風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

1967年論/フーテンとは何だったのか?(5)

2009-03-29 23:59:55 | アングラな場所/アングラなひと
 ヒッピー・ムーブメントはポップカルチャーやミュージックシーンとも不可分だったことがこの時代の特徴でもある。この時代のシンボル的な「女神」は、ほかでもないジャニス・ジョプリンだっただろうがヘイトアシュベリーで「アシッド・テスト」が始まった1965年には、サイケデリック(アシッド)・ロックとしてのジャンルが確立する。
 「ヒッピー」ムーブメントに特徴的だったものが、コミューンとそれぞれのコミューンの「部族(TRIBE)」意識だった。この「部族意識」に大いに貢献したのが、先住民であるネイティブ・アメリカンつまりインディアンの自然の営みに深く立脚したライフ・スタイルだった。ベトナム戦争にやみくもに突入する「国家」にイヤ気がさした若者たちは、徴兵カードを焼き捨て、皮肉なことにその曾祖父や祖父たちが居留地に押し込めたインディアンの生き方に、共存共栄のピースフルなモデルを見い出す。
 時代は占星術で言うところの「アクエリアス(水瓶座)の世紀」に入ろうとしていた。敏感で柔軟な若者たちは、その世界観の拠り所をアリューシャン列島づたいに1万年の旅を経て、「亀の島」に辿り着いたモンゴロイド起源の「赤人=インディアン」にもとめたのであった。
 シャロン・テート殺人事件やカルト的変遷を経て至った現在のスピリチャルな世界観のルーツは「アクエリアス世代」であったこの時代にオリジンを持つだろう。
 
 戦後の日本は、パックス・アメリカーナの絶体的な支配下にあった。アメリカが誇る物質的な豊かさは、羨望の対象であり、その電化された生活は夢のような憧れ、理想だった。敗戦後の混乱の中で、日々を食べるのが瀬一杯の貧しきアジアの一角の民だったのだ。
 
 その、運命的な邂逅を正確に後付けすることはできないが、戦争中、出身地でもある鹿児島県出水の特攻隊基地でレーダー技手として従軍していた榊七男青年(1923年元日生まれ。終戦時22歳)は、何百人かの前途ある、優秀な若き青年たちを特攻兵として死地へ送りだし、見送った苦い体験から、戦後をあらゆる国家、権力、労働から超絶したバムとして生きることを選択し、放浪をはじめた。それは「反逆」だっただろうか? それとも「隠遁」だったのだろうか?
 戦後、一時、改造社で書生のようなことをしていた七男青年が、当時のインテリゲンチャと交わりながらさらに旅に生きサカキ・ナナオになる決心をした直接の理由は分からない。だが、ボクらが最初に目にしたナナオの詩は11世紀のチベットの修行者にして超人だったミラレパの訳詩のかたちを取りながらも、実は超訳でのちのコスモポリタン、地球を故郷、自らのよって立つ<クニ>とした「放浪者」(バムにしてフーテン)の決意を伝えている。

 私はミラレパ
 ふりむくことなく進むもの
 私は宿なし
 なにごとも気にせず
 なにごとも見のがさない

  私は乞食
  まるはだか
  無一文

 生活とは関係ない
 ここに住みつくいわれもない
 私は恐れない
 死を
 私は棄てる
 一切を
 (「若い私は心みだれ」のち詩集『地球B』に収録)

(さらにさらにさらにさらにつづく)


4/3 step93「1967・新宿・めまいの街??<族>をめぐる」

2009-03-26 23:54:01 | イベント告知/予告/INFO
●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step93
テーマ:「1967・新宿・めまいの街??<族>をめぐる」

2009年4月3日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,000円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN、梓ゆい(新MC)
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、梓ゆい(ポエッツ)、ココナツ(うた)、退院したやま(うた)、bambi(スピリチャル・トーク)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 なぜ42年も前の「風俗」にこだわり続けるのか? まず、それはボク自身にとっての「個人史」としても、そしてこの国の「戦後史」を語るある場面としても欠落させることが出来ない重要なシーンであるから!
 そして、それは現在を生きる若者たちの、そのスタイル、ファッション、憧れを形成する重要なタームであること。ユースカルチャー(若者文化)の、その原点がとりも直さずボク自身の青春の1ページであり、原点であると言うこと。
 いま現在、ブログに書き継いでいる内容を、ボク自身の高揚感とともに語り継いでいきたいと言うこと。

 いまから42年前、新宿でなにが起こったのか?
 そして、なにが予見(ビジョン・クエスト)されたのか?

 かって若者の街だった「新宿」で、生きたひとりの「族」がポエトリーで伝えたいこと!

 それは、世界は「かってユメ見られた ボクら自身のユメである」ということ!

 めざめよ! ボクらはいまだ知られざる 新しい文明の 原始人である!

 このイベントは、自由エントリーのできるオープン・マイク形式で開催しております! 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

主催コミュ「E.G.P.P.100」→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706


1967年論/フーテンとは何だったのか?(4)

2009-03-23 23:57:06 | アングラな場所/アングラなひと
 『ダルマ・バムズ』にはのちに語り種となる「シックス・ギャラリー」での有名なポエトリー・リィディングのシーンが克明に書かれてある。もちろん小説だから多分の脚色もあろうが、ほとんどドキュメントとしても読める。ケルアックの『オン・ザ・ロード(路上)』などと同じようにケルアックは自らが体験したものを材料にしているからだ。このリィディング・イベントであのギンズバーグの「ハウル(吠える)」が、聴衆を前にしてはじめて読まれた。それはビートニクスの仲間たちへの愛惜に満ちた讃歌(オード)でもあった。

 僕は見た 狂気によって破壊された僕の世代の最良の精神たちを 飢え 苛ら立ち 裸で 夜明けの黒人街を腹立だしい一服の薬(ヤク)を求めて のろのろと歩いてゆくのを
 夜の機械の 星々のダイナモとの 古代からの神聖な関係を憧れてしきりに求めている天使の頭をしたヒップスターたち
 (『吠える』冒頭部分/諏訪優・訳)

 1955年10月7日に催されたこのリィディング・イベントから「サンフランシスコ・ポエトリー・ルネッサンス」は始まったのだが、ケルアックの『ダルマ・バムズ』が、その大いなる神格化に貢献したことは言うまでもない。
 そして「吠える」は他の詩編とともに翌1956年にシティ・ライツ・ブックスから出版されるもワイセツ容疑で発禁処分で裁判となり、華々しくも苦難に直面したことによってまさしく新しい世代の旗手、新しい時代を告げる遠吠え(ハウル)となった。
 この『吠える』の先の引用部分からタイトルが取られた、秀逸なビートニクス論『裸の天使』(ジョン・タイテル/邦題『ビート世代の人生と文学』)がのちに書かれる。そして、アメリカにおける以後の「族」のキーワードとして「裸の(NAKED)」「天使(ANGELS)」「薬(DRUGS)」が定まってゆくことは記憶しておいた方が良い。

 さて、バム・アカデミーが開催した1967年4月17日の安田生命ホールでの「世界の滅亡を予告する自由言語による集会」が、この「シックス・ギャラリー」を意識して開催されていたことは間違いない。当時、『路上』は翻訳されていたが、『ダルマ・バムズ』は未翻訳だった。だが、バム・アカデミーの連中は高学歴で英語をよくした。さきの「行列(行進)」でも、プラカードの半数は英語で書かれてあったくらいである。また、この集会と行列は、この同じ年の1月14日サンフランシスコ湾を望むゴールデンゲート・パークで行われた「Human Be-in」の日本での再現を目指したものでもあっただろう。
 アンダーグラウンド・ペパー『オラクル(ORACLE)』などをバム・アカデミーの連中は手にいれて読んでいた。ゲーリーや、ギンズバークなどが郵送したのだ。バム・アカデミーは会則も、規約もないゆるやかな形で前年誕生したばかりだったが、大いに鼓舞された。

 サンフランシスコでは、前年あたりからヘイト・アシュベリィを中心とした若者たちの極彩色のムーブメントが起こっていた。アメリカの拡大するベトナム戦争への介入に厭戦気分が高まり、黒人たちの公民権運動もリベラルな白人も巻き込んで支持を集めつつあった。M・L・キング・ジュニアが1963年8月にワシントン大行進で「夢」を語り、リベラル派の大統領と目されていたJ・F・ケネディがダラスで凶弾に倒れてから3年余、アメリカの若者文化に「族」の規模を超えるような一大ムーブメントと非暴力的な抵抗の精神、そしてなによりも「オルタナティヴ・スタイル」、もうひとつの生き方という「代案」スタイルが生まれた。ビートニクス用語(また黒人スラング)の「ヒップ」(イカした)、「ヒップスター」(イカしたヤツ)が転じて生まれた「ヒッピー」である。

(さらにさらにさらにつづく)


1967年論/フーテンとは何だったのか?(3)

2009-03-21 23:48:30 | アングラな場所/アングラなひと
 昨年、2008年までに思想界を、かまびしく騒がせていた「1968年革命論」というものがあった。それは、1968年をこの国、および世界におけるエポック・メーキングの年として意味付けるものだったが、おもにその論調はいわゆる「1968年」が「政治の季節」として「革命的」だと言うものだっただろう。その「論」に欠落していたのは、「文化革命」言い換えるならば「もうひとつの生き方(ライフ・スタイル)」(現在で言えば「スローライフ」や「エコロジカルなライフスタイル」)としての視点だったように思う。
 だとしても、むしろ「政治の季節」としても「1967年」にこそ、60年安保世代と断絶するエポック・メーキングな萌芽があったことを切り捨てるものだった。
 のちに「70年安保闘争」と位置付けられる闘いも、その実1967年から始まっていたのである。いわゆる「第1次羽田闘争」、「第2次羽田闘争」であり「佐藤(首相)訪米阻止闘争」である。

 カウンターカルチャーで言うところの「もうひとつの生き方」は、政治闘争、三派全学連による街頭闘争に遡ること半年前の1967年の春4月16日、17日に産声をあげた。
 と同時に、それはまだ「バム・アカデミー」を名乗っていたのちの「部族」の旗揚げのような「ハプニング」セレモニーとして敢行された。16日の早稲田戸山ハイツ野外ステージから新宿西口まで行進した「世界の滅亡を予告する自由言語による集会と行列」のウォーキングと、17日の「安田生命ホール」におけるポエトリー・リィディング・イベントである。この「行進」の模様は、『アサヒグラフ』に写真入りで掲載され実質的な「バム・アカデミー=部族」のマスコミ・デビューとなる。
 現在の早稲田大学工学部校舎近くの戸山ハイツ野外ステージ前に集合した面々はプラカードをかかげて鐘や太鼓を打ち鳴らし明治通りを渋谷方向へ歩き、新宿通りを右折、新宿駅東口グリーンハウス前を経由して、西口まで行われた。この行進は、参加人数としても少人数(50名?)、多くのすれ違った市民には何を訴えたいのか理解不能のデモンストレーションのような「行列」だったが、その「行為」はこの国の中に「聖なる野蛮人(ホーリー・バーバリアン)」であることを自覚した意識的な「浮浪者(バム)」が存在することを誇示する「ハプニング」だった。
 先頭を歩く若き日のナナオ、ポンそして三省。さらにマモがおり秋葉ナンダそしてゲーリーがおり、さらにゼロ次元の面々が加わっている。
 手に掲げたプラカードで、なにやらデモらしくおもった通行人もそこにかかれた言葉にきっと首をかしげたに違いない。
 そこにはこう書かれてあった。

 「ワレラハ未ダ知ラレザル文明ノ原始人デアル」。

(さらにさらにつづく)


1967年論/フーテンとは何だったのか?(2)

2009-03-19 23:44:38 | アングラな場所/アングラなひと
 ジャック・ケルアックの『ダルマ・バムズ』は、ふたつの翻訳書名を持つ。ひとつは『ジェフィ・ライダー物語』で、講談社文庫から刊行された時のもの(翻訳:中井義幸。のちに『ザ・ダルマ・バムス』に改題)。もうひとつは『禅ヒッピー』という書名だ(太陽社/翻訳:小原広忠)。ジェフィ・ライダーは登場人物の名前で、これはゲーリー・スナイダーをモデルにしている。ケルアックはその酒漬けの生活で、晩年ブクブクに太りながらも自身、若い頃から仏教に関心があり、仏教関係の知識を持っていた。ケルアックのこのような仏教への傾倒ぶりは、彼のポエトリー(『ブルース詩集』)からもうかがい知ることができるが、さてそれが具体的に鈴木大拙の著作なのか、別のものなのかまだ充分に検証されたとは言えない。
 さらに、この書名を『ダルマふーてんたち』と読み変えることもある(『ジェフィ・ライダー物語』の旧訳で中井氏がそう訳した。またボクのサイトのBOOK Listでもそのように紹介した)。「バムズ」を浮浪者、乞食ととったとき、バムつまりフーテンがマスコミの寵児となって世間周知のものとなった1967年、フーテンたちは「新宿こじき」、「怠け者」と後ろ指をさされていたことを思い出す。フーテンはうす汚いファッションと、その長髪ゆえに「おんなみたい!」、「乞食!」、「怠け者!」と罵声を浴び、子どもたちからも石を投げられたものだった。

 ところでかってこの国には「浮浪罪」という「罪」があったのを御存知だろうか?
 きわめて曖昧なこの罪状で、多くの「主義者」、「アナーキスト」、一般市民が拘束された。現在も自称良心的な大人の手で行われている「未成年者非行防止」をたてまえとした「補導」は、このかっての治安維持法時代の「浮浪罪」の名残りを残していると思う。街や商店街に邪魔な「異形の者」を排除してしまおうと言う思想だが、「みゆき族」や「フーテン」さらには「竹の子族」などの多くのユースカルチャーと不可分な存在だった「族」は、このような警察の取り締まりを自ら要請し、自警団までつくってしまうという商工会議所や商店主の思想によって排除され街は白々と漂泊されてしまった。なんの個性もない全国どこへ行っても同じような駅前のショッピングセンターやアーケード街のたたずまいはこうして出来上がっていき、いまやそれらもシャッターが閉じたままで、あらためて若者の力をかりて、町おこしをしようとしている。一度は、若者たちを排除しておきながら、なにをか言わんやである。

 「浮浪」はいわば人間の「移動の自由」の権利のひとつに入れてもいいのかも知れないが、もちろん実際の「浮浪者」(いまは「ホームレス」という呼称が一般的になってしまった)は、様々な個人的事情で身を落としたケースがほとんどだろう。なれど、かっては意識的に「浮浪者」を志願した一群のひとびとがいた。バムやホーボーに憧れ、それゆえに当初「バム・アカデミー(乞食学会)」と名乗ったのち「部族」の人々、そしてその子ども世代もしくは弟分のようだったフーテンたちである。ただ都会(新宿)を離れなかったフーテンは、離島や山村に入植していった「部族」から見放される。「部族」も「バム」を名乗っていた頃には、自らも「フーテン」と言っていたにも関わらずだ……。「バム・アカデミー」はおおよそ20~30名。フーテンは最盛期の67年夏で、おおよそ300~400名程度だった。

(さらにつづく)


ゾウガメのいる庭

2009-03-16 23:59:38 | コラムなこむら返し
Spring_benkei_1 近所の御夫婦それぞれの趣味が嵩じて作ってしまったような店は、半分が手打ちソバ屋さんで、半分がギャラリー喫茶になっている。だから、1回で二度おいしい店であるのだが、さらなる楽しみはその広いお庭である。今はさほど、花が咲き開いている訳ではないが、そこを我が物顔でエサ場、遊び場にしている御夫婦のペットは巨大なゾウガメである。ガラパゴスゾウガメなどの希少種は、もちろん飼うことはできないが、リクガメ、ゾウガメには飼うことが許されている種も結構いる。この二、三日春めいた暖かい日が続いたせいか、そのベンケイという名のゾウガメは活発に庭を歩き回っていた。

 だから、ボクらは庭にあるテラス席に席をとった。その店を見つけたのは最初ボクだったが、いまや動物好きの娘の愛好する店となっている。久しぶりのランチの外食を、その店でとることにした。

 木漏れ日のさすデッキは、パラソルがなければ暑く感じただろうが、ベンケイを見ながら仕事明けのボクはいつのまにかウタタネをしていた。ボウらも春めいた暖かさに誘われて出てきたのだったが、この気温はさすがにゾウガメのベンケイにも嬉しいらしくさかんに庭を動き回っては柔らかい草を食んでいた。
 近づくとゾウガメは威嚇するように荒い鼻息をたてるのだが、手を出すとすぐ首を引っ込めてしまう。それでも目標をきめると臆することなくまっすぐに直進してくるのだ。たとえそこに人が立っていようとも……。

 その日は比較的混んでいて、ウタタネをして待っているくらいが丁度よかった。目を覚ますとザルソバが、運ばれてきて、ユメウツツの状態でおいしい手打ちソバを食した。

 木漏れ日のさすデッキで、足下ではゾウガメが草を食み、春はそこまで来ていた。


続々・ホームレスのうた/返歌あり

2009-03-10 00:00:26 | アングラな場所/アングラなひと
 またかと思われるかも知れない。しかし、ボクはボク自身の感覚で注目したこの歌人のことを、たとえ当の朝日新聞が、社会面で書き立てようとも、その「話題つくり」の手法が、まんまと適中しようとも(朝日新聞は、かって全関連メディアを総動員して「ロスト・ジェネレーション」(ロス・ジェネ)という概念を社会的に認知させたと言う経緯がある)「朝日歌壇」を時々楽しみを持って読む読者のひとりとして、書き続ける責任がある、と思う。

 ボクは2月17日に書いたこのブログの記事で、朝日新聞の河合真帆記者の呼びかけ記事に、「少なくとも彼はこの記事を目にしていたのなら今日一日は高揚して、心臓が早鐘をうつような状態だったに違いない、と推測する。/この事態にボクは、あえて期待したい。(ホームレス)公田耕一さんが「歌」でこたえることを!」と、書いた(「続・ホームレスのうた」→http://blog.goo.ne.jp/angura_1967/d/20090217)。
 これはボクなりのエールであり、励ましだったのだが、(ホームレス)公田耕一さんは見事に応えてくれた。

 ホームレス歌人の記事を他人事(ひとごと)のやうに読めども涙零(こぼ)しぬ
 (選)永田和宏・佐々木幸綱

 この歌一首には公田さんの嬉しさとともに、哀しき性(さが)のようなものが滲み出ているような気がする(3月9日付け朝刊「朝日歌壇」に掲載)。零落した身をはかなむような心情と、嬉しさだ。
 同日、もう一首選ばれてあった。

 胸を病み医療保護受けドヤ街の柩のやうな一室に居る
 (選)高野公彦

 小さな3畳ひと間の箱のようなドヤ街寿町の部屋??布団を敷いたらほとんどスペースはない。相部屋よりは身体は休まるだろうが、部屋代はそれだけかかる。胸を病んだことによる医療保護で、そのような金を受給することができたのだろう。だが、病んだ身には小さな一人だけの空間は長方形の横たわるだけの「柩」に思える。

 さらに同日付けの社会面には、河合真帆記者による事情を説明する記事がつく。それによるとこの投稿歌には几帳面な文字で「皆様の御厚意本当に、ありがたく思います。が、連絡をとる勇気は、今の私にはありません。誠に、すみません。(寿町は、東京の山谷・大阪の釜ケ崎と並ぶ、ドヤ街です。)」という添え書きがあったそうだ。

 ドヤ街、寄せ場??この街に流れ着く者にはそれぞれに何らかの事情がある。ここに来れば、最底辺の肉体労働にせよ履歴書も、身元保証もいらずに登録すれば働ける。いや、かっては「労働手帳」がなくても手配師のおめがねにかかれば(つまり頭数になれば)モグリの労働も可能だった。
 
 (横浜市)でも(アメリカ)でもなく(ホームレス)公田耕一という表示は、どうやら公田さんの投稿を受け入れるために「朝日歌壇」の選者と担当記者(それがもしかしたら河合記者かもしれない)が考えた表記だったと「続・ホームレスのうた(追記)」で書いた(→http://blog.goo.ne.jp/angura_1967/d/20090218 )。どうやら公田耕一さんはホームレスと言うよりは、寄せ場ドヤ街に住んで不安定なの日雇い労働にいそしんでいた「日雇い労働者」や「野宿者」と呼ぶべき歌人だったようである。
 河合記者は先の記事で、公田さんの「選」にもれた歌数首を紹介しているのだが、その中にまさしく天下の新聞社の詮索を無用なものとする潔(いさぎよ)い、そして美しい歌があった。

 我が上は語らぬ汝(な)の上訊(き)かぬ梅の香に充る夜の公園
 (選外)

 いまはただただ公田耕一さんの健康回復を祈る。そして、それを支える支柱は公田耕一さん自身の三十一文字(みそひともじ)で心境を、身辺を歌い上げると言う歌人としての「たましひ」であるだろう。
 無用な詮索はやめよう。ただ、公田耕一さんの歌い上げる「うた」に落涙するのみ。最底辺からの、最下層からの血を吐くような同時代の「うた」に共感するのみ。

(付記)
 (ゆえに、このシリーズも今後、公田耕一さんの「うた」にふれることがある時も「ホームレスのうた」というタイトルを使用いたしません。)


1967年論/フーテンとは何だったのか?

2009-03-08 23:58:15 | アングラな場所/アングラなひと
 トニー・リチャードソンの『ラブド・ワン』がATGで日本公開されたのが1967年だったということを書いた(記事「おくりびと」と「囁きの霊園」)。1967年??昭和で言えば昭和42年。この年の夏に新宿駅東口グリーンハウス(駅前の植え込み)を中心にフーテンが大量発生するのだが、それは「族」としての先行トライブであった「みゆき族」が銀座みゆき通りを占拠(1963~4年)して以来、潜伏していた若者の風俗文化が表面化したということに他ならなかった。その浮上化にあずかったのが、ユースカルチャーに主眼をおいた『平凡パンチ』、『プレイボーイ』などの週刊誌であり、その先べんにTV局やワイドショー番組などのマスコミが飛びついたことによる。
 実は1950年代の終り頃から石原慎太郎の小説『太陽の季節』(1955年)と、その芥川賞受賞直後の映画化(1956年)およびマスコミによってつくられた実体なき「太陽族」にそっぽを向いた若者たちが「深夜喫茶」文化および「家出」ブームを醸造しつつあり、そこにJAZZ喫茶にたむろしていた中間富裕層の子供達が加わり、みゆき族残党グループが銀座を捨てて(その頃)新興副都心になりつつあった新宿に結集した。

 『フーテン』という言葉は「隠語」として「みゆき族」、「深夜喫茶族」の中ですでに流通していた。町をうろつくこと、深夜喫茶で朝まで過ごすことを意味する「隠語」だったのだ。これには「寄せ場」ことばであった「風太郎」(のちに転じて「プータロウ」)が先行し、「浮浪者」という意味をもっていた。
 おそらく「瘋癲」という意味も重ねながら、自覚的、意識的な「浮浪者」ということで、漢字で書けば「風天」(もしくは「風転」)となるのだろう。
 「風月族」という言葉も生まれた新宿風月堂に集まる画家や、芸術家たちは自分達の事を「ボヘミアン」と自称していただろうが、フーテン族はその意味ではアメリカのホーボー、バムに近かった。ホーボーは無蓋貨車や列車に無賃乗車して、あちこちを流れ歩いたアメリカの移動労働者だったが、彼らの旅くらしはホーボーキャンプでの楽しみとしてアメリカン・フォークソングにつながるホーボー・ソングを生んでいる(ボブ・ディランも研究した)。バム(BUM)は放蕩者、乞食だが、日本語に「乞食坊主(僧)」という言葉があるように自覚的な修行者もこう呼んだ(ジャック・ケルアックの『ダルマ・バムズ』)。

 日本のもうひとつの伝統だった『風狂』(ものぐるい)は、「出家」や「世捨て」をし、山中に小さな庵をあんだり、「漂泊の旅」に生涯をついやし、何処とも知れぬところで野ざらしとなって朽ち果てることだろうが、まさしく「フーテン」はそのような日本的な伝統の中に身をおきながらも都会(新宿)から離れることはなかった。それは、彼らには西行のように捨てるべき社会的地位も、権力も持っている訳ではなかったからである。

 1967年その渦中にいたボクでさえ、捨てたものは「家」だけであって、それを捨ててしまえば持っているものはただただ考えの浅い若さしかなかった。ボクは19歳になったばかりだった。
 朝が白々と明けてそれまで過ごした深夜JAZZ喫茶(たいてい「ジャズ・ヴィレ」)から寝場所をもとめて移動するボクには、歌舞伎町の野良猫と自分がすこしも違って思えなかった。高度成長の反映を続ける日本の中で、捨てたのではなく自分は捨てられたのだと思っていたもんだ。ボクはみじめだったし、それを忘れるために朝から睡眠薬をガリガリと齧り、「風月堂」が開くまで隣の「ウイーン」で過ごすのだった。

(「1967年論」は続きます。)


考え続けて書けなかったこと/ヨワイ ボク

2009-03-05 00:58:10 | コラムなこむら返し
 考え続けて書けなかったこと

 たくさんの映画の感想
 いくつかの展覧会
 幾人かとの交友記
 タイトルだけで 放棄された随筆
 何冊かの本の感想
 考えさせられたテレビ番組
 思いつきは 素晴らしかった物語
 旅への憧憬
 思い出話(回顧録)や自伝
 
 考え続けてできなかったこと

 『新宿風月堂クロニクル』の出版
 100号以上の絵を描くこと
 ポエトリー・キャンプの実施
 本・資料の整理
 「長崎」への移住計画
 時間を遡ること

 そして いい年齢(とし)を とること

 …………………………………
  けふ また ヨワイを重ねてしまつた
  なんて ヨワイ ボクであることか!


ヒナ寿司の夜

2009-03-03 23:37:30 | コラムなこむら返し
Nina_festa09_2 東京はみぞれ混じりの雨が降り(一部に雪)、底冷えのするヒナ祭りの夜。こういう事態を予想しての事ではないが、わが家ではヒナ祭りを1日の日曜日に前倒しで行った。と言ってもヒナ寿司を作って食べるだけなのであるが……。
 で、セッテングのできたヒナ寿司に各々が、好きな目鼻をつけて食べると言うわが家の恒例行事になりつつあるヒナ寿司作り、今回は30分近くかけて作ったボクの作品を紹介することにしよう。一応、オトコなのでお客さんでいいのではないかと思っていたが、目鼻をつけだすと夢中になってしまった(笑)。
 あ、もちろんハマグリのお汁がつきます。潮汁と言うのらしいのですが、ハマグリは「貝合わせ」からきているのでしょうか?
 雅びな女性の遊びであるとともに、相性があう伴侶に恵まれますようにと言う祈りなのでしょう。
 あなたはめぐり合いましたか?

(写真)ボクが目鼻をつけたヒナ寿司です。



3/6 E.G.P.P.100/Step92「血はたったまま凍っている」

2009-03-02 01:32:28 | イベント告知/予告/INFO
3/6 E.G.P.P.100/Step92「血はたったまま凍っている」
開催日時 2009年03月06日((金) 18:30開場/19:30開始)
開催場所 東京都((ライブ・バー水族館/新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1))

●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step92
テーマ:「血はたったまま凍っている」
2009年3月6日(金)(毎月第1金曜日開催)
開場18:30/開始19:30
参加費:1,000円(1Drinkつき)
MC:やま
(出演)やま(うた)、梓ゆい(ポエッツ)、ココナツ(うた)、bambi(スピリチャル・トーク)ほか……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 今回はフーゲツのJUNはお休みで、やまさんがMCをつとめます。
 こちらが、やまさんのコメント(抜粋)です。
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39942158&comm_id=230706

 このイベントは、自由エントリーのできるオープン・マイク形式で開催しております! 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定でのしばりはありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

主催コミュ「E.G.P.P.100」→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706