風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

田端優子彫刻展と新宿の夏

2006-07-30 23:26:29 | アート・文化
Yuco_believes 優子の彫刻作品と若干の平面作品を見て来た(田端優子彫刻展「believes」。新宿花園画廊。昨日29日まで)。優子の作品はそれが抽象であろうとその作家の名のように優しい。少女像などあたたかくて、見ているこちらが、その優しい手に抱きかかえられるみたいだ。

 今回、気に入ったのは少女像はもちろんだが、乾漆でつくられた抽象的な造形の彫刻作品である。優子はまるでミロのような(ミロが適格なたとえかどうかは自信がないが……)色使いと形象をした平面作品を描いているが、それを立体作品にしたような抽象彫刻であるが、その風合いがまたいい。まるで古くて黒くなった仏像のような風合いと言うか、山奥の置き忘れられたような村の蔵からでてきた古い漆(うるし)の什器のようなと言えばいいのか……抽象でありながら、冷たくひとを撥ね付ける事をしない作品なのだ。

 結局、最終日にしか行けなくなってしまい、お祝いに持っていった無添加ワインはそのまま打ち上げの酒になってしまったようだ。撤去も若干手伝ったのだが、おかげで乾漆作品がとても軽いものであることが分かった。その軽さが信じられないくらい重みを感じる作品だったからだ。

 ところで、この日の新宿は「新宿エイサーまつり」の夜で、移動してゆくエイサー隊も踊る姿も見たが、なんで新宿が沖縄なのか判然としなかった。大久保でやっているアジアまつりの方が説得力がある。大久保、新大久保周辺は職安通りの方までが(一部歌舞伎町にまで進出)リトル・ソウルで、コリアンライブハウス、民族楽器店、民族衣裳店に教会まである一大地域社会ができているからだ。

 判然とはしないものの梅雨の合間の(って、まだ梅雨が明けぬのだそうだ)暑い夜で、新宿にひさかたぶりに街がうなるような活気が感じられた。それにしても、新宿には台湾や韓国からの観光客が多い事にもあらためてびっくりする。人込みの中で道を塞いでいる団体客は、アジアの言葉を喋っている。不夜城新宿の現在って見て面白いですか? むかしは本当に面白かったんですけどねぇ……。

 でもきっと、団体観光客はドラッグストアに寄ってその足で最後は新大久保の韓国料理店や、中華レストランへ向かうのだろう。歌舞伎町はゾロゾロと人込みにまぎれて、道を塞ぎながら散策する場所なんだろう。



8/4 今度のテーマは「真夏の夜のJAZZ!!」

2006-07-26 01:46:27 | イベント告知/予告/INFO
Step604●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step61 テーマ:「真夏の夜のJAZZ !!」
8月4日(金) 開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ・MC・DJ)、おもとなほ(ひとり芝居)、bambi(講話)……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://bsn.bbzone.net/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 かって、ジャズは若者たちの音楽だった。好きなジャズメンの新譜に一喜一憂し、青春を浪費するためだけのようなジャズ論争に明け暮れた。「ジャズの10月革命」と言われたフリージャズの嵐は、黒人たちの血を吐くような苦しみ、悲しみから生まれたとボクらは信じていた。
 We Insist! それは黒人とともに、ボクらの主張でもあった。ボクらは生きたい! 束縛されず、強制されず、奴隷労働から解放され、人間的に人間の誇りをもって自由に生きたい! と。ボクらは、主張する! ウィ・インシスト!
 それは、どんな主張だったのか? どんな悲しみだったのか? 何色の血を吐いたのか?

 まるで、真夏の熱帯夜の中で繰り広げられる、汗みどろの即興のセッションのようだった!?

 夏の盛り、大久保「水族館」をひと夜ジャズバーにし、JAZZを流しっぱなしにしてポエトリー、コメディ、芝居などの表現でブラックに、ブルージィに決めたいと思います。真夏の夜を熱く、彩るオープンマイクに涼みに来て下さい(笑)!

 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

(写真は、ジャズメンのような渋いオジさん、JJ氏ならぬ平山氏/カメラ:13号倉庫さん)



雨の夜はジャズでも聴いて……

2006-07-25 02:29:58 | コラムなこむら返し
 嗚呼! こうしてジャズをずっと聴いていたい。朝が明けるまで、ブルージィでムーディで、スリクの代わりにちょっぴり大人なリキュールのグラスを傾け、そう、ひとりでも構わない。いや、むしろひとりの方が良い。
 あの頃、買えなかったオーディオ装置を持ち、あの頃買えなかったアルバムを所蔵し、こうしてひとり深夜ジャズを聴く。まして、今日は雨の夜だ。ありったけの所蔵アルバムを聴きたい。

 あの頃、無性に死ぬ、死ぬとほざいていた。たしかに、毎夜のようにメシ代わりに飲んでいたミナハイをあと10錠ほども余計に飲んでいれば、簡単に死んでいたかも知れない。でも、その前に吐いて自分が吐いた吐瀉物で気管をつまらせ息も絶え絶えになって、救急車で新宿病院にでも運び込まれ胃を洗浄される。でも、それでも助からなかった連中もたくさんいた(マリアこと阿部薫がそうだった)し、スリクの後遺症で言語障害に陥り、飲んでもいないのに「ラ行」が発音できなくなるのだった。

 やっぱり最後はレコードだった。LPレコードでコレクションしてきたからあの30センチのアナログ盤になってしまう。そして、あらためて思う。この温かい音はなんだろう? 針音がしても、時々音がとんでもレコードには空間がある。いや、時空がある。むしろ、それはタイムマシーンだ。その時代の音と空気を封じ込めた缶詰めだ。

 雨の夜だ。悲しみをまぎらわすためにも、雨の夜にはジャズでも聴こう。そう、アナログ盤で、レコードで……。それが、へだたった時間をすこしでも縮める手段になればよい。

 さぁ、今宵は朝までジャズにひたってフーテンしようか。


コルトレーンを探して……(39回忌)  <2>

2006-07-24 00:43:22 | アングラな場所/アングラなひと
Church_john_c だからコルトレーンの遺作である『エクスプレッション』は、「スウィングする事もいらない、一切合財、拒むというコルトレーンは、耳に痛いたしく聴こえた。」という印象のアルバムではないのである。
 コルトレーンはブラックパンサー(黒豹党)などのアフリカン・アメリカンが公民権や平等な権利を求めて過激に台頭する60年代なかば頃に、政治的メッセージを付与してイメージとして利用されそうになった。本人はいたくノンポリであったにもかかわらず(むしろコルトレーンは宗教的な境地にこころ惹かれていた)、その黒人的な容姿が(「至上の愛」のジャケット写真の横顔を見よ!)黒人解放運動にはうってつけだった。このあたりのこともそのうち書きたいところだが……。

 しかし、それもやむを得ぬかなである。というのも、当時、中上もそうだろうが、ボクらにはレコードを買う金も、ましてオーディオ装置を揃える金もなかったのだから……。だから、ボクらはジャズ喫茶を共同のリスリングルーム、中上の言葉を借りるなら「教会」にして、毎夜毎夜通ったのだから……。
 お気に入りのアルバムが見つかると、ターンテーブル(大体、レジのそばか、カウンターにあった)前のジャケットをおいてある場所に行って、「現在演奏中」のアルバム名、演奏家、楽器編成などをできるだけ頭に叩き込むのだ。
 その知識をもってコルトレーンは、アイラーは、ドルフィはああだこうだと論争を始めるのだ。それは、生半可の知識に基づいたとてつもない不正確なそして空疎な論争のための論争だったが、ボクらには時間だけはたっぷりあったからそのディペートを楽しんだ。

 もしかして、中上が『エクスプレッション』と『インプレッションズ』とを間違えて覚えていたとしても誰も責める事はできないだろう。ボクらはジャズをはじめとして文化やアートに腹の底から飢えていたが、みなひとしく貧しかった。ガツガツと吸収する知識は、なんの権威付けもない、そしてなんの役にもたたない知識だった。新宿のドブ溝のような場末の深夜ジャズ喫茶で、アフリカン・アメリカン(アフリカ系アメリカ人つまりニグロ、黒人だ)であるコルトレーン、ドルフィ、オーネット、アイラーやモンクやマイルスの悲しみを表現を自分のものだと思っていたのだった。ボクらは、自分たちをこの国における黒人的存在だと考えていた。ボクらは、いわばはじめから混血児のような存在だった??そう、思っていたのだ。アジアの東、敗戦後の日本に生まれ、戦後のアメリカのコカコーラを代表とするポップな文化に影響されて育ち、そして新宿の場末でアフリカをルーツとする黒人たちのソウルフルで、ブルーノートなジャズを子守唄として育ったと自覚していたのだった……。

 ボクらは、みなジェイコブだったし、その名のようにクレオールな存在でそして連続ピストル射撃魔永山則夫でも、中上健次でもあった。ジャズ喫茶という「教会」に集い、コルトレーンやオーネットを司祭としてフリージャズという黒いミサ(ブラック・サバト?)を取り行っていたのかもしれない。

(写真2)来日の際、「聖者になりたい」と語ったというコルトレーンは、晩年にいたるや神秘的、宗教的な精神性を打ち出すが、死後、コルトレーンを聖人としてみとめ崇める「教会」まで出来る。最晩年に心血を注いだハーレムの「オラトゥンジ・アフリカン文化センター」のオープン。ラヴィ・シャンカールとの交友、弟子入りなどコルトレーンの未来にはまだまだ期待をいだかせるものが一杯だったが、コルトレーンの病はそれを許さなかった。



コルトレーンを探して……(39回忌)  <1>

2006-07-23 00:31:55 | アングラな場所/アングラなひと
Trane_with_wife 「ジャズが変わった。/いままでかかっていたマイルス・デビスの曲とはまるっきり違う「惑星空間」だった。ジェイコブはサックスを吹いているのが、そのレコーディングをしてからほどなく死んだジョン・コルトレーンだという事を知っていた。スウィングする事もいらない、一切合財、拒むというコルトレーンは、耳に痛いたしく聴こえた。それでもコルトレーンが何を言っているのか聴き取ろうとジェイコブは耳をそば立てる。音と音が幾つも打ち当り青白い光のようなものを身に残すのを知り、ジェイコブは、声を限りに泣いてみたいような気がした。」(中上健次『十九歳のジェイコブ』)

 ここに出てくるコルトレーンの遺作のアルバムとは『エクスプレッション』のこと。コルトレーンは1967年7月17日に40歳の若さで死んでしまった。その早すぎた死は、数ケ月にわたって、いや数年にわたってボクらに衝撃を与えて続けて来た。中上健次もコルトレーンが死んだ67年頃から、上京してジャズの洗礼を受け、ジャズにのめりこんでゆく。ボクはなにがうれしいかと言って、コルトレーンの在命中からコルトレーンを聞いていたことだ。ボクのジャズ遍歴は1965年くらいからで、日暮里の「シャルマン」(近所だった)から有楽町の「ママ」、そして渋谷道玄坂百軒店、新宿へと流れてゆく。だからボクの最大の後悔のひとつは1966年7月(亡くなったのも7月であったことを思い出そう)来日当時、オケラ同然で来日コンサートに行ける金がなかったことだ。

 新宿にたどりついた頃が、60年代のフリージャズ全盛の頃だった。いわば、それまでのジャズ喫茶通いがビバップや、メインストリームの勉強だったとすればタイミングも符合する。

 今年は、コルトレーンのその死から39年め。来年2007年はちょうど死後40年(生誕80年)で、なにか追悼イベントが行われるかも知れない。少なくとも、ボク自身はコルトレーンを偲ぶなにかをやりたいと思っている(自宅レコードコンサートかもしれないが……)。

 この記事は、そう17日にアップできればタイミング的にも良かったのだが、大原での樹木葬からの帰りで無理だった。それに、毎年コルトレーンの命日に一日中コルトレーンばかりをかけている店も知っていたが、ゆく事もかなわなかった。

 さて、冒頭の中上の引用の文章に戻る。初期の中上文学はまさしくジャズ文学だ。そして、舞台になるジャズ喫茶は、そのほとんどが「ジャズ・ヴィレッジ」(通称ジャズヴィレ)を彷佛とさせる店である。そのことについては稿をあらためて書きたい。
 ただ、冒頭のコルトレーンの曲が『インプレッションズ』(60年代初期)ではなくて、遺作となった『エクスプレッション』の方(そうとしか読めないのだが……)だとすれば、これは大いに印象が違う。まして、共演プレイヤーはファラオ・サンダースである。『至上の愛』(1964年)以降、急速に精神世界の方に傾斜をすすめていったコルトレーンは、この最晩年のアルバムの頃には、スピリチュアルで瞑想的な境地に達していた。ストイックなまでにおさえた音、寡黙に近い表現である(『インプレッションズ』ではエリック・ドルフィをフュチャー)。
(つづく)

(写真1)死の前年、1966年頃のジョン・コルトレーンと妻アリス・コルトレーン。



10500人めはアントンパパ!

2006-07-22 00:10:19 | トリビアな日々
フーゲツの JUNさん、こんにちは。

mixiからのお知らせです。JUN さんのページ全体のアクセス数が10500アクセスを超えました。記念すべき10500アクセス目の訪問者はアントニオ・M さんでした!

以下のURLより アントニオ・M さんのプロフィールを見ることができます。
これをきっかけにアクセスしてみてはいかがですか。
プロフィールを見る→http://mixi.jp/show_friend.pl?id=342496

 アントンパパ! ありがとう!
 ここのところ横浜にすっかり根をはって、アートにイベントに、日韓交流にと仕掛人、プロデュースにと多忙な毎日を送っているアントンパパはマメにボクの日記をチェックしに来てくれてついに、1万500人めのキリバン足跡を踏んでくれました。
 アントンパパ! これからもよろしく!
 また、横浜に呼んで下さいね!


樹木に偲ぶあのひとのこと/樹木葬・夏の集い(2)

2006-07-19 23:04:46 | 樹木葬(花に化身する仏たち)
Syojin_4 お昼どきになって、本堂へ戻り、用意してあった精進料理を参加者全員でいただく(住職の考えた精進料理メニューを作る厨房裏方は寺の檀家さんの奥さん方である)。今回はグリーンピースの炊き込み御飯に、オオバの天婦羅、生麩、高野豆腐などを使ったものが数種類盛り合わされ、それにお吸い物と葛切のデザートが付くというものだった。
 この精進料理が、どなたもそうであろうと思うが、「樹木葬の集い」の、また楽しみのひとつなのである。催しの内容としては、半日もかからないものであるが、ここに辿り着くのにほとんどの方が、2~4時間程の時間がかかっているはずであろうから(遠くはたしか山口からとか聞いた)、実際、普通なら家族で墓参りした後の食事会まで樹木葬会員全員で共に精進料理で会食し、交流を深めるというのがこの寺の特徴かも知れない。

 とにかく、母を埋骨した頃には(2004年10月23日。そう、あの新潟県中越地震の日だ!)、予定区域の目印の杭だけがたくさんあり、埋葬している方は数人もいなかった頃から考えれば、わずか2年たらずの内に樹木葬地の区画は2区画になり、それもほぼ一杯という現状など当時は考える事もできなかった。

 ボクは、樹木葬地にするべく霊園申請中だった頃から、住職に良く相談を受けた(もちろん、自宅にあった母のお骨を「樹木葬」で弔えるかの相談が先にあった訳だが……)。岩手の祥雲寺さんの先例はあるにせよ、住職はそのニーズのたかまりにまだ確信が持てなかったのかも知れない。
 ボクは寺の事業としても必ず成功すると確信していた。がむしゃらにつっ走っていた高度成長期ならいざ知らず、むしろ低成長時代の日本人は精神的にも成熟し、環境問題にも関心を持ち、成熟にともなうこころの問題や、その帰るところを求めていると感じていたからだ。
 成熟したわたしたちが、求めるもの、それは「失われた10年」(バブル期)や高度成長時代に見失ってしまったこころのすき間、ポッカリと開いてしまったこころの空洞を埋めたいと言う希求だと考えて来たからだ。

 どのような葬制をえらぶかが、そのひとの死後の霊のやすらかさに影響してくる。庶民にとっては歴史的にはむしろ新しい葬制である墓は、封建的かつ儒教的である家制度にからめとられてしまう。「○○家」の墓に個人の霊性は呑み込まれる。
 だから、離縁したおんなは家とのつながりと同時に、自分が入るべき墓さえも失う。ボクの母がそうだったように……。「樹木葬」は、その意味でももともとは仏教のことばであった「おんな三界に家なし」に、仏教の方から救いの手を差しのべたとも言えそうだ。
 そして、「樹木葬」はむしろアニミズムのように、個人の霊性をうやまいながらそこから深い生態系や、自然循環の思想にいざなう。無宗教同然のわたしたち日本人のこころの奥深くに存在する「輪廻」のこころが呼び覚まされるのだ。

 今年で開山390年を迎える天徳寺は、古刹とも言える歴史ある寺だが、なにぶん後継者にも苦慮していた置き忘れられたような山寺であり、檀家数も50くらいしかない。
 現在の住職になってからの、このめざましいにぎわいと繁栄は、開山以来の椿事なのかもしれない。若い住職は寺にとっては、その斬新な試みで天徳寺をも救済した。

 今後は、その困難な現在の墓地や、葬制の制度、法律を変える方向をもたねばならないだろう。野山への散骨を法のおめこぼしで実行している「葬送の自由をすすめる会」などとの連帯、共同行動も必要になっていくかもしれない。
 現在、「樹木葬」はかろうじて自治体レベルで許認可できる墓地法(厚生労働省の管轄)の中で、「霊園」としてかろうじて成立するようになった(それも、まだまだわずかにすぎない)。しかし、それとて限界がある。母や父や肉親が姿を変えた樹木が、墓標の代わりにすぎないのか、それとも本当に森として、里山として成長するのか? 美しい夢をみる手段としてだけではない「樹木葬」の、壮大な実験はこれからだと思う。
(この項・おわり)



樹木に偲ぶあのひとのこと/樹木葬・夏の集い(1)

2006-07-18 23:40:01 | 樹木葬(花に化身する仏たち)
Syojin_3 「樹木葬・夏の集い」は86名の参加者が集い盛会だった。これは千葉県大原の「天徳寺」に「樹木葬」で家族を葬った方、および自分が葬られるために生前契約で会員になった方を対象にした集いである。お盆の時期でもあったが、お寺(曹洞宗)でありながら宗教を問わない(無宗教でも可)寺の住職の考えで、「法要」とは言わずに「偲ぶ会」と読んでいる。

 だから最初に住職が、「般若心経」を参加者と唱和して読経した以外は、樹木葬地で自由にすごす。一応、催しものもあって(いわば野外イベント、オープンエアです!)、すこし高くなったところからボクが自作の「花に化身するホトケたち」を読む。ついで「故郷(ふるさと)」を参加者全員で歌う。Yさんが、マンドリンをつま弾いてくれていたが、やおら立ち上がって指揮をしながら歌唱する。声楽をやっていたらしく、良い声である。
 この内容の催しは、昨年から始まった。昨年は、やはりYさんが「千の風になって」を歌唱指導した。しかし、「千の風……」は、あまり樹木葬的ではない。住職の求めに応じて、ボクは母を思い、父を思って詩を書いた。この地に葬ったみなの最大公約数になるかどうかは自信がないが、ともかく「樹木葬」をテーマとした世界で最初の詩だと思う。
 住職の希望は、最初、皆で歌える曲だったが、ボクにはそこまでの才能はない。だから「詩」にしたのだ。

    「花に化身するホトケたち」
                     (詩・江守 純史)

  はは は ヒメコブシ に なりました
  ちち は ハナミズキ に なりました
  人里 近くの 山寺で
  花 と なって 眠ります

  死んで 花実(はなみ)を 咲かそうと
   土の 下に 眠ります
  草木 の 下に 眠っては
   花の 養分と なりました

  そうして 失われた 里山に
   森を つくる よすがと なります

  花実(かじつ) に 向かって かぁさん と 呼ぶ
  樹木(じゅもく) に 向かって とうさん と 呼ぶ
   まるで 昔ばなしの 中で
    枯れ木に 満開の花 咲かせ
     森を 花盛りの 山とする

  そんな 世界に 生きているよう
   木々や 果実の 精霊を
    迎え 眺めて いるようです

  花々 と なって かぁさん は
  木々 と なって とうさん は
   きっと 見守って くれるでしょう

  残された 家族のことを
   生きている 孫(まご) 子(こ)の ことを

  こうして 花木 を なかだち として
   わたしは 大地 と つながりました

  里山 が よみがえり
   ふるさと の 森 に なりました

  わたし は わたしたち に なりました

 ボクの声は森のこずえに木霊してかえってくる。今回が最初の、お披露目ではないのだが、すすり泣きが聞こえた。ボクの詩に共鳴してもらえたのだろうか?
 ひきつづきYさんの伴奏で、唱歌である「故郷」を参加者全員で歌う。樹木葬を通じてともに縁が出来、そしてこの地につながり、ここに里山がよみがえることを願う気持ちは、ここに第2の故郷を作っていく事だと思うからだ……。

 故郷 (ふるさと)
 一、兎(うさぎ)追いし かの山
   小鮒(こぶな)釣りし かの川
   夢は今もめぐりて
   忘れがたき故郷 (ふるさと)

 二、如何(いかに)にいます父母(ちちはは)
   恙(つつが)なしや 友(とも)がき
   雨に風につけても
   思いいずる故郷

 三、こころざしを はたして
   いつの日にか 帰らん
   山はあおき故郷
   水は清き故郷
 (唱歌/高野辰之作詞・岡野貞一作曲)

 つづいて、住職が現在、葬られているひとの数の鐘をつく。みなで、黙とうをする。
(つづく)




樹木に偲ぶあのひとのこと/樹木葬・夏の集い(Phot_1)

2006-07-18 23:34:36 | 樹木葬(花に化身する仏たち)
Syojin_2(写真1)寺の周辺に咲き乱れる野生の花々で飾られた壇上に、この地に眠る方々の遺影が……。ウチはどういう訳か(って、ボクが母の写真を持っていかなかったためだが)母の樹木の前でポエトリーリィディングをする姿が、飾られてありました。どうやら、ボクはすでに「遺影」なのかもしれません(笑)。



樹木になった母に会いに……

2006-07-14 23:59:10 | トリビアな日々
 気温が30度を超える日々が続いて来た。梅雨明けもすぐだろう。まつりのシーズンの夏のはじまりだ。この週末あたりからそれは始まる(今週末は「半造星まつり」)。しかし、ボクは前々からきまっていた「樹木葬夏の集い」へ行く。寺男としての仕事が待っている。
 それに、今回はこれまでネットでの宣伝や、樹木葬の推進に尽力してこられた方々が揃ってねぎらいというか、感謝の集いも寺で行われるようだ。精進料理も楽しみだ(今回もちゃんと足りて、食べられる事を祈る)。
 その報告は帰って来てから……。


慈悲の眼・凝視のひと??高島野十郎展

2006-07-12 23:56:51 | アート・文化
Rosoku_1934 どうやらその画家は、描く対象を前にして凝視し、長い間見つめ続けた結果、対象の中に入り込み描く対象にのりうつって画布に向かう程の気迫で絵を描いていたようだ。
 それを感じたのは、画面に吸い込まれそうになるほどの精緻な、リアリズムというよりは精緻な風景画であるが、とりわけ「長瀞」という渓流を描いた作品に付されていた画家自身のことばで、そう強く思った。画家は巨大な岩の間を流れる渓流を、見つめ続けた結果、激しい水の流れが止まり、巨大な岩の方が動き出すのを見たと言う!
 このエピソードは画家がいかに、激しい気迫をもって対象を見続けたかと言うことを物語っている。
 運動するものと、静止しているものが入れ代わる瞬間がある。いや、と言うより画家はその凝視の眼でもってまるで、禅僧の瞑想のような境地を獲得したにちがいないだろう。
 「静止する存在は、運動している」という認識は、現代物理学が量子力学や相対性理論を獲得するまでは、禅問答の公案のようなものとして一笑に付されていた。
 画家は画壇に一切無縁の制作活動を続けながら、そのような境地にまで辿り着いたに違いあるまい。

 画家の名を、高島野十郎(たかしまやじゅうろう/1890~1975)という。明治23年に生まれたこの気骨の画家の眼を養ったのは、東京帝国大学(現・東大)農学部水産学科にすすんでの魚や、海老や貝の観察とスケッチにあったのかもしれない。博物画のようなスケッチが残されおり、そこには学術名も達者な文字で書かれている。東大農学部水産学科を首席で卒業しながらも、高島は画家の道をすすむことを決意する。しかし、達者とはいえ、絵の勉強は独学である。そのためかどうか、高島は画壇とは終生無縁で、じぶんひとりの独自な方法を探究するのである。

 高島の30歳時の自画像がある。眼光鋭く、眉をややしかめ画面にまっすぐむかった絵である。頑固一徹そうな明治の男の風貌をし、そして絡子(僧侶がはおる羽織のようなもの)を着ている。この頃から高島は仏教に傾倒していったのかも知れない。

 それ以前には、彼はヨーロッパに遊学している。そこで描いた風景画は、建物もあるノートルダム寺院の絵だったりするが、達者だが非凡な絵という訳ではない。

 帰国してからの高島は、その画題の主なものは故郷久留米や東京近郊や長野の自然の風景と、静物になってゆく。精緻すぎて、ほとんどスーパーリアリズムに近い程の力量だが、高島の風景にせよ、静物にせよ、その画布から迫ってくるものは、描かれたものの「存在」だ。
 鬼気迫る絵というよりは、どこかやさしい包み込むような「存在そのもの」が訴えかけてくる。
 どうやら、高島はそれを「慈悲」と表現していたらしい。
 対象の存在をするどく凝視しながら、「存在そのもの」(柿なら柿の)が発光するような「本質」にまで迫っているかのようだ。
 対象は光りによって反射されるその反射を目でとらえた形象である。高島も忠実な遠近法、陰影法を駆使して精緻なまでに柿の表皮の汚れや、傷や反射を表現している。そして、その対象への迫り方の、凝視の力なのか高島の描く柿や、花々は画布から浮き出してくる。この「凝視」をもまた、高島は「慈悲」ととらえる。
高島は、この「慈悲」をこのような言葉でメモ書きしているという。

 「花ひとつを、砂ひと粒を人間と同物と見る事、神と見る事」

 高島は多くの太陽そして月を描いている。「林辺太陽」は、画布の前で立つ者が眩しく感じておもわず目を細めてしまいそうだし、果ては林も木の陰もなく太陽そのもの、月そのものが煌々と照っているという作品さえある。太陽だけを描いた作品には、太陽の光輝のまわりに高島のものであろう透かし見るまぶたの裏側の静脈さえも表現されているとボクは感じた。

 そして、その存在の光の探求はみずから発光しながら、自分の影も作り出し、またその揺れるほのむら(炎)を表現しなければならない「蝋燭」シリーズに高島を導いたのではないだろうか。
 そのすべてが、制作年代が不明で、友人に贈られるだけだったという「蝋燭(Candle)」は、瞑想的で静かな作品である。

 存在が、みずから燃えながら光り輝き、その光芒のなかでやがて燃え尽き闇に消滅する。??と言ったら、これは生命の比喩でもある。丁度、高島がそのような格闘をしていたころのドイツ表現主義の映画に、人間の一生を蝋燭とみたてた作品があったように思う。生命と言うものは、光とは感じなくとも光と同じエネルギーでできているとも言える。実際、火葬にした時、人間の脂肪は蝋のような燃え方をする。肉体は蝋のように燃え、燃え尽きるのである。

 そのせいかどうか、昭和50年まで生きた高島は、その85年の生涯の絶筆となった作品は、実に東洋的な「睡蓮」という作品である。阿弥陀仏がたゆとうように眠りをさそう静謐なハス池??どこかからか羽虫のうなりさえ聞こえてくるようなこの作品は、森羅万象に仏性をみていた高島の「慈悲の眼」が、ついには慈愛にみちたあの世にいざなわれた境地の作品ではないだろうか?

(「没後三十年 高島野十郎展」は、この7月17日(月)まで三鷹市美術ギャラリーで開催中です(17日も開館だそうです)。一般600円。学生300円。65歳以上、中学生以下、障害者手帳をお持ちの方は無料。なお、一般の方も以下にアクセスし、住所氏名を書いた割引券を持参すると450円になります。→http://mitaka.jpn.org

※三鷹市美術ギャラリーの関係者のかたへ。「蝋燭」の画像をお借りしました。貴展覧会の宣伝を行った事、およびボクの高島論への熱情に免じてお許し願います。





星祭りの七夕に星をめぐるうた

2006-07-11 02:10:03 | 曲水の宴/う・た・げ
Step6010七夕の夜に行われた E.G.P.P.100/Step60「星祭りの夜・星巡りのうた」楽しんでいただけましたでしょうか?
ゲストがいない夜だったにも関わらず終わったのは、23時をまわってました。持ち時間がたっぷりともらえるオープンマイク??エントリーしたそれぞれが、ひとりの「表現者」である。そのことを大事にしたオープンマイク・イベントに育てて行きたいというのがボクのコンセプトですから、無限ではない開催時間はどうしても押してしまいます。
これは、60年代の精神を前面にうちだしたイベントだった開催名「Free Song, Free Speking!」の頃からの変わらぬ方針です。

連続開催60回めのこの日は、いみじくも七夕の夜でした。一期一会の出会いと表現をさらに色濃く漂わせた夜となったのではないでしょうか?

ボクが、「風月堂のうた」を読んだ後、エントリーの一番手は、この日も、bambiさんのニューエイジ講話から始まりました。七夕にふさわしく、恋の話からはじまったこの日の、講話はソウルメイトの話、さらに時事ネタまでとりまぜて冴えています(写真1)。

二番目は、おなじみのリバース・クラウン。あまのひかりさんと明智クンのコンビです。しかし、ひかりさんはこの日も歌ってくれません。明智クンのギターがワンワンとうなりをあげてリフをかなでます。指使いが超テクの明智クンはいよいよギター教室をはじめるそうです。あひるちゃんカンオプナーの取扱い会社高千穂エンジニアリングの若き御曹子は、ますますギターソロのミュージシャンに目覚めていっているようです。
それにしても、本当に「ゴウマンかましてよかですか」のマンガ家に似ている明智クンです。こんどぜひ、ひかりさんをボーカルにして「A級戦犯の真実の歌」というのを作って下さい(笑)!

三番手は北村イエスこと、コメディアンの北村幸生さんです。今回は「切り捨トーク」だけでなく、牧師の服を白衣に着替えて、新キャラの「研究員」を初披露目です(写真2)。しかし、とまどったオーディエンスからかけられる掛け声はやはり「イエ~~ス!」でした。今度は、「ドクター!」なり「ナース!」なり掛け声を考えて来て下さい。
というか、毒のあるネタでみなで「ドクダ~~!」と叫ぶのはどうでしょうか(笑)?
笑いが不発の時は、ナンセンス!ならぬ「ナースセンス!」と叫ぶことも提案します!

四番はダルマ舎こと平山昇さんです。この日は、告知ということだったのですが、がまんしきれずにやはり詩を読み出しました。平山さん十八番の「コーヒー」と「夢のノースビーチ」。そして「What's up」で開催予定のイベントにからむ詩を披露。

ここで、五番としてというか遊びに来てくれた「共謀罪に反対する表現者たちの会」の寺沢さんを紹介し、共謀罪のことについて語ってもらう。今回の国会では成立を諦めた自民政府も次国会では成立を前提としている動きもあるそうで油断はできません。この現代の治安維持法たる悪法??廃案にしなければなりません。
ここで、bambi姐またがまんできずに乱入し、ひとくさり。

六番手、先月に引き続き遠くから(といっても神奈川県)駆けつけてくれたケースケ(ksk)。三鷹市美術ギャラリーで高島野十郎展を鑑賞して来た余韻さめやらぬ風情で登場。フーゲツのJUNを挑発して漫才を仕掛けますが、自分が絶句してしまいました(写真3)。
しかし、読んだ3編はどれも素敵です。ケースケはかなり長く詩作をしていると見ました。
またいつも選んでくるアンビエントなバックの曲が、とっても意味深でいいです。

七番に登場は(七夕のラッキーナンバー7だった!?)来月はNYに武者修行に行くマツイサトコ。サトコはNYで、オープンマイクに登場するそうですから、もしNY在住の方がいたら見にいってね。
歌った曲は、かってそのアメリカ滞在中に自分のバイト体験から生まれた曲「lesswaitress」とカバー曲の2曲でした。このところライブ活動にも意欲的なサトコは、E.G.P.P.から世界に飛び立つ歌姫になるかもしれませんよ! 要注目!(写真6)

八番手。会場に入って来た時から、ボクの目を奪ってしまいました! タマシイを抜かれました。まきヲさん、この日は「冥土まお」としてメイド服で登場です!
あのまきヲ節でポエムを歌うのですが、それがメイドネタで面白かったです。いつものバサラ風の着こなしの着物姿(これはこれで、タマシイをもっていかれてますが……!)のイメージと180度違うので、余計ドキドキしました(って、オイラゴスロリに目がないのだった)。(写真4)

九番手。そのまきヲさんが、街で拾って来た(笑)名古屋から東京見物中の二人組。ナゴヤーズとして、一行ごとにそれぞれが書いた5文字と7文字をシャッフルして俳句を組み立てると言う趣向での試み。うち、一首があざやかに決まってました。

十番。さぁ、この日のトリは、おもとなほさんのひとり芝居「星祭りの夜」です。脚本はボクが書きました。はじめての試みです。おもとさんも他人の本でやるのは初めてです。期待はボクの方にもありました。
裏方はボクひとりでやったため、幕間の転換はすこしモタついてしまいました(2幕ものでした)。しかし、ショートヘアにしたなほさんの心意気が伝わって来ます。ダンナの礼服に身を包んで、なかなかの男前のアルタイル(彦星)を演じてくれました。「男装の麗人」のイメージを描いていたボクのイメージにぴったりでした。おもとさん、ありがとう! そして、お疲れ様でした。(写真5)

ラストは、ボクのポエトリー「星巡りのうた」です。なんと延々20分??交響詩宇宙シンフォニィのような作品と長さだけはなりました。この長いポエトリーをきいてくださったオーディエンスのみなさんに感謝します!

ということで、七夕の夜は更けていったのでした。
来月は、8月4日(金)E.G.P.P.100/Step61は「真夏の夜のJAZZ」というテーマで行いたいと思います。夏の盛り、大久保「水族館」をひと夜ジャズバーにし、JAZZを流しっぱなしにしてポエトリー、コメディ、芝居などの表現でブラックに、ブルージィに決めたいと思います。真夏の夜を熱く、彩るオープンマイクに涼みに来て下さい(笑)!

(カメラ:写真1~2/フーゲツのJUN 写真3~6/13号倉庫)




星祭りの七夕に星をめぐるうた(phot_5)

2006-07-10 00:37:15 | 曲水の宴/う・た・げ
Step609(写真5)ボク、フーゲツのJUNが脚本を書いた「星祭りの夜」を演じているおもとなほさん。
うん、イイ男になりきってらっしゃる。これは、アルタイルつまり牽牛(彦星)のシーンです。このままレズバーで通用しそう(笑)!
ボクのイメージも宝塚の男役つまり男装の麗人がありました。ぴったり!