こうして、森田童子というシンガーはその「滅びの美学」に忠実に従うかのようにそのわずか8年間の音楽活動を自ら終熄させた。そして、その後いっさいの消息をファンやリスナーの前から断ち切った。ふたつの例外を除いては……。
そのひとつは、1984年3月5日付け(なんと、ボクの36歳の誕生日であった日だった!)『日本読書新聞』に掲載されたつげ忠男(義春の実弟・マンガ家)の作品集『懐かしのメロディ』(北冬書房刊)の書評であって、それは森田童子名義で突然掲載された。
もうひとつの例外は、2003年2月27日付けのスポーツ新聞に報じられたことなのだが、トレンディドラマ『高校教師』(続編)のヒットで再度発売された『ぼくたちの失敗』CD版ベストコレクションに51歳になった森田童子が「ひとり遊び」を再録音したことである。
野島伸司が脚本を書いた『高校教師』が話題となり、そのテーマ曲に使われたのが童子の「ぼくたちの失敗」だった(映画化もされた)。ドラマのヒットで、再び森田童子の再登場をファンが望んだ時(そのほとんどは、『高校教師』で森田童子を知った若いファンたちだった)、童子はコメントを残している。それは、現在主婦業に専念しているため、皆さんの前に再登場するつもりはありませんというきっぱりとしたものだったと記憶している。ただ、多くのかってのファンは童子の「主婦業」という言葉に違和感を覚えただろうし、と同時に森田童子の幸せを心から祈ったはずだ。
かって、童子は自分が極度の人見知りだと告白したことがあり(なんと実の親にさえ人見知りすると!)、神経症的な病をかかえているようなほのめかしをしたことがあったからだ。
そして、その「病」が生来のものだったのか、それとも後天的なものだったのかは一切ボクらは知ることができない。童子もどうやら好んだと思われる寺山修司にならって言うなら
森田童子 とは地平線 その上に 浮かぶ巨大(おおき)な クレッションマーク(JUN作)
だったのかも知れない。
ある日 ぼくの
コートの型が
もう 古いことを 知った
ひとりで 生きてきたことの
淋しさに 気づいた
行きどまりの海で
行きどまりの海で
ぼくは ふり返る
(「海を見たいと思った」)
そう、それは生涯消え去る事のないスティグマ(聖痕)のように、青森県の方言のイントネーションで吃言するかのように立ち止まり堂々めぐりの自省、探求となるだろう。
ぼくはどこまでも ぼくであろうとし
ぼくがぼくで ぼくであろうとし
ぼくはどこまでも ぼくであろうとし
ぼくがぼくで ぼくであろうとし
(「球根栽培の唄」)
ぼくが
ぼくで
あろうとし
ぼくが
どこまでも
ぼくであろうとし
ぼくが
どこへ
どこまでも
どこかで
ぼくで
あろうとし
(「ぼくは16角形」)
結局テロリズムの究極のスタイルが、特攻、自爆テロであったように、自分(まして「ぼく」という一人称男性名詞でだ)のためにだけ歌われるうたは自爆するしかなかったのだ。腹腹時計が、仕掛けられた自らの肉体を吹っ飛ばし、周辺何メートルかの巻き添えをその攻撃対象とするように「球根栽培」は、都市ゲリラの口ごもるだけの教典(マニュアル)となるのだ。
そして、手にしたものは鮮やかな玩具??時間をマイナスカウントしてゆく時限爆弾としての「うた」だった。
GOOD BYE! それでは どなたさまも グッドバイ!
※この「森田童子論・悲しき玩具」を書く上で、ネット上にあるふたつのサイト『森田童子研究所』(非公認森田童子ファンWebサイト)と『しっぽのさんぽ』(犬のしっぽさんのWebサイト)を参考にさせてもらいました。長い間のファンでありつづけ貴重な童子資料を万人に公開しているお二人に敬意を表してここに記してお礼申し上げます。
(おわり)
そのひとつは、1984年3月5日付け(なんと、ボクの36歳の誕生日であった日だった!)『日本読書新聞』に掲載されたつげ忠男(義春の実弟・マンガ家)の作品集『懐かしのメロディ』(北冬書房刊)の書評であって、それは森田童子名義で突然掲載された。
もうひとつの例外は、2003年2月27日付けのスポーツ新聞に報じられたことなのだが、トレンディドラマ『高校教師』(続編)のヒットで再度発売された『ぼくたちの失敗』CD版ベストコレクションに51歳になった森田童子が「ひとり遊び」を再録音したことである。
野島伸司が脚本を書いた『高校教師』が話題となり、そのテーマ曲に使われたのが童子の「ぼくたちの失敗」だった(映画化もされた)。ドラマのヒットで、再び森田童子の再登場をファンが望んだ時(そのほとんどは、『高校教師』で森田童子を知った若いファンたちだった)、童子はコメントを残している。それは、現在主婦業に専念しているため、皆さんの前に再登場するつもりはありませんというきっぱりとしたものだったと記憶している。ただ、多くのかってのファンは童子の「主婦業」という言葉に違和感を覚えただろうし、と同時に森田童子の幸せを心から祈ったはずだ。
かって、童子は自分が極度の人見知りだと告白したことがあり(なんと実の親にさえ人見知りすると!)、神経症的な病をかかえているようなほのめかしをしたことがあったからだ。
そして、その「病」が生来のものだったのか、それとも後天的なものだったのかは一切ボクらは知ることができない。童子もどうやら好んだと思われる寺山修司にならって言うなら
森田童子 とは地平線 その上に 浮かぶ巨大(おおき)な クレッションマーク(JUN作)
だったのかも知れない。
ある日 ぼくの
コートの型が
もう 古いことを 知った
ひとりで 生きてきたことの
淋しさに 気づいた
行きどまりの海で
行きどまりの海で
ぼくは ふり返る
(「海を見たいと思った」)
そう、それは生涯消え去る事のないスティグマ(聖痕)のように、青森県の方言のイントネーションで吃言するかのように立ち止まり堂々めぐりの自省、探求となるだろう。
ぼくはどこまでも ぼくであろうとし
ぼくがぼくで ぼくであろうとし
ぼくはどこまでも ぼくであろうとし
ぼくがぼくで ぼくであろうとし
(「球根栽培の唄」)
ぼくが
ぼくで
あろうとし
ぼくが
どこまでも
ぼくであろうとし
ぼくが
どこへ
どこまでも
どこかで
ぼくで
あろうとし
(「ぼくは16角形」)
結局テロリズムの究極のスタイルが、特攻、自爆テロであったように、自分(まして「ぼく」という一人称男性名詞でだ)のためにだけ歌われるうたは自爆するしかなかったのだ。腹腹時計が、仕掛けられた自らの肉体を吹っ飛ばし、周辺何メートルかの巻き添えをその攻撃対象とするように「球根栽培」は、都市ゲリラの口ごもるだけの教典(マニュアル)となるのだ。
そして、手にしたものは鮮やかな玩具??時間をマイナスカウントしてゆく時限爆弾としての「うた」だった。
GOOD BYE! それでは どなたさまも グッドバイ!
※この「森田童子論・悲しき玩具」を書く上で、ネット上にあるふたつのサイト『森田童子研究所』(非公認森田童子ファンWebサイト)と『しっぽのさんぽ』(犬のしっぽさんのWebサイト)を参考にさせてもらいました。長い間のファンでありつづけ貴重な童子資料を万人に公開しているお二人に敬意を表してここに記してお礼申し上げます。
(おわり)