風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

満開のサクラの木の下、花見をする

2008-03-31 23:04:26 | トリビアな日々
Hanami08_kunitati_5 陽気にさそわれて29日(土)に花見に行った。娘を連れて、午前中に持ち寄り惣菜をチャッチャと作って(カジキマグロの唐揚げ)、国立のアリが呼びかけた花見の宴に合流した。
 結果として翌日曜日は肌寒く、雨になったから満開のサクラの木の下で宴をひらくには土曜日は格好の天気であり、青空だった。
 都心では開花宣言が出されてから、わずか5日で満開となったが、多摩地区でも1日遅れくらいで20度近くの日が続いたせいで、みるみるうちに花は満開の様子となり、見ごろとなった。大学通りでのアリの花見も1週間の前倒しになったくらいだ。そぞろ歩くひと、桜の下で宴をはるひとなどで、ごったがえしていた。
 それでも、上野や井之頭公園と違うなごやかな雰囲気は、大学通り沿いの桜並木のせいなのか?

 陽も傾いてからみなでもう少し駅よりの「地球屋」の宴の方に移動した。ここは、なんと100名近い大宴会が繰り広げられ、にぎやかだ。ここにたどりついて日本酒を飲んだあたりから、ボクは酔っぱらってしまった。記憶が曖昧になっている。
 最後は幼い娘に連れて帰られたような有り様で、頼りにならない親父だとまた思われたことであろう。いやはや、スミマセン。

(写真4)こじんまりと楽しい花見の宴でした。アリ、ありがとう!



4/4 E.G.P.P.100STEP81/アンドロギュヌスの涙

2008-03-29 00:05:15 | イベント告知/予告/INFO
1969gayboy_watanabe 次回のE.G.P.P.の開催日はいみじくも4月4日(金)です。先回そのことを告げるとだれかが、「オカマの日じゃん!」と言いました。全然意識してなかったボクはしばし呆然としてしてしまいました。そう、雛の節句と端午の節句にはさまれた4月4日は何の日にもなっていません。それで、その日を女の子の日(雛祭り)と、男の子の日(端午の節句)にはさまれたその日を「オカマの日」にしちゃえというジョークが新宿二丁目あたりから発生していることは知っておりました。
 とは言え、それをおめおめ鵜呑みにする訳にはいけません。そんな営業妨害はしてはいけません(笑)。むしろ、ボクはこの日をトランスジェンダーや性同一性障害に苦しむ人たちの解放の日にしては? と思いました。その上で、クィーアや同性しか愛せないひとたちのそのセクシュアリティを解き放つ日になればと考えました。

 神話や物語の文脈ならば両性具有者をたたえる日になればいいではありませんか。そう、少女マンガで言うところの「BL」です。腐女子の間では、その文脈は「愛」の常識らしいのです。これは、かって「少年愛」とか、「稚児趣味」とか言われたもののようです。性(セクシュアリティ)もそのボーダーが曖昧になってきているのかもしれません。

 ボク自身も幾人も巡り会いましたが、タイにはうつくしきレディ・ボーイと呼ばれる男の子がいます。そこでは、レディ・ボーイのワールドコンテストが開催され、美が競われています。インドでは、ヒジュラと呼ばれるハリジャンよりも差別される半陰陽の人たちがいます。ヒジュラの存在はアニムスとアニマのように人間と言う存在が、片方の性にとらわれていることの哀しみのようなものさえ感じさせます。実は、ひとりひとりの中に両性の要素はあるのではないかと……。

 世界が渾沌に満ちているのに、性(セクシュアリティ)だけが、男女の二分法でわかたれること自体がおかしいのかもしれません。ジェンダーで「らしさ」で獲得した性を単純に自分の性(セクシュアリティ)だとわたしたちは考えているだけなのかも知れません。

 混乱に満ちて、この日美しき(?)マリーさん(のんべさんのキャラクターです)をゲストに迎えて開催します。どうなるのか、ボクにも分かりません(笑)。

●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step81
テーマ:「アンドロギュヌス(両性具有者)の涙」
2008年4月4日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、bambi(トーク)、ココナツ、マツイサトコ(以上うた)ほか……エントリーしてくれたあなた!
(ゲスト)マリーさん(のんべ)
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

(写真)「渡辺克巳写真展1965-2005」(ワタリウム美術館4月20日まで開催中)より。「ゲイボーイ1969年」。



ナショナル・トラストという抵抗/高尾山圏央道は必要なのか?

2008-03-27 00:00:56 | コラムなこむら返し
Takao_trast_mov 沖縄北部やんばるの森で行われている暴挙は、ひとえに高江だけの問題ではないと思う。この、東京でも同じようなことが行われているのだ。

 東京の西部に位置する高尾山は、江戸時代から続く山岳信仰の霊峰でもあり、現在でも参拝客が引きもきらず、さらには相模湖が裏にひかえているため格好のピクニックコースとして都民の憩いの山である。その山に圏央道というトンネルが建設中で、無惨な自然破壊が進行中である。

 ボクも最近まで知らなかったのだが、その高尾山の豊かな自然を守るために「ケンジュウの会」や「むささび党」という市民団体がつくられ、この5年あまり裏高尾のナショナルトラストに取り組んでいた。
 それが、いよいよ圏央道建設のための土地収用法にひっかかって(期限は25日だった)いつ収用作業がはじまるかわからない状況らしい。それで、2月にツリーハウスのような座り込み用デッキをつくり、そこを和居和居(わいわい)テラスと名付けて落語やトークや果てはミュージシャンのステージとして、楽しくワイワイと「すわっていいとも~工事だよ!全員集合」という悲愴感には無縁の座り込み運動を続行している。

 このような記事が23日の朝日新聞都民版に載っており、それで状況を知ったが、この記事自体のソースも市民のための市民インターネット新聞と銘打ったJanJan Newsからの転載だったようだ。
 この運動が、オオタカの生息圏を守れといった主旨で闘われていたいわゆる「高尾山天狗裁判」とどのような関係があるものか、ないものか現在のところ未確認だが、その運動スタイルが多くの若者の支援を受けているようである。

 4月3日(木)には阿佐ヶ谷Loft Aで、トークとライブの集いが持たれる予定らしい。「高尾山に穴があく!?~高尾山圏央道建設計画について考えよう~」という名である(19:30スタート。前売1,500円/当日1,800円)。

(写真)市民インターネット新聞JanJanNewsより転載。掲載記事も参照させていただきました。



ゆんたく高江/やんばるの森にヘリパッドはいらない!

2008-03-26 00:01:27 | コラムなこむら返し
Yuntaku_ai 沖縄本島北部には「やんばるの森」と呼ばれる稀少生物が棲息するサンゴ礁にも負けない宝の森がある。ここだけにしか棲息していないヤンバルクイナやノグチゲラなどの稀少生物が棲んでいるのだ。つい最近も絶滅したと思われていたオキナワトゲネズミの棲息が「やんばるの森」で確認され、この森がいかに貴重な自然遺産であるかと言うことが再確認されたばかりだった。これらの種はすべて天然記念物に指定されたものだ。その稀少さもあって「やんばるの森」は世界自然遺産候補になっている。

 その貴重な森に日米政府は普天間基地の返還に代替するものとして辺野古(本島の北端/ジュゴンが棲息している海である)沖へ、基地を建設しさらに北部訓練場を半分にする代わりにヘリパッド(軍事用大型ヘリコプターのヘリポート)の建設を策謀している。いや、昨年から資材搬入やフェンスの設置などその準備は着々と進められ、人口140名余の地元東村高江の反対決議は歯牙にもかけられずにヘリパッド建設は進んでいる。
 この地には1957年に接収された北部訓練場があり、その規模は嘉手納基地の4倍あまり、7,900ヘクタールもあり、ここでベトナム戦争時には対ベトコン戦闘訓練などのジャングル掃討作戦や対ゲリラ戦闘訓練、サバイバル訓練等が行われており、将来的には自衛隊も共同使用し、訓練に参加したり、共同訓練をすることが日米で合意されている。

 さて、このような地でヤンバルクイナやノグチゲラなどの稀少生物のサバイバル(種の保存)に対して米軍や日本政府はどのような配慮をすると言うのだろうか?
 まして、その地でパイナップルを生産して平和にささやかに生きてきた東村高江の人々の平穏な暮らしと静寂をどのように保証すると言うのだろう?
 厳に深夜にまで及ぶ軍事用大型ヘリの離着陸訓練で夜の睡眠を妨害し、子どもの夜泣きの原因になっている。

 この問題を地元だけの問題にしないため、昨年「『ヘリパッドいらない』住民の会」が結成され、署名活動や議員立法をつくる方向で全国的なものにしようという活動がはじまり、「住民の会」による24時間座り込みが現在敢行されている。

 23日(日)JR中央線中野駅北口広場で行われた「ゆんたく高江」は、このようなやんばるの高江の問題をはるか離れた東京でゆんたく(おしゃべり)しようという企画のもとで行われた。いいだしっぺで一番がんばったのはサッちゃんだろうが、昨年10月に「反戦と抵抗のフェスタ」で一テーマとして取り上げられ、ビラをもらって気になっていたボクは今回のフリー・コンサート形式の集いで多くの事を教えられた。
 そう、ライブを楽しみながら「やんばるの森」で、今日も行われているきなくさい蛮行に、先日の米兵による少女暴行事件とまったく同じ構図を嗅ぎ分けた(「静かにしておいて欲しい」と少女の側が告訴を取り下げるという幕引きも戦後すぐの構造ではないかと思えた。沖縄や多くの女性たちは、耐えて泣いた。自分独りの胸に埋葬して……。興味本位に走るジャーナリズムも悪いのだが)。もう、随分と沖縄には行っていないが、あのテーゲーなユルイ時間の流れる島ではまだ戦争は終わってはいないし、米軍の占領下と同じような事態が今日も続いているのだ!

 爆音にさらされ、爆撃によってあやまって殺されるかもしれない稀少種の鳥や、絶滅危惧種の小動物の姿はアメリカの傘の下で、卑屈にへりくだって生きているボクらの姿と重なって見えないか?!

(関連ブログ)
やんばる東村/高江の現状→http://takae.ti-da.net/
ゆんたく高江実行委員会→http://helipad-verybad.org/

(写真3)そのいでたちからとてもヤマトンチューには見えなかった。南アイさんの三線島唄ライブ。


A・C・クラーク頌歌(2)/「幼年期の終わり」とアセンション

2008-03-23 00:40:32 | コラムなこむら返し
Arthurcclarkephoto そして、その「宇宙(軌道)エレベーター」のアイディアを展開した作品が、『楽園の泉』(1979年。翻訳2006早川文庫SF)である。ところで、この作品はスリランカに行ったことがある人間にはすぐ分かるし、描写される情景もすぐどこか分かるのだが、シーギリアロックの上に王城を作った狂王カッシャパの伝説が下敷きになっている(ただ設定上は赤道直下に変えられているが、実際のスリランカはモルジブより北、北緯5°から10°の間にある)。ボクは個人的にこの作品を読んでこんなにも小乗仏教(テラワーダ仏教)を愛したA・C・クラークにあらためて親近感を持ったほどである。

 『楽園の泉』には、SF作家A・C・クラークが辿り着いた宗教観や、「神」認識についても書かれてあるが、話を戻そう(アーサーはなによりも仏教に親しみを感じていたようである)。
 そう、ボクがA・C・クラークへの頌歌として書きたいことのテーマはもうひとつ。昨日書いた「ファースト・コンタクト」、「地球最期の男(ラスト・マン)」、「人類の新しい階梯」テーマという提示の中の三番目。ある意味では、今日かってないほどのブームを起こしつつあるスピリチャルの世界の中で言われている「アセンション」という概念も、A・C・クラークが『幼年期の終わり』で提示したテーマがルーツになっているのだろうというボク自身の認識である。
 いま、言われているところの「アセンション」、人類の新しい階梯(ステップ)と言う言い回しは、おそらくマヤ暦というかマヤの神話そのものの中にある。それが、「ポポル・ヴフ」である。
 「ポポル・ヴフ」というマヤの創世神話を記録した文書の中で、人類はこれまでも何回かのアセンションを繰り返してきたことが描かれている。

 しかし、その認識も多くの自称ヒーラーやスピリチャル・ムーブメントに関わる方も御存知ない。創世神話「ポポル・ヴフ」そして、現代では『幼年期の終わり』という作品こそが人類の次の成長、ネクスト・ステップというテーマがはじめて提示されたSF作品だと言うことだ。
 スピリチャル・ムーブメントの中で言われているマヤ暦の終焉する2012年12月23日とは、まさに人類が「幼年期」を終わらせる「アセンション」のことではないかというのが、その主張である。多くの若者たちをとらえているらしいスピリチャルな言説は、それがフィクションとか仮設とか実証も、論証もできる言葉ではなく、論証も反証も拒否するようないわば予言書とか、聖書(言葉の真の意味でのティストメント)のことばで綴られている。そして、無意識のうちにA・C・クラークの『幼年期の終わり』や『2001年宇宙の旅』に提示されたビジョンを引用しているのだ。

 スピリチャル・ムーブメントの中で無意識のように(そしてあたかも当然のように)引用されている言説に、これまでのSF作品(小説、マンガ、アニメ、ゲームなどを通じての)がもたらした影響は多大である。たとえば、「ハイヤーセルフ」や、「銀河帝国」、ある人物がチャネリングとして語り出す人物は宇宙人であったりする!

 今日まで、わたしたちがSF映画や、SF小説から受け取ったメッセージやイメージは無意識のレベルへ埋め込まれ、新しい高次の「精神体」を生み出したかのようである。
 ある世代の集合的無意識となって、スピリチャル・メッセージはいともたやすく若者たちをマインド・コントロールする新宗教の腐植土となっているに違いない。

 とはいえ、ボク自身はネイティブ・アメリカンの人々が言うグレート・スピリットや先住民族のひとびとが森や森羅万象に感じている「精霊」までも否定している訳ではない。ボクたちが、実はたましいのレベルでもまだまだ「幼年期」にあることを感じるような言説が横行し、あたかも第何次のアセンションにいると言った精神世界の階級社会が語られていることに危惧を表明したかっただけである。先住民のひとびとや、マヤやインカの神話を勝手に換骨奪胎して都合のよい言説を振り回すのはやめようよと言いたいのである。

(写真)晩年のアーサー・C・クラーク。晩年アーサーはポリオの後遺症のために車椅子生活を余儀なくされていた。それでも少年のような好奇心を保ち続けたと言う。


A・C・クラーク頌歌(1)/「幼年期の終わり」と宇宙エレベーター

2008-03-22 12:26:02 | コラムなこむら返し
A_space_odyssey2001 アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』(創元社版は『地球幼年期の終り』。原題『CHILDHOOD'S END』)は、最近光文社から古典新訳文庫として出版されたから、また新しい読者を獲得するだろう。
 この作品は1953年に書かれたが、米ソがその冷戦構造の対立を人工衛星の打ち上げ競走で競い合うそんな宇宙時代の到来する前史に、いわば思弁的な小説(SFは、アーサー・C・クラークの登場によって現代批評を含んだ思弁的な実験小説のおもむきを持ち得たものとなった)として、その後もたくさんのエピゴーネンを生み出す「ファースト・コンタクト」、「地球最期の男(ラスト・マン)」そして「人類の新しい階梯」といったテーマのさきがけとなった。
 言うまでもなくそれらのテーマは、S・キューブリック監督と組んで一世を風靡した『2001年宇宙の旅』にも通底しているテーマであることは、あの映画史上に燦然と残る作品を御覧になった方にはお分かりのことだろう。サルからの進化になんらかの役割をもたらした謎の物体モラリス、意識の変容をもたらす宇宙船の場面、白っぽい部屋と赤ん坊の顔の提示など、など。

 アーサー・C・クラークの思弁の筆は、「人類と宗教」、「神とは何か?」といったテーマにまで及び、アーサー・C・クラークはキリスト教圏では住みにくかったのではあるまいかという余計な詮索さえ呼び覚ますほどだ。事実、アーサーはダイビング熱が嵩じてという名目でインド洋に浮かぶ小乗仏教の国セイロン(スリランカ)の海岸沿いのバンガローを手に入れ、いちはやくパラボラアンテナを立てて、通信衛星を使って世界中の情報を得ていた。ダイビングはアーサーに健康・長寿とともに、生涯においてかなわなかった無重力状態の体験に近いものを与えただろう(事実、ダイビングは宇宙飛行士の無重力状態の訓練に取り入れられている)。
 また、静止衛星のアイディアはアーサー・C・クラークのものでもあり、アーサーはそのアイディアを「定位置衛星」もしくは「同期通信衛星」という名でその先進的な論文と共に考え続けていたようだ(その最も早い論文は「サイエンス」誌1966年掲載論文らしい)。
 そして、ここからアーサー・C・クラークが導き出したアイディアが「天のケーブルカー」であり「宇宙エレベーター」であった。

 20日朝、たまたま点けたTVで、福田首相がISS(国際宇宙ステーション)に滞在中の土井隆雄宇宙飛行士と交信している場面を偶然見た。このところその政治指導力に黄信号が灯りつつある福田首相は、なにを脳裏に描いていたのか知らぬが(まさか、「銀河鉄道999」では、ないだろう)土井さんに呼びかけたものだ。

 「そのうちステーションまで、新幹線で行ける日が来るかも知れませんよ」!

 ボクが驚いたのは、我が国の首相が何げに言った言葉が、前日に死去したアーサー・C・クラークのアイディアと偶然シンクロしていたことだ。福田さんは気がつかなかったかも知れないし、アーサーのこともさほど御存知なかったかもしれない。しかし、その何気ない発言こそは、いまだ人類の到達したテクノロジーになってはいないが、きっと将来的には到達するだろう宇宙船のいらない「宇宙エレベーター」のアイディアそのものではなかったのか。そう、A・C・クラークというSFの巨匠が描いたアイディアだ。20世紀のテクノロジーの限界に規定されながら(パラダイムの限界である)、その人は想像力とヴィジョンでまるで未来を透視した。まるで、予言者が未来のことを語るように、パラダイムを超えるビジョンをその作品に込めたのだった。
(つづく)

(写真)映画『2001年宇宙の旅』より。



アーサー・C・クラーク/楽園に死す

2008-03-20 01:18:41 | コラムなこむら返し
A_c_clarke_sf60 押しも押されもしないSFの大家アーサー・C・クラークが19日に亡くなった。心肺機能不全で90歳の天寿を全うした。晩年を移住して過ごしたスリランカ(セイロン)のコロンボ市内の病院で発作をおこしたらしい。
 サイエンス・フィクションでゆうに70年におよぶキャリアのアーサーは、つとにスタンリー・キューブリックと作り上げた『2001年宇宙の旅』で有名だが(アーサーは原作・脚本を担当した)、日本SFの黎明期がボク自身の青少年期だったということもあって、ボクには懐かしくそして鮮烈な印象を残した作家だった(1960年に早川書房から「SFマガジン」が創刊された)。
 ボクは、レイ・ブラッドベリィの大ファンであることはこれまでも公言してきた。だが、それに負けぬ程、A・C・クラークの初期作品が好きである。そして、それらの作品を60年代のテクノロジーをパラダイムにした時代に読めて幸せだったと考えるものだ。
 SFと銘打たれてもブラッドベリィの場合は、ほとんどファンタジィか、幻想小説と呼んでも構わないものだが、A・C・クラークの作品は違う。時代の科学の見識や、パラダイムに一定規定されるような作品を書いている。そして、そうでありながらアーサーは時代時代のパラダイムを打ち破るような想像力とヴィジョンを大胆に打ち出して読者をうならせてきたものだ。
 ボクは、そのような作品をハヤカワ・ポケット・ブックスのシリーズで読めたことを歓びとしてずっと記憶にとどめるだろう。

 それまでは「貸本」だった。どうにか、本を小遣いで買えるようになるとボクは、ハヤカワSFシリーズの今で言えば新書サイズの本を買っては、まず新刊書のインクの匂いをクンクンと嗅ぐのだった。
 ハヤカワ・ポケット・ブックスの小口は赤く着色してあった。ミステリーは黄色。SFは赤。それに、新書サイズの本なのに、ハヤカワのそのシリーズには、なんと函がついてくるのだ。函入りの新書判だったのだ。

 だから、当然のようにA・C・クラークの偏愛の作品は、このシリーズのものになるし、現実にそれらはアーサー・C・クラークの代表作と言っていいものではないだろうか?

 そして、とりわけ何と言えばいいのか人類のアドレッサンスをアナロジーさせてくれる哀しみに彩られたような『幼年期の終り』、『都市と星』をボクはとりわけ愛読したのだった。

 ボク自身のアドレッサンス期をその作品で豊かに彩ってくれたA・C・クラーク! ありがとう!
 あなたの好きだったスリランカの青い海に抱かれて、永久の眠りが安らかでありますように!

 (ここだけの話ですが、ボクはコロンボへ行った時、あなたの住まいを探し出そうとしたことがありました。どこか、自分の十代の時に好きだったものは、ボクをミーハーにさせてしまうのです。)

(写真)ハヤカワSFシリーズより。左から『海底牧場』、『火星の砂』、『幼年期の終り』『都市と星』。



アナイス・ニンの官能日記(3)

2008-03-19 01:24:16 | コラムなこむら返し
Anais_nin_1932 そのような「ノンと言えないおんな」を癒すべき立場だった精神分析医も、つぎつぎとアナイス・ニンという美しきクライアントと男女の関係にはまってゆく。現在だったら、スキャンダルの対象にならざるをえないそんな深い関係に、なんとフロイド派のオットー・ランク博士やルネ・アランディ博士も「男」としての欲望にあがらうことが出来なくなってしまったらしいのだ。

 アナイス・ニンの『日記』は、あばきたてる。もはや死者となったひとたちの現世での、権威も地位も取り払って裸になってみれば所詮は「オス」でしかなかった、彼らを支配した欲望を、肉欲を!
 あたかも、死者が場で釣り下げられた屠畜の肉の様に、その肉(体)を復活させて肉欲に溺れている姿ばかりが浮かび上がる。美しき美貌を誇ったアナイスが、そのたぐいまれなる知性と共に、肉体の交接の歓びに思わず声を上げ、それだけではなくそのおんなとしての歓びを逐一、「日記」にその才能のすべてを駆使して記録したように……。

 アナイス・ニンの残した『日記』は、60年あまりの時を経て(アメリカでの無削除版の刊行は90年代になってからだった)、死者たちが(アナイスをも含めて)それぞれの「生(性)」を持っていた頃に、ということはとりも直さず、彼らがヴィヴィッドに生きていた頃の、肉(体)の歓びをまざまざと赤裸々に『日記』という記録文学の中で回復し、生きていたことの刻印を不格好であれ残していると言うことに他ならない。
 アナニス・ニンが生涯を通して書き続けたたぐいまれなる「日記文学」、アナイスのたぐいまれなる官能的な「告白文学」と言っていいものだろうか?

 アナイス・ニンは意図せずその『日記』を赤裸々に綴ることで、「生(性)」の曼陀羅を編み上げた。破廉恥な性の求道者でしかなかったヘンリー・ミラーさえ高みにあげたように、アナイスは文学や文化が男主導の家父長制の偏向した社会の中で、先駆的な「性の解放」をいちはやくなしとげた功績で称えられるべき作家かもしれない。

 アナイス・ニンの前で、なんておとこたちは矮小な存在だろう!
 だからこそなのか、アナイスの『日記』はアメリカのフェミニズムの高まりの中で、多大に評価されたと言う。
 さもありなん。でありながら、アナイスの「おんな」性の突出は、フェミニズム理論家を悩ませたらしい。アナイスはおとこの手によって、おとこの愛撫と挿入によって切り開かれた自らの官能に素直に反応する。それらは、アナイスの知性さえも変えてしまう。
 D・H・ロレンスの研究書をデビュー作とするアナイス・ニンは、そもそも観念の中で作り上げたセックスによって、「世界」を了解したようである。
 わたしはおんな! おんなの肉体とおんなの歓びをもって、世界を切り開き、官能の表現において文学したおんな。

 「これをありのまま日記に書こう。真実は下劣極まりない言葉で描写されるべきだから」(アナイス・ニン『日記(B)』p166)

 歓喜に溺れながらも、アナイス・ニンは冷徹な観察者であり続ける。アナイスには彼女が言うところの「小さなダイナマイト」たる『日記』があったから……。アナイス自身を少女時代から慰めてくれ、その中に秘密をすべて打ち明けてきた『日記』という「書くこと」があったからだった。

(おわり)

(写真)1932年ころのアナイス・ニン。



アナイス・ニンの官能日記(2)

2008-03-18 01:37:55 | コラムなこむら返し
Anais_incest_ アナイス、アナイスとアナイス・ニンのことに夢中になっていたボクは(ヘンリー・ミラーへの関心からアナイス・ニンへ関心がいつしかシフトしてしまったのだ)書店でまた驚くような大部な書物を見つけてしまった。
 『ヘンリー&ジューン』からつづくアナイスの無削除版『日記』の第2部とでも言うべきものがつい最近、翻訳出版されていたからである。

 『インセスト/アナイス・ニンの愛の日記【無削除版】1932~34』(彩流社/2008.02。以下『日記(B)』)がその書物だ。訳者は『ヘンリー&ジューン』の杉崎和子。杉崎はアナイス・ニン財団の理事にも名を連ねており、矢川澄子亡き後、これほどの翻訳者としての適任者は現在他に見つけることはできないだろう(矢川澄子については後日書くつもり)。
 ところで、なぜ『インセスト』なのだろうか? インセスト(INCEST)とは「近親相姦」という意味である。そう、アナイスはまるで神話時代か、古代のおおらかな時代のような真の「ファザー・ファッカー」を生きたらしいのである。
 アナイスは同日に三人の男と性交渉を持つといった奔放な側面(それは、とりもなおさずヘンリー・ミラーによって目覚めさせられたアナイスのおんなの官能だった)と同時に、幼い頃に自分たち家族を捨てた父??彼は高名なピアニストだった??とも、実父からの誘惑のままに寝た。
 その頃の赤裸々な告白が、今回の無削除版の『日記(B)』のテーマであるのだが(もちろん、ヘンリー・ミラーやアントナン・アルトーへの言及は多数ある)、そうであってなぜアナイスに『近親相姦の家』のような一見抽象的で難解な小説が存在したのかの理由が解けてくる。

 アナイスは自分の心の中にトラウマとして残る父の残像に長い間悩まされていたらしい。『日記』そのものも、そもそもは自分たち家族を捨てた父への関心を引き止め、関心を向けさせるために11歳のアナイスが書き始め、以来、アナイスはその「日記帳」を小さなバスケットに入れて情事の際にも、如何なる時にも持ち歩き、70歳を過ぎるまで書き続けたらしいのである。
 アナイスはそのだれよりも心を許した「日記」を、時には愛人たちの間を渡り歩く時にも、欠かさず持ち歩き「日記」を「小さなダイナマイト」とも呼んでいたらしい。
 そう、男たちの間を渡り歩きながら決して娼婦ではなく、むしろその思いやり、気配りにおいて大男たちや、自分の精神分析医の母のような存在になってしまったらしいアナイスは、きっと「拒否」できなかったおんなだったのだろう。

(つづく)



Spring has come !

2008-03-17 00:01:46 | コラムなこむら返し
 春めいた日射しが続いた。いや、春を越えて初夏のような気温でもあった(実際は4月下旬の気候だったとのこと)。街をTシャツ姿で歩くひとも見かけたくらいだ。コートどころか、着込んだセーターなども脱ぎたいくらいだった。
 土日と関東地方でも20度を上回ったところが多く、一気に街は咲いた花に彩られたよう。桜の固いツボミも心無しか、霞がかかったように見えた。すこし芽吹いてきたのだろう。
 春が訪れたのだ。春になったのだ。

 なのに、チベットでは30名以上の僧侶、市民が抗議デモに突っ込んだ中国側の装甲車、治安軍の発砲によって殺されたらしい(ダラムサラ・チベット亡命政府15日発表)。確定した情報は渾沌としているが、ビルマのケースと同じように殺生の禁じられた素手の僧侶たちへ向かって、近代装備の中国治安部隊は発砲したようである。
 青海鉄道の開通によってラサまで、直行で行けるようになった現在、チベットを目指す旅行者は市内の立ち入りを禁じられ、すでにラサ市内にいるものは身の危険を感じながらゲストハウスに身を潜めているようである。
 いまは、中国の自治区となっているチベットは、そもそもチベット仏教の厚い信仰とダライラマへ対する帰依に支えられた軍隊ももたない祈りと信仰の平和国家だった。そこへ、1951年毛沢東率いる人民中国軍が進攻したのである。中国はチベット人や僧侶の抗議、抵抗を武力で制圧し、若きダライラマ法王はヒマラヤを越えて、1959年インドへの亡命を余儀なくされた。同時にチベット人難民はインドをはじめ、近隣諸国へ散らばった。それから、50年近くの時の移り変わりの中で、中国は華人の移住をはじめとして、チベットの中国化政策をすすめてきた。
 ラサにおけるホテルの建築ラッシュや、青海チベット鉄道の敷設に見られるように、それはチベットを観光資源として開発し搾取しようと言う植民地化政策と同じものだったであろう。
 今回、デモ抗議行動は1959年の3月10日に起こった「ラサ暴動」(多数の僧侶が殺された)と同じ日から始まったらしい。「チベット問題」は終わってはいない。先日、上海でみずからのコンサート・ライブで「チベット解放!」を叫んだビョークの勇気ある行動は、あたかも今回の抗議行動と弾圧・惨殺を予見していたかのようではないか!

※いくつかの確認作業なしにアップします。事実誤認がある箇所は教示ください。