | コラムなこむら返し
Kuro_ageha GWは、秩父でキャンプをして過ごした。よく行くところだ。今回出発したのが、4日で、この日の朝、上吉田塚越の「(子ども)花祭り」が行われた。それを目的に行ったこともあったが、まるで大人のカメラマンが群れて、怒号が飛び交うほどでカメラのためにまつりが開催されているかのようだった(それに過疎化した地元に子どもは数えるほどで、親戚筋から子どもたちをかき集めて開催されているようだ)。まつりの本義は、観光と維持のためにかろうじて維持され形骸化してしまったようだった。4日の夕刻、まだ散華された花びらが埋め尽す参道をのぼって米山薬師堂へ。小さなお堂から山あいの集落をながめ、「花祭り」の余韻を味わってきた(その日の早朝のハイライト写真は帰ってから、5日付けの朝日新聞で見た)。

 翌日は、秩父札所31番である「観音院」へ行ってみる。ここに空海つまり弘法大師が爪で彫ったという言い伝えのある「磨崖仏」があると知ったからだ。行く途中に「地蔵寺」があってたくさんの地蔵が斜面をおおい尽していた。水子を供養するためか、「子どもの日」のこの日法要が営まれていた。ボクはここで牡丹の花の蜜を吸っていた黒アゲハを素手で捕獲してしまう。だれかの水子のたましいの変化かも知れないその黒アゲハはもちろん写真を撮ったら、放してあげた。タンブン、功徳積みである。指先に黒い燐粉が残ったのが、どこかなまめかしかった。

(つづく)