おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

人と犬

2024-01-21 11:44:35 | イラスト
 この前、カヌーイストの野田さんのメモリアルブックを買った。久しぶりに野田さんの文章を読み、もう一度いろいろと読みたくなった。以前買った単行本は今でも手元に置いてあるが、文庫本で買ったものはどこかへ行ってしまった。そんな中、一番野田さんが力を入れて書いたであろう「魚眼漫遊大雑記」の単行本をネットで注文した。古本で価格はなんと30円。送料を入れても300円だ。なんだか申し訳ない。

 「魚眼漫遊大雑記」が一番力が入っていると思ったのは、野田さんがいよいよ作家を職業としようとしている時期に書いているからだ。その少し前までは旅行案内を書くサラリーマンだったが、日本の川を北から南までカヌーで漕ぎ、それをPR雑誌に連載した文章が「日本の川を旅する」と題した本になり、スポーツノンフィクション賞を受賞した。で、ここから本格的にカヌーイストとして作家として活躍を始めるのだが、その前に世界中を旅行していた時の体験を一冊にまとめたのが、「魚眼漫遊大雑記」なのである。

 野田さんもあとがきで「読み返してみると走って逃げだしたくなるほど恥ずかし所や、愛読しているイギリスの作家ジョージ・ミケシュの文に似た所があって、これも恥ずかしいが、敢えてそのままにしておいた」と書いている。後のあっさりと男っぽい文章を書いた野田さんには珍しいサービス精神あふれる文章なのである。

 野田さんの本はほぼすべて読んでいるが、何度読んでも愛犬ガクと野田さんの姿は、生き生きと目の前に現れてくれる。メモリアルブックの中に、そんなひとりと1匹の写真があったので、それを描いてみることにした。



 ガクの毛並みをどう描くか、結構難問を前にして、楽しみながら描いているアベさんなのである。
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うまく描けない

2024-01-20 11:01:58 | イラスト
 この前から挑戦を始めた水墨画は、描き始めたら最後、油絵のように修正が効かないのでなかなかうまく描けない。その点は習字と似ているかもしれない。失敗しても文字の上から筆で修正するということはやらないで、新たに書く。水墨で絵を描く場合も同じで、途中で失敗しても修正できないので、とりあえず最後まで描いた後に、改めて一からやり直すのである。

 今まで描いたものでも、一度でうまく行ったものは1枚もない。正確にいうなら、描けば描くほど良くなって行く。これもまた習字と同じなのである。

 今回は前回と同じく大谷くんをモデルにした。バッティングやピッチングの動作の一瞬を捉えた動きの激しい絵を描こうと思ったが、その前に動きの少ない場面を描いておきたかった。というわけで、一昨日から挑戦していたが、結果は思った以上におとなしい面白味のない絵に仕上がってしまった。



 とりあえず最後まで描いたので、これからは反省の時間だ。どこが悪いのか、なぜ面白くないのか。改めて描き直すとしたら、どこをどうすればいいのか。

 絵を描いて思うのは、実は絵を描くまでの準備だとか計画だとか、実際に絵を描いている時間よりそちらの方がかなり絵の良し悪しに関係しているような気がする。「やってみなければわからない」とは世間でよく言われることだが、勝算もないのに始めてしまうと、ほとんどの場合は失敗に終わる。
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自分の中の声を聞く

2024-01-19 11:22:52 | 日記
 ある人が、講演に招かれ本の話をしたら、こんな質問をされることがあるという。「どんな本を読めばいいですか」

 例えば、「日本の歴史を知らないから勉強したい」というのなら、「初心者向けにこんな本がある」と教えられる。「アメリカの現代小説を読みたい」というのなら、「こういう作家がいる」と紹介できる。が、多くの人が漠然と、「どんな本を読めばいいかわからないから教えて」とくる。その人がどんなことに興味があるのかわからないので、質問された先生は、「まず自分が何に興味があるのか、自分自身に聞きなさい」と答えるしかないという。

 つい最近、イチローが日本の地方の高校生に野球を教えたという記事が出ていた。イチローは高校生に向かってこんな話をしていた。「大人になっても自分が何が好きなのかわからない、好きなものが見つからないという人は多い。そんな中、高校生の君たちはうまい下手はともかく高校3年間好きなことに熱中したという時間を過ごす。それがいかに大切なことか、大人になったらわかるだろう」。それを聞いた高校球児は、毎日の練習を貴重なものとして考えるようになったと応えていた。

 僕の経験から言っても、「やりたいことが見つからない」「自分が何に興味があるのかわからない」という人は実に多い。定年退職し、毎日やることがない。「自分のやりたいことをやれば」と言われると、「何をやりたいのかわからない」と憮然とする。こういう人はおそらく、若い頃から自分自身の声に耳を傾けるという経験が足りなかったんじゃないかと思う。自分自身が何をしたいのか、自分がどうなりたいのか、自分の興味を引くものは何なのか。こうした質問に、他人は答えることができない。この当たり前のことを自覚していないと、ついつい他人に聞いてしまうという習慣が身につく。

 自分で考える前に他人に聞いてしまう習慣というのは、常に他人がどう自分のことを見ているかという裏返しでもある。「この歳になってこんなことを始めると恥ずかしいんじゃないか」「年寄りの冷や水とバカにされるんじゃないか」「今更やっても仕方ないんじゃないか」と、自分がやることと関係ないことに気を遣う。

 が、気にしているのは本人くらいで、他人は他人のことなど本当はまるで気にしていないのだ。自分自身の声に耳を傾ける。でなければ、自分の進みたい道なんてものは、いつになっても現れないのである。
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判官びいき

2024-01-18 10:51:31 | 日記
 「判官贔屓(ほうがんびいき)」という言葉がある。意味は、「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで同情を寄せてしまう」という心理現象をいう。そもそも「判官」というのは役職のことで、源義経の身分のことだ。源義経といえば、子供の頃は牛若丸の名で知られ、物語の主人公としても有名だが、どうしてそこまで人気があるのかというと、実は兄の源頼朝によって不運な死を迎えたからである。

 日本人の心には、昔から不運な人生を送った人に対して同情を寄せるという性質がある。とりわけ無実の罪を着せられて死んでいったような人や、志半ばで無念の死を遂げたような人に対しては、手厚く葬る習慣がある。というのも、日本人にとって一番恐ろしいのは、怨霊であり、呪われたり化けて出たりされるのが何よりも怖いからだ。

 菅原道真や平将門が神様として祀られているのも、怨霊として悪さをしないようにするためだ。怨霊になりそうなほどエネルギーのある人ほど、神様として祀ると良いことをしてくれると信じているのである。だから、負けた者に対して過剰に忖度する。化けて出てこないように、死者を必ず讃える。今でも死んだ人に対して、生前いかに人格者であったかを葬式で言うのもそのためである。昔は週刊誌でも「美人白骨死体発見」と、とにかく骨さえ褒め称えたのである。

 そういう心情が日本人にあると気づくと、昔からヒーロー、ヒロインと呼ばれている人たちが、実はその反対の人生を送っていたということを聞いても不思議ではなくなる。世の中が最も乱れた時代を「平安時代」と呼び、戦争のことばかり書いている本のタイトルが「太平記」だったりするのも、同じ心情なのである。

 今、NHKの大河ドラマで「光る君へ」というのが始まった。主人公は「源氏物語」を書いた紫式部である。「源氏物語」という話が、光源氏というイケメンが宮中でモテまくったいうのは大体の人が知っているだろう。が、源氏を主人公にモテまくる話を書いた紫式部が、源氏と戦い勝った側の平家の人間であったことは、意外と意識されていない。普通、どんな国でも滅ぼした側は滅ぼされた側の人間をヒーローにしたりしない。通常はその逆で、いかにダメな人間だったかを強調し、滅ぼされて当然だという話なら書く。

 ところが「源氏物語」はそうではない。ということは、やはりここには源氏一族を鎮魂して怨霊とならないようにとしなければ、という日本人らしい動機が執筆させた、と考えるのが理に適っているだろう。紫式部はただ単に女性として世界初の恋愛小説を書いたわけではないのである。
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人口集中

2024-01-17 12:16:41 | 日記
 横浜市より人口の少ない都道府県に赤い色をつけたら、東京都と広大な北海道は当然としても、色を塗られなかったのは千葉県・埼玉県・愛知県・大阪府・兵庫県・福岡県の6つしかなった、という記事が出ていた。そのくらい都市部に人口が集中しているという話なのだが、実際の数字を見るとその格差に愕然とする。

 横浜市の人口は372.5万人ほどである。それより人口の多いのは、東京都1396万人、北海道528万人、千葉県628万人、埼玉県734万人、愛知県755.3万人、大阪府882.3万人、兵庫県547万人、福岡県511万人だ。比較しているのは神奈川県ではない。ひとつの市との比較である。

 なぜ愕然とするのかというと、例えば水道事業などは地方自治体の管轄で独立採算制である。水道代が安いというのは、別の言い方をすれば狭い範囲に多くの人が住んでいれば安くなるという仕組みである。

 今回能登地震の震源の近くの珠洲市の場合、人口は1.5万人弱だ。面積は247キロ平方キロメートル。比べて横浜は人口372万人強で面積が437平方キロメートル。面積は横浜市が1.7倍強だが、人口は248倍だ。同じ規格の水道を通したとしても、水道代が珠洲市では100倍以上高くなってしまうのである。

 地方創生と叫んでも、掛け声だけで終わるのは、この人口格差があまりに大きすぎるからである。四国4県の人口を合わせても369.5万人しかいない。

 こうなってくると、政治家がどこを見ているかがよくわかる。逆に言えば、どこを簡単に切り捨てることができるのかも、わかりやすいのである。震災直後から岸田さんの動きが遅いと感じるのは、危機感が薄いからである。それは震源地の近い遠いということとは関係なく、票の数の多い少ないということが最も大事なことだからに違いない。
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入れ歯に合わせる

2024-01-16 11:21:07 | 日記
 数年前、歯医者で徹底的に歯の治療をした。保険が聞く限りにおいて、全部治療してくださいとお願いしたので、1年半も通うことになった。その中でも最大の治療は、レントゲンを取ってみたら、奥歯の歯茎の下に親知らずが横を向いて埋まっていることがわかったことで、その歯を除去しないと「そのうち神経を傷つけ口が開かなくなるかもしれませんよ」と言われてしまったのだ。恐れをなした僕は歯医者の忠告に従い、手術ができる大きな病院への紹介状を書いてもらい、麻酔をして歯茎を切開し、親知らずを除去してもらったのである。

 ただ、親知らずを除去するにはその上にある奥歯を3本抜く必要があった。虫歯や歯周病などで弱っている歯だったので、3本とも抜かれてしまい、そこのところを部分入れ歯で補うことになった。が、できあがった部分入れ歯は、それまでの口の中の状態と感覚がまるっきり異なるので、気持ち悪い上に喋った時の滑舌にまで影響する。本当なら嵌めたくないが、この先もこの状態が続くのなら、一日でも早く慣れておく必要があると思い我慢してつけている。数年経ち、少しは慣れたものの、いまだに口の中で違和感だらけで存在している。

 最近ある記事で、こんな話を読んだ。入れ歯がぴたりと合うことなんか絶対にないし、ぴたりと合う入れ歯を作ることも不可能だ。だから、必要なのは入れ歯に合わせることが何よりも大事だということである。どんなに気持ち悪かろうが、気持ち悪いからといって外していたのでは、いつになっても慣れることはない。慣れるための努力こそ、快適に暮らすコツなのである。

 それ以来、僕は環境とは、快適さを求めて探して回るものではなく、環境に自分を合わせることが大切だと考えるようになった。一日でも早く環境に慣れること。少々具合が悪くても我慢するうちに気にならなくなるに違いない、と考えて開き直るくらい柔軟でなければならない。

 能登に起きた大震災でも、なかなか生まれ故郷を離れる決断ができない人は多い。確かに環境を変えたからといって事態はもっとひどくなるかもしれない。が、自分を取り巻く環境は、絶対に元に戻らないという事実は受け入れなければならない。震災後の復興とは、まさに入れ歯を作るようなものである。入れ歯は以前の感覚とは違うものになっているだろう。が、以前とぴったり同じ環境を作ることは不可能なのである。入れ歯に合わせる努力をしなければ、これからの暮らしは始まらないのだと考えてもらいたい。
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走寒写温

2024-01-15 10:52:40 | 福島
 晴耕雨読を理想の生活に挙げる人がいる。晴れた日には外に出て土を耕し、雨の日には家にいて読書に励む。理想の生活というよりも、肉体的にも精神的にも健康でいるための秘訣のようなものだろう。

 が、冬になると実際には外に出て耕すことはできなくなる。畑には何も植わってないし、雪に覆われたり凍っていたりして、そんなところを耕してみても何にもならないのだ。

 というわけで、僕が実践しているのは、気象用語の三寒四温になぞって、「走寒写温」だ。つまり寒い日にはランニングをして、暖かい日にはのんびり写真でも撮りながらぶらぶら歩くのである。

 昨日は真冬とは思えない陽気で、風さえなければ春のようだ。ランニングするにはもってこいだが、ランニングをしてくたくたになってしまうのももったいない気がする。天気予報では翌日から急激に冷えるという。だったら、暖かい日にはカメラを持って散歩をし、寒い日にはランニングに出るのが暖房費の節約にもなるのである。

 というわけで今朝は朝食後にランニングに出たが、空を怪しい雪雲が覆い、冷たい北風が吹き付ける。今日の最高気温2度予想。うー、行きたくないなあ。と思うものの、1時間半ほど走ったら汗だくになっていた。走って正解だ。もっというなら、昨日ではなく今日走って大正解なのである。

 昨日は午後からのんびりテオの散歩に出た。家を出ると、近所の庭木にメジロが来ているのを見つけた。



 少し歩くと長く張ったワイヤーに繋がれたサクちゃんちの前を通る。サクちゃんがいれば必ず挨拶して行く。



 それにしてもなんと穏やかでのどかな午後なんだろう。東北の冬というよりも、ほとんど春の九州の陽気だ。



 テオも気持ちいいのか、あちこちで道草を食いながら、ゆっくりゆっくり散歩をする。テオ、写真を撮るから座ってごらん。



 てなわけで、寒い日でも暖かい日でも外に出ている時間が長いので、案外暖房費が抑えられている我が家なのであった。

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メモリアルブック

2024-01-14 11:21:05 | 日記
 人にはそれぞれお世話になった人間がいると思うが、僕の場合は実際に身近にいた人というよりも本を通じてお世話になったという人のほうが多い。そんな中、もしこの本を読んでいなければ今の僕の人生は全然別物になっていただろうなと思うのが、野田知佑さんの本だ。

 その頃僕は東京神田でサラリーマンをやっていた。世の中はバブル後の低迷期でもあったが、給料は毎年どんどん上がり、そろそろ責任ある立場になりそうだった。が、僕は自分の生活が不満だった。本当にやりたいことはこんなことなのか、一体自分はこれからどうしたいのか、そればかりを考えていた。そんな時、毎日昼休みに立ち寄る本屋で、たまたま野田さんの本を手に取った。カヌーイストである野田さんとずっと行動を共にしていた犬ガクが亡くなり、その追悼の本だった。

 で、僕はこんな犬の飼い方があるのかと目から鱗が落ちるのを感じた。それからは東京中の本屋を巡り、野田さんの本を探した。手に入るだけの本を読んでしまうと、今度はファルトボート(折りたたみ式のカヤック)を見るために、仕事が終わると新宿のスポーツ用品店に立ち寄り、毎日のようにカヤックを眺めていた。

 次第にアウトドアへの憧れが強くなってきたとき、東京を離れなければならない事態に遭遇した。誰もが東京を離れることを反対したが、僕は逆にチャンスだと思っていた。まず東京のアパートでは難しかった犬を飼うこと、犬を連れてあちこち遊びに行けること、そんなことが頭をよぎった。

 その後、トトを飼い、海や山に遊びに行き、共に車であちこち旅行するようになり、鹿児島から北海道まで旅行した後、今は福島に住んでいる。こうした生活の激変は、野田さんの本が始まりだったことに今更ながら驚かされるのである。

 2022年、野田さんが永眠した。ネットで調べると、野田さんのメモリアルブックが出版されている。すぐに注文し、久しぶりに野田さんの文章に触れた。

「出発。これから目の前に現れる未知の世界、あの山の向こうには何があるのか、地平線の彼方へのうずくような『憧れ』。somewhere-elese(ここではないどこか)への衝動。そういった気持ちをすべて充してくれるのがこの『出発』だ」

「どんどん切り捨てていく。捨てれば捨てるほど身軽に、自由になれる。それは浮世の様々なしがらみ、腐れ縁、生活の垢をこそぎ落としていく快感である」

「あの下らない、愚かしい大人たちのいう『人生』とかいうものに食われて堪るか。俺はあいつらの勧める退屈な、どんよりと淀んだ人生には決して入らないぞ。そんな反抗心だけが唯一の支えである」
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あっという間の完食

2024-01-13 12:14:25 | 福島
 朝から裏の空き地が騒々しい。見ると黒い影が無数に飛び交っている。どうやら柿を狙って野鳥が集まっているようだ。今年は柿が豊作のようで、どこもかしこも赤い実が鈴なりにぶら下がっている。あんまり豊作なので、どの家も干し柿にするのに十分すぎたようで、かなり取り残しがある。我が家の裏の空き地の柿の木も、例年なら柿を取りに来る人がいるのだが、今年はまったく誰も取りに来なかった。

 そんなわけで、すっかり熟した柿になっていたのだが、甘くなった時期がわかるのか、今朝になりいろんな野鳥が集まってきたのである。





 観察すると、ヒヨドリのほかに、ツグミやムクドリもいるようだ。全部で20羽はいるだろうか。とにかくピーピーとうるさく飛び回る。





 柿の実を啄む様子を見ると、まずクチバシで皮を剥く。その後中の甘い果肉を吸っているようだ。ヒヨドリは別名花吸いともいうから、甘いものが大好物なのだろう。隣の柿ではツグミが舌鼓を打っている。喧嘩にならないのはそれだけ柿の実が豊富にある証拠だ。

 お昼になり、なんだか静かになったなと柿の木を見ていると、驚いたことにあれだけあった柿の実がひとつ残らずなくなっていた。大変な食欲だ。裸の木になった柿を後にして、今頃は別の柿の木に群がっているのだろう。

 今年はどこでも赤い柿の実が見られたが、この調子では二、三日でこの辺の柿はなくなってしまうに違いない。
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免許の更新に行く

2024-01-12 11:57:16 | 日記
 免許証の更新の行った。なんたって優良ドライバーだから免許証はゴールドだ。だから更新は5年に一回でいいが、駐車違反やスピード違反なども5年の更新なので、ゴールドだからといって取り立ててなんちゅうことはない。

 誕生日が来てもこの歳になるとたいして嬉しくもないが、免許証の更新があるというのだけは面倒だ。

 午前9時に受付開始というので、45分前に家を出る。会場到着は受付時間1分前で、すでに長い行列ができていた。早く来たからといって、結局会場で待たなければならないから、受付開始と同時に到着というのがベストだ。

 受付に行くと、免許証を渡し、更新料を払う。「交通安全協会に入りますか」というので「結構です」と返事する。交通安全協会には初めて免許を取った時だけ真面目に支払った。任意だとは知らなかったからで、次回からは「任意ですね」と念を押して断るようにしていた。最近はそれも面倒なので、「結構です」と答えている。交通安全協会は警察官の天下り先だ。交通安全のために活動しているといえば耳障りはいいが、中にはどうでもいい仕事が山のようにあり、そこに従事する人の数も膨大だ。交通安全協会のお金はその人たちの給料になる。それはそれでいいが、活動内容が「交通安全」の幟の製作やパンフレット作りでは、あまり意義のある活動とは思えない。幟を立てれば交通事故が減るのなら、日本中に立てた方がいい。が、そうならないのは、効果の程が疑わしいからに違いない。

 カフェを始めると、保健所から食品安全協会への入会をやたらに勧められた。が、やはり活動内容がはっきりしない。時々お客さんに提供する食品の検査を、食中毒対策だといって求めてくる。検査料は一万円もする。が、検査に持ち込む食品は、当然のことながら食中毒を起こしそうなものなわけがない。それで問題なしということになれば、仮にお店で食中毒を出した時には食品安全協会が何か補償してくれるのかといえば、何もないと言う。

「じゃあ、意味ないじゃないですか」と質問すると、気持ちの問題だからというようなことを言ってきた。こうした協会の活動に入会するのは、大概任意である。が、警察でも保健所でも任意であるということはあまり言いたがらない。入って当然のような態度でいる。

 交通安全にも食中毒を未然に防ぐことにも反対ではないが、幟を立てたりパンフレットを配ったり、意味のない検査をしたりするのは、組織を維持するために無理くり作り出しているようにしか感じられないのは、僕だけだろうか。

 免許の講習を受けていると、次回からは講習はオンラインになるだろうし、手続きもネットになるだろうと言っていた。ずい分たくさんの人が働いている免許証センターだから、その人たちの大部分の雇用はなくなるんだろうな、と免許とは関係ないことを考えていた。
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