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アジアと小松

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小松基地問題研究会

20180504 野田山加洲藩士の墓(7・28再修正)

2018年05月04日 | 歴史観
野田山加洲藩士の墓(7・28再修正)

 尹奉吉義士暗葬碑の直ぐ東側に、14基の加洲藩士の墓碑がある。暗葬地を訪問しはじめたころは、すべて立っていたが、数十年を経た今では、半分ほどが倒壊し、落ち葉とシダ類に埋もれている。【松尾芭蕉の「むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす」に似た情景】

 西側から1~14の番号を付して、読み取ると、
1:加洲藩士 監軍 山田定右衛門賢易 墓(行年五十歳) 慶応四年(戊辰)七月廿五日 越後国古志郡於筒葉村領防戦之際手負 同年八月廿九日於本籍没【注:監軍=軍隊を監督する役職】
2:加洲藩士 郷向導役 多和田平八郎意勝 墓(行年三十七歳)慶応四年九月廿四日 岩代国大沼郡於大芦村領 進撃の際戦死【注:岩代国=福島県】
3:加洲藩士伍長 末岡茂三郎一茂 墓(二十一歳)
4:加洲藩士伍長 小川六三郎永則 墓(二十一歳)
5:加洲藩士伍長 山川文太郎勝之 墓(三十歳)
6:加洲藩士伍長 藤田隼太郎信政 墓(三十五歳)
7:加洲藩士伍長 大館采右衛門晴正 墓(三十六歳)
8:加洲藩士伍長 宮嶋太一郎元晴 墓(二十一歳)
9:加洲藩士伍長 金子五十松雋 墓(十八歳)【注:雋=しゅん、すぐれる】
10:加洲藩士伍長 長谷川清助好政 墓(二十九歳)
11:加洲藩士伍長 竹村伝二郎方建 墓(二十七歳)
12:加洲藩士伍長 安原喜太夫好真 墓(二十六歳)
13:加洲役夫   新右衛門 墓
14:加洲役夫   二七 墓

 14基の墓標の他に、達勲【勲=手柄】と効忠【忠をいたす】の石灯籠がある。



 また、国立国会図書館デジタルコレクションの『加賀藩北越戦史』(千田登文編1921年発行)には106人の戦死者リストがあり、そのなかに野田山墓地の墓碑に刻まれた13人の名前もある。

加賀藩の北越戦争とは
 『石川県の歴史』(1970年発行)所収の年表によれば、「1868年1月5日、前田慶寧、徳川慶喜に協力するため出兵を命ずる。15日、加賀藩兵、進軍をやめ金沢に帰る。3月5日、慶寧、毎年米10万俵を7年間にわたり朝廷に献納することを乞い、許される。4月13日、北越に出兵を命じられる。5月28日、慶寧、越後の官軍に金13万両を送るよう命じられる。」

 『畝源三郎のHP』によれば、「慶応4(1868)年正月3日、鳥羽・伏見の戦端が開かれた。加賀藩主・前田慶寧(よしやす)は、正月6日、徳川方に味方するため、直ちに出兵した。ところが、越前のあたりまで進んだ時、徳川方敗走の報が入り、徳川を朝敵とする勅も出ているので、加賀藩は、福井県坂井市丸岡町長崎まで進軍していた兵を呼び戻し、加賀藩は朝廷方に尽くすと急遽表明した。4月に、加賀藩にも出兵の命令が下り、小川仙之助、箕輪知太夫らの精鋭部隊約7600人が出兵し、長岡城攻撃など、新潟県、山形県にかけて各地を転戦した。加洲藩士106人が戦死した。」(要約)


北越戦争に至る加賀藩(慶寧)の動向
 北越戦争出兵に至る幕末期の加賀藩の動向について、『前田慶寧と幕末維新』(徳田寿秋著)で確認しておこう。前田慶寧(よしやす)は加賀藩最後の藩主(1866~)であるが、前藩主斎泰(なりやす)のころからの確認が必要である。

 全国政治としては、1844年オランダ国王が開国要求―回答は謝絶。1853年ペリー浦賀に来航→1854年日米和親条約(下田、箱館開港)。1858年日米修好条約。1860年水戸・薩摩の浪士が井伊直弼暗殺(桜田門外)。1862年生麦事件(イギリス人殺傷)。1863年長州藩―下関海峡通過の外国船砲撃→薩英戦争。1863年8・18政変(七卿西下)。1864年池田屋事件→長州征伐の命―禁門の変→第1次長州征伐→高杉晋作挙兵。1866年第2次長州征伐。1867年明治天皇即位。1867年大政奉還→王政復古。1867年坂本龍馬、中岡慎太郎暗殺。1868年鳥羽伏見の戦い→倒幕軍江戸入城。

 全国政治の激動のなかで、加賀藩は生き残りをかけて、右往左往するが、斎泰は開港貿易論(佐幕)を支持し、慶寧は鎖港攘夷論(尊王攘夷)を支持した。尊王攘夷派は封建的な幕藩体制を批判したが、近代化については非開明的であった。

 1863年ごろの慶寧は<尊王攘夷+長州征伐反対>の立場に立っていて、<攘夷実行→長州周旋→長州征伐>という段階的な方針をとり、長州征伐への出兵を強要する幕府に抵抗した。1863年8・18政変(七卿西下)後、京都の情勢は<長州+朝廷:幕府>から<朝廷+幕府:長州>へと変化し、1864年上洛時の慶寧は幕府側からの取り込み攻勢を受け、幕府側の要求に同意・恭順する。このころ、加賀藩内では、小川幸三、福岡惣助、不破富太郎、大野木仲三郎などが全国の尊王攘夷派と連携していた。

 長州藩が京都に軍を派遣したのにたいして、朝廷は加賀藩に軍出動を要請したが、慶寧はこれを拒否した(長州擁護)。長州藩への周旋に失敗し、慶寧は退京方針を出した(尊王攘夷派は支持、佐幕派は反対―分裂状態)。

 1864年7月、朝議で長州征伐の命令が下ったが、慶寧は欠席し、長州征伐に加担しなかった。禁門の変では長州が敗退した。加賀藩の在京部隊は幕府側に立って行動し、慶寧は金沢に戻り、謹慎の身となり、尊王攘夷派への弾圧が始まった(小川幸三、千秋順之助の切腹など)。千秋は慶寧のブレーンで、「を治むるの議」では、差別撤廃論を主張している。

 1865年4月、慶寧の謹慎が解除され、1866年斎泰が引退し、慶寧が藩主となった。第2次長州征伐が失敗し、慶寧は3700の兵を連れて上洛したが、長州再征を拒否し、金沢に戻った。慶寧は武力倒幕を否定したが、幕府権力の削減を主張し(領内の富国強兵)、大政奉還・公儀政体路線を歓迎した。

 1867年11月慶寧上洛。―武力討幕派が京都に軍事力を結集→薩摩、土佐、安芸、尾張、越前によるクーデター(王政復古)。慶寧は<徳川擁護=朝敵→反徳川>と判断して、「徳川に加勢出来ない」と通告して、帰国した。

 1868年1月、鳥羽伏見の戦い→幕府軍敗退(在京の加賀反軍は幕府と一線)。金沢では、徳川援軍の出兵決定→尊王攘夷派が反対→慶寧は派遣軍を引き返させた。2月東征の軍議~東海、東山、北陸から慶喜軍追討の東征→3/2朝廷軍金沢入り。4/11江戸城無血開城(西郷・勝会談)。

 4/15加賀藩に出兵命令→北越戦争へ~8/1小川仙之助隊帰還(最後は1869年2月)。北越戦争の財政負担…14万両の献金、1万3000石の白米。士卒1744人、監察軍吏953人、従僕役夫7600人、内106人戦死。

石川県の「明治維新」
 加賀藩では前藩主・斎泰とその側近は佐幕派であり、慶寧とその側近は尊王攘夷派で、藩内は分裂していたが、中央情勢との関係で右往左往してきた。長州征伐(1864年)を拒否した慶寧は謹慎の身となり、尊王攘夷派は弾圧された。その後佐幕派(斎泰)が優勢になり、鳥羽伏見の戦い(1868年)で徳川援軍の出兵決定をおこなったが、幕府軍の敗退で、加賀藩内の尊王攘夷派が優勢になり、力関係が逆転し、慶寧は派遣軍を引き返させた。

 3月徳川慶喜追討の東征軍が金沢入りし、4月には加賀藩にも出兵命令が出され、北越戦争に参戦し、最後の部隊が金沢に戻ったのは翌年2月だった。その間、14万両の献金、1万3000石の白米を供出し、士卒1744人、監察軍吏953人、従僕役夫7600人を送り、その内106人が戦死した。

 これが石川県の「明治維新」なのである。開明性もロマンもなく、加賀藩の存続だけが「大義」であった。野田山墓地の北越戦争戦死者の14墓群は石川県における「明治維新」の暗部を晒すがゆえに、歴史家からも無視され、崩れるままに放置されている。すなわち、「すばらしい明治」とあまりにもかけ離れているからである。

 金沢市に「北越戦争戦死者墓群」に関する情報公開を試みたが、文化財保護課にはなにひとつ資料はなく、市民課(墓地管理)が開示した資料には、墓域の面積(174.6坪)が記載されているだけで、墓地使用者の欄には「越後戦死者墓地」と書かれ、墓地台帳の体をなしていない。いつ、だれ(墓地使用者)が設置したのかが全く不明なまま、無縁墓となっている。

 尹奉吉の暗葬時に読経をしたといわれている尼僧・山本了道の調査のために覚尊寺を訪れたところ、その境内には「北越役 小川仙之助尽忠碑」が建てられていた。

 1870年、加賀藩は戊辰(北越)戦争で戦死した人々を祀るため、金沢市郊外の卯辰山に招魂社を建立し、1935年石引町に移転し、1939年石川護国神社(靖国神社の地方版)となって、今日に至っている。護国神社とは戦争の本質を問わず、戦争責任を問わず、不本意な死を強いらた人民を祭神(人質)とする戦争翼賛神社である。 

 いま、14基の墓碑を前にして、朽ち果てるままにしておくもよし、または下草を刈り、倒れた墓碑を立て直し、不本意な死を強いられた人々と「明治維新」の真の歴史に向きあうのもよかろうと思う。

参考資料
年表『金沢の百年(明治編、昭和大正編)』(金沢市史編さん室)/『畝源三郎のHP』/『石川県の歴史』(1970年発行)/『加賀藩北越戦史』(千田登文編1921年発行)国立国会図書館デジタルコレクション/『加賀能登先人の歩み』(2000年発行)の「加賀藩の幕末と北越戦争」(佐竹裕子)/『墓地台帳・図面』(金沢市)/『前田慶寧と幕末維新』(徳田寿秋著2007年)


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『市史年表 金沢の百年』より
●明治元年(1868)4月15日
 朝廷から加賀藩に北越への出兵を命じてきた(北越戦争)。
 加賀藩からの出兵数は士卒1,744 監察軍吏953 従僕役夫4,600余等で総計7,600余人に及んだ。戦死者は106人。
 太政官発行の紙幣がまだ流通しなかったので約半歳の間、藩から弾薬銃砲類はもちろん米、塩、みそ、わらじ類まで現地へ送り届けた。
●明治元年(1868)5月18日
 藩の定番御徒、西坂丙四郎が越後長岡で戦死した。
●明治元年(1868)10月10日
 前田慶寧が越後戦争の加賀藩戦死者のため卯辰山に招魂祠を造営した。
●明治元年(1868)10月27日
 津田玄蕃が隊兵を率いて越後戦争から金沢に凱旋した。
●明治元年(1868)11月2日
 卯辰山で越後戦争戦死者の招魂祭がおこなわれた。
●明治三年(1870)12月28日
 戌辰役戦死者のため明治元年に卯辰山庚申塚の地に仮招魂殿を建てたが、前田慶寧の意志により同山鳶ヶ峰に招魂社を建立した。(立柱式は13日)
●明治四年(1871)2月25日
 卯辰山の招魂社の祭典を春は2月25日、秋は8月25日におこなうことになった。
●明治五年(1872)2月25日
 卯辰山で招魂祭を執行、相撲の奉納があった。
●明治二十七年(1894)7月4日
 明治戊辰越後戦争戦死者27年忌追悼会が当時の隊長小川清太の主唱で野田町桃雲寺で催された。
●昭和十年(1935)4月13日
 旧出羽町練兵場に造営の第9師団官祭招魂社が落成、卯辰山の旧社殿から1万5,905柱の遷座祭がおこなわれた。新招魂社は敷地2,656坪、総工費15万円。
●昭和十四年(1939)4月1日
 出羽町の第9師管官祭招魂社が内務大臣指定の石川護国神社と改称された。

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