風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ミーソン遺跡のヒンドゥ寺院

2013-01-05 22:30:23 | てなもんや/また旅日誌
Myson_dec_2012
ミーソン遺跡はチャンパ王国の寺院など宗教施設の集まる聖地として栄えたらしい。実際行ってみるとそのほとんどは崩れかかっているが、ヒンドゥ教の特徴的な寺院様式は見て取れる。それに、リンガとヨニがかろうじて残っている。
しかし、世界遺産としての壮大な期待を持って行くと失望は禁じ得ないかもしれない。ベトナム戦争時にここは解放軍(いわゆるベトコン)の拠点として使われたため米軍による空爆跡の穴が残り、遺跡もかなり破壊されたようだ。
それでも、安南(ベトナム)にまで進出していたヒンドゥ教(シヴァ派)の盛衰を感慨とともに感じる事はできたのだった。


ホイアンはファンタステックな古都だった!

2013-01-04 19:59:53 | てなもんや/また旅日誌
Hoian_2012何を目的にベトナムへ行ったかと言うと、世界遺産登録のホイアンと近くのミーソン遺跡を娘と見に行くことが目的でした。娘は台湾に連れて行ったことがあるのですが、なにしろまだ零歳だったので不満たらたらで、今回の娘の冬休みを利用した旅行を計画したのです。
ベトナム中部にあるホイアンは、かって日本人街もあったという海のシルクロードの中継地だった古都です。しっとりとした素敵な場所でした。夜はランタンが点されて、ファンタステックでもありました。
(写真:ホイアンの夕刻。トゥボン川に灯されたランタンが映える。)



Happy New Year Vietnam 2013 !

2013-01-04 18:32:38 | てなもんや/また旅日誌
2012lastday_saigon
遅ればせながら、明けましておめでとうございます!
年越しを異国の地で過ごすのは二度目でした。以前は南インドで年末と新年を迎えたのですが、それももう20年も昔の事になります。ベトナムは色々な意味で若い国でした。かってのサイゴン、現在のホーチミン市で大晦日を迎えましたが、町中に繰り出して通りを占拠したバイクの数に驚きました。まさしく年越しの瞬間には(日本より2時間遅れ)通りを埋め尽くしたバイクで身動きがとれなくなりその先のサイゴン川から一斉に花火が上がったのでした。
ベトナムはまさしく高度成長の爆発の寸前にあると感じました。行くなら今のうちでしょう。あの喧噪と排気ガスにやられて喉がガラガラです。
本年もよろしくお願い致します。



ホーボー、方々(ほうぼう)へ向かう(8)

2009-10-23 10:19:07 | てなもんや/また旅日誌
Ruins_hotel_1◎ホーボー、魴鮄(ほうぼう)を買って廃墟ホテルへ行くの巻

 屏風ヶ浦の上にはたくさんの風車が取り付けられていた。風力発電の風車だろう。屏風ヶ浦の上はどのような風景なのだろう? その先はどこへゆくのだろう?
 旅をする動機は<あくがれ>(あこがれの古語)かも知れない。いまだ見ていない土地を見てみたいと思い。失望の先に<あくがれ>が先行する。
 実際、車1台がやっと通れる農道まで走ってみたが、屏風の上は少し埃っぽい位の平凡な農地だった。ところどころに点在する風車がその平凡さをかき乱す。そして、その下には白亜紀の地層が眠っているのだ。

 漁港に立ち寄りながらも買えなかった魚を街道筋の魚屋さんを見つけて買うことが出来た。魴鮄(ほうぼう)の干物が安かった。ホーボーに魴鮄だ。出来すぎたくらいシャレになっている。マンボウでも良かったかもしれない。そしたら、膨(ふく)れたランボーくらいにはなれたかもしれないではないか。
 屏風ヶ浦の先は、飯岡燈台を経てその先は九十九里ヶ浜だった。飯岡には義経四天王のひとり片岡常春の居城「佐貫城」がかってあって、刑部岬という名を持つ。高さ60メートルの海の下に崩落して、いまは「佐貫」という地名のみが残る。そう言えば、犬岩のあたりは「犬若」と言う地名だった。「犬吠」もそうだが、歴史や伝説を反映した地名には、言うまでもなく<地霊(ゲニオス・ロキ)>が宿っている。土地(大地)の精霊のことだ。
 魚も手に入れ、旅の終わりが近づいてきたのかもしれない。

 そして、ボクはふとしたはずみで、廃墟となったホテルを見つけてしまった。車で乗り付けてことに及ぶというあれだ。中は比較的荒れてはいなかった。コンクリートをくり抜いてバスタブを剥ぎ取った跡には驚いたが、ベッドなどもそのまま残っている。艶(あで)やかな電動ベッドは動くことはなかったが、まだまだ綺麗だ。残留品であったケーブルTVの番組表から判断するに2007年まで営業していたようである。

 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

 と言う芭蕉の「奥の細道」の句を思い出してしまう。そう言えば、この句は平泉中尊寺を訪れた芭蕉が義経主従に思いを馳せて詠んだ句ということになっていた。
 そうか、<地霊(ゲニオス・ロキ)>とは、ひとびとが歴史に刻んだ<夢の跡>の呻き、叫び、怨念なのかもしれない。すると今回のボクのホーボーのような旅は、地霊を鎮魂する旅だったと言ってよく、そのすべてを貫く存在が、この土地の白亜紀の地層に眠るあのどこか銀河系を連想させる螺旋の形状をしたアンモナイトだったのかもしれない。アンモナイトが、その深い叡智でボクの耳元に囁いたことだったのかもしれない。
(完)

(写真)そのきらびやかな天井の鏡は、幾多の裸の睦言(むつごと)や絡み合いを映してきたに違いなく、まさしく派手であればあるだけ<夢の跡>を記憶しているだろう。



ホーボー、方々(ほうぼう)へ向かう(7)

2009-10-22 00:51:00 | てなもんや/また旅日誌
Tokawa_fish◎ホーボー、海のそばで、焼きソバを焼くの巻 

 渡海神社から犬吠の方へ戻るようにして外川漁港へ行く。鄙びた良い漁港だった。長崎から親戚を頼って熊本県宇土半島の先端の三角漁港の港に突き出た番小屋のようなところに1年ほど住んだ記憶がある。櫓で漕ぐ小舟やポンポン蒸気船を見ると懐かしい思いがこみあげてくるのは、そのような決して楽しくはなかった記憶のためなのだろう。まして、それは厳しい冬で九州とはいえ、さびれた漁村の冬場は寒かった。対岸のムシロ葺きの芝居小屋だったのか、映画館だったのか、ともかくも小屋掛けした建物から、その年デビューした島倉千代子の『この世の花』が毎日のように流れていた。あのファルセットに近い高音が、港中に殷々と響いて谺(こだま)していた(するとこの記憶は1955年ということになる。ボクは7歳、ボクより10歳年上の島倉千代子はこの時17歳。デビュー曲「この世の花」は、半年で200万枚を売り上げる驚異のヒット曲になり、続く「東京だよお母さん」も大ヒット。島倉千代子は日本コロンビアのドル箱スターになり、20歳で一戸建てを購入した)。

 だからそこが鄙びていればいるほど、漁村の風景は好きなのだ。とはいえ、ボクは釣りをする訳ではないし、それにボクが7歳だった頃に比べれば、漁法は格段に進歩しているに違いない。
 車を置いて防波堤をそぞろ歩いていたら、小さなハコフグと思われる魚とヒトデが打ち捨てられてあった(写真)。
 外川漁港に例の義経の愛犬若丸が石に化したという犬岩や、千騎の兵を率いて立て籠ったと言う千騎ヶ岩がある。とても千人の人馬が結集できるほどの大きさをもった岩ではない。
 そこから数分のところに日本の風景とは思えない銚子マリーナがあった。そこの海水浴場もまだ関東にこんなきれいな砂の海水浴場があったんだと感嘆するようなちょっと人工的くさい場所だった。
 対岸は日本のドーヴァーと言われる屏風ヶ浦の崖線が見渡せる絶好のスポットだが、背後にはどうしてこんな環境にと思えるような千葉科学大学のキャンパスがある。まるでリゾート地につくられたキャンパスのようである。
 ボクは、またまたそこでキャンプセットを取り出して、キャベツを切り、豚肉を入れて焼きソバを作り出す。湯を沸かしてコーヒーを入れたのは言うまでもない。朝に辿り着いた犬吠埼からまだ何キロも進んでいない。
(次回完結)

(写真)釣り人というものは本当に海や、魚を愛しているのだろうか? 小物や食せないものは平気で打ち捨てる感覚はいかなるものか?
(外川漁港防波堤にて)



ホーボー、方々(ほうぼう)へ向かう(6)

2009-10-21 00:28:21 | てなもんや/また旅日誌
Tokai_jinjya_1_2◎海のホーボー、フダラク渡海の巻

 そこの森にも古代を感じた。沖縄の御獄(うたき)のような森だと思ったほどに……。濃密な気配が漂っている。いまや、貴重な聖域ではないのか?
 それも道理だった。ここ渡海神社の境内の森は「渡海神社の極相林」として県指定の天然記念物になっているものらしい。高木(タブ、スダシイなど)と低木(アオキ、ヤブツバキ、ヤブニッケイ、マテバシイなどなど)に草やシダのたぐいまでが、一種の安定した群落と言うか、極限のバイオスフィアをかたちづくっていてそれを「極相林」と言う。
 ひとつの「極相林」が、かたちづくられるのに小動物の関与などを含めて最低でも300年ほどの時間が必要だという。概念としては、有史以来ひとの関与を受けていないものを指す「原始林」に次ぐ森の生態を言う。「極相林」も、そのままひとの関与を受けずにさらに何百年も経てば、原始林になる。
 渡海神社の由来は和銅2年まで遡るらしい。西暦で言えば709年、女帝元明天皇が支配し、元年には和同開珎が作られた。我が国最初の貨幣と言われている。

 これは外川をひらいたのが、紀州からの渡海民であるという言い伝え、ここら一帯の神社が外川浜に渡海して来たという由来からの想像なんだが、外川、銚子の地元のひとたちの先祖は紀州人なのではあるまいか?
 南紀出身の漂着民、もしくは海のホーボーの子孫なのではあるまいか?
 と言うのも南紀の海に生きるひとびとの間には、フダラク(補陀落)幻想、補陀落渡海という海の彼方の観音の地、竜宮へのあこがれがあって、修験道行者はもとより、漁民にもそのような転生(アセンション)幻想がゆきわたっていたらしいからである(那智には補陀落山寺という寺社がある)。
 補陀落渡海という信仰には、小さな小舟を棺桶のようにして流れのままに海の藻くずとなろうとも、観音の住む補陀落へ渡海したいという願望で、沖縄のニライカナイ幻想にも通じるものである。そして、その多くは海の藻くずとなって果てたか、運の良い者は黒潮に乗って島や房総半島や、銚子沖に辿り着いたものと思われる。彼らは言わば、マレビトとして常世(とこよ)から訪れたカミと同義となり歓待されただろう。

 海のホーボー(漂着民)は生命を賭した分だけ、辿り着いた異郷の地でカミに転生(アセンション)した。
 ボクはと言えば、まだ美味いサカナを求めてホーボー(彷徨)しているのである。
(つづく)

(写真)境内の「極相林」に囲まれた渡海神社社殿を見る。神秘的な森の気を感じた。



ホーボー、方々(ほうぼう)へ向かう(5)

2009-10-20 11:02:24 | てなもんや/また旅日誌
Like_kabuto◎オールナイト、なんもないとアンモナイトの巻

 このような文学碑を携帯メモで写し取ったりしていたら、なんだかんだと2時間以上の時をそこで過ごしていたらしい。そうそう、荒磯を見に下へ降りたら、犬吠埼の地層を解説した看板もあったのだった。そこに書かれていた犬吠の地層の説明が、昨日「地鎮祭」で詠んだ「アンモナイトの囁き」とシンクロしたのだ。

 「国指定天然記念物/犬吠埼の白亜紀浅海堆積物」
 (要約)燈台下周辺の砂岩は、中生代白亜紀の1億2000万年前に堆積して出来た地層と考えられ、一帯は浅い海だった痕跡が随所に見られる。また、この海に生息していたアンモナイトやトリゴニア(三角貝)の化石や、植物の化石が見られる。白亜紀の日本を知る上で貴重な場所です。

 これを読んだ時、アンモナイトのポエムを詠んだボクはアンモナイトの囁きに導かれて犬吠埼へ来たのか? と、本気で思いそうになった。磯に出て、崖を見上げると地層がくっきりと見えた。ただ、砂岩のためか崩れやすくあちこちに立ち入り禁止ゾーンがある。
 崩れた歩道の真下の岩肌には、波が刻み込んだレリーフがあることに気づく。その中に、まるで人間の手でカブトガニのレリーフでも彫ったのではないかと思わせるような模様が浮き上がった岩があった。一瞬、化石が浮き上がってきたのかと錯覚しそうな位見事なかたちをしていた(写真)。

 犬吠埼からあてなく車を走らせた。なるべく海岸線を走りたいものだと思っていた。「地球の丸く見える丘」とかいう有料の展望施設のところを過ぎて大きく左折しようというところにこんもりとした鎮守の森にいだかれたいい感じの神社を見つけた。そこが「渡海神社」だった。
(つづく)

(写真)こうして写真で見ても、もしかしたら化石だった? という疑問がわくほどの見事な波の造形だ。



ホーボー、方々(ほうぼう)へ向かう(4)

2009-10-19 13:12:18 | てなもんや/また旅日誌
Inubou_beach◎ホーボー、方々、犬吠(いぬぼう)の巻

 犬吠埼には太平洋の荒波が直接打ち寄せくだけ散る。朝ぼらけの光のもとで撮った海は、その古代の姿を垣間見せてくれるようにさえ感じる(写真)。「いぬぼうさき」という不思議な名前は、実は義経伝説に由来するらしい。兄頼朝の差し向けた追っ手から逃れるため、義経はこの岬の南側の外川(現在漁港)から舟に乗り奥州へ向かう。その際に、それまで供にしてきた愛犬若丸を置き去りにせざるを得なかった。若丸は主人を慕って七日七晩泣き続けて岩になる(犬岩)。その悲しげな遠吠えが岬まで届いたので犬吠埼と言う名になったのだそうだ。

 燈台のあたりはちょっとした公園になっている。そこで、キャンプ道具を取り出してモーニング・コーヒーとしゃれこんでいた。朝の海を眺めながら、愛用のマグカップで飲むコーヒーはまた特別だった。雨はとっくに上がり、水平線のあたりは明るみさえ差している。
 そこへ車で老夫婦のようなペアが乗り付けた。そして、車から掃除道具を降ろし始める。どうやら、公衆トイレの掃除夫さんたちだったらしい。そして、悠然とコーヒーを飲んでいるボクを見つめて「車で泊まれば宿賃もいらないしね」、「働きもせずにあちこち廻ってるんじゃろう」とあらぬ憶測でものを言っているのが聞こえてくる。車に泊まったのは事実だが、どうやらホーボー扱いされたらしい。車上浮浪者またはマイカーホームレスと思われたのであるらしい。そこで、この連載記事のタイトルを思いついたのだ。

 その公園のあたりには、三つの文学碑が建っていた。地球の丸みさえ感じる太平洋を背にしては、高浜虚子の句碑。

 「犬吠の/今宵の朧(おぼろ)/待つとせん」

 小高い丘のようなところにはふたつ。まず、尾張穂草(この方を知りませんでした)の歌。

 「わかれても故郷の海の/あいいろか目にあり秋よ/さびしくあるかな」

 もうひとつは、佐藤春夫の詩。

「ここに来て/をみなにならひ
 名も知らぬ草花をつむ
 みづからの影踏むわれは
 仰がねば/燈台の高きを知らず
 波のうねうね/ふる里のそれには如(し)かず
 ただ思ふ/荒磯に生(お)ひて
 松のいろ錆びて黝(くろ)きを
 わが心錆びて黝きを」

 ちなみに、この佐藤春夫の詩は「犬吠岬旅情のうた」というタイトルで、1911年(明治44年)、与謝野鉄幹・晶子ら新詩社の面々とともに犬吠埼を訪れた際、書いたスケッチ風の詩がもとになっている。この時、春夫は若干19歳だった(「佐藤春夫詩集」所収)。おおよそ、100年前のことだ。
 ここで、再び与謝野晶子とも結びついてしまった(与謝野晶子はE.G.P.P.の10月のテーマだったのだ)。
 春夫は、ボクも大好きなサンマの詩を書いている。
 「さんま苦いか塩っぱいか」と言うフレーズが後世の庶民まで残った「秋刀魚の歌」である。もっとも、春夫は無聊をかこつ身を嘆き、家族水入らずの団欒を懐かしみ涙しながらサンマを食べているのであるのだが……。ボクには甘く感じるサンマの腸(はらわた)が、春夫には苦く感じられたのか?
(つづく)

(写真)朝まだ明けきらぬ犬吠埼の荒磯。古代の海を感じさせた。



ホーボー、方々(ほうぼう)へ向かう(3)

2009-10-18 01:51:18 | てなもんや/また旅日誌
Kanto_kouenji (閑話休題)
 旅をするのは人間の特権なのではない。そもそも野生動物や、生物は旅をしているのであり、路上どころか野や森にあってあたりまえなのだ。営巣するものも、それは子育てのために一時的に定住するのであって、子どもたちが巣立てば、また旅に出る。
 今日は、旅をしてきた展覧会の話題を書いておこう。そう、展覧会も旅をしてやってくるのだ。昨日(10月17日)まで、高円寺の「素人の乱12号店」で、4日間開催されていた「渡辺”カント”作郎/カフェさくろう展Vol.16」がそれだ。
 カントさんとは、かってあの日本ロック史のレジェンデである「村八分」でドラムを叩いていた人物で、彼はアーティストの側面も持ち、「●▲■」と銘打ったプロジェクトをずっと展開してきた。渡辺”カント”作郎というアーティストが、様々な人物と出会い、コラボしてゆくその営為が、おそらく「●▲■」なのだ(「まるさんかくしかく」と読んでください)。
 そんな表現はいまや陳腐なのかもしれないが、カントさんの”作品”は色彩が踊っていて、実にポップだ。どこか、ファッショナブルという言葉を使いたくなるのも、Tシャツや、パフォーマンス衣装など実際に着れる物が”作品”であることもあるのか?

 その旅する展覧会の最終日に間に合い、高円寺「素人の乱12号店」へ行ってきた。北中通りに点在する「素人の乱」の店舗はいまや14号店まであるらしく、「目指せ100店舗!」と言いたくなるくらいいわゆる大手チェーン店の発想とは逆行した自立自営の町おこしプロジェクトでもある。12号店は、店舗をかねた貸しスペースであるらしい。
 カントさんは20日まで在京し、その間ライブパフォーマンスが2回ほどある。19日のねたのよい企画のアースダムには、遊びに行こうと思っている。

(写真)自作の”立体作品”衣装でもある「●▲■」の前でカントさん。



ホーボー、方々(ほうぼう)へ向かう(2)

2009-10-17 00:53:53 | てなもんや/また旅日誌
Inubou しかし、会場を出発した時間も夕刻で、銚子漁港に着いた頃には、まだ明るかったが、すぐに夕闇が迫ってきた。今回もキャンプ道具を積んで、車でやってきたのであったが、Jokerの「地鎮祭」会場では携帯チェアひとつ降ろすことなくすべて済んでしまっていたので、泊まる気は満々だった。それにJR銚子駅近くは土産物屋さんばかりで、遊ぶところがなかった。
 銚子港を目の前にした駐車スペースに車を止めると、銚子大橋の彼方に夕日が沈んでゆく。大橋の架かった海とも見えるそこは利根川の河口で、対岸は茨城県なのだ。ボクは、もう車に泊まる気で、その場で食事作りをし始めたのだった。

 窮屈な車内で、寝袋からガサゴソと這い出ると朝の4時30分すぎだった。昨日までは行く気はなかった犬吠埼の朝日を見たくなった。今から向かえば、時間的にも日の出には十分間に合うだろう。すぐさま出発した。だが、しばらく車を走らせて犬吠埼に近づくにつれ、激しい雨が降ってくる。これでは、朝日を迎えるというのは無理かもしれない。なかば、あきらめ気分で犬吠埼に到着すると、そこには孤独な燈台が目を光らせて潮風に立ち向かっていた。
 犬吠埼燈台である。犬吠埼は我が国の(本土としては)一番東に位置する岬で、ユーラシア大陸のロカ岬(ポルトガル)と「ここに地が始まり、ここに地終わる」として東の果て、西の果て同士の友好都市関係を結んでいるらしい。ただ、アメリカ大陸はここではいまだ未発見なのか、どう考えるのかは知らない。

 ボクは、レイ・ブラッドベリィの「霧笛」と言う作品が好きで、十代で出会ったということもあるが、「砂の城」という作品とともに、かってはこよなく愛していた(短編集『10月はたそがれの国』で読んだのだ)。霧笛のあのむせび泣くようなくぐもった音は、ブラッドベリィのファンタジーで語り尽くされていると思うほどだ。その出会いに感謝する。なぜって、そのような至高のイメージに出会っていなかったら、霧笛は日活映画のナイスガイ・シリーズのようなイメージで凝り固まってしまっていただろうからだ。
 この犬吠埼の燈台には昨年まで、霧笛舎(霧信号所)という付属施設があったが、08年3月、97年の歴史に幕をおろしたらしい。
(つづく)

(写真)犬吠埼燈台。国産煉瓦を積んで明治7年(1874年)に完成点灯された。白亜の姿が美しい(英国人R・H・ブラントン設計)。



ホーボー、方々(ほうぼう)へ向かう(1)

2009-10-16 22:10:08 | てなもんや/また旅日誌
Openair_bath どうやらボクは「地鎮祭」の神主の役割、そしてボクのポエトリーは祝詞(のりと)のような期待がされていたようである。とはいえ、ボク自身がそんなセレモニーくさいことを好んで行った訳ではない。
 ボクは日程を一日間違えていたようで、到着したときにはライブコンサート自体のスケジュールは終わっていた。その上、ボクは会場に入る道をひとつ間違えて真っ暗闇の水田地帯に迷いはぐれてしまっていた。だから、会場入りをした時には、その日のライブも終わっていたという訳だった。
 焚き火にあたりながら、酒をのみ朝近くまでおしゃべりをして過ごした。

 翌日の昼、もうPAも撤去されてまつり参加者の多くが帰ってしまった中で、焚き火の残り火の前で、ボクのステージとあいなった。つきあってくれたのはハリッシュのサズと、ミーナのタンブーラに似た通奏弦楽器それにあだっちのデジュ、そして鳴り物の何人か。詠んだポエトリーは「アースウィンド」、「ドリーム・タイム」。そして、真下の水田(前夜ボクが迷ったところだ)へ降り、関東ローム層らしい地層が見える崖下で「アンモナイトの囁き」を詠んだ。
 古代の声に耳傾けようというメッセージで、それを選んだのだったが、これは期せずして正解だったらしいことを、あとで犬吠埼へ行った時に、気づかされることになる。崖下までつきあってくれたのは、残りの参加者20名くらいだった。

 野趣あふれるというか野趣そのものの野天風呂へ入らせてもらって、ボクは銚子へ向かった。せっかくここまで来たのだから、漁港へ行って美味いサカナでも手に入れたいと考えたのだった。
(つづく)

(写真)野趣あふれる野天風呂。入っているのはあだっち。