端布に恋した私

小さな端布を 縫い集めてつくるパッチワークは 
私の楽しい趣味の一つです。

年越し蕎麦

2005-12-31 | 食べ物
昨日 買い物に行った デパートの地下の食品売り場では
年越し蕎麦が山と積まれていた。
人ごみにもまれて 昼過ぎに我が家に帰ってみると 手打ちの
蕎麦が届いていた。

私の住む ここ田舎では 畑に蕎麦を植え 自分で蕎麦を
打つ家が多い。まだまだ自給自足の生活が多く 残っている。
主人の同窓の 中にもそんな人がいて毎年 みごとな 手打ち
の蕎麦を届けてくれる。
わが家も 義父が元気な頃は 大晦日は 早朝から蕎麦打ち
をしていたが 二人の家族になった今は 延べ板も めん棒も
出番がない。

主人もまた 蕎麦大好きで 三ヶ日中蕎麦でいいと言うほどの
蕎麦好き。
細く長い人生を願って 蕎麦を食べるそうだが 田舎の蕎麦は
つなぎを入れず 蕎麦粉だけで作るので ぷつぷつ切れる短い
蕎麦だ。
いろいろな 事件のある世の中 太く短い人生も あって
いいの かも知れない。 

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洗い牛蒡

2005-12-27 | 食べ物
長い介護の毎日が 終わって半年が過ぎた日 北海道三日間の
ツアーを見つけて 一人で参加した。
初夏の北海道を見たかった理由もあったが 重い介護だったことや
自分しかあてに出来ない毎日 信じられない周りの身内
そんな中から逃げ出したい自分があつた。

旅に出ることは 美味しいものを食べたり 見たりすることも
楽しいけれど いつもと違う 環境に自分を置くことで 心が
癒される部分が大きいと 思う。
参加者の中に 私より五、六歳若い方が やはり一人で参加されていた。
一人と一人で自然に 仲良くなり 話も弾み 最後の宿では 
枕を並べて休んだ。
その方は 旦那と二人で 大規模に農業を経営しておられた
ところ 突然旦那さんが大きな病気になり 逝かれたとの事。
勤めだった 息子さん一家が 帰ってきて 農業を 継いでくれ
自分は 今は手伝っているとのことだった。

物静かな その方の話し方に 人間皆自分の心の中に 幸せを
見つけるのかなあー と思った。
そして 毎年暮には やわらかい水田で作る牛蒡が届く。
たたき牛蒡 きんぴら牛蒡 掻き揚げ サラダ そして炊き込みご飯
と おいしい牛蒡の風味を味わっている。
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ネルの裾よけ

2005-12-24 | 家族
今年も残りわずか 一週間となった。 年賀状も済んだ。
お歳暮も済んだ。掃除はまだ。あと年越しの事あれこれ
思案する時期となった。

こんなとき母は 大げさにお歳暮はどうかなあー と思われる
付き合いの人達に 先様に重荷にならない心配りをしていた。

年配の人には ネルの布を腰巻ほどの長さに切ったものを贈
っていた。 たいていピンクだっように記憶している。
元気な若い人には 下駄を一足 今ほど下駄も高価でなく
普段にはくものは 安かった。

そのほか 足袋 それも別珍のもので 先様のサイズも知って
いたのだろうかと 今思うと不思議な気がする。
女には 女の付き合いがあり ささやかな女の気持ちが
一年の締めくくりに 小さな贈り物になったのだろう。
皆 生活に追われていたので 実用的なこんな贈り物が
喜ばれたのだと思う。 
相手に喜んでもらえる 贈り物を考えるのは 本当に難しい。
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ネルの着物

2005-12-23 | 家族
子供の頃 お正月といえば 特別の 特別の行事だった。

十二月になると 母は町の呉服屋で子供それぞれに 合った
ネルの着物地を買ってきて 仕立ててくれた。
それが 楽しみで 学校から帰ると 飽きることなく 母の
手元を見ていた。
母は 手を動かしつつ 縫い物に興味のない私に それとなく
縫い物のコツや 技を言い聞かせていた。

覚える気のない私は 上の空。
そんな私を見て 明治生まれの父は「オギヤーと生まれた
赤ちゃんに 洋服は着せられないのだから」といい 母に 
和裁の手ほどきを受けるように くどいように 言っていた。

なんでも 揃っている 現代のベビー用品売り場を 亡くなった
父が見たら なんと言うだろう。

まだ 化学繊維が珍しい時代だったので ネルの生地が豊富に
出回っていた。 縫いあがった着物は新しい下着 下駄 足袋
とともに 元日の朝おろして着ていた。
一年前の 古いネルの着物は 寝巻きになり そのあとは湯たんぽ
の着物になった。

下手の長糸や 晴れの着物の袖は一尺三寸とか 上の空で 聞いた
母の言葉が 今でも耳に残っている。 
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宮崎に雪

2005-12-22 | 自然
今朝 窓を開けてビックリ。
一面に雪 アスファルトの道路は 濡れている状態だけど
畑も 生垣の頭も 西洋かなめもちの垣根も 小さい葉に
雪を乗せて 踏ん張っている。

ラジオをつけてみると なんと六十年ぶりの 雪とのこと。
あちこちで交通規制を伝えている。
あわてて 水道をひねったら 水は出る お湯も出る
勿論電気も異常なし。
これで 一安心。日向の国の雪は 多分午前中には 消えて
しまうだろう。
朝の仕事は そのままにして この雪 もう少し眺めていよう。
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湯たんぽ

2005-12-20 | Weblog
今年の寒さに 負けてとうとう 電気あんかを出した。
布団に 入る時間を逆算して 三十分くらい前に忍ばせておく。
布団をめくって もぐり込む時 ふんわかあったかで 
すぐ温まる 事が出来る。

子供の頃の 冬の夕方はとても忙しかった。子供たちそれぞれが
自分の湯たんぽをもって 台所の 母の傍に並んだ。
七輪の上で 滾っている薬缶のお湯を入れてもらい 古いネルの
着物に巻いて 自分の寝床に入れておく。
その暖かさは 母の温もりでもあった。
朝は その湯たんぽのお湯を使って 顔を洗った。
今より ずっと ずつと冬が寒かったような 気がする。

先日 買い物に寄ったドラッグストアーで 湯たんぽを見た。
赤いのや 緑やカラフルなのが並んでいたが 私は
湯たんぽじゃない と一瞬思った。
やっぱり 湯たんぽはブリキでなくては 湯たんぽじゃない
そして どこそこ凹んでいなくてはーーー
と 変な 文句を付けていた。
それにしても 湯たんぽと言う名前語源は何だろう?
 
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だるまストーブ

2005-12-19 | Weblog
ここ 二、三日の寒いこと 寒いこと。
朝早くから 仕事に出かける人達のことを 思うと自分を
反省し だらしないなあーと思う。

エアコンが付けてあっても 生まれつきの貧乏症 灯油ストーブ
にしがみついている。

高校を卒業して 始めて勤めた役所には 広いフロアーに
大きな だるまストーブが二台あった。
昭和三十三年頃の話。
まだ自家用の自動車などない時代 通勤はもっぱら公共の
交通機関か 自転車だった。

寒い冬 出勤すると 一足早く出勤した用務員さんが ストーブ
に火をいれ ストーブは赤々と燃えていた。横には石炭を入れた
横長の ブリキのバケツが置いてあった。

だるまストーブを 皆で囲み 手をかざして 暖ををとりつつ
世間話に花が咲いた。
男性の多い中 卑猥な話になると 笑って話に加わると 
すれた女に見られそうだし 知らないふりをすると かまとと
に見られそうで 草々に席に着いていた。

何も分からない 小娘の仕事は まず書き損じの和罫紙で
こよりを作ること。
あの頃 文書は和罫紙にカーボン紙を挟み セロハン紙を載せ
複写で 書類を作っていた。ひきのいい紙は こよりを作るのには
最適だった。

今で言うリサイクルだったのだろう。
右手と左手を上手に操り まっすぐに細いこょりを作る すべは
このとき覚えた。

今 こよりを作ろうにも 薄くてひきのいい日本の和紙には
なかなか出会うことがない。

それもそのはず 文具屋に行けば 立派な機械で撚った こよりを
売っている。 こよりを撚る事が出来るなんて 自慢話にも
出来ない時代になった。
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2005-12-18 | Weblog
いつも パッチワークをする部屋の窓から 欅の木が見える。

今朝の朝日新聞の 天声人語を読んでいると 各地の欅に異変が
見られるという。
葉がよじれ枯れたまま 落ちない現象があるという。
そういえば 今ごろは裸になっているはずなのに まだ多くの葉
が 残っている。

葉が全部落ち 樹木は丸裸となる 例年とは様子が違う。
まだ三分の一くらい寒空の中 木にしがみついている。
いつもは きれいに葉が落ち 木は寒い中裸のままで 春を待つ。
彼岸を過ぎる頃から つぼみを膨らませ 透明な薄いグリーンから
次々と 濃い緑へと色を変えて 五月になると 初夏を思わせる
風を遊ばせる。

我が家を建てるとき 亭主が材木には いちゃもんをつけた。
その結果 材木のまま購入し製材所で 賃引きしてもらい 
建てた。
中でも 床のフローリングには請った。
廊下は欅 キッチンと書斎は桜と こだわった。
家自体が 小さいので出来た 我がままだったと思う。
昔は 身分の低いものは 欅の用材など使うことが 許され
なかった時代も あったと言う。

なぜ 今年に限ってまだ 葉が落ちなくて木に
しがみついているのか?
子供がいつまでも一人前に 育たず子供に手を掛ける
人間社会の 現象が移ったのかもーーー

それにしても 歳をとってもしっかり自立した
老人になりたいと 思う。
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道 草

2005-12-17 | Weblog
私が小学校の一年生の夏に 日本は戦争を終わらせた。

足はわら草履 かばんは母の帯で作った手作り 洋服は母の
セルの着物で作ったもの。教科書は 黒めのわら半紙を五、六枚
閉じたものだった。
貧乏人も 金持ちも 欲しくても物のない時代だったので 大差の
ない 身づくろいをしていた。
焼け跡の商店街は 道路の両脇に露天が 隙間なく並び 近くの
農家の主婦は リヤカーに自家製の野菜や漬物を並べて 売っていた。
皆んな 生きていくのに精一杯の時代だった。

小学校は 我が家から十キロくらい離れていて 一番の繁華街を
通学していた。
小学校の低学年 帰りの道草には事欠かなかった。
今 思い出しても わくわくする。
学校の勉強はあまり記憶にないのに 帰りの
道草したお店は 今でもはっきり 思い出せる。

学校の門のそばの 二ノ宮金次郎に礼をすると もう門の外。
染物屋があり 大漁旗や 五月ののぼりが はためいていた。
その隣は 大きな釜にお湯がたぎり 蚕がたくさん浮かび 
糸繰り機 がまわっていた。
窓のガラスに顔をはりっけて 飽きず眺めていた。

その隣には傘屋があった。 今ではもう見ない蛇の目や番傘 日傘
竹を削って 紐で編んで和紙を張って 油を塗って 庭一杯に花が
咲いたように 干してあった。
あのときの 油のにおいは 未だ鼻の奥に残っていそうな気がする。

墓石屋 竹屋 鍛冶屋 仏具屋 表具屋 畳屋 アイスキャンデー屋
自転車屋 漬物屋 下駄屋 洋服仕立て屋 時計屋

とどめは 猪肉屋 寒い冬になると 捕れた猪を店頭で 
二、三人の男集が 小さめの牛刀で骨をはずしていた。
猪は 大きな牙をもち 口を半開きにして 解体の台に横たわって
いた。 怖いもの見たさに わあ わあ言いながら走って
通っていたが 今でも はっきり記憶にあるのは
しっかり見ていたのだろう。

大人になっても あの頃道草で見たり 体験したことが
役に立っている と思うことが たまにある。 
 
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赤い実

2005-12-16 | 自然
気ぜわしさと 寒さで見過ごしていたのか 庭の南天が
見て 見て と言っているように真っ赤な小さい実を 付けて
いる。
見回してみると 色気のない庭に 南天 ピラカンサ 千両 万両
と 少しづつ違った赤い色で実を付けている。

 ♪赤い鳥 小鳥なぜなぜ赤い
  赤い実を食べた。♪

 北原白秋は こんな風景をみて作ったのかと ふと思った。
歳が明けて 「寒」にいると いろいろの鳥たちが この実を食べに
やってくる。
ヒヨドリの留守を確かめて メジロがやってくるのを 今年も
楽しみにしょう。
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