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小松基地問題研究会

20240323論考「加賀平野に芽ぐむもの」(1916年)について

2024年03月24日 | 島田清次郎と石川の作家
20240323論考「加賀平野に芽ぐむもの」(1916年)について

 「島田清次郎初期作品集」をKさんに送ったら、初期作品集に収録されている作品の他に、「公娼廃止乎否乎」(1915年『雄辯』)と「加賀平野に芽ぐむもの」(1916年『万朝報』)の存在を知らされた。
 さっそく調査を開始し、「公娼廃止乎否乎」は国立国会図書館に蔵書とのことで、さっそくコピーを取り寄せた。北陸学院大学の図書館に、『万朝報』の復刻版があり、「加賀平野に芽ぐむもの」を閲覧し、コピーすることが出来た。
 すでに「公娼廃止乎否乎」に関する論考は終えているので、ここでは「加賀平野に芽ぐむもの」について考察する。

 この作品は1916年8月28日の『万朝報』に、島田清三郎の筆名で掲載され、10円(現在の約4万円)の懸賞金を得たという。島清は前年金沢商業学校を中退し、母を頼って上京したが、出版社などに持ち込んだ作品が認められず、失意のなかを母とともに帰郷し、犀川べりの元車町で極貧の生活を強いられていた時期の作品である。
 島清は『地上』(第2部1920年)のなかで、「赤倉清造とその母は、ふたたび故郷へ帰った。…×××の部落に近い川の音の高い、寂しい畑中に、彼等の『巣』が発見された。母は清造にすすめて、『夜具布団衣類万仕立物処』と看板を書いて出させた」と書いている。ふたりは母の針仕事でかろうじて糊口をしのいでいた。

 「加賀平野に芽ぐむもの」のなかでも、島清は「憂鬱病(メランコリー)を医するために…近くの村に生活してゐる」と告白しているように、この頃の島清は失意のどん底にあえいでいた。島清は「アア、寂しい」と嘆きながら孤独からの解放を期待して歩きまわり、犀川べりへ来ると、数人の子供達がいて、対岸に投石しているのを見つけた。近づいていくと、子供達は「うぬあ、××の子や!」と叫びながら石を投げている。
 島清は向こう岸の子供に「不思議な同情心」をかきたてられ、橋を渡ると、小さなしなびた身体にボロボロのシャツを着た、跣足の少年を見つけた。少年は島清を「金沢の士」、すなわち差別する側の人として、対抗的な警戒を緩めない。
 少年は島清に差別を感じ取り、島清の小指にかぶりつく。心配げに血の流れるのを見ながら、茫然と立つ少年に、島清は少年の寂しさを共有する。少年は島清に「金沢の士(者=もん)」にない優しさを感じ取り、泣きながら、その場を去って行く。
 島清は幼少年期を母とともに西廓で暮らしており、「新地の子」として、差別されており(『金沢市西南部の歴史』)、島清は差別に苦悩する少年の姿に、自らを重ね合わせ、「めきめきと育つ何物か」を感じていた。ここに、17歳の島清の立ち位置が表れていると思う。

 「加賀平野に芽ぐむもの」は、1916年(1922年3月の全国水平社が結成される6年前)の執筆であり、まだたたかう被差別民衆としては描かれていない。『地上』(第2部1920年)でも、「子供等は手に手に線路の石塊を踏切の向側へ投げつけた。向側にも同じ子供の群が憎悪と復讐の目を輝かして、対抗してゐた。『やるならやって来い、生意気な』と此方側の群は叫んで石を投げた。空気は石で鳴った。『金沢のやつら上品ぶるない』と向側の群の眼が燃えた。「加賀平野に芽ぐむもの」と同じ情景を描いている。

 しかし、1921年の『地上』(第3部)では、
 「単に河べりの部落で生まれたと云ふ事実一つが、あらゆる同輩に軽蔑され、擯斥(ひんせき)され、孤独の状態に取り残される充分な理由となった。」
 「誰が。わたしのやうな、不幸な哀れな惨めな女を、真面目に愛してくれませう。わたしは××の娘ですわ。…わたしのやうな女にかかりあっては、それこそその方は身のおきどころがなくなってしまひましてよ。」
 「××だって人間ですし、牢屋へいって来たって人間ですよ。それを人間でないやうに取扱ひやがるのを不服で、さうした社会に反逆心を抱くことが、大河さんどうして不正でせう。これほどの正義はない筈ですね。」と、部落差別の不当性を告発し、
 「この輿四太の目の黒いうちは俺等の同志三百万人の××××が、いざとなったら承知しないのだ」と300万部落民の決意へと昇華していく。「加賀平野に芽ぐむもの」はその序曲を為している。
(注:××は差別語なので伏せ字にした)


『万朝報』(1916年8月28日)「加賀平野に芽ぐむもの」金澤市 島田清三郎

 靑い輝きが加賀平野の表面(おもて)にびく〳〵うねつてゐた。夕暮がしつぽりと空と地の間を流れて、村落の森わ薄赤くにじみ出る。夜がやがて黒々と光るのであらう。壯嚴な白山々脈の山峡にも、既に暗欝な陰影が、ぶるぶる憟(ふる)えはじめた。そして、平野の盡きる處、肥(ふと)つた砂丘の上に大海がぽつかりと、なだらかな線をむくりあげて、白い波頭が、線の上でふざけくさる。ぱつと散る泡沫に爛(ただ)れた太陽が眩惑する様な殷朱(注1)の色を投げつける。
 かくて、夜が黒々と光るのであらう!
『あゝ、寂しい。』私わしかまるやうな(注2)悲痛に抱擁された孤獨の念(おも)ひを如何(どう)する事も出來なかった。犇々(ひし〳〵)と胸に染み入る自然の嚴肅壯麗わ、唯私の抱く孤獨をくつきりと際立たせるのみであつた。私は村と村をつなぐ細い路(みち)を辿つてゐる。何かこの俺の孤獨の殻を融かすものがあるかも知れない。――野良仕事を終へて、最後の陶醉を熱い晩餐の酒に夢みてゐる農夫達わ歡喜に躍つた。
『お終ひあすばし!』と交換(とりかは)した。姉さん被りの娘達わ赤い前掛けの紐をかみ乍ら、まつはり付く夕暮の湿氣をふりはなつて心ゆく許り『あはゝゝゝ』と笑ひさゞめいた。その笑ひ聲わ私の孤獨の心をちく〳〵と疼き廻はした。夕陽が赤くさあつと洗つて行く。
 路(みち)わ平野を流るゝ大河にさしかゝつてゐた。私わ橋の傍(かたはら)に十二三頃の村童(こども)等の群ががやがや喋舌(しゃべ)つてゐるのを見た。日に焼けた黒い顔の筋肉に感激がむくむく動いてゐる。村童等わ手に手に石塊(いしころ)を河の向岸へ投げ付た。私わ飛んでゆく石を追うて、河の向岸に最(も)一人の子供が、蘆(あし)の葉陰に青白い顔に、憎悪と復讐の大きい眼を輝やかしているのを見た。
 私わ村童の群の一人に近付いて、
『何んしてるのかね。――おや君わ左の手で石を投げてゐるね。可笑しいぢやないか。』
 と大人に對するやうに眞面目に尋ねた。如何(どん)な事でも眞面目くさつて話すのが子供に接近する捷徑(ちかみち)だ――少くとも我が愛する加賀平野の農民の子にわ!
『芳まわぎつちよ(左利き)やがい。』
 他の一人が言つた。其瞬間一つの石がひゆうつとうなつて來て、左利きの子の肩をかすめた。河の向側で小さい眼が燃えてゐる。
『汝等(わっら)、やるまいかい!生意気な。』と皆わ叫んだ。そして、其處らに轉がつてる石を手當り次第投げ出した。空氣わ石で渦巻き返つた。其時、向側の子の投げた一つの石が私の胸にばつたり當つた。
『お前そん(注3)を覗(ねろ)うとるがや、お前そんわ金澤の士(人)やろんが。』と皆わ私を見かへつた。
『汝等(わっら)投げや!』そして子供等わどつと叫んだ。石が河中へ落ちる度に暗い河面が躍つた。
『如何うして、かう喧嘩を初めたのかね。』
『彼(う)ぬあ、××(注4)の子や!此間も俺(わし)ん所の水瓜(スイカ)を盗つてつたがい。』
『村の菜園田の作物(もの)を皆な役せんがにしてしまうた。』『××の子や!』『ほう、』
『そら!彼(う)ぬあ、又、お前そんの背中へ石を投げつろ!』子供達わ注意した。私わ向側の子供が何故私に石を投げるのか分らなかつた。不思議な同情が私の胸にわいてゐた。私わ橋を渡つて眞直に其子の傍へ行かうとした。
『金澤の小父さん、氣い付けんとお前そんわえらい目に遭ふぞ!』子供達わ口々に叫んだ。
 其子わ目じろぎもせず私が橋を渡り切るのを待ち構へてゐるやうだつた。近づいて熟視(注5)るとその子わ小さいしなびた肉体(からだ)で、黒い大きな眼をうるませて、凝つと私をねらめてゐた。ぼろぼろの兵隊シャツを着て足わ跣足(はだし)で黒く脂じみてゐた。私わ黙つて其子を見すゑた。大きな動悸が私の靈(たましひ)をぶちのめしてゐる。
『俺(わし)や一人や、彼方(あっち)や村中(むらぢう)や!』と子供わ不意に言ひ出した。
『君わ私に故(わざ)と石を投げたやうだね。』
 子供わ暗い顔をして黙つてゐる。
『如何うして君わ私に石を投げたの!』
 自分の憂欝病(メランコリー)を醫す(注6)ために、この夏休みを近くの村に生活(くら)してゐる自分でわあるが、嘗て私わ此邊へ來たことがないのである。子供が私を知つてゐるわけもない――。
『何や!』子供わ苛々して聲をあげた。眼から閃く復讐的な光わ、憟(ふる)えながら静寂な薄暮の空氣に消えて行く。
『私わ君をいぢめに來たんぢやないのだ。』
 泪つぽい蔭が心に射した。私わ踵を回(かへ)した。
『金澤の士(者)がなんに成るい!』と子供わ後から浴びせかけた。三歩とも歩かない間に其子の投げた大きな石が私の背中にづしんと當つた。其反響わ私の心の中の何かをぐらぐらとゆすぶつた。優しく何かゞほぐれて行く。
『君に、何か悪いことをしましたか。鼻却(注7)でせう。ね。』私わ不思議な程穏やかに言へた。其子わ、又、私の顔を目蒐(めが)けて石を投げた。眼が泪で赤くうるんでゐる。そして、私が今にも飛び掛かつてねぢ伏せでもする様に黙つて挑戦の態度で堅くなつてゐた。私わシャツの破れ目からやせた肩を露出(だ)して力んでゐる姿を見てる間に、思はず吹き出してしまつた。
『何や!』私の笑つたのを見ると、彼わ狂犬のやうに私に飛びかゝつた。そして、矢庭に私の小指に喰ひ付いた。血管と云ふ血管に一時に鐵の棒をねぢ込んだやうに、私の心肉を疼痛(いたみ)がさつとつき抜けた。
『あ、痛つ!』と叫び乍ら私わ子供をもぎ取つた。たらたらと血潮が滴つた。私わ片方の拳でしつかと小指をおさへて、私の前によつて、私の小指にのぞき込んでゐる其子の眼!ああ、其時私の胸の黒い堅い殻が破れた!ぞくぞくする喜悦と感謝が私の胸にみなぎつた。私に茫然立つてゐる子供に、思はず『寂しいのかい。』と口走つた。其子わはつとして私の顔と、だらり、だらり滴る黒血を一分許りも見比べてゐたが、わァと泣き出して一さんに逃げ出した。平野をつらぬる白い路を子供の泣き泣き駈けて行くのが長い間見えてゐた。私わ暗くなつた緑靑(ろくしょう)のやうな加賀平野のうちにめき〳〵と育つ何物かを感じた。(了)


(注)一九一六年以降の作品。漢字はできるだけ旧漢字体にした。
(注1)【殷朱】「朱殷」の間違い。読み:しゅあん、意味:黒みがかった赤。黒ずんだ朱色。赤黒色。
(注2)【しかまるやうな】「顰(しか)む」の活用形。顔、額の皮が縮んで皺がよること。
(注3)【お前そん】読み=おめそん、意味=あなた、おまえ。
(注4)【××】被差別者の蔑称なので伏せ字にした。この情景は『地上』第二部(一九二〇年)でも描かれている
(注5)【熟視る】読み方:みつめる。意味:つくづくと見ること。
(注6)【醫す】意味:病気を治す。心の傷などをなくす。いやす。
(注7)【鼻却】「冗談」の意味で使用か?「じょうだん」と読ませるか。
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