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小松基地問題研究会

20240511 米欧旅行後の島田清次郎 ―― 第三インターナショナルについて

2024年05月11日 | 島田清次郎と石川の作家
20240511 米欧旅行後の島田清次郎 ―― 第三インターナショナルについて

  

 島田清次郎(島清)は1922年4月から11月まで米欧旅行をおこない、帰国翌年、①「鍬に倚れる人マークハム」(1月『文章倶楽部』)、②「婦人参政権論者の幻滅」(2月『婦人公論』)、③『改元―我れ世に勝てり』(3月、新潮社)、④「新しきインタナショナルの発見と成立」(4月『新潮』)をたてつづけに発表した。いずれの作品にも、米欧訪問中に考えたこと、感じたことを書いている。
 それぞれの主要テーマは、①はアメリカの革命志向の詩人にぞっこん、②はイギリスの婦人参政権活動家に衝撃、③は革命志向から新興宗教への変節、島清の被害妄想の吐露、④は島清の文学者観の変節―変革者から非変革者へ、である。
 今回の論考は②、③、④のなかに表れてくる第三インターナショナル(コミンテルン)に関する論述を対象化した。

島清、米欧訪問前の内外情勢
 世界的情勢としては、1914年から始まった第1次世界大戦が1918年11月に終結し、1919年1月にパリ講和会議。その間にロシア革命が起こり(1917年)、1919年3月に第三インターナショナル(コミンテルン)が発足した。1920年1月国際連盟。
 国内では、1919年朝鮮独立宣言を発表(2月→3・1運動)し、年間のストライキは497件、小作争議は326件。1920年普選大示威行進(2月)、日本社会主義同盟創立準備会(12月)。1921年日本共産党結成の準備(4月→1922年結成)がはじまり、赤瀾会が結成(4月)され、1922年には水平社宣言(3月)、日本農民組合創立(4月)、新婦人協会・政談演説会(5月)、ストライキ250件、小作争議1578件など人民の活動が活発化している。
 これにたいして、政府は1921年大本教弾圧(2月)、1922年には「過激社会運動取締法」「小作争議調停法」などを国会に上程(廃案)している。
 両階級間のつばぜり合いの真っ只中、島清は1922年(4~11月)に米欧を旅行し、最新の世界情勢に接してきたが、4作品のうち3作品で第三インターに触れているので、この問題について整理しておく。

第三インターナショナルについての論述
 ②「婦人参政権論者の幻滅」では、「パンカースト夫人の一派は…急激に左傾して、労働党や婦人参政権運動どころか今や、モスコーの第三インタナシヨナルに属する英国共産党にさへ反旗をひるがへして、第四インタナシヨナルの宣伝と運動に従事してゐるのである」、「議会政策に絶望した私は、ソヴイエツト・ロシヤ(注:1917年~)に大きな希望をかけたのですが、それも幻滅でした。もう世界を救ふものは第三インタナシヨナルではありません。第四インタナシヨナルです」、「The Communist Workers party and Fourth International(共産主義者労働者党と第四インターナショナル)として、目的、方法が綱領的に書いてあつた」、「現在のレニンのソヴイエツト・ロシヤはいかぬ」と、第三インターナショナルを否定的に記述している。

 ③『改元―我れ世に勝てり』では、「勿論、我々は第三インターナショナルのプログラムによつて極力戦争に反対する。又、さきほど急進的ならざるトレード・ユニオンに属する全国労働者も反対するであらう」、「私は、此度巴里の第三インターナショナル大会へ出席する前には、ロシヤについで米国にプロレタリアン革命が起り…」、「この度びの第三インタナショナル巴里大会は、要するに,モスコー・インタナショナルの退却策と保守政策とを決定して、こゝにロシア・プロレタリアン革命に一時期を画したものであると思ひます。従来の世界の共産化の事業は,暫く現状維持――すなはち或る圏内への退却を実行し、…」、「第三インタナショナルに対する懐疑であります。私は少くとも、第三を以て最後のものとは信じられません。第四,第五――とつゞくべきものであります」などと書かれ、第三インターの変質を見ている。戦闘的サフラゼット(女性参政権運動)・パンカースト夫人の影響を強く受けている。

 ④「新しきインタナショナルの発見と成立」では、「モスコーを中心とする第三インタ・ナショナルは、世界共産化の世界同盟で、やはり戦闘のための連盟である」と、ここでは第三インターを革命の最前線として肯定的に述べている。

年表、第一インターから第四インター
1864年 国際労働者協会(第一インターナショナル、ロンドン)
1889年 第二インターナショナル結成(パリ)
1914年 第一次世界大戦~1918年11月終結、1919年1月パリ講和会議
1914年 戦争を支持する多数派と反戦主義者の少数派に分裂
1917年 ロシア革命
1919年 3月、第三インター(コミンテルン)結成(モスクワ)
1920年 第三インター第2回大会(ペトログラード、モスクワ)、
1921年 ドイツ革命の敗北
1921年 6月~第三インター第3回大会(モスクワ)
1922年 コミンテルン日本支部(日本共産党)
1922年 島清米欧訪問(4~11月)
1922年 11月~第三インター第4回大会(ペトログラード、モスクワ)
1923年 「鍬に倚れる人マークハム」(1月)、「婦人参政権論者の幻滅」(2月)、『改元―我れ世に勝てり』(3月)、「新しきインタナショナルの発見と成立」(4月)
1923年 舟木さんとの恋愛事件(4月)、関東大震災(9月)
1924年 「一国社会主義論」(スターリン)→1928年第6回大会で採択
1924年 島清、庚申塚保養院(精神病院)強制入院
1924年 第三インター第5回大会、28年第6回大会、35年第7回大会
1938年 第四インターナショナル結成

第三インターナショナルへの当時の評価
 第二インターは第1次世界大戦を前に祖国防衛論に陥って機能停止していたが、大戦終結後の1919年、レーニン主導で排外主義反対、国際主義を掲げて第三インターが発足した。しかし1921年ドイツ革命挫折後、6月の「第三インター第3回大会では、国際共産主義運動の攻撃的性格を転換させ、資本主義諸国内の社会民主主義勢力との協調と、植民地支配下の民族主義運動の支援という、統一戦線を目指す方向に転換」(「世界史の窓」)している。
 パンカースト夫人が島清に語った第三インター批判と第四インターへの期待は、この第三インターの方針転換によるのではないだろうか。島清によれば、パンカースト夫人は「資本制度もいかぬ、議会政治もいかぬ、労働組合もいかぬ、労働党もいかぬ、…現在のレニンのソヴイエツト・ロシヤはいかぬ、一切がいかぬ、現実の一切からプロレタリアと労働階級を解放して、新しい世界が創られねばだめだ!」と語っているようだ。
 すなわち、1922年のイギリスでは、ドイツ革命の挫折から内向きになり始めた第三インターへの批判がなされ、第四インターの必要性が議論されていたようだ。
 1922年5月にレーニンが脳卒中で倒れ、1924年1月に死亡するや、スターリンは「一国社会主義論」を全面展開しはじめた。党内闘争の末、1925年トロツキーは失脚し(1929年国外追放、1940年死)、1928年7月のコミンテルン第6回大会は「世界革命」を否定し、「一国社会主義」を採択した。
 それから10年後の1938年に第四インターが結成されるのだが、しかし、島清によれば、1922年のイギリスで第四インターが云々されているのである。

別稿での検討課題
 「鍬に倚れる人マークハム」の革命志向の詩人、「婦人参政権論者の幻滅」の日英の婦人参政権動向、『改元―我れ世に勝てり』の革命志向から新興宗教への変節、島清の被害妄想の吐露、「新しきインタナショナルの発見と成立」の文学者観の変節などの論点については、別稿で検討したい。

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