近頃、ニュースを見てると、頻繁に車の盗難事件が報道されている。昔の鍵と違って、今はリモコンでドアも開けばエンジンもスイッチひとつでかかるから、盗む方としては仕事がやりやすくなっているに違いない。便利なことというのは、それ以上に厄介な不便さをもたらすという事例なのだろうか。
もっとも、僕が気になって仕方がないのは、アナウンサーが盗まれた車のことを「高級車」と連呼することだ。ただ単に「車」でいいと思うが、なぜだか「高級車」と言いたがる。ということは、その辺を走っている車には、高級な車と低級な車の2種類があるということなんだろう。僕の車などはそろそろ買い替え時期を迎えているが、今度ディーラーに行ったら、「僕が欲しいのは低級車なんですけど、ここにありますか」と尋ねてみようかと思っている。
車だけではない。腕時計にも「高級腕時計」と「低級腕時計」があるらしい。わざわざ「高級」なんて言葉をくっつけなくても、腕時計は腕時計じゃないのかと言いたくなる。最近だと「上級国民」という言葉も使われているようだが、国民に上級も下級もあるものか。そういうことを言いたがる人に限って、なんでも差別化したいのだろうと思ってしまう。
ニュースではないが、コマーシャルを見ていると、やたらに「大切な人のために」とか「かけがえのない人へ」といった言葉が使われている。CMを作った人は美辞麗句のつもりなんだろうが、知らず知らずのうちに社会の中には「大切な人」と「そうでもない人」とがいると言っていることに気づいているのだろうか。ジェンダーレスだと声高に政治家や企業が叫ぼうと、こうした無神経な言葉はあちこちに転がっている。
「いやいやそんな大層なことではない、大切な家族くらいの意味合いだ」と反論する人もいるだろうが、高級があれば当然低級が存在するように、大切な人や大切な家族のことを考えれば、当然それ以外の人はあまり大切ではないということになる。
で、どうしてこんなことにこだわるのか言うと、元総理の森さんが「女性がいると会議が長い」と言ったのと同じで、自分は差別している気はなく、何気なく言ったつもりでも、心の根っこの部分で差別しているから、他人が見聞きすれば毒されている言動を、自分では気づかないということになる。
昔読んだ第二次大戦の話で、こんなのがあった。あるドイツ人の男は、仕事が終われば家族と一緒に食卓を囲み、子供が誕生日の時にはバースデーパーティーを開いて祝い、夜更けには暖炉の前でソファに身を埋めモーツアルトを聴く、というような生活を送っている。そして朝、出勤するとユダヤ人をせっせと焼却していたというのだ。彼にとってそれが国家から与えられた仕事で、その役目を忠実に果たしていたに過ぎない。
なぜそんな残酷なことができたのかと、今に生きる人は言うだろうが、彼にとって世の中には、大切な人とそうでもない人がいたからである。
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