風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

夕焼け評論(大晦日版)/「2007年問題」という欺瞞

2006-12-31 23:45:18 | コラムなこむら返し
2006dec_1 「2007年問題」というものがある。どんな問題なのかと調べてみると、ベビーブーマー(団塊)世代が大量退職する問題だというのだ。まてよ、それのどこが問題なのだ! オレもいわゆる団塊世代のひとりだが、もうとっくに企業社会からリタイアしたも同然だった。オレのまわりにいる連中だって、リストラされてNPOをたちあげたHとか、ミュージシャンだか、彫刻家だかわからない何をしているのかわからない連中ばかりだが、かれらには2007年問題はないらしい。
 もし大量の労働者不足が危惧されるなら、正規採用の道の閉ざされた若者たちにとっては、かってないチャンスだし、むしろ喜んでその道を後進に譲った方がよろしい。

 大量の老人が溢れて、年金資金が底をつくという話を本当はしたいのに、それを給付年齢を引きあげたり、退職年齢を引き上げたりのアノ手コノ手で要するに、早く死ぬのを待っている訳だ。年金を仕切って来た肝心の社会保険庁こそがリストラせねばならない汚職まみれの黒い官庁であるはずなのに、計画ばかりがブチあげられるばかりで(分割案、民間委託など。委託(痛く)も痒くもないんじゃないの?)ちっとも進んでいない。
 国民の年金の資産運用で大損失を出し、年金を使って保養所や豪華施設のハコものばかりをブチ建てて年間何億もの維持経費を使いながら、結局赤字経営でハコ自体を安く手放さざるを得ないと言うお役所経営、バカにするにもホドがある!
 それでいて、オレの周りには国民年金も払えなくて、結局年だけとっても年金ももらえなさそうなヤツばかりだ。
 これを別名「負け組」と称して、自己責任で怠惰だからだと言ったのが団塊世代のジュニア世代の成功者ばかりだった。ヤツらはオヤジ世代を乗り越えるために、詐欺まがいのイメージ戦略を使った。その実ベンチャー企業の粉飾決算にすぎなかったのだが……。

 2006年巷を沸かし、またそのことによってやっと元気の出てきた若者世代のパワーを粉砕したのは、このほとんどバビロン化した爛熟する資本主義を手玉に取ろうと画策した拝金主義の団塊ジュニア世代だった。その代表格としてのホリエモンは、まさしくアプレゲールの代表だった山崎晃嗣(「光クラブ」事件。「オー、ミステーク事件」とも言われる)の再来だった。
 ホリモンはポスト・バブルの金貸し業「光クラブ」の山崎晃嗣そのものだった(2006年1月25日付けの記事を参照のこと)。オレはそのことをもこのブログで指摘したが、山崎をモデルにした三島由紀夫の小説があって、それが『青の時代』というタイトルだったことに吃驚した。そして、その文庫版の帯でもライブドア事件との暗合を示唆してした。世の中が、どうやらオレと同じ認識に達していたらしい。
 そして、このホリエモンは終始ベビブ-マ-世代を敵対視していたことを思い出そう。

 そして、同じ年、この国の首相に「シラケ世代」の代表のような保守主義の人物が、空辣な「美しい国へ」と言う新書本の著作をもって登場し政権交替した。そして、めざましいほどの憲法改正を見据えた後ろ向きの法律を立続けに立案立法化した。この男の理想には戦後政治の首領とも言われる戦犯にして60年安保首相である出っ歯の岸がいる。
 そのにこやかなポーズ、夫人と仲良く手をつないでみせるマスコミ向けのポーズの後ろにはこの国を「美しい国」どころか、ふたたび軍事力をかねそなえた大国にして、戦争がふたたびできる国の体制を整えようと言う保守正統の悲願が見えかくれしている。この男の頭の中には、「尊敬する」「祖父」の悲願(憲法改正)を祖父に代わって実現するという執念しかないに違いない。

 忘れてはならないのは、祖父岸信介は巣鴨プリズンに拘留されたA級戦犯であったのみならず、太平洋戦争に積極的にかかわり(満州国の高官、東条内閣で大臣)死ぬまで侵略戦争認識を拒否した人物だったということだ。そのような人物を祖父にもち、それどころか尊敬するけなげな孫首相なのである。

 シロかクロかで分類するのは本意ではないのだが、あえて言わせてもらえばこの国の大部分のピープル(民衆、人民)が実は「負け組」化しているのではないだろうか?
 このまま負け続けるのか?
 高笑いをするのは、ひとにぎりの支配者階級であり、政府高官、官僚だけなのか?

 (ブログ中の連載で中断しているものがありますが、年を越してしまいましたが気長にお待ち下さい。長いスパンで見ることが大事です(笑)。)



1/5 E.G.P.P.100/Step66/40年目の「SUMMER of LOVE!!」

2006-12-30 00:03:22 | イベント告知/予告/INFO
Gratefuldead●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
2007年口開き!!
新年(とし)の初めはオープンマイク!! 
E.G.P.P.100/Step66

テーマ:「40年目のSUMMER OF LOVE!!」
2007年1月5日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN

(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、マツイサトコ(うた)、おもとなほ(ひとり芝居)、かし(ギター、うた)、ロコ(弾きがたり・予定)、イエス北村(コメディ・予定)、小堀イチエン(ボウズパンク・予定)……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/


 2007年はカウンター・カルチャーの、ということはビート、ヒッピー、フーテンの(笑)世界観を大事に思い、そこに「世界を変える夢」の源泉を見い出すものにとっては、ひとつの記念碑的な年なのです。
 つまり、アメリカにおけるヘイトアシュベリーでのヒッピームーブメントの盛り上がりと、年の初めにサンフランシスコのゴールデンゲート・パークで行われたHuman Be-Inから40年目の記念すべき年であるということです。
 そして、日本における「SUMMER of LOVE」だった新宿東口前の植え込み(グリーンハウス)が、ひと夏フーテンに占拠され「平凡パンチ」をはじめとする週刊誌、新聞、TV番組にしばしば取り上げられ、一般市民に奇異の眼にさらされながらも全国からの「書を捨て街に出よ!」の家出少年少女のメッカとなった年から40年目だからです。

 そう、1967年のその一年は「愛の夏(SUMMER of LOVE)」として、記憶されつづけなければならないと思います。

 新宿駅の架線の上をベトナムへ発着するジェット戦闘機のジェット燃料が日常的に輸送され(米タン)、そのことが知られてきて阻止闘争につながってゆく少し前の時代でした。ベトナム戦争はドロ沼化の様相を呈し、仏教徒が抗議の焼身自殺をし高度成長の未曾有の豊かさとともに沖縄から爆撃機が飛び立って行きました。横田基地では米軍兵の死体洗いの高価なバイトがあると囁かれはじめていました。

 あれから40年の年月が流れましたが、「LOVE & PEACE」をはじめとした60年代のメッセージは、若者のあいだにも若者の音楽だったロック・ミュージックのなかにも引き継がれています。
 同世代を裏切って、市民世界にのうのうともぐり込んだ人間にも、社会の底辺で意志を貫いた人間にも等しく時間は流れ、リタイアの時期となったようです。

 1967年とは何だったのか、2007年とはどういう意味をもった年にするのか?
 NHK_BS2の特集「日めくりカレンダー 1967年」をも、見据えながら世代をつなぐメッセージをアピールする(笑)!
 その名も「40年目のSUMMER OF LOVE!!」。

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定は関係ありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

E.G.P.P.100 MIXI内コミュアドレス→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706



MIXI 13,500アクセスは!

2006-12-28 01:32:27 | トリビアな日々
フーゲツの JUNさん、こんにちは。

mixiからのお知らせです。フーゲツの JUN さんのページ全体のアクセス数が13500アクセスを超えました。記念すべき13500アクセス目の訪問者は南国飯店 さんでした!

以下のURLより 南国飯店 さんのプロフィールを見ることができます。
これをきっかけにアクセスしてみてはいかがですか。
プロフィールを見る→ http://mixi.jp/show_friend.pl?id=1916155

 ありがとう! 南国飯店! 何もコメントがない時に、キミの書き込みやリスペクトにどの位励まされたことか! いつか、キミのタイ式マッサージを受けたいものだ!
 安くしてね(笑)!

ブログ『風雅遁走!』としては、通算75,505です。なかなか、健闘してるんじゃないでしょうか?


1月3日放映!NHK BS第2に登場する!

2006-12-27 01:59:36 | アングラな場所/アングラなひと
 新聞の別刷り特集「年末年始のテレビ」というのを見ていたらボクがこの12月5日に取材された番組の事が載っていた(その取材顛末記、というほどでもないが、一応6日付けで書いた記事はこちらです。「裏切りの季節~~1967年→2007年」→http://blog.goo.ne.jp/angura_1967/d/20061206)。

 2007年1月3日 NHK衛星第2 19:30~22:30 「日めくりタイムトラベル・昭和42年」
番組案内のコメントはこんな具合。「▽40年前の事件事故から珍奇な流行に至るまで完全網羅▽”昭和42年を知りたい会”のタレント・文化人が徹底調査&大胆仮説で昭和42年はどんな年だったか?を追求▽”昭和42年を知ってる会”のメンバーの爆弾証言&激烈トークほか (出演)伊集院光/中尾彬/生田智子/伊東ゆかり」

 ボクはこの番組の中で「フーテン族」のところで証言することになっています。しかしながらポエトリー・リィディングの場面とあわせて全4時間以上新宿の路上で取材されながらも、出演は5分程度だそうです。
 だんだん、憂鬱になりつつあります。これって、結局バラエティ番組じゃないんでしょうか? TV嫌いのボクがあえて出演した意味があったのか、どうかは番組を見るまでわかりません。

 番組の企画書は、以下のように書かれてあってこれは信頼していいかなと当初はボクを思わせたのですが……。

 「まさにNHK・BSにしかできない、「昭和モノ」の決定版。
 とある昭和の一年に着目、事件事故から珍奇な流行まで、アーカイブを駆使し、徹頭徹尾追いかける。目指すのは、一年という断面に凝縮された”昭和の空気そのもの”を、3時間の生放送の中で、パーフェクトに蘇らせること。
 知っている世代には記憶の強力なフラッシュバック装置として、知らない世代には異世界への扉として、その双方にとって「過去に置き忘れたものは何か」を考えるきっかけになる、世代を越えて家族の会話が弾む番組とする。……第1回は、ちょうど40年前、団塊の世代が青春を謳歌していた『昭和42年』(1967年)」(「日めくりタイムトラベル 昭和42年」企画書より)

 ところで、ボクはBSを見れる環境にありません(笑)。いたって文学的にボクはインタビューに答えましたが、「新宿風月堂」、「フーテン」、「サイケデリック」は「珍奇な流行」で取り上げられる可能性が大です。コケにされたのか、正面から取り上げてくれたのか番組を見なければ判断できません(ボクは「部族」のことも多く語りました)。

 3日は、BSの見れる環境に行きますが、どなたかビデオかDVDに焼いて録画を提供してくれると助かります。どうか、よろしくお願いします。
 それから、御覧になれる方は、しっかりと見定めて感想や番組批判をコメントしていただけると励まされます。
 こちらの方もよろしく!


企画書「この国で『ルチア祭』をまつる意味」

2006-12-26 23:56:01 | アート・文化
Lucia_fes_1 不満1。親が貧しいとサンタクロースも来ないという事実!(本来サンタクロースつまりセント・ニコラスは貧しい子どもたちに施しをした。そこから「プレゼント」の風習とおもちゃ業界、お菓子業界が「クリスマス」を仕掛けた。日本では昭和30年代ころから。)

 不満2。プレゼントは「こころのこもった言葉」(メッセージ・カード)でもいいはずなのに、子供たちにとっても物質的なプレゼントがないと飢餓感を与えているということ(クリスマスくらいおもちゃを玩具会社がタダで配ると言う風習ならば賛成するかも)。

 不満3。保育園や福祉施設関係のクリスマス・イベント自体が「行事」化して、イベントのためのイベントになっており、福祉にかかわる職員自体も楽しめる内容になっていないこと(ここでもイベント自体が空洞化、空虚になっている)。

 不満4。この国では老人たちそして子どもたちにとっても、伝統や歴史を学ぶ行事になっていないこと(信仰の対象として教えられない以上、聖人伝説を伝えても「聖書」いまでゆきつかない)。

 不満5。若い世代の恋人たちにとっても、意味があるどころか、ひとりで過ごすのはみじめだというプレッシャーになっているらしいこと(ま、クリスマスはふたりでシティ・ホテルで過ごすという幻想はおそらくバブル期が生み出したものでしょう。恋人たちにとっては、それは「東京タワー」でもいいのでしょうが……)。

 結論。意味のない、業界の稼ぎどきイベントとしてはじまったクリスマス(イベントのためのイベントとしてのクリスマス)を、この国の風土にあった暦に戻すこと。

 「光の生まれる日」という感覚は、かって日本人のものでもあったということ。太陰暦の「一陽来復(いちようらいふく)」という行事こそが、私たちのたましいにふれる「まつり」であるということ。
 「一陽来復」を北欧の春をまつ歓びの冬至祭『ルチア祭』として、復活させること。エコロジカルに祭り直すことで、わたくしたちすべての人間にとっての希望の日、光の生まれる日となること。
 『ルチア祭』を素朴に、静かにまつることは、華やかな電飾で電気を無駄使いしてる華美な消費社会の在り方をも考え直すきっかけになること。

 以上、提案いたします。

(写真:TOMO)



光の生まれる日/ルチア祭

2006-12-25 00:54:47 | コラムなこむら返し
 クリスマスイブの夜、いかがお過ごしでしょうか?
 またひとりぼっちだと、さびしくリキュールでも飲んでいるのでしょうか?

 もちろん、今宵はクリスマス・トリビアをまた開陳するも一興なのですが、2年もやっていると飽きてしまいました(笑)。それに、ボクは冬至からはじまるこの時期を北欧の「ルチア祭」にならって、「光のまつり」とすることを提案し続けています。クリスチャンの人たちは、クリスマスをこの世の原罪をになって処刑台の十字架につかれたイエスさまを偲び、その誕生をお祝いしながらも静かにミサで過ごします。
 クリスチャンでもない多くの日本人が、サンタクロース(セント・ニコラス)のプレゼントとひっかけて楽しむ(また商魂たくましく商売する)ことには、文句をいいませんが、むしろこれから光があふれ、春になってゆくと言う歓び、感謝をあらわしたほうが、心情としては近いのではないかと老婆心ながら思うからであります。
 この時期、各地でミレナリオが開催されています(東京・神戸など)。電力の無駄使いのような電飾のまばゆい人工的な洪水は、むしろ資源の浪費でこれからの私たちのライフスタイルに希望を与えてくれるものではありません。
 そう、ここはキャンドルで祝うべきです。あの「100万人のキャンドルナイト」(夏至と冬至の日に電気を消して私たちの暮らしを見直そうと言う主旨の運動)のようなエコロジカルなコンセプトがいいと思います。それに、ルチア祭は「ひかりの生まれる日」ですから、まばゆい光の洪水はむしろ女神ルチアを遠ざけてしまうことになりかねません。
 モミの木を模したツリーはあってもいいでしょう。なぜなら、それは常緑樹のモミの緑が「ひかりをもたらすもの」と同じ意味合いからクリスマスに採用されたものだからです(他にひいらぎ、やどり木など)。でも、それらの常緑樹は森から切り取られたままに派手な飾りは何も付けず、日本の門松のように(門松も同じ意味合いで、「若水」「若木」の言祝ぎの意味をもつ)入り口に立てられたものでした。
 ルチア祭は、雪に閉ざされた厳しい冬を越えねばならないひとびとの、光りつまり春を待ち焦がれる希望と期待のまつりでした。
 ただ、少女神ルチアの扮装が、あたまに5本のローソクをたて緑のリボンでしばるという一見、お百度詣りのワラ人形を打ち付ける時の姿を連想させてしまうと言う欠点(笑)があるのですが、あの自由の女神も似たような姿をしています(……はい)。
 クリスマスはクリスチャンの方々のお祝いにお返しして、私たちは「ルチア祭」で冬至以降の春そして、新春を迎える祭りにしませんかと提案しているのです。

 ということで、みなさん! ハッピィ・ルチア! ひとりぼっちのキミにも、さびしがりやのあなたにも光の女神ルチアの歓びと希望がもたらされますように!

(参考文献:「クリスマス・クリスマス」角野栄子(「たくさんのふしぎ」1989年12月福音館書店)=この絵本はクリスマスのトリビアに満ちた素晴らしい写真絵本で、「魔女の宅急便」の作者である角野さんの現地取材による本です。おすすめしたいのですが、残念ながら絶版のようです。単行本化された方は手に入るかも知れませんが……。)


西郷どんの上野(5)/「聚楽」のメニュー

2006-12-24 00:29:17 | まぼろしの街/ゆめの街
Saigo_donburi こうして見ると上野には、江戸も明治もがタイムカプセルのように凝縮されているようだ。さらに、大正、昭和のレトロなモダニズムもそこにはある。今日はその話をして、この5回にわたった上野そして西郷どんの話を終わろう。

 かって不忍通りには、府電のちの都電が走っていた。不忍通りを歩くとボクには、チンチン電車が走っていた頃の幻影が見える。護国寺方面から動坂、団子坂下、根津を通って上野へ至る懐かしい路線だ。このチンチン電車に乗って不忍池のほとりを通り、広小路で降りる。
 上野へ来れば、食事はきまって「じゅらく」だった。レストラン「じゅらく」は、下町育ちの者にはなつかしい洋食屋さんであろう。漢字では「聚楽」と書く。
 そして、現在では考えられないことだが、昭和27年に西郷どんの建つ山王台の銅像の下がくりぬかれ「上野百貨店」ができる。ここには現在も1階部分にその名残りがあるが、広小路に戦後闇市を開いていた露店商が収納される。御徒町一帯の闇市はアメヤ横町通称アメ横になる。

 「上野百貨店」のテナントは、入れ代わるがレストラン、ビアホール、映画館(上野セントラル)ができる。その2階部分に「聚楽」の支店である「じゅらくだい(聚楽台)」がある。
 ここは現在ファミレスのルーツとか言われているらしいが、デパートの階上にあったファミリィ・レストランの雰囲気を濃厚に残す洋食屋さんだ。「聚楽」そのものが、大正13年に神田須田町にできた洋食屋「須田町食堂」を前身とするレストランのチェーン店だ(創業84年ということになりますか……)。
 「聚楽台」には、桃山様式といえるのかどうか知らないが手すりのついた座敷の間がある。そのデザインそして飾り付けそのものが上野らしく非常にキッチュである!

 そして、今回、この上野の西郷どんにまつわる話を書くきっかけになったメニューに出会ったのだった。西郷どんの銅像の真下である。ボクは迷うことなく注文した!
 おそらく、ここ「聚楽台」でしか食べることができないし、また日本中でそこ以外にふさわしい場所はないだろうというメニューである。

 その食べ物の名前は、「西郷どん」と言う!

 漢字で書けば、「西郷丼」であろう。写真で分かっていただけるだろうか?
 御飯の上に、豚の角煮、さつま揚げの半身、薩摩イモの天婦羅、薩摩黒豚のそぼろ、薩摩地鶏のゆで卵がトッピングされているという「薩摩(鹿児島)」名物のオンパレードの丼(どんぶり)である!
 いや、これが案外おいしかった。鹿児島ではさつま揚げはアツアツのものを食するが、ま、それはいたしかたないだろう。
 これに、薩摩のイモ焼酎をつけ合わせたら、おそらくここは上野だ、天下をひっくり返すようなことができる気分になれたかもしれない(それは薩摩焼酎の酔いのせいだけだとしても……笑)。

 かくして、ボクは気宇壮大な気分になって、明治時代の上野に思いをはせたという訳なのだった。

(写真4)これが、ここでしか食べられない驚異の「西郷丼」だ(笑)!

(終わり)



西郷どんの上野(4)/肚(はら)の西郷

2006-12-23 21:40:38 | まぼろしの街/ゆめの街
Saigo_dozo 上野公園の山王台に西郷隆盛の銅像が建立されたのは、明治31年12月のことである。西南戦争で「朝賊」であった西郷隆盛の名誉が回復され、また西郷が庶民に圧倒的な人気があったためかもしれない。西郷隆盛には「西郷伝説」という民衆のあいだに流布された伝説が根強くある。西郷どんが自刃した時、空を赫色(かくしょく)星がまたたいたとか、死体に首がなかったから生きている、といったたぐいの伝説だが、これらの伝説も西南戦争が、黎明期のこの国のジャーナリズムによって取材され、事細かに報道されていたという事情が大きい。「朝野新聞」や「東京日日新聞」、「郵便報知新聞」などが、従軍記者(福地桜痴など「東京日日新聞」の社主みずから乗り込む)を派遣してその一部始終を記事にし、さらに錦絵になって判官びいきの庶民(最近の日本人には失われた心情ではないのか? 「勝ち組びいき」じゃ、主人に摺り寄るイヌだよ!)のあいだに西郷どんのイメージを植え付けていった。

 上野山王台の銅像は高村光雲の手によるが、実は西郷どんの脇にひかえる犬は作者が別である。なぜ、そういうことになったのか今回は調べ切れなかったが、西郷どんの浴衣姿は実はウサギ狩りの姿で(西郷隆盛は征韓論争で中央官吏(参議)を退いてから、湯治や狩りにいそしんでいた)、それゆえ後藤貞行作の和犬が付け加えられたようである。
 さて、この西郷どんは何をキッとにらみへい倪しているのだろう。実は、その視線の先にはあの皇居、自らが無血開城した江戸城がある。西郷が陣頭指揮して平定した彰義隊の霊を率いて、西郷は皇居を睨みすえている!
 そして、さらにはこの地で行われた上野戦争の新政府側の兵士の霊、さらに戊辰(ぼしん)戦争や西南戦争に倒れた官軍の兵士の霊を合祀する目的ではじまった靖国神社を睨みすえている!

 鹿児島出身の西郷どんの銅像が、背後にひかえさせているのはこの国の夷(えびす)のすむ地、鬼門である艮(うしとら)の方位、東北である。大村益次郎を指揮官とした討幕の官軍は会津、奥羽、越後から函館(箱館)まで遠征する。函館の五稜郭にたてこもって徹底抗戦した榎本武揚(海軍副総裁)もまた、佐幕側では注目すべき時代を超えたビジョンを持っていた。

 そして、この榎本武揚は下谷御徒町で生を受けた上野出身の人物でいわゆる「蝦夷共和国建国」構想を持ち、その長を選挙で選んだ。一時は、明治初期にこの国に二重権力状態(政府がふたつある)が現出していた。新撰組出身の土方歳三も榎本とともに闘いこの地で死んだ(榎本はのち許され明治政府の要職につく)。

 西郷どん自身は、むしろ純粋なまでに天皇絶対親政主義者で、明治新政府がその官僚機構(有司専制)によって明治天皇を利用していると憤慨していたほどだった。西郷は民衆に人気があったほどには、開明な思想の持ち主ではなかった。むしろ「軍神」と崇められたように西郷自身は自らも語ったように「いくさ好き」で、大東亜共栄圏思想の萌芽の思想の持ち主と言われる。西郷どんの魅力はおそらくその剛胆さにあった。「肚(はら)の西郷」(竹崎桜岳)と言われる所以である。

 参考文献:新版「上野のお山を読む」(上野の杜事典)谷根千工房2006
      「西郷隆盛??西南戦争への道」猪飼隆明/岩波新書1992

(つづく/次回完結)



西郷どんの上野(3)/銭湯で上野の花の噂かな

2006-12-22 01:24:31 | まぼろしの街/ゆめの街
 先回ふれた「長屋の花見」は、下町の貧しい長屋の住人たちが大家の発案で人並みに花見に行こうというハナシだ。とはいえ、酒もつまみも用意できないから、日頃食べているものを豪勢な花見の重箱料理に見立てて花見を楽しむと言う悲しくもおかしくもある江戸落語である。小さん師匠の十八番だった。じゃ、十七番はなんだっかというと、そんなのは知らねぇ(笑)。
 長屋の住人は、酒のかわりに一升瓶に入った番茶を飲んで酔っぱらい、豪勢な玉子焼きはじつはたくあんで、バリバリと音がし、柔らかいカマボコはその実大根でサクサクと噛みごたえがある。そこを持ち前のやせ我慢でおかしみたっぷりに見立てハナシは進む。
 ボクが日暮里で少年時代を過ごした昭和30年代??そのあたりに住む住人が花見に行く場所は、飛鳥山か上野山だった。そして、この両者ともが、どこか江戸情緒を残した空間だ。
 そして、「長屋の花見」によく似た花見風景は、日常的にあったに違いない。

 思い出しついでに書いておくと、不忍池の弁天様前あたりで、よく口上香具師を見た。それこそガマの油売りを見たことがある。日本刀でつけた傷がたちまち塞いでしまうのなら、ボクの心の傷もふさぐことができそうだった(笑)。
 母子家庭であるボクは、あまり母にかまわれた方ではなかった。それまで、ボクはキャッチボールのように、熊本の母、東京の父そして養育を放棄した父の下から叔母のところへと転々として転校と住居が定まらなかった。結局、東京で町の小さな洋裁屋のお針子をはじめた母のもとへ引き取られ、動坂(千駄木)、林町、谷中初音町と日暮里周辺だけでも文京区、台東区、荒川区にまたぎ、越境しての転居をくり返した。いま、地図のうえでは見つけることの出来ない地名が頭の中にこびりついて離れない。
 そうであるせいか、ボクはハーフサイズ(フィルムが2倍になる)の一眼レフ(と言っても安物の)カメラをもって、よくひとり彷徨い歩いたものである。そして、行き着いた先が上野であることが多かった。あの谷中の墓地や、路地裏や、長屋が無償に好きだったから……。そして、その習い性がボクをアンダーグラウンドな街を彷徨わせ、深夜喫茶に導いたのかも知れなかった。日暮里の『シャルマン』などのジャズ喫茶でモダンジャズの洗礼を受けるまでに、まだ6年程の月日がある。ボクが10歳頃の話である。

 さて、上野は江戸時代には見せ物興行の小屋がたち、そして明治に入って日本で最初のオープンスペースな歴史的建造物を残す公園となってからも、博覧会が次々と開催される帝都のメインのイベント開催地になる。それにともなって精養軒(明治9年)や茶屋が公園内に建てられる。列記してみると、以下のような頻度のにぎわいだ。

 明治10年、14年、23年 内国勧業博覧会
 同 16年 水産大博覧会
 同 40年 東京勧業博覧会
 同 43年 貿易品博覧会
 同 44年 納涼博覧会

 大正元年 拓殖博覧会
 同 2年 明治記念博覧会
 同 3年 東京大正博覧会
 同 4年 家庭博覧会
 同 5年 海事水産博覧会
 同 年  婦人子供博覧会
 同 6年 奠都50年奉祝博覧会
 同 7年 婦人子供博覧会
 同 8年 畜産工芸博覧会
 同 11年 平和記念東京博覧会
 同 14年 畜産工芸博覧会
 同 15年 こども博覧会

 昭和2年、3年 大礼記念国産振興東京博覧会
 同 年   納涼博覧会
 同 3年 御慶事記念婦人子供博覧会
 同 8年 万国婦人子供博覧会
 同 11年 躍進日本大博覧会
(参考文献:新版「上野のお山を読む」(上野の杜事典)谷根千工房2006)

(つづく)


「TOKYO READING PRESS」第6号に紹介記事

2006-12-21 01:07:34 | アングラな場所/アングラなひと
 どうも面映くて、こういうのは趣味じゃないんだけど、昨日、ボク自身もやっと手に入れたので、紹介しておきます。
 以前、「東京ポエトリー・カレンダー」という名前で発行されていたフリーペーパーが、リニューアルして本年から「TOKYO READING PRESS」という名前で隔月発行されています。ポエカレの時は、ボクもイベントの広告をだしたり、EGPP100の告知を掲載してもらっていましたが、このような形でリニューアルしているのを知ったのも、ボク自身つい最近でした。
 で、「READING PRESS」の協力ライターのひと(丹野さん)から一本釣りされて最新号「12-01」通算第6号の「People」の欄に少しですが、ボクのことが紹介されています。
 どうも、根が謹み深いボクは(自分で言うな!)、こういう宣伝は苦手なのですが、どこかで手に入りましたらお目を汚しください(こういう謙虚な言い方には、ボクは普通「イヤだ!」と答える(笑))!

 リードは「フーテン詩人という言い方が一番すきです」。

 これは、ボクが答えたことばだった。ただ、丹野さんが書いてくれた次の言葉も凄い(笑)!

 「その情熱は暗い時代の沈まぬ太陽であり、聞き手に生の息吹きと60年代のエナジーを送り続けている。」

 同じ号には、10月下旬におこなわれた旅の画家アキノイサムのイベント・レポートもある。ボクの記事より大きい(笑)。イサムもヒッピー・ペインターの大先輩であります。

 ただこのフリーペーパー、どこにでもある訳ではないので配布先は以下の「東京READING PRESS」のサイトで確認して下さい。中央線沿線の古書店にひょっこりとあったりします。

 「TOKYO READING PRESS」→http://www.tokyoreadingpress.com



西郷どんの上野(2)/上野公園は江戸である

2006-12-20 00:00:05 | まぼろしの街/ゆめの街
 上野公園に「江戸」を感じるのはボクだけではないだろう。ボクには寛永寺のかなたの森に、群居している黒いカラスの寂しげな鳴き声にさえ「江戸」が感じられて仕方がない。子どもの頃からそうだった。
 それは、上野東照宮や、寛永寺、かってこの地にあったという上野大仏や五重塔の存在も大きいが、それだけが原因ではないだろうと思っていた。それで、上野公園の歴史を調べていたら、そのボクの子どもの頃からの「謎」は氷解したのである。

 彰義隊と維新政府軍との「上野戦争」のあと、荒れはてた上野山に陸軍病院建設が計画される。その建設の是非をドイツ人軍医であるボードワンが意見を求められる。ボードワンは視察のあと、むしろこの地は公園にして共有空間として人々に開放し、歴史的建造物を守るほうが良い、という提案をした。この提案によって、ボードワンは上野公園の父とも言うべき存在になった(ボードワンの銅像は噴水の脇に建っている)。

 明治6年3月25日、寛永寺境内を公園用地とした上野公園がオープンし、2年後には不忍池周辺も公園に編入された(大正13年までは「御料地」。以後、下賜され「恩寵公園」となる)。寛文年間から花見の場所として江戸っ子に親しまれていた上野の山に、夏の風物詩である蓮見で有名な不忍池が組み込まれたことで、江戸の「聖なるもの(ハレ)」と「俗なるもの(ケ)」がセットになって保存されたのだ。それも、現在に至るも同じ「花見の賑わい」が繰り広げられる「生きた歴史的空間」としてだ。
 不忍池の大ハスの親水的な風景と、そして徳川家康を祀る東照宮(東照宮は日光、上野、静岡の3ケ所ある)や、歴代将軍の墓の置かれた寛永寺の墓所。

 金も食い物も用意できないが、「見立て」の心意気と勢いで花見を敢行する落語「長屋の花見」の御隠居さんや八つあんや与太郎が息づいた100万都市「江戸」??物質循環という意味では、理想的なエコシティだったという「江戸」の幻影がそこから立ち昇ってくるような気がするのはボクだけだろうか?
(つづく)



西郷どんの上野(1)/上野戦争

2006-12-18 01:05:25 | まぼろしの街/ゆめの街
Syogitai_memorial_1 昭和30年代の少年期を日暮里周辺で過ごしたボクには、上野は親しい街だった。だから、一時はデパートといったら「松坂屋」だったし、アメ横にもよく行った。都電に乗っても来たが、谷中墓地を突っ切っての散歩や撮影をかねてもよく歩いた(ボクはカメラも趣味だった)。
 少年時代のボクは、6歳くらいまでしかいなかった生れ故郷である長崎と似た場所を無意識の内に求めており、D坂いや動坂周辺は格好の場所だった。後年、長崎に行った折、長崎の路地や塀に動坂の面影を見てしまったくらいだった(ボクの長崎のイメージは混み入ったリオのファヴェーラのような坂の街である)。

 さて、上野は江戸時代から丑寅の鬼門で、封建時代から明治への変革期つまり江戸から東京の変わり目に重要な役割を果たした。靖国神社(もともとの名は東京招魂社)の制定にも上野の山を主舞台とした「戦争」が大きな役割を果たしている。そう、かって140年ほどむかし上野の山で戦争があった。

 徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還した翌年(1868年)、慶喜は上野寛永寺に謹慎ちっ居した。幕藩支持派は「彰義隊」という名で「最後の将軍様」慶喜の守備警護の名目で上野の山に結集した。最盛期には2~3千もの武装した「彰義隊」がいたという。京都の新政府にとって江戸無血開城のあとのこの事態は、目の上のタンコブで目に余った。徳川慶喜の処置に関して強硬派と穏健派に分かれていた新政府側は大村益次郎らを東征軍の総指揮官として江戸に派遣する。
 すでに討幕の端緒を開いた薩長連合の戦いの功により陸海軍務掛(総大将に等しい)であった西郷隆盛は薩摩軍をひきいてこの上野山の闘いでももっとも戦いのはげしかった「黒門」(現在も刀傷、砲弾の跡を残して保存されている)の闘いを指揮し薩摩軍はめざましい闘いぶりを示したと言う。
 この「上野戦争」は、一日で決着がつき、上野の山には彰義隊の死屍累々たるありさまだったらしい(戦死205名)。

 さて、この上野戦争や、戊辰(ぼしん)戦争での政府軍の犠牲者の御霊を祀る目的で大村益次郎らの手で作られたのが、靖国神社の前身、招魂神社であった。そして、のちに西南戦争で政府軍に反旗をひるがえし、「朝賊」となってしまう西郷隆盛は、靖国神社には祀られていない。
 彰義隊の墓地および記念碑は、西郷隆盛像の真後ろにあり、つい3年ほど前まで公園内に家が建ち、彰義隊の記念館(資料館)の役割を果たしていた。そのあたりを上野の山の「山王台」と言うのだが、歴史の皮肉のような近さである。
(つづく)

(写真1)「上野彰義隊墓所」。後ろの建物は現在ありません。これは、3年ほど前、資料館閉館の日に写したものです(無断転載不可)。

(参考文献:「上野の山は戦場だった」小川潔など/小川潔さんは、公園内の彰義隊墓所を守り続けた彰義隊の子孫の方です。)



西郷どんの上野(写真_1)

2006-12-15 15:06:53 | まぼろしの街/ゆめの街
Saigo_don(写真_1)上野といったら東北地方への玄関口、「嗚呼!上野駅」だし、上野の山(恩寵公園、動物園、寛永寺)だろう。そして、その端で周りをへい倪するかのような西郷どんの銅像だろう。この日も、西郷どんは愛犬をつれて冬だと言うのにうすい浴衣地の着流しでいらっしゃった(笑)!



ダリってダリ? アリ?(2)アリ編

2006-12-14 00:20:05 | アート・文化
Who_was_ali どこか消化不良のアートなストマック(偏執狂的芸術的胃袋です!(笑))をかかえたまま、宵闇迫る上野の山に放免されてしまったボクは、御徒町アメ横のガード下、路地をうろつきまわった。というのも、この夜、ボクは上野駅浅草口のほぼ斜め前にあるライブバー『kinack』で、YARZのアリのソロライブを見に行くというふたつ目の予定があったのだった。

 師走に入ったとはいえ、年の瀬の買い出し風景にはまだ遠かったが、アメ横は確実に国際化しているようだった。アジア料理には欠かせない香辛料のたぐいを扱う店があるのは以前から知っており、ボクもしばしば買い物にも来たことがあるが、キッチュなデザインのジャンバーなどを扱う衣料品店がアフリカ系の店員が多くなっていた。そのような店を冷やかしたり、上野松竹の中につくられていた古本市(映画館はつぶれたのだろうか?)を覗いたりしながら、『kinack』へ向かう。

 今宵の企画者は、E.G.P.P.でもおなじみのbambiさんでアリは若き日のアイドルだったという告白でライブは始まりました。しかし、今夜のライブはアコギ1本で、それもマイクで音をひろっての展開で、ロックバンド「YARZ」でのアリを見なれているとだれかの「追悼会」のようにしめやかなライブでした。
 アリ本人もいつもより1オクターブもテンション落としている(「それって、スゴイ落ちかただよね」というMCもあり)と言っていましたが、そうだとしてもブルースコードで歌うその演奏は本当に渋い。もう、いぶし銀の輝きです(笑)。つい最近、エリック・クラプトンが来日してコンサートを開いていったが(まだ滞在中?)、ボクはアリのことをインディーズ界のクラプトンと呼んでいます!

 演奏曲はYARZの持ち歌が多かった。だけど、アットホームな小さなライブバー『kinack』で、それらの曲をアコギ、ソロという形で聞くと、まるで、自宅コンサートにつきあっている気分でなかなか良かった。
 ご一緒したのは、YARZファミリィ!?

 この日ボトルネックで演奏した曲にはしびれたし、ベースのヤスのために作ったと言う曲も披露してくれました。ややフォーク調の曲だったが……(笑)。

 しかし、この日一日はダリからアリと終始消化不良(笑)! 発散するために、今度は是が非でもYARZのフルメンバー(といってもヤスとケンゴの三人なのだ)でのライブに行かねばならないだろう!

 アリってダリ? アリッ?
(DALIからDを引くとALIになる! 新発見であった(笑)!)