分類・歴
村是になった 「一圓融合」
場所 : いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2
一圓融合の碑が常磐・江名線(湯本~江名線の県道48号)にある。
昭和9(1934)年2月、村長に就任した志賀直哉が荒廃した村政を立て直し、豊かで平和な郷土をつくるという発想から村民に意識を促すために広めた言葉だ。
昭和初期は全国的に大不況に見舞われ、特に農村漁村の影響はひどく鹿島村もその例外ではなく、不況と共に村内の世相も激しく揺れ動いていた時代だった。
《熊野神社上り口にある一圓融合の碑》
一圓融合の4文字を簡潔に説明することは難しいので、その一部に触れると「人徳を以って万象の徳を開闢(かいびゃく)するが故に、報徳生活は人道の原則であり一圓融合によって万象が生々発展し……」などと述べられている。
志賀直哉(村長当時)は、鹿島村内12大字(御代・船戸・飯田・久保・下蔵持・上蔵持・米田・三沢・走熊・下矢田・上矢田・松久須根)全体の不況脱出と融合を願って旧、鹿島小学校校舎玄関前に12本の棕櫚(シュロ)の木を円形に植えた。
その中央に二宮金次郎少年期の銅像を配した。これは児童たちが金次郎にあやかるようにとの念願を込めての建立だった。
延喜式神名帳登載の磐城七座の一つである、鹿島神社(常磐上矢田町)には、当時の鹿島村振興委員会が奉納した「一圓融合」の文字が刻まれた木碑があるが、使用された木の素材は歴史ある七本松(走熊にあったもの)が倒木した内の1本を輪切りにして作られている。
村是になった 「一圓融合」
場所 : いわき市鹿島町下蔵持字戸ノ内87-2
一圓融合の碑が常磐・江名線(湯本~江名線の県道48号)にある。
昭和9(1934)年2月、村長に就任した志賀直哉が荒廃した村政を立て直し、豊かで平和な郷土をつくるという発想から村民に意識を促すために広めた言葉だ。
昭和初期は全国的に大不況に見舞われ、特に農村漁村の影響はひどく鹿島村もその例外ではなく、不況と共に村内の世相も激しく揺れ動いていた時代だった。
《熊野神社上り口にある一圓融合の碑》
一圓融合の4文字を簡潔に説明することは難しいので、その一部に触れると「人徳を以って万象の徳を開闢(かいびゃく)するが故に、報徳生活は人道の原則であり一圓融合によって万象が生々発展し……」などと述べられている。
志賀直哉(村長当時)は、鹿島村内12大字(御代・船戸・飯田・久保・下蔵持・上蔵持・米田・三沢・走熊・下矢田・上矢田・松久須根)全体の不況脱出と融合を願って旧、鹿島小学校校舎玄関前に12本の棕櫚(シュロ)の木を円形に植えた。
その中央に二宮金次郎少年期の銅像を配した。これは児童たちが金次郎にあやかるようにとの念願を込めての建立だった。
延喜式神名帳登載の磐城七座の一つである、鹿島神社(常磐上矢田町)には、当時の鹿島村振興委員会が奉納した「一圓融合」の文字が刻まれた木碑があるが、使用された木の素材は歴史ある七本松(走熊にあったもの)が倒木した内の1本を輪切りにして作られている。
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