風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

マージナルな繰り言

2007-09-12 11:37:05 | コラムなこむら返し
 もうお気づきだろうが、このブログはmixiからリンクして外部日記になっている。ほとんどコメントを寄せてくれるのもmixiの仲間である(マイミクと呼ばれている)。mixi内では活発な書き込みもいざ、このような外部ブログになるとコメントはすっかり鳴りをひそめる。総体的にブログは、迷惑トラックバックはあってもコメントが少ない。コメントが集中するのは有名人のそれと相場が決まっている。

 読者の反応がいかなるものか知ることなく、書くと言う営為に身をゆだねるのはプロの「作家」と呼ばれる人たちだ。かれらは、それでもその孤独な営為を延々と続ける。ひとつには生活のためであり、著書の発行部数が収入とともに、世間の反応のよすがとなるのだろう。(近代)小説はその明治の頃の、出発点からスキャンダラスなものだった。スキャンダラスゆえ、世間の耳目を得ることが流行作家、プロの文筆家のはじまりだった。最近、東京都の副知事に就任して、これまたスキャンダラスな作品で世間にデビューした作家である石原慎太郎のサブを勤めることになった猪瀬直樹は、その就任前の近著『作家の誕生』(朝日新書)で、その事情を分かりやすく書いている。

 明治時代に生まれた「雑誌」は、現在のインターネットにおける「掲示板(BBS)」や、MIXIのコミュのようなSNSつまりソーシャル・ネットワーク・サービスとして始まった。いわゆる「投稿誌」である。これをささえたのは、女子だった。腐女子は明治時代から存在したのだ。明治の頃の腐女子は今で言うところの「ライトノベル」に走ったようである。「少女小説」というジャンルはそのような女性読者に支えられて成長した。とはいえ、この国での散文や小説は、日記の体裁や、物語小説の形で女性たちの手によって始まったというのが通説である。二千年以上も前の平安時代に……。

 「絵巻」というこの国独自の表現は、王朝文化なのだろうが、「物語」は民衆の中で渡来宗教の仏教や、土着信仰のなかから自然発生的に生まれたらしい。伝説や民話として……。そしてそれは「風土記」に見られるように土地の精霊(地母神)と結びつき、先住民への慰撫や、招魂と鎮魂、「今昔物語」に見られるような「鬼」といった異界の存在、マージナルな「場」における不思議譚といったものを呼び覚ましてゆく。

 インターネットもマージナル(境界的)な場所ではないか、というのがボクの考えである。まして、それは電子空間というデジタルな空間で成立している。「霊」の立ち入るスキもないような展開なのに、その実ダークな場所もたくさん存在する。ましてや、そのデータはサーバーや、レンタルサーバーやサーバーとして使用されているコンピューターの中に保存され、更新されているのだとしても、目に見えないその電子情報は、見えない「あの世」と、見える「この世」の境界線上にあるような気がしてならない。

 いわゆる「都市伝説」と言われているものも、クチコミはもちろん、ネットで流布されているような気がするが、このような見えない電子空間であればこその説得性があるようなのだ。

 で、なにが言いたかったと言えば、もっとこのブログの記事にもコメントがあってもいいじゃないか。読んだ方は、素通りしないでコメントを残してくださいよ。せめて、それが書くことの励みになるのだから、という繰り言なのである(笑)。

 ああ、けふも書き込みは何もない、溜息。