風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

時を駆ける詩人/備忘録風日誌

2005-01-31 23:59:00 | アングラな場所/アングラなひと
年が明けてから、突っ走ってきたせいかもう1月が終わる。おいおい、年が明けたばかりじゃなかったのかい? なにしろ、年明けから毎週なにかしらのイベントを開催してきたか、イベントに参加してきた。その中で4日ほどだったにせよ、大阪まで行ってきた!
おかげで、その報告がすべておろそかになっており、ブログの更新は止まってしまった。あきれられてブログのアクセス数は下降するばかりだ。

1月8日(土)池袋EGPP/Step16『…ボク…ハ…ロボット…★☆‰?$』定例【オープンマイク】イベントで素晴らしい出会いをする(このテーマが「ロボットそのトリビア」の記事の執筆につながりました)。

11日(火)日暮里邦楽ライブ・ハウス「和音」にて『風神・雷神??その雅びなる心は宗達 』。
【朗読/舞踏/音楽】出演:フーゲツのJUN、TOMO、「ねたのよい」、北村誠(非非非の非)、オカニワフミヒロ、菊地正明、黛次郎。ゲスト/舞踏歌成瀬信彦。

19日(水)大阪梅田「レイン・ドックス」。『緊急ライブ』にかけつけ「ねたのよい」(神奈川)とともに東京からただひとり馳せ参じてエントリー。「村八分」の初代ドラマーの渡辺「カント」作郎さんと出会い、「生活サーカス」のベーシスト坪山さんにも加わってもらって即興のセッションでポエトリー・パフォーマンスをする(ポエトリーはほかにあと二人いた)。
大阪は昨年11月のツアーもあったので、遊ぶのには苦労しなかったが、どうやらボクは通天閣周辺が一番好きであることに気付いたのだ。庶民的な浪速っ子に共感する。

大阪から帰ってきたばかりのボクは22日(土)の午前中の地元のイベント(冬まつり)もこなして、鴬谷の「What's up」で行われた『ボーダーレス・ジャム・セッション』(オカニワフミヒロ主催)に駆けつけ、ラストに大阪「レイン・ドックス」でやったポエトリーをリィディングし、その場で東京でもなにかをやろうと呼び掛ける!
その打ち上げで、 「あかね」の火・金を手伝ってる南束さんをくどいて「あかね」開催を依頼する。

その足で、ゴールデン街の「ナグネ」の「宮川舞子写真展」の最終日に駆けつける。そこで歌手の「レモン」ちゃんにも会う。

25日(火)「あかね」で開催する「インド洋津波被災民支援ライブ・エイド@あかね」。場所にふさわしいくらいの人数だったが、面白かった。歌い手も、パフォーマーも、観客もがひとしくバウンティングして集まった1万800円は、27日にスマトラ北部の壊滅的な被害を受けたアチェ州の被災民のために動いている「インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)」に送金する(手数料はボクが負担)。

26日(水)Tさんと待ち合わせ新大久保の「水族館」の下見と折衝に行く。場所貸しを快諾され、ふたりでタイ料理を食べながら、Tさんのバースディを祝う。

27日(木)中央線某所のジャズの流れる「手打ち蕎麦」屋さんに案内され、つい昼間から酒を飲んでしまう。薪ストーブのあるおそらく移築した民家で、まるで長野の山の中にいうような気分になってしまった。雰囲気抜群だが、ふところは寂しくなった。

28日(金)「あかね」にふたたび行き、「あかね詩の朗読会」に初参加。ミキらとともにボクもポエトリーを叫ぶ。おおむね好評。詩集も二冊売れ、その内の一冊はボクの朗読用だったので、表紙もとれていたがそれでもいいというのですこし安くして販売。その金でいい気になって酒を飲む。
地元に最終電車で帰るも、余韻があり地元の飲み屋「MARU」に今年はじめて寄ると、最初からかかってるブルースで踊りまくり詩を叫ぶ。結局、朝まで飲んでる。

30日(日)新大久保「水族館」で行う「LIVE AID」その3に出演交渉をしていた「花&フェノミナン」が立川の「A.A.Company」でやるというライブ情報を入手。対バンが親父殺しの「色町劇場」であることが分かり、殺されに行く。「花フェノ」に出演OKの返事をもらう。

と、このように自分でも忘れないためにメモ風に書くので精一杯。まだまだイベントは続き、この中からちゃんと報告ができるものはどのくらいか心もとないも、ま、期待しないで待っていて下さい。



津波被災民支援LIVE AID@水族館

2005-01-30 01:03:25 | イベント告知/予告/INFO
1月25日(火)に西早稲田「あかね」で緊急開催した『ライブ・エイド』で集まったバウンティング(投げ銭)は義援金としてNGO「インドネシア民主化支援ネットワーク」の人的ネットワークを通じて、今回壊滅的な被害を受けたスマトラ北部のアチェ州の人々、子供達の支援・復興に使われます(1月27日に送金いたしました)。
で、このあまりにも時間的余裕のないイベントの設定だったがゆえに、これを一発花火ですませるのではなくあと2回ほど連続で続けたいと思っています。
第2回めの「ライブ・エイド」は、2月5日の定例オープンマイク・イベント「池袋EGPP」で敢行します。この日は、すでに「真冬の怪談その3」というテーマが(といっても、それはボクのポエトリーのテーマです)設定されていましたし、告示もされているのでその上に「インド洋津波被災民支援ライブ・エイドその2」という副題を付け加えます。

そして、第3回めはライブハウスですこし力を入れて敢行します。

2005年2月17日(木)『インド洋津波被災民支援ライブ・エイド@水族館』
18:00オープン 19:00スタート 料金:2,000円(1ドリンク付) ライブバー「水族館」(新大久保徒歩2分/新宿区百人町1-10-7-B1)TEL 03-3362-3777
出演:ねたのよい、ナラカズヲ+rAnAteKAr、マツイサトコ(予定)ほか
オルガナイズ:フーゲツのJUN(電脳・風月堂)http://www1.ocn.ne.jp/~ungura


※ここでの、入場料収益はすべてインド洋の津波被災民の支援活動をしているNGO(アチェ津波被災救済キャンペーン)におくられ、現地の人々、子どもたちの復興・生活・教育支援に使われます。


インド洋津波被災民支援緊急ライブ・エイド東京@あかね

2005-01-23 22:00:03 | イベント告知/予告/INFO
大阪梅田「レインドッグス」で19日に行われた緊急ライブは準備期間20日だったそうです。それに参加出演して大阪から帰ってきたばかりのボクは、昨日、鴬谷の『What"s Up』でやっている「ボーダーレス・ジャムセッション」へ駆けつけて東京でも「ライブ・エイド」をやろう!と、呼びかけました。
で、急きょ25日(火)早稲田の「あかね」で、準備期間なしのまさしく緊急のスマトラ沖大地震・津波被災民支援の「ライブ・エイド」を敢行します。
無謀です。無茶です。でも、思いを何かの形にしたい??その痛みを共有するために、東京でも何かをしたいと思います。
ええ、たいしたことはできないにせよ、東京でも呼びかけます。関西、大阪にまけるな! 
思いに対する想像力でまけるなと、この緊急のライブ・エイドを呼びかけます。あまりにも、準備期間がないためにこれを「インド洋津波被災救援ライブ・エイド」第1弾と位置付けます。ミュージシャン、パフォーマー、ポエマー(詩人)たちに呼びかけます。
アジアの同朋たちのために、何かをしよう! 思いを、被災したアジアの民衆に馳せ、痛みを悲しみを共有しよう! 自分の表現で、出来ることでその表現に対して表現者は自らの、そして観客はその表現にバウンティング(投げ銭)して、そのあつまった金を確かなNGOに寄付したいと思います。
この書き込みは、その第1弾です。コピーペーストして、知っているところへ投稿してください!

2005年1月25日(火)pm7:00~ インド洋津波被災民支援ライブ・エイド東京@「あかね」(地下鉄東西線早稲田駅下車5分。早稲田大学文学部正門前(諏訪通り)03-5292-1877)
ミュージシャン、詩人、パフォーマー、オーディエンスが等しく自らの芸、表現にバウンティング(投げ銭)する、そんな趣旨のバウンティング・フリー・コンサートです。
オープンマイク形式。だれでも出演できます! 楽器をもって、ことばをもって、表現とバウンティングマネーをもって当日「あかね」へ来て下さい!
(飲み代は「あかね」に払って下さいね!)
あかね http://www.kylin.com/akane-info/index.html
住所 東京都 新宿区 西早稲田 2-1-17 酒井ビル1F
* (地下鉄東西線早稲田駅より徒歩3分ほど)
* 電話番号 03-5292-1877
(一応アンプは店にあります。)

呼び掛け人:フーゲツのJUN(電脳・風月堂)、オカニワフミヒロ(ボーダーレス・ジャムセッション)
共催:あかね

(現在、このイベントのバウンティング収益金はインドネシア・アチェ州にて人権活動の支援をしている「インドネシア民主化支援ネットワーク」(略称ニンジャ)に全額カンパを考えています。このNGOは、そのカンパを今回の地震・津波被災者支援に使うことを表明しています)


ドラえもんとロボット研究の賞のこと

2005-01-18 11:49:00 | トリビアな日々
新聞の片隅に載っていたのだが、この間のボクのこだわり(なにしろまる5日間ロボットについて考え、書きついでいた)と17日(阪神淡路大震災の日)、19日(大阪にて今回のスマトラ沖大地震と津波の被災者に対するチャリティ・ライブが行われボクは出演する)の災害問題をつなぐような記事があったので、これを取り上げ、またこの青年の事を記憶にとどめておきたい。

阪神大震災に遭遇し、23歳で亡くなった神戸大大学院生「きそいもとひろ(競 基弘)賞」というロボット研究者にあたえられる賞が震災10年めの17日創設された。競さんは、ロボットアームの研究をし、人間なみの五感をそなえた「癒しロボット」を夢見ていたが、夢むなしく下宿先の木造アパートの下敷きになって死亡していたのを震災後に発見された。優秀な研究者だった競さんを悼み、その研究をひきつぐ形でレスキュー技術の開発で成果をあげた40歳未満の若い研究者を対象に贈られる。
運営団体は救助ロボットの研究開発をすすめるNPO法人・国際レスキューシステム研究機構(川崎市)。
もっとも、年齢的には若い(生きていれば33歳)競さんのロボットとしての原点はアトムではなく、「ドラえもん」だったそうで、崩壊した下宿の部屋には「ドラえもん」の人形も残されていたという。

(以下コメント)
ドラえもんは「タケコプター」「タイムマシーン」「どこでもドア」「なんでもポケット」など便利な魔法のような秘密道具を持っておりその方にばかり目を奪われがちだが、ドラえもん自体のキャラクターとしての癒し度は、たしかにポイントが高いかも知れない。もう10年以上も前だが、バンコクやインドネシアなどでもドラえもんは大人気で海賊版のコミックがあふれかえっていた。

どうも、ボクは携帯電話を見ると、いまだドラエもんの秘密道具かと思うのだが、頭が60年代だから大目にみてもらいたい。
ドラえもんはTV朝日の「ドラえもん募金」として、今回のスマトラ沖地震・津波の救援募金にも活躍しているすぐれものの癒し系ネコ型ロボットではある(笑)。

ロボット開発の若き研究者のために創設された新しい競(きそい)賞のトロフィが、どうかドラえもんもしくはドラえもんが大好きなドラ焼きの形をしていることをボクは祈るばかりだ。

(2~3日大阪に出没するためお休みです。よろしく、どんどんアクセスしてください。それだけが、はげみですので……(^.^;))


10年目の神戸へ……

2005-01-18 00:26:52 | まぼろしの街/ゆめの街
takatori阪神淡路大震災から10年目の1月17日??もう、10年という月日がたつのだ。あの頃はまだ成人の日が15日で、その休日が過ぎてすぐの大惨事だった。なにが起ったのか、どのくらいの規模なのか、神戸は壊滅したのか、その範囲はどのくらいなのか状況はさっぱり掴めなかった。安否を問い合わせる電話がパンクして、神戸や関西に電話をかけるのは遠慮するようにとTVのアナウンサーが言っていたのを記憶している。

ボクが、その歪んだ街をその目にしたのは、震災から2年の月日がたっていたと思う。震災後に現地事務所をおいたあるNGO団体の長田事務所に手伝いに行ったのだった。高速道路はまだ、復旧しておらず途中から高速バスは下の一般道を走って神戸に着いた。三ノ宮あたりでは、さほど目立たなかった崩壊や、空き地も長田へ行くとまだまだ空き地や燃えた屋根瓦などが残っていた。居酒屋は仮設のまま営業しており、崩壊をまぬがれたわずかの建物も奇妙に歪んでおり、バランス感覚を失いそうになった。

仮設住宅に住む一人暮らしの老人たちの訪問や、行事の炊き出しなどを手伝った。その頃は、震災後のショックもある上に、人間関係、環境の激変に耐えられなくなったのか、仮設住宅での多くの「孤独死」が問題になっていた。同じように、病身の老いた母をかかえていたボクは仮設住宅であった老婆や、老人たちが他人事のように思われなかったのだ。

色々、思い出がよぎってきた。その後、ようとして行方の知れなくなった老婆もいる。心当たりがないかとボクのところまで、電話がかかってきたことがあった。

長田や、鷹取の風景で忘れられないものをふたつあげるとすれば、そのひとつは市民野球場のグラウンドの中に建てられた仮設住宅の風景である。そこではどこ居てもスコアボードが見え、その黒地のスコアボード上に「0」「0」「0」と、白地のスコアが並んでいるのがいまだ目に浮かんで来る。

もうひとつは、地域ラジオ局「FMワイワイ」を訪ねて行った時のことだ。「FMワイワイ」は長田、鷹取に多く住むベトナム、コリア、フィリピンなどのひとのために震災後に多言語のコミュニティ放送をはじめたミニ放送局だった。インターネット放送も始めていたから、現在もネットから聞けると思うが(ちと確認していない)、その放送局兼スタジオは鷹取教会の敷地内にあった。そして、その教会の庭に建つキリスト像はあたかも炎を制止するかのように両手を左右にのばしており、その前で震災で発生した火災が止まったと、言われていた。もう、記憶は薄れかけているが、そのキリスト像とすぐ傍の聖堂がなんとロール状のダンボールで出来ており、その美しさに当時のボクはびっくりしたのだった。
(安くて、軽くて、丈夫なこの建材で建てられた建築物は、その後の災害でも世界各地に建てられたらしい。画像は佐野正幸さんの版画をお借りしました。「炎をくい止めたキリスト像」が描かれています。)


ロボットそのトリビア(その5)

2005-01-16 23:09:27 | トリビアな日々
metoropolisさて、さらにロボットのネーミングについて最後にふれておく。カレル・チャペックが最初、「U.R.U」の構想を得た時、「人工の労働者」を「ラボル(Labor)」と呼ぼうとしていたらしい。その時、相談した兄の画家ヨゼフが「じゃ、ロボット(Robot)は?」と言ったのが、はじまりだという(カレル・チャペック「ロボットについて」)。
だから、ロボットという言葉はチャペック兄弟の手による創作だと言わなければならないだろう(ドイツ語の「アルバイト/Arbeit(労働)」も、robota(賦役)と近い言語だという)。また、この戯曲作品は世界中で上演され、日本でも1924年(大正14年)に築地小劇場で公演されたのだそうだ。

画家でデザイナーでもあったヨゼフはその生涯をナチの収容所で58歳で終えたが、「人造人間」(ホモ・アルテファクトス)というエッセイも残している。マリネッティの未来派宣言(1912年)をロボット宣言と言い放つ鋭いエッセイで、ヨゼフはこのような「ロボット三原則」を提示している。

新しい人造人間(ホモ・アルテファクトス=ロボット)は、次の場合に生じる??

一、その機械的特性の面で最大限に達する場合

二、技術的な面で機械そのものに匹敵する場合

三、上の両面でいかに改造されても、その体が本来の必要な生体機能を失わない場合

(「人造人間」飯島周・訳/平凡社2000年/初出「人民新聞」1924年)

これは何を言いたいのか? ヨゼフによれば、人間は機能的には完全なロボットである。ただ、コントロールするためのメーターやダイアルも持たないところに機能的に野蛮で、非効率的なものになるのだ。便利な道具(たとえば時計や電話など)や、計測や補助装置は直接に、人間の肉体に埋め込まれホモ・アルテファクトスは自らをコントロールし、超人的な存在になるのだ。

あまり指摘されていないことだが、チャペック兄弟の発想の源泉にはチェコ独自の人形劇文化とゴーレム伝説があるのではないだろうか?
これは、おそらく人間はゴーレム的な不完全な存在であるという考えがある。チェコの神話・伝説的な怪物ゴーレムもロボットの先駆的な存在だが、身体は塵でできている。カレルは自分が考えたロボットは、ゴーレムに現代の衣を着せただけと気付いていた(「ロボットという言葉の起源」、十月社カレル・チャペック戯曲集1)。
しかし、「ロボット」の生みの親であるチャペック兄弟が、ともに機械仕掛けのロボットではなく、生化学的というか今で言う遺伝子工学的な「労働を肩代わりするもの」=ロボット(アンドロイド)を考えており、そしてヨゼフのエッセイから読み取れるように、なんと、サイボーグの存在をも予見していたのだ。
ぼくには、「ホモ・アルテファクトス」すなわちロボット(アンドロイド)は、あの「ネクサス型レプリカント」と重なって見えて仕方がない。


(おわり。ふぅ!←ため息)


ロボットそのトリビア(その4)

2005-01-15 23:38:36 | トリビアな日々
RUR-thumb??だからこそチャペックはあらゆる面で危険な作者である。(演出家/ボイタ・ノバーク,1958)

「I,ROBOT」まで繋がるロボットものの、原点になったカレル・チャペックの『ロボット??R.U.R』はさらにシチュエーションにおける典型的なパターンをも生み出し、提示している。ひとつは、現在の国境をも超えるグローバルな多国籍巨大企業の存在を、1920年に予見した点。この作品の中の支配企業R.U.R(エル・ウー・エル=ロッスムのユニバーサル・ロボット)社は、人間の労働・雑役を肩代わりするために今でいうなら遺伝子工学的な方法でロボットを作り出し、世界中にひろめた。そのため労働から解放された人間は恋をすることは出来ても、生殖能力を失ってしまう。ロッスムのユニバーサル・ロボット社の会長の娘ヘレナはそのことに、心を痛めている。
やがて戦争兵器=兵士として使われるようになっていたロボットは、(ヘレナの頼みによりガル博士が改造した)こころを持った「人間以上」のロボットの「檄」により、人間に対して反乱を起こす。
人類はR.U.Rの建築主任のアルクビスト(ラテン語で「ある者」=神)以外はすべて殺されてしまう。
アルクビストは失われたロボットの製造方法の再構築のために生かされた。彼の前にロボットのヘレナが現れ、プリムスとともにロボットのアダムとエヴァになる。アルクピストは二人を神のように祝福する。生命よ! 永遠であれ! と。

ふたつめは、このヘレナという存在がロボット・マリア(映画『メトロポリス』)、ミッチィ(手塚版『メトロポリス』1949年)そのアニメ版のティマそしてレイチェル(『ブレードランナー』)に投影しているだろうという点である。さらに、『ブレードランナー』の遺伝子工学的に生み出されたレプリカントは直接に『ロボット??R.U.R』の子供達とも言える。

ひとつめの系譜はこうだ。R.U.R社(チャペック「ロボット??R.U.R」)→大都会メトロポリス(ハルボゥ=フリッツ・ラング「メトロポリス」)→USロボット(ユナイテッド・ステーツ・ロボット&メカニカルマン株式会社)社(アシモフ「われはロボット」)→ローゼン協会(P・K・デック)→タイレル社(リドリー・スコット「ブレードランナー」)→U.S.R社(映画版「I,ROBOT」)。

ふたつめはこうなるだろうか。ヘレナ(「R.U.R」)→マリア(「メトロポリス」)→スーザン・キャルヴィン(アシモフ「われはロボット」)→ミッチィ(手塚版「メトロポリス」)→レイチェル(「アンドロイドは電気羊の…」および「ブレードランナー」)→ティマ(アニメ版手塚「メトロポリス」)→スーザン・カルヴィン(映画版「I,ROBOT」))。

この中でスーザン・カルヴィンはロボットではないが、「ロボットの母」といった存在だ。
「おやおや、わたしもロボット呼ばわりされたことがあるのよ。わたしは人間じゃないといわれている」(アシモフ『わたしはロボット』伊藤哲・訳/創元推理文庫SF)

(この項次回につづく)



ロボットそのトリビア(その3)

2005-01-14 23:07:34 | トリビアな日々
maria映画化された『I,ROBOT』をボクがあまり評価しないのは、「ロボット三原則」が最初から破られるために提示されるからだ。それに、孤独な宇宙のさい果ての星やステーションでのロボットと過ごす極限状況とか、アシモフのクールな世界観がないがしろにされている。それに、スーザン・カルヴィン博士が(いま気付いたが、ソンタグと同じ「スーザン」だったんだね)若き美人(ブリジット・モイナハンが演じる)に設定されていて、それも映画だからとはいえ気に食わないのだ。主人公のN.Y.市警の黒人刑事(ウィル・スミス)は、いいのだが人種差別問題(かって奴隷だったアフリカン・アメリカン=黒人)とロボット(使役されるもの)の対比とか、アナロジーなどという問題意識も欠落している。
むしろ、人間とロボットの関係性の相克を親子という「絆」のなかで、検証、設定した『A.I.』(スピルバーグ、2003)の方が断然買える(途中から冒険、探求話しになってしまうが……)。さすが、全体の構想はキューブリックが立てた作品だと言うことを感じさせる出来だった。ただ、『A.I.』は、いわば、『ピノキオ』のロボット版の域を出ていず、明らかなファンタジーである。
それでいくと、映画版『I,ROBOT』は、作中に出てくる『ヘンゼルとグレーテル』ではなく、全体のシチュエーションはハルボゥ脚本の『メトロポリス』へ古典還りしている。

『メトロポリス』は、チャペックの『ロボット??R.U.R』と同じ「ロボットの反乱」がテーマだが、このドイツ表現主義の名作はチャペックを下敷きにしていることは明らかだ。だが、1926年の時点でフリッツ・ラング監督が作り出した貧しき労働者の娘マリアをかたどった人造人間の美的創造物は、見事な形象で不粋なデザインの多かったロボットの初期デザインでは、異彩を放っている。おそらく、『スター・ウォーズ』の漫才コンビの片割れのヒューマノイド型ロボットC-3POのデザイン的ルーツもここにあろう。
『メトロポリス』の呪縛は絶大で、『ブレードランナー』(1982年)のレプリカントの物語の設定にも影を落としている。
ためしに、この一節を読んでみてくれたまえ。

「おお、光の四角形で建てられた無数の層をなす大都市……光線の塔よ! 光からなるけわしい山脈よ! ビロードのような大空からおまえの上に……黄金色の雨が間断なく降り注いで来るではないか……酔えるもののごとく足を踏み出し、空まで噴き上げている炎を見た。花火がビロードの空に光の滴でヨシワラという文字を綴っていた。」(前川道介・訳)

これは、あの2019年のロサンジェルスの描写のようではないか、そう『ブレードランナー』 の冒頭シーンの描写のように読める。しかし、この都市の名前はメトロポリスだ。そう、ある意味では人間に反乱を起こしたレプリカント(ロボット)狩りを実行するこの世界は、『ロボット??R.U.R』と『メトロポリス』のすぐ後の世界ともいえるだろう。
かく言う映画『ブレードランナー』は、その発想の源泉をディック(原作:「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」)に求め、そのタイトルはウィリアム・バロウズのサイバーパンクな小説の書名とその小説の基になったアラン・E・ナースによっている。

(この項さらにつづく)


ロボットそのトリビア(その2)

2005-01-13 01:31:40 | トリビアな日々
robbyアイザック・アシモフ(1920~1992)は1939年、若干19歳にしてその後50年におよぶSF作家としての出発点となる第一作「ロビィ」を書き上げる。その作品はいわゆる「ロボットもの」のスタートラインでもあり、のちに「I,ROBOT」としてまとめられる作品集(1950)の第一作でもあった。この作品はジョン・W・キャンベル・ジュニアが編集長に就任したばかりのSF専門誌「アスタウディング」に投稿される。
もっとも、アシモフもすんなりとデビューできた訳ではなかった。アシモフが影響された作品に酷似しているという理由で「ロビィ」は当初ボツになるからである(アシモフ自身による詳細な自伝「アシモフ自伝」があり、とても面白いが現在絶版である)。

ちなみに、ロボットというよび名は1920年にカレル・チャペックが戯曲「ロボット??R.U.R」ではじめて使った呼称で、チェコ語で「使役・労働」を意味するROBOTAから作られた人造人間の意味であった。チャペックの戯曲の中のロボットが、階級闘争における革命の主体であるプロレタリアートのことであるのは明らかだ。というのも、チャペックのロボットたちは、使役する人間に対して反乱を起こすからである。それは、プロレタリアート革命の隠喩として構想されている。

カレル・チャペック(1890~1938)はチェコでは教科書に載っているほどの国民的大作家であり、ノーベル文学賞の候補にもあがった作家だ。現在では、そのほとんどといっていいほどの著作が翻訳出版されているにもかかわらず、研究者以外にはさほど日本では知られていない。むしろ、この点でもSFファンのほうが「R.U.R」で、記憶に留めているほどである。しかし、最近ではその兄のヨゼフ(1887~1945)と組んだモダンなブックデザイン(ロシアアヴァンギャルドの流れを汲んだようなデザイン)なども紹介され、その多才な仕事の片鱗がやっと見えてきた作家である。

チャペックが「ロボット??R.U.R」を発表した年にロシアで生まれたアシモフは、運命的にロボットの宿命的な命運を決定するかのような星の下に生まれたのかもしれない。
しかし、この「ロボット三原則」は、うまく考えられている。これを読むたびにボクが思い出すのは、意味合いは違うのだが、中国の「矛盾」という言葉のもとになったというあの逸話である。
昔、楚の国に武具屋があって、矛(ほこ)をしてどのような盾をも貫いてみせるといい、盾を指してこの盾はどのような矛も貫くことはできないと豪語したという「韓非子」に記載されていることわざだ。つまり、この武具屋のもとを訪れた客が、「ではその矛でこの盾を突いて見せてくれ」と言われて絶句した武具屋の主人のような状態になるのが、「ロボット工学三原則」の第三条であろう。ある究極の質問もしくは、シチュエーションの下では、ロボットは自己撞着に陥り、判断不能状態になることが理論的に予想でき、実際アシモフも「ロボットもの」の中でそのようなストーリーを書いている。

(この項さらにつづく)


ロボットそのトリビア(その1)

2005-01-11 00:31:16 | トリビアな日々
irobot一昨年は、漫画作品の設定上、鉄腕アトムの生まれた年でそのバースディ(2003年4月7日)に合わせてTVアニメ『鉄腕アトム』も復活したということもあったのか、当時のアイボの爆発的人気もあったのか新聞各紙の元旦の別刷り特集には「ロボット」の話題が多かったと記憶するが、今年は1紙もなかったようだ。
しかし、昨年暮れに発表された本田技研工業の開発したヒューマノイド型ロボットが、走った(自力走行)というニュースには誰をもが、驚いたのではないだろうか?

昨年、2004年夏にはアイザック・アシモフ原作による『I,ROBOT』がハリウッドで製作され、公開もされた。映画の出来はともかくとして、このアシモフの『I,ROBOT』(翻訳『わたしはロボット』創元新社版、『われはロボット』『ロボットの時代』早川書房決定版)が、『鉄腕アトム』をも含めたロボットものにおおいなる影響を与えていることは、SFファン以外はあまり知らないことではないだろうか?
いや、それどころか現実のロボット工学の設計・開発者も知らず知らずのうちに、アシモフそして有能な編集者だったジョン・W・キャンベル・ジュニアのコンビによって作り出され、導かれた「ロボット三原則」という<掟>にひきずりこまれてしまうのだ。それらの一線にいる設計者が少年時代に夢見させられたと口々に絶賛する『鉄腕アトム』も、いわばこの「ロボット三原則」の上に構想された物語である。

戦後まもなく戦後児童漫画を牽引するように登場した手塚は、裕福な家に生まれたこともあって時代の制約の中で抜きん出た知識と、教養をもっていた。初期のリメイク作品にあるように、当時にあってドイツ表現主義の『メトロポリス』を鑑賞し、医学部にすすむ手塚はアメリカのSF作品の動向にも詳しかった。むしろ、当時の日本の中で、空想冒険小説を書いていたプロの作家はともかくとして、英語も読めた手塚は唯一のSFファンであり、コレクターでもあったようだ。『アメージング・ストーリーズ』誌などのアメリカ初期SF雑誌の個人コレクターはのちに、翻訳/評論家になる野田昌宏などがいるが、作家(実作者)ではなかった。

ちなみに、日本では本格的にSFというジャンルが確立するのは1960年の『SFマガジン』の創刊をまってからだし、それまでは『ヒッチコック・マガジン』や『宝石』などのミステリー誌の中に肩身狭く掲載されるくらいであった(早川書房の新書判のSFシリーズは1950年代なかばからの刊行)。もちろん、H・G・ウェルズ、ジュール・ヴェルヌなどの影響をうけた「空想科学(冒険)小説」は、「ユートピア小説」もしくは「反(アンチ)ユートピア小説」などとともに明治時代くらいからあったことはあった。矢野龍渓や押川春浪などがそれで、その流れは昭和初期の海野十三などに引き継がれる。

ロボット工学の話に戻る。
その、現代のロボット工学さえもとりこにしてしまう<掟>、「ロボット三原則」とは以下のようなものである(テキストとしては、どこにも掲載されていない私訳です)。

ロボット工学三原則

第一条、ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、手をこまねいて人間が危害を受けるのを黙視していてはならない。

第二条、ロボットは人間の命令に服従しなければならない。ただし、第一条に反する命令はその限りではない。

第三条、ロボットは自ら自衛しなければならない。ただしそれは第一条、第二条に違反しない限りにおいてである。

(「ロボット工学教書」 第56版 西暦2058年)

(この項つづく)


スーザン・ソンタグのこと

2005-01-08 12:19:13 | トリビアな日々
sontag30日にスーザン・ソンタグへの追悼文を書いたが、帰省後に気付いたひとがたくさんの追悼文をネット上に書いている。それだけ、人気があり読まれていたのかとあらためてびっくりする。

ボクは、

スーザン・ソンタグは女優並みの美貌さえ持っていた。美しき才女??美しさまでもそなえた才媛にボクらはからきし弱かった。

と、書いたのだがあの時、毎日新聞社のネットニュースから転載した写真は、余りにも晩年で、病もかかえていたスーザン・ソンタグの若き日の美貌を伝えていない。
そこで、もういちど写真をあらためて提示する。モノクロだが、こちらの方がスーザンが登場した60年代の面影を伝えてくれるだろう。

ちくま学芸文庫で刊行されている『反解釈学』の表紙折り込み部分に掲載されているスーザンの写真も、ボクは個人的に好きだ。この書物は、あの「キャンプに関するノート」を含む。このキャンプ論とノーマン・メイラーを比較論考すると言うのを、ぜひやってみたい。

年末にやはり亡くなった詩人の石垣りんさんの晩年のベレー帽姿も、ボクは好きなのだ。石垣さんは、独身を通したこともあるのか、一生涯可愛いひとだったと思う。ここに追悼しておく。

なんだか、今日は「容姿」に関することに終始してしまった。申し訳ない。今日は時間があまりないせいにしておく。
(夜に定期イベントを開催する)


七草かゆの日

2005-01-07 23:56:09 | トリビアな日々
nanakusakayu正月7日。七草。七草粥を食べる日だ。春の七草はセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの7種。もちろん、ボクだって調べなきゃ分からない。
7種の若菜を食して、一年間の無病息災を祈願する行事だ。で、御多分にもれずみずから作って食しました。その、レピシは白米を炊いて(玄米で買っているので、精米した)、炊きあがった米を、別の手なべにうつして浄水を加え、塩を少々。火をとめる寸前に、春の七草セットをパラパラと加えてひと炊きして出来上がり。
なんじゃ、それ? と言われてしまうだろうか? 最近は、「春の七草セット」なるものが売られており、ウチも生協で買った。
大分産で、袋に「わたしが育てました」と、お百姓さんの写真入りである。しかし、「顔の見える関係」と、一時よく、共同購入会で言われていたことは、写真をかかげるという内容のことではないのだが……。
しかし、ここで問題がある。つまり、新鮮な若菜ではないのだ。もちろん、もとはそうだったんだろうが、粉砕されフリーズドライ(瞬間乾燥)してあるのだ。袋の中味を見ても、七草のどれがセリなのか、ナズナなのかそのものが分からない。
ま、食してみたらおいしかったので、趣旨が違う所はおおめに見よう。きっと、これが、現代の土や野原と切り離された「七草粥」なのだ(ちなみに、ボクが住んでいる所は東京とはいえ農地が多く、無人野菜販売スタンドなどもかなりあるのだ。とはいえ、野草もあるのでスタンドでは七草はそろわない)。

また、パックされた袋の後ろには「七草粥」の由来が書いてあり、なかなかトリビアものだったので、書き写しておこう(大分県有限会社北崎農園に感謝します)。

古い中国の習慣が日本に伝わり、醍醐天皇の延喜11年から正月7日に七草の若菜を調進することが公式化されました。
『枕草子』にも、「7日の菜を6日に人がもて騒ぐ」の記事があるように、「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」で、7日の朝七草粥を炊いて、無病息災を祈るならわしができました。

そうか、朝に食するものだったのだ……。もはや、今頃気付いてもあとのまつりである。


長谷観音は美しかった!/初詣に行く

2005-01-06 00:06:14 | まぼろしの街/ゆめの街
hasekannon一昨年の暮れに母を亡くして(だから丁度一周忌ということになる)もはや、自分自身が帰るべき田舎も、迎えてくれるひとも失ったぼくがいまや唯一、身を寄せられる所として北関東の小都市がある。そこに年始の挨拶に行き、三日ほど逗留した。その地方都市は東京から利根川を越えた場所にあり、渡良瀬川の遊水池のほとりにある小さな町だ。それでも、城下町の雰囲気を残す武家屋敷などが残り、情緒のある蔵もあるさびれてはいるがなかなかに好きな町になった。
今年、そこにある「観音堂」に初詣に行ったのだ。TV漬けになっていたために、少し散歩したかった。そして、その日は三が日の快晴に恵まれ、雪は残って道は凍結していたが、なかなかに気持ちが良かったのである。
三大長谷観音のひとつと言われているそうだが、小さい観音堂で、そこに近隣の善男善女が初詣に押し寄せるために道は渋滞し、参道はゴッタがえしている。どうにか、さい銭箱の前までいって手を合わせたのだが、祈ることばを考えているヒマがないほどであった。
そこで、本来は寄進、祈願をするひとびとが座り込んでいる座敷きにまで上がり込んで、護摩焚きをしている僧侶の後ろから観音さまをまじまじと見ることができたのだった。
ボクは、またその名前を聞いた時、巨大な観音像でも建っているのかと思っていたから、その楚々とした観音像に感激したのだった。
それになんと言っても、年頭からなかなかの美人にお目にかかったものだなと、ほくそえんでしまったのだった。

スマトラ沖の地震による津波の被災者は死者15万をこえ、被災民500万と言われるようになってきた。歴史的な悲劇の様相を呈してきたのだ。それに、伝染病などの二次災害も心配される。自分の無力さを痛感するばかりである。


「シルクロード」の25年

2005-01-05 01:11:10 | アングラな場所/アングラなひと
silkroad2005年正月三箇日、ネット環境のないところで過ごした。すると、どうしても所作なくダラダラ見てしまうのがTVであることが分かった。北関東の小都市で、TV三昧で正月を過ごすと、NHKが今年大河ドラマで「源義経」をやることを知り、2日は満を持してという感じで『新・シルクロード』が始まった。同時に新番組のすぐあとにNHKアーカイブで『シルクロード』をやったのだが、その番組が放映されたのが四半世紀前の1980年だと言っていた。いや、あらためてびっくりした。計算してみれば、その通りなのだが、1980年からもう25年も経つのである(番組の中で視聴者の手紙が紹介され、中学生の時にこの番組を見た女性が、結婚し娘を持ち、その娘が中学生になりと書いていた。25年という時間は、そういう時間なのだ。)!
色々なことが、去来した。年を越すと言う体験が、日々の日常と変わらなくなりつつある今日に、時間の推移を一番感じた瞬間のような気がする。その25年の間に、この国は未曾有のバブルを経験し、その狂乱の中で民族の美徳であった道徳感や倫理を失い、庶民的な生活をズタズタにし町中に廃墟と廃屋を出現させ、虫食い状態にする。そのツケである不良債権にあえぎ、経済活動を減速・失速させている間に、お隣の中国は人民服を脱ぎ、どんどんと経済成長を続け、いまや、日本をも追い越そうとしている。
喜多郎の音楽、石坂浩二のナレーションではじまるその番組自体が、ひと昔前の懐かしさをよびおこすものとなっている。
70年代のプログレや、テクノの前身の中で使われてきたシンセサイザーは(ボクの好きなミュージシャンで言えば、アフロディテス・チャイルド、タンジェリン・ドリーム、サード・イアー・バンド、ピンク・フロイド、クラフト・ワークなどなど)、当時はまだ耳新しいそれでいて万能のキーボードだった。音色は自在に変えられるし、自然音やイメージ音(たとえば流星の音)なども作り出すことができる。実に革命的な楽器だったのだ。1970年代のはじめ『フアー・イースト・ファミリー・バンド』というヒッピー系のバンドに所属し(彼らはコンミューンを作ってともに暮らしていた)、のちに『天界』でソロデビューし、「シルクロード」に抜てきされる。私生活でも山口組系の親分の娘さんに、新幹線で出会って一目惚れされ結婚すると言う、劇的な生活を送る喜多郎は、アメリカに生活の重心を移してからはグラミー賞の「ニュー・エイジ部門」を獲得するなど、華々しい活躍をしているのは御存知の通り。
(ちなみに、「ファー・イースト」時代にベースを担当していた深草アキは、その後、「秦琴」という中国の古代楽器に出会い、その一人者としてNHKの『蔵』などのテーマ曲を担当した友人でもあった男だ。)

今回の「新・シルクロード」の音楽監督はヨーヨー・マがつとめてそのインド音楽やイラン音楽の旋律やメロディを取り入れた音楽もなかなか素晴らしいのである。
しかしながら、「シルクロード」でヒットした喜多郎のテーマ曲は懐かしさとともに、ある時代をよびおこすのだ。中国にまだ人民服が生きており、日本がバブルに浮かれる直前の空白の10年という時代を……。
ある意味では、「シルクロード」という番組が引き起こした「古代ロマン」という尺度が、癒しであった時代と言えばいいのか?

そして、おそらくこの「新・シルクロード」は、昨年チーフディレクターの制作費個人流用や、その他のあらわになったスキャンダルで地にまで墜ちたNHKの信用回復、受信料不払い快復の重要な任を荷なった番組なのだろう。25年前の夢よ、もう一度という訳なのだ。

しかし、NHKはこの番組を含めて、制作費や、人件費、予算規模などを一切公表していないらしいのは、どうしても気になる。昨年のNHKへの不信感、受信料不払いの拡大は公共放送としての役割のみならず、経営や組織の透明性というものも要求されているのだと言うことをNHKは、どうにも理解していないようで、はがゆい。制作費に歯止めがなく、湯水のように使えるとしたら、そこから腐敗の根が生まれるだろうなんてことは誰が考えてもわかる論理だ。それとも、NHKは国会で承認されれば、受信料を払っている視聴者には報告義務はないと考えて、軽視しているのだろうか?