風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ツキミル キミヲ オモフ

2010-01-31 18:20:57 | コラムなこむら返し
Fullmoon_cloud_jan30 月見る 君を想う
  今宵の 満月を
 眺め入るとき 君は
 何を想うだろうか?
 冴えざえたる
  冬の満月に
 異国の地の 君を想う
  ボクは この地にいて
  君も この月を見ていることを 知っている
 煌々たる 月のひかりに 照らされて
   ボクの頬は 青ざめているに 違いない
  それは 寒さのせいもあろう 深夜に働いている
   底辺労働のせいもあろう

 そう これがブルー・ムーン!
  憂鬱な月か?
   青いひかりか?
 でも ボクのこころは
  決して寒くはない 冷たくはない
  むしろ 君を想い 熱くたぎるものを 感じている
   
 たぎりたつ想い 君が恋しい
  君のすべやかな肌に 触れたい
 どんなに この世が 不条理に 満たされていようと
  君は ボクの方舟だった
   あの天空にあって 孤独に光り輝く 月のようだ
 貧しさに 打ちひしがれることもないのは
  君が ボクの希望たるものだから……

 ぬばたまの 夜(よ)渡る月に あらませば
  家なる妹(いも)に 逢いて来ましを(※1)

 2010.1.30の月に捧ぐ。そして「赤い橋」を渡ってしまった故浅川マキさんに。

(※1)『万葉集』巻十五
 ※タイトルに似たような雅びな名前をもつライブハウスがありますが、直接は関係ありません。



森へ、ふたたび!(補遺)

2010-01-30 15:33:04 | コラムなこむら返し
Ootaka_sayama いくつか書き忘れたことがあった。そのひとつが、偶然オオタカの飛翔を目撃したことである。

 天満天神社から人里へおりてゆく途中、大きな鳥が飛翔しているのを見つけた。カラスかとも思ったが、悠然と飛翔する姿はカラスではない。オオタカ?と考えて興奮したが、オオタカは高尾山や奥多摩の森でしか見れないだろうとボクは決めつけてしまっていた。
 はっきりしないまま、その足で狭山湖の堤を登って行ったのである。人口の湖とは言え、狭山湖は彼方に秩父連山を見晴るかす雄大な眺めである。と、その狭山湖の欄干にオオタカの絵をボクは見出したのである。
 そう、狭山湖の周辺の森にはオオタカが生息しているのである。ボクがみたのはオオタカに間違いないと思う。

(写真)オオタカの彫り物が欄干にあった。バックにボクの姿が写りこんでいる。



森へ、ふたたび!(2)

2010-01-29 01:48:24 | コラムなこむら返し
In_forestlight 水辺の先に東屋(あずまや)があり、その目の前が「トトロの森1号地」だった。そのことを表示する看板(写真2)の脇に階段が作られており、森の中へ誘導される。ここはうっそうとした佇まいで森(Forest)と呼んで差し支えないだろう。土盛りを木でとめただけの階段を登ってゆくとそこは谷地の片側の稜線で、そのまま森の中を進んでゆくと林の先に、小高い丘の中腹につくられた堀口天満天神社の鳥居が見えて来た。そのまま小手指の方へ歩けば、藤森稲荷神社ともうひとつの天神様である北野天神があるはずなのだが(2年ほど前の年越しに、そこで成瀬氏の舞踏とともにボクも即席の詩を叫んだ)今回はそこまで足を伸ばすのはあきらめた。

 真下に茶畑を臨む絶景の丘の中腹にあるこの天満天神社は、となりの火消し稲荷神社とともに昭和4年(1929年)山口貯水池(狭山湖)がつくられるにともなってこの地に移築されたものらしいことが、石碑で読める。水の底に沈む運命から村とともに逃れたらしい。火消し稲荷も面白い命名だが、これは移築後放火にあったが、祠のなかの御神体には火はまわっておらずそれを顕彰して後年つけられた名前らしいことが書いてあった。この正月来浅草から招来したオキツネさまの祀ってあるものとしては参らない訳にはいかない。

 奇しくもこうして天神があい並ぶようにこの地に建つことになったのだが、天満天神は菅原道真を祀りこの稀代の昇進コースを突っ走って右大臣までのぼりつめた文章博士の失脚と太宰府への左遷そして客死という運命を呪って都に椿事を起こさぬように鎮魂する神社でもあったはずだ。

 東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな

 堀口天満天神社から里へおりてゆく途中、農家の庭先に白梅が咲いていた。春はすぐそこまで来ている。
(おわり)

(写真4)「トトロの森1号地」を抜けてゆくと木漏れ日が木々の間から差して来た。写真に美しいプリズムが出現したように気持ちのいい森だった。



森へ、ふたたび!(1)

2010-01-28 22:51:30 | コラムなこむら返し
Biotope_totoro 西武球場前駅にはかって「ユネスコ村駅」というものがあった。現在の山口線がかって「おとぎ列車」と命名されていた頃、その終着駅だったものだ。現在は西武球場前駅で一本化されている。ユネスコ村とその前年(1950年)開園した西武園ゆうえんちは狭山湖と、多摩湖がふたつあるようにテーマパークとアミューズメントパークとして西武鉄道の両輪だった。おとぎ列車(現レオライナー)は、この両輪をむすぶ交通機関だったのだ。
 ふたつの人造湖にはさまれたこのあたりは、時間が止まったかのようないまも昔懐かしい里山の暮らしがあるようだ。

 アニメ作品『となりのトトロ』は、宮崎駿監督が想像した新しい「森の精霊」かと思ったこともあったが、いまは少し考えが違う。妹のメイは庭先で移動中の中トトロと小トトロを見つけあとを追いかける。クスノキの巨樹のウロの中で眠る大トトロを見つけるのだ。小雨の降るバス停で眠る妹のメイをおぶったさつきはとなりでネコバスを待つ大トトロと遭遇する。このように、トトロの生息圏はタヌキやムジナと同じく人家のすぐ近くだ。トトロは里山に生息する精霊(妖精?)なのだ。眼をヘッドライトのように光らせたネコバスからして、農道や送電線の電線の上を渡り疾走する。
 大トトロの眠る大楠は鎮守の森か、丘(狭山丘陵か)との端境にある巨樹だ。事実、樹齢百年を軽く超える樹木が狭山丘陵の周辺には存在する。この際、トトロは里山(作品の中では「塚森」)に棲みついた精霊ということにしておく。お父さんは「塚森の精」と呼んでいた。

 西武球場前駅から、おおよそ30分ほど歩くと「いきものふれあいの里・虫たちの森」という標識が見えてくる。そこを入ると、もう懐かしい里山の風景が広がる。谷地ぞいの雑木林??ここに村の暮らしが残っているなら、入会地になるのだろうが、墓もつくられている。そしてここからトラスト用地になる。どうやら一番大きいのは(財)さいたま緑のトラスト協会の保全第2号地雑魚入樹林地のようで、トトロのふるさと財団のトラスト用地「トトロの森」はその一部のようであった。「チカタの景観を考える会」が管理しているらしい「チカタの雑木林」の隣に「トトロの森3号地」があった。ここも人の手の入った雑木林である。「いきものふれあいの里」というのは、自然公園として整備されたところの水生動物のためにつくられたビオトープのような水辺のことであるらしい。

(つづく)

(写真3)ビオトープとしての水辺。トトロの森への入り口にあたる。



ユネスコ村の思い出(参考写真)

2010-01-25 02:15:49 | まぼろしの街/ゆめの街
Unesco_village_2 参考写真としてアップしたユネスコ村の記念写真を見て我ながらあらためて吃驚してしまった。まず、クラスの人数の多さだ。数えてみたら52名くらいいる。いわゆる「団塊」と言われるボクらの世代だ、ベビーブーマーとしての面目躍如の数である。
 さらに、後ろの方に並んでいるのは父兄だろうが、遠足に同伴したお母さんたちがほとんど着物姿である。昭和30年代は、まだよそ行きの装いは女性は着物だったのだろうか。洋装の大人の女性は見える限りでは、担任教師と子どもをヒザにのせているお母さんくらいだ。
 またまわりの道もアスファルト舗装されていないようである。

 中学生のときにユネスコ村を再訪したことがある。友人と往復500円の「小さな冒険」と名付けて当てずっぽうに電車に乗りハーフ判カメラをかかえて出かけた先がたまたま狭山湖だったのだ。その頃、長じてその近くに住むことになるなんてユメにも思わなかった。
 そして、狭山湖周辺を歩き回り、ユネスコ村へも入り、小学生の遠足で記念写真を撮ったそのオランダ風車小屋で写真を撮り合ったのだった。経営的に立ち行かなくなったのか西武鉄道がつくった「ユネスコ村」は、もうない。



トトロの森での迷い/ユネスコ村と「郊外」(参考写真)

2010-01-24 23:59:17 | コラムなこむら返し
Unesco_village_1 「トトロの森での迷い」第1回目の記事「ユネスコ村と「郊外」」の参考写真です。これは、昭和30年代の千駄木小学校の郊外遠足の記念写真。ボク自身のプライベート写真です。どこかに、少年時代のボクが映っているはずです(笑)。
 このように、「ユネスコ村」(所沢市)への郊外遠足のあとは、オランダの風車小屋の前に集合して記念写真を撮るのが、定番になっていました。もちろん、都内もしくは東京近郊の小学校に限られるでしょうが……。



トトロの森での迷い(3)/不死信仰

2010-01-23 23:59:41 | コラムなこむら返し
Fujisunset トトロの森2号地を過ぎると浄水場があって、そこを過ぎるとすぐ市街地に入る。所沢市荒幡という地区で、こちらから行くとナショナルトラストの場所は本当に市街地が迫っているのを感じる。さらに、ここからなのだ、産廃業者が多くなってゆくのは……。
 そんな中に、道沿いから見ると異様に高く見える小高い土盛りがあった。これは荒幡富士という富士山なのでした。そう、ふもとには浅間神社もあって方向も、まさに陽が沈みかかっている富士山の方向を向いている。
 「富士講」という言葉を聞いたことがあると思う。江戸時代に盛んになった山岳信仰で、「講」というグループの形をとる。貧しい農民、庶民が金品を拠出しあって代表を参拝登山に送り出すのはもちろん、身近かな寺社に築山して富士山を模したミニ富士(富士塚と呼ばれる)を作り浅間神社を祀って富士山を身近くに引き寄せたのである。アイヌ語の「フチ(おばぁさん)」から来ているという説もあるが、かぐや姫伝説から「不死の山」となって富士山と呼ばれたという説もある。母なる山もいいが、グランマの山というその古さを強調したアイヌ語説もいい(この説はアシリ・レラこと山道康子さんから聞いた)。
 「万葉集」では「不尽」という表記もしている(万葉仮名)。さらに「不二」という表記もあるらしい。
 この荒幡富士は高さ10メートルもあり、関東一円の中では高い方だという。富士塚自体は、ボクの住む近所にもあり少なくとも5つ位の富士塚は見つけている。
 浅間神社の鳥居をくぐって荒幡富士に登ってみた。狭山丘陵の上にさらに10メートルの築山だから標高はそれなりにあるのか、丹沢はもちろん、秩父連山の山のつらなりもよく見える。夕暮れが迫ってきてボンヤリとだが、肝心の富士山もシルエットでかろうじて見えている。関東平野を一望のもと、と言う気分で、なるほど富士山に登ったような気分になれるかもしれない。

 荒幡富士の目と鼻の先に「狭山丘陵いきものふれあいの里センター」という自然観察や学習の出来るネーチャーセンターがあったが、ここは先の「トトロのふるさと財団」が所沢市からの委託業務を請け負い管理運営している場所らしい。今回は、ここにたどりつくまでに大幅に時間をロスし、開館時間は過ぎておりすでに閉館していた。

 このあたりから、陽が落ちるのは早く山道同然の道を歩くのに心細くなるほど薄暗くなってくる。せっかく日中春めいて暖かかったのだから、もっと早く出発すればよかったのだ。と、いつもながらの後悔をしたところで、多摩湖のそばを通ってさらに帰り着くまで1時間余を歩いて足が棒のようになってしまったのでした。

(写真)「荒幡富士」の山頂から撮った「富士(不死)山」のシルエット。携帯でとったため画質はよくありません。



トトロの森での迷い(2)/トトロの森2号地

2010-01-22 15:05:32 | コラムなこむら返し
Totoro_no2 調べてみた。ユネスコ村は1951年(昭和26年)に日本がユネスコに加盟したのを記念して西武鉄道によってつくられたものだった。ユネスコ加盟にあてつけてつくったテーマ・パークということで間違いないようだ。1990年に閉園したが、そのあとに作られた大恐竜探検館も2006年にやめていたことは知らなかった(一度だけ行ったことがある)。ユネスコ村は39年、恐竜館は13年の歴史だった。ちなみに、「西武園ゆうえんち」はユネスコ村の一年前、1950年(昭和25年)に開園している。

 話を戻そう。というより話は全然進行していなかった。

 「トトロの森」はなんの変哲もない雑木林だった。この程度の「森」だったら、はらっぱ祭りをやっている都立武蔵野公園や、井の頭公園にもありそうだ。だが、この場所は開発業者への大きなクサビとなっていることは間違いない。市街地化、宅地化もしくは産廃ゴミの集積場にならずにデベロップメントを阻止し、これまでの歴史的な景観を保っていられる礎石になっているのだろう。
 前回ふれたが、このナショナル・トラスト用地は久米水天宮の裏手に当たる。鎮守の森の中といってもおかしくない近さだ。水天宮は、安産の神様として有名で、戌の日には腹帯を授けてもらう妊婦で混雑する。犬のお産は軽く、それにあやかってお産が軽く済みますようにという信仰である。そして水天宮は同時に安徳天皇を祀っている。平家に担ぎだされた(祖父は平清盛)幼い天皇である。そして平家が滅びた壇ノ浦の戦いで、海の藻くずと消える。安徳天皇は幼くして、鎌倉幕府への怨霊となる。数え8歳で政争の道具とされた悲運の天皇だ。
 各地に平家の落人伝説とともに生き延びた安徳天皇の伝説がある。ところで、この場所に水天宮がなぜあるのかは分からない。ただ、近くに旧鎌倉街道があり、安徳天皇と鎌倉幕府との関係で、この地にあるのかもしれない。

 「トトロの森」は実は、現在10ケ所ある。ボクがこの日行ったのは、その「2号地」である。「1号地」は上山口の方にある。そこは今度報告しよう。

 これは余計なボクの憶測だが、「トトロ」というネーミングは「所沢」の「トコロ」の喃語(幼児語)なのではないのかと思っている。「トコロザワ」と幼児は発音できず「トトロザワ」と言ったのではないか? このあたりに幼児期すんでいたらしい宮崎監督は、みずからがそう発音していたのかもしれない。また、トトロのキャラクターデザインは宮崎駿・高畑勳による1972年のアニメ「パンダコパンダ」に登場するジャイアントパンダのキャラにそっくりです。

 ナショナルトラスト「トトロのふるさと財団」は、こちらを参照してください。http://www.totoro.or.jp/

(つづく)

(写真)「トトロの森2号地」の看板。そばに木のベンチがあるほかはなにもない雑木林です。


トトロの森での迷い(1)/ユネスコ村と「郊外」

2010-01-21 01:42:17 | コラムなこむら返し
Totoro_hool 20日は暦の上では「大寒」だったというのに、春めいた日だった。陽気にさそわれて散歩に行った。ちょっと足をのばした散歩のつもりだったのだ。いつものよく行く八国山を縦走せずに横切って、西武が開発した山荘のような住宅地を越え、久米水天宮(壇ノ浦で亡くなった安徳天皇を祀っているそうだ)を経て、トトロの森へゆく??というコースを選んでみた。
 
 このあたりに地理勘のあるひとなら分かると思うが、西所沢の下山口あたりへ向かって狭山丘陵を登るコースだ。で、「トトロの森」というのは、もちろん宮崎駿の名作アニメから命名されたナショナルトラスト「トトロのふるさと財団」が、景観と自然環境を守るために買い上げた森につけられた名前である。きっと登記上は私有地になっているのだろう。
 行ってみてわかったが、目の前まで住宅地は迫っていて、さらに西武のゴルフ場の周辺はたくさんの産廃業者の事務所、作業場があった。手をこまねいていただけでは、おそらく宅地化されるか、産廃ゴミの集積場になっていただろう。
 多摩湖、狭山湖はともに都民の貯水場の機能をもっており、大事な水がめなのだ。このあたりの大地主は西武鉄道と国土開発で、豊かな自然を売り物にしながら宅地開発による自然破壊をも行って来た。鉄道の敷設と、宅地開発がセットになった開発のスタイルは、ここだけの話ではなく、長い間、暴利をむさぼる素敵な商売だったに違いない。山林や農地は鉄道が通ることによって、何十倍にも、いや何百倍にも地価を跳ね上げさせることになるからだ。そのことによって、市街地化はどんどん促進されてゆく。

 そしてそれは、アミューズメント・パークやテーマパークの建設・経営ともセットになってゆく。「郊外」はそこから都心部へ働きに行く企業戦士の休息場(住宅)を建設するだけでなく、都会に住むひとたちをも鉄道に乗ってやってくるアミューズメント・パークや球場をつくって、鉄道に導かなければならない。
 西武鉄道がつくった「ユネスコ村」はテーマパークのはしりだろう。かって、ボクなんかの世代まではユネスコ村に行くのが小学生の遠足のお決まりだった。そこでまるで小人の国のようにミニサイズでつくられた世界中の国の住居を見学し、これまたお決まりのようにオランダの風車小屋の前で記念写真を撮ったものだ。これで、いったい世界のなにが分かるのか聞きたいものだが、教育的な要素を取り入れたのも「観光」的な戦略だったのかもしれない。この村がユネスコ(UNESCO:国連教育科学文化機構)とどのような関係があったのか、いまだ理解できていない。

(また書き出したら終わらなくなってしまった。つづく)

(写真)トトロの眠る場所へ通じる穴? トトロの森で見つけた樹木のうろ。


あの時代の少女/浅川マキの死

2010-01-18 15:31:26 | まぼろしの街/ゆめの街
Maki_asakawa とり急ぎ書いておこう。浅川マキが死去した。もっとも早かった時事通信の訃報によれば、公演先の名古屋のホテルで17日夜、倒れているところを発見され病院へ搬送されたが、既に死亡していた。急性心不全とみられると言う。享年67歳だった。

 思えば、不思議なシンガーだった。ポップスでもなければ、歌謡曲でもなく、ましてフォークでもない。そのバックミュージシャンはジャズメンが多かったが、ジャズのようでもあり、またシャンソンのようでもあった。登場したときは、ニューミュージックという謳い文句だったような気がするが、ジャンル分けは難しくマキのアルバムのタイトル通り「浅川マキの世界」としか言い様がないものだった。
 むしろ低い声でつぶやくように、語るように歌ったその歌はダークで、真っ黒な服を好み長い黒髪を垂らしてフテたように歌うのだった。そのスタイルは、デビューした67年から変わらなかっただろう。本人はどうおもっていたか知らないが、ボクらは彼女をその頃の新宿を背負った歌手だと思っていたし、マキのような感じのフテくされた家出少女はフーテンとしてどこにでもいたからだ。
 蠍座での初ライブを演出した寺山修司の「天井桟敷」にいたもうひとりのマキ、カルメン・マキもそのような薄幸の美少女イメージだった。
 ボクの詩「風月堂の詩(うた)」にこのようなフレーズの箇所がある。

 絶望のためには
 白い薬が お似合いだと
 見知らぬ少女は うそぶいて
 暗い新宿(ジュク)の闇に 消えた
 病気持ちの処女として……

 ある時代を荷なった女優や歌手というものがいる。カルメン・マキや女優では桃井かおりや、そしてシンガーでは浅川マキだろうか。彼女たちはボクが詩の中にえがいたあの頃のフーテン娘の悲しい性を背負っているような気がしてならない。

 さ、よ、う、な、ら、……浅川マキ!



15年目の風景

2010-01-17 23:56:21 | まぼろしの街/ゆめの街
 中身はともかく(まだ終わっていないのだ)阪神大震災のからみの番組なんだろうと、見だした『その街のこども』という特集ドラマは、いわば神戸周辺を彷徨い歩くような番組だった(て、まだ終わっていないのだが……)。
 サトエリと森山未來という神戸出身の俳優が、神戸弁でセリフともしれない対話をくりひろげながら、夜の神戸を彷徨うのだが、その風景を見ていて、ボクも思い出したのだ。神戸、三ノ宮、長田などの風景を……。

 そう、ボクは震災から2年目だったかの神戸をボランティアとして訪ねたことがあって、もうほとんどの瓦礫は片付けられていたが、高速道路はまだ復旧しておらず、街は空き地だらけで、あちこちに花束が飾られた場所があり、プレハブ建ての店があり、市民野球場には仮設住宅が建ち並んでいた。ボクはあるNGOの現地事務所に宿泊させてもらって担当する仮設住宅を訪ねたり、いま困ったことはないか聞いて廻ったり、手伝えることは手伝ったり、行事に参加したりした。
 仮設住宅での老人の一人暮らしで「孤独死」が取りざたされていた頃で、実際に櫛の歯が抜けるように一人暮らしの老人たちが、誰にもみとられることなく死後数日経ってから発見されるということが、日常茶飯事に起こっていた。
 仮設住宅は、その殺風景さと言い、何かに似ていると思っていたが、それがなんだかいま気づいた。まったく同じプレハブ住宅が立ち並ぶ仮設住宅は、そう、炭住に似ていた。あの炭坑地帯の居住環境としては、最悪のあの貧しい炭坑夫の家族が住み暮らす家の佇まいに似ていた。

 休みの日だったかに、長田の現地事務所から鷹取へ行き、鷹取教会と「FMワイワイ」のスタジオを訪ねたこともあった。
 これは、東京に神戸のメッセージを伝えに歌いに来ていたおーまきちまきのバックをしていた野村アキの関係だった。かれは、その頃解放同盟の専従を離れて「FMワイワイ」のディレクターをしていたのだった。

 こんな関わりの話をするつもりではなかった。そう、神戸の風景だ。それも観光地としてではない、庶民的なそれでいてあの時だからこそ垣間見えた風景の話がしたいのだ。

 そんな風景が、その『その街のこども』というドラマの後ろに垣間見えたような気がしたのだった。傾いたままの電柱、公園の中でブルーシートで雨風をしのぎ暮らしていたひと、礎石だけ残った空き地の枯れた花束、倒れなかった地蔵堂、火事を食い止めたという話の伝わる両手を広げたキリスト像、モチ搗きや盆踊りで屈託なく笑い合う長田の被災者のひとたち、識字教育学級のおばちゃんたち、現地事務所の近くにあったプレハブの居酒屋……大昔にヒッチハイクの中継地として行ったことのある神戸は、こうしてボクの思い出を限りない風景で埋め尽くしてくれた。

 そしてまた、さらに震災後に一年を積み重ねた神戸が始まるのだろう。


霙(みぞれ)ふる日

2010-01-12 12:09:16 | コラムなこむら返し
 朝から冷蔵庫の中にいるような寒さが続く、と思っていたら昼近くサワサワと奇妙な音を立てて雨が降ってきた。妙な音だなぁと、外を見たら葉の上に降るそれは小さな氷の粒だった。霙(みぞれ)だったのだ。驚いた。これは、初雪と記録されるのだらうか?
 どんよりとした雲、典型的な雪雲のようだ。北半球をおおいつくし、ヨローッパやアメリカに大雪をもたらしている大寒波が、関東地方にも押し寄せてきたらしい。
 午後になって、むしろ朝より気温が下がるらしい。ああ、あたたかい饂飩(うどん)でも作って昼食にしようか。