風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

『パンチ』に紹介された!

2007-01-31 00:17:36 | コラムなこむら返し
 『平凡パンチ』に紹介された! え!そんな雑誌はとっくにないって? ああ、そうでした。思わず「パンチ」といったら「平凡」と言ってしまいます。でも、考えてみれば会社の名前に「平凡」なんてつけるなんて「非凡」な発想です。平凡出版(現在のマガジンハウス)から1964年に創刊された『平凡パンチ』は、ボクらオトコのコの流行から、下半身まで(笑)に多大な影響を与えたが、今回は『団塊パンチ』(飛鳥新社)のお話でした。
 すぐ潰れるかと思っていた季刊誌(年4回刊)『団塊パンチ』もなかなか健闘して(失礼!)、現在4号めが書店にならんでいる。表紙写真はなつかしのアグネス・ラムである(アグネス・ラムは1970年代中期のグラビア・アイドル)。
 この雑誌の233p「これは便利!50代からのネットライフ」(笑!)にわが『電脳・風月堂』と文中でブログ『風雅遁走!』が紹介された。
 それも昨日書いたSNSサイト「mixi」よりも上に(ってなんの意味もないが)紹介されている。ぜひ、書店で手にとって眺めてみて下さい。

 ボク個人としてはこの雑誌の連載の中で木村英輝氏の「MOJO WEST」のウラ話しがなんといっても面白いです。


「AERA」と「mixi」はなし

2007-01-30 00:42:43 | コラムなこむら返し
 今日は書こうと思うネタがない。やらなければと思っていることは、スロー・スターターなボクはなかなかスタートラインにつけない(要するに優柔不断なんだろう)。
 夢の事でも書こうと思っていたら、すっかり忘れてしまった。
 それで、これ幸いと本日発売の週刊誌「AERA」の表紙を「mixi」の笠原サンが飾っているので、それをネタにしようと思う。ここでも、おもわず笠原クンとか、ケンジとか一面識もないのに書きそうになるほど、「mixi」の社長さんは庶民的な、親しみ深いマスクをしている。要するに、コンビニ弁当をいつも食べているそこらにいるバイトの兄ちゃんのようなマスクである。そして、本人もいつもコンビニ弁当ですとどこかに書いていた。
 花の「ナナロク世代」(1976年前後に出生した現在30歳あたりの若い起業家世代のこと)というITアドベンチャー企業の起業家のいまやトップを走りながら、どこか地味なトップランナーである。それが、身の丈を知った謙虚さなら、好感をもつ。
 ところで、ウカツにも知らなかったのだが、2005年秋にボクが「mixi」に招待をうけて入った時、社名は「イー・マーキュリー」という名前でまだ有限会社だったと記憶する。それが、たしかはいった時点で30万くらいの登録会員数で、翌年(2006年)春に100万を突破、そして9月にマザーズに上場したのであった。そして、これが知らなかったことなんだが、昨年2月に社名も「mixi」になっていたのだった。きっと、株式会社にこの時点でなったのであろう。

 日本のSNSの代表格のような「mixi」だが、SNS (ソーシャル・ネットワーク・サービスもしくはサイト)のアイディアは笠原さんのものではないという。東大在学中に起業した「イー・マーキュリー」で働いていたインドネシア留学生がアメリカで流行しているものとしてSNSの存在を教えたのだと言う。その留学生は現在「mixi」のCTOだそうだ。

 ところで、「AERA」の発行元の朝日新聞社はSNSやmixiのことをよく記事でとりあげる。ということは、朝日新聞の記者も、またTV会社のディレクターなども個人の資格でmixiにはいっているに違いない。どこか、記事のソースや取材の情報集めという意識も働くだろうから、かれらのmixi日記は職業的になるのだろうか?
 虚実をとりまぜたmixi日記やブログが、個人の情報集めや、消費動向調査に使われているということや、そこで大きな力を発揮しているGoogleの検索機能を使った世界支配が囁かれる。
 インターネットの裏側で進行している生き馬の眼を抜く熾烈な競争など一般利用者はどれほど意識しているだろう。
 昨年末で「mixi」の会員数は660万人だそうだ。雪だるまを作るよりさらにスピードアップしている!

 ボクのmixiアドレスはここ→http://mixi.jp/show_friend.pl?id=342193


ワレ路上で発見セリ!/自転車掛け

2007-01-28 01:15:12 | コラムなこむら返し
Upcycle_oh 久しぶりに路上で発見しました! これは、ユリ・ゲラー以来の椿事です!
 というか、ユリ・ゲラーを御存知でしょうか? 1970年代なかばから80年代にかけて主に日本TVを舞台に「超能力」と称する超マジックで大金持ちになったユダヤ人です(現在イギリスで大邸宅に住んでいるらしい)。そのパフォーマンスはニューエイジ時代の花形となり、たしかにボクなども見ていて戦慄を覚えました。人間心理の機微をついたその見事な奇術は、彼自身が自らを欺いていたのではないかと思うほど堂に入ったものでした。
 ユリの存在なくて、オウム真理教も、またサイババもこれほど若者の中でブームにならなかったのではないかと思えるほどです。このテーマは別の機会に書きたいと思います。

 で、昨夜、路上で発見したものはバイト帰りのボクの疲れを吹き飛ばすものでした!
 いや、自転車が宙に、宙に浮いていたのです……いや、そうではありません。ものごとは正確に記述せねばなりません。大袈裟に表現する事は、面白いですが、世の中の為にはなりません(笑)。
 自転車が、な、なんと、電信柱にひっかかっていたのです。そうか、こんな駐車の仕方もあったんだぁ! と、思わず目から目ヤニが落ちました……イヤ、鱗(うろこ)が落ちました。って、オイラはサカナか? た、たしかに、サカナ座いや魚座ではあるのだが……。

 しかし、これは超能力ではないとしたら、なんて「超怪力」の持ち主なのでしょう?
 電柱に、自転車をひっかける(それも、電柱のハシゴの最初のクイは高さが2メートル以上あると思います)には、自転車を(サイクリング車仕様のようです)バランスをとりながらひっかけなければなりません。
 もっとも、ひとを驚かすためにやったのなら(ユリのように人間の心理のウラをかくなら)サイクリング車を屋根に積み込める仕様の車からやることは可能です。おそらく、そのような手段で自転車をひっかけたのち車は立ち去ったのでしょう。
 でも、唯一わからないのは、なんのためにこんなことをしたのか? です。
 しかし、記事のいいネタになりました。感心しました。いままで、電柱のクイに自転車を駐輪させようなんてことは考えたこともなかったからです(笑)。おそらく、駐輪代は電力会社に払うことになるのでしょうか?

 で、この自転車の持ち主はどうやってここから降ろすのでしょうか?

<ワレ路上デ発見セリ!(16)/自転車掛け>



2/2 E.G.P.P.100/Step67/「満月・満足・短足・結節・節分に接吻!/オニに優しい天の邪鬼」

2007-01-26 23:59:54 | イベント告知/予告/INFO
●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step67
テーマ:「満月・満足・短足・結節・節分に接吻!/オニに優しい天の邪鬼」
A KISS to ONI at FullMoon Night
2007年2月2日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、マツイサトコ(うた)、イエス北村(コメディ・予定)、小堀イチエン(ボウズパンク・予定)……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 この日は、節分の前日でフルムーン。そして立春の前々日。節の分かれ目ゆえに「節分」と言うこの風習はもともと宮中行事で「追儺(ついな)」という中国から渡来した行事でした。四つ目の方相氏が、儀式の中で厄払いをする。この厄に見立てられたのが「鬼」で、ゆえに「追儺」を「鬼やらい」とも言います。
 そして厄払いをする「方相氏(ほうそうし)」はシャーマンにルーツがあり、鬼は蓬莱(ほうらい)から来た死霊であり、また死者の国との境である山中に住む山人(たとえばサンカや木地師)たちのことではないかとも考えられています。
 せめてひと夜は、オニに優しくしてあげましょう。鬼は隠(おぬ)、訳あって山中や、離島や、辺境に隠れ住むこころ優しいひとびとかもしれません。オニに優しくなんて、それだけで充分に天の邪鬼?!

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定は関係ありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

E.G.P.P.100 MIXI内コミュアドレス→http://mixi.jp/view_community.pl?id=2307


樹木葬百年の計/初の運営報告会(2)

2007-01-24 22:47:10 | コラムなこむら返し
Mam_tree_07jan_2 21日におこなわれた「報告会」は、もしかしたら住職の心意気だけがカラ回りして終わる集いになってしまう可能性があったかもしれない。先日の「首都圏ネットワーク」(NHK総合の関東地区のみで放映)では、コメンテーターが「樹木葬」を「永代供養墓」の一種と位置付けており、ボクはその見取り図に違和感をもっていた。言い方は悪いが、「永代供養墓」は何十万かの「供養料」を払って、お骨を預けてしまえば、お寺が毎年の供養もかねた面倒を半永久的に責任をもってやってくれるものと一般には考えられているだろうからだ。身寄りのない方にはありがたい制度だが、縁のうすい血縁者にも便利な制度かもしれない。
 しかし、この考え方は、樹木葬にはふさわしくないと思う。なぜなら「樹木葬」では故人は、選ばれた樹木の栄養分となって樹木を墓標とし、樹木に姿を変えて育っていく樹の「生命」だからである。死者が育ち行く若木に姿を変え、あたかも輪廻するかのように「死んでも花実を咲かす」ものとなってゆく。そして、そこから将来的にいまは霊園である(行政の認可としても)樹木葬地が、何十年か先に豊かな森(里山の雑木林)に育ってゆくだろうと言う美しい夢を見ることができる(2007年の時点では「いまだ夢」だ。しかし、樹木は驚くべき早さで成長している)。

 正直に言ってこれまで住職と幾度も対話しながら、それがあくまでも「寺の事業」でしかないゆえに「里山ビジョン」に対して一縷の懐疑をいだいていたことを告白しておこう。なぜなら「天徳寺」は、住職のものでもありながら地域の檀家や、総代さんのものでもあるからだ。外からの霊園(樹木葬地)利用登録会員でしかない樹木葬会員には、寺の運営や事業に口出せるなんの権利もない。
 ボクは、方向が違って来たら住職と言えども異義をとなえようと思っていた。しかし、それはボクの勝手な危惧で天徳寺のまだ若い住職は(と言っても40代なかば)、ボクなどの危惧を吹き飛ばすくらい確固としたビジョンを持っていた!
 それが、今回の「運営報告会」で冒頭から語られた「天徳寺樹木葬百年の計/里山再生100年事業」である。これまで、寺の事業としても暫定的だった「樹木葬」が、正式に認められた。事業としての3年目から「樹木葬」は、寺の事業経費よりも大きくなったと言う。そして、発足後わずか4年にして、100年間はこの事業を里山再生計画としても持続できるメドがたったと報告されたのである。
 素晴らしいことだった。それだけではない、ボクが母を埋葬した2004年にはわずか15組であった「樹木葬」が、現在会員数217になっている。これは先駆的な寺である岩手の「祥雲寺」の1,000人に近い会員数にくらべれば小さいものだが、小さな忘れたような山寺だった「天徳寺」を有名にするとともに、寺の財源を豊かにし、さらに「百年の計」を計画できるまでにしたのである。
 このような「成功」は、今後、「樹木葬」に取り組む寺や霊園を増やしていくとともに「樹木葬」に市民権をあたえるだろう。この間、朝日、読売、毎日の地方版、読売全国版、NHK「首都圏ネットワーク」、「AERA」に「天徳寺」の樹木葬、桜葬が取り上げられ、NHKの「御近所の底力」などに「樹木葬」が取り上げられ、マスコミの後押しが大きかったかもしれない。

 今後、「天徳寺」の「樹木葬」は、現在の樹木葬地の裏手にある杉山を徐々にかってそうであったような里山の植生に変えてゆく事業にとりかかるという。また、そのような資金繰りのメドもたったのだという。

 「里山再生」! ボクは、母の亡骸を媒介にしてこの寺に関わりながら、ボク自身もこの地に眠ろうと思っている。それは、また住職も「樹木葬」で眠るべく用地を確保しているように、全く本気の計画なのである。
 きっと、今後この寺へのかかわりは、山仕事のボランティアへなっていくかもしれない。力や体力のある方ではないボクにはきついだろうが、ボクはこうして母が眠る「樹木葬地」が森になっていくのを見守るとともに、裏山全体がコモンズ(入会地)として共有されていただろうかっての「自然」の回復という事業にこころ躍らせているのである。



樹木葬百年の計/初の運営報告会(1)

2007-01-23 23:59:32 | コラムなこむら返し
Mam_tree_07jan 土曜日から泊りがけで、千葉大原の母が眠る樹木葬の寺「天徳寺」へ行く。21日に「天徳寺」としては、始めての運営報告会が、樹木葬会員に対して行われたからだ。ボクはこのところすっかりボランティア・スタッフとして裏方を手伝っている関係で家族ともども前日から寺へ泊まる。もうすっかり家族ぐるみの寺とのおつきあいである。樹木葬会員としておつきあいをはじめたお二方も一緒である。

 この日は、どのような報告がされるのかを一般会員は理解していなかった。それは、ボクなどにとっても同じであり、またこの報告会をみずから企画した住職自体にもどのような展開でやればいいのか、よくイメージされていなかったようである。なにしろ初の運営報告会なのだ。

 しかし、今回の「運営報告会」そして前日の雑談で、住職は宗教家としても申し分のないくらい正直で、率直なひとだとあらためて感心した。いや、こういう言い方ができるのも大変失礼なのだが(住職が年下だからなのだけれども)、住職は「樹木葬」をこころから自らの僧侶としての使命と考えているのだ。
 つらつら考えてみるに、わずか3年前、樹木葬地を探していたボクに(当時は先駆的な寺としての岩手県の「祥雲寺」しか行われていなかった)まだ認可申請中だった住職は、あれこれ相談をもちかけられた。広報、パンフ、考え方などなど……。たくさんの対話が住職とのあいだで積み重ねられ、それはボクのこのブログの「樹木葬」のエントリー記事に反映していると思う。

 2003年12月に亡くなった母は、その埋葬先を探すと言う過程で、ボク自身をも成長させてくれた。ボクにとっても、当初「樹木葬」は、イメージでしかなかった。日本人の死生観にフィットする葬制方ではないのか位のイメージしかなかったのである。
 実のところ、まぁ、誰しもそうだろうが父方の「家」としての墓は生れ故郷にある。勘当息子同然だった父はのたれ死にしたのち、そこに入っている。「家」を潰した人間が最後のお骨として入っている。墓石を開け、そこに骨壷を納めたのはほかならぬその息子であるボクである。
 しかし、離縁家庭の(そしてその原因をつくったのは父であった)母子であるボクらは、「家=姓」としての名前も変わり、その故郷の墓に入れなくなった。そして、それはボクにとっても良かった。故郷としての長崎はいまも愛するが、あの墓所は陰うつで入る気持ちはさらさらない。
 ボクはそれをマンガ作品にしたが(未発表)、墓所のある寺には小泉八雲が採集した松江の幽霊話と同じ「怪談」があり(今も夏になると影絵で見せているようである)、それはボクが生まれてはじめて知った「怪談」だったのだ。

 「天徳寺」の本堂にはもう、幾度も泊まったが裏の墓所、樹木葬地において迷える霊とか、そんな幽魂の存在を感じたことは一度とてない。それは、真東に向いたほぼ山の中腹にある「天徳寺」のロケーションのせいもあるかもしれない。残念ながら海は見えないのだが、車で10分ほど走った先にサーファーのメッカでもある海岸があり、本堂の真正面から昇る陽は、希望しか感じられないくらい明るく、その大平洋をへだてた直線には「花のサンフランシスコ」があるのだ(笑)。




MIXI 14,000アクセスめは

2007-01-20 01:12:19 | トリビアな日々
 フーゲツの JUNさん、こんにちは。

 mixiからのお知らせです。フーゲツの JUN さんのページ全体のアクセス数が14000アクセスを超えました。記念すべき14000アクセス目の訪問者はjksk さんでした!

 以下のURLより jksk さんのプロフィールを見ることができます。
 これをきっかけにアクセスしてみてはいかがですか。
 プロフィールを見る→http://mixi.jp/show_friend.pl?id=2915448

 jkskが、まんまと14,000のキリ番を踏んだらしい。踏むのはいいことです。牛のフンでも踏めば、インドではウンがつくといいます(ウソ)。思わず、(ウソ)と書いて、その字が(ウン)とそっくりなので、ウソのようにビックリした、ウン!
 jkskは、まだリアルには二度しか会っていないのだが、なんだか共通の友人が何人かいるようである。それに、jkskもポエトリー・イベントを相模大野あたりで主宰し(正確には引き継いだらしい)、神奈川にすむ知り合いたちはそっちへ流れているらしいと言う不確かな情報がある(笑)。
 がんばってください。それからたまにはボクも呼んで下さい。

 ブログ『風雅遁走!』自体としては、2007.01.19現在77,852に達しています。



ねだめカンタービレ

2007-01-19 01:28:49 | コラムなこむら返し
 正月明け以来、ひさしぶりになにもしない休日を過ごした。普段の睡眠時間は短い。バイトはシフト制で、朝番になるとボクの一番不得意とする早起きを要請される。睡眠時間4時間に満たない生活が5日も続くとさすがに、根をあげたくなってくる。そんな時に、こうして休みが入ると昏々と眠りこけている。どうやら、ボクは寝溜めが効くようである。
 それで、こんなタイトルを思いついたのだが、これは若いひとにしか通じないパロディである。二ノ宮知子原作の人気少女マンガが最近、TVドラマ化された。「のだめカンタービレ」という。もっとも、オーケストラの楽団員が主人公のマンガという以外はボクは知らない。
 夕方に起きて、メシを食って、延々と60年代の音楽を聞いていた。「Mamas & Papas」や「Jeffrson Airplane」やジャニスなどを……。曲によっては、まさしくタイムマシンのように40年前の空気を感じさせ、呼び起こすものがある。
 カンタービレとは音楽用語である。楽譜に「歌いあげるように(美しく)」という指示として「Cantabile」とイタリア語で書かれる。
 さすれば、ボクの「寝溜め」も歌いあげるように(美しく)眠れただろうか?

 ともかくひさしぶりにスッキリして、またこうして夜更かしをしている(笑)。


そして神戸に 頭をたれる/追悼と復興

2007-01-17 23:58:08 | コラムなこむら返し
 あの日から12年の時が経ったのだと言う。干支ならひとめぐりしたことになる。

 1995年1月17日未明、阪神地方を震度7の大地震が襲った。家屋は倒壊し、高速道路は傾き、長田、鷹取など住宅密集地から火の手があがり、焼け野原となった。
 復興後、いまはおのずと足が遠のいてしまったが、ボクも長田に現地事務所を震災後すぐ構えたNGOのプレハブに泊まって仮設住宅に住む一人暮らしの老人たちへの訪問や、炊き出しや、夏祭りや、識字教室のお手伝いやらボランティアなるものをやりに行った。まわりは年の離れた学生たちで、バカもやる学生たちがNGOに登録して、夏休みやら、休暇を利用してボランティアへ駆け付けるその心意気に感動していた。現地スタッフはもちろんだが、神戸に住みついてしまったものもいて、そのフットワークの軽さと同時に根性のすわりかたに若者たちを見直したものだった。

 それに、そのおかげで出会いもあった。歌うたいのおーまきちまきとは、東京ツアーの時会ったのだったが、神戸で再会し、姫路の炊き出し応援ライブにも一緒に行った。当時、おーまきの音楽上のサポートをやっていた野村あき(ギター、マンドセロ)は、鷹取教会の一角にある「FMワイワイ」のアルバイト・ディレクターだった。野村の担当する音楽番組はユニークなもので、奄美や沖縄の民謡をとりあげていた。そう、奄美民謡が脚光をあびる5、6年も前だ。才覚のある人間は早すぎて、いつも流行に乗り遅れ(笑)二番手に来たものに旨い汁を吸われてしまう。
 ボクが連れ合いとともに「FMワイワイ」を訪ねた時、小さなプレハブ2階家のスタジオの目の前に坐って奄美民謡のウタシャー(唄い手)の第一人者、西和美さんがゲストの番組がオンエアされていた。ボクらは本物の奄美の島唄を間近かに聞いた。まるで、目の前にいるボクらのために歌われたかのような奄美民謡をその第一人者の唄でナマで聞いてボクはしびれた。もうひとりの天才的なウタシャー元ちとせが登場するはるか前である。
 西さんのことは昨年11月の朝日新聞の「患者を生きる」という連載コラムで近況を知った。西さんの脳卒中での闘病事情が掲載されていて驚いたのだ。ボクは西さんに約束した西さんの奄美の民謡酒場というか、飲み屋さんに飲みに行くと言う約束をまだ果たしていないからである。西さんは唄を通じてリハビリに専念し、唄もそして奄美の郷土料理にも腕をふるうようになれたという。早く約束を果たしに行かなければならない。

 神戸は、悲惨なだけではなかった。この国の「エゴイズムと守銭奴」の代名詞だと思われ、ボクらもそう思っていた日本人観(「エコノミック・アニマル」)を「ボランティア」という切り口で変転させた。その中心にいたのは多く若者たちだったということは、記憶しておいた方がいい。

 阪神淡路大震災は、ボランティア元年ともなったが、それはこの国そのものが、神戸によって救われていく過程でもあっただろう。ボクの知っている限りの学生ボランティアはいわば、自分探しをしていた。神戸へ自己救済を求めるかのように来ていた。それは、青年期の健全なアイディンティティの求め方だったと思う。アジアへ放浪の旅に出るのと同じノリだったと思う。

 ボランティアはしかし、いま、公教育の中に巧みに組み込まれようとしている。社会的倫理や道徳、ひいては愛国教育のテクニックとして利用されてしまうかも知れない。同じ奉仕行為や運動をしても、それを自発的な人間性の形成、成長としてやるのと国家や公教育のためにやるのでは180度意味が違う!
 某カルト宗教の信者が自分たちの教団の奉仕活動をすることをボランティアと呼んでいる。この「意味の差異」は、どうしようもない!
  公教育でやるボランティアが同じような自己満足に陥らないようにお願いしたい。


40年目のランデブー/ジョンに会いにいったアリス

2007-01-16 01:18:02 | コラムなこむら返し
Trane_with_wife_1 またもや、時間はシンクロした。2007年と1967年が共鳴して音を鳴らした!

 1967年にはふたりの時代を象徴する人物が、相次いで亡くなっている。そのふたりは「時代のヒーロー」とも言えるひとたちだった。
 7月17日。ジョン・コルトレーンが急死した。肝硬変だった。
 もうひとりは、おそらく10月9日。ボリビア山中でゲリラ戦を展開していたが、政府軍とCIAの罠に陥り、とらえられ翌日処刑されたチェ・ゲバラの死。ゲバラの死が伝えられたのはずっとあとで、翌年『ゲバラ日記』が朝日新聞社など各社から相次いで翻訳刊行され、ブームになった。「革命のイコン」としてゲバラはその肉体が滅んでから甦ったといえる。

 さて、7月17日のコルトレーンの訃報を聞いたボクらはどんなに嘆き悲しんだろう! コルトレーンはボクらにとっては、ジャズの革命をになう若き英雄だったから、その志しなかばの死をコルトレーンをリクエストすることによって葬送した。以来、80年代くらいまで7月17日は一日中コルトレーンをかける店が多かった(その習慣を頑強に守っているジャズ喫茶がいまも高田馬場にある)。のちにその日は、コルトレーンの命日だけでなく、フリー・ジャズの命日のようにボクには聞こえてくるように思えるほど、時代も、ジャズというジャンルも変わっていく。

 そして、昨日ボクは、コルトレーン・カルテットのピアニストとして夫唱婦随していたコルトレーンの妻でもあるアリス・コルトレーンの訃報にふれてしまった。アリスは12日、ロサンゼルスで呼吸不全で亡くなった。69歳だった。
 アリスはジョン・コルトレーンの残した遺産を受け継ぎ発展させようとしたミュージシャンだ。こんなにも律儀で献身的なつれあいのいたコルトレーンも幸せだったろう。『啓示』などの作品は、コルトレーンが「神」になっていく過程さえも推測させたものだ(「ジョン・コルトレーン教会」が存在することを昨年だかの記事で指摘した)。
 アリスは40年目にジョンのもとへ旅立った。天国で40年目のランデブーを楽しんでいることだろう。それとも、ふたたびカルテットを編成して天国のクラブ『ヘブンズ・ジャズ・クラブ』でライブを始めただろうか?
 ジョン・コルトレーンの晩年の音楽は至上の神を称え、至上の愛を称えることだった。それは、いかにも天国のクラブにふさわしい音楽じゃないか!
 ジョンとアリス! 神の愛に包まれていつまでもお幸せに!



本日、「ヒューマン・ビー・イン」が開催された!

2007-01-14 23:47:20 | アングラな場所/アングラなひと
Poster_victor_moscoso 本日、1月14日アメリカ西海岸のサンフランシスコ市のなかほどにあるゴールデン・ゲートパークにて、「ヒューマン・ビー・イン」という集いが開催されおおよそ2万5千の「自由な部族民」が思い思いの格好で集まった。幸い冬日にしては暖かい日射しに恵まれ、集会は平和裡に進行し、ペンタゴンへ対しそして世界に向かって「愛の世代(ラブ・ジェレネーション)」の宣言を発したのだ。戦争と争いに満ちた世界は、あたらしい世界の部族たちの出現によって劇的に変わるはずである。

 「サンフランシスコ・オラクル」紙によれば、それはこのような呼び掛けで始まった。

 「バークレイの新左翼の活動家たちと、ヒッピーコミューン、サンフランシスコの目覚めた世代そしてカルフォルニア中の平和を愛する世代が、この「Human Be-Inのための部族民の集会」で、出会う時、策略によってこれまで分断されていた行動と愛との美しい結合がなされるだろう。
 (略)
 だれもがゆるやかな衣裳と、あざやかな毛布、すずやかな音の鈴、部族民をあらわす旗、シンバル、太鼓、数珠、羽毛や花々をもって集うように呼び掛けられている。
 いま、このアメリカという恐怖と数々の暴力がまかり通る国家の内側において、若い世代からの歓びと抱擁の愛の提案がされようとしている。アンダーグラウンドな運動のなかで新しい人間のむすびつきとともに生きることの共同化が模索されている。体制をそして世界を変えることが、人間の人間性にむすびついた慈悲と愛のルネッサンスであるように。「Human Be-In」は歓びであり、新しい世界のはじまりに立ち会うことである。」(「プシュケ・ジャーナル」1号掲載を基に意訳)

(って、40年前の1967年1月14日のことなんですけどね……。)



シルク・ド・空中散歩

2007-01-13 00:28:19 | アート・文化
Cirque_3 史上最少の数の青年たちが、晴れて二十歳を迎えた「成人の日」の8日、映画と展覧会を見るために渋谷へでてきたボクは、道玄坂で開催されていた「ヘブン・アーティスト in 渋谷」に遭遇する。熱心に全部を見てまわった訳ではないから、たいしたことは言えないが、「109」の目の前でやぐらのようなものを組み立ててショーをしていた「シルク・バロック」のまわりはひときわ大きな輪ができていてボクもその素晴らしい技に目を奪われてしまった。フランスの話題が続いていたから、このテーマはちょうどいいだろう。「シルク・バロック」はフランス人男女の二人組みだったから……。

 駅の方からそのヤグラが目に入り、そのてっぺんに人影をみとめた時、ノーテンキなボクは「やぁ、歩行者天国にして、「出初め式」をやってるぞ!」と、とんでもない誤解をしていた。出初め式は「はしご」で、江戸の火消しの格好でやるものだろう! それに、消防車は1台も見えなかったのだ。
 近付いてそれが、ヤグラを組んでのショーだとわかるのだが、それにしてもそのカップルの技は東京都の大道芸人認定制度(ヘンなの!)である「ヘブン・アーティスト」という割には、「技」がずば抜けていた。
 それもそのはずだった。彼らは、「シルク・バロック(Cirque Baroque)」というヌーベル・シルクのメンバーだったのだ。いわば、プロなのである。「シルク」というのは円形競技場という原義からできたフランス語の「サーカス」のことである。
 やぐらからぶら下がるロープを使用するだけのいたってシンプルな道具立てなのに、その「技」は半端ではない。見ている方をハラハラさせ、空中で自在にその身をひるがえさせる身軽さは、ちゃんと計算され日々訓練されたものだから美しくもある。「人間ヨーヨー(糸巻き)」(勝手に名付けました(笑))のように、自分の身体にロープを巻付けて一番高いところからクルクルと回転して地上近くで、見事に停止する。観衆からどよめきが起こる。

 ヌーベル・シルクというのはシルク・ド・ソレイユとか、毎年のように日本公演をうっている有名なサーカス団があるから御存知の方も多いだろう。
 照明・演出・衣裳そのどれもが、あのむかしの哀しげでうらさびしくもある「旅回りサーカス」(ボクはそこが好きですが……)とはイメージが一新されるファンタジックで、ファッショナブルな新しいサーカス表現である。サーカスの個々人の「技」を統合し、総合芸術のような域にまで高めている。いや、そうまで言わなくとも素晴らしいエンターティメントになっているのだ。

 そのような、空中散歩の数々、プロの「技」堪能しました。すみません、タダ見です。でも、後援に道玄坂の商店街組合が入っているのでそこそこギャラは支払われたと思います。帽子やザル(ってフランスにはないよね(笑))は、回ってきませんでしたから……。

 (写真3)いたってシンプルな道具立てですが、プロのサーカスの「技」を見せてくれました。この仕掛け道具は手持ちでは持ってこれません(笑)。でも、他の大道芸人が可哀想な感じです。



壁面のアフォリズム(箴言)

2007-01-10 02:29:45 | まぼろしの街/ゆめの街
Vsl17 8日に見た映画の余韻もあって、今日(9日)一日「フランス5月革命」のことを考えていた。いや、当時ボクがパリにいた訳ではないから(笑)、正確には同時代の日本のボクらに「5月革命」は、どういう影響を与えただろうということを反すうしていたにすぎないが……。

 そう1968年のあの頃、「5月革命」の衝撃は学生運動をになっていた活動家のみか、一般市民、労働者にもインパクトを与えたものだ。まず、デモで左右の人と手をつないで大通り一杯に広がるフランスデモというのがはやった。
 東京の学生街であった神田周辺が、「神田カルチェ・ラタン」と呼ばれた。お茶の水から水道橋あたりの街頭に催涙ガスの匂いがたなびき、はがされた投石用の敷石がゴロゴロ転がっていた。
 現在の学生は知るまいが、郊外(八王子など)に校舎が移転した大学は、マンモス化もあったが、基本的には各大学の自治会、党派の分断を謀ったものだと言うことだ。皇居も眼と鼻の先の神田駿河台近辺に都市ゲリラの根拠地みたいな校舎があっては困ると言う治安維持上の配慮も大きかったろう。「神田カルチェ・ラタン」は治安当局の目の上のタンコブであり、公安を刺激した。今という時間から考えても、この頃まで学生にも、また大学側にもあった学問の自治とか、研究の自立性とかいったものは「幻想」であったという「象牙の塔」(権威)幻想があっけなく崩れ去ってしまう。1970年代以降、大学の研究や学問は自律性を失い企業や、産業の発展の為であると言う「下請け」に堕してしまうのだ。

 それから、これがボクにとっては重要な着目点なのだが、それまでの党派のスロ-ガン的な落書きが、「5月革命」以降、突然哲学的というか、詩的になった。まるで、美しいアフォリズム(箴言)のようなことばが学内、バリケード内の壁に落書きされて行くのだ。

 「5月革命」で、世界的に有名になった落書き(壁面のアフォリズム)には、こんなものがあった。

 「敷石をはがすと そこは砂丘だった」
 「想像力が権力を奪う!」
 「禁止することを禁止する。自由はひとつの禁止から始まる。他者の自由を犯すことの禁止である」
 「異義を申し立てる。だが、まずオマンコすることが先だ」
 「ブルジョワはすべての人間を堕落させる快楽にひたっている」
 「愛すれば愛するほど革命をしたくなり、革命をすればするほど愛したくなる」
 「政治こそは街頭で行われる!」
 「Make LOVE,Not WAR !」
 「自由は与えられるものではない。それは奪取されるのだ」


 などなど。その警句のような、箴言のような壁の落書きは日本にも伝えられ、「文革」真っ盛りの人民中国の壁新聞の存在とともにボクらに、自立した表現、自律したジャーナリズムとは何かを考えさせた。
 それからである。学内、バリケード内そしてジャズ喫茶内の壁と言う壁の落書きが、一挙に哲学的、箴言的なアフォリズムの名言で彩られるようになったのは!

 昨年暮れだったか、「夜露死苦詩集」というタイトルだったと思うが、暴走族やチーマーのキャッチコピーのような「ひと言」を集めた「詩集」(?)が出版された。狙いは良かった。しかし、中世いやポンペイの昔から、実は民衆的な表現や、変革の意志は「落書き」の中にあった。
 その「夜露死苦詩集」にも取り上げられず、無視されたものとはこれらの変革の意志をもった革命的な(笑)「落書き」だった。それは、おそらく世代の落差なのだろうが、残念なことだった。

 とはいえ、ボクはトイレの下卑た欲望丸出しの「落書き」のことを言っているのではない。オマンコやファックすることの言葉がつかわれていたとしても、それは世界を変えるための意思表示として使われている。それこそ、深遠な箴言だった。
 フランスの1968年の5月革命は、ボクらに色々なことを教えてくれたのだ。

 「体制をファックしろ! ダマされるんじゃねぇ!」