風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

太陽のまつり・レポート

2005-08-31 14:25:25 | アングラな場所/アングラなひと
circus_life
すえ吉および松本周辺の仲間たちが主催する『太陽のまつり』によばれて遊んできた。26日前夜祭、27、28日のトランスパーティとまつりがドッキングしたなかなかゴキゲンなパーティだった。このような形で開催されるのは昨年に続いて2回め。昨年、佐渡からの帰りに行こうと思いながら、遠くて(佐渡からの帰路からは)断念したパーティだ。
高ボッチ高原のはずれ、牛伏寺の真上、「内田少年の森キャンプ場」で開かれたこじんまりとしたそれでも素敵なパーティだった。参加者はおおよそ見るところ200~300人くらいだったろうか? 若いひとの多い、すえ吉の性格を反映してゆきとどいた配慮を感じるパーティだった。

川のせせらぎをまたいで舞台と、PA用の仮設橋が掛けられ、その仕掛け自体も面白さを感じた。舞台に立ってみると、そのアルミのコンパネが下のせせらぎを見ることができて、不安定な感じがしたが、川と渓谷と一体になったような面白さがある。ボク自身は森と水とマヤ文明をテーマにした詩でリィーデイングしたので、マッチしたかもしれないと思う。
ボクは、28日の午後4:30ころ、おっちゃんに続いて出演した。

熊谷もん、内田ボブ、生活サーカスなどに地元のバンドのライブがあり、ライブの合間に27~28日の夜通しDJが音を流した。レイブをライブがサンドイッチしたような構成だった(DJはARTMAN、Chrisなど9名ほど。バンド、ミュージシャンは15組、そしてポエトリー2名だったようだ)。

大鹿村のアキたちや、生活サーカスのモンゴルパンが出店しており旧交を温めることが出来た。一応、テント、寝袋にお茶くらい沸せる装備で参加したが、何も持っていかなくとも充分楽しめたかも知れない。それが、すえ吉の仕事であるティピがふた張りあったからだ。テントサイトは大きくはなく、それがかえって身を寄せあうようにテント村が出現することになった。

音も途絶えた28日の夜は、まるで真冬のように寒かった(東京でもかなり涼しい夜だったらしい)。おっちゃんが火の番をしている焚き火のそばを離れることができなかったくらいだ。しかし、見上げると凍てついた夜空に信州の空の星が美しかった。

帰路は牛伏寺、崖の湯などを経て帰ってきた。この報告はあらためて。
(写真は28日夜の生活サーカス、ボブ、もんちゃんなどによるファイナル・ライブの様子)


酔ったあたまをかかえてボクは松本へ向かう

2005-08-27 12:10:27 | トリビアな日々
マイミクしているトモアキくんが京都から帰省していて、すぐタイに飛び立つらしいのだが、つかの間でも会えないかと思っていたら「MARU」で会ってしまった。

ボクの街はいま祭礼の真っ最中で、すぐ隣にある神社は交通規制までしてにぎわっているのだ。
その流れと9月30日にここで吉本有里と下村誠を呼んでやるコンサートの打ち合わせに行ったら、トモアキがかれがお世話になっている市議のS さんとカウンターに座っていた。
このあとボクにはふんぞりかえっているように見えたSさんの態度をボクがたしなめ、座の空気を悪くしてしまった。
でも、この点はボクは反省しない。リラックスした時であるからこそ、そのひとのひととなりや態度が見えてくるものだと思うからだ。

で、やや二日酔いのあたまをかかえてこれから松本に向かうのだが、運転していて自分で車に酔いそうでこわい(笑)。
では、報告は来週に!


おけさと子守唄・考(2)/佐渡情話

2005-08-26 10:23:24 | コラムなこむら返し
sado_sea_2
それらの、歌は楽しみというより苦しみを発散するために呪術のように唱えられたに違いない。子守唄はこどもをあやすためというより早く寝ないと鬼に連れられてしまうぞとかいったおどしの内容になっている。それは切実だった。背におぶわれた子は自分の妹や弟よりも他人の子ども、つまり子守りは貧しい子どもたちの口に糊するための「仕事(奉公)」だった。

いまもアジアや第三世界では子どもたちは(国の国民経済の発展を無視して)児童労働の「悲惨」と言い切っていいのかどうかわからない重要な働き手として、家計を助けている。

ましてや、その貧しさは五木の子守唄にも、竹田の子守唄にも歌い込まれているようにや被差別の子どもたちの奉公仕事だったという点も見のがせない。そのような児童労働の伝統はこの国にもあり、子守唄という子どもによる民衆文化を生み出したのだ。

おどまいやいや泣く子の守りにゃ
泣くといわれて憎まれる


ねんね一ぺん言うて眠らぬやつは
頭たたいて尻ねずめ


ねんねした児に米ン飯くわしゅ
黄粉アレにして砂糖つけて


ねんねした児のかわいさむぞさ
起きて泣く児の面憎さ


子どんが可愛いけりゃ守に餅くわしゅ
守がこくれば児もこくる


つらいもんばい他人の飯は
煮えちゃおれどものどこさぐ


おどま馬鹿々々馬鹿んもった子じゃっで
よろしゅ頼んもす利口か人(しと)


おどま盆ぎり盆ぎり盆から先ゃおらんと
盆がはよくりゃはよもどる


おどま(かんじん)々々あん人たちゃよか衆
よか衆よか帯よか着物(きもん)


おどま々々ぐわんがら打ってさるこ
ちょかで飯ちゃあて堂にとまる


おどんがこン村に一年おれば
丸木柱に角がたつ


丸木柱に角たつよりは
おどまはよ暇ンでればよか


おどんがおればこそこン村もめる
おどんが去(い)たあと花が咲く


花が咲いてもろくな花ささん
手足かかじるイゲの花


おどんがうっ死んだちゅうて誰が泣(にあ)てくりゅうか
うらの松山蝉がなく


蝉じゃござらん妹でごさる
妹なくなよ気にかかる


おどんがうっ死んだら道ばちゃいけろ
通る人ごち花あぎゅう


花はなんの花つんつん椿
水は天からもらい水


おどんがとっちゃんなあン山おらす
おらすともえば行こごたる

(「五木の子守唄」)

こんな泣くぅ子よ 守りしぇと言うたか
泣かぬ子でさい(さえ) 守りゃいやにゃ
どうしたいこーりゃ きーこえたーか


この子よう泣く 守りをばいじる
守りは一日 やせるやら
どうしたいこーりゃ きーこえたーか


来いや来いやと 小間物売りに
来たら見もする 買いもする
どうしたいこーりゃ きーこえたーか


寺の坊んさん 根性が悪い
守り子いなして 門しめる
どうしたいこーりゃ きーこえたーか


久世の大根飯 吉祥(きっちょ)の菜飯
またも竹田のもん葉飯
どうしたいこーりゃ きーこえたーか


盆がきたぁかて 正月がきぃたて
なんぎな親もちゃ うれしない
どうしたいこーりゃ きーこえたーか

(竹田の子守唄/原曲)

守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし


盆がきたとて なにうれしかろ
帷子(かたびら)はなし 帯はなし


この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら


はよもいきたや この在所(ざいしょ)こえて
むこうに見えるは 親のうち

(竹田の子守唄/赤い鳥バージョン)

ましてや、その前近代的な児童労働は「ネエヤ(姉や)」という少女にになわれた女子労働だったし、おそらくのちには「女工」そして「娼婦」となる女性の底辺労働の先行形態だった。
子守唄は守子唄(子守りをするネエヤのための唄)だし、自己慰撫として歌われた。子守唄に残る哀感は、そのような女性の底辺労働のいわば、怨み節だったからだろう。
(写真は再び佐渡の海)


横浜ART BANKで瀧口修造を叫ぶ!

2005-08-25 22:38:45 | アート・文化
yokohama_poet_1
昨日(24日)、横浜ARTBANKでとりおこなった「即興ポエトリー・パフォーマンス/瀧口修造・叫びと囁き」はおおむね好評であるようだった。

この9月28日からはじまる横浜トリエンナーレの応援企画『Yokohama Complex ART LABO 2005』としてElementが主催しているもので(28日まで)旧日本郵船の倉庫跡であるARTBANKをギャラリーとして複数の作家が展示する作品に、音楽・舞踏・ダンサーなどがからみ日替わりで繰り広げられる饗宴である。
そこに、ポエトリー・パフォーマーとして出演した。

24日はTAGUCHIという音響集団が、会場に仕掛けたオブジェ的なスピーカーから流れるアンビエントな音に終始つつまれている。そこに川端浩史さんの暗黒舞踏、黒田オサムさんのホイト芸、谷川まりさんの風船パフォーマンス、川崎毅さんの朗読、そしてボクのポエトリー・パフォーマンスがアートとコラボレーションしながら展開した。

都合3回ほどのパフォーマンスを行った。15:00、18:00そして20:00からのセッションとしてだ。
『瀧口修造・叫びと囁き』は詩人にして、美術評論家ときにはコラージュ作家でもあった瀧口修造の残されたテキストをその死せる、凝固した活字から解き放つ試みである。そのテキストにボクの「神話」をテーマにしたポエムをとりまぜ、顔は白塗り、黒の背広の姿で瀧口修造になるというパフォーマンスである。
あとで、ボクの名前が「瀧口修造」かと思った人がいるらしく、なるほどと思ったが、あの場ではボクは「瀧口修造」だった。
ボクは実は、この元日本郵船倉庫のこの建物を見た時からここの反響をためしたくてしかたがなかった。いや、すばらしい音の反響で声は逃げずにまっすぐに鳴り響きます。うれしかったです。しかし、汗びっしょりになりました。

パフォーマンスをしていて愉快だったのは、入り口近くのスペースに紙で形作ったひとがたを展示している高橋理加さんの作品とからむ場面だった。ボクは吉田町の「アート&ジャズ・フェスティバル」というストリートでのお祭りがあった時(野毛の大道芸フェスと同日)、高橋さんのハリボテの赤子に遭遇して以来のファンでもあります。
高橋さんの宙に吊り下げられた面の裏には、仏典やコーランや聖書からの引用が刻印されてあって、それもまたポエトリーの材料になっていくのでありました。
あとで、白塗をおとして着替えて休んでいるとさきほどのパフォーマンスの人物とは別人に思われてまいりました。しかし、数人から声をかけられ素晴らしかった、面白かったとのお言葉をいただきました。

個人的には20:00からのセッションタイムも面白かったのです。というのも横浜の悪ガキ代表セブンが駆けつけてくれ、セブンのギター、27日にヴォイス・アンサンブルをここでやる藤村匠さんのドラム、春田祐介くんのパーカッション、そこにほとんどひとりで切りまわしている事務局のガンジーさんがサックス。そこに最初、黒田さんがホイトの振りでからみ、入るタイミングをはかっていたボクが(もう私服です)ポエトリーで即興したのが、いまタイトルを付けるとすれば「ひかりごけ??カーニバルと人肉食い(カニバリズム)」とでも名付けたいなんだか終戦60年めにふさわしいポエムとなったのです(このフレーズでいつだったか、MCで笑いをとりましたね(笑)。そうそう横浜の詩人川崎さんも最期には日本兵のようにバタッと倒れてからんでくれました(!))。

なかなかに熱い夜となりましたが、横浜からの帰りはつらかったです。

最期にワークショップで三角形のパネルに5分で描いてしまったボクの作品からの一句。

荒波や! マルキ・ド・サドと ハマのうみ

※「うみ」は平仮名で、「海」、「産み」、「膿」の意味を多義的にもたせました。
(写真1、2、3はART BANKでの「瀧口修造さん」です(笑))


怒濤の日々(?)

2005-08-24 10:37:03 | アート・文化
今日からボクにとっては怒濤の2週間がはじまる。

本日は横浜トリエンナーレへ向けての市民サイドの応援企画で(企画Element)行われているイベント(Yokohama Complex ARTLAB 2005)に参加、即興ポエトリー・パフォーマンスを試みる。題して「瀧口修造の叫びと囁き」である。場所は横浜赤レンガ倉庫を目の前にした横浜BANK-ARTである。午後1時頃から8時頃まで、アンビエントというより環境音楽かも知れないが、その音に包まれながら「瀧口修造」に「なる」つもりだ。

週末27~28日は長野県タカボッチ高原で開かれる『太陽のまつり』に参加、釜ケ崎の詩人中宮龍善さんと京都に引き続いて共演する。先日の佐渡で「生活サーカス」(彼らも演奏する)のケン坊に「京都につづいて楽しみにしてるよ」と声を掛けられた。

9月2日はボクが主催するE.G.P.P.100の連続開催50回のスペシャル・ナイトで「世界の中心で終末を叫ぶ!」。ゲストは、70年代から活躍するアリが率いるYARZで、ねたのよいが対バンとなる。もちろん、オープンマイクは通常通り行われます。エントリーをよろしく!

4日は上野不忍池水上音楽堂で4年ぶりに開催される「UPJ3」(上野ポエトリカン・ジャム3)に出演する。ボクは招待でも、ゲストでもなく一般公募に応募し、なんとそれは後で倍率9倍(応募総数198名、選出22名)の狭き門だったことがわかるが、無事突破して連続3回の出演という思わぬ栄誉をあたえられてしまった(連続3回の出演はゲスト参加で青木研治クン、おなじくゲスト参加でますだいっこうさん、近藤洋一さんしかおらず、一般応募ではボクひとりだった)。
公開されたタイムテーブルによると、ボクの出番は第4部で、16:35~17:55の後半11人目に出ます。この回のトリはアーサー・ビナードさんであるようです。

MIXIのプロフィール写真がこの「UPJ3」のロゴをかぶっているのは、主催・言い出しっぺの馬野幹くんのMIXIでの呼び掛けに応えたもので、「UPJ3」に協賛していますという意志表示です。「UPJ3」当日まで、この写真で表示します。がんばれ! UPJ3!


おけさと子守唄・考(1)/佐渡情話

2005-08-23 00:36:59 | コラムなこむら返し
sado_sea_1
佐渡は離島ではない。いまは新潟?両津をフェリーで2時間20分、ジェットフォィルで60分でむすんでいる。そして国内便の空の足もある。とはいえ、からだひとつで渡っても片道数千円の金がかかる。

江戸の昔はどうだったのだろう。やはり、罪人たちの流刑地であり、金鉱山の労働に明け暮れたうらさびれた島だったのだろう。それは、民謡として有名な「佐渡おけさ」の歌詞からもうかがうことができる。

佐渡へ佐渡へと草木もなびくヨ
佐渡は居よいか住みよいか

 
來いと云ふたとて行かりよか佐渡へ
佐渡は四十九里波の上

 
おけさ踊るなら坂の間で踊れ
板のひびきで三味や要らぬ

 
佐渡と越後は竿さしや届く
橋をかけたや船橋を

 
佐渡の三崎の四所御所櫻
枝は越後に葉は佐渡に

 
おけさ正直なら傍にも寢しよが
おけさ猫の性でじやれたがる

 
佐渡へ八里のさざ波こえて
鐘が開える寺泊

 
雪の新潟吹雪でくれる
佐渡は寢たかよ灯も見えぬ

 
おけさ踊りついうかうかと
月も浮かれる佐渡の夏

 
行こか佐渡が島、歸ろか越後
中に冴えたる秋の月

 
沖のいさり火すずしく見えて
夢を見るよな佐渡が島

 
姑かんなり樣、稲妻小姑
嫁がさつきで雨となる

(佐渡おけさ/民謡)

で、この民謡が巷間に広まったのは大正時代と比較的新しいものだった。大正時代に新民謡ブームがあり、さまざまな民謡とともに全国的に知れ渡った。江戸時代に北前船(千石船)の船乗りによって九州から「はんや節」(「はいや節」とも言う)として北上して伝えられたうたは、「越中おわら節」、飛騨にまでつたわって「おけさ」、津軽へわたって「津軽はいや節」となる。佐渡では小木地区につたわる「小木おけさ」がもっとも古い形を残していると言われている(今年の鼓童のアースセレブレーションで浴衣を着て、唄い踊られたようです)。

正調おけさと言われているものは、ボクらが耳になじんでいるメロディとはかなり違い、現在のメロディが西洋音階で表示し易い音に変えられて唄われており、かっての日本人の土臭い不安定とも聞こえるメロディが失われてしまったことに気付かされる。

きっと、もっと自然音に近いような耳と音をかっての日本人は持っていた。子守唄などは、それこそ口承でくちずさまれて(楽器など何もなく)伝わった不安定なメロディだった。
うなるような、となえるような口くぐもるような歌い方で念仏のように、歌われたに違いない。ボクらの先祖の歌や踊りに、口を大きく開け発散するような、また飛び跳ねるような踊りはない。地にはうような、それは畳よりは土間文化というか、東アジアのシャーマン文化のような口くぐもった音が存在するだけだ。
<つづく>
(写真は日本の水浴場88選(環境省)に選ばれている佐渡・二つ亀海水浴場にて)


神秘の岬で泳いだ(佐渡情話)

2005-08-22 00:35:03 | まぼろしの街/ゆめの街
0816mystery_beach
佐渡の天気の激変ぶりには、最初の日から驚かされた。晴れ間が出たと喜んでいるのもつかの間、雲がわきたちたちどころに激しい雨が降って来る。「まつり」の第1日めは、雨模様で先が思いやられた。第1日めのトリを飾ったJha.K.S.Kがステージから「明日からまつり日和になるみたいだから、みんな楽しんで!」とMCしていたが、安定はしていなかったが、実際その通りとなった(K.S.Kはどこかで天気予報でも聞いたのだろうか?)。

15日、今回ファミリィで「まつり」に参加したボクらは、車で15分ほどの温泉旅館に午後の時間に風呂に入りに行った。風呂場はそんなに大きくはなかったが、なんと入浴客は男ではボクひとりで、浴槽は貸し切りとなり、そしてその風呂場からは佐渡の海が見おろせ、水平線がみえるという抜群のロケーションを味わえたのだ。それが、分かっていれば風呂場にもデジカメを持ち込めたのだが、持っていかなかった。残念なことをした。

まつりの二日目(16日)の午前は、二つ亀海水浴場に泳ぎにいった。浜から100メートルほどの島と言うか、大きな岩島まで砂州がつながっており、その不思議な美しさに息を飲んだ。贅沢にも、その砂州で数時間ボクらは海水浴をした。東京周辺でせいぜい湘南か、千葉あたりの海水浴に行く海にくらべれば、信じられないくらいの透明度をたもった海だった。
この日の、深夜、昨年ほどの鮮やかさはなかったが、満天の星そして天の河を眺めることが出来た。

17日にも出演時間の前に、違う海水浴場に行き、そこでも波は荒かったが、美しい海で泳ぐことができた。
むかし、八重山諸島の西表島に行った時、誰れも人影のない浜辺で泳いだことがあるが、そのような贅沢さに匹敵する美しき海で泳ぐことができた。

海は荒海(あらうみ) 向うは佐渡よ
すずめ啼け啼け もう日はくれた
みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ


暮れりゃ 砂山 汐鳴(しおな)りばかり
すずめちりぢり また風 荒れる
みんなちりぢり もう誰も見えぬ


かえろ かえろよ ぐみ原わけて
すずめさよなら さよならあした
海よさよなら さよならあした

(砂山(すなやま)/作詞者・北原白秋/作曲者 中山晋平)

この童謡の歌い出しのメロディはYAMATOのオリジナル曲の出だしにも使われていた。しかし、この歌は、芭蕉の句と同じ言わば新潟側からの視点で歌われているのだが、索漠とした寂しさを感じるのは2番にある離散の孤独、3番の別離という白秋の歌詞もあるが、中山晋平のメロディの寂しげなマイナー展開が大きい。
それに海辺と言うのは、もともと寂しいものだ。きっと補陀落(ふだらく)かもしれないが、海はあの世につながっているのだ。そのせいか、普通河原にある賽の河原が、佐渡は海辺にある。

幼い頃、長崎から一家離散してディアスポラとなったボクは親戚を頼って、有明海に突き出た半島の先にあるうらさびれた漁村で暮らしたことがある。漁村はボクをそのような幼い頃のトラウマにいざなってしまう。そして漁村はいづこも似ている。
さらには、北前船によって運ばれた九州の「はんや節」が「佐渡おけさ」になったという「おけさ伝承」の事情もあるのか、佐渡の漁村はボクにはどこかで見た親しいもののように思えてしまうのだ。


ポンポコ銀河まつりでまつろった!

2005-08-21 00:05:00 | アート・文化
0815ponpoco_location
佐渡ポンポコ銀河まつりへ行ってきた。3日間(8/15~17)のまつりに前後2日、移動をふくめて丸1週間費やしての参加だった。
まつりそのものとしては第3回めだが、その前も「ドンデン夏まつり」というまつりがあった(ボクはドンデン山の中腹でおこなわれたこのまつりで見た漁り火の美しさと、月の出から月の入りまで飽きずに眺めていた思い出が忘れられない)。しかし、今回はやや参加者数が少ないと言うこともあったのか、この上なくタルイ時間が経過する。しかし、佐渡の海と自然の素晴らしさはあらためて満喫した。いったい、あんなに透明な海で泳いだのも久方ぶりと言えば久しぶりで、日本もまだまだ捨てたもんじゃないと思ったのも、大きいとはいえやはり「島」だからなのか?

まつりはハイライトとして報告するのも難しいが、第1日めのトリをJha.K.S.Kがつとめ(ボクはK.S.Kのストレートすぎるくらいのメッセージが好きなのである)、2日めはポンのポエトリーにつづいて生活サーカス(もうおまつりには欠くことが出来ない大盛り上がりバンドです)、3日めはバルセロナで知り合ったと言うスパニッシュ・ギターリストと男性ダンサー、イスラエル人の女性ダンサーの三人に佐渡在住のパーカッショナリストがからむフラメンコ(と紹介されてあった)が、思いがけずも素晴らしかった(長尾ゆうたろう&フラメンコダンス)。
今回あたりから佐渡在住のミュージシャンが増えてきて、その中でもYAMATOという歌うたいは、CDが全国発売されるということで、地元でも応援しているのが良くわかった。地元にまつりが根付いていくのはいいことで、実際このまつりも佐渡の役所の後援を得ていたのではなかったか。

今回も「ねたのよい」ともども出演した。もちろん、テント村を作って遊びながらだ。「ねたのよい」の出演は、16日の午後4時(押して午後5時30分くらいからだった)、ボクは17日の午後5時だったが、前倒しになって午後4時30分くらいからだった。
ポンちゃんが来たから、今回ふた組のポエトリー・リィディングが出演したが、たったひとりで表現として自立させたパフォーマンスを目指しているボクは、ソロでのエントリーだった。
ギター片手のミュージシャン同様に、見、聞かせ、楽しんでもらえたことと思う。MC(前ふり)と

荒波や 佐渡に横たふ 天の河!(芭蕉)

からボクのパフォーマンスは始まった。芭蕉は佐渡へは渡らなかったが、ボクは佐渡の地でたらい舟ならぬ丸木舟でサドになるのだ(笑)!

ハチハチいのちのまつり(1988.8.8)からはじまった「まつり」(セレブレーション)のバイブレーションは、いま全国に大小のまつろわぬもののまつりを生み出してきた。それは、言うまでもなく60年代のカウンターカルチャーのメッセージを伝え、未来へつなげていくことだし、また綿々とそのようなライフスタイルを継承していくことだった。まつろわぬものよ! バビロン・システムの中で生きがたい者よ! ここで生きろ! 自由と新しいソサエティの夢を紡ぎ出せ!

地べたに這いつくばったような生きざまだが、頭上には満天の星、銀河をいただいているように貧しくとも、希望と夢にかけちゃ誰にも負けない! 佐渡にはポンポコ大タヌキのいいつたえがあるように、まつろわぬものの伝統がある。それに、そもそも佐渡は八丈島や、壱岐の島同様に流刑の地であった。この地は反逆者の終焉の地にふさわしいのかもしれない。

この「ポンポコ銀河まつり」が直後からはじまる鼓童のアースセレブレーションとともに夏の佐渡の二大イベントに、成長するように願ってやまない。


死者と迎える8・15/民衆の戦争責任と吉田満(2)

2005-08-13 13:27:52 | コラムなこむら返し
yamato1945_last
そうだ。ボクが書きたかったことは民衆の戦争責任だった。
そこで、最近読んだ吉田満の「一兵士の責任」に瞠目させられたのだ。吉田満は『戦艦大和ノ最期』で知られる作家で、また彼は日本銀行に勤め続けた一介の庶民でもあった。ボクは吉田がそうよく言われたそうだが、誤解していた。吉田という作家は、この作品をいわば帝国海軍を象徴する不沈軍艦戦艦大和(言っておくが、宇宙戦艦ヤマトでは決してない!)によって賛美しているのかとばかり思っていたのだ。学徒出陣で副電測士として沖縄へ特攻の使命をおびて乗り込んだ吉田は、戦後すぐ冷徹に記録する意味をもってこの作品を書いた。そうこの作品は戦争記録文学の白眉といってもいい迫真のリアルさをもって読者に迫ってくる。一度は生死のはざまにあった吉田の、なまなましい記憶があの作品を生んだのだ(この作品と論考を同時収録した『「戦艦大和」と戦後』がおすすめである。ちくま学芸文庫2005.07)。

そして、吉田はそのような誤解を正面から受け止め自分に戦争責任はあると素直に認め、それは国家の命令にあらがえなくなる前に軍部の独走を許してしまった自分の政治への無関心さにあったと書く。そして、この意味では民衆、国民の戦争責任はこのような不作為の戦争協力にこそあったと書く。
吉田はアナーキストでも、マルキストでもない、まして清沢 洌のような突出したリベラリストでもない。一介の庶民として吉田が到達した結論は重い。

ましてや、靖国神社に合祀されている英霊たちも、どのような悪行を生前アジアや南方で積み重ねてきたか知れたものではない。死者をムチ打つのではなく、悔恨も懺悔の気持ちも表せなかった死者であってしてみればこそ、その罪行を浄めるためにも吉田とともに(吉田満も1979年に鬼籍に入った)民衆の戦争責任を認めようではないか。こんなことは、自虐でもなんでもない!
むしろ、思想的にどちらかに引っぱっていこうと言う邪な意図をもった運動こそ罪は重い。どこに出しても誇れるような日本国憲法の文言を微妙に変え、言い換えて自国の軍隊の存在異義を認知させようと言う不純な動機こそ「戦争責任」どころか、将来的な戦争行使を意図したものである。人類の愚かしい百年の愚行にさらに泥を塗って、国家強権の道をひらこうなどという運動には吉田とともに、無関心であってはならない。この意味では、ボクたちはアジアの無辜の民の怒りと、抗議に連帯するものである。

(佐渡へ出かける直前でバタバタしながらとりあえずアップしました。おそらく帰ってきてから手直しをします)
※写真は沖縄沖で沈没する戦艦大和の最期


死者と迎える8・15/民衆の戦争責任と吉田満(1)

2005-08-13 01:36:03 | コラムなこむら返し
yamato_last_1
もうすぐ60年目の8・15がやってくる。
思いついて書店で、目に付いた限りの8・15に言及してある日記を立ち読みしてみた。だから正確に引用できないので、持っている人は原典にあたってみて欲しい。

永井荷風の『断腸亭日乗』は、いつも通りその日食した食べ物が記せられ、淡々と日常が誌されている。そして欄外に「此日戦争終結」と書いてあると断わりがあった。荷風らしいこのマイペースぶりは好感を持つ。しかし、この当時つまり戦時下で荷風は、いわば世間から隔絶した隠居気分にあったのではないだろうか?

童画家の武井武雄の『戦中・戦後気侭画帳』では生真面目に家族が集まって、玉音放送を聞く場面が描かれている。武井は戦後ジャズばかり流される放送に「バカヤロー」と書くなかなかに気骨の通ったひとであったようだ。

8・15をはさんで軍国主義教育の兵士も、少国民も女子挺身隊の女性たちもが一様に、民主主義に鞍替えしたのだろうか?
そんなことはない。8・15の青空の下で日本人はうなだれ、その敗北を噛み締めた。その日から、民衆としての「戦争責任」は果てしないごまかしと、迷宮に入り込んだ。そのごまかしが1級戦犯として裁かれたはずの人間を首相に選ぶと言う二枚舌の自民党政権を選び続けるという日本的な保守主義の風土を生んだ。

「東京裁判」は戦勝国による裁きだとしても、天皇と同時に民衆の戦争責任が問われた訳ではなかった。七三一部隊の石井部隊長のようにGHQと直談判して、その細菌戦のデータとひきかえに自己保身をはかったような汚いヤツもいたように、おそらく官僚サイドで生き残った人物もたくさんいたに違いない(石井のデータはベトナム戦争の枯葉作戦や、細菌戦争の近代化に大いに貢献したらしい! アメリカが日独に比べて立ち後れていた生物化学兵器を進歩させたのだ!)。

つまり、軍部だけが裁かれたのであって天皇と民衆の戦争責任は、棚上げにされた。戦後世代にこの点を追求されると当時少国民だったはずの70歳以上の世代は血相を変えるか、絶句して軍部に責任転嫁するかであろう。あのアイヒマンが終始、ヒトラーや上部の命令に忠実に従っただけだと主張して譲らなかったように……。

責任転嫁、自己責任の放棄、自分に甘く他人に厳しいという自己慰撫的なナルシチズム、互いにもたれあいセセラ笑う談合主義的な醜悪さ、群れてやると罪の意識がすっ飛んでしまう売春ツアーのような「国辱」的行為、接待・天下りを含めた労働倫理観の欠如などなど……。

アジアのひとびとが嫌う「醜悪な日本人」(「反日」のイメージ的根拠)のモデルは、傲慢、頭ごなしの有無を言わせない軍部の醜悪な「もののふ(武士)」意識にあり(将校クラスの軍人は日本刀をその精神のよりどころとした)、これらの意識は官僚・警察などに戦後も生き残ったが、実は民衆の中にも生き残った。学校などの教育者、管理職クラスに、教育委員会に、60年安保世代を中心とした(かれらは少国民教育で育っている)思想家、運動家、文筆業などなどに……。

いまその反動的な思想が、戦争責任論がなし崩しにされ迷宮入りしたこともあって、新保守主義として息を吹き返している! 戦争に対して卑屈な自虐史観という視点が反動以外の何物でもないし、アジアのひとびとへの挑発以外のなにものでもないという指摘がおかしいのであれば、まさしく現在と言う時間は「もはや戦後ではない」というより、もはや「戦前」なのではないだろうか。


E.G.P.P.100/step50連続開催50回記念スペシャル・ナイト!

2005-08-13 01:24:56 | イベント告知/予告/INFO
asakusa_haraiso
9月2日(金)※毎月第1金曜日に定例開催
E.G.P.P.100(One Hundred)
STEP50「世界の中心で終末を叫ぶ!(セカシュー!)」
●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE/連続開催50回記念スペシャル
(スペシャル・ゲスト)YARZ(アリ、ヤス、ケンゴ)
(出演)ねたのよい/ガンジー(Sax)/フーゲツのJUN他

※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

●オルガナイズ/MC:フーゲツのJUN
●開場18:30/開始19:30
●参加費:1500円(1Drinkつき)
●会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
●問:03-3362-3777(水族館)地図はここ→http://bsn.bbzone.net/suizokukan/
●主催:電脳・風月堂http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/
開催場所が、新宿区百人町です。江戸の昔に百人同心の鉄砲隊が住んだところ。現在はコリアン、チャイニーズ、マレーシア、タイなどの在住外国人がたくさん住むところです。みんな世界のともだち百人作ろうか! そして百人の詩人となろう!
あらたな東京ポエトリー・ルネッサンスはオルガナイザー・フーゲツのJUNの原点である新宿に戻り、新大久保のアジア的な場所の一画で行われています!

※今回のスペシャル・ゲストは70年代初頭から活躍するロッカー(「アケト」など)アリが率いる「YARZ」です。これだけでも、必見なのに、なんとオープンマイクで共演できます!
あの世の土産話になりますよ(笑)!
※佐渡へ行った「ねたのよい」も急きょ出演が決まりました! YARZの対バンとなります。
(写真はstep49にエントリーしてくれた「はらいそ」さんの浅草な背中!)


重信房子/ジャスミンを銃口に

2005-08-12 12:40:12 | アングラな場所/アングラなひと
young_shigenobu
つくづく赤軍派世代と言うのは、歌(短歌)に思いを寄せ、三十一文字の定型が好きなのかも知れない。それ自体、ある意味古風な心象の持ち主なのかも知れないのだが、その心象というものもほとんど同世代であるボクには、理解できる。というのも、ボク自身が中学生の頃に担任に手ほどきを受け短歌を詠んでいたからである。あたらしい世代は、そのようなところをどうとらえているのか窺い知れないが、短歌に没頭することはボクには「やまとことば」で成り立つものの感性と、天皇制にまでいたる規範と格闘することのように感じて、いさぎよくやめてしまった。歌集として私家版を一冊つくって「うた(短歌)」に別れをつげた。
(口語短歌ならば、そのような格闘から逃れられるのかどうかはボクはわからない)

シチュエーションとして囚われの身になること(幽閉、囚人として)という孤独な境遇に陥るとひとは、歌(短歌)を詠み出すのかも知れない。これは、防人(さきもり)と言う古代の辺境守備につくもののうたが万葉集等におおいこととも共通する心象だろう。会いたくとも会えない遠い地にいる思い人に言霊(ことだま)の力をかりて思いをとどけようという祈り、もっと言えば呪符に近い行為なのかも知れない。

それにまた、それは思いを暗喩のように隠ぺいし、表面化せずとも済む表現方法だ。「秘すれば花」という美意識は、すでに「やまとことば」で歌われた和歌や、万葉集の中にも見取ることができるだろう。世阿弥はそのようなやまとびとの意識の深層にある美意識を、方法化してみせたともいえるだろう。

2000年秋に潜伏中の大阪で逮捕され、世間を驚かせた「日本赤軍」のリーダー重信房子が、歌集を出版した。1971年以降の一連のパレスチナとの連帯闘争の中で敢行されたゲリラ事件、テロ事件などの内部からの手記がいつ発表されるのだろうと、どこか重信房子の手記が書かれることを心待ちにしている自分がいるからだ。手記の形のものは、もう発表されてはいる。しかし、それは重信の娘メイさんの日本国籍取得のために書かれた手記だった(「りんごの木の下であなたを産もうと決めた」2001.4幻冬舎)。それは、警視庁の留置場で書かれた法務局へ提出された手記である。

現在、重信は小菅に収監されている。その独房で担当弁護士である大谷弁護士のところへ送付されてきた短歌ダイアリーがもとになっているということである。重信ははじめて2002年の春目前に目にした桜を詠むことではじめて挑戦した短歌を、その後も営々と持続させ大谷弁護士の所に送られてきた作品は、3,548首(05.3/31まで)に及んでいると言う(大石弁護士による「あとがきにかえて」より)。
抽象化され、秘した表現だが、それだけに「うた」は重信の正直な心象を語っているような気がしてならない。

くれなずむ浜辺に立てば風にのりジャスミン匂うベイルートが好き

銃口にジャスミンの花無雑作に挿して岩場を歩きゆく君

(2編とも「ジャスミンを銃口に」より)

個人的に気に入り、また気になった1編。

友のため樹林葬の樹オリーブの苗を捜して戦場駆ける

(紅蓮たちのぼる)


 ―――――――――――――――――――――――――――――
 ※『ジャスミンを銃口に』重信房子歌集/幻冬舎/2005.07刊
 ―――――――――――――――――――――――――――――
この「歌集」および重信房子に関してはあらためて書きたい。


タイガー(大河亞)立石のこと

2005-08-11 01:06:14 | アングラな場所/アングラなひと
syowa_1990

先週行けなかった『メタモルフォーゼ・タイガー?立石大河亞と迷宮を歩く』に行ってきた。大崎のO美術館で12月23日まで開催中の回顧展で、2週間ほど前『日曜美術館』で紹介されていた。

ボクは60年代からタイガー立石のシュールなナンセンス・マンガが好きで注目していたが、いつの間にか名前を聞かなくなっていたのだった。タイガーはその間ミラノに行って、オリベッティ社のイラストレーターをやっていたことを今回はじめて知った。そして、昨年(1998年)亡くなっていた事も教育テレビの紹介で知ったのだった。

タイガー立石は前衛画家だった。今回の回顧展でもタイガー立石の原点は中村宏とともに「観光芸術展」と名付けて多摩川べりで開催した「反芸術展」にあったのだし、あのシュールなまでのナンセンス・マンガにあるということがよく分かった。
この国におけるシュール・マンガの先駆者杉浦茂に影響を受け、そして赤塚不二夫に影響を与え、同志だった中村宏にまでスタイルとしての影響を与えたポップでキッチュなナンセンス・ワールド。その世界観が禅やインド哲学的なものであると読み解いたのは、杉浦康平ただ一人だった。

それにしてもO美術館の学芸員の解説はひどかった。個々の図像を指摘するだけで、ここにはメッセージも何もないだって!
ナンセンスで宇宙的な(ダダ的なといっても良いだろう!)メッセージに意味を見い出すのならそれは「無」でしょう!
ここにはメッセージはないという解説は、とてもキューレターの解説とは思えません!(解説対象作品は「昭和素敵大敵」1990)

そうそう、タイガーは「デジタル・コミック」というのを15年前に描いていてボクもその本を持っているのだが、その荒いドットの表現はタイガーが当時のコンピュータを操作して描いたのではなくて、方眼紙の上にドット表現として埋めていったものであることが今回確認できた。タイガーはメカニックの表現も抜群なのだが、徹底してアナログの作家だったのだ。が、その発想は禅問答のシュールさを獲得しており、デジタル的とも言える。あるゲーム作家がタイガーはゲームの宝庫と言っているが、そういうことを言っているんだと思う。タイガー立石はもっと評価されていい。
「反芸術」の画家としての側面をもっと明らかにし、そしてもっと知られていい画家であると思う。

(展覧会は1999年の「O美術館」で開催されたもので、この記事は1999年12月19日にボクが「電脳・風月堂」のBBSに書いたものです)
※写真はタイガー(大河亜)立石「昭和素敵大敵」1990年