風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

E.G.P.P.100「生まれ来るものと、生めないタマゴ」

2006-03-11 03:27:10 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
Madoka_egppボクのリィディング「風月堂の詩(うた)」からはじまったこの日のE.G.P.P.100。誕生パーティを兼ねていることもあって何をトチ狂ったのかリィディングの最後になんとのっけからイナバウアー!!
思わずマイクスタンドを倒しそうになる!
この日のテーマは「生まれ来るものたちへ! BIRTH!」でしたが、最初から波瀾含みです。

オープンマイクの口開きエントリーは、美人受付嬢をやってもらっているbambiさん!
ありがたい「人類のアセンション」の講話のその第三回め。なんと、最後には質問コーナーもありで、どうやら講話はこの日で終わりで、次回からは美人DJに転身するらしい?
ありがたい講話を聞き逃した方残念でした。アセンション・プリーズ!
エントリー二番手は、もはやおなじみイエス北村。花粉症がひどいらしく終始白いマスクをしたままで、「切り捨トーク」を敢行。しかし、この日はお笑いよりラーメン・トリビアだったみたい。
とここで、三番目のエントリーを呼び出す所で、着物姿のまきおさんが花のブーケをもって登場!
マリリン・モンロー・ティストたっぷりの「Happy Birthday」を歌っておもとなほさん(この日は欠席)と連名のブーケをプレゼントしていただきました。うん、ボクはあのBirth Dayを祝ってもらったジョン・F・ケネディの気分を味わいました(笑)。どうもありがとう!
エントリー三番手。PARAさん。やはり一番面白かったのは「浅草」でしょうか?
スカトロ風味たっぷりな「雲古」をたっぷりとふりかけてもらいました。やや食傷気味です(笑)。
四番目は初エントリーの松岡泰子(bunny)さん。ギター弾き語り。人前で歌うのも初挑戦とのこと。その勇気に拍手!
マツイサトコさんの友人で、彼女に励まされてエントリーしたようです。あらたなディーバの登場を予感させる期待株です。続けて歌いに来てもらいたいものです。
五番目は、さきほどプレゼンターだったまきおさん。英語の詩からはじまり、その途中からボロボロ泣き出す。オリジナルも詩はすべてアカペラで可愛く歌ってくれました。でも、ポエトリー界のヘビおんなはこんなにも泣き上戸だったとは!
六番目エントリーは13号倉庫さんが連れてきてくれた美季マドカさん!
いや、歌い出したとたん会場に衝撃が走りました。このジャンルはE.G.P.P.100にはまだありませんでしたから!
いや、思わず「紅組代表!」などと絶叫してしまいました。大受けです!
次回は藤圭子をカバーしてもらいたいです。ボクはサインをもらいました(笑)。
ならばと「白組代表」として七番目にエントリー指名したのは、コボリイチエンさん。この日のコボリさんのギターはかっこ良かったな。コボリヒットメロディの連続です。こころなしか紅組を意識したのか(笑)?
さて、ここであまりにも前半ゆったりとやりすぎて間もおかずボクのこの日のテーマ「生まれ来るものたちへ! BIRTH!」をリィディングしました。
さらに、始まる前に小滝橋通りの方まで探しまわったケーキ屋さんで、買ってきたチーズケーキをふるまいました。みずからケーキを買ってくるという珍しいお祝い方です(笑)。
キーボードをセットしたあとマツイサトコが歌います。しかし、先月もそうでしたが、どうもキーボードがトラブルつづきでサトコはついていない。一応、エントリー八番目です。
そうして、この日のゲストTOMOが最後をかざります。と、ここで飛び入りが入ります。って、このオープンマイク・イベントはすべてが飛び入りみたいなものなのですが……エントリー受け付けリストに記名してなかったという意味で飛び入りと言うことにしておきます。
会うこと自体が、もう2年ぶりくらいなメグさん。ボクが名付けたニックネームがフルムーンのメグです。短い詩を読んでいってくれましたが、フルムーンのメグとのシンクロニシティがどうやら起っていたことにあとで、気付きました。
TOMOは、インディアンフルート、ハーディ・ガーディ、笙(しよう)、高音のサズと楽器を次々と持ち替えて、独自の世界を見せてくれました。バックで、まきおさんが着物姿で踊ります。
TOMOの音の世界をひと言で言い表わすのはむずかしいのですが、世界の民族楽器を駆使したインプロビゼーション、ニューエイジ系の即興演奏と言えばいいでしょうか?
最後にTOMOのサズにのせてボクの「十三の月の乙女」を競演しました。ボクのこの日の3編めです。
押し気味で1、2月とはしょらざるをえなかった欲求不満を、バースディにかこつけてリィディングさせてもらいました。
終わったのは、またもや23持すぎでした。みなさん、お疲れ様でした。

なお、この日はまきおさん、おもとさんの他にマツイサトコさんからお花を、美季マドカさんからガメラのフィギアとチーズケーキ味のチョコボールをいただきました。ありがとうございました。

  *********************
次回は、定例開催第1金曜日、4月7日(金)で、ゲストは「ガディス(Goddess)」。ロックですよ!
女性ボーカル水木ノアがシャウトします!
Step57のテーマは、「死と乙女」にしましょう。4週間後です。桜が満開の頃でしょう。花見気分で歌と言う、詩という夜桜を見物に御自分の花を持参して御参加下さい! 「水族館」のさかなたちに見守られながら……、表現せよ! 生きている証に!

(写真_2)この日のE.G.P.P.で、もっとも衝撃的に「演歌」というジャンルを教えてくれた美季マドカさん。まきおさんとは違った意味で、「おんなの性(さが)」を考えさせてくれました。「演歌」の永遠のテーマであるそれをまた提起してくれたと思います。しかし、「おんなの性(さが)」って何なんだろう?



高天原~~沈没!(共謀罪ナイト)

2006-02-17 00:09:52 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
Loft_koybo_night_1「共謀罪に反対する表現者たちの会」が主宰する『共謀罪ナイト』に出演してきました。この日は、いみじくも治安維持法違反で特高(特別高等警察=共産党など天皇制に反対したり、革命を画策する団体や個人を取り締まり、思想弾圧をすること目的にして作られた戦前の秘密警察)に拘束され、取り調べの拷問で惨殺された小林多喜二(『蟹工船』などを書いたプロレタリア文学者)の命日の5日前であり(小林多喜二が殺されたのは、1933年2月20日)、またこの日の朝刊には自民党が共謀罪を暴力団などの組織犯罪集団にかぎるという修正案を民主党に提示した旨の新聞報道があった日でした。

さて、「共謀罪」をめぐるパネル・ディスカションには法学者、弁護士、ライターなど入れ代わり立ち代わりたくさん出演しましたが、社民党の保坂展人議員が駆けつけてくれたのが印象に残りました。しかし、内申書裁判や校則の問題をやっていた頃の保坂氏に比べ(と言ってもあれは20代そこそこでしたか?)すっかり議員顔になっていました(保坂氏は現在、「NUKED LOFT」の方で月イチのトークライブをもっていることが分かりました)。
この日、ディスカッション以外で表現したのはポエトリー・パフォーマンスのボクとZAKIさんの歌でした。さらに、この日の模様は逐一インターネット中継されたそうで、これは口で言うのは簡単ですが、機材や技術の問題でクリアするのが実際むずかしいにもかかわらず実現させただけでもたいしたものです(our planet-TVの技術協力)。さらに、視聴者との双方向を目指すために、掲示板(CGI)までつけたらしく、そこに、いま「タカマガハラ~~!」と叫んでパフォーマンスしたのは誰だという問い合わせがあったらしいです。

「高天原~~沈没!」は、この日のポエトリーの締めのフレーズです。その実、この日覚えた鹿児島弁「おいどま腹けちょっと~~!(オレたちは怒ってるぞ!)」も叫んだのですが……。
この鹿児島弁は鹿児島県警が起こした選挙違反デッチ上げ裁判でえん罪を主張している川畑さんという方が、叫んだ言葉でこの事件は鹿児島県の志布志で起った事件で、鹿児島では知らない人がいないほどの事件なのだそうだ。しかし、その事件の説明の過程で語られる鹿児島弁が実にユーモラスで、なんだか深刻な話なのに思わず微笑んでしまいそうになる(電話で会場にやり取りが流された)。
ああ、櫻島が見たくなったなぁ!

ということで、全然イベント内容の説明になっておりませんが、この前代未踏の「共謀罪」この国会の法務委員会で最初に審議される可能性があるとか、みなさん、この悪法を成立させないように声をあげましょう!
行動にうつせない者は、せめて自分のブログやネットの日記に、疑問や疑念を表明しましょう。このような法案が審議されていることを知らせましょう。

この日、知ったのだが、なんとこの「共謀罪」が成立すると615もの犯罪(罪状)に関連するらしい(この日の前まで、550以上と認識していた)。で、その実、肝心の法務省もよく把握していないらしい。

まさしく、この意味でも驚くべき悪法です。このあらたな「共謀罪」の制定は、かっての「内乱罪」や「不敬罪」で、人間の思想、信条さえも取り締まって多数の拷問死、獄死に追いやった治安維持法と同じ、人間の内面の自由、イマジネーションの自由、ジョークや冗談やタメ口の自由さえも取り締まるとんでもない法律だと言わねばなりません。

(この日、法学者も会場からのボクの質問に、それから主催のライターの方も「治安維持法」とのアナロジカルな関係を軽視しているようにしかボクには見えなかったが、意見が違っても、解釈が違っても反対の行動や、表明はともにします。)

(写真_2)「タカマガハラ(高天原)~~沈没!!」この日のボクのポエトリー・パフォーマンスです。今回、「盗聴法」や「個人情報保護法案」のようにはマスコミ関係の対応も無関心のように見えます。この法案こそこの国を「戦前」に引き戻すもの(あるいは、あらたなる「戦前」へひっぱっていくもの)だとボクは危機意識を持つのですが……。(カメラ:西村仁美)



オレは歌だ! 歌は歩く。

2006-02-01 00:28:45 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
Nanao_04_1ふたつのドキュメンタリィを見た。ひとつは29日の深夜と言えばいいのか、日本TV系列のドキュメンタリー番組「ふたりのさっちゃん」。もうひとつはこれは数年前にスカパーで放映された『エッジ2~今を、いきる~』という番組の「歌は歩いていく」である。

「ふたりのさっちゃん」は戦前、特高警察に、治安維持法違反でつかまり「非国民」扱いされた当年90歳のさっちゃん(取材中の昨年12月死去。映像では若い頃は美しいバスの車掌さんで、治安維持法違反のため不当解雇され、その名誉回復のための裁判を準備中だったそうです。素敵な笑顔のおばあさんでした)と、立川自衛隊宿舎反戦ビラポスティング事件の被告でもあり、「花&フェノミナン」のジャンベのわれらがさっちゃんが主人公だ。ちなみにこちらのさっちゃんは、逆転有罪判決の出た翌日のライブの風景が記録されているが、実にイキイキとして歌い、「戦争なんかキライだ!」とニコリとピースサインをする。さっちゃんはヨカおなごだ。
ちなみに、若いさっちゃんはアムネスティ・インターナショナルが「良心の囚人」に指定したひとりで、その底抜けの楽天的な感性と生き方が素敵だ。
90歳のさっちゃんの「非国民」扱いのままの名誉回復がなされないままの死去は、どんなにか無念なことだったでしょう。

「歌は歩いていく」は、長野で現在ナナオの朗読会を企画・準備中のMIXIネーム・ナリキリストさんにダビングをお願いして送っていただいたものだ。ここでの主人公はあのサカキナナオである。ナナオの映像記録としては、40代のナナオが登場する『スワノセ第4世界』(監督・上野圭一:日本ホリステック医学協会副会長/アンドルー・ワイルの翻訳で知られる)があるが、ナナオひとりに焦点をあわせたものではない。これは、まさしく「部族」のコミューンを記録した貴重なドキュメンタリィだ。他に日本映画学校の生徒が密着して撮っているはずと言う話も聞いたような気がする。
「歌は歩いていく」は、3年前81歳のナナオを南伊豆に訪ね、そして新宿の「LOFT PLUS ONE」でのポエトリー・イベント(たしか南兵衛が主宰したナナオの誕生日祝いのイベントだったと思う)を記録したものだ。番組でもナナオは歩く。伊豆の山を周辺を歩き、「歩くように詩を書く。歌うように詩を書く」と答える。新宿では、ネィティヴ・アメリカンの歌を披露したり、ナナオ節のポエトリーを読み、キミたちには歌がないのではと問いかける。そして、もっともっと詩人が増え、東京が詩人だらけになって詩人が住む街になれば素敵じゃないかと言って喝采をあびる。
うん、やっぱりナナオは同じだ。やっぱり、カリスマだよ。「風月堂」の頃からちっとも変わっていない。

伊豆のみかん小屋の仮住まいもナナオが住む場所として、ナナオの空間になっている。
ナナオの発言で、グッときたのはナナオがインタビュアーに答えて、「孤独? 何を言いたいのか分からない。そんなことは考えたこともない」と答え、「だって生き、食べ、語ることは関係することだ、社会的な営みなのだ」と続け、「ボクはいまもコミューンに住んでるよ」と答える場面だった。

そうだとも、ボクらはナナオとともに同じコミューンに住む仲間だと認識しよう!
そう、キミもアナタもナナオと同じコミューンの住人だよ!
だって、ボクらはナナオと同じ亀の島に、弓の島に、そしてマザーアース(ガイア)に住む住人だし、同じ家(エコロジーの語源ギリシャ語のオイコスは家もしくは家政という意味です。ちなみにエコノミーも同じ語源からきている)に住むコミューンを同じくする仲間なのだ。

であれば、さぁ、長老ナナオについていこう! ナナオの教えから学ぼう! 仕事を捨てよう! 金から解放されよう! 国家と言う幻想から自由になろう! 国を捨てよう! 親を捨てよう! そして、フーテンになろう!

(写真:ナナオサカキ2004年)
※画像の無断転載はお断りします。

(タイトルは、男の一人称「俺」だけでなく、さっちゃんが使う「オレ」の意味も含まれています)



望みは託された希望はつながった(新宿「唯唯」望年会顛末記)テキスト

2005-12-30 00:19:26 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
Myshadow_moning新宿花園神社となり『唯唯』で敢行した合同・野合・望(忘)年会はわがE.G.P.P.100/電脳・風月堂関連のメンバーが核となり、カウンターや他のテーブルにすわった「唯唯」常連のお客さんたちと交流しながら和気あいあいと繰り広げられた。ステージにマイクを用意してもらったおかげで、E.G.P.P.100 at QuiQuiという感じでさすがに、舞台慣れしたわが陣営が一番ステージにあがっていた。

参加者はおもとなほ、その友人、まきお、岡ちゃん、アントンパパ、あだっち、ココナツ、PARA、13号倉庫、さいとうりか、13号さんのお仲間の方(お名前失念)、さいとうさんの映画のスタッフの方と自主映画関係の参加もあった(13号倉庫さんが呼び掛けられたもの)。
なお、隣のテーブルにはbambiさん、Hooちゃんの姿もあり、はじめてお目にかかったかめら万年筆さん、KUSSYさんなどがいらしている。KUSSYさんは二度もステージへ上がる。

なほさんの「カーニバル」から口開き、まきお、ボク、あだっち(あだっちのデジュリドゥは好評だった)、さいとうりか(即興と映画の宣伝。彼女は自主映画「寅蔵と会った日」の監督)、セブン、KUSSYさんなどがステージに立ち、ミッドナイトに『唯唯』チィママのビアンカが妖艶なダンスを披露した。

いや、堪能しました。楽しくて結局朝まで飲んでました。
それにしても、セブンはまつりの収支報告などの話になると相変わらずムキになるなぁ(笑)。

いつも夕日の写真しか撮っていないボクが(というか撮れないのだが)久方ぶりに朝日を撮りました。これも朝帰りの余得です。早起きは三文の得というやつでしょうか(寝てないのだが……)。



望みは託された希望はつながった(新宿「唯唯」望年会顛末記)phot_2

2005-12-30 00:09:06 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
05dec28_quiqui(写真2)妖婉さにかけてはビアンカ女王様に負けていない E.G.P.P.100が誇る妖艶コンビ。まきおさんとなほさん。最近うらやましいほどこの二人は仲むつまじい。まきおさんが良くなほさんに巻き付いている光景を見かけます。ヘビ女とヘビ使いの関係でしょうか?




さようなら、池袋! こんにちわ、新大久保!

2005-05-15 12:28:24 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
ついに池袋SCUM2000に別れを告げる時がやってきた。プレイベントを加えるとここで21回、荻窪(2001年8月スタート)からカウントして46回め(4年弱)のオープンマイク・イベント。それが、この日の「池袋EGPPラスト・ラン!」だ。言うまでもなく、この2月28日のブルトレ「あさかぜ」「さくら」のラスト・ラン!にたとえている。いとおしさにおいては優劣をつけられない。というより、やはり自分が企画、運営してきたイベントであればこそ、この池袋EGPPは、愛おしいし、PAを載せて毎月通った目白通り、明治通りそして池袋の街をこんな気持ちで迎えるとは予想だにしなかった。

開店したばかりだった荻窪の「Boxinglee's cafe」にオープンマイクをはじめて持ち込み、スタートした翌月にあの911が起った。step2をやった直後だったと思う。そこで、2年強敢行して池袋に転戦することになった時、直前に「池袋ウエスト・ゲート・パーク」が直木賞をとった。池袋EGPPはEAST GATE POETRY PARKの略なのだが、東口にも詩の広場を作ろうと言う意気込みから名付けた。
一時はたいへんな盛り上がりを見せたが、それは長続きせず後半の1年間で黒字になったことは1回もない。
しかし、こういうイベントは来るものは拒まず、去るものは追わずなのである??ボクはけっして人のせいにはしないし、批判もしない。
淡々と自分の進むべき道をゆく。

「いいひとと歩けばそれは祭り、悪いひとと一緒は修行」(小林ハル)なのだ。

ラスト・ランも少数だったが、でもなんだか充実していた。やはり、自分のハコになっていたのだ。SCUM2000は、今後イベントは絞り、本来のアトリエ(ここは個人のアトリエなのである)に戻るらしい。

新大久保でやるイベントでは、「EGPP」の名称は、そのまま残す。「EGPP 100(OneHundred)」!
多国籍というか無国籍的な街「新大久保」での定例イベントである(第1金曜日19:30~)。ここは、まがりなりにも新宿である。原点に還っていくような思いがする。
この定例イベントへの参加者はもちろん手伝ってくれるスタッフを募集します。また、DJ、PA担当で協力してくれる方もお願いします。とりわけ、DJの方名乗り出てください!
東京ポエトリー・ルネッサンスをともに作りだしていこう!

※協力してもいいという方はメールを下さい。思い負担をかけることはありません。気楽にね!→fuugetsudo@yahoo.co.jp


こころの目があった/最後のゴゼ・小林ハルさんの死

2005-04-27 02:02:29 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
hal_kobayashi現時点で76名の死者、負傷者450名の犠牲者を出したJR福知山線の脱線事故の報道があった25日の新聞にたったひとりの老婆の訃報が掲載されていた。訃報欄としては小さくもなく、写真入りだったから別格だったが、大きな事故報道の中では見逃しそうな記事である。

「最後の越後ゴゼ」と言われていた小林ハルさんが、25日午前2時10分に入所していた特別養護老人ホーム「胎内やすらぎの家」(新潟県黒川村)で老衰のため亡くなったと言う記事であった。享年105歳!
すばらしく長生きをなさったものだ。
晩年は、その芸によって重要無形文化財(人間国宝)という栄誉を得たが、ハルさんの一生はその少女時代から、それはみじめで苛酷なものだった。
ゴゼ(瞽女と書く)さんとは、三味線を片手に数人で数珠つなぎになって農村の家々を門付けしてまわった盲目の旅芸人の事を言う。ハルさんは、1900年(明治33年生まれ)に三条市で生まれ、わずか100日余で白内障のため失明した。そして、いまから100年前の5歳くらいの時にゴゼの道に入る。20年の年季奉公であった。かっては、失明や障害を持ったことは前世の「業」と考えられいたく差別された。障害を持つことは、世間体が悪いことのみか本人の「宿業」だと考えられていたのである。年季奉公は、幼いハルさんを不憫に思っての祖父の処置であった。
それ以来、それこそ血のにじむ稽古をして三味線とゴゼ唄をハルさんは覚えていく。
26歳になって、やっと年季奉公の明けたハルさんは、ゴゼとして独立する。もう、これからは誰の指図も受けることはない。子どもの産めない身体になっていたハルさんは、養女をもらい受ける。その子はわずか4歳で亡くなってしまうが、その2年あまりのはじめての子育ての間に、ハルさんは幼い自分に実母かと思うほど厳しかった母の仕打ちが、障害をかかえてたハルさんをひとりできちんと生きていけるようにと、心を鬼にしての親心だったんだとはじめて気付く。ハルさんは、そこではじめて母の気持ちを理解して、さめざめと泣いた。

「本当に涙がこぼれるようなことがあっても、涙隠してきた。泣いて唄うたえる訳じゃないから」

以来、ゴゼの親方となったハルさんは、どのような者でも拒まずに弟子入りしたいものがあれば、引き受けてきた。

「いいひとと歩けばそれは祭り、悪いひとと一緒は修行」

苦労は買ってでもしろという母や祖父の教えのままに、ハルさんは実直なまでにそれを実行してきた。
以来、ゴゼの道を70年近く歩んできたハルさんは、昭和48年にゴゼを廃業することを決める。そして自ら、老人ホームに入居しに行った。

その後、時代はやっとこの忘れられたゴゼ文化の最後の伝承者であるハルさんの存在の重要さに気付く。ゴゼそれ自体の存在も、おおくの人が知るのもその頃、作られた映画や、小説や、TV番組によってであった。

昭和53年、小林ハルはゴゼ唄の文化伝承者として重要無形文化財(人間国宝)に選ばれ、はじめて国立劇場という晴れがましい場所でゴゼ唄をうたった。孫のような弟子もその後、取ったりもした。
ハルさんは、言う。

「生きている限り、すべて修行だと思ってきました。だけんど、こんど生まれてくるときは、たとえ虫でもいい、目だけは、明るい良く見える目をもらいたいもんだな」

長寿を全うした小林ハルさんは、ひとの心を見通すような心の目をもっていたと思う。そして、いま人間の本質を見ることができる光も闇もない清浄な世界にゆきついたのだと思う。御冥福をお祈りします。合掌。
(ハルさんの言葉は、若干脚色。)

参考文献:『鋼の女(はがねのひと)』下重暁子 (講談社)
     『最後の瞽女 小林ハルの人生』桐生清次(文芸社)
     『小林ハル~盲目の旅人』本間章子(求龍堂)



大道詩人・大同小異(じゃなかったみたい!)

2005-04-25 18:27:42 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
050423hatsuki_1横浜吉田町アート&ジャズ・フェスティバルは、関内駅から野毛へ向かうその途中の通りで、橋を渡ったら人のひしめく野毛大道芸フェスが繰り広げられている。大道芸フェスはもう20年間も続いているという(で、年2回やったこともあったので今回は30回目!)が、この吉田町通りのアート&ジャズフェスは4年目だという。歩行者天国のように車が通行止めになって、午前11時から午後5時までのあいだ路上に100あまりのブースが出現し、思い思いに自作の絵葉書を売ったり、作品展示したり、似顔絵描きにいそしんだりする空間が二日間だけ出現する。ここに、横浜在住のガンジーさんがオーナーとなって「Liberty-comm」、美術家集団の「Element」の路上ギャラリーが出現した。ま、それなりにお顔はよく知っている面々だが、そこに一応「Liberty-comm」の読者と言う名目でボクは加えさせてもらって、客寄せパンダの代わりにギャラリーの前でパフォーマンスをやれという仰せであった(作品展示:高草木裕子、黒田オサム、高橋理加、似顔絵描き/井上玲、オーナー:ガンジー、店番:羽月雅人)。
実質、二日目にはさらにお隣の「うらなか書房」(堤花代/インディーズ出版)が、ボクなんかの「また友」だということが発覚し、三つのブースでの入り乱れた展開となった。
第一日目のパフォーマンスは、昨日も書いた黒田オサムのホイト芸、フーゲツのJUNのポエトリー・リィディング(サポート/サックス:ガンジー)、のんべ(蔵重智)。のんべさんは、実質路上デビューだったという。
で、24日の二日目は黒田オサム(サポート/春田祐介(Dr))、フーゲツのJUN(Poet)、オカニワフミヒロ、ガンジー(as)そして飛び入りで野村おさむ(Dr)。風船パフォーマンスの谷川まり。
ボクは二日目は予定外だったが、ガンジーさんの事務所に泊まって(フトンはありません!)この日も参加した。なんだか、調子が出てきたのか隣の隣にあるステージのブルースに合わせて踊ってるだけで、写真を撮りまくられました(アマチュア・カメラマンの高橋さんに送ってもらいました)。羽月さんにはパフォーマンスの様子の珍妙なスケッチを描いてもらったり(もう死神みたいなものと、オサム翁たちとのセッションの様子とか。この画像を本日はアップ!)、黒マント、黒づくめはちょっとステージ衣裳として定着しそうです。
楽しかったし、有意義でした。この日のテーマは「大道詩人/大同小異」だったのですが(パフォ-マンスする時に、看板に掲げた)、他にポエマーがひとりもいなかったので、大同小異どころかユニークな存在に思われたみたいです。大道芸人ならぬ大道詩人としてボクの生きる、もしくは食いつめて生きられない(笑)世界が広がってくるでしょうか?



横浜ストリート報告(表現を動物行動学でたとえてみると…)

2005-04-24 23:04:10 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
noge_424_1う~ん、これはライブ・パフォマーとしての自分の感想だから、客観的ではないのだが、ボクのパフォーマーとしての今日の稼ぎ550円が語っているように、ぼくのポエトリーを最後まで聴いていこうという観客をひきつけることが出来なかった。流動するひとの流れを、ひきつけ自分の世界にどう滞在させて夢を見させるかと言うことが、ボクのテーマであり続けているのだが、ボクはまだまだ未熟だ。

その意味では、ホイト芸の黒田オサムさんの、パフォーマンスはそのひょうきんさで、どこか抜けている。
第一オサムさんは、可愛いジィさんだ。女の子はきさくに話しかけもする。ボクはといえば、いったい誰が感動したといって話しかけてくれただろうか?

えっ! そんなのが、パフォーマンスの基準になるの? なんて、言わないでくれ!
表現は、所詮じぶんの性や、欲望や、とんでもなく低次元かもしれないが、これ以上の原点はあるまいと思う「異性にもてたい」という、ただただそんな欲求から発したものだと言うことだ。邪(よこしま)かも知れないが、そんな欲求が勉学や、研鑽に結びつくのだ。

そう、表現とは、言い換えれば動物の「交尾行動」に他あるまい。オスの孔雀が、その妙なる美しき羽を、打ち震わしてメスを誘惑、こわくする様に、メスをひきつけ自己表現するその行動とどう違うというのだろうか?
(普遍化して言えば、交尾行動こそが文化=カルチャーを生んだ? そして、その意味もっともセクスシャルな表現者は、ロックスターかもしれない。)

画像も、まだ横浜に滞在中でアップできないのだが(急遽、明日も同じところでパフォーマンスを敢行する。明日は、黒田さん、オカニワさんが予定されている中にボクが、まじる。吉田町通りの終わりの方のブースである)、美しい横浜の港の光景などというものも見てしまった。21世紀の横浜はなんだか、シンガポールみたいな混交したエキゾチズムを感じてしまうではないか!

横浜ライブ・レポートでした。では、また、明日!
アデュオス! アミーゴ!
(この記事は24日の0時過ぎにガンジーさんの事務所で書いたものです)




タカダワタル的生き方

2005-04-19 00:54:35 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
wataru_5fuusenミクシィ仲間にもなった仙さんからの私信によれば、ボクはあの日(16日)、高田渡さんの訃報を聞いた時、泣いていたのだそうだ。自分では、自覚はなかったがわずかなりとの時間を共にした思い出が、甦ってきたのかもしれない。

渡さんと一番近い距離にいたのは、70年代の中頃だ。東伏見にあった都市型コンミューンが終ってしばらくたった頃、同じそのアパートに引っ越してきたシバと仲が良かった。シバもまた、永島慎二氏のアシスタント経験を持ち、マンガを描いていたから親しくなりボクはしばしば(シャレ?)シバの部屋に遊びに行っていた。練習するシバのブルースハープと歌を独占して聞いていた。そのシバが出入りしていたのが、吉祥寺の「ぐわらんどう」だった。小さなビルの2階にあった小さなフォークのライブカフェで、そのオーナーというのも自ら主夫宣言をして本も書くというたしか村瀬さんと言うのだった。ママもフェミニストで二人は、名物夫婦だったが、その店を拠点として「武蔵野たんぽぽ団」というバンドが生まれた。そして、シバはそのメンバーで、リーダー格が高田渡さんだった(「武蔵野たんぽぽ団」という名前では中津川フォークジャンボリーでデビュー)。
小さな店の片隅で、シバや渡さんや「たんぽぽ団」の演奏を見ていた。
その実、ボクはその頃もまだジャズファンを自認していたから、足しげく通っていたのは「Meg」の方であった。だから、「ぐわらんどう」はそんなにも通った口ではない。それでも、このような思い出をもてただけでも良かった。「ぐわらんどう」は、その店名をタイトルにしたマンガも描いたことがある。「ぐわらんどう」とは「がらんどう」、中味のない虚ろな空間のことを言う。それは、当時のボクなどにもとてつもない皮肉に聞こえた。

武蔵野市に住み続けた渡さんは、60年代の末「自衛隊に入ろう」で、一世を風靡して登場したが、もうその頃には反戦フォーク歌手と言う政治的で、過激なマスクはかなぐり捨てて、淡々と飄々とマイペースで、それこそ渡さんが、憧れ続けてきた年金生活者もしくは浮浪者予備軍のように生きていた。
仙人のように霞を食って生きてるんですか?というのは、ボクも散々言われたが、渡さんは若くして、余生を楽しむ老人のように生きていた。急がず騒がず、まるでスローでかたくなな知恵者である亀のように……。

その生き方というのが、どこかウチナー口を失い、どこまでも沖縄に憧れて都会で生きた詩人・山之口貘の生き方を連想させてしまう。渡さんが、そこまでもこの詩人を愛したのは、共感以上にディアスポラ(故郷喪失者)の、その根が揺り動かす「うた」(ことば、詩といってもよい)の力だったのだろう。

「生活の柄」
歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところかまわず寝たのです
歩き疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ
寝たのですが
眠れないのです
このごろは眠れない
陸を敷いては眠れない
夜空の下では眠れない
揺り起こされては眠れない
歩き疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ
寝たのですが
眠れないのです
そんな僕の生活の柄が夏向きなのでしょうか?
寝たかと思うと寝たかと思うと
またも冷気にからかわれて
秋は秋からは
浮浪者のままでは眠れない
秋は秋からは
浮浪者のままでは眠れない
(原詩:山之口貘/詞:高田渡)

(今日の朝日新聞の夕刊に早川義夫さんの追悼文が載っていた。その末尾のことばを最後に引用させてもらっていいだろうか。
「耳を澄ませばいつだって声が聞こえてくる。僕は悲しくなんかない。」
ボクにとっては、「新宿風月堂」を知る人物が、またひとり去ったのと同じである)



高田渡さんの死

2005-04-17 15:08:57 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
wataru_2昨日、はらっぱの花見に行った。そこで、NORIからとてもショッキングなニュースを聞いた。あの、高田渡さんが北海道で死んだと!
高田渡が、死んだ?
あのワタルさんが?
事実関係は、全く分からないにしても、その情報はとてもショックだった!
武蔵野タンポポ団、吉祥寺にかってあった「ぐわらんどう」。
昨年作られた「タカダワタル的」(2004年。だったよね?)という映画で、ある意味カルト的な支持を確認されたばかりだった、歌い手、そうなんと言えばいいの? 歌の職人みたいな存在だった、ワタルさんが死んだのだ!

ワタルさん! そう、そんなにも近付きになれなかったのが、残念だったけど、あなたの歌、あなたの残したうたはボクにとっても、そしてはらっぱの仲間たちにとっても意味があった。あなたの訃報を、仲間内で聞いたのがせめてもの救いだった(もっとも、ボクの場合仲間とは公認されている訳じゃないから「片思い」かもしれない)。
ワタルさん! あなたほど、詩の意味を分かってる歌い手はいなかったと思います。アナタが好きだった沖縄出身の詩人・山之口貘のように、ボクらはあなたの歌を夢を食べる貘的に、そして「ワタル的」に、聞いていたと思います。
吉祥寺の「伊勢屋」で、フラリと飲みに立ち寄るあなたの姿が見れなくなった事にさびしい思いを抱くのは、ボクたちばかりではないでしょう。
御冥福を祈ります! 合掌。



(緊急アッピール!)ララさんを家族のもとへ返せ!

2005-04-08 20:49:22 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
lala_rocky「入管、スリランカの難民申請者収容 家族と離ればなれに」
2005年04月08日06時58分

スリランカ出身で日本で難民認定を申請しているプラバット・ランジタ・ラジャパクサさん(35)=通称ララ・ロッキー、神奈川県座間市=が7日、退去強制令書に基づき、東京入国管理局横浜支局に収容された。日本に来て10年5カ月。妻ファラジーナさん(32)と長女(6)、長男(3)と日本で暮らすことを求めていた。

この日は家族全員の仮放免の延長手続きのために出頭したが、ララさんだけ収容され、家族が離ればなれになった。

ララさんは母国で反政府活動にかかわり、89年に武装集団に襲われて顔や上半身に大やけどをした。治療のため94年に来日し、「帰国したらまた襲われる」と日本政府に難民認定を求めた。

だが、法務省は認めず、01年10月に退去強制令書を発付。ララさんは処分の取り消しを求める訴訟を起こす一方で、仮放免の許可を得て家族と暮らしていた。訴訟は一、二審とも敗訴している。ファラジーナさんは「子どもが小さく、生活が大変。(夫を)早く出して欲しい。追い出さないで欲しい」と訴えている。
http://www.asahi.com/national/update/0408/TKY200504070340.html?ref=rss

さる2月17日にボクが主催した「インド洋つなみ被災民支援ライブ・エイド」に駆けつけてくれてアピールもしてくれたララ・ロッキーさんが入管に収監された! この国はなんて、難民(申請者)に冷たい仕打ちをする国なのだろう! ララさんを、家族の元へ取り戻そう!
そう、ハナフェノが好きになったララさんを!
(県外に出るのにも許可のいるララさんは、花&フェノミナンの演奏を名残り惜しそうに見てお帰りになりました……。)
今日8日は、ララさんの国スリランカでも、花祭りです。ブッダの慈悲の心は、この国にはないのだろうか?
(タミール人のララさん自身の信仰は、おそらくヒンドゥだと思いますが……。確認した訳ではありませんが……。)

※(写真は2/17「ライブ・エイド」で、自分の問題をアピールしてくれたスリランカ人難民ララ・ロッキーさん)