風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

宇宙中継/NASA TV

2005-07-31 13:25:00 | コラムなこむら返し
noguti_space
昨夜もNASATVをネットで見ていた。なんと野口さんたちは船外活動をして、ディスカバリー号のタイルの修復にかかっていた。ほとんど、手元がうつっても何をしているのかわからなかったが、時に宇宙飛行士のバックを雲の流れる青い地球が映っているのである。刻々と地球は回転し、かたときもとどまることがない、それでいて宇宙の永遠の静謐さというものが伝わって来る。

ボクは、中学・高校とSFファンを自認し、ファンジンを作っていた。いまで言うコミケのようなファンダムの集まりにその自分のSFファンジン(同人誌)をかかえて大阪、名古屋など地方の大会にも売りに行った。ファンジンの名前は『M31』(メシエ31番でアンドロメダ大星雲のこと)、そしてグループの名前はスペース・リガー。宇宙労働者のことである。
野口さんらの船外活動を見ていたら、中高生のころにボクのイマジネーションを刺激していたもののその中継を実際にみているような気がしてきた。

で、フィニについての感想を書きながらずっとReal Playerで見続けて、さらに今日もつないでいたら、ちょうどお昼12時になんとNASA TVから日本語のうたが流れた。
「歩こう~ 歩こう~ みんなゲンキ」って、『隣のトトロ』で歌われていた唱歌みたいな歌。そいつが、ネットで、それもNASA TVで流れたのであった。
これは、もしかしたら船外活動を(当初の予定もある)今後もやる野口さんを鼓舞し、はげますNASAのサービスなのかもしれないが……。

NASA TV→http://www.nasa.gov/ram/35037main_portal.ram

(写真はNASA TVから報道に流れたもの)


レオノール・フィニと猫とスフィンクスと(1)

2005-07-31 01:16:59 | アート・文化
masked_fini
終了寸前の「レオノール・フィニ展」に行った(Bunkamura「ザ・ミュージアム」7月31日まで。大阪梅田、群馬、名古屋に巡回)。一番見たかったのはフィニの創作した「仮面」である。フィニはその自作の仮面をみずから付けた写真をいくつも残しており、マンディアルグによるフィニの仮面へのオード的作品『レオノール・フィニの仮面』があるほどだ。そして、多くの仮面をつけたフィニの写真はこの著作で紹介されたものだ。
ついで、ボクが見たかったのは「守護者スフィンクス」などのいくつかのタブロー作品だった。だが、今回来てない作品も多かった。

R・フィニのことは澁澤龍彦の著作で学んだ。フィニに注視したこの先見の評論家の言葉を超えるものを知らない。ただ今回、東急の美術館である「ザ・ミュージアム」はフィニのファッション性をも視野にいれた紹介を試みているように思える。
たとえばこうだ。「Leonorレオノール、Leopardレパード(豹)、Leotardレオタード。今風な言葉の響きが意外にも、この美貌の画家の特徴を言い当てている」(チラシからの引用)。これは、ほとんど広告媒体用のコピー同然である。

しかし、実際20世紀の絵画というものは、その実、商業的な雑誌、マスメディア、広告とは切り離せない側面を持ってきてはいたのだ。フィニの場合それは、マガジン、映画、舞台などの依頼仕事と、そこからのインスパイアがあるかもしれない。

フィニは「スフィンクスの画家」とも呼ばれている。もちろん、スフィンクスをテーマにした作品をたくさん描いているということもあるのだが、フィニ自身の謎めいた魅力的な美貌をたたえた女流画家だったということにも起因しているだろう。
フィニはアルゼンチン人の父と、イタリア人の母の血を分け合った。ラテン的な情熱、魔術的な趣味はその父母の風土の双方から受け継いだものなのだろう(とりわけ北イタリアのトリエステから……)。

フィニの貴族趣味的で、耽美的な側面はあまり好きでないところもあるのだが、おそらくこのような側面と、そしてその父から逃れるようにブエノス・アイレスから母の故郷トリエステへ去ってきたと言う側面もあったのかもしれない。父は娘を取り返すためたびたび密偵を送り、幾度も拉致(誘拐かもしれない)することを試みていたと言う。
<写真:「鳥の舞踏会」にて、自作の「白フクロウ」の仮面をつけたフィニ>
(つづく)


スペース・ミッション(宇宙任務)

2005-07-30 00:53:28 | コラムなこむら返し
go_space
●打ち上げ延長の末に、26日にやっと打ち上げられたスペースシャトル・ディスカバリー号。今度は成功かと思ったら打ち上げの際に、耐熱タイルが剥落し、「すわっ!2003年のコロンビア号シャトル空中分解の悲劇がくり返されるのか」と気をもんだ。どうやら、国際宇宙ステーション(ISS)にドッキングし、日本人宇宙飛行士野口さんが、当初予定されていた船外活動のひとつとして耐熱タイルの補修を行うようだ。補修およびディスカバリーの大気圏再突入の帰還飛行が困難の場合、ISSに救援待機中のアトランティスが打ち上げられそれで帰還することになる。
無事に地球に帰還することを祈る。

●これらの刻々と変わる状況は、NASA TVのライブニュースとしてReal playerで見ることができる。
ディスカバリーと交信しているNASAの、金髪の女性とか、ボードに映し出されているISSの位置関係とか、なんだか、宇宙空間とつながってる気分を味あうことができる。
http://www.nasa.gov/ram/35037main_portal.ram
ボクの場合、どうも駐留軍放送(笑)を思い出してならないが……。

●しかし、今日ボクが書きたかったことは26日、朝食(ブレックファースト)にステーキサンドイッチ(!)とフルーツを食べて緊張しながらも喜色満面と初飛行に臨む野口宇宙飛行士が見せたボードのことなのだ。
そこには朝食の後だと言うのに「OUT TO LUNCH」と書いてあったのだ!
なんと、朝食と一緒に昼食までとったほどの野口さんは大食漢ぶりだったのだろうか?
そのあとある旗を掲げてみせた。それは「ペンシル・ロケット」打ち上げ50周年を記念する旗だと言う。そして、それが日本初の日本産のロケットだったのだ!
って、遅れること10年くらいでオイラも鉛筆のキャップ(ペンシル)に火薬をつめて打ち上げたことがあるが、まさかあれが国産2号機ではよもやあるまいな(笑)?

実は、野口さんが見せたボードの原文は「OUT TO LAUNCH」でありました。船出、打ち上げだという意味でありましょう。これを「LUNCH」と受け止めたのはジョークでありますが、同時にボクはエリック・ドルフィの名盤『OUT TO LUNCH』を思い出していたのです。で、さっそく探し出してレコードをかけたと言う訳です。
せいぜいこれが、ボクのスペース・ミッションでありました(このボクの場合、SPACEは「行間」もしくは「座席」の意味だととらえて下さい(笑))。

ああ、ボクのペンシルロケット国産2号機はどこで事故にあい、救出されたのでありましょうか?

では、良い子のみなさん、またお目にかかれるまで首を長くしてその結末をまたれぃ!

(写真はNSAによる打ち上げ時のものです)


E.G.P.P.100(One Hundred)step49/精霊(イカロ)のうた

2005-07-29 11:36:31 | イベント告知/予告/INFO
ad_1
8月5日(金)※毎月第1金曜日に定例開催
E.G.P.P.100(One Hundred)
STEP49「精霊(イカロ)のうた」
●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
(ゲスト)小堀イチエン/リトルキヨシトミニマム!gnk!
(出演)ガンジー(Sax)/フーゲツのJUN他

※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

●オルガナイズ/MC:フーゲツのJUN
●開場18:30/開始19:30
●参加費:1500円(1Drinkつき)
●会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
●問:03-3362-3777(水族館)地図はここ→http://bsn.bbzone.net/suizokukan/
●主催:電脳・風月堂http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/
開催場所が、新宿区百人町です。江戸の昔に百人同心の鉄砲隊が住んだところ。現在はコリアン、チャイニーズ、マレーシア、タイなどの在住外国人がたくさん住むところです。みんな世界のともだち百人作ろうか! そして百人の詩人となろう!
あらたな東京ポエトリー・ルネッサンスはオルガナイザー・フーゲツのJUNの原点である新宿に戻り、新大久保のアジア的な場所の一画で行われています!


レレレのオジさんの夏

2005-07-28 21:05:23 | コラムなこむら返し
rerere
●これも、昨日の話だ。ウチの近くに史跡となった旧鎌倉街道が走っているのだが、そこを散歩していると前夜の台風で飛ばされた小枝や、落ち葉を竹帚で掃き清めているオジさんがいた。遠目で「レレレのオジさん」みたいだなぁと思っていた。しかし、奇妙に動作が早い!
何やら、通りすがりの女子中学生に話し掛けているみたいだ。

「レレレのオジさん」って御存知だろうか?
赤塚不二夫が生み出した傑作『天才バカボン』に登場するキャラクターだ。ひたすら竹帚で道を掃除し、バカボンのパパが通りかかると「お出かけですか、レレレのレ~」と呼び掛ける奇妙な市民(?)である。
で、ここからがトリビアかもしれないがこのキャラクターは杉浦茂というマンガ家のパクリというか、パロディ的キャラクターなのである。まず、その挨拶をする時の頭上にかかげる奇妙な手のしぐさ。テレテレした、そのつかみどころのないキャラクター設定。杉浦茂のシュールなキャラクターそのものである。

で、この枝をはき集めていた60がらみのおじさん。奇妙に動作が、機敏で動きが早いと思ったらローラースケートをはいて機敏に回転しているレレレのオジさんだったのだ!

なんかローラースケートは、ミニ姿の若いスポーティな娘さんがウエイトレスをしてくれると西海岸のイメージがこびりついているオイラは(笑)、レレレのオジさんのニュー・バージョンにいたく感動してしまった。しかし、難点は動作が機敏すぎて(というか、その颯爽とした姿を見せたかったんじゃないかな?)うまく枝が集まらず、掃除の意味があまりないところだった。

全国の小・中学生諸君! 挨拶を毎日欠かさずする習慣を身につけよう! とりわけ、ダラけた生活をおくりがちな夏休みには特にこころがけるように!
いいですか、さぁ、御一緒に!

お出かけですか、レレレのレ~!

それでいいのだ!
(いいなぁ、またはやらせたいなぁ……)


トロピカル・サマー!!

2005-07-27 23:36:51 | コラムなこむら返し
peanuts_vacance
●泰風一家(すべてをタイ国風に生きているファミリーかい?)の、いや、台風一過の、晴れ渡った一日。天窮たかく昇った太陽はギラギラと輝き、本格的な真夏の到来を感じさせる。おとといくらいまでと日射しが全然違う。
そして、夕刻になると物憂いくらいの時間が流れる。まるで、南国の暮れ行く夕刻のようだった。
真夏到来! トロピカル・サマー!

真夏になると何故か頭の中をひとつの「うた」が駆け巡る!

♪ため息の出るような
あなたの くちづけに
甘い恋を夢見る 乙女ごころよ
金色に輝く 熱い砂の上で
裸で恋をしよう 人魚のように

♪陽にやけた ほほよせて
ささやいた 約束は
二人だけの 秘めごと
ためいきが出ちゃう

(ここからハモる)
♪あ 恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめて あなたを見た
恋のバカンス~♪
(「恋のバカンス」ザ・ピーナッツ1963年/ 作詞:岩谷時子/作曲:宮川泰)

最近モー娘の新ユニットのデュオグループ「W」がカバーして歌ったらしいが、聞いたことがない。ボクの頭の中をかけめぐるコーラス・デュオは東京オリンピックの前年の夏に街にあふれかえったザ・ピーナッツの歌声でしかない。少年の頃に、刷り込まれた記憶と言うものは抜けないものらしい。「シャボン玉ホリデー」が見たくなる夏の一日であった。


海の藻くずと海のもずく

2005-07-26 23:07:38 | コラムなこむら返し
mozuku-okinawa
いやはや困ったものだ。何を書こうか中味をなにも考えていないのに、ヒットしそうなタイトルが浮かんできてしまった。これはシャレではない、言い間違いの効用の話だ。

ボクはココナツミルクが好きだと書いたために、甘党に違いないと思われているかも知れないが、実はその通りで、しかし酢の物も大好きなのだ。酢の物は、アルカリ食品で身体にいいからと聞いた時も、なんで酸っぱいのにアルカリなんだと反発した。酢の物が、本当に好きになったのは南の島に行くようになってからだった。沖縄で食べたもずくや、石垣島で食べたこれは酢の物ではないがアオサがボクの蒙昧な目を開いたのである。ヤマトでたべたそれらの食品はとうてい同じものとは思われなかった。

ある日、西表島で知り合いの子どもたちを大きいゴムボートに乗せて、午後の時間を環礁の中で遊んでいた。さえぎるものなど何もない広い空、眼前には視界をさらに上回る大洋が広がる。ボクは慣れないオールを漕ぎながら、南島のゆったりとした午後の時間を満喫していた。
と、急に潮の流れが早くなったのをボクは感じた。ゴムボートがいくらボクのロールさばきが下手だといっても、コントロールがきかなくなり、どうやら環礁から外洋へ流れでる引き潮に流されているらしいことにボクは気がついたのだ。それまでの、のどかなゆったりとした時間は過ぎ去り、引き潮の時間になってきたようだった。ゴムボートはどんどん外洋とつながった環礁の潮の出口の方へ向かっているようであった。
ボクは、おそらくひとりだったら、パニクっていたと思う。しかし、その時、ゴムボートに乗っている大人はボクひとりだった。ボクは、冷静になった。あそんでいる子どもたちには、気付かれないようにこう言った。
「さぁ、そろそろ帰ろうか。みんなで、ロールを漕いで岸につけよう!」
「は~い!」「オッケー!」そんな返事だったろうか?
上が小学生高学年で、あとはまだ保育園児といった子どもたちが、遊びの延長でいっせいにロールを漕ぎ出した。すると、なんと流れに逆らってボートは岸の方に、動きだしたのである。きっと、まだ環礁の中であったことが幸いしたのだろう。こうして、ボクらは海の藻くずにならずに済んだ。もしかしたら、外洋にそのまま流されていたらどうなったのかボクには想像もつかない。きっと、漂流民どころか水も食料もないままにすぐガイコツになっていたかもしれないなどと、いまでも考えることがある。
で、海の藻くずにならなかったボクは、それからだ。それまで、たびたび言い間違えをしていた「藻くず」と「もずく」を言い間違えしなくなり、アルカリ食品であろうが、なかろうがもずくが食べられるように、いやそれどころか大好きになったのである。
(スイマセン! 読者を説得する努力を最初から放棄していますね!)
<2003.09「奇天烈」投稿コラム>


百日紅が落花した(杉浦日向子さんの死)

2005-07-25 22:19:20 | アート・文化
hinako_sugiura
『ガロ』系のマンガ家のひとりと言っていいだろう杉浦日向子さんが、22日下咽頭がんで亡くなっていた。享年46歳だった。
一般的にはNHKの『お江戸でござる』で江戸文化研究家として登場して、着物姿でそのふくよかな丸顔を見せていたが、1年8ケ月前から闘病生活をしていた。

京橋の呉服屋さんのお嬢さんで、日大芸術学部にはいるも江戸考証をまなぶため中退、1980年11月号に初めて描いたマンガ「通信室乃梅」が入選掲載されマンガ家としてデビューした。文春漫画賞などを受賞。私生活では荒俣宏氏さんと結婚するも、離婚。代表作『百日紅』、『百物語』など。
93年に「隠居宣言」でマンガから引退。文筆家、江戸考証研究家としてTVなどに出演していた。

  …………………………………………………

百日紅 江戸小紋の えびす顔

博物家 和とじの書庫で 交わえり

怪談を にこやかな顔 怖さ増し
(3首ともじゅん)



「劇画の日」と「時間をはずした日」

2005-07-25 13:27:00 | アート・文化
garo_1_face
日曜日にたまたまかけたTVのクイズ番組でこういうのがあった。
「白土三平やたくさんのマンガ家を輩出し、大人も読むコミック誌というジャンルを切り開いた月刊劇画誌の名前は?」
答えは、言うまでもなく「ガロ」である。
しかし、TVのクイズ番組でこういう設問が出る時代になったんだ。なんだか、感慨無量である。

『月刊ガロ』は部数からいってもまったくマイナーな日陰者のような劇画誌として1964年9月号(創刊号・1964年7月24日発売)から出発した。
のちに大学生も読む劇画誌として風評を高めた『ガロ』だったが、当時は大人や大学生がマンガを読むと言うことは恥ずべきことだった。マンガは子どもが読むものだったのだ。
それがなぜ大学生も読むと言う風評がたったのかと言えば、白土三平が「カムイ伝」を『ガロ』に連載するようになって、その作品が「唯物史観」に基づいたもので、全学連の学生が「カムイ伝」で「唯物史観」を勉強していると言う風評がたったためだ。

もう一度、おさらいをしておくがこの1964年という年は、銀座に「みゆき族」が出現してマスコミを騒がせた年であり、東京オリンピックが開催されて東京の街並が劇的に変わった年、もっと言えば古い東京が破壊された年であった。東京オリンピックを契機として国際社会にデビューを企てていた日本にそれこそ戦後の赤本の流れを引く貸し本漫画文化の徒花が狂い咲いた。

ちなみに、7月24日、昨日はこの『ガロ』創刊号が発刊された日で、それを記念して「劇画の日」ということになっている日でした。
クイズ番組もこれを意識した出題だったのかもしれないが、番組司会者はそのことにはまったく触れなかった。

本当の事をいえば、劇画は別に『ガロ』がつくった訳じゃないし、長井さんと白土三平のコンビが作り上げた訳じゃないから、おおいなる誤解なのだが、それは別の稿にすることにしよう。

そして、今日はといえば「時間をはずした日」マヤ暦(「13の月の暦」という言い方もある)の年の終わりと新年にはさまれた日なのだった。
マヤ歴の消滅(終末?)まであと7年!


『赤色エレジー』はなぜ赤色なのか?(2)

2005-07-24 04:14:18 | まぼろしの街/ゆめの街
red_elegy_face
『赤色エレジー』は、時代を不透明にした林の作品の中では、珍しいほどシリアスに現実を反映した作品である。抽象的な表現ではあるが、そのことははっきり読み取ることができる。
一郎はタップ一本で動画をつけて金を稼ぎ出す渡り鳥のようなフリー(外注)のアニメーターだが、つれそう同棲相手の幸子は弱小プロダクションにせよ組織に属する「労働者」である。幸子は会社の「春闘」なのか「団結」の鉢巻きをうっかりしめたまま部屋に帰ってきたりしている。

このあたりには駆け出しアニメーターとして東映動画に所属していた頃の、記憶が入っているのだろう。それに、その闘いはどちらかというと当時の先鋭な「街頭政治闘争」は反映しておらず、むしろ賃金アップの「物取り闘争」の感が強いものだ。
当時のアニメの会社の労働条件や待遇は、それはヒドイものだった。ほとんどタコ部屋に押し込められたような状態で、「締め切り」に追われて灰皿を山にしてモウモウたる煙草の煙りが立ち篭める中で、インスタントラーメンをすすりながら必死になって作画していた。ほとんで健康とひきかえに命を売っている商売といってもいいくらいだった。

幸子に新しいプロダクションでの引き抜きと、男の影がきざした時、一郎は別れの言葉を口にする。

「別れ/よう」
「あなたは/言えない/人だと思ってた/…………」

『赤色エレジー』は、言い換えると「団結悲歌」と言い換えることができると思う。わたしたちはいくら「こぶしをふりあげよう」と「インターナショナル」をうたって国際連帯を決意しようと、「団結」の鉢巻きをしようと赤旗を掲げようと、一向に「連帯」も「団結」も階級的自覚をももてた訳ではなかった。あの人民中国における若者による「造反有理」や「紅衛兵」が、歴史上の誤謬として処理されているようにわが国においても、マルクスもレーニンも理論武装をはかるものには都合がよかっただろうが、胸にストンとおちるようなこころ揺さぶられる言葉ではなかった(津村喬はそれを「たましいに触れる革命」と呼んだのではあるが……)。いや、それはマルクスやレーニンのせいではなかった。些末な言葉尻で、分派闘争や内ゲバをくり返すその理論上の差異の争いが、ひと一人の生命に匹敵するものだったのかどうか誰にも答えられなかっただろう。

たましいを打つことばを獲得できなかったわたしたちの空しい「連帯表明」は、シュプレヒコールの木霊(こだま)ともならずに日本共産党の50年代、全学連・全共闘の60年代、連合赤軍の70年代として闇に消えていったのだった。
21世紀に生きる今日、わたしたちは連帯を表明することばさえも持ってはいない。肥大化した消費社会の一構成員として一時的な快楽と、欲望のために金を落とす認証された「個」としてのIDカードを持たされているだけではないのか……。

これで、なぜ『赤色エレジー』は「赤」であり、ついでに「エレジー(悲歌)」であるかが、分かってもらえただろうか?

これは、ボクにとっての30年遅れた「林静一論」である。


『赤色エレジー』はなぜ赤色なのか?(1)

2005-07-23 01:43:44 | まぼろしの街/ゆめの街
red_elegy_1
『赤色エレジー』を『ガロ』に連載した林静一は1967年11月号掲載の『アグマと息子と食えない魂』でマンガ家としてデビューした(林静一22歳)。林はアニメ界の中でもエリートだった東映動画に席をおき、アニメーション・フェスティバルにも意欲的な作品を出品する実験的なアニメーターとして知られていた。林のイラストレーターとしての原点も、マンガ家としてのルーツもこの実験的なアニメ作品にあるだろう。
草月ホールで久里洋二や、ノーマン・マクラレー(カナダ出身のフロッタージュ映像作品を得意とした)のフラッシュするような実験アニメにまじって林のアニメ作品を見たような記憶がある。

とはいえ、林静一は60年代後半の『ガロ』誌を、つげ義春、佐々木マキとともに支えた三人だった。もちろん、勝又進のナンセンスマンガも、楠木勝平も『ガロ』には欠かせなかったが、既成のマンガの概念をひっくり返すようなマンガ作品をみせてくれる訳ではなかった。
この三人の作家に池上僚一を加えて、毎月の月刊『ガロ』の発行をこころ待ちにしていた。なにしろ自分自身がマンガ家志望だったから、マンガの仲間たちと喧々諤々の「マンガ論」を戦わせていた。同時に、ボクらは「革命」をも語っていた。それらの、討論は深夜ジャズ喫茶に持ち込まれたりもしたものだった。そう、そこではこれらの話題にセロニアス・モンクやドルフィや、オーネットや、コルトレーンが加わるのだ。

ちなみに70年代になると『ガロ』ではあらたな三人組が活躍するのだが、それはいまは名前をあげるだけにとどまろう。安部慎一、鈴木翁二、古川益三である。

ところで、アニメーターの一郎とセルのトレスをしている幸子が主人公の『赤色エレジー』の「赤色」とは一体なんなのだろう(『赤色エレジー』は小学館文庫で、現在も読むことが出来ます)。この作品が描かれてから、35年の時が流れているのだが(!)、『赤色エレジー』はなぜ赤色なのかと言う疑問が提出されたことはあったのだろうか?
もし、この設問が初めての事だとしてもボクの出した結論は驚くべきほどのものではない。

実は、林静一には「赤」がからむ作品が8つもある。
1968年6月号の『赤とんぼ』にはじまって、『まっかっかロック』(69.07)『赤地点』(69.08)『赤い鳥小鳥』(69.09)『赤いハンカチ』(69.11)『赤色エレジー』(1970.01~71.01)これに『桜色の心』(71.08)まで含めると7作品。そしてイラスト画集の『紅犯花』(1970年北冬書房)である。赤は血の色、初潮の色ということもあるだろう。それに、墨汁のスミの色はモノクロ印刷であろうとも、赤い色を感じることが出来る。たいがい血潮の色はマンガでは、スミで表わされてきた。
だが、こと『赤色エレジー』に関しては、『赤とんぼ』からはじまった日本的情念とか少女の生理といった表現とは無縁の作品である。
では、この「赤色」とは何なのか?
(つづく)


僕は天使ぢゃないよ!

2005-07-22 01:49:18 | まぼろしの街/ゆめの街
not_angel_2
『僕は天使ぢゃないよ』(1974年日本映画)
1974年製作/1991年劇場公開
監督・製作・主演・音楽:あがた森魚

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
つい最近、竹熊健太郎があがた森魚のデビューアルバムである『乙女の儚夢(ロマン)』が好きだったと朝日新聞に書いていた(7月15日付け夕刊「文化・芸能」欄の「大好きだった」)。プレイヤーを弟が買ってもらって、最初に買ったレコードがこれだったと。1976年16歳の時で、72年発売のこのレコードをえらんだ訳は、直前に深夜放送で聞いたあがた森魚の語りとうたがとってもナイーブで印象に残っていたせいだそうだ。

あがた森魚がデビューした『赤色エレジー』もおさめられたこのアルバムのコンセプトは、1974年にあがた自身がメガホンをとった『僕は天使ぢゃないよ』にも、そのままあてはまるだろう。
あがたは無名の頃に、月刊『ガロ』で林静一の『赤色エレジー』(1970年)と運命の出会いをした。大正・昭和ロマン風の物語をそこから読み取り、このマンガの世界をそのまま「うた」「音楽」で表現したいと考えたらしい。
林静一の絵柄は、現代の竹久夢二という高評があるように、CMやカレンダーでは意識的に夢二風のイラストを描いている(たとえば「小梅」ちゃん)。テキスタルデザインから絵画までこなした夢二と、林静一のどこが違うかと言えば、林静一はアニメーター出身だというとこだろうか。だから、あがた森魚がワルツの曲に『赤色エレジー』をしあげた割には、じつは原作『赤色エレジー』の中に流れている曲は、GSであり、演歌だった。
林静一のマンガ作品では抽象化し、ポップにしたところをあがたの映画では、わざわざ具象化してみせたという場面が多々ある。
たとえば、『ガロ』の編集長であり、ワンマン社長だった長井勝一をわざわざひっぱりだして登場させている場面等にあるだろう。セリフまで与えてだ……。

そう、言いそびれそうになったが、映画『僕は天使ぢゃない』はマンガ作品『赤色エレジー』を映画化したものだった。主人公はさち子と一郎。あがた自身がニヤけた一郎を演じる。周りをかためる俳優人は、横尾忠則、岡本喜八、緑魔子、桃井かおりからはじまって泉谷しげる(若い!)、大滝詠一、山本コータロー、友部正人、中川五郎、鈴木慶一などなど懐かしのミュージシャンが出演している。ある一面、70年代の空気を記録したものとなってはいる。この作品がなぜ、1991年までおクラ入りとなっていたのかの事情はボクはよく知らない。

でも、さち子が作った魚フライを涙して噛み締めるラストシーンの青春の口惜しさというものは、痛いほどボクにもわかるのだ。
そう、映画『春のめざめ』のパネルが見下ろす四畳半で、ボクらもひもじさとみじめさに幾度も相手に八つ当たりしては、救いのない堕天使を自覚していたから……。

「でも……明日になれば/朝が来れば……/苦しいことなんか忘れられる/昨日も そう 思った……」
(林静一『赤色エレジー』ラストシーンのセリフ)

ボクらは、天使じゃなかった。ましてや「地獄の天使」でもなく、このみじめな国に生まれたやり場のない怒りと、反抗心ばかりをかかえた天使を落第(失墜)した「堕天使」だったんだ。


「春のめざめ」に戸惑ったころ

2005-07-21 01:09:17 | まぼろしの街/ゆめの街
angel_spring
『春のめざめ』(1963年ギリシャ映画)
YOUNG APHRODITES
監督:ニコラス・コンドゥロス
主演:クレオパトラ・ロータ
(1963年ベルリン映画祭最優秀監督賞・国際評論家連盟賞受賞)

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

一瞬びっくりした。自分の住んでいたボロアパートが映し出されたのかと思ったからだ。そして、その映画がつくられた1974年という時期を考えてみれば、やはりその映画のパネルはひとつのブームのように、当時の若い一人暮らしの男たちの殺風景な無聊を、慰めたのかも知れないなと思ったのである。

この映画『ボクは天使ぢゃない』(1974年)自体の内容については、明日ふれることにする。いまは、その映画の部屋の背景というか、部屋にかかげられた映画ポスターがテーマである。

映画の中、一郎と幸子が同棲する四畳半の部屋には、『春のめざめ』(1963年ギリシャ)のポスターが掲げられてあったのだ。その場面自体が懐かしかった。映画は同棲生活がテーマになったもので、その頃ボクも御多分にもれず同棲していたのだ。

そして主人公たちが同棲しているアパートの部屋に、『春のめざめ』のパネルが掲げられていた。
ボクの四畳半の部屋もそうだった。ボクは、その『ボクは天使ぢゃない』を遡ることさらに、10年くらい前の1964年くらいに根津アカデミィで『春のめざめ』を見ていた。

主演のクレオパトラ・ロータのエロスに息詰まる思いをしたものだ。原題を『Young Aphrodites』(直訳:若きアフロディティ)というこの映画は歴史以前の、すなわち神話時代とおぼしき時代を土臭く、埃舞う土壌で描き切ったギリシャ映画で、ボクの映画体験の中でも忘れることが出来ない一作品となっているものだ。
そして、髪をザンギリに切ったボーイシュなクレオパトラ・ロータは貫頭衣のような一枚の布をまとっただけであり、映像からはまだ固い乳房が見えかくれしていたのだ。

もう一度見たい。そして、この映画パネルをもう一度手に入れたい!
クレオパトラ・ロータは、まるであの時代を生きたボクの息吹を、どこにぶつけたらいいのか分からなかった性欲や、情念や、エネルギーそのものの迷走を象徴するようなボクのイコンだったから……。


飼い猫LaLaのお誕生日会

2005-07-19 23:43:29 | トリビアな日々
lala_3year
ココナツアイスクリームを作ったそもそものきっかけは、沖縄方言みたいな病名の夏風邪にかかった娘を喜ばそうと発奮したからである。で、ボクがその病名をなかなかおぼえられなかった「ヘルパンギーナ」の発熱と口内の炎症に耐えている娘がそれでも、当初の計画通りに飼い猫「LaLa」のお誕生日会をするというので、人間用のお祝いのケーキのつもりだった。娘は少ない小遣いから猫用の缶詰めを奮発して買っており、そのけなげさにうたれたボクがない智慧をふりしぼって考えたのが、娘も大好きなココナツ・アイスクリーム作りという訳だった。

拾った時、手のひらに乗るくらい小さく華奢だったLaLaは、満3歳になった。まるで、「魔女の宅急便」に登場するジジに良く似た黒ネコ(ロシアンブルーの血が入っているらしいと獣医に言われ、小さい頃はみなに可愛がられた)LaLaは、すくすくと育って今は抱え上げてもずっしりくるほどの成猫になった。メスネコなりの身だしなみと、しなやかさとそして後から来た新参子猫「ちょびぃ」に見せる細やかな心遣いとで(チト大袈裟ですがね)大人のオンナの貫禄を見せている。
なにしろ、その流暢なほどの貫禄はチビ猫ちょびぃが自分のエサ箱を漁ろうと、遠慮気味だし、チビ猫ちょびぃの方がチビのくせしてサバイバル精神にたけ、ワイルドである。さすが、オスというか、その節操のなさに近頃、ボクは少々あきれている。

で、そのLaLaも自分のバースディとなると奮発された整腸・消臭オリゴ糖添加の『(かにかま入り)まぐろ達人』を、おいしそうに平らげてしまった。いや、いっそ魚一匹でも食べたであろうと思うのだが、バースディゆえに(それに娘が自分の小遣いからプレゼントしたゆえに)その贅沢を許すことにした。
で、もちろん「ちょびぃ」には、隔離して普段のエサを与え、ボクたちはボクが作ったココナツ・アイスクリームを食したという訳である。

ああ、それはなんて微笑ましい飼い猫のお誕生日会であったことでしょう。
(これまで、プライベ-トな事柄には、極力言及を避けていたボクのタガが飼い猫の一件で崩れてから、とめどなくなるのではないかと自分でも畏れており、実は怖いのだ(笑))