【論考】 体制順応型作家を拒絶する島田清次郎
石川近代文学館に、島田清次郎(島清)の遺品として100ページほどのノート(『雑記帳』と呼ぶ)が遺されている。2018年12月に閲覧して、これは島清の実像を明らかにする重要な資料だと確信し、2019年1月から学芸員の協力を得て、解読・活字化作業に取り組んでいる。
この『雑記帳』は1921年ごろに書かれたもので、一切他者(編集者)の手が加えられていない、生の島清の声(嘆き、喜び、悔し涙、嫉妬、尊大)に満ちている。1919年以前に書かれた『早春』(1920年発行)、1920年に書かれた『閃光雑記』(1921年発行)に続く創作メモである。他に1922年ごろの『日記』があるが、杉森久英の手に渡ったあと行方不明になった。
この『雑記帳』のなかに、どのような島清の姿があるのか。何点かについて論考を試みたい。
(1)島清の文壇批判
<武者小路実篤のユートピア>
島清は、<(27頁)武者小路が生意気なことを「新潮」で言ってゐるげな笑止千万。「新しき村」なんぞ機関銃一挺で全滅をさせてみせるぞ生意気小僧め>、<(32頁)「新しき村」(1918年開村)も毒にも薬にもならぬものである丈、黙って、まず好意を以て傍観してゐるつもりでゐた、が、あの六号を見て、…やはり、君も下らない奴なんだな、と考へた>、<(34頁)自分は君達のやうに、遠い日向(注:宮崎県)の山奥まで引っこもうと思はぬ、あくまで東京の真ん中にゐて一国すなはち世界文明の中心力となってやるつもりだ>と、虚勢を張りながら、武者小路実篤を罵倒している。さらに紙片には、<武者はヘボなトルストイの弟子…略…彼の新しい村は、つまり彼の財産保護の手段>とまで、書き殴っている。
武者小路はキリスト教、トルストイなどの影響を受けて、志賀直哉、里見弴、有島武郎などとともに、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げて、雑誌『白樺』を発行した(1910年)。1918年(T7)に、武者小路は「人間らしく生きよう」を掲げて、宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を開いたが、それは現実の社会批判を欠いた「ユートピア」幻想であるとして、島清はかみついているのだ。
続けて島清は<(59頁)「人間」などゝと云ふ奴等よ、汝らは今の権力者の抱え文士共に違いないぢゃないか。汝らは「人間」でなくて人間以下でしかないぢゃないか>と、痛烈に批判している。ここで言う『人間』とは、玄文社発行の文芸雑誌で、吉井勇、田中純、久米正雄、里見弴らが編集し、有島生馬、久保田万太郎、児島喜久雄、秋田雨雀、有島武郎などが執筆している。
<菊池寛の穏健社会主義>
1919年『恩讐の彼方に』を発表し、文壇に確固とした地位を築きあげた菊池寛にたいして、島清は、<(70頁)菊池のごときは黙ってをれ、俗人間は果して□□りや否やを考へる前に、誰れか何も言ひはせぬかを考へ、大丈夫と見てとってはノサバリ出る。菊池の今状はこれだ、みっともない、もっと□□するのがよからう>と、菊池を批判している。
菊池寛は、島清からこれほど批判されながらも、1924年再版された『地上』第一部(地に潜むもの)の巻頭に、島清が強制入院させられた事情を書きながら、<『地上』第一巻の如き凡庸者の手になるものではない>と推薦文を載せている。
同年、菊池寛、秋田雨雀、安部磯雄ら九人が発起人となって、「日本フェビアン協会」を創設した。綱領には「社会主義が空想として扱われた時代は過ぎた。人類は今、社会主義が主張する提案の採否をすべき時機に臨んでいる」と謳っているが、1921年ごろの島清は急進的であり、穏健社会主義志向の菊池寛には魅力を感じなかったのだろう。
その菊池は、1942年、日本文学報国会が設立されると、議長となり、戦争に協力していった。
<岩野泡鳴の民族主義>
島清は岩野泡鳴について、『早春』(1919年ごろ)で、<私は…必然的に「現在の」国家や社会や世界やにぶつかるものを感じます。私にあっては、一種の民族主義的の主張は当然はねとばされます。…岩野氏の「日本主義」なるものが…現代が生める一種の敵対的産物、もしくは現実弁護にしか思はれませぬ>と、泡鳴の日本主義(民族主義)が現実弁護に陥っていると批判して、島清自身の思想が民族主義と相容れないことを語っている。
当時も現代も革命を語りながら民族主義に陥り(共産党は天皇の即位に「祝意」を表明した)、結局は自国の戦争に賛成・協力し、革命を放棄してきた負の歴史がある。
文学史上の岩野泡鳴は自然の事実を観察し、「真実」を描くために、美化を否定する「自然主義作家」と評されている。自然主義文学は現状肯定的であるが、社会の真実をみつめ、資本主義の現実を認識するという側面もあり、自然主義のリアリズムを発展させ、1921(大正10)年には、雑誌「種蒔く人」などプロレタリア・リアリズムの方向性も生み出した。
しかし、島清は本質的であり、急進的であり、体制に順応していく作家には不満だったのだろう。
<山本有三も北原白秋も>
島清は、<(96頁)「女親」【注 山本有三1922年】を見た。きわめて不快な芝居である。作者はどんなつもりかは知らぬが、徹頭徹尾ブルジョアの勝利を感じさせる芝居である>と、山本有三をブルジョアに屈服した人道主義的な劇作家と酷評している。
<(93頁~)ある女性が余の下宿を訪れて、話しの□□ふて曰く「一切合財皆煙り」と>。これは北原白秋の「煙草のめのめ」(1919年)の一節で、「煙草のめのめ空まで煙せ/どうせこの世は癪のたね/煙よ煙よただ煙/一切合切みな煙」からの引用である。
つづけて、島清は<それは思索力未熟なる□□□□感傷僻…略…決して一切は煙りではありませぬ。煙りであるものは煙り丈けです。…略…その人の主観即その人自身が煙りなのであります。換言すれば、一切は煙りであると唄ふ、当方自身がすでにくさり果て、滅亡してゐることを尤も雄弁に語ってゐるものであります>と、北原白秋の頽廃的、自暴自棄性を見抜いて、痛烈に批判している。
<賀川豊彦への羨望>
島清は、10歳年上の賀川豊彦(1888年生まれ)について、<(88頁)賀川君ら農民組合を作るの議ありと云ふ。君らは労働運動(工場労働者)をやりかけて、未だ成功せぬのぢゃないか。いろんなところへ下手な野心家らと手を出すより、君らのやりかけてゐることから第一仕上げ給へ>と、上から目線で『雑記帳』に書いている。
賀川豊彦は、1919年に友愛会関西労働同盟会を結成、1920年に労働者の生活安定を目的として神戸購買組合を設立、1921年に神戸の三菱造船所、川崎造船所における大争議を指導し、1922年4月には日本農民組合を設立し、1923年に関東大震災が起きると、直ちに現地に駆けつけ、罹災者救済活動をおこなった。
自らは実践的な活動をろくにしない島清が、このような尊大な態度を取っているのは、100万部超の大ベストセラー『死線を越えて』(筆者の父も「呉竹文庫」から借りて読んでいる)を生み出した賀川にたいする嫉妬心から来ているのだろう。こんな調子だから、親しい友人ができなかったのも、うなづける。
裏返しとはいえ、島清が農民組合や労働運動に強い関心を持ち、<(76頁)私一身を守るに力を注いでゐた私は、今や私一身を捨てゝ、諸君のために働きます>という自己変革の願望に繋がっているのではないか。
<本来の文芸とは>
島清は<(67頁)文学者金をためるな>とわざわざ太字で書き、売文業にいそしむ「お抱え文士」をこき下ろし、続けて、<己れは文学者全体を実生活上に於ける□□とみてゐる。こんなものを相手にしてゐるひまはない>と、当時の作家を、権力に屈服した体制順応型作家とみなして、なで切りにしている。<(90頁)日本文芸界に関する一考察。一、本来の意義に於ける文芸。一、職業としての文芸>と、「本来の文芸」と「職業としての文芸」に明分し、島清は「本来の文芸」をめざすべきと主張した。
では、「本来の文芸」とは何か。島清は<(75頁)私は今日まで、他人(全民衆と全人類)のために働かねばならぬ、といふ一心を内に把持し、そのために私一身のために戦って来ました。しかし、…略…今や私は今日まで内に秘してゐた、「他人のために働く」ことを開始しなくてはなりません。私の今度の□□は、とりも直さず、この私の生活の一大転機をなす、一ポイントであります>と、「本来の文芸」はブルジョアジーと対峙し、実践・行動を自らに課すものであり、作家は反体制を旨とすべきだと考えている。
<文壇からの孤立>
このように島清は、必要以上に、文壇を敵にまわし、孤立した。<(17頁)予を或ひは不良者、あるひは狂人と罵る人あれど、余の生活、行為、事業のどこに狂人めいたことがあるか、少しもないではないか。ただ一部の人は余を狂人と思ひたいと考へる丈のことである>、<(28頁)天才よ、偉人よと云ふてくれるもあり、馬鹿狂人とののしるもある。狂人か偉大人かはこの己も、何れが真か分り兼ねつも、狂人か偉大人かはこの己れの死んでしまふた墓にコケ蒸す頃に分る。かにかくに狂人と偉人の境界をよろめきながら生くる己れかも>。
1921年時点で、すでに島清にたいして、「狂人」「誇大妄想狂」「不良者」など、猛烈な誹謗中傷があり、島清は防戦に必死の形相である。島清による文壇、とくに白樺派(武者小路実篤ら)批判が、その当否は別にして、体制順応型の文壇には破壊的だったからだろう。
美川共同墓地にある島清の墓碑はすでに苔蒸し、訪れる人もなく、ひっそりと立っている。戦後、杉森久英の『天才と狂人の間』によって、島清の虚像が独り歩きしており、今こそ島清の再評価が必要なときである。
注:引用に差別的表現があるが、差別するためではなく、差別を批判するためであり、ご理解願いたい。解読不明部分は□で表記した。
石川近代文学館に、島田清次郎(島清)の遺品として100ページほどのノート(『雑記帳』と呼ぶ)が遺されている。2018年12月に閲覧して、これは島清の実像を明らかにする重要な資料だと確信し、2019年1月から学芸員の協力を得て、解読・活字化作業に取り組んでいる。
この『雑記帳』は1921年ごろに書かれたもので、一切他者(編集者)の手が加えられていない、生の島清の声(嘆き、喜び、悔し涙、嫉妬、尊大)に満ちている。1919年以前に書かれた『早春』(1920年発行)、1920年に書かれた『閃光雑記』(1921年発行)に続く創作メモである。他に1922年ごろの『日記』があるが、杉森久英の手に渡ったあと行方不明になった。
この『雑記帳』のなかに、どのような島清の姿があるのか。何点かについて論考を試みたい。
(1)島清の文壇批判
<武者小路実篤のユートピア>
島清は、<(27頁)武者小路が生意気なことを「新潮」で言ってゐるげな笑止千万。「新しき村」なんぞ機関銃一挺で全滅をさせてみせるぞ生意気小僧め>、<(32頁)「新しき村」(1918年開村)も毒にも薬にもならぬものである丈、黙って、まず好意を以て傍観してゐるつもりでゐた、が、あの六号を見て、…やはり、君も下らない奴なんだな、と考へた>、<(34頁)自分は君達のやうに、遠い日向(注:宮崎県)の山奥まで引っこもうと思はぬ、あくまで東京の真ん中にゐて一国すなはち世界文明の中心力となってやるつもりだ>と、虚勢を張りながら、武者小路実篤を罵倒している。さらに紙片には、<武者はヘボなトルストイの弟子…略…彼の新しい村は、つまり彼の財産保護の手段>とまで、書き殴っている。
武者小路はキリスト教、トルストイなどの影響を受けて、志賀直哉、里見弴、有島武郎などとともに、人道主義、理想主義、自我・生命の肯定などを旗印に掲げて、雑誌『白樺』を発行した(1910年)。1918年(T7)に、武者小路は「人間らしく生きよう」を掲げて、宮崎県児湯郡木城町に「新しき村」を開いたが、それは現実の社会批判を欠いた「ユートピア」幻想であるとして、島清はかみついているのだ。
続けて島清は<(59頁)「人間」などゝと云ふ奴等よ、汝らは今の権力者の抱え文士共に違いないぢゃないか。汝らは「人間」でなくて人間以下でしかないぢゃないか>と、痛烈に批判している。ここで言う『人間』とは、玄文社発行の文芸雑誌で、吉井勇、田中純、久米正雄、里見弴らが編集し、有島生馬、久保田万太郎、児島喜久雄、秋田雨雀、有島武郎などが執筆している。
<菊池寛の穏健社会主義>
1919年『恩讐の彼方に』を発表し、文壇に確固とした地位を築きあげた菊池寛にたいして、島清は、<(70頁)菊池のごときは黙ってをれ、俗人間は果して□□りや否やを考へる前に、誰れか何も言ひはせぬかを考へ、大丈夫と見てとってはノサバリ出る。菊池の今状はこれだ、みっともない、もっと□□するのがよからう>と、菊池を批判している。
菊池寛は、島清からこれほど批判されながらも、1924年再版された『地上』第一部(地に潜むもの)の巻頭に、島清が強制入院させられた事情を書きながら、<『地上』第一巻の如き凡庸者の手になるものではない>と推薦文を載せている。
同年、菊池寛、秋田雨雀、安部磯雄ら九人が発起人となって、「日本フェビアン協会」を創設した。綱領には「社会主義が空想として扱われた時代は過ぎた。人類は今、社会主義が主張する提案の採否をすべき時機に臨んでいる」と謳っているが、1921年ごろの島清は急進的であり、穏健社会主義志向の菊池寛には魅力を感じなかったのだろう。
その菊池は、1942年、日本文学報国会が設立されると、議長となり、戦争に協力していった。
<岩野泡鳴の民族主義>
島清は岩野泡鳴について、『早春』(1919年ごろ)で、<私は…必然的に「現在の」国家や社会や世界やにぶつかるものを感じます。私にあっては、一種の民族主義的の主張は当然はねとばされます。…岩野氏の「日本主義」なるものが…現代が生める一種の敵対的産物、もしくは現実弁護にしか思はれませぬ>と、泡鳴の日本主義(民族主義)が現実弁護に陥っていると批判して、島清自身の思想が民族主義と相容れないことを語っている。
当時も現代も革命を語りながら民族主義に陥り(共産党は天皇の即位に「祝意」を表明した)、結局は自国の戦争に賛成・協力し、革命を放棄してきた負の歴史がある。
文学史上の岩野泡鳴は自然の事実を観察し、「真実」を描くために、美化を否定する「自然主義作家」と評されている。自然主義文学は現状肯定的であるが、社会の真実をみつめ、資本主義の現実を認識するという側面もあり、自然主義のリアリズムを発展させ、1921(大正10)年には、雑誌「種蒔く人」などプロレタリア・リアリズムの方向性も生み出した。
しかし、島清は本質的であり、急進的であり、体制に順応していく作家には不満だったのだろう。
<山本有三も北原白秋も>
島清は、<(96頁)「女親」【注 山本有三1922年】を見た。きわめて不快な芝居である。作者はどんなつもりかは知らぬが、徹頭徹尾ブルジョアの勝利を感じさせる芝居である>と、山本有三をブルジョアに屈服した人道主義的な劇作家と酷評している。
<(93頁~)ある女性が余の下宿を訪れて、話しの□□ふて曰く「一切合財皆煙り」と>。これは北原白秋の「煙草のめのめ」(1919年)の一節で、「煙草のめのめ空まで煙せ/どうせこの世は癪のたね/煙よ煙よただ煙/一切合切みな煙」からの引用である。
つづけて、島清は<それは思索力未熟なる□□□□感傷僻…略…決して一切は煙りではありませぬ。煙りであるものは煙り丈けです。…略…その人の主観即その人自身が煙りなのであります。換言すれば、一切は煙りであると唄ふ、当方自身がすでにくさり果て、滅亡してゐることを尤も雄弁に語ってゐるものであります>と、北原白秋の頽廃的、自暴自棄性を見抜いて、痛烈に批判している。
<賀川豊彦への羨望>
島清は、10歳年上の賀川豊彦(1888年生まれ)について、<(88頁)賀川君ら農民組合を作るの議ありと云ふ。君らは労働運動(工場労働者)をやりかけて、未だ成功せぬのぢゃないか。いろんなところへ下手な野心家らと手を出すより、君らのやりかけてゐることから第一仕上げ給へ>と、上から目線で『雑記帳』に書いている。
賀川豊彦は、1919年に友愛会関西労働同盟会を結成、1920年に労働者の生活安定を目的として神戸購買組合を設立、1921年に神戸の三菱造船所、川崎造船所における大争議を指導し、1922年4月には日本農民組合を設立し、1923年に関東大震災が起きると、直ちに現地に駆けつけ、罹災者救済活動をおこなった。
自らは実践的な活動をろくにしない島清が、このような尊大な態度を取っているのは、100万部超の大ベストセラー『死線を越えて』(筆者の父も「呉竹文庫」から借りて読んでいる)を生み出した賀川にたいする嫉妬心から来ているのだろう。こんな調子だから、親しい友人ができなかったのも、うなづける。
裏返しとはいえ、島清が農民組合や労働運動に強い関心を持ち、<(76頁)私一身を守るに力を注いでゐた私は、今や私一身を捨てゝ、諸君のために働きます>という自己変革の願望に繋がっているのではないか。
<本来の文芸とは>
島清は<(67頁)文学者金をためるな>とわざわざ太字で書き、売文業にいそしむ「お抱え文士」をこき下ろし、続けて、<己れは文学者全体を実生活上に於ける□□とみてゐる。こんなものを相手にしてゐるひまはない>と、当時の作家を、権力に屈服した体制順応型作家とみなして、なで切りにしている。<(90頁)日本文芸界に関する一考察。一、本来の意義に於ける文芸。一、職業としての文芸>と、「本来の文芸」と「職業としての文芸」に明分し、島清は「本来の文芸」をめざすべきと主張した。
では、「本来の文芸」とは何か。島清は<(75頁)私は今日まで、他人(全民衆と全人類)のために働かねばならぬ、といふ一心を内に把持し、そのために私一身のために戦って来ました。しかし、…略…今や私は今日まで内に秘してゐた、「他人のために働く」ことを開始しなくてはなりません。私の今度の□□は、とりも直さず、この私の生活の一大転機をなす、一ポイントであります>と、「本来の文芸」はブルジョアジーと対峙し、実践・行動を自らに課すものであり、作家は反体制を旨とすべきだと考えている。
<文壇からの孤立>
このように島清は、必要以上に、文壇を敵にまわし、孤立した。<(17頁)予を或ひは不良者、あるひは狂人と罵る人あれど、余の生活、行為、事業のどこに狂人めいたことがあるか、少しもないではないか。ただ一部の人は余を狂人と思ひたいと考へる丈のことである>、<(28頁)天才よ、偉人よと云ふてくれるもあり、馬鹿狂人とののしるもある。狂人か偉大人かはこの己も、何れが真か分り兼ねつも、狂人か偉大人かはこの己れの死んでしまふた墓にコケ蒸す頃に分る。かにかくに狂人と偉人の境界をよろめきながら生くる己れかも>。
1921年時点で、すでに島清にたいして、「狂人」「誇大妄想狂」「不良者」など、猛烈な誹謗中傷があり、島清は防戦に必死の形相である。島清による文壇、とくに白樺派(武者小路実篤ら)批判が、その当否は別にして、体制順応型の文壇には破壊的だったからだろう。
美川共同墓地にある島清の墓碑はすでに苔蒸し、訪れる人もなく、ひっそりと立っている。戦後、杉森久英の『天才と狂人の間』によって、島清の虚像が独り歩きしており、今こそ島清の再評価が必要なときである。
注:引用に差別的表現があるが、差別するためではなく、差別を批判するためであり、ご理解願いたい。解読不明部分は□で表記した。