風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

森田童子・論/悲しき玩具(4)

2008-07-31 00:38:34 | コラムなこむら返し
Douji_face_a こうして、森田童子というシンガーはその「滅びの美学」に忠実に従うかのようにそのわずか8年間の音楽活動を自ら終熄させた。そして、その後いっさいの消息をファンやリスナーの前から断ち切った。ふたつの例外を除いては……。

 そのひとつは、1984年3月5日付け(なんと、ボクの36歳の誕生日であった日だった!)『日本読書新聞』に掲載されたつげ忠男(義春の実弟・マンガ家)の作品集『懐かしのメロディ』(北冬書房刊)の書評であって、それは森田童子名義で突然掲載された。

 もうひとつの例外は、2003年2月27日付けのスポーツ新聞に報じられたことなのだが、トレンディドラマ『高校教師』(続編)のヒットで再度発売された『ぼくたちの失敗』CD版ベストコレクションに51歳になった森田童子が「ひとり遊び」を再録音したことである。
 野島伸司が脚本を書いた『高校教師』が話題となり、そのテーマ曲に使われたのが童子の「ぼくたちの失敗」だった(映画化もされた)。ドラマのヒットで、再び森田童子の再登場をファンが望んだ時(そのほとんどは、『高校教師』で森田童子を知った若いファンたちだった)、童子はコメントを残している。それは、現在主婦業に専念しているため、皆さんの前に再登場するつもりはありませんというきっぱりとしたものだったと記憶している。ただ、多くのかってのファンは童子の「主婦業」という言葉に違和感を覚えただろうし、と同時に森田童子の幸せを心から祈ったはずだ。
 かって、童子は自分が極度の人見知りだと告白したことがあり(なんと実の親にさえ人見知りすると!)、神経症的な病をかかえているようなほのめかしをしたことがあったからだ。
 そして、その「病」が生来のものだったのか、それとも後天的なものだったのかは一切ボクらは知ることができない。童子もどうやら好んだと思われる寺山修司にならって言うなら

 森田童子 とは地平線 その上に 浮かぶ巨大(おおき)な クレッションマーク(JUN作)

だったのかも知れない。

 ある日 ぼくの
 コートの型が
 もう 古いことを 知った
 ひとりで 生きてきたことの
 淋しさに 気づいた
 行きどまりの海で
 行きどまりの海で
 ぼくは ふり返る
 (「海を見たいと思った」)

 そう、それは生涯消え去る事のないスティグマ(聖痕)のように、青森県の方言のイントネーションで吃言するかのように立ち止まり堂々めぐりの自省、探求となるだろう。

 ぼくはどこまでも ぼくであろうとし
 ぼくがぼくで ぼくであろうとし
 ぼくはどこまでも ぼくであろうとし
 ぼくがぼくで ぼくであろうとし
 (「球根栽培の唄」)

 ぼくが
 ぼくで
 あろうとし
 ぼくが
 どこまでも
 ぼくであろうとし
 ぼくが
 どこへ
 どこまでも
 どこかで
 ぼくで
 あろうとし
 (「ぼくは16角形」)

 結局テロリズムの究極のスタイルが、特攻、自爆テロであったように、自分(まして「ぼく」という一人称男性名詞でだ)のためにだけ歌われるうたは自爆するしかなかったのだ。腹腹時計が、仕掛けられた自らの肉体を吹っ飛ばし、周辺何メートルかの巻き添えをその攻撃対象とするように「球根栽培」は、都市ゲリラの口ごもるだけの教典(マニュアル)となるのだ。
 そして、手にしたものは鮮やかな玩具??時間をマイナスカウントしてゆく時限爆弾としての「うた」だった。

 GOOD BYE! それでは どなたさまも グッドバイ!

※この「森田童子論・悲しき玩具」を書く上で、ネット上にあるふたつのサイト『森田童子研究所』(非公認森田童子ファンWebサイト)と『しっぽのさんぽ』(犬のしっぽさんのWebサイト)を参考にさせてもらいました。長い間のファンでありつづけ貴重な童子資料を万人に公開しているお二人に敬意を表してここに記してお礼申し上げます。

(おわり)



森田童子・論/悲しき玩具(3)

2008-07-30 00:45:56 | コラムなこむら返し
Douji_morita_face_3
 童子の書くリリックはどこか、先のライナーノーツに書かれたような物語性をもった抒情だ。セミ時雨や雨の音が、アルバムの中では効果音として欠かせないものになっている。そして、童子のリリックには、太宰治をはじめ漱石、高橋和己など文学者の名前が散見するが、それ以上にその頃のボクらがそうだったように、童子は『ガロ』や『夜行』のファンだったらしい。『夜行』の発行者で北冬書房主宰の高野慎三(かって『ガロ』の最盛期の編集者であったひと)はその著作『つげ義春1968』の中でこんな思い出を記している。

「70年代中頃に小さなライブハウスで、”ねじ式コンサート””大場電気鍍金工業所コンサート””夜行コンサート”のタイトルで、ひき語りを続ける一般には無名に近いミュージシャンがいた。ある日、突然、一面識もない彼女からりんごが一箱送られてきた。「いつもお世話になってます。勝手にタイトルを使わせてもらって申しわけありません。おわびのしるしです。つげ義春さんにも宜しくお伝え下さい」と書かれた丁寧な手紙が添えられてあった。」(高野慎三『つげ義春1968』)

 なお、調べた限りでは「大場電気鍍金工業所コンサート」という名前をかぶせたライブは存在しないようである。これは高野さんの思い違いのようだが、あれば面白かったろう。いうまでもなく、その作品名もつげ義春が、みずからの少年期をかさねて描いた傑作短編のタイトルである。

 森田童子がつげ義春や「ガロ」系の作家(マンガ家)のファンであろうとボクが気付いたのは、最初のアルバム『グッバイ』に収録されている「雨のクロール」という曲でである。その曲を最初に聞いた時、つげ義春の「海辺の叙景」という作品のラストシーン(見開き2頁のシーン)が思い浮かんできて仕方がなかった。

 雨に君の 泳ぐクロール とってもきれいネ
 雨に君の 泳ぐクロール とってもきれいネ
 (森田童子「雨のクロール」)

 あなたすてきよ
 いい感じよ
 (つげ義春「海辺の叙景」)

 なお、このセリフは雨の降る中、海をクロールで泳いでみせる主人公にビーチで知り合った女性が投げるラストシーンのネームである。ちなみに、このビーチは今ボクにはとても親しい場所である千葉県大原の海岸がモデルになっている。

 また、『ロフト』および『ロフト・プラス・ワン』の経営者である平野氏は、『ロフト』でおこなわれた1983年12月の伝説的な森田童子ラストライブの思い出をロフト関係のフリーマガジンにて回顧していた(『ロフト』が新宿小滝橋通り沿いにあった頃です)。

(つづく)


森田童子・論/悲しき玩具(2)

2008-07-29 00:38:17 | コラムなこむら返し
Douji_morita_face_2
 森田童子がその肌にヒリつくようなリリックに込めたものは、おそらく虚構(フィクション)としての「ある青春譜」だった。童子が色の濃い丸サングラスの下に隠したその素顔を決してあらわにすることがなかったように、童子のリリックも虚実の皮膜におおわれている。
 たとえば、高校を中退した童子が、うたを歌うきっかけになったのが旧友の死を知ってからという伝説がある。しかし、それはどうやら自死のようだとリリックから推測するのみで真意のほどは確かめようもない。彼女自身は高校反戦の闘争に否応なく巻き込まれたようだが、どのようないきさつがあったのか分からぬが、その高校をやめている。学歴は高校中退なのだ。
 しばらく、何もせずブラブラしていたが、彼女の父親は「これからの時代は、余暇や暇な時間をもてあまさず耐えなければならない」と言って、文句も言わずに金をくれたそうだ。童子は毎日のように、仲間が集まるある喫茶店に通っていた。その頃、童子がたまたま行った旅先でJ & Kという音楽出版の面々に偶然に会う。名刺をもらい、すぐ尋ねてゆくという約束をする。しかし、その約束は2年後になり、1975年(昭和50年)約束を果たしにゆくと音楽出版の方は覚えており、すぐさまシングルデビューの話が持ち上がった。童子はよほど、鮮烈な印象をその音楽出版のスタッフに与えたらしい。以後の童子のアルバム制作は、このMusic Pubrishers J & Kがプロデュースしポリドールレコードから発売されることになる(のちワーナー・パイオニアへ移籍し、ポリドール時代のアルバムが「森田童子全集」として再販される)。いわば、シンガー「森田童子」の仕掛人である。
 1976年(昭和51年)1月の「ルイード」から、年間を通してのライブハウス出演の日々が始まる。

 そして、童子は昭和55年頃つまり1980年頃から68/71黒色テントなどの小劇場運動集団(アングラ劇団)とコンサートをともにしてゆくようになる。この頃から、意図的にコンサート会場を早稲田小劇場、池袋文芸坐地下などで連続三日間とか、五日間などの演劇公演のようなスタイルで、敢行することを好むようになっている。
 そして、その「滅びの美学」のようなライブコンサートを「地下室」とか、「夜行」とか「ねじ式/黒テント劇場」とか名付けるのだ。

「いま黒い天幕の中は、色鮮やか??悲しい玩具箱のようです。
都市は密集し、巨大化された私達の街は急速に管理化されています。
……あと何年か後には、東京にテントを建てるという行為は、殆んど不可能になるでしょう。私達のコンサートが不可能になってゆく様を見て欲しいと思います。そして、私達の歌が消えてゆく様を見て欲しいと思います。
……そして、今度のテント劇場は、或る意味で私達のコンサート活動の終末であるといえるかもしれません。
一つの終りの時代へ向けて
今一度、??私たちのせつない最後の夢を見て欲しいと思います。」(森田童子/昭和56年)

(つづく)


森田童子・論/悲しき玩具(1)

2008-07-28 20:53:31 | コラムなこむら返し
Douji_morita_face_1 70年代中頃の夏だったか、暑さにうだりながら狭い部屋でボクは汗をかいて眠っていた。目の前には、やはり汗で濡れたおんなの裸の背中があった。狭い部屋で壊れかけた1台の扇風機が、うなりをあげて回っていた。
 貧しいだけで、その頃のボクには何の希望もなかった。マンガ家になるというユメは叶ったが、生来の怠け癖で読者に忘れられないために畳み掛けるように、作品を毎月再生産してゆく??ということが、どうしても出来なかった。大家でもない無名のマンガ家なのに、ボクは作品も発表誌も選んで、いつのまにか声もかからなくなった。それにその頃は、政治の季節が内ゲバや武装路線でゆきづまりさらに警察当局のローラー作戦(アパートや貸し家をシラミ潰しに調査すること)で壊滅しつつあった頃で、時代そのものが「暗い時代」であり、ボクらは「暗い時代の人々」(ハンナ・アレント)だった。

 そんな頃に、か細い、今にも消え入りそうな声で「ボク」という一人称で歌うひとりの歌手のうたが聞こえてきた。その歌い手は自作自演のシンガーソングライターだったのだが、どこかその頃の時代の刻印を背負ったかのようなリリックで、ボクの胸に迫った。

 玉川上水沿いに 歩くと
 君の 小さなアパートがあった
 夏には 窓に 竹の葉がゆれて
 太宰の 好きな君は 睡眠薬 飲んだ
 暑い 陽だまりの中 君はいつまでも
 汗をかいて 眠った
 (「まぶしい夏」)

 その歌い手は性別不明の名前を名乗っていた。「童子」ドウジそれともワラベあるいはドウコと読ませるのか不明だった。そのファースト・アルバムを手に入れて見ると、真っ暗なジャケット写真の中で、丸い黒のサングラスをかけたまま端正な顔だちは隠せず、口元は軽くあいていた。モジャモジャの髪型(のちにカーリーヘアとなる)は、いまにも顔を覆い隠しそうだったし、その歌手が傷つきやすいナイーブなこころと感性をもったシャイで照れ屋の性格をもつ人物のように思えた。さらに、そのファースト・アルバムの歌詞カードは黒のラシャ紙に、銀色のインクで9ポイントくらいの小さな活字で印字されたものだった。それも、今となってはなつかしい邦文タイプを使って印字したものだ。
 抜けの悪い、ところどころ活字が潰れたそのタイプ文字の書体は、画数の多い活字は判読できないほどだった(たとえば、タイトルのB面4曲めの「驟雨」は、「にわかあめ」とその1ケ所だけ同じポイントのルビが振ってあり、それでかろうじて読めるのだった)。
 さらに、奇妙なことにジャケットの裏面もまた「第五福竜丸」だと思われる写真パネルを似たような草原で掲げ持つ歌い手の写真で埋められている(カメラマンは高梨豊。高梨は以後ずっとこの歌手を追い掛ける。ちなみに高梨もまた新宿「風月堂」に出入りしていたカメラマンである)。

 歌い手はその名を森田童子(もりたどうじ)といった。ボクらの世代には子どもの頃に見た東映映画の『笛吹き童子』や『白馬童子』が忘れられない。それらは、勧善懲悪のヒーロー時代劇だったが、どのような「童子」が登場してももはや70年代の大衆は、笛吹けど踊らずの状況であったのは目に見えていた。そのうえ、そのファーストつまりデビュー・アルバムは太宰治のセリフのように「それでは どなたさまも グッド・バイ!」と告げるかのように『グッドバイ』と名付けられていた。森田童子は「別離」を告げながらボクらの前に鮮烈に登場した。その引き際がどんなものになるかは、ボクらには最初から予想ができたはずだ。

(つづく)


8/1 E.G.P.P.100/step85 森田童子??反転「ガロ」系少女の肖像

2008-07-27 01:28:34 | イベント告知/予告/INFO
Douji_morita_goodbye●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step85
テーマ:「森田童子??反転「ガロ」系少女の肖像」
2008年8月1日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、Bambi(スピリチャル・トーク)、ココナツ、やま(うた)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 70年代中頃の夏だったか、暑さにうだりながら狭い部屋でボクは汗をかいて眠っていた。目の前には、やはり汗で濡れたおんなの裸の背中があった。狭い部屋で壊れかけた1台の扇風機が、うなりをあげて回っていた。
 貧しいだけで、その頃のボクには何の希望もなかった。マンガ家になるというユメは叶ったが、生来の怠け癖で読者に忘れられないために畳み掛けるように、作品を毎月再生産してゆく??ということが、どうしても出来なかった。大家でもない無名のマンガ家なのに、ボクは作品も発表誌も選んで、いつのまにか声もかからなくなった。それにその頃は、政治の季節が内ゲバや武装路線でゆきづまりさらに警察当局のローラー作戦(アパートや貸し家をシラミ潰しに調査すること)で壊滅しつつあった頃で、時代そのものが「暗い時代」であり、ボクらは「暗い時代の人々」(ハンナ・アレント)だった。

 そんな頃に、か細い、今にも消え入りそうな声で「ボク」という一人称で歌うひとりの歌手のうたが聞こえてきた。その歌い手は自作自演のシンガーソングライターだったのだが、どこかその頃の時代の刻印を背負ったかのようなリリックで、ボクの胸に迫った。

 75年にデビュー、その特異な歌詞世界と歌声で冷ややかながらも一部のファンに注目され、わずか8年間の活動でその日常も消息も断ってしまった森田童子。その肖像に『グッドバイ』で打ちのめされた似たもの同士の感性を嗅ぎ付けたものとして、『高校教師』以前の童子を今回step85のテーマとします。

 このイベントは、自由エントリーのできるオープン・マイクで開催しております! 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs



HARA??腹意識への目覚め(書評)

2008-07-26 17:51:26 | コラムなこむら返し
Hara_kashima_ 入院する直前、ボクは書店で加島祥造さんの『HARA??腹意識への目覚め』(朝日文庫)に巡り合った。その本は、加島さんが77歳で前立腺除去手術によって開腹した時に気付いた体験を綴ったものだ。詳細はその小振りな著作自体に当たってもらうことを願うが、『老子』の自由訳というか超訳を出版なさっている加島さんはもともと英米文学の研究者で、そもそもは東洋哲学や思想とは無縁に生きてきた。そして、その超訳(自由訳)『タオ/老子』は、ボクもかって読んでとても学ばせてもらった。

 書店の棚でそんな小振りな本はボクに向かって手招きしていた。まして、ボクも小さいながらも開腹手術をする直前だった。そこになにがしかのシンクロニシティを感じたのは、致し方のないことだっただろう。

 しかし、手術後を含めて3日もかからずに読んでしまったその本は、出会いの衝撃のわりにはいかにも物足りない書物だった。なにがしか『気の研究』のような哲学的論考に至らずとも、「腹意識」への気付きが、深く腑(ハラ)におちるような認識にいざなってくれるものと期待していたからだ。そう、武道に近接するような論考に……。

 臍下丹田(せいかたんでん)という武道や、東洋体育道に共通するだろう意識は、「気」のめぐりの考え方から言っても中心概念ではないかと思うのだが、その「ハラ(肚)」意識にはさらりと触れただけで、加島はD・H・ロレンスの太陽中心叢や、母系性社会の優しさといった展開に行ってしまう。そしてそれがタオにつながるものだと結論づけるものだ。いわば、我田引水の展開と言えるだろう。

 たしかに、ヘソは臍帯(ヘソの緒)を通じて母胎とつながるものだった。だからと言って個人個人はストレートにグレートマザー(太母神あるいは地母)とはつながることはないだろう。母系性にやさしく抱かれるということはないだろう。むしろ換骨奪胎された母系性は、歴史的に我が国の天皇制が荷ってきたのではないかという考え方もあり、高群逸枝(詩人、女性史家。1894~1964、熊本県生まれ。 「招請婚の研究」、「母系制の研究」、「女性の歴史」、「火の国の女の日記」など)の著作・研究で明かにされた我が国に近世まで残っていた母系性の名残り(招請婚)は、父権性の権化たる武家社会に簡単に駆逐されたものではないからである。

 さて、その加島さんもその「あとがき」で腹式呼吸(丹田息)について、やっと触れている。山も海もハラから笑うように、タオ(道)への展開は丹田息(腹式呼吸)から始まるとボクは思うのではあるが……。
 とはいえ、開腹手術をしたのちシャックリは平気だったのに、笑うことがハラに響くことから加島さんが自己発見したこの認識は、ボクにも共通するものだった。

 だけれど、ボクはもうひとつ気付いた。クシャミは、その度にボクのハラに激痛をもたらしたのだった(笑えない)。だから、お願いだからボクのいないところで、ボクのウワサはしないでくれたまえ(笑)。





KOボーイにKO(ノックアウト)!(2)/入院記

2008-07-24 00:37:03 | コラムなこむら返し
Mamusi_1 ボクは、思わず車椅子を押す看護士さんに聞いた。
 「その方ですね。ケーオーボーイの方は?」
 「よく御存知ですね。わたしたちはそう呼び合ってますのよ」
 「いやたまたま病室まで、話し声が聞こえてきたものですから……。あの時話してらした看護士さんの方ですか?」
 「いえ、違うと思いますけど。わたしもこの方がケーオーボーイだと言うことを同僚から聞いたばかりで……」
 話しながらも、看護士は車椅子に座ったままの老人のパジャマを脱がせてゆく。手慣れたものだ。老人は車椅子の上で、素っ裸にされてしまっている。痩せこけて青白い裸だった。
 「じゃ、失礼します」
 そう言い残して、ボクは浴室から出てきたのだった。

 残念だった。いや、ボクは「ケーオーボーイですか? カッコイイ!」と言った看護士さんに会いたかったのだ。そのような価値観をいまだもっている若い看護士さんが、今もいるのだとしたらそのお顔を拝顔したかった。
 ボクは、「ケーオーボーイですか? カッコイイ!」という言葉に打ちのめされてしまった。それも、そのようなセリフを85歳以上の老人に向けて放つその感覚に、ノックアウトされてしまったのだ。

 その夜、待ち合いの共有スペースで、完敗しつつある日本女子バレーボールチームを応援するボクの耳には、その声援にも負けじと叫ぶケーオーボーイの老人の「ア~~、ア~~!」という声が確実に届いたのだった。

(おわり)

(写真)病院の裏手の八国山の沼地には、このような警告板もある。マムシがいるのだ(八国山にはタヌキもいます)。



KOボーイにKO(ノックアウト)!(1)/入院記

2008-07-23 22:06:20 | コラムなこむら返し
Coco_cafe_1 その白髪の老人は、ひとりで個室に入っており看護士もあれこれと面倒を見て、なんだか特別視されているようだった。大部屋のボクなどのところへは、痛みや動けない時にナースコールで呼んだ時に来てくれるか、検温の時くらいしか顔を出さないのだが、老人の個室の前を通りかかるといつも看護士が中にいた。
 それでも、老人はあれこれと要求があるのか、始終引きもきらずに「ア~~、ア~~!」と叫んでいるのだった。先日など、自分のベッド脇のテレビはTVカードが必要で有料なので、ナースステーションの先にある待ち合いみたいな場所にあるテレビで負け続ける日本女子バレーボールチームの対戦をボクがテレビ観戦していた際、興奮するテレビの応援に負けないくらいの声で老人は叫んでいた。

 ある朝、どんづまりの窓の傍にあるボクの大部屋に看護士が語りかけているのが聞こえた。まるで、祖父と孫娘のほほえましい会話のように聞こえてきたものだ。
 「そうですか、じゃ、大震災も御存知なのですか?」
 「震災の年に生まれたのだ」
 「ケーオー大学をお出になったと聞きましたが……。さぞや、政治家になった方や、偉い人を知っているのではありませんか?」
 「そうじゃ、ワシは勤め人だったが、政治家になったクラスメイトがいてな……」
 「じゃ、ケーオーボーイじゃありませんか! カッコイイ!」
 ボクは大部屋のベッドで、その会話を聞くともなく聞いて、ほほえましくて笑ってしまった。

 次にその老人と会ったのは、ボクにシャワー浴びの許可が出て、空いてるのを見計らってシャワーしていた時だった。看護士さんが、のぞいて「御一緒させてもらっていいですか?」と聞いたのだ。
 「どうぞ! もう出るところですから」

 と、看護士さんに押されて車椅子で入ってきたのが、白髪のケーオーボーイの老人だった。

(つづく)

(写真)病院を抜け出してアイスコーヒーを飲みにいったカフェの和なカップ。



眠気と健康

2008-07-21 23:49:24 | コラムなこむら返し
 入院中なにがつらかったと言って、手術の傷も癒えてくると夜9時にはTVも消され、消灯となることがつらかった。いつもなら、夜9時なんて眠るどころか、むしろ自由時間がはじまるような気持ちの時間帯である。
 他の患者さんもいることだし、そうそう枕元の明かりを点けておく訳にもいかず、暗いベッドの中でポータブルラジオの音楽にイヤホーンを通じて耳を澄ますが、いつもいつのまにか眠っているのだった。

 そのせいか、食事時にビールの1本でも飲むともう眠くて仕方がない。このところ、そんな訳で、たわいもなく板の間で眠りこけていた。
 少しづつこのブログでのエッセイのような日記のような文章をつづる行為は取り戻してゆきたい。いや、書く気はあるのだが、なにしろ眠ってしまうのである。身体だけでなくこころまで健やかになったのだろうか(笑)?


<いのち>の水(写真)

2008-07-17 00:00:21 | コラムなこむら返し
Water_2 蓮池の写真はもう1枚あるので追加しておきます。

 ハスの長い茎には、蜘蛛の巣がはり、水面には水すましがスイスイと浮かんでいました。眠くなるようなその天上的な風景を破るかのように、ウシガエルが蓮池中にバスのきいた鳴き声を鳴り響かせます。

 ボクはまだ梅雨の明けない初夏の朝のひとときを、あくびを噛み殺すようにして平穏に過ごしておりました。入院患者の徘徊であることも忘れて……。


<いのち>の水

2008-07-14 23:57:11 | コラムなこむら返し
Water_1 このたび引退、いや退院いたしました。経過は順調で、予定通り本日抜糸、退院と言うことになりました。
 まだ、傷口はつれ、もののはずみで痛みますので(とりわけ笑った時など(笑))無理はできませんが、御心配をおかけしました。コメントなどでお言葉をお寄せいただいた方々、探し当ててわざわざお見舞いに来てくれたココナツ、入院前にボクの大好きなチーズケーキを差し入れていただいたcureaさんに感謝いたします。

 退院した本日7月14日はフランスの革命記念日、いわゆる「パリ祭」の日です。町中がはなやかなお祭りムードに彩られていたことでしょう。いつもに増してたくさんのワインやシャンパンが傾けられたことでしょう。

 今回、ボクは腸の病気でした。開腹手術とは言っても、傷口はおよそ5センチ程度で軽い手術だったと言っていいでしょう。それでも、半身麻酔は背骨(腰椎)に打たれ、足先まで電撃の走るかのようなショックには驚きました。手術中は音楽が流されていたので、ジャズをリクエストしリラックスして受けることができました。腕の確かだった麻酔医、執刀医に感謝します。全幅の信頼を寄せることができました。

 歩けるようになって、腸を動かすためにも八国山をふくめて近くを散策しておりましたが、おとといの朝、北山公園(ここは6月の菖蒲祭りで有名)の中の蓮池で見つけた小さな水の固まりは、その清らかな透明度からも、いまにも蒸発してなくなってしまいそうなはかなさにおいても、まるでわたしたちやすべての生類がそこに住まうかけがえのないこの惑星の姿そのものに思えてなりませんでした。
 それは、おおきな蓮の葉の真ん中に集められた朝露だったのですが、このところの炎天下の太陽にさらされて(まだ梅雨もあけないと言うのに!)いまにも蒸発して、消え去ってしまいそうでした。
 それでも、風にたなびく蓮の葉につられて移動しながらも、陽にきらめいてその清浄な水のかたまりを確固なものにしていたのです。その小さな水の固まりの中には目には見えない微生物や、微粒子のうごめきや活動があったはずなのです。
 蓮池に突き出た東屋(休憩所)から身を乗り出して、ボクは自分のゆくすえをも感じながらそのはかなげな水の固まりを見つめていたのでした。

 蓮の葉の おもてに集う いのちみず

 清らかな しずくの中に いのちあり

 朝露を あつめていのち 育ちゆく (風月乃じゅん)

(写真)蓮の葉の表面に集められた透明な朝露のかたまり。


うかりひょん! けがないハナシ!

2008-07-13 16:18:37 | コラムなこむら返し
Pospital_room 今日もまた自宅まで散歩です(笑)。術後3日めにやっとシャワーの許可が出た。傷口にはテープが貼ってある。そこをいたわりながら、裸になって病院の風呂場でボクははじめて気付いたのだ。うかつにも、それまで全然気がつかなかった。
 ないのである! あるべきものがないことにはじめて気がついたのである。いや、チンチンではありません。ボクは別に性転換手術を受けたのではありません。CTスキャンで輪切りに写っていたそれは、ちゃんとまだ(!)ついています。
 毛です。陰毛がないのです! ボクは全然気付きませんでした。それに、その手並みの早さと言ったら!
 おそらく、オペ室に入った時、そこにいた3人ばかりの看護士さんに気付かぬうちに、あざやかに剃毛されてしまっていたのです。ボクはそもそも体毛は薄い方です。男らしいを通り過ぎてゴリラみたいに身体中モシャモシャの方がいらっしゃいますが、見ているだけで暑苦しくボクは夏場は涼しい顔をしています。
 だとしても、ボクはそのことに3日間も気がつかなかったのです。薄くなるのは頭髪だけではないのでしょうか? 歩いてオシッコに行けるようになっても剃られていたことに、気がつかなかったのです。
 いったい、そんなあざやかな手並みをしたこの3人ばかりの女性の看護士さんたちは、普段はどんな性生活をしているのでしょうか? もしかしたら、無毛のスッポンポンで恋人とからみあっているのでしょうか?
 って、ワザとは関係ありませんでしたね。
 しかし、ボクはなんといううかりひょんなのでしょうか?
 ボクも八国山のタヌキにだまされたような気分になりましたもんね!

 あ~~、けがなくてよかった! いや、腹のこのキズはケガじゃありませんもんね。

(写真)病室の窓。結核病棟だった頃の、雰囲気も少しは残っているかも知れません(笑)。



笑い話(タイミングはズレてます)

2008-07-12 17:07:05 | コラムなこむら返し
Kinoko_1 7日の「七夕」の日、午前中およそ40分の手術が終わって執刀医と交わした会話はそのまま笑い話でした。
 この日は言うまでもなく、日本が議長国となり、洞爺湖にG8の各国首脳が集まって繰り広げたサミットの初日でした。

 (オペ室から病室へベットで運ばれて)
 医師「どうですか? 何か気になることがありますか?」
 患者「ハイ、とっても不安で眠れません。洞爺湖G8サミットのゆくすえが気になります!」
 医師「……、……」

 ところで、ボクはまだ退院しておりません。自力で歩けるようになって八国山などを早朝から散策するように散歩と称して自宅へ一時帰宅しています。いえ、脱走ではありません。散歩です。なにしろ近所なものですから……(笑)。

(写真)八国山を少し歩くだけで目につくのは多様な菌糸類つまり茸の数々である。朝の散歩でボクは森に採集に歩く南方熊楠になった気分である(笑)。



木立の中の病棟へ!(休養)

2008-07-06 10:05:02 | コラムなこむら返し
Totoro_1 本日から一週間ばかり入院します(ちょうど洞爺湖G8サミット期間でしょうか)。PCのない環境なので、よってブログの更新、さらに連絡ができません。ご迷惑をおかけする方もあるかもしれませんが、よろしくです。

 病院は「隣のトトロ」のメイとさつきのお母さんが入院した「七国山病院」のモデルになった旧「保生園病院」。かっては結核病棟がありました。ボクが引っ越してきた頃には、まだ木造の病棟が木立の中に残っておりました。そう、近所の病院なのです。
 ということで、ハラをくくって行ってきます!
 (なにしろ、腹を切るらしいので……)

(追記)文中に書いた「八国山病院」は、思い違いで存在しません。で、直しました。
 正しくは「保生園病院」で、ここは昭和14年に結核予防法(結核は当時のもっとも死亡率が高い国民病だった)制定とともに作られた214床の結核療養所「保生園」が前身で、昭和46年に一般病院となり「保生園病院」そして平成元年に現在の「新山手病院」と改称したそうです。
 後ろにひかえる「八国山」の麓にあり、開園当初は1時間に1本程度の「武蔵野鉄道」(現西武鉄道)にゆられて延々とかかった郊外の自然のふところに抱かれた場所だったらしいです。
 ボクにとっても「八国山」や「北山公園」は、日々の散歩コースであっていまも残る武蔵野の雑木林や、森に癒されています。ここに居を定めたおおきな魅力が、その里山的な風景であり、自然でした。

(写真)病棟の片隅に置かれていたトトロの折り紙。おそらく入院患者だった方の折り紙作品なのだろう。



E.G.P.P.100七周年を迎える!

2008-07-05 23:59:35 | アート・文化
Step84_1 昨夜のSTEP84で、オープンマイク・ポエトリー・イベントE.G.P.P.100は、連続開催84回めで7周年を迎えることができました。あいもかわらずささやかなイベントですが、この日を迎えることができたのもひとえにエントリーしていただけるみなさまと、常連として観客として見続けていただいている方々のおかげです。ありがとうございました!

 その記念すべき回にSaxをもってガンジーさんが、馳せ参じてくれ、さらにはやまさんともセッションができました。そう言えば、やまさんとは初のからみではないでしょうか?

 この日はボクが設定したテーマが「サンジェルマン・デ・プレの恋」だったのですが、この日エントリーしてくれたサイケ艶歌新宿前田屋さん、ダルマ舎さんがこのテーマに挑戦してくれました。
 他にエントリーしてくれたのは、bambiさん、梓ゆいさん、やまさん、ココナツ、のんべさん、ダイスケでした。一番遅く来たダイスケにおいしいトリはもっていかれてしまいました(笑)。

 さて、個性的なパフォーマンスの展開のイベントには、個性的な看板をと思って会場の「水族館」の入り口階段上にかかげているホワイトボードにイラストをそえるようになったのは、そんなに前の事じゃありません。調べてみないと確定はできませんが、5分くらいで「水族館」のチビたペンで描く看板は、カラーペンもほとんどなく制限ばかりですが、だんだん愛着が出来てきました。ましてや、その絵はイベントが終われば、すぐ消される運命です。今回はテーマに会わせてサンジェルマン・デ・プレのアンを描いてみたのでした。

 さ、目標の100回開催まで残すは16回。あと1年4ケ月となりました。

(写真)STEP84の「サンジェルマン・デ・プレの恋」の看板。