風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

樹木葬「秋の集い」/07年AUTUMN

2007-10-31 00:43:40 | コラムなこむら返し
Autum_lunch やっとの思いで天徳寺に辿り着き、まずは身体を温めるために進められるまま風呂に飛び込む。それで、ひとごこちついたが、前日から泊まりのボランティア・スタッフは食事も終わり就眠してしまった。焼酎のお湯割りをいただきながら、残ったYさんや和尚とひとしきり喋って就寝する。

 翌日の日曜日(28日)は、昨夜の荒れ模様がウソのように朝から晴れ渡った。一時は「秋の集い」の中止も和尚は考えていたらしいが、それは杞憂に終わった。ボクは例のごとく寺の前庭に陣取って、やってくる樹木葬会員の車を裏手の駐車場に誘導する役目だった。ただ、それも11時からの柿もぎツアーの案内人をやることになっていたから、それまでだ。参加者のピークは10時過ぎから12時までのおおよそ2時間である。
 天徳寺「樹木葬」会員というのは、ボクのようにすでに関東で最初にできたこの寺の樹木葬地に母や、父や身内を葬った人ばかりではなく、自分の死後のために会員になり、予約している人も含まれる。当然、夫婦だけでなく個人もいる。それらの会員の他にその家族や、孫までやってくるから今回の「集い」のように、柿もぎと昼食以外にはこれというイベントがなくとも、会員相互の親睦と樹木を墓標とした人たちが、墓参や草取りや様子見のためにやってきて今回の参加者は100名を軽く超えていた。

 03年12月に母が亡くなって、この寺にめぐりあって樹木葬で母を葬ったのが2004年10月23日だった。新潟県中越地震のまさにその当日で、夕刻本堂の天蓋がザワザワとゆれ、掛け軸が左右に大きく揺れた。
 天徳寺の樹木葬が霊園としての認可申請がとれて、数人目の樹木葬だったが、それからわずか3年にして会員数も300を越えた。樹木葬地も第2区画がほぼ埋まって、いま第3区画を作ろうとしている。
 いまや、千葉県いすみ市の地図に「樹木葬の寺・天徳寺」と刷り込まれるほど有名になり、行政も認めるようになったが最初は大変だった。天徳寺の檀家衆にこの事業を認めさせるのが、苦労で、ついで認可申請に苦労したらしい。と同時にまさしく和尚は「百年の計」の管理責任を負ったことになる。契約上の霊園管理だけでなく里山づくり、森をつくる責任も負ったからだ。

 ボクのボランティアとしての関わる意図は、もちろん母がそこでヒメコブシの樹木として生きているだけでなく、ボクがそこに眠るまで、この地が本当に里山に還ってゆくそのありさまを見届ける義務があると思うからなのだ。前にも書いたが、そのためには山仕事も辞さないつもりなのである。

 さて、今回、柿もぎツアーのコンダクターとして村をグルリと案内し、有機米の生産者でもあるYさんの柿畑におおよそ40名くらいの方々を案内し(副コンダクターは娘のかのん(笑))、皆さんが手に手に買った次郎柿(その場で食べる分は無料)をもって寺へ帰るおおよそ1時間のコースを歩いて帰り(11時30分発の第2陣のコンダクターはYさん)、1時から第2陣が帰り着いたところで昼食がはじまる。
 さすがに、100名を超える参加者が予想されたためこれまでのような什器で盛るのはやめて今回から、使い捨ての容器になった。リユースからは後退したのだが、これまでビニール袋に3ケあまりもあった生ゴミはたしかに減った。それに、お手伝いの方々(料理と片づけを手伝う方々は近所の檀家の主婦である)の洗い物の負担は大幅に軽減されただろう。

 今回の精進料理の「お品書き」は以下のようなものだった(写真)。
 里芋の煮物・ゴボウと人参の丸煮の湯葉巻き・ しめじと小松菜の湯葉巻き・自家製切干大根・生麩となめこの辛子酢みそ和え・ 渋皮煮のいがぐり揚げ・舞茸と山芋の湯葉包み・高野豆腐とレンコンのはさみ揚げ・(抹茶塩添え) 胡麻豆腐梅味噌のせ・ヨモギ麩胡麻味噌のせ・秋茄子の田楽・ 蓮の実の串焼き・高野豆腐と人参のそぼろ・柿の白和え・栗ご飯・漬物・ イチジクの甘露煮・キウィの甘露煮・大根三つ葉薩摩芋だんごの汁物(cureaさんのmixi日記から借用)。
 それぞれは、少しだが、品数が素晴らしい。とても精進料理とは思えないほど豪華である。それに、各自の卓に置かれたお品書きは和尚の奥様によるイラスト風の「お品書き」で、実にわかりやすくて良かった(イラストの位置に配膳してあるので、いま自分が何を食べているのか分かると言う仕掛けである)。

 ま、この墓参をかねた昼食会を楽しみに来ている方も結構多いのではないだろうか? それにしても、この品数を100名を越す参加者にふるまったのだから(参加費は食事込みで1,500円と価格の面でも良心的である)、厨房裏方の檀家さんたちは大変だったろうと推察します。駐車場係とコンダクターのボクはやはり遊びに行ったのと同じだったと思います。そうそう、以前ボクは寺の寺男のようなものと書いたことがあったのですが、それはボクの勝手な思い違いで、きちんと寺男役の方が今回からおりました。ボクは寺男も失格したようです(泣笑)。


ラオス女性の名前を持つ台風と京葉線に翻弄される

2007-10-30 00:00:47 | コラムなこむら返し
 日本の近海で突然に発生して、南関東をかすめて北上してしまった台風20号にはラオス語の女性の名前がついていた(台風には最近、ハリケーンのような女性名が発生順の何号という番号とともにつけられている)。

 土曜日、その台風にすっかり翻弄されてしまった。日曜日の樹木葬「秋の集い」の手伝いのために土曜日の夕刻から大原へ向かったのだが、京葉線は、特急はもとより運休していた。やっと動き出した快速は、内房線である。ともかく、それで蘇我まで行くことにする。そこからタクシーを飛ばすか、迎えに来てもらうほかないだろう。こういう時、最近持ち出した携帯電話は力強いツールだ。

 しかし、乗ったはいいが、海沿いを走る京葉線(ということは、総武線もか)は、徐行運転をしておりその上、各駅に電車が待機しており順繰りに先へ送るしかないらしい。東京駅から、海浜幕張まで小1時間もかかっている。

 で、その電車に乗っていると安房鴨川行きの快速が後続電車であるアナウンスが聞こえた。ボクが行きたいのは外房線の大原なので外房線と内房線に分かれる蘇我で乗り換えた。来た電車は「安房鴨川/成東」行きだった。しかし、また蘇我でとまったまま一向に走り出す気配が見えない。外房線に乗り換えたことを寺に連絡する。電車内のアナウンスは、安房鴨川行きであるにもかかわらず、上総一ノ宮から先は雨のため運休していると言う。大原まで行けるのか、行けないのかボクは混乱してしまった。再度連絡を入れると、和尚が茂原まで来れば、迎えに来てくれると言う。この時点で東京駅から、ゆうに2時間の時間がたっていた。

 電車は誉田と言う駅で、切り離されて前の方が成東へ、後ろの車輌が安房鴨川行きだという。成東という地名がどこなのか分からない。名前からすると成田の方へ別れるのだろうか? それに、動いても安房鴨川どころか上総一ノ宮までしか、行かないのだ。

 再度連絡を入れ、切り離し作業をする誉田まで車で来てくれると言う。誉田で降り、30分あまりその駅で待つ。ボクは、電車に乗るまでに激しい雨にたたられて、ズボンなど濡れネズミになっていた。寒い。体温を奪われる。待ってる間に、急行列車の中で食べるつもりで東京駅で買ってあった駅弁を食べる。
 結局、迎えに来てくれた和尚の車で天徳寺に着いたのは、22時をまわっていた。東京駅からなんと4時間もかかって大原の樹木葬の寺、天徳寺にたどりついたという訳だった。
 ああ、しんど!


「愛の賛歌」/ピアフの伝記が見事なシネマになった(2)

2007-10-27 00:54:19 | コラムなこむら返し
Piaf_4 さて、ピアフは自らも男性遍歴は両手の指でも足りないくらいと語るほど、恋多きおんなだったが、浮名を流したイブ・モンタンなどの名前は映画では出てこなかった。「愛の賛歌」を捧げたと言うマルセル・セルダンというボクシング世界チャンピオンとの恋のエピソードがメインである。それは、言うまでもないだろう。エディット自身が述べているくらい衝撃的な恋であり、別離だった。

 「私は大地にひれ伏して叫びたいくらいです。マルセル・セルダンがわたしの人生を変えたのです」(全掲書59p)

 酒と麻薬にも溺れて自堕落さもあったエディット・ピアフの20歳からその短い47歳という死の寸前まで見事に演じ切ったのが、マリオン・コティヤールという22歳のフランス女優だ。ボクは、マリオンに久方ぶりに女優魂を感じてしまった。その47歳の晩年のエディット・ピアフの老婆のような老けぶりも見ものだが、フランス人としては長身の169センチのマリオンは、まるで背丈が縮んだかのようなピアフの30年近くの人生を演じわけるのである。実際、映画館のロビーでまだ若いマリオン・コティヤールの写真を見たボクはビックリしてしまった(パンフレットにも掲載されていた)。
 ちなみに映画ではマリオンは一切歌っている訳ではないようだ。歌はエディット・ピアフ彼女自身のものだ。しかし、デジタル処理されたピアフの歌声は、モノラル盤で聞く印象とはガラリと変わってしまう。ボクはエディト・ピアフのアルバムを2枚持っているが、ともにモノラル盤で「歴史的音源のため多少のノイズはご了承下さい」と断わり書きがしてある。

 さて、ボク自身の「愛の賛歌」の思い出を最後に書かせてもらおう。「愛の賛歌」という曲自体を知ったのは、越路吹雪の熱唱からである。今となっては、やや陳腐に感じる

 あなたの燃える手で/わたしを抱きしめて
 ただふたりだけで/生きていたいの

という訳詞はたしか岩谷時子だった。
 しかし、フランス語の原詞はもっと激しく、「この愛のためにはわたしは祖国をも裏切る」とまで言い切るほどの「対幻想」が破格である(映画の字幕による)。

 ボクがエディット・ピアフにもっとも近いものを感じるのは、これは意外かも知れないが、現在美輪と名乗っている丸山明宏である。丸山の「シスター・ボーイ」と呼ばれ、性同一性障害(GID)などという言葉も、そのようなアイディンティティ障害も知られていなかった頃から、果敢に差別と戦ってきた氏は尊敬に値すると思う(とはいえ最近のスピリッチャル・カウンセラーまがいの発言、活躍はいかがなものか?)。きっと「ヨイトマケの歌」と言った底辺労働にテーマをとった歌は、ピアフの「放浪者」や、「寄港地」などと言った曲に近いのかも知れない。

 その美輪明宏のメッセージも映画館ホールには掲示があったが、ここでは以下のふたつを書き写してきたので紹介しておこう。夏木マリと加藤登紀子のこの映画に寄せたメッセージだ。美輪明宏のそれは、あまりに長くて書き写せなかった(笑)。氏のピアフ観の洞察力は素晴らしいものであったのだが……。

 「これで容易に貴女の歌が唄われることが少なくなるでしょう。私は少しホッとしています。これまで貴女の人生、そして歌は私たちの国では少々甘い伝説でした。唄うことが貴女自身だった。愛することが生きることだった47年の貴女の人生。今、素晴らしい貴女への賛歌が出来上がりましたよ。ピアフ様」(夏木マリ)

 「何という苛烈な人生だろう!たたきつけられる地面から/どんな時も燃え上がる炎、それがピアフの歌だ。」(加藤登紀子)

映画評価(★★★★)
※観客は圧倒的に中高年が多かったが、若い世代の表現者にもおすすめです。

越路吹雪「愛の賛歌」→http://www.youtube.com/watch?v=cbxGHJn4JH4
エディット・ピアフ「愛の賛歌」→http://www.youtube.com/watch?v=NjR5xFZxZK8
 
映画予告編→http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD11265/trailer.html
映画公式サイト→http://www.piaf.jp/



「愛の賛歌」/ピアフの伝記が見事なシネマになった(1)

2007-10-26 03:05:00 | コラムなこむら返し
Piaf_1 ピアフ自身が死の床で口述した自叙伝『わが愛の賛歌』(晶文社1980年)を持って、前売チケットを買っておいたピアフの伝記映画『エディット・ピアフ/愛の賛歌』を見に行った。ボクが行ったのは、新宿武蔵野館である(他数館でロドショー公開中)。

 エディット・ピアフというシャンソンでは伝説的な歌姫が、こんなにも無惨な人生を送っていたとは正直思ってもみなかった。街頭で大道芸人の父とともに、シャンソンを歌っていくばくかの小銭を稼ぐ母から生まれた幼いエディットは宵館を営む祖母のもとで育った。エディット自身がストリートで生まれ、街頭で春をひさぐおんなたちとともに育っているのだ。そのような環境の下で、大きくなったエディットの将来がどのようなものになるか、周りの大人たちも絶望の目で見ていたに違いない。ピアフも自身述べている。

 「こういう境遇から、おしとやかな人間が生まれるわけがありません」(『わが愛の賛歌』17p。「おしとやか」に傍点付き)

 映画の中では、後半にピアフの告白として触れられるだけだが、エディットは最初に好きになった少年(プティ・ルイ)の子をすぐ身ごもって生む。エディット自身が少年を裏切り、やがてピガール街に住みつき、アルベールと関係を持つ。アルベールは数人の女を街娼として街角に立たせ、そのアガリで生活しているヒモだった。こうして、エディット・ピアフは死の床でその生涯を語り尽くすのだ。

 さて、映画ではピアフの生涯は時系列的に語られる訳ではなく、過去へいったり、未来へ進んだりとやや分かりにくい展開である。といって、ピアフの晩年の回想として展開すると言う話法ではなかったから、現在がどの時点なのか(老いたピアフなのか、恋する若きピアフなのかという時点)分かりにくかった。だとしても、心地よいシートに身を任せてスクリーンに見入っていると「意識の流れ」のように、ピアフの無惨な生涯が沁み入って来る。
 アルベールに客を引けと攻められながらも、エディットはアルベールに貢ぐ分を街角で歌うことによって稼ぎ出す。エディットには道ゆくひとに耳傾かせる歌の天分が少女時代からあったらしく、巴里の下町の街角に立ってはそうして歌うことによって、街娼に身をやつさなくとも済んだらしいのだ。それこそ、「芸は身を助く」だろうか? とはいえ、エディットはアルベールの強奪などの犯罪の手引きさえせざるを得なかった。おっと、これは映画の中には出てこないエピソードだから、口をつぐんでおこう。

 そんな底辺の暮らしをしていたエディットが、大歌手エディット・ピアフになるきっかけも街頭だったのだ。なんだか、博多天神のストリート・ミュージシャンだったYUIを連想してしまう(YUIも母子家庭で育ち、アルバイト苦学生として学校を中退して天神のストリートで歌い出した)。
 街角で歌っていたエディットの歌に聞き惚れ、自分の経営するキャバレー「ジェルニーズ」のオーディションを受けろとすすめてくれたルイ・ルプレに拾われたことによってシャンソン歌手「エディット・ピアフ」は生まれたのである 。
 ルイ・ルプレは、ピアフをスカウトしてまもなく何者かの手によって殺されるが、その嫌疑がエディットにかかる。そのことがエディットをキャバレーのデビュー以上に有名にしたが、エディットは傷つき立ち直れなくなるところだった。それを救ったのも、またしてもレモンという新しい恋人だった。レモンは初期のエデット・ピアフが歌った「私の兵隊さん」などの曲を書きエディットに捧げた。また、エディットをシンガーとして洗練させたのもレモンである(映画には出てこない)。

(つづく)


11/2 E.G.P.P.100/Step76「死者のまつり/カタコンベ」

2007-10-24 20:51:21 | イベント告知/予告/INFO
Deadmen_day_1●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step76
テーマ:「死者のまつり/カタコンベ」
2007年11月2日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき) ※ハローウィンの扮装の方は、1,000円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、ココナツ、マツイサトコ(以上うた)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 カタコンベとは「地下墳墓」と言う意味、たとえばローマやパリのその地下には今もローマ時代の遺跡が眠っている。自然洞窟や古代の石切り場を利用してつくられたそれらの地下墳墓には、何百万体という遺骨が折り重なるように埋葬してある。それ自体ではうすきみの悪いものだが、それらの遺骨は二千年あまりのヨーロッパの歴史を見つめてきたものだ。歴史は重層している。古い地層の上に新しい地層が積み重なって、過ぎ去った古代の環境や、気候を伝えているように、現代の超高層ビルの地下には、このような古い時代のカタコンベが埋もれている。
 10月30日のハローウィンは「万聖節」を祝う日のイブのことだ。カソリックの「諸聖人の日(All Saint's Day)」(11月1日「万聖節」と同じ)のことで、2日が亡くなった死者たちが甦る日とされている。それらのカソリックの風習が、インディオたちの民族宗教と融合してまつりになったのが、メヒコ(メキシコ)の「死者のまつり」だ。
 今回のE.G.P.P.100は、この陽気な「死者のまつり」をテーマにして、ハローウィン・パーティとしてイベントを盛り上げます。もちろん、いつも通りの自分のことば、表現でエントリーするオープンマイクですが、ハローウィンの扮装、コンセプトで挑戦してくれたひとは1ドリンク付き1.000円とお徳な入場料で入れます。
 ハローウィンを「死者のまつり」として盛り上げ、そして楽しみましょう。

 巴里市内のカタコンベ潜入動画・参考→http://www.youtube.com/watch?v=KNkNJU5Uj7s&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=GakTtXQGuo0

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定は関係ありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs


十三夜の月の宵

2007-10-23 23:58:23 | コラムなこむら返し
13moon_2 まだ満月の三日前だが、今宵は十三夜の月である。左下が欠けた月だが、煌々と美しく秋の宵を照らしている。満月の三日前なら、じゃ十二夜じゃないかと思われそうだが、「十五夜」と同じく「十三夜」とは、旧暦の9月13日の月を言う(「十五夜」つまり「中秋の名月」は、同じく旧暦の8月15日の月のことでした)。

 「十五夜」の月見をした方、御家庭は今宵は大豆や栗などをそなえて月見をしませう。宴は営まなくともよひやうですが、片手落ちの月見をいにしえのひとびとは「片月見」といって忌み嫌っておりました。

 つらつら思ふに、わが国のいにしびとの風流や風雅、つまり季節の移り変わりや自然への愛情あふれた観察眼は、感性の細やかなこころのありようを感させてくれます。実に、月のうつろいともに深まる秋の夜である。
 わが国の月探査機「かぐや」は「翁(おきな)」と「媼(おうな)」にわかれて月の上、100キロメートルの距離まで近付いて月面を探査しているそうです。「十三夜」の月面が、突然変わることはないでしょうが……。

 (写真は、今宵「十三夜」の月。携帯で撮った写真ではボヤケてますが、けっしておぼろ月夜ではありません。「かぐや」は見えませんでした(笑)。)



新宿「スカラ座」ラスト・ディ<3>

2007-10-21 00:47:53 | コラムなこむら返し
Scara_lastday_4 実は新宿駅は、かって山男たちのメッカだった。もう現在ではその名前の由来はほとんど知られていないし、新宿駅構内の拡大とレイアウト変更のためにその場所は、名前の由来となった用途は不要になってしまったようだが、新宿駅東口と中央口(現・中央東口)の間に「アルプス広場」と呼ばれる空間がある(名前は残ったようである)。現在は、コンコースとしての役目しかないその空間は、登山ブームがおこった50年代から60年代なかばまで信州方面の「日本アルプス」へ最終鈍行列車で向かう若者たちの整列場所だった。
 つまり中央線の主要な駅であった新宿駅は、信州の山々ともっとも密接な駅だったのである。だから、キャラバン・シューズをはき大きな登山バッグを背負った若者たちは、そのいでたちのまま「歌声喫茶」や、「名曲喫茶」で時間待ちをしたり、その心に秘めたロマンを醸造していたものなのである。
 新宿を中心にしてわきたった「山小屋ロッジ」風の建築スタイルのブームには、このような時代背景があったのだ。

 かってこの国にもクラシック・ブームという時代があった。1954年にカラヤンが初来日して火が付いたブームである(同年4月に「スカラ座」が開店した)。その後も17回あまりも演奏会や、放送のため来日を果たすカラヤンは、クラシックファンだけでない一般大衆にもその名を知られ、クラシック音楽の代名詞のような存在になる。まだNHKのラジオ放送がメインだった時代にクラシック音楽にこの国の大衆の耳目を集めさせクラシック音楽のリスナーやファン人口を押し上げる。と同時にレコードが高価で買えないこれらのほとんどの大衆を「名曲喫茶」に導き、次々と「名曲喫茶」を開店させるブームのいしずえとなったのだった。
(おわり)

(写真5)半地下のスペースの最奥に壁画として飾ってあった木製のレリーフ。その画題は「椿姫」。そう、「新宿スカラ座」のマッチの画題はこのレリーフから取られた。そしてまた、「スカラ座」の外観が、南欧風の建物もイメージされていたことがそこからも分かる。

(マッチの画像以外のすべての写真は2002年12月31日の「スカラ座」ラスト・ディにボク自身が撮影したものです。)


新宿「スカラ座」ラスト・ディ<2>

2007-10-20 16:38:34 | コラムなこむら返し
Scara_mach 「ひとはパンのみにて生きるにあらず」というのは、新訳聖書の言葉だった。まさしく言いえて妙だ。「飢え」は肉体の空腹感だけでなく、心の次元にもあった。終戦直後に開店した「新宿風月堂」や「らんぶる」「スカラ座」の役割とは、荒廃した焼跡の上で復興にたちあがる貧しきひとびと、貧乏学生につかの間の豊かさ、馥郁たるヨーロッパの香りをかがせ、音楽を聞かせ、手の届かない憧れをなぐさめ癒すことだったのかもしれない。
 これは、新宿の「名曲喫茶」に顕著な傾向だったが、「名曲喫茶」の外装や内装がふたつにおおきな傾向として分かれる。ムード作りという意味でも「名曲喫茶」は競うように、内外装に凝り出すのである。
 ひとつは華美なほどの「バロック・ロココ調様式」に、もうひとつは「山小屋ロッジ様式」にである。先の典型が第1期の「新宿風月堂」(のちにスタイルがフランスカフェ風になる)であり、後の典型が「新宿スカラ座」であったと言えるだろう。
 そして、後者はすぐあとに「灯(ともしび)」(新宿西武新宿駅前)から火がついた「歌声喫茶」の典型的な内装に影響を与える。「スカラ座」の姉妹店(同族経営)である歌声喫茶「カチューシャ」や、要通りの「どん底」その名も「山小屋」などが、その類いのスタイルを継承した。

 なぜ、新宿から「山小屋」風だったのか?

 1950年代、学生や給与生活者にひとつの「レジャー・ブーム」が巻き起こる。そのブームを背景にして創刊された雑誌が「山と渓谷」や「岳人」だった。山登りやキャンプ用品の専門店(「石井スポーツ」など)が、次々とオープンし成長する。そう、「山岳(登山)」ブームである。ダーク・ダックスが歌った「山男のうた」をはやらせたのは、このようなブームだったし、また「歌声喫茶」ブームだった。名もない民衆がブームを領導した。
 で、当時もっとも若い街だった新宿と山岳ブームはどこでつながるのか?
(さらにつづく)
 
(写真)昨日アップしたマッチの画像は、携帯写真なので鮮明さに著しく欠けているため再度アップしました。


新宿「スカラ座」ラスト・ディ<1>

2007-10-19 23:24:39 | コラムなこむら返し
 「新宿スカラ座」が閉店してもう丸5年が経とうとしている。新宿の名曲喫茶の老舗のひとつと言っていいだろう「スカラ座」(以下こう呼ぶ。映画館のことではなく、有名なクラシック喫茶の方です)は、惜しまれつつも2002年12月31日にその48年余の歴史を閉じた(その1年後西口の小田急エースの地下街に店舗を構えたが、重厚さも雰囲気もまるで違った店です)。
 なぜ、こんなことを急に書く気になり古い写真を引っぱりだしてきたかと言うと、そう「ワセダ・らんぶる」を書いたせいなのである。急にこの手の名曲喫茶、クラシック喫茶が懐かしく思えてきたのだ。

 はっきり言って音楽の趣味として、クラシック音楽の知識も素養も無縁である。クラシックの知識をたっぷり持った友人たちがいたにもかかわらずボクには、それらの字義通り「古典音楽」がカビくさくてダメだったのである。これもまた、今の若者にとってはカビくさく感じるのかも知れないモダーン・ジャズこそがリスナーとしてもボクには一番ピッタリくる音楽だった。
 だが、ボクには不釣り合いであることを自覚しながらも、「名曲喫茶」という空間は結構好きなのだ。第一そこは素晴らしい読書室だ。珈琲が、60年代の味を残しておりおいしいところが多い。難があるとしたら、そう珈琲が高いところくらいだ(なにしろ吉野屋の牛丼どころか、普通の蕎麦屋のカツ丼に匹敵する)。
 ところで、ボクらだけでなく現在、60代半ば過ぎ以上の世代のひとには身に覚えがあるだろうが、一食を我慢して珈琲を飲んだという思い出があるはずだ。
 腹はちっともクチクならないにも関わらず、その一杯はこころが空腹を忘れるほど豊かになったものである。そして、そこに目当ての可愛いウェイトレスという少女がいればなおさらだったものだ(「メイド萌え」のはしりかも?)。
 一般的にいえるかと思うが、「名曲喫茶」は「1950年代」の文化を反映している。「ジャズ喫茶」が「1960年代」の文化を反映するように、クラシック喫茶は戦前の「カフェ文化」を受け継ぎながら、レコードが高価だった時代に「こころの豊かさ」をつたえる稀有な空間だった。
(この稿つづく)



「スカラ座」ラスト・ディ(phot_4)

2007-10-19 01:36:02 | コラムなこむら返し
Scara_match_1(写真4)「新宿スカラ座」のマッチ。五木寛之原作の映画『青春の門』でもスクリーン一杯に大写しになっていた(おそらく「新宿風月堂」の代わりに差し換えられたのだろう)。マッチには「珈琲クラシックムード音楽/新宿スカラ座」とあり、創業は1954年4月と書いてある。



ワセダ・らんぶる

2007-10-16 00:08:35 | コラムなこむら返し
Wasada_ramble_0 歌舞伎町の「スカラ座」も、中野の「クラシック」も無くなった現在、かっての1950年代の「名曲喫茶」のたたずまいを残す店は数えるくらいになってしまったが、ここはなにかの事情があるのか、店を閉めて20年は経とうと言うのに外装だけは往時そのままに残っている。
 その外見は赤レンガを積み上げたような古色蒼然としたたたずまいで、それは営業している頃からそうだった。閉店して、長い時間が経つが、鞏固なレンガはそのままで、やや廃墟化しているとはいえ、小さな古城を思わす雰囲気でそのままである。
 おかげで、ボクの思い出も古色蒼然としてきたが、大学に行っていないボクが、こんな「学生街の喫茶店」をなぜ知っているかといえば、それはボクが60年代後半から、70年代はじめ早稲田に通っていたひとりの女性とつきあっていたからなのだ。
 そのため、ボクは大隈講堂も、演劇記念館も、彼女が通っていた政経学部の教室も知ることになるが、一番大きな意味を持ったのは、そのためか、当時、文学部の自治会を掌握していた中核派の白ヘルでもなく、革マルでもなく社青同解放派の青ヘルを被ってデモに参加したこともあるという思い出だろうか。
 彼女とこの「らんぶる」に、一緒に入ったのだったか、それとも違うひととだったのか、ともかくもこの学生街の名曲喫茶の前にたたずむと、40年近く昔のその頃の、思い出や苦い思いが走馬灯のように駆け抜けてゆくのであった。
 都の西北早稲田の杜に……ボクに縁のなかったこの校歌さえ、まるで我がことのように懐かしく思えるから不思議である。
 (早稲田大学は本年創立125周年記念で盛り上がっているようだが、当然卒業生でもない、言ってみればニセ学生のボクのところには何の通知もない。当たり前であるが……(笑))

 (写真3)外壁に残った文字のうすれかけた看板にかろうじて「らんぶる」の文字が読み取れる。