島清が語る「舟木事件」について
島清の『雑記帳』(100ページ)の活字化作業も終盤にかかっている。その過程で、島清の遺品のなかにある『フランス社会運動慨勢』(原稿用紙3枚)を閲覧し、読んでいるが、後日報告したい。
ところで、先日、知人のKさんから1924年2月11日付けの舟木芳江にあてた島清の手紙(2枚中の1枚)のコピーを入手した。この手紙は徳富蘇峰から明翫外次郎に、そして小林輝冶さんにわたったものだという。小林輝冶さんは『北國新聞』(1983年3月)に連載された「狂気の淵から⑥」で、この手紙について述べ、舟木事件はでっち上げられた事件だと判断している。
今回入手した1ページ目と、入手出来なかった2ページ目は小林輝冶さんの記事中から抜き書きして、みなさんに読んでいただきたい。
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大正十三(1924)年二月十一日
嶋田清次郎
舟木芳江様
冠省、小生は今此手紙を御身に差し上げ得る心の明るさをうれしく思ひます。昨春逗子で御別れして以来は、一度も御目にかゝらざるのみか、最も親密である可き相思の君と、お互に真の相手ならざる他の■■と戦ふごとき、心ならず■■■をつゞ■して■、返す〴〵■遺憾に存じます。
去る九月一日の震災■は御一同無事との報を得、安堵いたしをりなりしに、晩秋の後御尊父御逝去の御聞知(ぶんち)し、早速御弔みにもと存じましたが、遠慮をしをりたる次第。生前一度は御目にかゝりたしと念じゐたるに、――――。重信君は、遠く独逸に在り、いさゝか寂寥の情他人事とも思はれずに、昨年■■の時分、重雄兄よりのパンフレットを、とある旅舎で受取りましたが、――――今は震災後でもあり、何んとなく、心からみなさんが、冷静に心の明るさをとりかへしてゐられるだらうと思ひますので、一、二点誤解と思はれる節しを記憶をたどって、御身にまづ申上げ、御身並びにご一家の再考を乞ひたいと思ひます。
何よりの事の起りは八日の日御身が私を怒らしたでせう? ――――あの事にあると思はれます。あなたでなくてはならない、とかたく思ひこんで、種々準備(?)をしてゐ、ずゐ分待
(以下2ページ目を小林輝冶さんの「狂気の淵から」⑥より引用)
たされた揚句の八日に、あなたは来て、何とかいふ学生とすでに恋仲であるとか、又は、その日わづかに一面識を得たに過ぎざる小生にとっては全くの他人に過ぎざる小が平【注:小川平吉】の息女を指して「この方がいゝだらう」などゝ言はれて怒らざる男があるかどうか。小生は真実世界がひっくりかへる程怒ったのです。(略)この非常な、自己の最深最大の真情を侮辱せられた憤怒から発したその後の一切の行動であったことをよく、あの当時の事を考へ合はせてのみこんで下さい。
【注】ここで言う「八日の日」とは1923年4月8日のこと。2日後の10日に警察に捕まった。
解読できなかった文字は■で表記した。「狂気」は差別表記であるが、転載なので、そのまま表記した。
島清の『雑記帳』(100ページ)の活字化作業も終盤にかかっている。その過程で、島清の遺品のなかにある『フランス社会運動慨勢』(原稿用紙3枚)を閲覧し、読んでいるが、後日報告したい。
ところで、先日、知人のKさんから1924年2月11日付けの舟木芳江にあてた島清の手紙(2枚中の1枚)のコピーを入手した。この手紙は徳富蘇峰から明翫外次郎に、そして小林輝冶さんにわたったものだという。小林輝冶さんは『北國新聞』(1983年3月)に連載された「狂気の淵から⑥」で、この手紙について述べ、舟木事件はでっち上げられた事件だと判断している。
今回入手した1ページ目と、入手出来なかった2ページ目は小林輝冶さんの記事中から抜き書きして、みなさんに読んでいただきたい。
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大正十三(1924)年二月十一日
嶋田清次郎
舟木芳江様
冠省、小生は今此手紙を御身に差し上げ得る心の明るさをうれしく思ひます。昨春逗子で御別れして以来は、一度も御目にかゝらざるのみか、最も親密である可き相思の君と、お互に真の相手ならざる他の■■と戦ふごとき、心ならず■■■をつゞ■して■、返す〴〵■遺憾に存じます。
去る九月一日の震災■は御一同無事との報を得、安堵いたしをりなりしに、晩秋の後御尊父御逝去の御聞知(ぶんち)し、早速御弔みにもと存じましたが、遠慮をしをりたる次第。生前一度は御目にかゝりたしと念じゐたるに、――――。重信君は、遠く独逸に在り、いさゝか寂寥の情他人事とも思はれずに、昨年■■の時分、重雄兄よりのパンフレットを、とある旅舎で受取りましたが、――――今は震災後でもあり、何んとなく、心からみなさんが、冷静に心の明るさをとりかへしてゐられるだらうと思ひますので、一、二点誤解と思はれる節しを記憶をたどって、御身にまづ申上げ、御身並びにご一家の再考を乞ひたいと思ひます。
何よりの事の起りは八日の日御身が私を怒らしたでせう? ――――あの事にあると思はれます。あなたでなくてはならない、とかたく思ひこんで、種々準備(?)をしてゐ、ずゐ分待
(以下2ページ目を小林輝冶さんの「狂気の淵から」⑥より引用)
たされた揚句の八日に、あなたは来て、何とかいふ学生とすでに恋仲であるとか、又は、その日わづかに一面識を得たに過ぎざる小生にとっては全くの他人に過ぎざる小が平【注:小川平吉】の息女を指して「この方がいゝだらう」などゝ言はれて怒らざる男があるかどうか。小生は真実世界がひっくりかへる程怒ったのです。(略)この非常な、自己の最深最大の真情を侮辱せられた憤怒から発したその後の一切の行動であったことをよく、あの当時の事を考へ合はせてのみこんで下さい。
【注】ここで言う「八日の日」とは1923年4月8日のこと。2日後の10日に警察に捕まった。
解読できなかった文字は■で表記した。「狂気」は差別表記であるが、転載なので、そのまま表記した。