最近、高齢者による車の事故が多い。中でもアクセルとブレーキを踏み間違えた、という単純なミスによる事故のニュースは群を抜く。今の技術なら、強くアクセルを踏んでも急発進をしないくらいの装置は簡単にできそうだが、自動車メーカーが目指すのは、その遥か先を行く自動運転の車の開発だ。
先日のサミットでも、安倍さんが自慢げに各国首脳にお披露目をしたが、ほとんどの首脳は乗ろうとはしなかった。自動運転を信用していないというよりも、自国の自動車メーカーに配慮したからだという報道もある。
もし、自動運転の車ができたら、事故も減るとか使用者の負担が減るといった美味しい話を開発者はしたがる。しかしながら、ことはそんなに簡単な話ではない。なぜ世界中で、国を挙げて自動運転の技術開発の先を争うのかと言えば、この技術がすぐにでも軍事利用が可能だからだ。
自国の国民を戦争の犠牲者にしたくないのは、どこの国の人間も同じだ。だから、自動運転の戦車ができれば、兵隊さんを戦場に出さなくても済むようになる。人間を見つけてブレーキをかける技術は、そのまま人間を見つけて殺戮する技術へと応用できる。戦車に燃料を供給するのも、今ではドローンにやらせることもできるのである。
原爆を落として戦争を終わらせたところで、その土地はもう使えない。それよりも、建造物はそのままで、人間だけを排除した方が、ずっと利用価値が高い。
が、機械がシステムエラーを起こさない保証はどこにもない。それどころか、機械にエラーはつきものなのである。将来、戦争を遂行する機械が、人間の命令を無視して暴走を始めるなんてSF映画じみたことが、今や現実になろうとしているのである。
安保法制反対、戦争反対を叫ぶのなら、こうした「便利」と「効率」の名の下に隠れた各国の冷戦にも、反対していかなけばならないだろう。自動運転の車の開発を心待ちにするなんてのが、いかに無邪気なことか。かつて、腐ることがないことから、「魔法の素材」と言われたプラスチックでさえ、腐らないことが将来どんなに大変なことになるか、そんな単純なことさえ人間には予測がつかなかったのだから。
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