風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

春一番の吹いた日

2010-02-27 01:41:33 | コラムなこむら返し
West_shinjuku まだ新宿の続きです。都庁を出て街路へ出ると、もう夕刻近くだったが、空は澄みきりコートを脱いで歩く人が多かったほどポカポカ陽気で春が近いことを予感させました。西口の高層ビル群の後ろの空も青く目に痛いほどです。
 この日は、夕食作り当番の日で、行きたいところもあったのだが断念して帰宅した。すると、ベランダに干しておいた洗濯物は強い南風で吹き飛ばされており、まだ上空には風がうなっていた。
 関東地方に「春一番」が吹いたと、気象庁がこの日(25日)発表した。なんと気温も18度を上回っていたらしい。



デコアートはカワイイか?

2010-02-26 00:54:45 | アート・文化
Marie_tokyowander 「空中歩廊」と名付けられている渡り廊下のそのスペースは、東京都が主宰する公募展などの入選作が飾られるギャラリースペースとしても活用されている。今回は石井麻理絵さんというアーティストのトーキョーワンダーウォール公募展2009の入選作が展示されてあった。
 写真等に若い女の子の間で大流行りのデコをこらしたデコアートとでも言うもので、「カワイイアート」と言うのだが、どうなんだろう?
 もうひとつこれはテーブルにおいてあった給水塔の写真がなかなかいいところに目をつけるもんだと思わせたのである。近代建築としての「給水塔」。東京都の水道局ならスポンサーになるだろう(笑)。






『フラガール』とエイト・ピーチェス(3)

2010-02-24 23:12:26 | アート・文化
8_danceofsummer エイト・ピーチェスとはどのようなダンスグループだったのか?

 SKD(松竹歌劇団)というレビュー集団がかってあった。もともとは「少女歌劇」として出発し、全盛期は宝塚歌劇団とはりあうほどの興隆を誇った。先日亡くなった「男装の麗人」ターキーこと水の江滝子はじめ草笛光子、淡路恵子、倍賞千恵子などの数多くの女優、歌手、タレントを生み出したSKDは、1928年創設の長い歴史の中で、ライン・ダンスの「アトミックガールズ」などの独自のアトラクション演目を持ち女性には憧れを、男性には娯楽を提供した。ちなみに寺山修司と結婚した九条今日子(芸名は映子)もSKDの出身である。
 1956(昭和31)年にSKDのメンバーの中から選抜された8人でつくられたダンスチームがあった。それがエイト・ピーチェスである。あれこれ並び称されながらも宝塚歌劇団との違いというのは、SKDにはこのようなお色気路線があって、男のファンも結構いたという点だろう。エイト・ピーチェスの活動ピークとも言える1964年には、創刊されたばかりの『平凡パンチ』のグラビアを飾ったりしていて、ピンナップガールとしての注目度もあがっていたようだ。ふたたび強調しておくが、そのどれもにヌードという形での表現はない。エイト・ピーチェスの八人はどこまでもダンサーであり、ライン・ダンス、レビューそしてモダンダンスをこなし、毎日がその練習と訓練で明け暮れていたに違いない。「踊り子」と言ってもいいだろう。それはダンサーの訳語なんだから……。
 たしかに、踊り子だ。「伊豆の踊子」のような少年書生の「あくがれ(憧れ)」をも引き出したほのかなロマンスも付与して……。ボクにとっての『伊豆の踊子』が、田中絹代でも山口百恵でなく吉永小百合であるような年上の女性への少年の昭和30年代の「あくがれ(憧れ)」だ。

 エイト・ピーチェスはSKDの中では「娘役」の登竜門とか、ダンスがうまいメンバーしか選ばれないと言われていて、エイトピーチェスに選ばれることは団員(生徒)にとって名誉なことだったのだ。それにSKDの看板であるラインダンス(アトミックガールズ)とともに、看板スター以外では圧倒的人気を誇ったユニットだったのだ。解散したSKDを引き継ぐ現在のダンスチームの中では「エイト・ピーチェス」は、いわば「演目」同然の使われ方をしている。もはやチームでもなく、演し物、プログラムもしくはスタイルなのだ。

 映画『フラガール』のモデルとなった常磐ハワイアンセンターこと現「スパリゾート・ハワイアンズ」に付属する「常磐音楽舞踊学院」の創設期の成り立ちの事実関係は知らない。「平山まどか先生」のモデルとなったらしい学院の最高顧問カレイナニ早川(早川和子)さんがSKDやエイトピーチェスとどのような関わりがあったのかなかったのか、分からない。しかし、『フラガール』で呼び覚まされた昭和30年代半ばの幼い性をもてあましていたあの頃の純粋だった自分が、『フラガール』での平山まどか先生のひと言の台詞でエイトピーチェスの鮮烈な記憶とともに甦って来たのは、確かなことだった。

(おわり)

(写真)SKD『第42回夏の踊り』(1976年、浅草国際劇場)のプログラムの表紙はエイト・ピーチェスだった。これはエイト・ピーチェスの70回記念だとか。(Web site「vintage takarazuka」より借用。借用を感謝!)



『フラガール』とエイト・ピーチェス(2)

2010-02-23 01:56:43 | アート・文化
8_peachs1963 かって『エイト・ピーチェス・ショウ』という深夜番組があって、お色気たっぷりのダンスを披露していた。『11PM』などの深夜お色気番組のはしりだったんじゃないかと思われる番組だ。衣装はアラビア風あり、リオのカーニバル風あり、レビュー風ありでまだビキニなんて水着を誰も着ていない頃だったからそれはそれは刺激的だった。それも、実は下には肉襦袢のような肌色のうすものをまとっているから決して裸ではないのだが、大人の男が鼻の下をのばして鑑賞するようなエロチックな踊りだった。
 それは、現在から見たら可愛いものだ。フィギアスケートの安藤美姫選手の「クレオパトラ」の衣装に萌えるようなものだからだ。しかし、それは「60年代の『性革命』」そしてそれに引き続くポルノグラフィの半ば解禁状態を積み重ねて来たから言えることであって、当時(昭和30年代の半ば)から見れば、充分に刺激的で、「良識ある団体」から攻撃されかねないような番組だったかもしれない。
 「悪書追放」といった「教育上」の配慮にもとづいた女性を中心にした市民運動や、消費者運動の萌芽が生まれた頃で(その背景として60年安保も何ほどかの力をおよぼしたのかどうかは分かりかねる)、「歌声運動」と言うものもあった。悪書追放の槍玉に「貸本漫画(劇画)」や、モデルガン屋がターゲットになったこともあった。
 さて、そのような深夜番組をコタツの中で腹這いになって見ていたボクの下半身はいつのまにか勃起し、きつく畳に腰を押し付けていたボクは下着を汚してしまったのである。

 断っておくが、エイト・ピーチェスのダンスはストリップティーズではないし、ミュージックホールのような大人向けのものではない。女子供が見ても美しく感じるだろうレビュー系のダンスだ。しかし、小学校高学年か中学生くらいだったボクには、エイト・ピーチェスは大人の女性の身体がどのようなものなのかと言うその入り口を開いてくれたのだ。ボクはおそらく思春期前期にいたのだろう。それに、当時のテレビジョン受像機はモノクロ(白黒)で走査線も荒く、解像度は悪い。肌色のシャツを下に着ていたとしても、裸体に見えたものだ。

(つづく)

(写真)1963年当時のエイト・ピーチェス(『漫画読本』グラビアより)



『フラガール』とエイト・ピーチェス(1)

2010-02-20 23:58:08 | コラムなこむら返し
Fura_girls 映画の公開としては2006年だから決して新しい映画ではないのだが、先日TV放映された(2月6日フジTV系列)『フラガール』(李相日監督)について書きたい。製作が会社更生法を申請した「シネカノン」だから、わずか4年なのに昔日の感がしてしまうが、この映画は炭坑映画としても、ひとつの産業の甦りのドラマとしてももっと注目されてもいい。
 ボタ山や入坑口、炭住(炭坑住居)のシーンなど懐かしく見たひとも多いのではないか。失われた戦後の風景としても、かってこの国のエネルギー政策を明治時代から支え続けてきた石炭そして炭坑の文化、風景は私たち日本人の原風景のひとつだと思うのだ。あらためて昨年暮れまで目黒区美術館で開催していた『'文化'資源としての<炭坑>展』の着目度を評価しておきたい(この展覧会のボクの感想はこちらへ→http://blog.goo.ne.jp/angura_1967/d/20091216)。

 さて、閉山も決まった常磐炭坑が起死回生の妙案として打ち立てたのが、坑道から湧き出た温泉を使ってのハワイに見立てたリゾートアイランド風レジャー施設「常磐ハワイアンセンター」であった。時は、昭和40(1965)年。施設に華やかさを与えるイベント「フラダンスショー」のフラダンスダンサーは炭坑夫の家族の娘たちから募集された。そのズーズー弁丸出しの田舎の娘たちに(蒼井優など。そうそう、「方言映画」という側面もあった)フラダンスを教えるために会社が雇ったのが、平山まどか先生(松雪泰子)だった。その平山先生があるところでフトもらす台詞。
 「あんたたちは知らないだろうけど、エイトピーチェスってあってね」
 この台詞でボクは一気に昭和30年代のある日に引き戻されてしまったのである。ボクは炬燵に潜り込んで家に来てまもないTVを見ていた。ブラウン管の中では、8人のあられもない格好をした大人の女性たちが官能的なダンスを踊っていたのである。

(つづく)


2/15 E.G.P.P.Nova!/Step103都市伝説・生き人形

2010-02-14 01:21:38 | イベント告知/予告/INFO
TOKYO POETRY RENAISSANCE(東京ポエトリー・ルネッサンス)
E.G.P.P.(East Gate Poetry Park)Nova!
テーマ・ E.G.P.P.Nova!/step103 都市伝説 「生き人形」
【オープンマイク】
MC:梓ゆい
主催:電脳・風月堂→http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/
開場19時/開始20時
参加費:1,000円(1Drinkつき)
会場 ライブバー「水族館」
東京都新宿区百人町1-10-7 一番街ビルB1F→http://bsn.bbzone.net/suizokukan/
JR新大久保下車徒歩3分


昭和53年、夏目漱石の夢十夜を元に作られた人形劇が上演された。

「呪夢十夜」

10人の女性の人生模様を、オムニバス形式で上演した人形芝居。

十人十色の人生模様が、人形という器を借りて舞台の上で交差を繰り返し劇が呼び寄せた不幸な女たちの無念の思いは、死霊となり舞台作品と器となった人形に集まってゆく。
そこから、悲しくも恐ろしい語り草が人形芝居という名の舞台を飛び出して幕を開けた。

これは、今もなお続く一人の男が体験した悲しくも恐ろしい話である。

生き人形とは?
http://lifedoll.at.infoseek.co.jp/lifedoll.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E3%81%8D%E4%BA%BA%E5%BD%A2


友人が話した、怪奇物語
その二年後、漫画という媒体で物語と再会した。

永久保貴一著
「生き人形」朝日ソノラマ刊行

昭和53年、稲川淳二氏を座長に迎えた人形劇が上演された。
夏目漱石が、明治41年に発表した小説
「夢十夜」を元に作られた人形劇
「呪夢十夜」
不幸な形で死んでいった、十人の女たちの人生模様を描いた本作品
この劇に関わった、人間が見舞われた不幸な出来事から語り草は幕をあけた。

以来、メディア媒体を中心にこの話に関わった人間にも何かしらの不幸な出来事や
怪奇な出来事が襲うようになった。
一度、終わったかのように見えたこの話は今なお形を変えて現在進行形で続いている。

第一印象は、怖くて気持ち悪いだけの話だった。
何年か経過して、EGPPに関わるようになってこの話に触れ返したとき
ただ怖いだけの印象から、時代を超え過去(文学)と未来(舞台)が重なり合い生まれた物が世の中に出ていった事を面白く思った。
この物語こそ、他のジャンルとの融合・料理だと思った。
(文責)梓ゆい

E.G.P.P.Nova!のコンセプトはファッション、シネマ、写真集といったものにポエトリーで橋をかけるという試みです。また、これは料理でもあってMCのふたり(フーゲツのJUN、梓ゆい)はシェフでもあり、パテェシェでもあるという立場で、みなさまに組み合わせの創作料理の味わったこともない世界へお連れします!
 どうぞ! お召し上がりください!
 未知の世界へようこそ!

※今回は、企画・進行とも梓ゆいさんにおまかせしました。内容の齟齬については、梓ゆいにお聞きください。


春節を前に「鬼」を憶うこと

2010-02-13 00:01:57 | コラムなこむら返し
 今年の旧暦の元旦は、新暦の14日つまりセントバレンタィン・ディと同日である。中国での春節の帰省ラッシュはとっくに始まっているらしいが、13億の人民が大移動をする。故郷を目指して折り重なるように人々は詰め込まれ、列車の通路は座り込んだ家族で動くこともままならない。窒息死するような思いをして、労働者は懐かしき山河や親兄妹の待つ故郷で正月を過ごすために帰るのだ。
(6日の朝日新聞に中国国家発展改革委員会の予測で、春節前後の40日間に、鉄道で2億1千万人、バスで22億7千万人、のべ25億4100万人が、国内を移動する見込みと書いてあった。想像を絶する数であり、パワーである!)

 追儺の儀式はその中国から伝わった。もともとは、大晦日に行われた厄払いの宮中行事だったらしい(旧暦の大晦日とは、まさしく今日である!)。それに、方相氏という四つ目の仮面をかぶってやる厄払いの陰陽師がからんで、しだいに立春の前日の節分に行われるようになったらしい。厄を払ったシャーマン的存在の方相氏自体が「穢れ」として忌み嫌われるようになり、次第に「鬼」と同一視されていった。と言うのも「追儺」は「おにやらい」と読まれており、「穢れ」をおった方相氏は追放される方に、つまり「おに」とされたのだった。方相氏は宮中の葬儀にかかわる儀式をとりもっていたこともあり、より一層忌み嫌われた(中国では「鬼」は「キ」と読み、これは「帰」と同じ死霊を意味していた)。

 これに対し、この国独自の「おに」がいた。「鬼(oni)」は「隠(on)」が変化したものであるらしい。前にも書いたが、「鬼」は見えないものであり、ひとつ目だった。山地や辺境にひそかに隠れ棲むものだった。山人に通じる制圧された先住民族、少数民の末裔だったのかもしれない。

 すべてではないが「鬼ケ島」伝説のあるところは「平家落武者」伝説があるところがある。これはどういうつながりか不明だが、少なくとも落ち延びて「隠れ棲む」ことにおいては同じだったろう。

(まだ続くかもしれません……)


「相撲」の起源に「鬼」を憶うこと

2010-02-06 01:15:57 | コラムなこむら返し
Sumo_ukiyoe 昨日の記事は朝青龍の引退ニュースにあわせて書いたものだったが、相撲と「鬼」はあながち関係のないことではないらしい。英雄神による討伐平定の故事を相撲の起源としたような記述が、『日本書紀』にある。

 「タギマノムラ(当麻邑)に勇み棍(コワ)き士(ヒト)有り。タギマノケハヤという。そのヒトトナリ、力強くして能く角をカキ鉤を申(ノ)ぶ。」

 タギマノケハヤは角をこわしたり、鉤をのばしたりするほどの力自慢で、「自分にならぶほどの力自慢がいるなら死ぬことは問わずに力競べをしたいものだ」と豪語していた。垂仁天皇は「天の下の力士(チカラビト)と豪語するタギマノケハヤに対抗できるものはいないのか?」と問うた。すると、ひとりの臣下が「出雲の国にノミノスクネという勇士がいるそうな。この者を招来してはいかがでしょうか」と答えた、即日、遣いがでてノミノスクネが出雲から呼ばれた。

 「ここにノミノスクネ出雲より至れり。すなわちタギマノケハヤとノミノスクネと相撲取らしむ。二人相向いて立つ。おのおの足を挙げて相蹶(フ)む。すなわちタギマノケハヤが脇骨を蹶(フ)み折(サ)く。また、その腰を蹶(フ)み折(クジ)きて殺しつ。」

 垂仁天皇はタギマノケハヤの地所をとりあげ、そこをすべてをノミノスクネに与え、それゆえこの村(邑)に腰折田(こしおれだ)という場所が有る由縁である。ノミノスクネは、出雲からこの地に留まり天皇に仕えた、という記述である。
 タギマノケハヤは当麻蹶速と書き、当麻氏の先祖である。ノミノスクネは野見宿禰と書く。さまざまな解釈があるが、土蜘蛛たる豪族(先住民)の頭たる当麻蹶速を、これまた大和王権にとっては蛮族(先住民)の出雲族の野見宿禰が倒して(討伐して)天皇に仕えたという風にストレートに解釈できるだろう。そして、それが今日まで続く「相撲」の起源になったということであった。

 ここに読み取れることは、大和王権が蛮族同士(土蜘蛛と出雲族)を戦わせてエミシや夷が支配する地方に次々と覇権を及ぼしてゆくという知略、戦略、ダマシ討ちの手法なのである。辺境に追いやられる「鬼」は、蛮族という先住民なのであり、山人やサンカの始祖となったのではなかったのか。
 支配者・権力者の手法は、古代も現代も変わらないということを肝に銘じましょう。

 参考文献:沢史生『鬼の日本史』(彩流社1990)

(まだ続く…でしょう。)

(画像)ウィキペディアによる「相撲絵」。(この画像はパブリックドメインです)



立春に「鬼」を憶うこと

2010-02-04 23:59:39 | アングラな場所/アングラなひと
Setubun_hiragi 節分の日に「鬼」は白魔として現れたのか? 3日夜、屋根の向こうを舞い散る雪をふたたび見た時はそう思った。いくら「福は内!鬼は内!」と豆を友好的に撒くにしても白魔は困る。

 今日、進退が極まって自ら引退表明をした横綱朝青龍は、昨日が節分だったことを思い出したのか、引退記者会見で「土俵の上では「鬼」になってきた」と振り返った。一番の思い出は?と問われてモンゴルから呼んだ両親の前で横綱武蔵丸を倒した時と答えて感極まって涙を拭った。さんざん叩かれた横綱だったが、本当はとてもいい人だったのではないか。ただ、日本の国技としての相撲と、外国人出稼者のプアー精神とファイティング・アスリートとしての乖離が朝青龍の悲劇だったような気がする。
 草原の夏を呼ぶ喜びとしてナーダム(草競馬)まつりに最強の英雄が降臨するモンゴル相撲と、神域において収穫の秋に収穫物や草を髪にくくりつけて外からおとづれるマレビトの英雄神の討伐制定劇の再現(たとえばスサノオによる)としての起源を持つ我が国の相撲との相違が相撲界の封建的な体質もともなって朝青龍には不利だった。
 その意味では朝青龍は「鬼」だったのである。夷を平定する英雄神になるどころか、追儺会(ついなえ)において追い払われ、討伐される夷、「鬼」となって結果追放されたのだから……。

(「鬼」はまだ憶われます。つづく)

(写真)メザシとヒイラギ(ともに鬼の嫌うもの)は、今年もかかげられていたが、今年はどこかのノラ猫が抜け目なくメザシを食べてしまっていた。鬼は追い払えてもネコは追い払えないのだ(笑)。


節分に「鬼」を憶うこと

2010-02-03 15:29:43 | アングラな場所/アングラなひと
 今日は「節分」である。何の「節」を分けるのかと言えば、明日が「立春」だから、言わば「季節」の「節」を分けるのだろう。禍々(まがまが)しい冬が去り、春が訪れることを祝い言祝ぐそんな行事なんだろう。
 そんな禍々しさを一身に背負わされて「鬼」が追い払われるのだが、ボクらの「鬼」のイメージはこの国の中世に民話や「今昔物語」などの仏教説話によって形作られたものだ。この国の上代における「鬼」は「カミ」であり「モノ」であって、すこし私たちとイメージが違う。要するに「姿形」が異なっているのだ。
 『出雲風土記』に登場する「鬼」は、この国最初の文献上に登場する「鬼」であるようだが、「目ひとつの鬼」である。一つ目小僧のルーツだが、タタラ師のことではないかという説もある。タタラ師は数千度の火を扱い、鉄を打ち鋳造するためにその火の粉で片目を失うものが多かった。鳥取県の山中には古代のタタラ跡があり、またタタラは山人の仕事だったという主張もある。
 数千度のかまどの火は、また地獄の業火のイメージにもつながっただろうと言う(倉本四郎『鬼の宇宙誌』)。
 また、上代の鬼のイメージは蓑笠を着た朝廷にまつろわぬモノ(鬼)である。蓑笠を着ると姿が消えるという民話を聞いたことがあるのだが(出典不明)、それは「鬼」になるということと同義だったのかもしれない。
 『出雲風土記』の鬼は、そうして田をつくる男を食うのだが、蓑笠を着た鬼は朝廷による討伐の記事が頻発する『日本書紀』にあらわれる。そして討伐されるべき存在としての「夷」とはアイヌやツングースなどの先住民であり、その異装イメージが中世の「鬼」のイメージづくりにつながってゆくのだ。

(つづく)


TOKYO SNOW-LAND

2010-02-02 23:59:10 | コラムなこむら返し
Tokyo_snow_land 半日しかもたなかったが、2日朝方、一面が銀世界に包まれ東京は雪国となった。ボクが住む地区は東京のかなりはずれ、東京と言うには面映いほどだが、その「郊外」的景観をもつゆえに、雪は溶けずにかなり長い間、シャーベット状になって道をおおっていた。上からは、筋になった雪が電線を揺らして降ってくるし、襟首を直撃されたひとも多いのではなかったか。
 車の前で横滑りしかかった自転車も目撃してしまった。
 南国生まれのボクは寒いのは苦手だが、雪は好きだ。もちろん、どんよりとした雪雲に閉じ込められた本当の雪国の憂鬱な日々のことを言っているのではなく、こんな風なたまに降って景色を変えてくれる雪が好きだ。汚い都会も銀世界になると、まるでそれだけで浄化されたように清らかな風景となるからだ。
 「トウキョウ・スノウランド(TOKYO SNOW-LAND)……」
 そっと口に出して呟いてみる。
 すると、ボクの脳裏の中をディズニー・ランドにも、ネヴァー・ランドにも負けない壮大なファンタジーがモクモクとわき出すのだ。

 そこは子どもたちが中心となった国で、純真なこころをもったものしか住めない国だ。第一、清らかな、純粋なこころを持ったものにしか、その国は見えてこない。国の真ん中には大きなカマクラが壮大に建ち並び、それはまるで宮殿のような大きさを持ち、建物自体が発光しているように見える。もっと小さな「ほんやらどう」とか、「がらんどう」と名付けられた雪の祠もある。そこには、小さな炎で周りを照らし出すキャンドルが燃え立っている……。などなど。

 そんなユメを白日夢として見たように思う。
 (今日は2が四つ並んだ日だった。)



如月朔日の雪

2010-02-01 23:52:28 | コラムなこむら返し
Feb_1snow 東京での、この冬二度目の雪??しかし、屋根に降り積もる雪は初めてなのではしゃいだり、大騒ぎしたりしているのが、雪国で大雪に閉ざされて過ごしている方々に申し訳ない気持ちがする。
 雪になれていない東京の交通機関は、足腰が弱くこういう時はすぐ停まってしまったりするから、明日の朝が心配である。
 我が家の前は、交通量もほとんどないということもあるのか、道にも相当積もっている(写真)。
 この雪は朝近くまで降り続く予報がでているから、道路の凍結の心配もあるのだ。みなさん!お気をつけ下さい。