風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

E.G.P.P.100/Step80/シックスティーズの静かな日々/Quietly Days of Sixties

2008-02-27 23:59:52 | イベント告知/予告/INFO
H_miller●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step80
テーマ:「シックスティーズの静かな日々/Quietly Days of Sixties」
2008年3月7日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、ココナツ、マツイサトコ、JOKER777(以上うた)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 もちろん、ここでのシックスティーズは60年代であり、いわゆる老いのきざしとしての60代の日々のことでもある。いまさらジタバタはしないが、干支12年×5で還り来たあらたなリバース再生の意味も含めたい。
 自分の誕生月に詠んできた「Birth」を封印して、むしろリバース(Rebirth)するため原点を見つめ直します。ボクの原点、それはボクにとっては自分が10代の日々を過ごした60年代しかありません。
 「ジャズ・ヴィレ」から飛び立った中上健次、「フーゲツ」から飛び立った阿部薫、フーテンとしては先輩格であった永島慎二、そして鈴木翁二(*)などなど。秘かに、名前を挙げておけば連合赤軍リンチ殺人事件で殺され埋められた進藤隆三郎。詩人としてよりも、生き方を教えてくれた「部族」の先輩たち。山尾三省、ナーガ(*)、ポン(*)、ナナオ(*)。
 名前を挙げれば、圧倒的に故人とばかりなってしまったかっての知人、友人たち。ボクらは、生き急いだ世代だったのでしょうか?(*マークの方はまだ生存なさっておりますので誤解なきように……)

 その中で、いまだ何者でもないボク、フーゲツのJUNは、その代わりしぶとく生きています。10代で詩人を捨て、アビシニア(エチオピア)の商人として生きることを決意したアルチュール・ランボー、異邦人としてパリのゲストハウスにアナイス・ニンと住み続けたヘンリー・ミラー、妻と愛人を引き離すためだったとは言え、上海、マレーシアそしてパリと旅を続けこの国の最初のバックパッカーとなった金子光晴。その宇宙大のクエッションマーク「自同律の不快」を「精神のリレー」でつなげようとした埴谷雄高、ボクをビート詩に洗礼したアレン・ギンズバーグ??ボクが、10代の日々の中で敬愛した詩人たちは、JAZZ喫茶の中で読まれ、討論され、ののしりあった「文学」でした。

 ボク自身、あれほど「文学」や「音楽(JAZZ)」や、「アート」がセクシュアルで、ナンパだったという時代を知りません。いや、美化して言っているだけではありません。その後の世代の言葉で表現すれば「ロック」だったと言えるかも知れません。

 心の底から、ソウルフルに歌い上げましょう。回顧しましょう。「シックスティーズの静かな日々/Quietly Days of Sixties」を!
 あれほど、騒乱にみちた時代はなかったと言うのに、妙に静かなのです。シックスティーズの日々の記憶は!

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs


青梅で春の嵐/又三郎と遭遇するのこと

2008-02-26 23:47:39 | コラムなこむら返し
Wind_matasaburho 日和も春めいて、のんびりと青梅の茅葺きのギャラリーで過ごしていた。そこでは、新作オリジナルひな人形展とかいう企画をやっていた。オリジナル作品もいいが、ひな人形はやはり伝統的なものの方が、優るようだ。祖母から母へ、さらに娘へと伝えられたひな人形は、ひそかにこの国の古代の風習、それこそ家長がおんなだった時代を、王朝文化の装いに偽装しながら、伝えているのではないだろうか? と言うのが、昔からボクが抱いていた幻想だった。つまり、母なるクニ、母や姉妹の霊的な力で政治(まつりごと)が束ねられていた時代への郷愁だ??それは、母系制と呼ばれるものと等しいだろう。

 ギャラリーとなった場所は、築150年の茅葺民家だ。すこし小高いところに建っており、遠目から見ても一段と異彩を放っている。いや、その茅で葺かれた屋根の方が、風景にも、里にも合っていたはずなのだが、隣近所は山小屋風だったり、新建材で建てられた家ばかりになり、タイムスリップしたかのようにそこだけ、切り取られたように異彩を放っているのだ。

 オーナーの方が、ここを買ったという20年前、その頃まではまだ東京にもかろうじて茅葺き、藁葺きの民家は残っていたかも知れない。そう言う、ボク自身が一時、農家暮らしを憧れていたこともあって、そのような物件を探して八王子の奥、高尾、五日市などを探索したことがある。結局たどりついた八王子市堀之内にも当時は、野猿街道沿いに大きな藁葺き民家があった。東京にも里山のたたずまいを残す場所は、まだまだあったのだ。

 ギャラリー付近を散策し、おしゃれなカフェで昼食などとシャレているうちに急に外気が冷えてきて気候がおかしくなってきた。と見る間に小雨が降ってくる。ボクらは、まだパン釜のあるパン工房と、養鶏場に寄ってタマゴを買う予定があった。そうこうしているうちに、雨はみぞれ混じりとなり、さらに風が激しくなってきた。

 風は逆巻くように吹き荒れて来て、畑の土ぼこりを空高く舞い上げる。それが、雪にまじって車のフロント・ウィンドゥに吹き付け、ワイパーのあとが真っ黒になるほどだった。しかし、奇妙なことに空は青空だった。天気雪とでも言いたくなるような按配なのだ。そこで帰ることにしたのだが(パンと、タマゴはしっかりと買ってきた)途中、黒い布が電線にひっかかって道にまで垂れている場所があった。
 黒い長い布は、強風にあおられてどこかから吹き飛ばされて、電線にひっかかったのだろうが、旗のようにはためくさまはちょっと異様だった。

 どっどど どどうど どどうど どどう、
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいくゎりんもふきとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう


 9月1日ではなかったが、ハンドルを握りながら「風の又三郎」のオノマトペを思わず口ずさんでいた。

 帰ってきてみれば、その風は全国的な春の嵐をもたらした平年より9日遅れの「春一番」だったと言うことだった。春一番が吹いたあと風は北風に変わり、冷たい寒気を広範囲にもたらしたと……。

 うん、たしかにあれは「又三郎」ではなかったのだろうか? 南からやってきた赤毛の「転校生」又三郎ではなかったろうか? なにしろ、青空が見えているのに雪が舞い、かと思うと空一面が土ぼこりにおおわれて太陽をおおいかくし、と、それは奇妙な劇的な展開だったから……。

(写真2)すばやく撮った又三郎の学生服の片鱗? 電線にひっかかってうなりをあげていました。



悪態の精神/庄幸司郎さんのこと(2)

2008-02-24 18:17:40 | コラムなこむら返し
Sho_akutai そうそう、思わず、向こうからやってきた書名も書かずに思い出話モードに突入するところだった。
『悪態の精神』というのがその書名だ。影書房から1990年1月に刊行されている。その本には庄さんが『告知板』の巻頭に書いた巻頭言「寸言」154篇が収録されている。1975年8月から、最後は1988年12月までのものだ。その「寸言」をパラパラと拾い読みしていると、鮮やかにあの時期の市民運動がどのようなものだったのかが甦ってくる。この本は先日ナナオの詩集を古書店で見つけた時、同じ本棚に並んでいたものだ。

 当時、庄建設の事務所も中野区にあり、中野区をメインとした市民運動、住民運動に多く関わりながら、満州からの引き揚げ体験を持つ庄さんは(1931年大連生まれ)、反戦の意志や平和憲法や九条に関してははやくから発言を繰り返している。しかし、やはりなんと言っても床さんの姿が忘れられないのは、「中野野外(くさのね)コンサート」や、中野区教育委員会の準公選の運動の渦中の姿である。

 とりわけこのふたつが印象深いのは、中野駅北口広場で行われた「中野野外(くさのね)コンサート」が、中央線沿線にとどまらない市民運動の手作りの「まつり」となり、ボク自身も楽しませてもらったという意味でよく覚えているし(現在「上々颱風」という名前のバンドは、リーダーの紅竜とひまわりシスターズという名前で出演した。他に白竜バンドや、光玄などなど)、全国的に注視された教育委員の準公選要求は、教育を市民の手にというアピールももっともだが、実は中野教育委員会の委員に知り合いが立候補したという理由もある。彼は黒田洋一と言い、反農薬東京グループでは同じメンバーだった。その頃、中野の生協職員を辞めたばかりだったと思う。黒田クンは中野区の教育委員にはなれなかったが、のちに「熱帯林行動ネットワーク(JATAN)」の専従事務局長として入り、その活動で91年にゴールドマン環境賞を受賞したから世の中は分からないものである。

 その市民運動や記録映画制作で大きな足跡を残した庄さんだが、2000年に惜しまれながら亡くなってしまった。訃報はどこかで目にしていたと思うが、それがもう8年も前の事だったことは、ネットで「追悼集」(AMAZON扱い)の存在を知って分かった。
 庄さんの手帖を見せてもらったことがある。分厚い手帖には1,000名を越える住所が細かい文字で、びっしりと書かれていて吃驚したものだ。「お別れの会」では、500名を越える知人が参集したのもむべないかなである。

 庄さんからは、この国の経営者にもこのような民衆サイドに立った人物がいたのだということを学ばせてもらった。庄さんは、良く「たかが土建屋」と自分の事を自嘲していたが、ボクにとっては80年代の市民運動を語る上でも忘れることの出来ない巨星だったと思う。

 きっと、庄さんは「進歩的平和運動家」とか言ったレッテルが嫌いだったと思う。だから、たかが土建屋が権力や権威におもねることなく自由に「悪態」をつくためだけに、経済的成功者として自分の金を使った。民衆とその力を腹の底から信じた大プロデューサーだったのだ。

(写真2)庄さんの著作としては4冊目になるのかな? いわば、『告知板』の巻頭寸言の集大成にして、14年間の「悪態」の本領発揮の本。『悪態の精神』(影書房1990年)。


悪態の精神/庄幸司郎さんのこと(1)

2008-02-23 23:57:13 | コラムなこむら返し
Myvillage_in_pictur 「『ニクの日』後遺症/いのちのいただき方」にあの2月9日のZAIMイベントの報告を期待した方には、あやまらねばならない。でも、ボクにしてはあの一文は報告だし、報告以外のなにものでもなく、それもこの30年あまりの報告だった。
 書き落としたことはたくさんあったし、事実を間違えて覚えていたこともあったかもしれない。書かないで済ませた方が良かったこともあっただろう。ボクのかってのつれあいとの確執などだれも知りたくはないのだから、書くべきではなかったかも知れない。でも、そのことに触れずには60年代に過ごした新宿以降のボクの総括はありえなかった。
 実際、書いてないこともたくさんあるし、たとえば、市民運動のレベルに入ってからも三鷹の「ミルキーウェイ」と色々一緒にやったこととか、共同保育運動のこととか全然触れていないこともある。
 ともかくも、ボクはボク自身が現在「食の安全」とか、「有機農業」とか単なる時事的なキーワードで語られることの多い内実を生きようとしたということを伝えたかった。

 だからあのまるで、カスのような時代と思っていた80年代を懐かしく思う気持ちになりかかっていたら、奇妙な書物が向こうからやってきたのである。
 その本の著者とは、たびたび酒を飲んだことがある。中野のブロードウェィの手前、路地の中にボクがひいきにしていた手打ち蕎麦屋さんがあるのだが、まさしくその蕎麦屋のソバに「じんじん」という市民運動関係者がたむろする飲み屋があって、そこへ行くとまるでヌシのようにそのオヤジはいつもいたのだ。
 そのオヤジ、名前を庄幸司郎と言った。床建設の社長にして、記録社、青林舎などの貴重なドキュメンタリーを記録してきたグループの代表取締役、そしてドキュメンタリー映画のプロデューサーでもあった。して、その正体は?と言いたくなるが、庄さんは経済活動の成功者であるとともに、その稼ぎを市民運動につぎこんでいたのではないかと思われるほど、反骨精神のたくましい経営者だった。なにしろ、庄建設のPR紙である公称1万3千部発行の『告知板』というミニコミを刊行していて、そこには格安物件の不動産情報と共に、巻頭には庄さん自身が執筆する辛口の寸評が掲載されていて、そいつがまたベラボウに反体制的だったのだ!

(つづく)

(写真1)庄さんが、プロデューサーに加わった『絵の中のぼくの村』(東陽一監督、1996年シグロ)。この作品は第43回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した。


「ニクの日」後遺症/いのちのいただき方(4)

2008-02-22 00:56:21 | コラムなこむら返し
Zaim29_5 長い話だ。これでも、かなりはしょって書いているのだからこの経緯だけでも一冊の本になりそうだ。もっとも、そんな本は誰も買わないだろうが……(笑)。
 これでやっと本題に入れるというものだ。

 ボクが言いたいことは、こう言うことだ。つまり、手塩をかけてそだてた家畜をこの手でほ(屠)ふることこそが、家畜と人間のかかわりだったし、そうしてこそ「肉」や「動物性タンパク質」は手に入るものだったのだ。それは、肉だけでなく太陽と土と水との絶妙な仕事の結果である有機野菜だって同じだ。かって、この国の農業人口が9割以上だったのも、自らの手で作らなければ食べ物は手にはいらなかったからだ。それも、そのほとんどはわずかの土地を耕す小作農で、貧農だった。

 そもそもこの国では古代はともかくとして肉食していたのは、マタギやサンカや山の民でそれも野生のイノシシや、鹿、馬、ウサギ、クマが対象であり、野鳥が肉の主要なものだった。馬は馬具のため、牛等は革皮をとるためでそれらの屠畜仕事は被差別のひとたちへ与えられ、そのことによって出身のひとたちへの根も葉もない差別の根源になってゆく。
 それというのも仏教が伝来して、殺生につながる肉食やがタブー視されたためだろうし、また有名な「生類憐れみの令」をはじめとする禁止令が時の将軍によって発布されていた。主に漢方薬として珍重された野生動物の肝以外の肉は、マタギたちの鍋料理としてかれらの重労働である山仕事の食卓を彩った。馬肉を「桜」、猪肉を「牡丹」、鹿肉を「紅葉」などと言い換えるのも肉の色からの連想による風雅と言うよりは、そもそもはマタギたちの隠語だったのだろう。

 この国に肉食用として家畜動物が飼われ、そしてその動物たちを肉に加工する「と畜場」ができたのは、そんなに昔の話じゃない。それも、慶応3年に西洋人の要請によって横浜港につくられたのが最初の専門のと畜場だという記録がある。「と場」は専門化された分業だし、流れ作業の中で自動車がラインの上で組み立てられるのと、まったく逆の流れで一頭の牛や豚という生き物が、殺され(実は気絶。ノッキングと言う)、血抜きされ、手足を切られ、皮をはがれ、枝肉にされてゆくという解体の工程だ。そのための悪弊は、私たちが一頭の家畜と言う生き物をパック詰めされた肉片からまったく想像できないと言う事態を生んだ。と場で行われる屠畜は高度な専門化だし(職人的でさえある)、清潔であり、それだからこそのおいしい肉を作っているのだが、家畜の生命と言うリアリティが消費者である私たちから失われてしまうという事態を生んだのだった。

 そう、ボクにも後悔がある。2年近くのママゴトのような有畜複合農業の試みのあと、撤退する際にボクはこの手で自分が飼っていたニワトリたちをしめることをしなかった。もったいなくて、生き延びさせたのだ。いま考えるとしめてボクの血肉にしておくべきだった。

 「ニクの日」(2月9日横浜ZAIM地下でのポエトリーと音楽のイベント)の最後、ボクは自分のポエトリーに以下のフレーズを入れて、絶叫した!
 まさしく『肉の阿呆船/処女航海』終わりのフレーズである。

 チクショウ! 畜生ども!
 ありがとう!
 オレの 人生と言う 航海を
 豊かなものにしてくれて

 いのち いま いただきます!


(おわり)

(写真4)ニクの日。いわば、この日のポエトリーはボクにとっても、すべての家畜たち、ほふられた動物たちへの懺悔であり、哀悼だった。バックの「牢獄」、「檻」のインスタレーション(これは、ZAIM地下にいつもあるものではなく9日間仮設されたものでした)が意味深に思えたのはボクひとりくらいだったのか?(写真提供:坂田さん)

(参考文献)
『肉食の思想』鯖田豊之 中公新書/1966、文庫/2007
『アニマル・マシーン』ルース・ハリソン/橋本明子他訳 講談社/1979
『食べものの条件』高松修 積文堂/1981
『動物の権利』ピーター・シンガー編/戸田清訳 技術と人間/1986
『ベジタリアンの文化誌』鶴田静 晶文社/1988
『ドキュメント屠場』鎌田慧 岩波新書/1998
『いのちの食べかた』森達也 理論社/2004
『世界屠畜紀行』内澤旬子 解放出版社/2007

(小説)
『ビヂテリアン大祭』宮沢賢治/1918?
『動物農場』ジョージ・オーウェル/1945

(映画)
『不安な質問』松川八州雄・監督/1979
『人間の街??大阪・被差別』小池征人・監督/1986
『いのちの食べかた』our daily bread ニコラウス・ゲイハルター監督/2005

☆この一文はボクの70年後半からの保留して来た問題の総括、もしくはシックスティーズを目前として過ぎ越したこの30年の歳月を振り返る意味で書かねばならなかったものでした。あまりにも、私的な悔恨と歩みを背負った一文です。読んでくれて、ありがとう!


「ニクの日」後遺症/いのちのいただき方(3)

2008-02-21 12:03:57 | コラムなこむら返し
Niku_1 いや、時間的な流れから言えば農業に目覚めた方が先だった。ミニコミを通じてA.T.(オルタナティブ・テクノロジー「もうひとつの技術」とか「人間大の技術」とか当時は訳されたが、今日的には「スローな技術」とか、「地産地消のテクノロジー」とか訳した方が分かりやすいかも知れない。ともかく「対抗技術」である)を知り、室田武さんをはじめ学者の方にインタビューしたりした。「スモール・イズ・ビューティフル」(もともとはシュマッハーの著作名)が、いわば合言葉だったのだ(辻信一「スロー・イズ・ビューティフル」は、このもじり)。

 そうした関心や活動の中で知ったのが、「たまごの会」だったのである。循環型農業という意味でもボクが理想とした有畜複合農業を消費者自身が、自らの手で安全で納得のゆく「食べ物(酪農産品)」を生み出してゆくという実践的で先進的な試みをしていたグループで、いまだ全くもってこれを超える実践があるだろうかとボクには思われるのだが、「たまごの会」については稿を改めたい。

 この試みもまたミニコミを同志的結合で共に出していた彼女との別れの一因ともなったらしいのだが、ボクだけ八王子堀之内に1反ほどの畑付きで一軒家を借りた(その場所は将来的には多摩ニュータウンに組み込まれる予定地だったらしい)。破格の安さだったが、マンガは売れず(そもそも売れるようなマンガを志向していなかったためもある)イラスト仕事もカツカツで定期的になく、その理想的な有畜複合農業の試みははじめからつれあいの収入に依存していた面は否めない。
 だから長くは続かなかったが(出資者や仲間も求めたが、のってくれるのは少しの友人だけだった)、ともかくも顔見知りだった「たまごの会」の中心メンバーのひとりを通じて、「たまごの会」で育雛した赤色ロード種のオスとメス数羽をゆずってもらう。
 ボクがたったひとりで住み始めたそのは、都内に残る数少ない牛飼いの里で、牛舎が立ち並ぶ場所の真向かいの所だった。その中のおひとりは多摩ニュータウンに反対する気骨ある酪農家で、現在も同じその場所でパーマカルチャーの先鋭的なグループを組織してらっしゃる。

 さて、細かく書くことはできないが、ともかくこのような経緯でボクは鶏を平飼いし、そのたまごを食べ鶏舎のフンを畑にかえすというママゴトのような農業をはじめ、肉食もこの頃から復帰した。

(つづく)

(写真3)「東中野ポレポレ座」に『いのちの食べかた』を見に行った時、ロビーにあったパネル写真より。カメラマンはおそらく本橋成一さんか?



「ニクの日」後遺症/いのちのいただき方(2)

2008-02-20 00:21:32 | コラムなこむら返し
Zaim29_3 この市民グループ「いのくら」は、朝日新聞の家庭欄に紹介されるなど(他に轡田隆史さんが書いた「時評」や、「婦人公論」、「婦人民主新聞」のち「ふぇみん」などに取り上げられた)反響も多々あった活動を積み重ねたが、子どもたちへの環境教育として紙芝居を作ったりした。この活動に一番、威力を発揮したのがイラストもこなしたボクと、美術学校を出ていた池田敦子さんという主婦の方だった。彼女は、当時から生活クラブ生協の組合員だったが、のちにクラブ生協の代議員として都議会議員となって2期つとめ都民の暮らしの問題に奔走した(「婦人公論」のインタビューは池田さんをメインとしたものとして綿貫礼子さんによって執筆され掲載された)。
 のちにクラブ生協は、国分寺・小金井湧水マップなどをつくって販売していたが、その手法はまったく「いのくら」の「除草剤散布地図」と同じだった。

 ボクはこの市民活動に加わる前から、その頃のつれあいと新聞形式のミニコミを刊行していた。それは、当時のつれあいが執筆する「フェミニズム・女性解放論」関係の記事と、ボクが書く「男の子育て論」や「エコロジー」「農業・環境問題」の記事で構成された自分で言うのも可笑しいが、ユニークなミニコミだった。このミニコミ『地域-家族』は、ボクと彼女がその同志的結合を解消することで(端的に言って一番身近にいたボクが男文化の粉砕すべき対象にされてしまい、関係性が破たんした。いわば内ゲバである)彼女がひとりで主宰するフェミニズム専門紙になってしまった。
 そのひとは、「風月堂」にセーラー服でやって来て知り合ったのだったが、別れるとボクの悪口を「朝日ジャーナル」にまで書いて、フェミニズムの旗手のひとりとメディアに持ち上げられていたが、ボクがゆずった『地域-家族』をその後も刊行しているのか寡聞にして知らない。

 「いのくら」の活動は、必然のように農薬問題へボクを導いた。ボクは、当時、新大久保のバブテスト会館内にあった市民エネルギーセンター(元「日消連」の事務所、住民図書館でもあった)に間借していた「反農薬東京グループ」に引き寄せられるかのようにメンバーとなり(事実、このグループこそ、ダイオキシンや農薬毒性の知識の宝庫だった。三省堂刊『農薬毒性事典』が、ひとつの集大成である)刊行パンフのイラストを担当するようになっていた。ボクは、ここでその頃まだ世間的には認知されていなかったさまざまなNGO活動と出会うことになる。

 こうした市民運動を通じて、さらには山田征さんがやっていた「かかしの会」、国立を中心とした「三多摩たべもの研究会」(ここでは広報を担当)などを通じて日本有機農業研究会、金子美登さん、高畠有機農研、星寛治さんなどなど多くの方に直接会い話を聞きにいったり、援農へいったり、見学にいったりした。
 日本の農業も捨てたもんじゃないなと会得したし、土に生き、素敵な笑顔をもったそのひとたちは、百姓というマイナーイメージしかもっていなかったボクの都会的な軟弱なイメージを払拭してくれたもんだ。

(つづく)

(写真2)「ニクの日」口開きのポエトリーは、バロウズのCUT UP技法で任意に開いたページのテキストを何の意図もなく連続して読むと言う実験から始まった(写真提供:坂田さん)。



「ニクの日」後遺症/いのちのいただき方(1)

2008-02-19 00:04:10 | コラムなこむら返し
Zaim29_10 ある意味では、ニクの日のイベント(08年2月9日昼夜横浜ZAIM地下「肉の阿呆船/処女航海」)はボクの中でも尾を引いてしまったようだ。まず、そのテーマ設定からして深刻なものだった。その1週間前が、「オフィーリア」をテーマとし樹木葬の集いをはさんで、水死したファム・ファタールたるオフィーリアの死のテーマのあとに本当に久しぶりに「肉食」や、「屠畜」などと言う問題をとことん考えた。「ひとの食」の問題であり、「いのちの更新」の問題であるそれらは、70年代の後半にボク自身が有畜複合農業をめざして試みた暮らしは何だったのかを、もう一度考える作業でもあった。

 口で言うのは優しいが、それは本当に孤独で苦しい、それでいて今から考えると楽しい暮らしだった。いや、生活としては成り立っていなかったのだが、ボクはゆめと言うのか理想に燃えていた。
 きっと、あの時の体験がなければ、ヤマギシ会の「特講」だって受けに行かなかっただろうし、もう少しでヤマギシの村びとになろうと決意するほど「洗脳」はされなかっただろう(結論として村びとにはならなかった)。

 もっと言えば、さらに遡ること5年ほど昔から、ボクは玄米食を実践していた。肉は一切断ち、マクロビオテックの料理法や、考え方を学び、共同購入会にかかわった。まわりにヤバイほど新興宗教の信者さんや、ガン患者の知り合いができたが、ボクは「農業」や「有機農業」にこころ引かれていたのだった。「有機農業」という言葉が今ほど認知されていなかった頃の話だ。「公害」問題が国中で噴き出し、「複合汚染」が云々されてきたにも関わらず、近代農業にとことん感化されていたプロの農民でさえ「農薬がなければ、そりゃ、作物なんか育つものかね」と、本気になってボクの素人の愚かさを非難した時代だった。

 その頃、ボクは同時に、市民運動、地域運動に惹かれていった。当時住んでいた小金井市で、「水俣その二十年」などの自主上映会などの運動からはじまった市民グループ「小金井いのちと暮らしを考える会」(略称「いのくら」)に加わり、いつのまにか世話人になっていた。この市民グループは市民サイドとしては、この国ではじめてダイオキシン問題に触れたグループで、除草剤のむやみな散布に警鐘を鳴らし、児童公園や空き地に市によって散布された除草剤の散布状況を明らかにした「小金井市除草剤散布地図」を作成し、市などへその危険性やいまで言う環境への配慮などを進言しに行ったり、市民学習会の一目瞭然の資料に使ったりした。

(つづく)

(写真1)「ニクの日」ラスト・ポエトリー『肉の阿呆船/処女航海』。フーゲツのJUNと舞踏歌・成瀬信彦(写真提供:坂田さん)。


川上未映子に挫折した

2008-02-18 00:00:22 | コラムなこむら返し
Kawakami 駄目だった。読み切ることができなかった。『乳と卵』??「文藝春秋」3月号に第138回(平成19年度下半期)芥川賞受賞作として再掲載された川上未映子の小説だ(初出は「文学界」12月号)。ストーリーというストーリーもなく、のたくるような饒舌体(と言っていいものやら?)、構成も構造も文体も感じられず、ただただボクには少女もののアニメの受け入れがたさと同じものを感じただけで、放棄してしまった。
 どうやら現代詩が分からないボクは、現代日本文学(小説)にも追いていけなくなったらしい(「文筆歌手」川上未映子は強力な売り込みで2度ほど『ユリイカ』誌に自作詩が掲載されている。よって『ユリイカ』刊行元の青土社にとっても今回の芥川賞受賞は天から降って涌いたようなラッキーチャンスで、川上の著作は書店で平積みされている。「腐女子」特集以来のヒットになりそうとよんだのだろう)。同誌に掲載された受賞インタビューは面白く読めたのに受賞作はからきし駄目だった。

 で、そのタイトルから予想されるように(受賞作は「ちち(と)らん」と読みます)女性特有な生理的な文体でそれが受け付けなかったのかと言えば、全然逆でそのような生理的な文体さえも感じない曖昧饒舌体(?)にただただついてゆく気を失うばかり……いつのまにか字面を追っているだけで、作品世界に疎外されました。現在の平均年齢が若くなった選考委員の見識を疑うとまでは言いませんが、今回の(今回も?)芥川賞は文藝春秋社の商売上の戦略でヴィジュアル面で選んだのではないかと揶揄するばかりです(笑)。

 倉橋由美子を意識したとインタビューで答えていてボクを瞠目させた直木賞受賞作『私の男』(桜庭一樹)に次は挑戦してみます。

(写真は「文藝春秋社」のHPサイト芥川賞受賞者一覧より。川上未映子さん)


ぼくを癒(いや)したスノウ・マン

2008-02-16 00:31:06 | コラムなこむら返し
Snow_house 29(ニク)の日(2月9日)の横浜のポエトリー・イベントをはさんで、翌10日帰って来てみればまだまだ畑や雑木林の残るわが家の周りは真っ白だった(その日、東京に雪の予報があったが、横浜は雨だったのだ)。この冬たしか4回めの積雪にあたるのではないだろうか。
 横浜からの帰りの電車をほとんど眠っていたボクは、放心状態だったが、なにやら家の入り口の前に白いカタマリが遠目に見えた。それは、娘が今朝はりきって作ったのであろう2体の小さなスノウ・マン(雪ダルマ)と、小さな小さなカマクラだった。カマクラの中には、そこにも2体のスノウ・マンがいて、カマクラ(スノウ・ハウス)の中で団らんをかこっているようだ。

 そう言えば、1週間前の東京には珍しい大雪だった時は、千葉の大原に居て、そこは雪にならなかったから雪の中で遊ぶことの出来なかった娘は残念がっていたのだった。
 きっと10日の朝、早起きして長靴をはいて一生懸命つくったのだろう。
 その時間に間に合わなかったボクは、それでもその迎えてくれたスノウ・マンと小さなカマクラにとても癒されて思わず微笑んでいた。

 「ぼくを 癒(いや)した スノウ・マン」

 ぼくを 癒した スノウ・マン
 2体の ダルマが ならんでいたよ
 2体は 母子か
 それとも 恋人
 家の前で 鎮座して
 白い 服 着て
 ぼくを むかえる
 むすめが つくった スノウ・マン
 ぼくは とっても 癒された

 ぼくを 癒した スノウ・ハウス
 2体の ダルマが 仲良くすわり
 2体は 親子か
 それとも 夫婦
 家の中に 鎮座して
 白い 光を 放ってる
 静かに むかえる
 むすめが つくった スノウ・ハウス
 ぼくは とっても 癒された

 すべては うたかたのように
 あくる日には 光となって
 冬の 大気に 消えさった……

 ぼくを 癒した スノウ・マン
 グッド・バイ!

      (poetry by JUN/2008.02)

(写真3)小さな小さなカマクラ(スノウ・ハウス)。でも、中には2体のダルマが鎮座してまるで祠のようにあたたかく聖なる光を放って見えた。



ヴァレンタインズ・ディ/ナナオからのプレゼント

2008-02-14 19:23:14 | コラムなこむら返し
Horagai_face ヴァレンタィン・ディの14日(セント・ヴァレンタィンの由来や、この日の菓子業界のウソッパチな仕掛については、これまで何度も書いて来たので今日は書かない)、駅ビルのチョコレート売り場の繁昌ぶりを横目で見て、売り場に群れる娘たちは南の国のカカオ農場の悲惨な現実には無関心なのだろうなどということを考えながら国分寺近くの古書店へ行く。そして、偶然にもナナオサカキの詩集『地球B』(人間家族編集室、1989年)を100円で見つけ、そのまま放置するのも忍びなくて購入してしまう。

 かって、この詩集の発行元のミニコミ誌『人間家族』編集室とその印刷部門だったスタジオリーフがこの同じ街にあり、「部族」が立ち上げた日本最初のロック喫茶「ほら貝」の系譜をひく店がいまだこの街にあるのを古書店主は知ってか知らずかわからぬが、ナナオも比較的足を運ぶ街でナナオの詩集を見つけるのも何かの縁と思い買う事に決めた。実は、2冊目なのだが……。

 で、その中の1編に以下の詩があり、よりにもよってまさにその日なので、すべてのひとにこの1編を贈る!
 とりわけ、チョコレート売り場に群れる娘さんたちに捧げたい……。
 (ナナオがこんな優しさに満ちた詩を書いていたなんて、忘れていた。詩も生き方もシンプル・イズ・ベストだね!)

Valentine's Day

You have no touch of class,

no touch of uniqueness,

no touch of elegance,

no touch of mystery,

I love you!


   ヴァレンタインズ ディ

 身分を気にせず

 個性を売らず

 優雅をてらわず

 謎めくこともない


   だから

   好きさ

   君が

       ナナオ(1982・2)

(写真)国分寺・スナック「ほら貝」看板。昔は看板もなにもないそっけないお店でしたが……。



2/11 ロック共和国建国記念日!/月裏の集い

2008-02-10 20:47:15 | イベント告知/予告/INFO
Moonback_3 11日は一年前「水族館」で開催した「ロック共和国建国記念日」から丸一年。その同じ日に、高円寺MISSION'Sで、「月裏の集い」が開催され、ポエトリー・リィディングで参戦します。

2/11(月)高円寺MISSION'S
netazoku Presents「月裏の集い」

(LIVE)
ねたのよい
金剛
波動
HOT ROCKS

(ポエトリー・リィディング)
フーゲツのJUN(poet)+長嶌BEM(Sax)+IGGY(ジャンベ)

DJ/keniti(緑の月)
オープン19時/スタート19時30分
出店 緑の月/出張cafeマンチーズ /ミッションズおでん

入場料1000円(1D込み)
東京都杉並区高円寺南4-52-1
Tel:03-5888-5605
高円寺MISSIONS
公式サイト→http://www.live-missions.com/
地図→http://www.live-missions.com/access/access.html