アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

20240506 島田清次郎と「カラマーゾフの兄弟」

2024年05月06日 | 島田清次郎と石川の作家
20240506 島田清次郎と「カラマーゾフの兄弟」

 島清の「加賀平野に芽ぐむもの」(1916年)を翻刻し、当ブログ(2024年3月23日論考)に添付したが、知人から、「『加賀平野に芽ぐむもの』の子どもたちが石を投げるシーンが、ほぼそのままドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に登場するシーンと同じで、彼がドストエフスキーに影響を受けていることがとてもよくわかって興味深かった」というメールが届いた。
 折り返し、『カラマーゾフの兄弟』のどの部分かと、確認したら、「新潮文庫 上巻 原卓也訳 P432~『三 中学生たちとの結びつき』」との返事が来て、さっそく、図書館に走り、借りてきた。
 「第四編 病的な興奮 三 中学生たちとの結びつき」を開くと、兄(ドミートリー)が起こした侮辱事件のことで、アリョーシャが兄のいいなづけ(カテリーナ)に会いに行き、謝罪のために、二等大尉(スリヴォエルソフ)の家に向かう途中での出来事だった。
 中学生の集団と一人の痩せこけ、ボロボロの外套を着た少年とが、川を挟んで対峙し、互いに投石を始めるところだった。その理由を聞いても、中学生は明確には答えず、「風呂場のへちまは好きか…」と少年に聞くことをすすめられ、周りには笑い声がおきる。
 アリョーシャは橋を渡り、その少年に接近するが、ドミートリーの弟と認識した少年はアリョーシャの中指に噛みつき、その理由を尋ねるが、答えずに泣きながら去って行く、というのが該当のところである。(434~441頁)

 このシーンは島清の「加賀平野に芽ぐむもの」とほぼ同じである。川を挟んでの投石、ぎっちょ(左利き)の子供がいる、社会的差別からくる対立、痩せてボロボロの被服、少年の投げた石が当たる、少年が小指に食いつく、少年が出血している指を見つめる、少年が泣きながら駈けて去る。その背景には犀川を挟んだ地域間の差別があるが、『カラマーゾフの兄弟』に登場する少年と中学生との間の確執は何なのかが、わからない。

 場面が変わり、アリョーシャは兄によって侮辱された二等大尉の家にたどり着くが、非常に貧しい家である。二等大尉と話し始めると、カーテンの蔭から「そいつはね、パパ、僕のことを言いつけに来たんだよ」「さっき、そいつの指に噛みついてやったんだ!」という声がする。(494頁)
 二等大尉は、「(兄による侮辱事件のあと)手前の顎ひげにへちまなどと綽名をつけましてね、主に中学生どもでございますが」「あの日お兄さまのドミートリィ・フョードロウィチが手前の顎ひげをつかんで、飲み屋から広場へ引きずり出した…(息子のイリュウシャが)『パパ、パパ!』と叫びながら、しがみつき、抱きついて、手前を引きはなそうとした…」と、その時の様子を話す。(504頁)
 アリョ-シャは「カラマーゾフの人間である僕に、お父さんの仇討ちしたんですね、今になってよくわかりました」と納得する。(509頁)
 二等大尉は、息子にまで及んだ侮辱を嘆きながら、「子供たちがあの子を笑いものにしたんでございますよ。『へちま、お前の父ちゃんはへちまをつかまれて、飲み屋から引きずり出されたし、お前はわきをうろうろ走りまわって、謝っていたっけな』なんてはやしたてたんだそうでして」と、くり返す。(512頁)
 兄から侮辱を受けたカテリーナから預かった200ルーブルを二等大佐に渡そうとしたが、「一家の恥とひきかえにあなたのお金を受けとったりしたら、うちの坊主に何と言えばいいのです?」と言いすてて、走り去っていった。(519頁)

 根底には、ロシアにおける富裕層による貧困層への差別的対応があり、アリョーシャによる同情的対応があり、島清による差別される者への同情的対応と同質性を感じさせる。それは、幼少期を西廓で過ごし、「新地の子」としての被差別体験に基づいているのではないだろうか。

 『カラマーゾフの兄弟』は1879~80年に発表され、1914年10月に、米川正夫によって翻訳され、新潮社から発行された。島清がドストエフスキーに接するのは、金沢商業学校時代(1913~4年14~5歳)である。橋場忠三郎の「自伝ノート」(42頁)によれば、次のように書かれている。
 「やがて自分はドフトエフスキーの『虐げられ、踏みつけられし人々』をよみ、すっかり感激した。早速これを島田に奨めると、彼も自分以上に感激して、『こんなのこそ偉大と云ふんだ…』と言った。『罪と罰』『カラマゾフの兄弟』『貧しい者』、二人は新潮社から出た飜訳を片端からよんだ。それは恰度新調した許りのポンプが面白いほどよく水を吸ひ揚げるやうな調子であった」と。
 それから2年後の1916年(17歳)に、「加賀平野に芽ぐむもの」を発表し、さらに 1920年(21歳)の『地上』第2部にも、同様のシーンが描かれている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 20240504 島清幼少期の西廓に... | トップ | 20240511 米欧旅行後の島田... »
最新の画像もっと見る

島田清次郎と石川の作家」カテゴリの最新記事