風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ワレ路上デ発見セリ!/路上で拾ったオチンチン

2006-03-21 13:14:20 | ワレ路上デ発見セリ!
Tintin_mitaka_march「幸福な王女」(昨日の記事です)の住む街には、本物のブロンズ像があちこちに設置されている。街の雰囲気に溶け込んでいる彫刻作品だ。その中でも特に好きな作品があったのだが、過日その作品を見に行ったら中央線の高架工事のためか撤去されていた。その作品を作った彫刻家は、ボクと同じ街に住んでいることを先日知って驚いた。

駅前の通りになんとも無邪気な子どものあそぶ姿を象った彫刻があった。どうやら姉弟で、下の弟が駄々をこねているようなポーズをとっている。もはやそんな光景を現代では路上で見ることはできないだろうといったほほえましいシーンが切り取られている。
第一、弟の方は下半身がむきだしで、かって庶民はオシメ(むつき)というものは使わず幼児はパンツも穿いていない、そんな時代がこの国にも少し前まであったのだ(アジアの諸国では、いまも幼児のありふれたスタイルだ)。
つられて彫刻に近付いたボクはその駄々をこねてひっくり返っている弟の方のむきだしになったオチンチンのフグリの立派さにおもわずシャッターを切ってしまった。
うん、かのフィレンツェにあるミケランジェロのダビデ像よりも立派ではないか!
フィレンツェの彫刻ではダビデは青年である、こちらは幼児なのである。いや、ボクは作品としての優劣を云々しているのではない。フグリを単純に比較して褒めているのだ(笑)。
かくして、ボクの路上コレクションにこの彫刻作品のフグリを加え、路上で拾ったオチンチンのひとつとする。

<ワレ路上デ発見セリ!(15)/路上で拾ったオチンチン>



ワレ路上デ発見セリ!/幸福な王女

2006-03-19 21:56:05 | ワレ路上デ発見セリ!
Go_comicgirlボクは、何を求めて路上を徘徊しているのだろう?
と、自問してみる。路上には、ありとあらゆるものがある。幸せな家庭生活以外のものなら世界は路上にこそある、とそう断言したいくらいだ。
しかし、路上にないものは「幸せ」だ。個人の人生の「幸せ」??それこそが路上に存在しないものなのだが、その片鱗は、欠片(かけら)くらいはどこかに落ちているかも知れない。

ある日、路上を歩いていたら某遊戯場の脇に写真のような像を見つけた。永井豪風のコミックキャラクターがブロンズ像のような色に塗られてあられもないかっこうで立っていたのだ。
しかし、このような永井豪のコミックキャラクターにボクも「萌える」ことができたのなら「幸せ」だったのかも知れない。残念なことにボクはこのようなものを「オタク」と見る前に「ポップ」と見てしまう。現在花盛りのコミックキャラのアートでの進出ぶりは、ポップアートにその根をもつだろうなんて、ひとくさり呟いてしまうタイプなのだ。
それでも、その遊戯場の意図がパロディにも似た遊び心であることも充分に読み取れる。というのも、その街は鋪道や、街角にかなりの数の彫刻作品を設置している街で、駅前のビルには市営の美術館さえ配している。ボクの好きな美術館のひとつだ。

で、ボクは夢想してしまった。このコミックキャラが「幸福な王子」(オスカー・ワイルド作)ならぬ「幸福な(半裸)の王女」で、ボクは仲間からはぐれたツバメで、この半裸の少女の哀願のままにサファイアの目をくり抜き、ルビーの宝石をほじくりかえしては王女が夢中になっているホストクラブのホストのために貢ぎ物を届けてあげるのだ。
そして、持てるものをすべて捧げつくした王女はボロボロのみすぼらしい姿となって倒壊し、ツバメであるボクは南へ渡る時期を失って王女の足下で寒さのために死んでしまうのだ。

でも、こんな妄想でもボクは萌えることができない!
幸せは路上には落ちていないことを、「幸福な王子」以上にボクは知っている。街の中心にたたずむ銅像だった「幸福な王子」は、本当は見ていたんだ。幸せそうな街の人家の赤い灯の向こうには、諍いと喧嘩と不幸と貧困があったことを!
だから王子は、身ぐるみを剥ぐように分け与えて鉛のこころのみを残して崩れてゆくのである。

<ワレ路上デ発見セリ!(14)/幸福な王女>



ワレ路上デ発見セリ!/路上はホテルである

2006-03-16 00:35:44 | ワレ路上デ発見セリ!
Hotel_street路上で生き死にするのは、なにもインドだけとは限らない。「下層社会」もしくは、この国における「格差」の拡大が、最近よく論議されるようになっている。身分階層社会が訪れているという分析をする社会学者もいる。
日本人はバブルがはじけたのち、この国をなりたたせていたシステムさえもが、崩壊していたことにあまりにも無頓着だった。棄民政策は確実に進行していた。

言うまでもなく社会的不平等をただし、公平な富の分配をはかるのは政治もしくは政治家、そして行政官庁のトップおよび職員(公務員)の責務であるはずだ。そのような国家の運営のために税金は払われ、集められているに違いない。しかし、税金と言うこの国の運営資金を福祉や、インフラ整備やのために公平に使うのではなく私物化したり、不正に着服しようと言う不逞のヤカラは絶えることはなかった(近くは国民の老後の資金をあずかる社会保険庁での不正を思い出そう!)。

政治や行政が民を忘れさった時、かくして、路上に置き去りにされるもしくは棄てられる人々が出現する。物乞いをする訳でもなく、ただただ小春日和の路上をホテルの快適なテラスのようにして日がな一日、群集の中で眠りこける……。

38年前にフーテン族のいなくなった新宿駅東口駅都市銀行の真ん前、まるで「透明なひと」のように行き場もなく家もない男たちは眠りこけていた。行き交う人々からは、彼らはまるで見えないかのようだった。

彼らは教えてくれている。時にはストリートは、快適なホテルのテラスでもある。しかし、だれかれの分け隔てなく平等に身体を温めてくれた太陽が沈んだのち、暖をとるのに焚き火を焚くしかない、底冷えがして凍死の危険もある夜の路上を別にすれば……、ということを。

この国のストリートにも生き死には存在しているのだ。
(写真は2月上旬。新宿東口駅前にて)

<ワレ路上デ発見セリ!(13)/路上はホテルである>



ワレ路上デ発見セリ!/出会いは足下にある

2006-03-15 00:20:25 | ワレ路上デ発見セリ!
Under_deai_1メールアドレスを自動収集するソフトによって、毎日ヤマのような愚にもつかない出会い系サイトに誘導する迷惑メールをもらっている人は多いだろう。
実際、そこに本物の淫乱な女性がいると思い込んで、ハマってしまう男もいるかもしれない。そうだからこそ、あんなにも多くの出会い系サイトがあり、ネット上では花盛りで、ネットは一面娼家のようなにぎわいを見せてもいる。思い込みと妄想に訴えかける詐欺商法が大手をふってまかり通っているのだ!

しかし、ボクは見つけたのである。出会い系はネットだけじゃなかった!
なんと、電信柱の根元にもあったのである!
それも、地面のすぐ上、野良犬かノラ猫の視線でもなければ目立たない低い位置にそのチラシは貼りつけられていたのである。

いったいこんな低い位置のチラシなど、だれが見るというのだろう? と、思ったボクはその電信柱に異様な水の流れたあとを、何本も見つけて妙に納得してしまったのだ(写真)。
それに、気付いた時、逆に、このような位置を選んだ発想に恐れ入ってしまった。

オトコは、そう、電信柱に向かってその足下をじっと見ることが度々あるのである。そしてその時、オトコはすこしほろ酔いで、自分のとりだした一物を握りしめながら、アタマの中はからっぽでジッと足下を見つめている、そんな時間がたしかにあるのである。

そんな時、そのチラシは効力を発揮するのだ、おそらく!
男の無念無想のからっぽのアタマ、とりだして尿をほとばしらせているおのれの一物。視線は、その先をただよい電信柱の足下を見つめている。出会い系の誘惑は、低い位置にあってこそ効果を発揮すると言うそんな場所と瞬間があるのだ。路上の電信柱の地面の近くであってこそ効果を発揮すると言う、そんな場所が……。

<ワレ路上デ発見セリ!(12)/出会いは足下にある>



ワレ路上デ発見セリ!/路上の呪符

2006-03-08 21:53:22 | ワレ路上デ発見セリ!
Mayoke_1路上の神さまのハナシのあとはこれしかないだろう!
道の端、鉄骨に取り付けられた奇妙なものをボクは散歩中、近所で見つけたのだ。ひいらぎの葉の枝の根元には丸い豆のようなものがくくりつけられ、葉の一番上にはメザシのような干し魚がついている。これは、どうやら呪符のようだ。一体なんなのだろう?

と、思ってこの呪符をことばで表現していたら、そうかと今、分かったのである。
ひいらぎ、目刺し、豆。
これは、節分の魔(厄)除けじゃないのか?
本来は、玄関先に飾られるもので、メザシは目刺しに通じ、トゲトゲしたひらぎとともにオニが嫌うものと言われている。それが、こんな道に面した鉄骨の上にくくりつけられているので、なんだかとても怪しい呪符のようなものとして感じられたのだ。
ま、これとて魔(厄)除け、呪符には違いないだろう。

それにしても、置かれる場所が違えば、とても怪しく感じるものがあるんだということが、今日の「発見」でもあった。

だけど、そうと分かった上でも、これは怪しく思える。一般の家庭で「豆まき」さえどのくらいの家庭でやっているのだろうと思うような、こんにちの年中行事の習俗であるのに、この手慣れた組み合わせの妙はなんなんだろう?

やはり、これは「呪符」以上のなにものでもない。というのが、ボクの結論であります。

<ワレ路上デ発見セリ!(11)/路上の呪符>



ワレ路上デ発見セリ!/路上の神さま

2006-03-07 23:58:40 | ワレ路上デ発見セリ!
God_on_roadそういえば、インドでは路上にはなんでもあった。いや、かの地では路上で一生を過ごすひとさえいるのだ。現在、IT立国になりつつあるインドは、むしろそれだからか教育を受けられる富んだ階級と、そうでない貧しい階層との差はさらに天と地ほどにも開きつつあるのかも知れない。

最初、チョークを持ち出してウチの前の道路に絵を書き出したのはムスメである。グルグル巻きの円を描いて、そこに顔をつけ(それは、なんとも可愛いカタツムリだった(phot_1))円を周りながら、遊んでいた。遅く起きだしたボクは、それを見て路上にボクも描きたくなったのだ。
カルカッタの路上にヒンドゥの神さま(おもにシヴァ神が多かった)を色とりどりのチョークを使って描き、敬けんな人々がその路上の神さまになにがしかのお布施を置いていく。
「あ、これならボクもなにがしかのルピーを稼げるかも!」と、思った路上の絵描きたちだった。かれらは、最底辺の暮らしを営むアンタッチャブル(不可触民)の人々だったが、その絵を思い出したのだ。
あいにくチョークは白一色しかなかったが、道にかがみこんで描き出したボクの姿は不可触民そのものだったかもしれない。

だから、今日の報告は「発見」したものではないことを断っておこう。しかし、路上の「絶対零度」という意味で言えば神さまの姿ほど「絶対」なものはないはずで(笑)、事実、自転車で通り過ぎていった少年は、絵を避けて「なんだ!これ?」と言いながら去っていった(phot_2)。

たしかに思いのほか、デッサンをとるのがむずかしく、かんばしい出来ではなかったが、それにしても、路上の神さまの上にお布施を置いていくものは皆無である。ああ、不信心な日本人どもめ(笑)!

<ワレ路上デ発見セリ!(10)/路上の神さま>



ワレ路上デ発見セリ!/のれんにTシャツ

2006-02-28 23:56:50 | ワレ路上デ発見セリ!
T_shirt_noren東京は中央線のある駅の街の話である。その街には26年ほど前に3年ほど住みながらこんな名物があるなんて当時は知らなかった。もっとも、その頃はマクロビオテックにはまってかなり厳密な玄米正食を敢行していた頃なので、ラーメンのたぐいには関心を示さないようにしていたという事もあるかも知れない。
それとも、その名物はボクがその街に住んだあとにできたのかもしれない?
その名物の名称は「油ソバ」という。

油ソバを御存知でない方もいるかもしれないから、一応それは汁のないラーメンであると述べておいて、この油ソバ自体へのウンチクは今日のテーマではないから、後日にゆずりたい。
それに、食のテーマは直接には路上には関係してこないだろうから……。いや、屋台で食べるものならこのテーマにはふさわしい。ま、これはヒントです。

今日、ボクが書きたいテーマは先日、この店に食べに行って出会ったことなのである。というか、厳密には店に行けば、誰でも気付くことなのだ。

どうやら、その店ではオリジナルのTシャツをつくっているらしい。ただ、デザイン的にいい出来かと言えば、まぁ、写真を見て判断してもらおう。
ために(笑)、売れ残ったのか店の前に2着ならべてのれんにしているのである。
「ABURA」と朱描きしてあるのが、いま世界を席巻しているアラブ的で素晴らしい。あ、あれはアブラか?

しかし、アラブ問題はアブラ問題である。こんな小さな店ののれんから世界が見えるのだ!
と、メチャクチャなことを言っておいて、このTシャツがクリップで留めてあるだけのところに注目しよう!

しかし、今日は、はなしのテーマがのれんだっただけに、「暖簾に腕押し」だったね(笑)!

いや、「暖簾にTシャツ」でした。

<ワレ路上デ発見セリ!(9)/のれんにTシャツ>



ワレ路上デ発見セリ!/街はサファリ・パーク

2006-02-27 23:32:36 | ワレ路上デ発見セリ!
Giraffe_in_city(承前)そう、ゾウのとなりにはちゃんとジラーフ、きりんもひかえている。トウクトゥクの駐車した前庭はあたかもアフリカのキリマンジェロの野生自然動物園のようではないか。つまりそれらの動物たちが保護されたサファリパークが模されてある。

このお店は児童書専門の書店である。なかなかユニークな専門書店で、店内には人形や小物の他、世界の民族楽器等も売っている。
そして、この店のメインは出張販売なのである。近郊の幼稚園、保育園、学校等に直接絵本や児童書を売りに行く。その時、活躍するのがトゥクトゥクという訳なのだ。

ボクの知る限り、子どもたちにも好評でこの店のヒット商品では? と思ったものがある。それは、ちいさな爪切りのようなホッチキスのようなおもちゃである。紙をはさんでパチンと押すと、動物の形が切り取れるというものだった。はやい話が、はさんだ穴で動物の形が切り取れるパンチなのである。それはたしか1個500円だったと思う。その値段は子どもたちには決して安いものではないはずだったが、飛ぶように売れていた。
そして、その切り取られた図柄にもライオンや、サイなどのサファリパークの動物たちがいたように思う。

それらのパンチ穴で切り取られ、遊んで捨てられた野生動物たちが、こうして店先に集まってペラペラだった二次元から立体化し、自分達の故郷であるサファリを再現している。と、そんなファンタジィをボクは夢想したものだ。

<ワレ路上デ発見セリ!(8)/街はサファリ・パーク>



ワレ路上デ発見セリ!/わが街のトゥクトゥク

2006-02-26 23:23:46 | ワレ路上デ発見セリ!
Tuktuk_troru「絶対零度看板」もあるボクが住む街には、なんとトゥクトゥクもあるし、実際に走っているのである。はじめ、踏切りの向こうからトゥクトゥクが走ってきた時には、さすがのボクも仰天した。アタマの中はすぐさまバンコクになってしまったくらいだ。しかし、その運転手の顔を認めた時、その顔が見知った顔だったので妙に納得してしまった。いっそ子供達のもとへその車で、絵本を届けたりするんだったらフィリピンのジプニの方が派手だったじゃないかと余計な詮索をしてしまったほどである。

で、わが街のトゥクトゥクを先日見に行ったら、かたわらには象の置き物がいい具合に配してあった。これって映画にもなった児童文学「星になった少年」の影響?
でも、よく見るとその象の置き物はアジア象じゃなかった。ま、それは仕方ないだろう。だって、その脇には、あ、それは明日書くことにしよう。

(注)トゥクトゥクは三輪タクシーです。タイでは、日本でとんと見かけることのない三輪自動車がトゥクトゥクという三輪タクシーとなって、排気ガスを撒きちらして走っています。風を切ってトゥクトウクに乗車し、運賃交渉をするのを旅の無上の楽しみにしているひとも多いことでしょう(笑)。

<ワレ路上デ発見セリ!(7)/わが街のトゥクトゥク>




ワレ路上デ発見セリ!/絶対零度看板(続報)と八千アクセスめ

2006-02-25 23:55:36 | ワレ路上デ発見セリ!
K0_kanbanロラン・バルトの「零度の文学」の、ひそみにならって「絶対零度の看板」と名付けた看板は、コメントの書き込みで御指摘があった通り、この看板のあったマンションから整骨師が退去し、店を閉めたので裏返されたものに違いない。でも、それだけでは「絶対零度の看板」の意味はない。というか、意味は初めから失っているものなんだが、もうひとつの看板は裏返すとますますその「絶対性」を発揮するのに液晶のようにバックライトで看板の文字を浮き立たせているのである。
これは、マンションの自転車置き場のひさしに設けられた看板なのだが、街灯の代わりをかねているのか夜には点灯している。そのため、「絶対看板」はいっそうその存在をアピールし、あざやかに宣伝しているのである。
おそらく曇ガラスの裏側に描かれたものが、表になったためよりあざやかになったのだろうが、そのあざやかさはますますこの「絶対零度看板」の存在を断固として主張しつづけるのだ!

<ワレ路上デ発見セリ!(6)/絶対零度看板(続報)>

フーゲツの JUNさん、こんにちは。
mixiからのお知らせです。JUN さんのページ全体のアクセス数が8000アクセスを超えました。記念すべき8000アクセス目の訪問者は姉妹コミュ誕生です! さんでした!

姉妹コミュ誕生です!さん、ありがとう!

ブログ『風雅遁走!』自体としてのアクセスは
閲覧ページ数合計: 43609
1日あたりの平均: 92.59
今週: 663
でした。



ワレ路上デ発見セリ!/絶対零度の看板

2006-02-23 23:57:29 | ワレ路上デ発見セリ!
Mirror_ad鏡文字というのは、ちょうど裏側から透かして読める文字、鏡に写せば正像となって読める文字の事だが、ミステリーや謎かけには使われても、まさか多くの宣伝媒体として町を埋め尽くしている看板には使われることはないはずだろう思っていた。ところが、それがあったのだ。それも、ボクにとってはもっとも身近なわが町に!
ボクが知る限りこの看板は、もう数年にわたって営々と見事な宣伝効果をあげている!
もうボクなど気になって気になって、この町の看板の中で一番みている看板ではないかと思う程である。それに、どうやらその看板が宣伝し、誘い掛けるものがどうやら中空というか、空虚な実体をともなわないものらしいと推測すればするほど、ボクの好奇心は増大するのだ。

そう、なんと言えばいいのだろう! あのロラン・バルトの構造主義的な見事な論理構成を彷佛とさせてしまうのだ。その実用的な役目から解き放たれた看板、読ませ宣伝するという「看板」の役割からさえ自由になった看板。そこに掲げられ、あることだけの純粋なる存在!
中心が空虚なる非実用的な有り様!
これをロラン・バルトの「零度の文学」の、ひそみにならって「絶対零度の看板」と名付けたい(笑)!

<ワレ路上デ発見セリ!(5)/絶対零度の看板



ワレ路上デ発見セリ!/踊り場のシーサー

2006-02-22 23:31:17 | ワレ路上デ発見セリ!
Seasir_stepシーサーを御存知だろうか? 沖縄各地で赤瓦の屋根に君臨している陶製の置き物だ。これは、家の中を窺おうとする「魔」を払う「魔除け」の意味があるようで、沖縄を旅すれば誰もが印象にとどめるだろう風習のひとつだ。
シーサー自体は「民芸」と呼んでもいいのではないかとボクは思っている。民衆の生活の中に、溶け込んだアートと言っていいだろうと思っている。

伝統的なシーサーは獅子の姿をしているが、内地(ヤマト)で言えば瓦の棟のところに取り付ける「鬼瓦」(これも「オニ」だった!)に当たるものかも知れない。ただ、「鬼瓦」は、立派な日本瓦の家のみだが(それゆえ、今は少ない)、「シーサー」は、貧しいひとの家にも、コンクリートにも、それこそマンションであろうとも取り付けるのは可能だ。
かく言うボクも道に張り出したところに、ネットで取り寄せたシーサーをつけている。赤瓦と白い漆喰の取り合わせの沖縄の民家の屋根の美しさにはかなうべくもないのだが……。

写真のシーサーは階段の踊り場付近で手すりの上に鎮座して、外部を端倪(たんげい)していた。どうやら、このお宅の二階部分の入り口を守り固めているようであった。
なかなかの面構えだ。本場の沖縄の方が、伝統的なシーサー(それはどこか唐獅子、チャイナ風である)がオリジナルや愛嬌のあるものに取って変わりつつあるのに比べ、ヤマトのシーサー愛好家の方が伝統的なデザインを好むようである。
全身真紅に塗られたこのシーサーの迫力は泥棒、訪問販売はもちろんお客さんも帰してしまうのではないかと思われた(笑)。

<ワレ路上デ発見セリ!(4)/踊り場のシーサー>



ワレ路上デ発見セリ!/毘沙門天前の鬼っ子たち

2006-02-21 23:59:26 | ワレ路上デ発見セリ!
Oni_childrenそうか、節分で追い払われたオニたちはこんなところで寄り添っていたのか! と、思わせてしまうほどこの小鬼たちは愛らしかった。
オニを愛らしく表現したものは馬場のぼるの絵本、アニメ「日本むかしばなし」くらいしか思いつかないが、とかく悪役としてひとびとの、とりわけ何をしているのか分かったもんじゃない善男善女の厄(やく)をかってに負わされて一方的に追放されるオニにボクは同情的である。
そのことは「節分」あたりによく書くことなのだが、そんな巷から追い払われたオニたちが神楽坂の毘沙門天近くの店舗の軒先きに集まっていることは知らなかった。
新旧入り交じった坂の町である。どこか色町の名残りもただよわせる町である。
子オニたちも、こころなしか赤オニが多いのはこの町の色香に惑わされたのであろうか?
路上を歩き回ることによって、見い出した露台の商品。そうではあるが、ほとんど無為のようなたたずまいが自分を結び付けて「商品価値」のなさそうなところに価値を見い出したボクでした。

<ワレ路上デ発見セリ!(3)/毘沙門天前の鬼っ子たち>



ワレ路上デ発見セリ!/路上の「監物」

2006-02-20 22:26:58 | ワレ路上デ発見セリ!
Name_katabutuいや、最初にお断り申し上げますが、監物さま! 一度もお目にかかったことのないあなたさまに何の怨みもある訳ではありません。このようなことで、お子さまがいじめられることがないように祈ります??いや、すみません。道を歩いている時、発見して、思わず吹き出して表札に頭を下げてしまいました。というか、監物さまの御先祖様のイメージまでフツフツと湧いてきて、名字ひとつでこんなに遊べるのか! と、これもあらたな発見だったのです。自分が、ムダに散歩をしたり歩き回っている訳ではないということの証明になったような気がして、とてもうれしかったのです(それと、これとがどうつながるのかは、ボクも説明できませんが……)。

決して、揶揄(やゆ)している訳でも、中傷している訳でもありません。世の中には御手洗という名字の方もいらっしゃるのですから……(これは、一般には「みてあらい」と読みます)。
監物さま! 読みは「カタブツ」でよろしいのですよね。それとも「カンブツ」なのでしょうか?
しかし、敬服いたしました。素晴らしい名字でございます。
その素晴らしさゆえに、ここで紹介させていただきました。お許し下さいませ。
これからも、末永く世の中でそのお名前をユーモラスに流布なさいますよう、お祈り申し上げます!

<ワレ路上デ発見セリ!(2)/路上の「監物」>