風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ファンタスティック・京都(3)/闘うカフェ

2005-06-30 23:32:31 | アングラな場所/アングラなひと
ishigaki_cafe
今日もとびきりファンタスティックな京都のカフェを紹介しよう。それもとびきり異色と言うか、今この時でしか味わえないカフェであり、言い換えるとこれほど旬なカフェもないかもしれない!
そのカフェは百万遍の交差点に面した京大側にそびえ立っている!
東大路通りと今出川通りが交差するところ、そこが百万遍で、今出川通りを銀閣寺のほうに少し歩くと、そこに百万遍知恩院があり、その門のところに「百万遍念仏根本道場」と大書した石碑がたっている。京都は念仏講がいまも盛んな地域だが(民俗学的に守られていると言うより「子どものまつり」として生きている)、ここの地名「百万遍」は、この百万遍知恩院(浄土宗本山)に由来し、そして百万遍とは百万遍念仏をとなえると浄土に行けると言う信仰にもとづいているのだろう。
百万遍聞いても「百万遍」は好きな地名で、というのもこのあたりにはかっての思い出が詰め込まれているからなのだろう。食うものも食わずに徘徊した京都のみじめな思い出が……。

「しゃんくれーる」もこの近く荒神口にあったジャズ喫茶だ。『二十歳の原点』のエッちゃんこと高野悦子の著作を持ち込んで、ドルフィを聞いていた。何を求めてあんなに京都を徘徊し、歩き回っていたのか今となってはボク自身にも分からない。ただ、京都は当時(1960年代末)から現在にいたるまで、ファンタスティックな魅力をもった街だ。古都と言うだけでなく、ファム・ファタル(宿命のおんな)みたいにボクをとりこにしてしまう。

さて、その現在もっと旬だとおもわれるカフェは、一見するとなんだかなつかしいやぐらで組み立てられた占拠闘争の形態をとっている。ボクになんだか小三里塚、小蜘蛛の巣城を連想させたものだ。
そのカフェは、京大の北西門の拡大、改築にともなって百万遍交差点へ向けて絶好のタテ看の設置場所だった石垣をバリアフリーという名目で潰すことへの説明と反対ではじまったその名も「石垣カフェ」である。大学当局による石垣撤去その実、タテ看スペースにたいする弾圧に反対する学生有志は、当局の説明責任と話し合いを求めてこの石垣の上にヤグラを組み、3畳と2畳のスペースをカフェとして「カンパ制」(コーヒー50円 )で、オープンカフェの営業をこの2005年の1月からはじめた。
ただ、このオープンカフェは石垣の上にあるため、道からおおよそ5メートルの高さに簡易にしつらえたヤグラの上に置かれた炬燵でインスタントもどきのコーヒーがカンパで提供されると言うものである。ゆえに、カフェに行くには石垣にかけられた梯子を昇って行かないとならない。ただ、そのかわりロケーションは抜群で、百万遍の交差点そのものを借景とした贅沢な(?)オープンカフェではある。
大学当局との対話をもとめる学生たちは、当局のにべもない対応に業を煮やしたのか「いしがき寮」という分譲型(二畳ひと間10室。ひと部屋分譲価格2万円)の寮をつくるというあらたな作戦に出て状況は緊迫が高まっているようです(とはいえ、カフェはいたってのんびりと遊んでいました。まつりの期間テントサイトになったところです)。
この旬なオープンカフェを勇気をふるって体験してみることをおすすめします。ファンタスティックですよ!
住所:京都市左京区吉田本町百万遍南東角石垣上ル


ファンタスティック・京都(2)/カフェ「進々堂」

2005-06-29 23:55:32 | アングラな場所/アングラなひと
shinshindo_cafe
18日の朝方、つまりおまつり(「太陽と月のまつり」)初日だが、カントさんと、大阪のtomocoさんと再会する。カントさんは、昨日触れた「村八分」の初代(正確には二代目)ドラマーであったひとだ。ながく高円寺でアーティストとして活動していたが、現在大阪に居を移している。tomocoさんは、この1月レインドックスで開かれた「(つなみ被害支援)緊急ライブ」で、ボクや「ねたのよい」の受入先となってくれて仲良くなった美しき女性だ。ボクは「浪速の美女」と呼んでいる。これに、「ねたのよい」のメンバーを引き連れて、「進々堂」へ朝食をとりに行く。ここは、ボクらも60年代の末くらいから、ヒッチハイクで京都へ来た時は、必ず立ち寄った場所で「村八分」のチャー坊(京都出身)も好きな場所だったからカントさんも来ているはずだが、本人は覚えていなかったようだった。
「進々堂」のことは、昨年暮れの「凶区関西ツアー」の京都報告その4でも触れているから、自分の文章を引用して紹介に変えよう。

「それらの本を持ってその古書店から数歩のカフェ「進々堂」に入ったのだ。なにも変わっていなかった。看板、たたづまい、椅子、ワーズワースの詩の書かれた青銅製のプレートそして重量感のある一枚板の樫のテーブル(民芸運動の有名な木工家.黒田辰秋が製作したもの)、珈琲の味、パン。そう、あえて言えばウエイトレスが変わり、トイレが綺麗になっていたくらいだ。御亭主がパリに遊学されたとき通った(1930年代らしい)サンジェルマン・デュ・プレのカフェを作りたかったと言うカフェは、長い時間を経て重厚で、落ち着いたアウラを発散している。ここも、この国の中で歴史をもったカフェと誇れる場所のひとつだと思う。」

結論から言えば、この日行って正解だったのだ。午後からカントさんが、音の口開き、続いて「ねたのよい」という出演順で西部講堂での出演がひかえていたが、ここでのんびりとした時間を過ごしてよかった。なんとなれば、「進々堂」は翌19日から22日の「まつり」期間と同じ日程で臨時休業になっていたからだ。演奏が終わったら、トンボ帰りしなければならなかったドラムのIGGYにも、京都の思い出を残せたのが良かったと思う。もっともこの時は、ベースのNasは別便で到着のため、「進々堂」への同行はかなわなかったのだが……。

クロワッサン、昔の味のカフィ(珈琲)、ワーズワースの詩の刻印された青銅製のプレート、テーブル……また、何もかわってはいなかった。ここに来ると、不思議なことに音が聞こえるような気がする。BGMは一切ないにもかかわらず、この店の空気には懐かしい、そしてけっしてカビくさくはない昔の空気が流れているような気がしてならない。そして、そこには昔のヤセぎすの十代のボクもいる。かって、神田にカルチェラタンがあったように、京大周辺も催涙ガスのたちこめるカルチェラタンがあった。なにしろ、そこにはパルチザンも棲息していた。泣く子も黙る京大パルチザン。極左党派の爆弾闘争やゲリラ闘争に一定の理論的背景を与えた滝田修はたしか京大の助手でローザ・ルクセンブルグの研究者だった。小川プロのドキュメンタリー映画『パルチザン前史』(1969年・土本典昭監督作品)が、その活動と理論闘争を記録している。のち「赤衛軍」による朝霞基地襲撃自衛官刺殺事件への関与で長期間地下に潜伏し、逮捕、長期拘留ののち「滝田修解体」を出版して転向した人物である。
そして今出川通りをへだてた向かいには、このカフェ「進々堂」が、京都サンジェルマン・デュ・プレとして時代の変遷をくぐり抜けて立ち続けていたという訳だった。


ファンタスティック・京都(1)/草臥れて……村八分

2005-06-28 23:38:48 | アングラな場所/アングラなひと
chrbo_tomb
まつりの中ですごす時間は、なんというか奇妙な流れ方をするようだ。だからボーッとして現実に快気するまでリハビリの期間がいるようである。きっと、まつりの中で流れる時間が、ゆったりと充実して感じられるのも子どもの時間と同じたゆとうような「いま-ここ」を生きているためなのだろう。

さて、まつりに参加する中で京都という街が、さらにファンタスティックに、夢の中の街のように思われた場面がいくつかあったので、ふわふわと頼りなげに紹介してみたい。いや、それがどこにあったのかはっきりと言明できない場所がたくさんあるかもしれない。いまとなっては、それぞれの場所に「草臥れて」ゆめの中で行ったように思われる。

最初は、そうチャー坊の墓参りだ。「ねたのよい」の居残り組(NODDY+ハリー、OGA)と「らぞく」のメンバーと向かったのであるが、地図も何もないところで、京都の地理にすこしは詳しいと言うことでボクが頼られていることが車にのったら分かった。しかし、その日ボクは数時間後にポエトリー・イベントのMCをまかされており、PAの人との打ち合わせも迫っていた。だが、ボクは行った。この機会でなければ一生行けないかも知れないと直感したからだ。

ひと月前に行ったばかりのNODDYの頼り無い記憶をもとにして、ボクらは捜しまわった。梅雨の合間の快晴という割には、この日の京都は真夏日そのもので気温は32度以上あったらしい。車が入れない一方通行の道で、車をおいて歩き出したが、喉はすぐにカラカラになり脱水症状寸前でアタマはクラクラするのだった。
山に取り囲まれた京都の夏はとりわけ苛酷で、炎天下を歩き回るなどすすめられるものではない。それでも、ボクらはどうにか辿り着いた。そこは奇妙な墓所だった。なんというか、チャー坊の墓は共同墓所のような墓石のたて込んだその中にあった。

チャー坊??柴田和志。1950~1994。『村八分』の伝説的なボーカリスト。1969年オルタモント・フェスでローリング・ストーンズを見ることによって衝撃とともに音楽活動に目覚める(オルタモント・フェスのコンサートは警備にあたっていた「ヘルズ・エンジェルス」が観客の青年を観衆の中でなぶり殺し、「LOVE & PEACE」の60年代にとどめをさした)。山口富士夫らとの出会いによって1970年『村八分』を結成。日本語の詞によるロックにこだわったヴィジュアル系バンドのはしり。
と、こういうどこにでもある紹介より、ボクらにとってはヒッチハイクで京都まででかけて「MOJO WEST」主催のロックコンサートではじめて見てぶっとんだバンド。チャー坊の身ぶり、声、フリークなステージングはこの国にも真のロックバンドが生まれたと直感した。ビートルズよりローリングストーンズの不良ぽい仕種やスタイルにイカれていた者にはたまらない魅力をもったバンドだった。初期の「まつり」には「裸のラリーズ」は、いくつも参加しているが、『村八分』はデビューとともに大物となり、短命だったにせよメジャーのPYG(ボーカルにジュリー、ショーケンなどが加わったGS生え抜きのスーパーバンド)などと対バンをやるなど数々の伝説を生んだバンドだ。残された音源の少なさが、現在もカリスマ的な人気を保つ要因なのかも知れないが、ネットオークションやアルバムの再販の度に話題になる日本ロック黎明期の神話的なバンドではある。
いうまでもなく、彼らは上京の際は「新宿風月堂」に立ち寄っている。

「あるいても あるいても はてどなく はてどなく にぎりしめた手のひらは あせばかり あせばかり あるいては 立ちどまり 目を閉じて ふりかえる 心にしまった宝は さみしさばかり あるいては くたびれて ふりかえり くたびれて にぎりしめた手のひらは くたびれて くたびれて」(「草臥れて」詞・柴田和志)

このチャ-坊が書いた詞は、墓石にその一部が刻まれてあった。

「くたびれて//あるいても あるいても/涯てどなく 涯てどなく/握りしめた 手のひらは/あせばかり あせばかり//チャー坊デビュー作」(墓碑より)

チャー坊は1994年4月にオーバードープが原因と思われる早過ぎる死をむかえた。享年43歳であった。晩年のチャー坊はドラッグで身体を相当痛めつけていた様子であったらしい。しかし、墓石に刻まれたリリック(詞)はいまもって初々しい。チャー坊は万葉集を座右の書にしていたと聞いたことがあるが、五音の畳み掛けの詞は、そのような古い歌の形式に近いものをボクは感じる(「長歌」は五七五七の繰り返しで涯てしもなくつづく)。

そして、それは声高に語られることはなかったが、今回の「太陽と月のまつり」の中にも当時の京都のロックシーンを知っているものが何人か参加し(少なくとも4人はいた)、会場の一画には石丸忍さんのイラストが額にいれて売られていた(誰だったかのライブの時にも紹介されていた。きっとアリが復刻してあげたもののプリントアウトだったのだろう)。
京都には、その名も「MOJO WEST」という名のライブハウスが現在作られており、もちろん木村さんがからんでいるようだった。京都は千年の都そのもののように、古い記憶をそのまま残しながらあらたな伝説や、物語をうみだして積み重ねて行くという不思議でファンタスティックな空間なのだった。


今週金曜日E.G.P.P.100(One Hundred)のテーマはバンコク(天使の都)です!

2005-06-27 23:45:45 | イベント告知/予告/INFO
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今週、金曜日(7/1)に開催されます。オープンマイク・イベントです。ふるってエントリーください。東京にポエトリー・ルネッサンスを!
オーディエンス(観客)としての参加も、もちろん歓迎いたします。

  ………………………………………………………………………
7月1日(金)※毎月第1金曜日に定例開催
E.G.P.P.100(One Hundred)
STEP48「生きるためのうた! ここは天使の都(クランテープ)だ!(タイ好き集合!)」
【オープンマイク・イベント】
(出演)M.C.P(ミッド・カンブリアン・ピリオッド)、蔵重のんべ(ひとり芝居)、ガンジー(Sax)、フーゲツのJUN他

※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

オルガナイズ/進行:フーゲツのJUN
開場18:30/開始19:30
参加費:1500円(1Drinkつき)
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7-B1)
問:03-3362-3777(水族館)地図はここ→http://bsn.bbzone.net/suizokukan/
主催:電脳・風月堂http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/


太陽と月の結婚/西部講堂でまつろった5日間

2005-06-25 13:04:10 | アングラな場所/アングラなひと
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ココナッツの車に相乗りさせてもらって国道1号線をひた走り、丸1日がかりで帰ってきた。ガス代をシェアして箱根で日帰り温泉「天山」に入って(笑)、富士山の湧水群で有名な柿田川を見に行き、寄り道と休憩だらけの先を急がない道中でした。帰ってくる途中に、沖縄戦60年目の慰霊祭や、都議会議員選挙の告示、両親を殺害した少年のニュースを知りました。東京に戻る途上は、徐々に現実に引き戻されて行く過程でもあったようです。

今回の上洛の目的だった『太陽と月のまつり』(6/18~22開催)は、その名の通り「夏至」と「満月」を後半のメインとした千年の都の街中で催されたユニークな「まつり」となりました。
京大西部講堂前に五日間たちあがったまるでアジアのバザールのような風景は参加者の記憶の中に永遠にきざみつけられたことでしょう。素敵な光景でした。天気にも恵まれました。おぼろとは言え満月も眺められました。夏至の一日の、まつりはとりわけ素敵でした。
東京でも「100万人のキャンドルナイト」が例年のように呼び掛けられ(それでも日程は拡大)、夏至祭も行われたこの日、まつりでのテーマはヘンプに絞られたかのようだった。麻もまた太陽と地球の豊かな恵みであり、ましてこの国の風土にも根付いた栽培文化(農耕文化)だからです。

まつりは、声高に誰かがテーマやスローガンを叫ぶどころか、おそらく外部から遊びに来た人には何がテーマなのか分からなかったことだろう。現に、最終日に立ち寄った京大生(はじめての京大生の訪問?)にそのような質問を受けた。まつり会場はキャンドル、焚き火にあふれ、またステージ発電もバイオ・ディーゼルという廃油の再利用でやっていたから、「100万人のキャンドルライト」を例にして趣旨説明をしておいた。ま、やはり京大生などの優秀な頭脳の持ち主には、理解の一助として趣旨や、テーマが説明されることが必要なのだろう。すると、来年もここでやりますか?と聞いてきた。
吉田寮の寮生自治会とのトラブルもあって、それは一応和解したようですが、西部講堂で来年も開催できるのかはボクには答えられない質問でした。トラブルは昨年の関西凶徒ツアーに引き続いて吉田寮に泊まっていたボクには、他人事ではありませんでした(トラブルは主に、テントの問題と、食堂での無断宿泊の問題と現在は非合法の嗜好品の問題だったようです)。

西部講堂という日本のロックや、音楽を語る上でも落とせない伝説的な場所。関西圏のインディーズバンドを中心にしながらも、そこに東京在住の多くのバンド、ミュージシャンがからんだ。さらには、フルムーン(まつり最終日)の西部講堂のトリは桑名晴子さんで、それに兄貴の桑名正博が外車で駆けつけて、一時はまつり会場が騒然とした。ボクは到着と同時に、車から降りてくる桑名さんと握手(笑)。この1月の「レインドッグス」で「ねたのよい」ともども会ったことを覚えていてくれました。

PAもなんだか、凄かった。講堂はステージにサブのPAまであって、さらに外の島ステージ、ティピ舞台と3ケ所にPAブースが設けられている。まさか、タダではないと思われます。当初は中庭スペースは無料という話が、一転して有料になったのもこのような予算規模の拡大の問題があったのかもしれません。まつりの言い出しっぺのごりちゃん、はるちゃんたちに借金が残らないことを祈るばかりです。

ボクにとっては、どうなることかと心配だった20日の島ステージの『ぽえむショー×詩は永遠に生々しい』は、それぞれがユニークな12名の詩人のステージングとリィディング、ひと組のフラダンス(うーちゃんとそのフラグループのフラダンス)と、ひとりのパフォーマー(黒田オサムさん、パーカッション・サポートは春田祐介クン)によって盛り上がって面白いステージが展開できました。

15:35~ Chori (京都で7月から「KSWS」を主催する若者)、福永祥子、平井謙、今野和代、中宮竜善、うーちゃんとフラグループのフラダンス、オープンマイク(オープンマイクは本部インフォメーション、出店者宣伝にまじって西成の立花さんがエントリー)、筏丸けいこ、岡本青周、李さん、シールー(From KOREA 、ヴォィスパフォーマンス)、萩原健次郎、フーゲツのJUN、黒田オサム。終わったのは、夕闇が迫ってきた19:30ころで、続いてPON(山田塊也)の「麻里花詩集」からの詩と、内田ボブの歌にバトンタッチしました。

『ぽえむショー』のコーナーのMC・進行を担当していてボクも面白かったし、まつりの中でこのようなポエトリー・イベントを長時間できたことを感謝します。将来的には、これ自体をめあてにした観客が押しかけようなまつりの人気イベントに育てばいいなと夢みます。
PAのかた、お手伝いの方にもありがとうと言わせて下さい!
また、ボク自身のパフォーマンスが激しくて、引いた方もごめんなさい(笑)!

中野のおっちゃんとの司会二人コンビが、いいコンビだったと言ってくれた誰かさんにも感謝します!

ありがとう! まつりに参加したみんなにも! 太陽と月はこの6月の第4週目のまんなかで、みなに称えられ晴れて婚礼の儀をとどこおりなく済ませたようだ。太陽と月は 再び むすびあって 結婚した!
今度は、ジェンキンズさんも曽我さんと住む(笑)佐渡で会おうね! 佐渡へ! 佐渡へと 麻草木もなびくよ! 真夏の佐渡は 流木も丸木もサドになって 荒波も 佐渡に よこたわる 天の河になるよ!

『ポンポコ銀河まつり』Ponpoco Milky Way Fes. at SADO
2005年8月15~17日/佐渡関岬休暇村キャンプ場(佐渡弥彦国定公園内)
詳細は→http://members.jcom.home.ne.jp/o-nana/

(写真は「ぽえむショー」でのボクのパフォーマンス。左ココナッツ(G)、春田祐介(Drm)、ボク。写真:OGAちゃん)


太陽と月を求めてまつりへ!

2005-06-17 09:56:53 | トリビアな日々
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ありがとう! MIXIの日誌としてもリンクしている『風雅遁走!』が、1日のアクセスが150、週のアクセス數が1,000の大台を超えてまもなく総アクセス數が1万になろうとしています(ブログの発足は昨年10月)。
これは、ファーストステージのひとつの区切りかと思います。目標にしていた数字だからです。

さて、ボクは今日夕刻から若きサイケデリックバンド「ねたのよい」とともに京都へ向かいます。『太陽と月のまつり』に参加するためです。21日夏至、22日満月をまつりの中で迎え祝います。
おおよそ1週間、サイトおよびブログの更新をお休みします。どうか、あしからず。なお、メールも携帯もできません。至急の連絡はまつりの事務局に伝達してもらうことになります。よろしく!


狸御殿はオペレッタ!

2005-06-16 23:55:33 | シネマに溺れる
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やっと見に行った。前売チケットをまたムダにするところだった。明日でロードショー上映は打ち切りのようだった。間に合った。

鈴木清順監督作品『オペレッタ狸御殿』(日本ヘラルド・松竹。2005年)。怪作いや快作である。こういう映画はたしかに鈴木清順でなければ、作り得ぬ映画だろう。鈴木清順監督デビュー50周年記念作品でもある。この映画に関しては見る前から多言を弄した(3月27~29日のブログ記事を参照→カテゴリー「シネマに溺れる」をクリックすると過去の記事に飛びます)。

狸御殿映画の系譜の事もあえてくり返さない。だから、今回は鑑賞しての苦言を呈そう。
そう、チープでいながら超豪華という矛盾に満ちたセットを基調にした舞台風の作り方には異論はないが、むしろCGの部分がしっくりしない。この作品に向かう時の「正しい」「鑑賞」「態度」は、インド映画(マサラ・ムービー)を見る時のように、構えず何も考えずに頭をからっぽにして楽しむことである。
それは分かっている。だけど、どうやら鈴木清順監督とCGは相性が悪いのではないだろうか?

たとえばCGと声紋分析技術で甦った美空ひばり(「光りの女人」「雨千代の母」)だ。ひばりといったら自らも狸御殿映画に主演しているスターだ(『七変化狸御殿』(54・松竹)『歌まつり満月狸合戦』(55・新東宝)『大当たり狸御殿』(58・東宝))。いやおうでも期待するではないか!
だが、それはデジタル技術で作った影絵のようなものだった。そして声紋分析でつくったひばりの新曲(?)「極楽蛙の観音力」も、やはりいただけないものだった。「ま、似ているか」としか言い様がなく、「こぶし」をまわす部分では音声が歪んでしまっている。

それに、肝心の「狸姫」を演じたチャン・ツィイーの中国語がしっくりこない。これまでの狸御殿ものの系譜がそうだったように、ここで一気に国際化してしまうと中国に狸伝承ってどのような形であったのかとまどってしまう。狸の生息分布はたしかに、中国までである。照葉樹林帯の里山に棲息する人間のすぐ隣に暮らしてきた野生動物だ。だから、中国にも狸伝承は存在するはずだ。だが、知らない。知られていない。

四国や、佐渡や、全国各地の山地に伝承され、地方独自の狸が命名までされてひとびとに親しまれた。この国の中でのタヌキは、化かされ話しも含めて里山に住むひとびとに愛されてきた動物だ。いや、もちろん、隣接しあって棲息してきたために農作物や、家畜を襲い、殺してしまう被害をもたらす動物なのだが、それでもその愛嬌ある顔つきもあるのか、憎まれることはなかった。
今回の作品は、そのような意味でこの国の伝承としてのタヌキ話しがもっと加味されるのかと期待していたから、一気に中国(唐)になってしまったのだ残念だった。

これは、「狸姫」は「時の一番のスターが演じなければ駄目」(鈴木清順)から言えば、現代日本に花のある「大スター」が不在だと言うことの証なのかも知れないのだが……。

もうひとつ個人的には残念なことがある。チャン・ツィイーのキャスティングが決まった時、約束されていたというあのクリストファー・ドイルがカメラを回すことが実現できなかったことだ。ドイルが撮っていたらという映像の期待は悔やみきれないものがある。(評価:★★1/2)


アカシアの雨にうたれて人知れず微笑まん

2005-06-15 22:44:48 | トリビアな日々
michiko-kanba
今日は6月15日である。もう毎年書いてるが、ブログの記事でははじめてだろう(ボクは数年間BBSを日誌代わりにして記事を書いていた。その記録は「不夜城1960」http://www.geocities.jp/fuyajyo1960/というサイトにアーカイブされています)。
1960年に小説家としてデビューした倉橋由美子の訃報を伝えたばかりの翌日が6・15だとは! 奇妙な暗合ではある。

1960年6月15日、45年前のこの日、岸信介(戦犯)内閣(自民党)による日米安保条約の改定に反対する学生、労働者が国会正門に數10万規模で押しかけ、取り囲み、強行突破をはかり警官隊と激しくぶつかりあう騒然たる中でひとりの女子学生が圧殺される。当時、東大文学部に在学中だった樺美智子さん(22歳)である。3日のちに、全学連の主催で日比谷野外音楽堂で虐殺抗議集会が開かれる。彼女の手記は父母の手によって『人知れず微笑まん』としてまとまる。書名は彼女の墓誌にも刻まれている以下の詩からとられた。

「最後に」
誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ
(1956年 樺美智子作)

60年安保は全学連の昂揚をもたらしたとともに、挫折をももたらした。この世代(現在65歳以上)は同時に現在、新保守層も形成している。青年時代リベラルであったこの世代の人たちは、この国の保守、支配者層としてこの国を搾取し、悪くしている。いや、年金世代でありながら年金で細々と生きているひとをも揶揄する訳ではない。いまだ、企業に役員や、顧問という形でしがみつき、官僚として天下りしてまで甘い汁を吸いつくそうとしている吸血鬼のような一群のひとびとを指している。役得、既得権を手放そうとはせず、しがみつき他人であれば後続世代を平気でリストラしている連中である。と同時にこの世代は年金の食い逃げ世代であり、年金制度の改悪も自らの世代を擁護するのみであとは知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。いわば、この国のシステムをも含めて私物化している世代である。そう、分かりやすく言えば西部邁が代表する世代といえばいいか。

さて、この60年安保世代がその挫折の日々に聞いた歌謡曲こそが西田佐知子が歌った「アカシアの雨がやむとき」であった(作詞:水木かおる/作曲:藤原秀行)。


アカシアの雨にうたれて
このまま死んでしまいたい
夜が明ける 日が昇る
朝の光のその中で
冷たくなった私をみつけて
あのひとは
涙を流して くれるでしょうか


アカシアの雨に泣いている
切ない胸はわかるまい
想い出の ペンダント
白い真珠のこの肌で
淋しく今日も暖めてるのに
あのひとは
冷たい眼をして 何処かへ消えた


アカシアの雨がやむとき
青空さして鳩がとぶ
むらさきの はねのいろ
それはベンチの片隅で
冷たくなった私の脱けがら
あのひとを
探して遥(はる)かに 飛び立つ影よ

この歌の暗さはその暗いマイナーのメロディラインも、西田佐知子の少し鼻にかかった声もあるが、なんと言ってもその不可思議な歌詞(リリック)にあるだろう。これは、誰も指摘したことがないのが不思議なんだが、1番、3番の歌詞に見られるようにこの詞の中には「死への誘惑」と「幽体離脱」が語られている。
少なくとも、この詞の時間設定は自分の死後として語られているのだ。
たとえ、それが願望だとしても(「このまま死んでしまいたい」)何処かへ消えた恋しい人を求めて、身体を離脱した魂は鳩となって探しに飛び立ってゆく。これは、変身と言うより離脱した魂が、抜け殻として変化した「影」なのだ。「私」は「ドッペルゲンガー」そして「あのひと」は「死神」……。
この詞の中には、とてつもなく死への憧れ、暗さが漂っている。「アカシア」という木の選択にも、死の匂いがかぎわけられる。アカシアは熱帯産の樹木で、成長が早い。その代わり幹が細いヒョロとしたたたずまいだ。Acacia(アカシア)は、ギリシャ語の「Akazo(とげのある、鋭い)」が語源。
花言葉は「真実の愛・秘愛・優雅・友情・秘めた恋」。おそらく、花言葉から発想されて作られた詞がこんなにも「死の誘惑」に引き込まれたのは作詞家水木かおるの個人的な資質があったにせよ、実は政情不安の騒然とした世の中にあった。
そう考えてもう一度、樺美智子の詩「最後に」を読んでみて欲しい。その詩は突然無気味なものに変わってしまう。「人知れぬほほえみ」は、死神の笑いのように思えてしまう!

キミは戦慄しないか?



聖少女・倉橋由美子

2005-06-14 22:33:58 | トリビアな日々
partei
今日も訃報と追悼の文章になるのかと思うとつらい。またその作家が10代のころ、スタイルとして影響を受けたひとであれば、なおさらだ。しかし、今回は思いきったことを書きたい。というのも、その作家自身がフランツ・カフカのエピゴーネンと目されていた作家だからだ。

女性学生作家のはしりであった倉橋由美子さん(以下敬称略)が10日、拡張型心筋症で69歳で死去した。倉橋さんが69歳にもなっていたことにも驚くが、彼女は1960年の60年安保の最中に『パルタイ』という明大の学生新聞に発表した作品で一躍世に知られた作家で、さもありなんであった。『パルタイ』とはドイツ語で、前衛党、党派つまりパーティのことである。政治党派を観念的に、ある意味カフカ的なとりわけ『審判』で描かれたような得体の知れない謎のようなものと描いた悪夢的な作品だった。
その流れは『スミヤキストQの冒険』でも、さらに敷衍されて拡大される。スミヤキストとはマルキストのパロディであり、この奇妙な命名は倉橋ワールドの悪夢性がイデオロギーや、思想性の批判、パロディを日本的感性でとらえたものだということが分かる。
倉橋由美子の文学の継承もしくは流れとしてどこに位置付けられるのかは、長い間文芸評論家という奇妙な職業のひとたちを悩ませたに違いない。

思いきって言おう。倉橋文学は観念文学の系譜にあると……。
『パルタイ』という作品が、いわば誤読されてきた背景は、日共(日本共産党)という組織がいまだ革命政党であるという幻想がなりたち、ソビエトロシアが中共が、それぞれの革命が波及して国際的な連帯(第三インター、第四インターなど)、世界革命を用意するものというとてつもない夢想が幻想されていた世界観のもとに規定されるだろう。
倉橋由美子と言う作家は、ある意味では早世の作家であったがゆえに一時(71年から80年まで)の沈黙を余儀無くされる。倉橋由美子はその沈黙の10年間にアイオワ大学に留学する。彼女に翻訳もの(絶筆となったのは『星の王子様』の新訳だったらしい)が、多い理由はこのへんに由来する。
沈黙(休筆)のきっかけとなった『暗い旅』(1971年)は不運な作品だった。そのスタイルが、ヌーヴォー・ロマンというかアンチロマンの作品のパクリではないかと揶揄されたのだ。だが、そんなフランス風のスタイルは当時、文芸評論のスタイルがおしなべて「構造主義」風であったのよりはましだった。文芸評論家もマスコミも、杓子定規な視点しか持ち得なかった。

倉橋文学の初期には、それでも『聖少女』『妖女のように』『蠍たち』『ヴァージニア』といった一連のアンチロマン風の主客を混乱させるような妖艶な作品がある。勝手な命名が許されるなら聖ロリータものと言いたい作品群だ。しかし、そこに登場する少女たちはこれまた飛び抜けて観念的な、現実には存在し得ないほどエロチックでそれでいて性を離脱していた。

実は、ボクはこれらの論考をただただ記憶で書いている。だから思い違いや、間違いもあると思う。しかし、倉橋由美子が生み出した少女たちは、読後35年ほど経っていても印象がうすれることがなかった。それどころか、ボクらはある時期、倉橋由美子的な少女・少年を生きようと空しい桃色遊戯にふけったことがあるくらいだ。倉橋由美子は当時、ボクらの聖少女として君臨した。いまはおそらく顧みるものがいないそれらの作品群にボクらは熱狂したのだった。だから、ボクらは深夜ジャズ喫茶のトイレの中で、恥垢まみれでセックスしても美しかった! そう、倉橋由美子さんのおかげで、ボクらは観念の中で美しかった! 奇妙だが、そうありえたのだった。

ボクらに、美しき観念の桃色遊戯を教えてくれた倉橋由美子さんに感謝し、その死去を哀惜します。合掌。


ラッキー・カモンの「悲しき口笛」

2005-06-13 15:24:20 | トリビアな日々
hibari_yuka
子どもに食われる。うん、子どもをあなどってはいけない。たとえ、それが学芸会ノリだったとしても子どもには食われまくってしまう。

ボクのインド洋つなみ被災民支援ライブ・エイドにも出演してくれたララリーヌさんが主催するチャリティ・イベントが11日(土)渋谷の7th Floorで行われた。
題して『第1回ラッキー・カモンまつり』。
ボクが「平成の笠置シヅ子」と名付けたララリーヌさんのことだから、面白くライブ構成を考えているに違いない。それに、今回はボクが仲介して奄美の若き唄者として、弥宥希も出演する。このようなチャリティ・イベントをやりたかったきっかけになったということで、ボクは、ララリーヌさんに御招待を受けた(今回の収益金は日本ユニセフ協会に贈られる)。

ちょっと、「場末のキャバレー」(失礼!)のような面白い歌もののライブだった。
弥宥希の島唄とオリジナルも加えて、自ら「ソフト演歌」と名乗るお方や、歌唱力抜群の女性(おばさん?)歌手が3グループ。弥宥希は黒一点(?)で、なんだか可哀想である(深い意味はありません)。

その中で、もちろんボーカルの方は衣裳から楽しませてくれ、コンボもしくはバンドをひきつれての熱唱だった訳だが、その中でエンターティメント性たっぷりの「ソフト演歌」菅原理名さんの8歳の娘さんが、友情出場というかお母さんの時間を割いて、カラオケで美空ひばりを歌うと言うシーンがあった。
美空ひばりの『悲しき口笛』(1949年松竹)の燕尾服の衣裳そのままという凝ったものだったが、歌も歌える天才子役としてデビューした美空ひばりが何故、そんなにも受けたのか少し分かったような気がしたものだ。

戦後の混乱期がようやく終結してきた1949年、まだまだひとびとの暮らしは貧しかった。そんな時代に美空ひばり(12歳)の歌声は、焼跡の空の上をさえずり啼き渡る春の野のヒバリ同様にうちしがれた国に希望を与えるものだったろう。1950年には『悲しき口笛』の燕尾服姿はアメリカの『ライフ』誌に掲載される。この年には川田晴久、母・喜美枝とともにハワイ巡業へ出発し、さらに、アメリカ本土に渡る。ハリウッドではマーガレット・オブライエンと会い、共演作に発展する。こうして、川田とともに凱旋帰国を果たし芝大門前から銀座、上野、浅草をオープン・カーでパレードをし、国民にとってはこに小さなスターが国辱を晴らしてくれたようなおもいだったろう。翌1951年、雑誌『平凡』の人気投票で、岡晴夫、小畑実に次ぎ、いきなり第3位に選ばれる人気ともにスターの位置を不動のものにする。ひばり若干14歳。

しかし、可愛い、というか、同時代で美空ひばり12歳のデビューを見た訳ではないが、かくやと思わせた(とはいえ、それは今日のようなTVではなく映画の上での話だから、追体験は充分できる)。それが、どんなにチープなものであろうと、燕尾服というものは言うまでもなく男のフォーマルな服であり、当時ならおそらくフレッド・アステア(華麗なるダンス、タップで1940年代のハリウッド・ミュージカル映画の大スター)を連想したことだろう。美空ひばりはその意味では、デビュー当時から「とりかえばや物語」のような性の交替、混乱を意図的に演じてそれが宝塚レビューのような効果をもたらすことになった。美空ひばりのファンが圧倒的に女性が多い理由でもあるだろう。

いったい、この文章は報告なのか、ひばり論なのか混乱してきたが、かっての天才少女歌手を思い出させてくれたその8歳の少女の名前だけは、記録しておこう。相原祐伽ちゃん(8歳)。可愛い子でした。
(あとで調べたら彼女はセインカミュの英語ビデオに出演したりしてお母さんとともに芸能活動をしている子でした。歌の上手さはまだまだでしたが……。)


言の葉の 魔術遣いに 幻惑(まど)わされ 処女の血に似た 童貞捨てぬ……

2005-06-12 16:23:28 | トリビアな日々
fennel_1
言葉が吃立するということがあるのだ。まるで、活字の行間から詩句は匂い立つように立ち上がる。


死は一瞬のめまひに肖つつ夏はやも少女らが亜麻いろの腋の巣
(「感幻楽」 1969年 白玉書房刊)

火の星の夏 淡き血の夏 われは襤褸翩翻(らんるへんぽん)として架(かか)る
(「星餐図」 1971年 人文書院)

難解でデレッタント、そして耽美的なほとんど言語の魔術とでも言いたい言葉使い。塚本邦雄の歌にあふれるものは、短歌という日本語の深部にまで降りるような厳格な美意識でもあったろうか。
それは、こんな自作の跋として記した自負もしくは矜持にも窺われる。


前歌集『黄金律』の跋に私は、短歌、それは負数の自乗によって創られる鬱然たる『正』のシンボルであると記した。單なる正數的宇宙に浮遊してをゐたのは、前衛短歌以前の定型詩であつた。そして負:正逆轉の秘を司る三十一音律詩型こそ、まさに<魔王>と呼ぶべきであらう。(『魔王』跋文)


古今東西の古典に精通し、塚本邦雄の歌は本歌どり、パロディもしくは歌の中に古典作品を隠しおおせることによってまるで錬金術の秘法のように、たおやかにひそやかに作用してくる。


「十二」とは殊に私の愛着の深い数字である……歌集標題を案ずるにあたって、この感慨は更に深かった……短歌なる詩形がいかに特殊であり、いかに困難を極め、かつまた日本語の母胎、根幹として、恐るべき力を秘めてゐることが、身に染みて感じられる。言語芸術は勿論叡智の所産であるが、韻文定型詩が形を成し、生まれでようする言語空間は、明らかに知性の介入を許さぬやうな気象学にも、大いに支配されてゐるやうだ。精妙巧緻な技法と、稀有の秩序と調和なくしては成立せず、しかも歌はそれらを超えた非合理の、真空状態で一瞬に調べを得るのではあるまいか。
言葉の遊燕流動する宇宙の、「天変」とも呼ぶべき透明で神々しい暴力が、単なる言葉に新しい命を与へ、一篇の詩歌に変貌させる。殊に短歌はその時に発する最も美しい詩語の火花と、結晶と、そのしたたりであると言ふ他はないだらう。(『迷宮逍遥歌』跋文)


夏いまだ童貞の香の馬を責む恋いつの日に解かるる魔法
(「されど遊星」 第十歌集 1975年 人文書院刊)

馬を洗わば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
(「感幻楽」 第六歌集 1969年 白玉書房刊)


このように言葉を魔術師のようにあやつる先駆者がいるところでは、自分の才能のなさを思い知らされるばかりと覚悟して中学生のころに手ほどきを受けた短歌をボクは潔く捨ててビート詩を書き出したのであった。しかし、塚本邦雄という歌人の存在には長い間幻惑されたことは確かだ。この文章(ふみ)は、塚本邦雄への追悼と言うよりは嫉妬であり、怨みである。

(写真は自選歌集「茴香變」1971年6月 湯川書房より)
※この記事のタイトルは塚本邦雄ではなく、僭越ながらボクの創った追悼歌です。


ミリオンダラー・ベイビー

2005-06-11 02:10:32 | シネマに溺れる
milliondollar_baby
書けない。どうにも感想の言葉が出てこない。いや、裏切られたとか、予想外だったとかいう作品だったらまだいい、なんと言えばいいのだろう。その作品が「賞取り」を最初から意識した作品であることが見え透いていて、それでそのドンデン返しさえもが「賞」を意識したに違いないと思わせるとなんとも書く気がおこってこないのである。
「俺に質問するな」「言われたことだけをやれ!」「自分を守れ!」
役柄でもあるワンマン・トレーナーそのままにクリント・イーストウッドにそうせきたてられてこの作品は撮影されたに違いない。この作品にはイーストウッドの映画人生のノウハウ、泣かせどころや勘所がいっぱい詰まった作品には違いないだろう。だが、なんとも後味が悪いのである。

その作品とは、もう分かっただろうけどクリント・イーストウッドがメガホンをとり本年度のアカデミー作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞をとった映画『ミリオンダラー・ベイビー』である。
この作品を見たのはこの1日、映画の日の1本に選んで見に行ったものである。
中盤まではいい、胸のすくようなボクシング・シーン。女性どうしのボクシング・シーンに見ているこちらまで身体がおもわず左右に動いてしまうほどだった。31歳すぎから名トレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)の門を叩くマギー(ヒラリー・スワンク)。彼女がハングリ-精神のみで成り上がって行くそのプロセスは胸がすくようで痛快だ。華やかなパンチひとつで百万ドルを一晩で稼ぎだせると言うアメリカン・ドリームのような一発逆転の賭け事のような世界。そこまではいい。しかし、それはクリント・イーストウッドが描きたい世界ではなかったらしい。
しかし、映画の後半、これは日本でつくられたらアカデミー賞どころか、どこかの難病患者団体から抗議のくるような結末ではないか!
まだ未見のひとのために、詳しくは書かないでおくが、「安楽死」にたいする慎重な考察が全く欠如した映画でクリント・イーストウッドはアカデミー賞をとったことになり、アカデミー賞選考委員も軽薄なくらい配慮しなかったらしい。
これは、フィクションだからいいんだ、と言えるのだろうか?
実に、映画は後味悪く終わる。拍手をしたい気持ちも、観客の高揚感にも水をかけ、そして結論として言えばクリント・イーストウッドのそれが計算通りだったのだ。

まるで、場末のボクシング・ジムとか、なんだかハリウッド映画はもちろん、映画では最近見なかったダウンタウンがメインのロケーションだったので(とはいえ、この作品では風景は全くと言っていいほど重要ではない!)、期待したのだが、ボソボソとセリフを言うイーストウッドそのままにすべては計算尽くされているのだった。イーストウッドに重要なのは、観客の感情のコントロールだったのかもしれない?

しかし、百歩ゆずるならイーストウッドが栄光のスポーツ、格闘技の中に栄光と挫折だけでなく、死の匂いまで嗅ぎ付けていたのだったとしたら、ある意味たしかに凄いのだが、呼吸補助装置を止めることは、そして苦痛を感じないように興奮剤を患者に注射することはこれは立派な殺人罪になってしまう。もしかしたら、マギーは一時はおちぶれたジャンキーだったのだろうか。しかし、そのような伏線はない。

とはいえ、ジャズファンでもあるイーストウッドは音楽に素晴らしい感性を発揮する。この作品の音楽も監督自身の作曲である。(評価:★★★1/2)

(6月6日の朝日新聞夕刊に沢木耕太郎が「銀の森へ」で、書いていた。沢木氏は、まだ未見の読者に考慮したのか、突っ込んだ表現は取っていないが、こう書いている。「私にはこう思えてならない。確かに、これはほとんど完璧に作られている。だが、傑作ではない、と」。ボクはこれを読んで、大笑いしてしまい、やっとこの感想を書く気になったのだった。)

  …………………………………………………………………………
その華麗で耽美的な日本語でボクを圧倒した歌人の塚本邦雄氏が9日、呼吸不全で亡くなった。84歳だった。
前衛的で先鋭なその歌は、驚き以外のなにものでもありませんでした。

先生の死去の報に、せめてなりと哀惜の念をあらわさせていただきます。
素晴らしい歌人としての現世でした。

「死者の書」と 懐かしきひと めぐりあい うたい競うか 曲水の宴

先生にはかないません。ずっと圧倒されてきました。ボクなりのスタイルで継承します。

中有あり 極彩色の ほとけをば 抱きうつつに 煉獄めぐり
(塚本邦雄ファンサイトのBBSへのボクの書き込み)



69(Sixtynine)補遺

2005-06-10 20:45:11 | トリビアな日々
先の「69」の記事で書いたことに、このふたつは触れておかないと思い直し付け加えます。

ひとつは映画化もされた村上龍の『69(シクスティナイン)』で、ただこの小説はあの時代を背景にした佐世保に住む17歳の少年の話。ま、村上龍の半自伝と言うか青春小説のおもむきです。
村上龍は年下(!)ということもあるのか、ボクはいまひとつ好きになれない作家なのです。現在、芥川賞の選考委員のチーフ格をしているのも気に食わない(ついでに言えば小説家で一番嫌いなのはいま長野県知事をしている田中康夫である。神戸で某ボランティア会の現地事務所の閉所式の時会ったがやっぱり好きになれなかった! だって、そんなところまでチャラチャラ着飾った女を連れてくることはないだろうに! 「売れっ子作家」の軽薄ぶりがボクは好きじゃないのかもしれませんが……)。

もうひとつは、『69』と書いて「ローク」と読ませるジャズ喫茶である。晴海通り沿いに70年代の初め頃までありました。銀座には映画館以外では、植草甚一も洋書を買いに来ていた『イエナ』そしてこの『69』と有楽町の『ママ』しか行くところはなかった。『ママ』は、ボクのジャズ遍歴の出発点である日暮里の『シャルマン』の後に通った店です。この店は、有楽町の隠れ家的な路地の中にあったのですが、ボクはそこをマンガ家の遠藤政治(つげ義春にキャラクター的影響を与えたマンガ家)や深井ヒロ(深井国の名前でイラストレーターに転向)のフランス風の探偵マンガのおシャレなノリで見ておりました。あのアバラ屋風の路地がボクには花の都パリの路地に見えていたのです(笑)。


69(sixtynine)

2005-06-10 00:49:39 | トリビアな日々
tai_chig
昨日は6月9日、69。そうこれをシックスティナインと読むのでなく、「ロック」と読んでこの日を「ロックの日」と定めているひとたちがいるのだ。全然認知されていないかもしれないが、たとえば昨晩ギリギリまで行こうかとまよっていた不謹慎シンドロームというバンドや、昨年は横浜のB.B.Streetでやったイベントには「ねたのよい」も出演したためにボクも呼ばれてがなっていた。
だから、どこにも出かけられなかった昨晩はヤードバーズや、ローリングストーンや、ボブ・ディラン、村八分をかけてウサをはらしていた。
これはゴロ合わせにすぎない。だからシックスナインという読み方もボクは個人的には好きだ。69の形は言うまでもなく男女の愛撫の体位だ。それも、お互いがクンニやフェラで愛撫しあう。セックスの体位の中では一番男女が平等で、攻撃性もなく丸く身体をまるめて調和している。
陰陽で言う陰陽図別名太陰大極図の形態に、一番似ている体位だ。最近分かったことだが、人工衛星から地球を写したサーモグラフィはこの勾玉が嵌め込まれたような陰陽図の形を描くのだそうだ。この中には古代中国の宇宙観のエキスがつまっています。

これを陰陽にからめて、聖徳太子が言った

和をもって尊しとする!

などという言葉で考えたら、どこからかクレームがくるでしょうか?

しかし、支配非支配、隷属の関係といった性幻想の介在しない体位というのは他には考えられない。「組み伏せる」という言葉があるが、このような愛よりも暴力や、支配原理や奴隷制度(「第三の植民地」と女性性を表現したリブの思想家がいた)がイメージとして先行するセックスではもっとも対等、平等な体位だとボクには思われる。
聖徳太子の言葉で言ったら、暴力的なセックスよりも和合のセックスの方が愛が成立する。所詮、人間もケモノではあるが、69の体位は人間にしか存在しない!
(ま、正確にいったら男女が対面して結びつくという体位自体も、動物ではありえないのであるが……。69はこの対面セックスの変形であり、愛撫、前戯の完成形かも知れない。もっと言えば同性でも愛が交歓できる体位だ。)

もうひとつ。シックスティナインは69??つまり1969年を表わす場合がある。1969年。アメリカのウッドストックで狂熱の三日間があった年。おそらくジャニスとジミヘンが代表したフラワー・チルドレンのサイケデリックな音楽性が完成した年。ヒッピー・ムーブメントと「LOVE&PEACE」が頂点に達した年。日本では全共闘による「叛乱の季節」がピークに達し、東大安田講堂が機動隊との攻防戦の果てに落城した年。それが、もうひとつの69。シックスナインだった。

そう、あなたは、どの記念日として6月9日を選びますか?


さようなら!奇跡のミセス・ロビンソン!

2005-06-09 01:00:03 | シネマに溺れる
graduate
バンコク(スパチャラサイ国立競技場)でジーコジャパンが余裕さえみせて北朝鮮を2?0で下しW杯出場を決めた夜、ふと夕刊を見て、アン・バンクロフトの訃報を知った。アン・バンクロフトといったら歌(サイモン&ガーファンクル)にもなった「ミセス・ロビンソン」を『卒業』(67年)で演じた女優である。ダフティ・ホフマン(まだ若き青年だった!)を誘惑にかかる年上のおんなという役どころだった。

ところが、その4年ほど前にはパティ・デュークが体当たり演技でヘレン・ケラーを演じた『奇跡の人』(62年。日本公開63年)で、サリバン先生を舞台に引き続いて演じアカデミー主演女優賞を獲得した。もともとはアクターズ・スタジオで学んだ舞台の出身だった。
ほかに映画の代表作として『女が愛情に渇くとき』(64年)『愛と喝采の日々』(77年)『アグネス』(85年)などがあり、『エレファント・マン』(80年)にも出演していた。
その演技力は、演劇の基礎訓練のたまものだったのでしょうが、ながい間ボクの頭の中には、指導が厳格な「サリバン先生」のイメージがこびりついていて、久しぶりにスクリーンで出会ったら色情狂のようなミセス・ロビンソンとなって頭がトチ狂いました。映画の役柄のイメージに終始まどわされる、こういうひとは本当の意味での名女優なのでしょう。

「サリバン先生! ボクを誘惑しないで下さい!」
と、間違えて言いたくなるくらい混乱しましたね(笑)!

旦那は鬼才メル・ブルックス監督。
両親はイタリア移民でNYのブロンクスの出身。死んだのもNYシティでNYっ子だったのかもしれません。73歳、ガン死でした。合掌。
※『卒業』のパッケージのストッキングの美しいお御足がアン・バンクロフトさんの足です。
(数時間前からWEBニュースでも掲載されています)