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小松基地問題研究会

20231030 島田清次郎の『煙』を読む

2023年11月01日 | 島田清次郎と石川の作家
20231030 島田清次郎の『煙』を読む

 小林輝冶さんは島清の『煙』を入院後の1925年以降に作品化したと判断している。登場人物の「加野」が島清で、「園枝」が妻・豊であり、「椙象」が豊の兄である。小林さんも、この作品の講評をおこなっているが、私なりの感想を書いていく。

ほんたうの悪人
 第1項では、1921年11月に原敬が暗殺されたことを皮切りに、村山(経済学)、黒田(生物学)、加野(司法官)の同郷の3人が死刑制度について議論していることから始まっている。
 加野は「善良な悪人(普通の犯罪人)」と「本当の悪人(資本家階級)」を峻別した上で、「死刑がなくては人間の悪を防止することが出来ぬといふ刑法学上の議論が正義」と主張し、黒田は「悪人を罰するに死をもってすることは、動物学的実験の上からみても、合理的だ」と応え、続けて、「正当な代価を支払わずして、優越者の享楽的部分だけを略奪しようとする梅毒菌(資本家階級)を、絶滅せしめることは、正義どころか、生物学的義務なのです」と、資本主義批判に及んでいる。

島清のSecret
 第2項では、村山に誘われて、料理屋で打ち解けているとき、加野(島清)が心中のSecret(悩み)を告白しはじめる。「最初は、僕が悪かったのかもしれません」「羽前大山といふ僻地の出生で、…女学生で、園枝といふ女と知り合ひになりました。…その女と関係してしまったのです」「ところが、その女は、私の子どもをはらんだといって座り込んできてゐるのです」と、ここから、島清の妄想的ストーリーが始まる。
 小林豊は東北の羽前大山の女学生で、島清に写真を添えてファンレターを送り、島清が羽前大山にまで出向いて、結婚を申し込み、1922年1月に金沢穴水町二番丁九で結婚生活を始めた。

 

 穴水町は、『地上』第2部(1920年)にでてくる「角のやうに二本の煙突がにゅっと突き出てゐ、烈風に流れる煤煙のうねりがまきこまれ、機械の壮大な音響が周囲を巻き込」んでいる日本硬質陶器会社のすぐそばにある。
 1月に始まった結婚生活も、島清によるDV(配偶者からの暴力)で、豊の夢は破れ、数カ月で破綻したようで、4月に島清が洋行しているスキに、故郷へ帰ってしまった。豊のおなかにはすでに島清の子が動いていた。

髙群逸枝の『女性の歴史』(1948年)の読書メモより
■ 明治の女平塚らいてうは「元始女性は太陽だった」と叫んだ。しかしその本当の理解は後の研究に待たねばならなかった。日本では、原始から古代に至るまで、母系氏族制が主だった。人間にとって自然が最も巨大な敵であった。まだその生産力は低く、分業として原始的な男と女による性的な分業であった。それぞれの分野で、それぞれが主人であり、とりわけて優劣はなかった。女性は共同体維持の中心となり、妊娠・出産・育児は共同体全体にとって神聖不可侵であった。女性は何ら不安なく出産・育児に心をかけることができた。女性にとって、孤立感を抱く必要はさらさらなかった。
■ 日本では、西欧と違い、私的所有は男女それぞれにあった。夫婦とはいえ、基本的に別居であり、別産であった。それぞれは別の経済単位=氏族共同体に属していた。だが、ここでも生産力の向上は新しい体制を求めていた。氏族間の戦争、下克上の力による富の獲得は肉体的差によって男を有力にした。
 次第に共同体内の富が男に集中しはじめた。そのことは女性の無産化をさらに無力化をもたらした。さらに女性の商品化・物化がなされ、妻の多少がその男の優劣を示すようにさえなった。ここに奴隷化が開始されるのである。家父長制への転回である。女性は一方では父系の純血を守るために夫のもとに閉鎖され、他の男との交通を断ち切り、子産み奴隷と化し、他方では自由な男女間の交通を拒絶された男のために、儀制恋愛のための公娼制が作られ、女性は売買される性的奴隷に転化した。
■ 明治維新はその性格から一時的、部分的に女性の解放に向けての政策がとられたが、次第に別な形で合理化され、良妻賢母型へと変形せられた。明治維新には「四民平等」のかけ声はあったが、それは天皇の下での赤子としての平民の平等でしかなかった。あくまでも部落差別身分はあり、女性の奴隷的身分は厳然として存した。維新はそもそも内外における徳川権力の崩壊的危機を迎えての、封建的支配層が一定の自己の階級の犠牲を我慢して、基本的に延命を計る方向での変革であった。これまで表面に出ていなかった天皇を担ぎ出しての江戸末期の封建領主階級防衛のための体制であった。
■ 江藤新平による民法も、旧来の日本的家父長制・家族制と対立し、当時の学者間に喧々囂々の論争を巻き起こし、引っ込められた。結局あらためて江戸期の家族法、武家法と対立させない新民法を明治31年(1898)に発布したのである。ここでは女性の位置はあくまでも家父長権の下にあり、子女を売り飛ばそうと、殺そうと何らかまわないという状態下におかれた。それでも開明的な官吏の子女や豪農の子女は西欧の家族制や女性のあり方に影響され、日本での女性解放闘争に立ち上がっていった。

消えた希望の光
 このような状況に置かれた明治~大正期の女性にとって、島清は希望の光だったのだろう。島清の作品に現れている女性観は、当時としては極めて斬新な内容を備えており、若く、知性にあふれた女性たちを引きつけていた。
 『早春』(1920年)では、「無理に淫売しなくてはならぬやうにする遊野郎や、ガリガリ亡者を何故罰せないのか。罰金も拘留も当然う(受)くべきものは女性ではなく『悪い需用者』である」、「楼主達は…いいかげん、生きた人間の血をしぼる稼業を止(よ)したらどうですか」と、島清は激しく追及している。
 『帝王者』(1921年)では、音羽子に、「兄さん、あなた方の男と女との間に関する考へ方は大へん間違ってゐると思ひますのよ。私は考へます。男と女はあくまで対等でなくてはならず、あくまでお互に自由で独立者で、何れが何れにより従属的であってはならないと考へます。私と清瀬との間を、今の世の男女関係や、今の世の恋愛関係や、今の世の夫婦関係と同じい標準で見ないで下さいな」と語らせている。
 だが、島清という実体は、作品中の男性とはあまりにも乖離しており、旧来の男性以上にDVを働き、豊は故郷に帰る決断をせざるを得なかったのである。
 作品『煙』中では、島清は自らの責めを開き直り、園枝(豊)をOld duck(どうしようもないヤツ)と呼び、ありとあらゆる差別的言辞で園枝を貶めている。それだけでは終わらず、島清はあろうことか、園枝(豊)と椙象(兄)を近親相姦の関係に仕立て上げ、さらに加野(島清)への美人局(つつもたせ)の被害者とし、脅迫し、締め上げるのである。このとき、島清は「加野君はやうやく大学を出て、…ダイヤモンドの一種」と自らを清廉な男と美化し、椙象を「悪事といふ悪事をしつくしたやうな陰鬱な男」、園枝を「死骸も同然の腐る女」と描き、「畜生共が、塾(慶応)に関係している名家の学生たちをつけねらう」と、あまりにも単純な相対化で、豊(園枝)と椙象をこき下ろしている。

時間が止まった
 『煙』(第3項)で、村山は「おい、畜生、一切合財みな煙りの歌を歌へ」と園枝に詰め寄っている。この歌については、『雑記帳』(1921~2年)の93頁にも、「ある女学生が余の下宿を訪ねて話しの■■ふて曰く『一切合財皆煙り』(注)」と書き、続けて「それは思索力未熟なる女学生の感傷僻【癖】としてはゆるしていゝものかもしれぬが、その心境を哀れんで余は左の如く教えた。『決して一切は煙りではありませぬ。煙りであるものは煙り(・・)丈けです。そして一切は偽として、一切自身として存在してをります。一切は煙りであるといふのは、さういふ人の主観としてはゆるさるべきであるかもしれませんが、それは一切が煙りであるのではなく、その人の主観即その人自身が煙りなのであります。換言すれば、一切は煙りであると唱ふ、貴方自身がすでにくさり果て、滅亡してゐることを尤も雄弁に語ってゐるものであります』。そのある上は肉身の兄と通じたる末の自暴自棄なることは誠に事明【自明】だ。」という記述がある。

 注:北原白秋「煙草のめのめ」(1919年)の一節、「(一)煙草のめのめ空まで煙せ/どうせこの世は癪のたね/煙よ煙よただ煙/一切合切みな煙、(二)煙草のめのめ照る日も曇れ/どうせ一度は涙雨/煙よ煙よただ煙/一切合切みな煙、(三)煙草のめのめ忘れて暮らせ/どうせ、昔はかへりやせぬ/煙よ煙よただ煙/一切合切みな煙、(四)煙草のめのめあの世も煙れ/どうせ亡くなりや野の煙/煙よ煙よただ煙/一切合切みな煙」

 このフレーズが書かれた時期について推測すると、『雑記帳』の88頁には「賀川君ら農民組合を作るの議ありと云ふ」、96頁には「『女親』を見た。きわめて不快な芝居である」と書かれ、「煙草のめのめ」はそのあいだにある。日本農民組合は1921年から準備が進められ(1922年4月に結成)、「女親」は1922年4月以前に帝国劇場で上演されているから、島清が洋行する前で、豊と一緒に暮らしていたときの執筆と推測される。すなわち、島清は結婚して間なしに、豊と椙象の関係を妄想し、『雑記帳』にメモを残し、それが入院後の島清に『徳富蘇峰への手紙』や『煙』として書かせたのではないだろうか。
 島清はこの『雑記帳』を肌身離さず―入院中はもちろん―持ち歩いていたようで、島清死後、西野芳顕に渡った遺稿のなかに含まれていた。
 とすれば、『煙』のなかに現れた島清の「妄想」は、すでに1922年時点で発生しており、豊に子が生まれたことを知っても、わが子と認知しなかった理由が<豊・椙象>の妄想に原因があったと思われる。したがって、島清はすでにこの頃には発病し、妄想に悩まされていたのではないだろうか。その後、1923年4月の島清・舟木事件、9月の関東大震災後の困窮が島清を追いつめ、病状が深刻化し、1924年7月庚申塚保養院に強制入院させられた。
 また、島清は、入院翌年の『徳富蘇峰への手紙』(1925/8/27)に「余を暗殺し、余の一家も、右豊なる妹と、その実兄椙象なるものとの間に出生したる嬰児によって、余の家を乗り取らんとしたる重大なる陰謀」と書いている。『手紙』は『煙』の下書きのようで、島清の症状が十分回復しない段階の執筆なのではないだろうか。

後退から停止
 『煙』には、読むに堪えない差別表現が散乱している。かつて宗教批判から始まり、「小さな他を押しのけての生を恥ぢよう。他人をも生かし自らも生きる大道をほころう」とさけび、差別と強制と収奪の社会=資本主義を批判し、部落差別、女性差別を批判した島清の姿はどこにも見えない。青年時代に確立した、ソーシャリズムはどこへ行ってしまったのか。
 『煙』の最後(第5項)は、「この葉書を受け取ったものは、九人の友人へ貴下の幸福を祈る、という同文の葉書を出さなければ、必ず災禍がくるだらう」という葉書が届いていることを確認して、締めくくっているが、何を示唆しているのかはよくわからない。ただ、『雑記帳』の最後(97頁)にも、同様の葉書のことが書かれており、島清の思考は約5年間止まったままのようだ。
 それから5年後の1930年に執筆されている『雑筆』では、まずは自らの病状を対象化し、ビセンテ・ブラスコ・イバニェスの『地と砂』を取り上げ、不運な自分と重ね合わせて客観視し、最後には退院の「助力を求め」ながら、果たせずに1930年4月29日に亡くなった。その5年間に、島清はたくさんの未定稿(小林輝冶さんの翻刻)を書いており、これからぼちぼちと読んでいきたい。




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