分類・歴
鹿島の大火事
昭和4年2月25日(旧正月の16日)は北風が強く吹く寒い日だったが、この日は鹿島村走熊のH宅で家の建て替え工事のために大工や石屋が作業をしていた。
10時の一服時間に残材やカンナ屑を燃やしながら暖を取り、そのあと仕事に取り掛かっても火種を消すことなく、木っ端が出る度に燃し続けていた。
《燃え広がる山火事⇒本文と直接関係はない》
時折、烈風が吹く中の午前11時半頃に、石屋が馬屋を見ると茅葺き屋根の中段から火の手が上がっているのを発見。大声で人を呼んだ。
仕事をしている人は勿論のこと、近隣の人々も慌てて駆けつけバケツで散水したが火勢は増すばかり。
その火は見る間に延焼して近くの八坂神社や福正院蔵福寺の他、山を伝って観音様を祀る高寺山までを焼き焦がし、その火は隣の上蔵持にまで延びて、更には江名・豊間へと止まるところを知らなかった。
《現在の走熊地域の一部風景》
特定は避けるが、火の手が上がった場所は写真(上)の範囲内からであったことは事実。
その結果は住家48戸、非住家38棟、山林300町歩を焼失した。
原因は失火で、損害額は40万円にも上った。当時の米価が60kgで6円20銭前後だったから現在の金額に換算すると、約8億円の損害が出た。
鹿島の人たちは、これを「走熊の大火事」と呼ぶが『福島県災害誌』では「石城郡鹿島村の大火」として記録してある。
鹿島の大火事
昭和4年2月25日(旧正月の16日)は北風が強く吹く寒い日だったが、この日は鹿島村走熊のH宅で家の建て替え工事のために大工や石屋が作業をしていた。
10時の一服時間に残材やカンナ屑を燃やしながら暖を取り、そのあと仕事に取り掛かっても火種を消すことなく、木っ端が出る度に燃し続けていた。
《燃え広がる山火事⇒本文と直接関係はない》
時折、烈風が吹く中の午前11時半頃に、石屋が馬屋を見ると茅葺き屋根の中段から火の手が上がっているのを発見。大声で人を呼んだ。
仕事をしている人は勿論のこと、近隣の人々も慌てて駆けつけバケツで散水したが火勢は増すばかり。
その火は見る間に延焼して近くの八坂神社や福正院蔵福寺の他、山を伝って観音様を祀る高寺山までを焼き焦がし、その火は隣の上蔵持にまで延びて、更には江名・豊間へと止まるところを知らなかった。
《現在の走熊地域の一部風景》
特定は避けるが、火の手が上がった場所は写真(上)の範囲内からであったことは事実。
その結果は住家48戸、非住家38棟、山林300町歩を焼失した。
原因は失火で、損害額は40万円にも上った。当時の米価が60kgで6円20銭前後だったから現在の金額に換算すると、約8億円の損害が出た。
鹿島の人たちは、これを「走熊の大火事」と呼ぶが『福島県災害誌』では「石城郡鹿島村の大火」として記録してある。
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