風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

夕焼け評論・「美しい国」とはなにか?

2006-08-31 00:00:03 | コラムなこむら返し
 次期首相の前評判が高い阿倍晋三氏のはじめての単独単行本『美しい国へ』(文春新書)を1日で読み終わりました。7月20日に第1刷でボクが求めたものは8月1日発行で、すでに3刷でした。

 一読とても好感をもちました。というのも、とても平易な文章で書かれている。どうやら、読者対象は高校生あたりではないでしょうか? 後書きでも「若い人たちに読んでほしいと思って書いた」とあります。これを事実、御本人が書いたとすれば文才があります。やさしく書くというのは、一番むずかしいことだと思うからです。
 しかし、現在官房長官の職務のかたわら御本人が書いたとは、とても思えません。おそらく、初めの1~3章のセミ自伝部分は語り下ろし(「わたしの原点」「自立する国家」「ナショナリズムとはなにか」)、4章以降は阿倍さんのブレーンが書いたと見ました。
 というのも、年金問題についてふれた章では(第6章「少子国家の未来」)、まるでかけ出しの営業マンのような言葉が書かれています。

 「考え方によっては、こんなノーリスク・ハイリターンの”金融商品”というのも、めったにないのではないか。国民年金はいわば、どこの民間の老後保険よりも、安心、確実で、お得な老後の備えなのである。」
 
 これは、ジョークなのか? ユーモアのつもりで書いたのか?
 民間の保険よりもお得ですよ、なんて営業文句を「安全保障と社会保障??これこそが政治家としてのわたしのテーマ」(41p)と明言したひとが、書くものだろうか?
 社会保障、国民年金は「金融商品」だと言うのだろうか? それとも、怠惰なお役所仕事に腐りきっている社会保険庁にかわって媚びてみせたのだろうか?

 だとしても、この本は平易に書かれている分、阿倍さんの信念は語られている。ところが、理念のたぐいは一切無く、むしろこうするぞ、という政策の面においてはすぐにでも、わたしたちの身にふりかかってきそうです。
 首相に選ばれたらさっそく首相直属で設けられる「教育改革推進会議」(仮称)という「教育改革」があります。これも、どのようなものかということが本書の中に書かれてあります(第7章教育の再生)。そして、その教育改革というものがあの「鉄のおんな」と呼ばれたサッチャーの教育改革に学んだものであることなどが、正直に述べられています。
 これらの果てに、日米同盟を基本とする「国に自信と誇りを持てる」「美しい国へ」していこうと呼びかけられている訳ですが、さて、その肝心の「国」もしくは「国家」とは? となると、阿倍さんのイメージはとても雑駁なものだと思います。

 阿倍さんは、自らも書いているように1954年(昭和29年)生まれのベビーブーマー(団塊)世代の直後、いわゆる「シラケ世代」のひとです。ある面、全共闘世代の革命ごっこにしらけて保守政治家の道を目指したとも言えるし、祖父が岸信介、父が阿倍晋太郎(元外相)という家系に生まれた保守政治の御曹子という自覚もあったのだろうと推測します。小泉純一郎氏の後継者として、日本にはクリントン大統領のようなベビーブーマー世代の首相はすっとばして、というかスポイルしてシラケ世代の保守政治家の純血統種の首相が誕生しそうなのであります。

 そうそう、これは触れておきましょう。「闘う政治家」と自称する阿倍晋三氏は案外、映画ファンであるようなのです。これも、最初のボクの好印象(好感)の一因だったのかもしれませんが、DVDでの観賞のみか、書いている事を信用すればちゃんと試写会などへも出かけて映画を見てらっしゃる。この本の中で、言及された映画は「ターミナル」、「ゴッドファーザー」、「ミリオンダラー・ベービー」、「三丁目の夕日」などたくさん登場します。
 さらに、小説の引用やスポーツの試合のくだりなどからはじめるところなど、なかなかマメなひとだという印象を与えます。しかし、これも、文章を平易に書く時のテクニックみたいなものなのであります。まして、この本は新書判です。新書判はボクの知る限り、中味よりも編集者は先に章立て、構成を求めるものであります。中味は章立てから書き起こす。章の中のサブタイトルも先に列挙するケースもあります。
 内容、つまりコンテンツは英語では「目次」の意味も持ちます。平易に書かれなければならない宿命をもつ新書判というものは、売れてブームを作る事はあるが一過性で内実をともなわないことが多いと思いませんか?

 ただ、これまで記者会見などのニュースで拝見する限りでは、阿倍さんは噛んで含めるような答え方をなさる。それが、平易に語るために言葉を選んでいるのか、それとも本心を隠そうとしているのか、その語り方からは読みとれません。

 さて、この方がこの国の舵取りをするのでしょうか? そして、そのことによってこの国は、「美しい国」になるのでしょうか?
 それとも……。


短編・『読み切り短編特集』のミステリー

2006-08-29 00:32:15 | トリビアな日々
 この頃、すっかり本を読むスピードが鈍ってしまった。読む意欲はあるのだが、根気がついていかないのだ。自分ではこむずかしい文章を書くくせに、難解な論文のたぐいは読む気もしない。まったく読まないのは哲学書や思想書で、満足に完読したためしがない。あれは、若者のブームでもあり、輸入思想の大好きなこの国のインテリの流行でもあった「フランス構造主義」なんてものを、好んで読んでは知ったかぶって上っ面な議論をしていたことが、いまでは恥ずかしい。

 もう単行本は読めないからと、面白さだけを求めて好きでもないミステリー関係の雑誌を買ってしまった。厚さだけは500ページに近い「読み切り短編特集」だそうで、表紙に大きな活字でそう大書されている。これは期待できそうだと勝手に思い込んだ。これだけの短編読み切り形式のミステリーが詰まっていれば、江戸川乱歩の怪人二十面相ものをよんでいた時のワクワク感がよみがえるかのしれない。いや、そこまで行かなくとも、「名探偵コナン」のよく出来た回くらいの面白さが、味わえればよしとしよう。
 と、ランダムにタイトルだけにひかれて読み出した。

 ところがである。最近のミステリーってこんなにも詰まらないの?
と、文句のひとつでもいいたくなるほどネタというネタもなく、凝ったトリックもなく、面白くもない大衆小説のストーリーを読まされているみたいだ。
 これじゃ、星新一のショートショートを読んでた方がいいよ、と溜息をついいて、思わず

??裏切られたな…!

と呟いた時、ボクはふいに不安になったのだ。

??もしかしたら、自分の勝手な誤解、思い込みじゃないだろうな?

と、読みかけていたその分厚い雑誌をひっくり返してもう一度、表紙の特集タイトルを読み返したのだ。するとどういう訳か、500ページにおよぶその分厚いミステリー雑誌の表紙には大きな活字で書いてあったのだ!

 「裏切り短編特集」!

と。


阿倍晋三とエマニエル夫人

2006-08-27 23:53:55 | コラムなこむら返し
 あ、タイトルには他意はありません。今日、本屋で次期総理の呼び声が高い阿倍晋三氏のはじめての単独敢行本『美しい国へ』(文春新書)と『エマニエル夫人』(二見文庫)を、たまたま同時に買ったのである。と、そういう意味のタイトルなのですが、これはシンクロニシティなのでしょうか、新訳とおぼしき『エマニエル夫人』の訳者もなんと阿倍さん! 阿倍達文という方でありました。

 まだ読み切っていないので、内容にまでは立ち入りませんが、現在、阿倍、麻生、谷垣の三氏で自民党総裁選のプレ論戦が始まっていますが、自民党の総裁は、衆議院議長の首班指名をうけて首相になる訳だから、つまり国民は自分の国の首相をこの手で選べないのである!

 しかし、この阿倍さんが選ばれると現行の世界に誇る平和憲法がヤバくなりそうなのだ。阿倍氏は総裁選前は、口を濁していた靖国参拝を4月に行う事を表明したし、憲法改正を政治日程にのせることを言明している。

 阿倍晋三氏が自民党総裁つまり次期政権をになう首相になれば、自衛隊は軍隊になり、もしかしたら徴兵制度も日程にのぼるかもしれない。つまり、この国の戦後61年も保ってきた憲法9条にもとづく平和は、おびやかされる可能性がある。なのに、国民はこの自民党総裁選を指をくわえて傍観していなければならない。自民党の党員票を持つもののみが、この実質的な首相選挙の投票権をもっている。

 一般国民はTVや新聞のニュースで戦わされる論戦をみるだけである。こんな非民主的な手続きのもとに、この国の舵取りをする人物が選ばれるのである。

 これをして、「権力選挙」と呼びたい。権力の譲渡権を自民党が独占し、党のトップを自分達で選んでその選ばれたひとに、権力を継承するからである。このシステムおかしくありませんかって、国民は声をあげないらしい。

 いろいろ工作があるらしいが、少なくともブッシュはアメリカ国民による直接選挙に近い形で選ばれている(厳密には直接選挙ではないようだ)。大統領はそのような形で選ばれているのに、この国の首相は政権党のみが独占していると言う在り方はおかしくないのだろうか?

 (『エマニエル夫人』についてもあらためて……)


E.G.P.P.その62回めはセプテンバー・ソング!

2006-08-24 00:08:01 | イベント告知/予告/INFO
●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step62 テーマ:「セプテンバー・ソング(September Songs)」
9月1日(金) 開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ・MC・DJ)、おもとなほ(ひとり芝居)、bambi(講話)、マツイサトコ(うた)……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 短かった夏も過ぎようとし、九月がやってくる。あの悪夢のようなセプテンバー・イレブン/9・11からまる5年がすぎ、治安の良さと、平和をほこっていた日本でも対テロ体制が日常化してしまった。
 この国では地下鉄サリン事件以外は、いわゆる国際的なテロ事件というものはいまのところおこっていない。島国であることを、こんなに感謝した事はないのではないだろうか?
 しかし、すべてを対岸の火事のように見ていると手痛いしっぺ返しをうけるかもしれない。

 ゆく夏を惜しむ「青いとき」は、またたくまに過ぎ、「老い」というしっぺ返しを受けるのも、それと似ているかも知れません。ともかくも、今回は真夏と秋の狭間のこの季節をテーマにとりあげます。
 って、手痛い火遊びや、恋愛なんかのこと?
 おっと、早飲み込みは禁物ですよ!
 セプテンバー・ソング/September Songsはあなたの胸になりひびくうた!

 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs


11,111はダルマ舎さんコロコロ

2006-08-22 23:59:06 | コラムなこむら返し
 フーゲツの JUNさん、こんにちは。

 mixiからのお知らせです。JUN さんのページ全体のアクセス数が11111アクセスを超えました。記念すべき11111アクセス目の訪問者は ダルマ舎 さんでした!

 以下のURLより ダルマ舎 さんのプロフィールを見ることができます。
 これをきっかけにアクセスしてみてはいかがですか。
 プロフィールを見る→ http://mixi.jp/show_friend.pl?id=1346159

 おや、連続でよく見知ったひとがキリバンを踏んでくれている!
 50を過ぎて詩人になったダルマ舎(平山)さんは、職業訓練校で覚えたDTPで独立、食えるのかどうかわからないが「ダルマ舎」というネーミングの編集・出版業をやっている。そう、E.G.P.P. のJJ氏とはこのひとのことだ。知り合ったのは、たしか第1回めのさいとういんこさんが主催した「ウエノ・ポエトリカン・ジャム」で、ボクは出演者だった。客席でチャイ屋をやっていたボクのところにソフトを粋に斜めにかぶったどこかの部長さんみたいなひとが話し掛けてきたのだ。
 「JUNさんは新宿でフーテンしてたんですよね」「ええ!」「ボクも50を過ぎてから、やっと憧れていたフーテンに成れました!」「……」
 この会話がもとで、つきあいがはじまりダルマ舎がつくっている『Heart Beat』への寄稿をすすめられた。知り合ってみると、なぜこれまで会わなかったのか不思議になるのは、ボクのジャズ遍歴の出発地である日暮里「シャルマン」に通い続けていることが分かったことであった。

 本文で書き忘れたが、先日のE.G.P.P.でダルマ舎さんとジャズ喫茶遍歴、ジャズ談義をやってみた。やってるほうはなかなか楽しかったのだが、オーディエンスにはわかってもらえたのか心配だったが、1万1千のキリバンを踏んだ13号倉庫さんのブログ「イヴェント+上映会乱入見聞録 」(http://bokurasouko.seesaa.net/article/22582477.html)によれば、なかなか面白かったようで、「ディープな対談は、まさに真夏の夜のジャズ談義でした」と書いてあった。
 ちなみに、ダルマ舎さんの今日のMIXI日記は「ベランダ・リゾート」で、先日のボクの「もっとも安上がりなリゾート」(http://blog.goo.ne.jp/angura_1967/d/20060818)の記事に呼応したものである。しかし、まさしく「湾岸」で「トトロの森」を遠く眺めているだけのわがリゾ-ト地にくらべると、なかなか素敵な風景に囲まれているらしい事がわかるのだった。


E.G.P.P.版「真夏の夜のJAZZ」/JAZZ on a Midsummer's night at E.G.P.P.

2006-08-21 23:50:18 | コラムなこむら返し
 Step61は八月のしょっぱなだった(4日)。今回のテーマに戦争はなかったのだが、さすがにというかエントリーした何人かが戦争をテーマにしていた。おもとさんのひとり芝居、やまさんそれに北村イエスさえも……。
 もちろん、戦後世代の提示する戦争ゆえに、そのリアルさも説得力もないかもしれない。しかし、戦後世代が戦争体験の精神のリレーの中継ぎをしなかったら、だれが伝えるのだろう。
 それにしても、風化したとはいえ、今回の「靖国問題」のような(靖国問題は首相の靖国神社8・15参拝ということにとどまらない、A級戦犯とその合祀の問題、分祀できるのか、そもそも靖国神社とは何なのか、靖国とは別に施設が必要なのかなど、問題は多様であるが、その在り方も含めてたくさんある)左右に分かれての論争が起ってみると、参拝するのは「心の問題」どころか、「靖国神社」をこれまでタブーにしてきたものは誰なのかと言う事を問いたくなる。

 ともかく、この日のテーマは「真夏の夜のJAZZ」であった。MCとともにDJとしてゆったりと間をとって、またエントリ-者の表現にあいそうな曲をチョイスして、クラブのりで進行した。なにしろ、ボクの大好きなジャズである、そう、スピリチャル・ジャズのオンパレードだった!

 この日、ボクはダルマ舎(平山)さんを「E.G.P.P.のJJ氏」と呼んだが、コルトレーンの「ole(オレ!)」に合わせて一気呵成に読んだダルマ舎さんの詩は、スピード感もあってなかなか素敵だった。この日のために書き下ろしたものらしい。あと10分ほど書き足せば「ole」を完走できるだろう!

 やまさんは、病気入院で痩せて精悍になっていた。アンコールがでるほどの熱唱だったが、一番うれしかったのは、古巣に帰郷した思いと言う感想だった。しかし、ボクも初めて聞いた山本ハジメチトセの歌は元ちとせファンのボクにも新鮮でした。

 そのやまさんが敬愛してやまないおもとなほさんは、「夏の思い出」という唱歌と戦争と言う記憶をお盆にふさわしいような語り口で語る芝居だった。ボクはそれに阿部薫のアルトサックスのソロのBGMをつけた。

 bambiさんの話術には、いつも感心させられる。というのも、この日、なんの用意もせずに、実に見事に話をまとめ、そしてちゃんと主張があるのだから……。
 
 ほかに久しぶりにPARAさん、コボリさんがエントリーしてくれました。DJとしては気持ち良く流させてもらいました。その分、MCがおろそかだったかもしれませんが……。

 ひとつ印象深い事を書いておきたい。オーディエンスで、このイベントの場所(大久保「水族館」)を「ジャズ喫茶」と信じて遊びに来てくれてた女性がいた。きっと、この日「『水族館』がJAZZ喫茶になる!」とうたったボクのキャッチ・コピーのせいだったかもしれない。彼女は映画『初恋』を見て、そこでえがかれたジャズ喫茶『B』に憧れ、検索してボクのこのブログにたどりつき『初恋』の感想のくだりを読み、さらにこの日のイベントを知ったらしい。いま、このようなジャズ喫茶に憧れ行ってみたいと思うひとがいた、ということだけでもボクは嬉しかった。
 映画『初恋』には、たくさんの女子高校生が制服姿のまま見に来ていた。おそらく自分達と年齢も近い主演の宮崎あおいのファンなのだろうが、その中のひとりでもジャズ喫茶をカッコイイと感じてくれるひとが登場する事を祈る。わずかなりと残っているそんなジャズ喫茶にそんな若い娘が通ってくれれば、それにつられて男も通いだすだろう。そうしたら、ジャズ喫茶は復活し、ボクも通います(笑)。

 次回、STEP62は9月1日(金)の防災の日に行われます(笑)!
 近日中に告知します!



11,000は13号!

2006-08-19 23:04:54 | トリビアな日々
 フーゲツのJUNさん、こんにちは。

 mixiからのお知らせです。JUNさんのページ全体のアクセス数が11000アクセスを超えました。記念すべき11000アクセス目の訪問者は13号倉庫 さんでした!

 以下のURLより 13号倉庫 さんのプロフィールを見ることができます。
これをきっかけにアクセスしてみてはいかがですか。
プロフィールを見る→ http://mixi.jp/show_friend.pl?id=24791

 この奇妙なハンドルネームの持ち主は、現実にもアダ名としてそう呼ばれるひとだった。長いあいだレンタルビデオ店を経営し、そこはディープな品揃えで一部映像ファンには有名な店だったという。店を閉めた後も、「個人映画」(プライベートフィルムで、昔で言えば「アングラ映画」のことだろう)に、面識深く、また支援もしており、ついには出演までしているらしい。

 2005年の新春くらい、オープンマイク・イベント「E.G.P.P.」の池袋での主催地だった「SCUM2000」に、ヒョッコリ遊びに来てくれて以来(「SCUM2000」もまたオーナーの加藤さんの意向で、「個人映画」の希少な
上映館でもあった)、雨の日も、風の日もかかさず遊びに来てくれて、自分では絶対マイク前には立たないがE.G.P.P.100の目撃者としてその記録をブログに綴っていてくれるありがたいお方。感謝に耐えません! いつも、ありがとう!
 また、はじめてエントリー為さる方は、13号倉庫さんへあいさつの仁義を切って下さい。もはや、E.G.P.P.ファミリィでの組頭です(あ、ジョークですからね!)。

 次はMIXIアクセス「11,111」のキリバンをゲットしてください!
(あ、賞品も景品もありませんが、このような形でボクから表彰、感謝されます。(笑))

 なお、ブログ『風雅遁走!』全体としては
閲覧ページ数合計: 60,527
1日あたりの平均: 93.70
過去7日間: 1,045
(8月19日23時現在)ということになってます。



もっとも安上がりなリゾート

2006-08-18 23:46:08 | コラムなこむら返し
 太陽は燦々と輝き、空はどこまでも青かった。さすがにここまで来ると空気も気温も違うのだった。頭上にあるバリの竹の風鈴はカラコロと、さわやかな風を受けて転がるような音をたてている。脇にあるアジアン・ティストのすだれは日射しを柔らかなものに変え、その先の大自然の広がりを感じる事ができる。
 ボクはそこにあるサンデッキに半身裸で身体を横たえ、ヘッドフォンから流れるアンビエントな音楽に身をまかせている。よく冷えたグラスに玉のような結露をつくっているジャスミンティのサービスを受け、時間を忘れたゆったりとした時を過ごしている。

 そこは隠されたリゾート地だった。どこに行っても押し寄せてくる人波で、ボクはいつもヘキエキするのだったが、ここは人知れず自分ひとりのゆったりとした時間が過ごせるのだった。
 そんな夢みたいなリゾート地があった。ボクは自分が飼っているネコたちにいつも通りかこまれ、好きな音楽を聞きながら、太陽をひとりじめにした。ジョン・レノンがかけていたのと同じ円い縁のサングラスを通して見る太陽は、強烈な光を優しいものにした。
 それにここは、到着するまでのわずらわしい交通手段もまして航空機もいらない。行楽地にでかけるまでのあの苦痛以外のなにものでもない渋滞も、満員電車も必要無い。

 なぜならその夢のようなリゾートとは、自宅のテラスのことであるからだ。テラスといっても早い話、洗濯物を干すためのネコのひたいほどのスペースで、ボクは、今日、そこにキャンプ用のベットを置き、外からの目隠しにあまっていたすだれを手すりにくくりつけて、頭上にバリ製の風鈴を吊るし、カセットデッキからヘッドフォンで音楽を聞きながら、日光浴をしていたらすっかりリゾート気分になってしまったのだった。もちろんティサービスは自分で用意するのだが……。

 これはニートの方たちや、出不精の方たちにおすすめしたい究極のリゾート満喫法だ。人間はなぜリゾートをもとめるかという事をつきつめてゆくと、「脳内リゾート」というか、脳がリラックスした時に分泌するエンデルフィンや興奮時に分泌されるアドレナリンやドパーミンなどの脳内麻薬や、神経伝達物質の分泌し易い条件が整っているからだ。ボクは唯脳論者ではないが、人間の行動は快楽や、快感を求める方向に誘導され、みずからもそのような無意識の意志をもつものだとは思っている。これは、「快楽原則」といい、フロイトが発見したこころの機能の原則だが、卓見だと思う(唯脳論はフロイトの脳生理学的な焼き直しではないのかと、ボクは思っている)。

 だからある面では想像力や、想念でもそれらの脳内麻薬をコントロールできる可能性はあるが、それはよほどの修行者でもないと無理だろう。だとすれば、自分でも心地よくそのような想像力が働き易い条件を整えてあげればよい。現実には、いまここで浴びている日射しと、バリで浴びる日射しがさほど変わる訳ではない。いや、空気感やその澄み具合で違うし、たとえばそのバリの空気には甘い果実などの匂いが加わったりするから現実には違うのだが、気温的にはバリにもハワイにも近いこのような季節であればこそ、条件は酷似している。だとすれば、あとは想像力の強さの問題だ。

 どうぞ、この格安なリゾート満喫法をおためしあれ!

 (しかし、先日の「自宅深夜ジャズ喫茶」といい、「格安リゾート満喫法」といい、ボクはよっぽど江戸時代の貧乏長屋向きらしい。このような「見立て」を「粋(いき)」と感じる享受法は落語の『長屋の花見』と同じであると思う。いわば、貧乏なくせに「やせ我慢」で「見栄っ張り」なところがあるという、おかしみである。と、自分でつっこみ的な分析を入れてみた(笑)。)


ブリキのノーベル文学賞

2006-08-17 23:56:36 | コラムなこむら返し
Grass_g 「ブリキの太鼓」という傑作を書き、ドイツにおける先鋭的な反戦発言でも知られるノーベル賞作家ギュンター・グラス氏が第二次大戦中、17歳の時にナチス武装親衛隊(SS)に所属していた事をドイツの新聞のインタビューでその事実をはじめて告白し、大騒ぎになっているらしい。
 1999年に受賞したノーベル賞を返還すべきだと言う意見まであり、マスコミに総袋叩きの状態であるようだ。これはちょっと考えると、わが国で自分は戦争中「軍国少年(少国民)」でありましたと、告白したことに似ているがすこし違う(児童文学者の山中亘氏などがこのような告白的作品を書いている)。事は重大なのだ。
 それはSSの軍隊としての性格が、ナチスの中枢に位置付けられるものだからである。親衛隊(SS)は軍隊であって軍隊ではない。それは、ヒトラーに忠誠を誓ったヒトラーの私設軍のようなものだったからである。だから親衛隊(以下SS)は、ナチスの陸海空の全軍隊に匹敵する軍隊の中のエリート中のエリートだった。志願したところでおいそれとはなれるものではなく、厳密な資格審査があった。
 それは、このようなものだ。

 1. 身長180センチ以上 2. 満17歳以上25歳以下の屈強・強健な若者 3. ナチスが政権を獲得する前から党員であったこと 4. 総統に絶対の忠誠を誓えるもの

 それに、SSの制服がミリタリールックの究極のような美しさを持ち、ドイツの若者はその格好の良さに憧れた。強さと美しさを兼ね備えたヒトラー好みの軍隊だった。ちなみにヒトラー自身は身長173センチだったが、それをコンプレックスに感じていたらしく、しばしば長靴にヒールを仕組んで身長を誤魔化していたらしい。

 だから、グラス氏の言う「自発的な志願ではなく召還だった」「十代の頃にありがちな両親のくびきから逃げるためだった」という言葉がそらぞらしい言い訳に聞こえる。おそらく来月ドイツで出版されると言う自伝でも、そのあたりのことは事実にふれるだけで言い訳に終始するのではあるまいか。

 17歳の時、自分はバリバリのナチスにかぶれ、ヒトラーに忠誠を誓ったと認めればいいではないか、と思うのだが、きっとこころの中は千々に乱れているに違いない。

 ちなみに、SSは日本で言えば天皇の警護にあたる近衛兵、近衛師団に近い存在だと思われる。大戦が始まる頃には20万を超える大部隊になり、各地に転戦したところも似ているかも知れない。


慰霊と追悼と解放の日

2006-08-15 13:35:28 | コラムなこむら返し
 小泉首相が「終戦の日」の今日、8月15日午前7時40分に靖国神社を訪れ、現職首相としては中曽根首相以来21年ぶりに参拝した。在任中の土壇場で「いつ参拝しても批判されるならあえて「終戦の日」を選んだ」とインタビューに答えた。ある意味ではポスト小泉の政権に対して牽制球を投げたとも考えられる。と同時にアジア諸国(とりわけ中国、韓国)に対して「(靖国参拝をうんぬんする事は)内政干渉である」と言い続けてきた首相が、任期まぎわに放った最期のパフォーマンスとも考えられる。さすがに、モーニング姿の靖国神社の拝殿では、プレスリーの真似はしなかったらしいが……。
 首相は靖国神社参拝のあと戦没者墓苑(千鳥が淵)で献花し、つづいて「全国戦没者追悼式」(日本武道館)に参列とほとんど午前中を九段周辺ですごしたらしい。

 中国(台湾も)、韓国にとっては日本の「敗戦の日」の今日は、「解放の日」であり「植民地」から「独立国」へと民族自立のきっかけになっていく記念すべき日である(中国は国共内戦ののち人民中国の誕生)。とともに強制労働や従軍慰安婦として拉致同然で、人生をメチャクチャにされ、生命さえも搾り取られたひとびとへの追悼と慰安の日でもある。

 ひるがえって、植民地支配者側だった日本にとっても先の侵略戦争(というしかないだろう)で亡くなった310万もの戦没者(軍人・軍属230万、市民80万人)の慰霊を敬意をこめて安らかであれと祈り、平和を誓うのは当然であり、義務でもある。しかし、そのような追悼式もまた1本の標柱をたて天皇陛下をも押し頂いて政府主導、国家行事として行うのはどういうものだろうか?
 靖国神社に合祀されている中には、朝鮮人もいれば中国人もいるらしい。このセレモニーの標柱にも御霊としてのそれらの「日本人」「帝国陸軍軍属」もしくは一兵卒として死んで行った朝鮮、中国のひとびとも想定されているのだろうか?

 どこで読んだか忘れてしまったが、こんなコピーのような文章があった。一瞬なんのことかわからなかったが、ああ、なるほどとあとで納得したコピーだ。

 「日本の夏、八月は 六と九で 十五だ」

 8月は6日のヒロシマと、9日のナガサキがあって15日の終戦・敗戦があるという意味だが、たしかに硫黄島の無惨な戦いも民衆をも巻き込んだ沖縄戦があっても軍部は戦争をやめるどころか、情報統制をし、記事をねつ造しアメリカ軍の上陸後も国内でのせん滅戦に突入していく考えだった。そのようなヤケッパチの亡国、銃後の国民さえも殺そうとした指導者は東京裁判で「戦犯」として裁かれた。東京裁判の在り方には、批判もあるがあの裁判がなければ、おそらく日本国民それ自身も天皇とともに戦争責任を問われ、戦後復興どころではなかったかもしれないのだ。あの戦争においてヒバクシャであろうと、空襲の被災者であろうとヒメユリの女生徒であろうと免罪された「被害者」などいないのだ。

 ヒロシマとナガサキと人類が体験した事のない原爆(核)の人体実験をうけて軍部は、戦争内閣はかんぷなきまでの敗戦を認めたのであった。わたしたちの国は、あのナチスドイツ、ムッソリーニのイタリアと同盟国(3国軍事同盟)だったのだ。1940年代の「無法者国家」のひとつだったのである。
 東京空襲も、ヒロシマもそしてナガサキもその責任を問われるべきは時の指導者であり、「戦犯」として裁かれたひとだ。そして、銃後の息子を特攻におくりだした母たちであり、戦地におもむいて戦死するか生き延びて戦後を生きた父たちである。

 どうか戦没者への追悼の涙が、自らの戦争責任に、そして悔いる事のできないほどの後悔になり、生きている事の感謝になりますように……。


真夏の夜のJAZZ/JAZZ on a Midsummer's night

2006-08-12 15:43:57 | アングラな場所/アングラなひと
Jazz_summerday 最初に思い出話を書こう。ボクが1958年のニュー・ポート・ジャズフェスティバルの記録映画である『真夏の夜のジャズ』(原題:JAZZ on a Summer's Day)を見たのは、67年か68年のやはり初夏で「DIG」で行われた解説付きの上映会だった。「DIG」は、フリージャズをガンガンかけていた当時の先進的なアヴァンギャル紹介のジャズ喫茶のひとつだったから、いわばプチブル以上の白人がリゾートで音楽を楽しむ雰囲気を見事な映像美で描いた最後の「ジャズ・エイジ」を彷佛とさせる映像作品で「DIG」には珍しい内容だなぁと漫然と思ってきたような気がする。
 もちろん、そこに記録された黒人ジャズ・ミュージシャンの演奏する姿は、セロニアス・モンクからエリック・ドルフィまでほぼはじめて見る動く姿だった。当時、ミュージシャンが演奏する姿は映画の一シーンとして見るか、TVでしか見れなかった。まして、ジャズメンといったらそれらで見る事は、ほとんどありえずその頃やっと出来はじめたライブの店に行くしかなかった。ボクも、最初に見たライブは「ジャズ・ギャラリー8」で行われた超満員の渡辺貞夫の帰国凱旋ライブだったように記憶している。

 そうして、ない小遣いをはたいて「pit in」や「タロー」などでジャズのライブを多少は見に行くのだが(日野照正など)、深夜ジャズ喫茶でレコードを聞くのがおもなジャズ体験だった。
 日暮里の「シャルマン」から、有楽町「ママ」そして渋谷百軒店の「スウ井ング」「ありんこ」などや新宿の「汀」「DIG」「木馬」「PONY」「ヴィレッジ・バンガード」「きーよ」「びざーる」「ヴィレッジ・ゲート」そしてボクが最近よく書く「ジャズ・ヴィレッジ」などだ。

 当時のボクらにとっては、JAZZはジャズ喫茶でレコードで聞かれるものだったし、ジャズ喫茶はデカダンな雰囲気があればあるほどよく、タバコの煙りがモウモウとたちこめ、たむろったフーテンたちはジャズをBGMにして、ジャズ論議をおこない、ナンパをし、そしてたしなみのようにハイミナールをはじめとした睡眠薬、筋肉弛緩剤などのケミカル系のドラッグで意識を混濁させてラリっていた。

 そうして、朝があけると早朝からやっている「ウィーン」などのクラッシック喫茶へ移動し、つかのまの眠りをむざぼるのだった。ボクは、そこから隣の「風月堂」や新宿駅東口前の通称「グリーンハウス」という植え込みへ移動し、そのまま夜が訪れるのを待っていたという訳なのだった。

 ジャズがボクをこうして深夜の新宿で夜な夜な遊び暮らすドロップアウトの生活へいざなったのだが、同時にジャズ喫茶は早稲田等の学生街にも京都や名古屋、大阪をはじめとする地方都市にもかならずあり、そこは情報と友を求めにいく場所でもあった。口コミやマスターの話で一夜の宿をもとめる場所でもあったジャズ喫茶は、ボクらにヒッチハイクをして渡り歩く旅のネットワークを提供してくれる場所でもあったのだった。



夕焼け評論/まつり!まつろう!まつりを!まつれ!

2006-08-09 00:01:22 | コラムなこむら返し
Sunset88 久しぶりに「夕焼け評論」のタイトルを冠した記事を書こう。
 というのも、思わずカメラをかかえて定点観測の場所に走ったほど、昨夕の夕焼けは素晴らしかった。全天が燃えるような真紅に染まった位であった。きっと、それを見つめていたボクの顔も真紅に染まっていただろう。

 8月8日、ハチハチであったこの日、二度目の延長戦にはいるまさしく熱闘だった甲子園高校野球大会(それも第88回ハチハチなのだった)の第4試合日本最南端の高校という紹介が、幾度もくり返された八重山商工と、対するは千葉経済大学付属高校。そのバックネット裏の背景にも見事な夕焼けが写っていたが、接戦・逆転・延長戦に夢中の応援団はまったく目に入らないようだった。
 しかし、ボクはそこで空を見にいってその素晴らしい夕焼けに気付き、走ったのだった。

 1988年8月8日をまたいでの9日間(1日~9日)富士見パノラマスキー場で開かれた「いのちの祭り’88」から18年の歳月が流れた。ハチハチ自体が60年代からの息吹を引き継いでいたホビット村関係者や、おおえまさのりさんや、よくこれだけ集まったものだと思えるようなネットワークがつくられ「No Nukes One Love」というメッセージの下に結集した。
 その核となった運動は、これとは一概に決められないが「ポピの予言」の上映運動や、反原発運動、有機野菜の販売や店つくりで生産者と消費者のなかだちをしたいと活動していたグループや、整体やヨーガなどの東洋体育道をやっていたもの、C&Fなどニューサイエンス関係、ラマーズ法や共同保育をやっていたグループや、和尚(ラジネーシ)や新宗教関係の参加まであって雑多だった。
 伏線はそれまでもあった。「まつり」の原形をつくった70年代の「花まつり」(御殿場)や、「All Species Day」(松本)、「隠鬼祭」(下伊那)などの「まつり」が脈々とその火をつないできていたからだ。

 新宿時代からへだてること20年近く、マンガや、共同保育や、NGOや、反農薬運動にかかわっていたボクは反農薬のパンフ(ボクがイラストを描いたもの)を持ち、売れない頃にマネージャーのようなことをしていた深草アキのPAの手伝いをして「縄文コンサート」にはりついていたりしていたが、ボクもひとりの一参加者だった。だから、ボクにとっても同窓会のようなノリをもった「まつり」だったのだ。

 そもそも、ポンは彼が歌舞伎町で似顔絵描きをして部族に仲間入りする頃から、知っていたし、三省はボクらの詩集を売りつけた。おおえまさのりさんは金坂健二が中心になって発行した地下新聞『Dropower』の仲間だった。つまり、おおえさんが映像作家としてアメリカのベトナム反戦デモや集会、Be-inなどの映像を撮って帰国した頃、新宿風月堂で金坂さんたちのグループでよく会っていたひとだった。

 「ベトナムから遠く離れて」はゴダールの映画だった。新宿から遠く離れて、いや、距離の問題ではなく、むしろ時間や時代だから、60年代から遠く離れてと言い直した方が正確だろうが、ボクにとっても「まつり」は原始人に近いキャンプインをすることだし、オンオンと鳴り響いている60年代からのメッセージに耳を澄ます事でもある。

 そう、そのようなまつりを まつり!まつろう!まつりを!まつれ!

 この場合、「まつり」はまつろわぬ者、時流や世の中の体制に組みしないものの「まつり」であるのだけれど……。

 だから正確には まつり!まつろわぬもののまつりをまつれ! である。

(写真:2006年8月8日夕刻の夕焼けにこころまで染まりそうだった!)



祖国のために 身捨つるや?

2006-08-07 01:24:18 | ブル新の楽しみ(今様新聞批評)
 ヒロシマに原爆が投下されてから61年めの8月6日は、甲子園全国高校野球選手権大会の開会式と第1日めの3試合が行われた(その第2試合は西東京で勝ち進んだ早稲田実業で、素晴らしい猛打が炸裂した。第1試合の白樺学園対高知商業の試合も素晴らしかった)。野球など全然みないボクが胸を熱くしてTV観戦していたくらいだ。

 平和なのだ。最近の新聞記事を任意にコラージュすると、かくのような日本(人)像が浮かび上がるだろう。
 私たちの国は世界で16パーセントの億万長者が141万人もおり、それは欧米のそれぞれ半数程の数でアジア全体の57パーセントをしめる。しかし出生率は1.25で少子高齢化が進み、それどころか人口は今後ますます減少する。若年労働力が貴重になるはずなのに、製造業の現場では実際には「派遣」であるにもかかわらず、「請負」として低賃金、劣悪条件(ボーナス、昇級なし、社会保険なしなど)で若者を働かせており、これは大企業と言われるメーカー(キャノン、日立、ニコン、東芝、松下、富士重工、トヨタ、コマツなどの子会社などの名前があがっている。トヨタはすぐに改善策をとり正社員化をすすめるらしい)にも見られる傾向である。このような「偽装請負」で働く若者は空腹に絶え、流動化する労働力層をつくっている。これは、新聞には書いてなかったが、いわば労働ジプシー(ロマ)化し、ホームレス予備軍としての底辺労働者となって、いざと成れば税金を払いたくないために海外に住民登録し、「日本居住」を「偽造する」先の金持ち層のさらに上奏のひとびとをささえている(村上ファンドの村上が典型。さらに「ハリポタ」の出版と翻訳で屈指の大金持ちになった某女史もそうだ)。

 さらに、「世界価値観調査2000」によれば、「戦争が起きたら国のために戦うか」という設問に日本人は「はい」と答えたひとが15.6パーセント、「いいえ」が46.7パーセント、「わからない」が残り37.7パーセントだった。「はい」の回答率は図示された10ケ国の中で最低だった。「はい」とこたえた率が高かったのは、ベトナムで、中国、イスラエル、韓国、ロシア、アメリカ、イタリア、フランス、ドイツ、日本の順だった。下から2番目のドイツでさえ「はい」は、33.3パーセントもいて、日本はその半分以下である。
 この軟弱さは、この国の長く続く平和の素晴らしさだ。また、これをして「平和ボケ」などと言う手合いがいないように願いたい。これを掲載した朝日新聞日曜版(8月6日)「Be」でさえ「日本は敗戦で不戦を誓った。この結果を「情けない」という必要はないと思う。」と坪谷氏名義で書いている。

 そうだ。むしろ情けないのは口を開けば「日本は法事国家だ」と秩序を公序良俗を求めて自分の私有財産を必死で守ってきたはずの大金持ちが、自衛隊も警察もそれこそ行政機関も養い、福祉制度も国家予算もそれで成り立っているはずに義務としての納税を拒否し、海外への「偽装」逃亡をはかる方が「情けなく」「ふがいない」。

 「売国奴」という差別語は、かっては戦争に反対する良心的厭戦主義者や、左翼の「主義者」に向かって差別、村八分的に発せられたが、そもそもは国を売り渡す行為、裏切り者に対しての言葉だろう。国を売り渡すどころか、一銭も国などに払うものかと言う富裕層の本音は、守銭奴(ドケチ!)をも越えて、「(死)滅国奴」(めっこくど! 造語です)とでも言うべきなのかも知れない。
 ま、先の「戦争が起きたら……」のデータ記事には以下のような記述もあったから、これはかって香港から香港返還にともなって大量の中国系富裕層がその財産とともに海外移住した現象とのアナロジーもあるのかもしれないが……。
 つまり、60ケ国の国民の価値観を調査した先のデータで、自国の軍隊(日本は「自衛隊」)を「非常に信頼する」と答えた日本人は8.5パーセントで、上から43番目だったんだそうだ。

 この国はこれまでの行政府の無能・無策がたたって、平和ボケどころか内側から崩壊しかかっているのかもしれない。これから、世界中に日本人と言う民族の難民が増えていく時代になるのかも知れない。


サトコN.Y.へ武者修行!

2006-08-03 00:00:32 | コラムなこむら返し
Satoko_simokita_5 E.G.P.P.のわれらがディーバ(歌姫)マツイサトコは昨日8月2日からN.Y.に武者修行の旅に出発した。N.Y.でもオープンマイク荒らしおよびストリート・ライブを敢行するらしい!
 ひとまわりもふたまわりも大きくなって帰って来てね!(もっとも、もう身長は伸びないだろうけど)

 出発の前日、つまり8月1日にもサトコの出演するライブがあり、久しぶりに下北沢へ行った。ライブ会場は自主レーベルもつくっている「Mona Records」のカフェコーナーだ。駅を降りて探してみたら、「幻游舎」という古書店はまだやっていて、亭主は石のようにはりついて石像になったみたいだった。若者向きのオシャレな店にはさまれてひっそりと店はあって、そこだけ時間が止まっていた。
 なぜ、この古書店をとりわけボクが気にするかといえば、70年代この店は詩や文学の同人誌をおいてくれる奇特な古書店のひとつだったからだ。下北沢は街並はたいして昔と変わらないが、店自体は様変わりしている。庶民的な商店街の街並の中に、若者相手のファッショナブルな衣料や古着や、帽子屋さんがひしめき飲食店がこれでもかというくらいにある。
 ボクが知っている頃は、本多劇場もなにもなく、そうそう神戸へ引っ越した「あしゅん」というカリーとインド音楽のライブの店などがあった。

 さて、「Mona Records」へ着いてみるとPARAさんが、座敷きのような板敷きのコーナー(そこはステージ前である)に陣取っていた。あとからおもとさんも駆け付ける。知っているひとはそれくらいで、あとはサトコの知り合い友人のようだ。
 この日のサトコはいつもにまして可愛くみえる。ヘアバンドのように頭に巻いたスカーフが初々しい。
 歌った曲は次のようなセットだった。
 1.二回目 2.lesswaitress 3.Say my Name 4.Panties on Fire 5.Naked if I want to 6.Blind 7.Unite Tonight

 ボクが初めて聴いた曲は、1、3、5、6だった。5のカバー曲が今回注目だったが、「もしあなたが望むなら裸になって……」て、いったい何の事なんだろう? 昔はやったストリーキングでもするのだろうか?
 サトコはこのところライブに燃えているが、課題はたくさんあることを感じさせた。
 ライブとていわばショーであって、持ち時間をいっぱいに使って自分を表現し、観客を楽しませなければいけないだろう。
 (1)ギター1本でやるのならもっとギターを練習する事。(2)MCももっとリラックスしてお客さんと打ち解けるようにやること。すこし笑わせるくらいのゆとりが欲しい。4は実話と言うのが説得力があって受ける。あのようなMCを得意にすること。(3)全体にああ、たっぷり聴いたなぁという満足感を観客が味わえるように努力する。

 今回の渡米は、交友もあるでしょうが、武者修行と考え得意の英語を駆使して、シンガーとしての自分を見つめ直してきて欲しい。ボク、そしてE.G.P.P.の連中はキミのことを応援しているよ!



間違いだらけの地下文化講義

2006-08-01 00:01:21 | アングラな場所/アングラなひと
 「東京大学80年代地下文化論講義」という本がある。今日、書店でペラペラ見ていて、間違いを発見した。東大で講義をした講師と言うのが遊園地再生事業団を主宰する宮沢章夫だったから、余計残念なのだが、文献資料のみで知らぬ事を描くとこういうことになるという自戒をこめて指摘しておく事にする。

 まず、なぜ宮沢章夫だと残念なのかということを先に言っておかねばならない。ボクのHP「電脳・風月堂」を立ち上げて間もない頃(1997年に当初ジィオシティーズに立ち上げた)、宮沢章夫も「遊園地再生事業団」のサイトを立ち上げていて、ボクのサイトを面白いとほめちぎってくれ「おすすめサイト」にリンクしてくれていた。この頃は、まだインターネット上には何万ページビューくらいの情報量しかない今日から見れば、牧歌的な時代で、リンクをはってあることが、はってあるほうのコンテンツの一環と思い込んでベタぼめする宮沢フアンがいたりする素朴な時代だった(およそ9年ほど前)。つまり、この素朴なこの宮沢ファンは「電脳・風月堂」さえも「遊園地再生事業団」のコンテンツだと信じて疑わなかったらしい。

 さて、「60年代の地下文化」という前史、歴史の部分で、東大で講義した宮沢章夫は、いまや新宿の知られざる裏面史でもなんでもなくなってしまった「ビレッジ・バンガード」のネタで間違いをしでかしてしまった。これを最初吹聴したのはビートたけしだ。昼にボーイとしてバイトをやっていたその遅番(夜)を、逃走途中の永山則夫がバイトをしていたと喋りまくったのだ。たけしが喋りまくりだしたのは1998年ころからだ。
 しかし、本当のソースは足立正生の「風景映画」だ。その封印された映画は永山則夫をテーマとしたものだった。たけしはこの映画「略称・連続射殺魔」(1969年)をみて自分もバイトをしていたジャズ喫茶のことを思い出したのだろう。
 宮沢章夫は、60年代地下文化はこのようなジャズ喫茶で醸造されたと言いたかったのだろう。それ自体は間違いでも何でもない。ただ、「ビレッジ・バンガード」と「ジャズ・ヴィレ」をゴッチャにして、この店に中上健次も通ったと講義したらしい。おおきな間違いである。この書物は白夜書房で編集したいわば講義録であるらしい。もしかしたら菊地成孔の「東京大学のアルバート・アイラー」のヒットにあやかろうという下心もあったのかもしれない。「ビレッジ・バンガード」と「ジャズ・ヴィレ」そして、もう一軒「ヴィレッジ・ゲート」は同経営である。現在は、その跡地はそれぞれソープランド、ファッション・マッサージなどの風俗店になっている。

 もうひとりいる。こちら平岡正明はもっといただけない。最近、「昭和」「ジャズ喫茶」「列伝」とか「伝説」というキーワードでやたらと本を書きまくっている平岡は、そのせいか正確度が散漫になっている。
 平岡は「この店(ジャズ・ヴィレ)で永山がバイトをしていたと知ったのは、だいぶ後だ」と『昭和ジャズ喫茶伝説』(2005年)で、書いてしまった。記憶が錯綜して来てしまったらしい。
 それに、平岡は先の足立正生の映画「略称・連続射殺魔」にも関わっていたはずなのだから、余計モウロクしている!

 しかし、永山則夫にふさわしい場所は、まことに「ジャズ・ヴィレッジ」の方であった。今さらながら、そう思い逮捕直前の68年12月から69年4月まで新宿で永山則夫と袖振りあったかも知れない可能性をボクは考え込んでしまった(永山則夫はその間、逮捕直前まで新宿などでバイトをし、歌舞伎町周辺に潜伏していたのだった)。