風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

忘却のクレオール文学/映画『日曜日の散歩者』を見る。

2017-08-26 02:55:03 | シネマに溺れる
これはなんて「文芸」の香り馥郁たるシネマなんだろうか?それもその香りたるや、もはや打ち捨てられて誰も振り返ることのない昭和初期から10年代のモダニズム文芸なのだ。
そして、イメージフォーラムの封切り六日目にしては寂しい8名の観客の中で(キャパは百代ならぬ百名!)、椅子に身を埋めていたボクがバックパックに潜めていたものは、ベンヤミンだった。ベンヤミンは、その方法意識において全頁が引用で成り立ち、その言辞の衝突における一瞬の光芒で書物が立ち上がるような瞬間を理想に描いていたらしい。そう言う意味では、このドキュメンタリー・ドラマの形をとったシネマはおそらく千頁に匹敵する研究書を引用で埋め尽くし、そのまま映画にしたのだと言えなくもない。ならば、残された課題は映像や音声を超えて、時代や、テーマが作品の中で立ち上がるかどうかだと言える。

そのテーマはひと言で言えば「1930年代、日本統治下の古都・台南で、植民地宗主国の言語である日本語で詩を創作し、新しい台湾文学を作り出そうとした同人詩誌『風車詩社』の活動を描いた映画」と言うことになるだろう。ちなみに黄亜歴(ホァン・ヤーリー)監督も「風車詩社」の存在を知って映画化を思い立ったということらしいが、ボクもそう言う文学運動が植民地下の台湾、それも台南にあったなどと言う事実は寡聞にして知らなかった。ましてや、そのグループは仲間の日本留学や、遊学によって当時の日本文学の動向や、流行を知り、それを台南の文芸運動に持ち込むことによって台湾文芸興隆のきっかけにしようとしたものだったらしい。そして、映画の中の陳述によれば、もしんば植民地本国の詩壇や、文壇に認められるような作品が生み出せれば、台湾の日本語文芸運動も帝国日本の詩壇、文壇の一角に地位を占め、台湾文芸の水準を認めさせるものになるだろうという意欲だけが先走った大仰なものだったようだ。
当時、帝国日本の文芸活動や、その先端的な流行はプロレタリア文学やモダニズム文芸であり、ダダやシュールレアリズムがフランス文芸の翻訳、研究、出版として輸入され始めていた。それらは「新興芸術派」と呼ばれ、とりわけダダイズムを継承したシュールレアリズムは詩や文芸のみならず、絵画などの前衛芸術運動に広く共感され流行したものだった。映画の中でも、運動の本場だったフランスでシュールレアリズムを代表したキリコ、ダリに始まり「シュールレアリズム映画」として紹介されることの多い、ルイス・ブニュエルのフィルム「アンダルシアの犬」やマン・レイの写真なども引用されている。植民地本国である帝国日本のシュールレアリストであった北脇昇、池袋モンパルナスの住人でもあった靉光などの絵画も引用される。ともかくも、困惑するくらい多くの作品が引用されている。
さて、「風車詩社」のガリ版刷り同人誌の名前は『風車』(Le Moulin)であり、あのパリのキャバレー「ムーラン・ルージュ」から取られている。映画のチラシにムーラン・ルージュの写真があしらわれているのはそのためなのだろう。この映画の原題である 「日曜日式散歩者」は、日本名名義「水陰萍人」こと楊熾昌の詩作「日曜的な散歩者」から取られている。

 夢の中に生まれてくる奇蹟
 回転する桃色の甘美……
 春はうろたへた頭脳を夢のやうに——
 砕けた記憶になきついてゐる。
   ♢  ♢  ♢
 青い軽気球
 日陰に浮く下を僕はたえず散歩してゐる。
 (略)
   ♢  ♢  ♢
 さよならをする時間。
 砂の上に風がうごいて――明るい樹影、僕はそれをイリタントな幸福と呼ぶ……


この詩は昭和8年3月「台南新報」に掲載されているから、楊熾昌はすでに一定の詩人としての認知はされていたのだろう。
『風車詩社』の中心メンバーは楊熾昌の他に李張端、林永修(南山修)などがおり、この中でも林は慶應義塾に留学し、西脇順三郎の薫陶を直接受けていた。
率直に言って『風車詩社』が、理想としたのは西脇順三郎風のスタイルだったのかもしれない。その乾いた前衛性とともに、言葉に溺れた陳腐さを感じるのもそれが西脇スタイルだったのかもしれない。
『風車詩社』の活動の時期はわずか2年間余り(『風車』4号まで)で、戦後国民党政権下で彼らは白色テロを含む様々な弾圧、嫌疑をかけられたと言う。このあたりはもう一つの名作『非情城市』(侯考賢監督)を見てもらった方が良さそうだ。


さらに、これは夢想だが、クレオール文芸の可能性が、その萌芽が台南にあったのかもしれないと考えることは、ボクにとっても心楽しいことであった。というのも、その台南の『台湾文藝』や『台湾新文藝』が刊行されていた当時、我が父母、祖父、祖母は隣の県である屏東に住んでいたからである。祖父は事業をやり、植民地資本主義にあって成功者のひとりであり、その息子たる父は毎日新聞社台湾支局の記者だった。彼は、新聞の企画として女学生の座談会をやり、そこで母と知り合い結婚したのだ。
ボクにとってはもはや想像の世界でしかないのだが、植民地本国人として豊かで、自由を満喫した後にも先にもこのような幸福はあるまいと言えるような暮らしをこの美麗島の南部で我が家族は過ごしていたからである。
(そのような至福に満ちた台湾にあってのちに叔父になるM氏は、あの特攻艇「震洋」の乗組員として死を覚悟して出発命令を待つ。まるで島尾敏雄の体験のような体験をしていたようなのだ。)
現在70代後半以上の日本語教育を受けた世代(彼らの中の先住民の人々にとっては、部族名・漢名・日本名などいくつもの名前を持たされた)を中心に台湾にブームとなりつつある「懐日」の気分。「湾生回家」(台湾生まれの日本人。ボクの姉がそうだ)のサルダージの地としての美麗島(台湾)。これらを通して台湾との友好的で、和解しあった良好な交流、外交に結びつくように台湾ファンの一人として祈っております。

評価(★★★★)✻ 但し、この映画の中で引用された文学者や、文芸作品も知らず、ましてや台湾のことなどその歴史においても興味がないという御仁には、おそらく退屈極まりない2時間42分になるだろうことは申し添えておきます。